シャンカラ 「識別の宝玉」から(抜粋)



導師への賛辞

1。

全ヴェーダーンタの結論からたどり着けて把握することは不可能な御方。
ゴーヴィンダ、最高ゴーヴィンダ、最高の至福、サッドグルよ、
あなたの御足に、私は礼を捧げるでしょう。


人間の素晴らしき


2。

全ての生き物の中で、人間としての誕生はまことに難く、さらに難しいのは、
男子として生まれることだろう。
それよりも稀有なことは、プラーナマナ(食べ物と+プラーナ)としての人生で
さらに聖典に定められたダルマ(法)の道に専念すること。

聖典の真意を覚知できることがあり
それよりも素晴らしいのは、アートマンと非アートマンを識別できること。
自分で体験して、ブラフマンの境地にとどまること。
そして解放があるが、これらは無数の人生を善良に生きた功徳として得られて、
それ以外では得ることができないものなのだ。

3。
そして次に述べられる三つは、非常に稀有なもので
それらは神の恩寵として与えられるものなのだ。
それは、人間としての誕生、解放を熱望すること、
そして偉大な聖者に師事できることなのである。

4。
何とかして、稀有なことに人間として生まれて、
しかも男子として誕生し、さらに聖典について精通しておりながら、
自分自身の解放を求めて努力しないなら、彼はまことに愚かであり、
自分で自分を殺すに等しいだろう。
なぜなら彼はアサット(非実在)なものにしがみつき、
自分を破滅させているからだ。

5。
非常に稀なことに人間として誕生し
さらに、男子の身体を得ていながら
自分にとっての真の重大事を無視する
それほどの愚か者が、果たしてこの世にいるだろうか?




アートマンを悟る重要性


6。
人々は経典を語り、神々に供犠を行って
祭式を実施し、神々を礼拝するだろう。
だが、自分はアートマンだと悟らねば、真の解放はあり得ないだろう。
たとえ百のブラフマー神の人生をかけたとて、それは不可能なのだ。

7。
不死の境地を得るには、
財産によっては、それは不可能だと、聖典はそのように宣言している。
それゆえ行為によって解放は得られぬことは
まことに明らかなことだろ。

8。
それゆえ、よく学びし者ならば、外的な対象に喜びを求めることを放棄し、
自身の解放に向けて懸命に努力すべきなのだ。
その為には、サット(至高の実在)に満ちた、
偉大な徳を持つ指導者の元に向かい、
語られる教えの意義に、しっかりと心を定めねばならないだろう。

9。
ひとたびサンサーラ(輪廻)の海に落ちたならば
その者は、自分を、自分の力で救い上げねばならないだろう。
その為には、完全な理解に専念して
ヨーガルーダ(主に自分を結び付けること)の境地に至るよう努めるのだ。

10。
すべての行為を放棄して
賢明であり、堅忍なる者ならば
「この世に生まれる」という束縛から解放されよう。
アートマンに専念して、そこにたどり着くよう努力すべきだろう。

11。
心は行為によって浄められよう、
だが行為によっては、「現実」は理解できないだろう。
「現実」の理解は、ヴイチャーラ(真我探求)によってもたらされよう。
行為を何千万回なそうと、それは不可能なことなのだ。

12。
完全なヴィチャーラ(真我探求)を実践することで
「縄」についての真実を確認できよう。
その結果、妄想で生じた「蛇」からもたらされる
恐怖と悲しみを滅ぼせるのだ。

13。
「事実」について確信を得るには
善き助言を聞き、
それについてヴイチャーラ(真我探求)を実践すべきだろう。
沐浴や布施、呼吸制御を何百回やろうと、
それを得ることはできないのだ。

14。
このことで成功するか否かは
その者に資格があるかどうかにあって、
時や場所などの条件は
補助的なものに過ぎないだろう。



ブラフマンを知る資格とは

15。
それゆえヴイチャーラ(真我探求)を熱心に実践して
アートマンという「現実」を知らんと願う者は、
慈悲の大海のごとき、ブラフマンを覚知する最高者を
自分の導師として仰がねばならないのだ。

16。
正確な記憶力を持ち、聖典を熱心に学んで、
両方の立場から物事を議論できる、
このような資格を備えた者が
「アートマンの明知」を求めるに相応しいのだ。

17。
そして識別の力を持ち、ヴアイラーギヤ(無執着)を実践して
シヤマ(心の制御)などの美徳を供え、
解放を強く熱望する者。
そのような者が、ブラフマンを知る資格を持つのである。

18。
それを得るには、聖典を熟知する者は
四つの前提条件があると語っていよう。
それらを備えているなら、その者は目的に向かうことができて、
それらが無ければ、それは不可能だろう。

19・
その第一に挙げられるのは、
永遠な「現実」と一時的な「現実」の識別で
その次には、この世でもあの世でも、
行為の結果を楽しまないこと。
さらに、シヤマ(心の制御)などの六つの美徳を持つこと。
そしてもちろん、解放を求める心が挙げられよう。



四つの前提条件


20。
ブラフマンこそが「真実」であり
世界はすべて仮相だと理解すること。
これが永遠な「現実」と一時的な「現実」の識別だと、
そのように定義されているだろう。

21。
ヴアイラーギヤ(無執着)とは、
眼で見え、耳で聞かれるすべて、
さらに自分の肉体、そしてブラフマー神としての身体などから得られる、、
それらあらゆる一時的な楽しみを捨てようと望むことを言うだろう。

22。
感官の対象には常に欠点が伴うことを、繰り返し観察して、
それら多様なものから心を引き戻し
その心を、揺らぐことなく、本来の目的にとどめおく、
これがシヤマ(心の制御)と呼ばれるだろう。

23。
両方の器官を
その対象から引き戻して
それぞれの場所に安置させること。
これはダマ(心の制御)と称されよう。、
そして外的な環境から、思いが完全に独立していること。
これは最高のウパラティ(外的対象から心を引き離すこと)と呼ばれるのだ。

24。
あらゆる苦難を、それに逆らわずに、
不満も持たず、嘆きもせずに、
ありのままに受け入れて、素直にそれに耐える。
これがテイティクシャー(忍耐)と称されるのである。


25。
聖典の言葉、導師の教え。
それらは真実だと、強い確信をいだくこと。
これが善良な人々によって、
シュワッダー(帰依・信頼・信仰)と呼ばれて
これによって人は「現実」を認識することができるのだ。

26。
ブツディ(理性・知性)が純粋なブラフマンに確立されて、
そこから動かなくなること。
これはサマーダーナ(一点集中)と呼ばれて
心を放縦させては、これを得ることはできないたろう。

27。
アハンカーラ(自我意識)から始まり、肉体に至る、
それら無知にて想像されたすべての束縛から。
「自身」の本質を悟ることで解放されんと渇望すること。
これがムムクシュター(解脱・解放への熱意)と称されよう。

28。
たとえ、それが僅かで凡庸であろうとヴアイラーギヤ(無執着)や
シヤマ(心の制御)などの美徳。
そして導師の慈悲により、それは強く育っていき、
ついには結果をもたらしてくれよう。

29。
ヴアイラーギヤ(無執着)とムムクシュター(解脱・解放への熱意)が
強く存在する者においてのみ、
シヤマ(心の制御)などの美徳も意味を持ち、結果をもたらしてくれよう。

30。
だが、ヴアイラーギヤ(無執着)とムムクシュター(解脱・解放への熱意)が
共に弱々しくて未熟ならば。
砂漠における蜃気楼のように
シヤマ(心の制御)などは、ただ見せかけに過ぎないだろう。



バクティ(受容・献身)が最高の手段である。

31。
解脱につながる手段の中では
バクティ(受容・献身)が最上のものだろう。
「自身」の本質を探究すること、
これがバクティ(受容・献身)の定義である。



32.

他の者の意見では、パクテイ(受容・献身)とは
自らのアートマンの真理を探求することだろう・。
今まで述べてきた美徳をすべて備えて、
アートマンの真理を知りたいと願う者は
その人だけが束縛からの解脱をもたらしてくれる・。
最高智を備えた導師に、教えを請わねばならないだろう。



導師への帰依

33.

導師は、全聖典に通暁して、罪の穢れがなく
物的欲望を持たずに、ブラフマンを覺知する最高者であり
ブラフマンに完全に身を捧げており。
燃料が燃え尽きた後の火のように、平安に満たされて
何一つ報いを求めぬ、限りなき慈愛の海であり
御自身に庇護を求める善良な人々の、真の友だと言えよう。

34.

その導師に、パクテイ(受容・献身)によって礼拝を捧げて
謙虚に足元にひれ伏し、奉仕を捧げるがよいだろう。
そして導師があなたの態度に満足されたなら、
アートマンについて知るべきことを、次のように質問するのだ。


35。
「ああ、わが主よ、あなたは、御自身に帰依する人々の、
友であられるのです。 
ああ、限りなき慈悲の海よ、「この世に生まれる」という、
この恐ろしき海に落とされた私に、
アムリタ(甘露)のごとき、あなたの慈悲深き眼差しを
直接に降り注いで、私をここから救っていただきたいのです。

36。
消すことのできない、サンサーラ(輪廻)という野火に焼かれて。
不運という名の風に、幾度となく揺り動かされて
恐怖にとらわれた私は、こうしてあなたに助けを求めるのです。
ああ、どうか私を死よりお救いください。
あなた以外のどこにも、私は救い主を見いだせないのです。

37。

平安に満たされ、広大な心を持つ、聖なる御方は
春の季節のように、人々に善をもたらしてくれます。
御自身は「この世に生まれる」という、恐ろしき海を渡り切りながらも、
何一つ報いを求めずに、他の者が渡るのを助けてくださるのです。

38。
そして偉大な魂というその性質により
人々の苦しみを、まるで当然のように癒してくださるのです。
あたかもそれは、太陽の熱で焦がされた大地を
月が自らの意思で癒すようなものなのです。

39。
ああ、力強き御方よ、「ブラフマンの至福」というと美酒を味わい、
それにて彩られた、まことに涼しげなる
あなたの唇より流れる、聞くにはまことに喜ばしき、アムリタ(甘露)のごとき
御言葉を。
野火に焼かれるように、この世の苦難で悩める私に、
ああ、わが主よ、どうかお聞かせいただきたいのです。
ほんの一瞬でも、あなたから眼差しを注がれて、あなたの民として
預けた者は、最高の祝福を得ることができるのです。

40。
「この世に生まれる」という、この恐ろしき海を、如何にして渡れば良いので
しょうか?
私の向かうべき地は何処であり、私の歩むべき道はどれなのでしょうか?
私はこれらをいずれも知ることがありません、ああ、わが主よ、どうか私をお救い
ください。.

サンサーラという悲しみを終わらせる道を、
どうか私に詳しく語って頂きたいのです!。

41。
激しき野火のごとき、サンサーラ(輪廻)という苦しみに打たれたその弟子が
このように御自身に庇護を求めて、自らの胸の内を語った時、
偉大なる魂は、慈愛に満ちた眼でその者を見つめると、
ただちに彼から恐怖を取り除かんとされるのだった。

42。
解放を望んで、御自身の元に近づき
定められた指示にも完全に従い、心は平安に満たされ、
シヤマ(心の制御)などの美徳を備えたその者に、
全てを知る聖者は、心から溢れる慈悲ゆえに、真理を説き始めるのだった。





導師は語り始める


43。
偉大な導師は語られた、
「恐れるな、よく学びし者よ、あなたは何一つ恐れる必要はないのだ。
サンサーラ(輪廻)という海を渡り切る方法は、確かに存在していよう。
今までに多くの求道者達が歩んで、彼岸へと渡った。
その同じ道を、私は今からあなたに伝えていくだろう。

44。
サンサーラ(輪廻)の恐怖を終わらせるには
まことに素晴らしき道があるのだ。
その道を歩むならあなたは必ず、「この世に生まれる」という海を渡り切り
「最高の至福」を手にすることができるだろう。

45。
ヴェーダーンタの意味についてヴィチャーラ(真我探求)を実践することで
最高の「知識」を得ることが可能となり。
その結果、サンサーラ(輪廻)から生じる悲しみは
完全にまで滅ぼされてしまうのだ。

46。
シュラッダー(信仰、信頼、帰依)、パクテイ(献身)、ディヤーナ(瞑想)・ヨーガ、
これらが、解放を求める者にとって、解放へと繋がる主要因だと、
聖典によって明らかに語られていよう。
誰であっても、これらだけに自分を保持したなら
無明ゆえに想像された、肉体という、束縛から、解脱することができるだろう。

47。
あなたの本質は、最高のアートマンであるが、
無知と結び付くことで非アートマンに束縛され、
まさしくその結果、
サンサーラ(輪廻転生)がもたらされるのである。
だが、この両者を識別して生まれたボーダ(智慧・悟り・意識)の炎は
無知とその産物のすべてを、完全に燃やしてくれるだろう。




弟子の疑問


48。
弟子は質問した、
「ああ、わが主よ、どうかよろしくお開きください
この胸に宿る疑問をあなた様に解いて頂きたいのです。
あなたの口より御言葉をいただければ
それは我が身の幸いとなるでしよう。

49。
そもそも、束縛とは何であり、またそれはいかにして生じて
どのように存在し続けて、どうすれぱそこから解脱できるのでしようか?
さらに非アートマンとは何であり、
最高のアートマンとは誰のことなのでしよう?
そしてどうすればその両者を識別できるのでしようか?
どうかこれらすべてについて、よろしく教えて頂きたいのです」。



自助努力の必要性

50。
偉大な導師は語られた。
「祝福を受けし者よ、あなたはもはや人生の目的を遂げられたのだ。
あなたの一族は、あなたを通して全員が浄化されたのだ。
なぜならあなたは無明の束縛から逃れで
ブラフマンに至りたいと決心したからだ。

51。
父親が作った負債は
息子や他の者が返済できよう、
だが自分自身の束縛を除くには
自分以外にはそれは不可能なことなのだ。

52。
自分の頭に載る荷物からの苦痛は
他の者が除いてくれるかも知れない、
だが、空腹などから生じる苦痛は
自分以外の誰が取り除けようか。

53。
病気に悩む者は、正しき食習慣を守り
薬を飲むことで、本来の健康を取り戻せよう,
だが本人以外がいかなる治療を受けても
それは不可能だろう。

54。
「現実」の姿は、自身の、明晰なボーダ(智慧・悟り・意識)の眼で知ることが、
できて、他の者を通してでは、賢明な者であっても、
それは不可能なことなのだ。
月の真の姿を知るのは自分の目を通してであり
決して他の者の眼を通してではないだろう。

55。
無明、物的欲望、カルマなど
これらでもたらされた自身の束縛を
たとえ無数とも言えるカルバ(無数の年月)をかけたとて
自分以外の誰が解き放てようか?

56。
ヨーガによっても、サーンキヤ(哲学)によっても
さらに行為によっても、
聖典の学修によっても、それは不可能だろう,
アートマンとブラフマンが一つだと悟ること。
それによって解脱がもたらされて、それ以外ではあり得ないだろう

57。
ヴィーナ(弦楽器)の美しき姿と、それを奏でる技術は
それを聞く人々を喜ばせよう、
だが、だからと言って
その奏者に王権を授けてはくれないだろう。

58。
同じように、明瞭な発声、流暢な弁舌、
経典を解説する優れた技術。
広範な学識、それらは学ある者に満足を与えるが
解放をもたらしてはくれないだろう。

59。
「最高の真理」が理解されないなら
経典の学修は無意味であり。
「最高の真理」が理解されたなら
もはや経典の学修は不必要なのだ。

60。
混沌とした多くの言葉は、深い森のようで
それは聞く者の心を迷わせよう、
それゆえ真理を求める者ならば、非常な努力をして
アートマンの真理を知るべきなのだ。

61。
無知という蛇に噛まれた者には
「ブラフマンの知識」だけが救いをもたらしてくれよう。
聖典や経典、マントラや薬草が
何の益をもたらしてくれようか?

62。
薬を飲まずに、ただ薬の名前を唱えただけでは
病気は癒されることがないだろ。
同じように、直接に体験せずに。
「ブラフマン」と唱えただけでは、
解放されることはあり得ないのだ。

63。
観られる対象を否定しない限り、
そしてアートマンの真理を知らない限り、
ただ「ブラフマン」と唱えただけでは、
どうして解放を獲ることができよう。?
それは単なる言葉の遊戯に過ぎないだろう。

64。
すべての敵を滅ぼして
彼らの領土を我が物とせぬかぎり
「私が王である」と宣言しただけでは
その者は王とは呼べないだろう。

65。
地の奥に眠る財宝を得るには、
その場所を特定して、
そこを発掘し、
その上を覆う石を除かねねばならず。
ただ単に宝の名前を唱えただけでは、
それは表に現れてこないだろう。
同じように、マーヤー(幻影)とその産物に覆われた、
「自身」の穢れなき真実を、
ブラフマンを覺知する者の教えにより、
同じようマーヤー(幻影)とその産物に覆われた、
「自身」の穢れなき真実を、
ブラフマンを覚知する者の教えにより
さらにマナナ(食事制限)やディヤーナ(瞑想)などの、
実践によって発見できて。
、歪んだ推論によっては、それは不可能なのだ。

66。
それゆえ、賢明なる者ならば
「この世に生まれる」という束縛から解放されるには、
病気を治さんとする者のように
全身全霊をもって努力すべきだろう。

67。
あなたが、今日なした質問は、まことに喜ばしきもので、
それは経典に通じた者達によって支持されるものなのだ。
それは聖句のように深い意味を持ち
解放を求める者ならば、誰もが知るべきものと言えよう。





解脱への道標

68。
学びし者よ、どうか心して聞きなさい
これから、私が話すことを、しっかりと心に刻むのだ。
そうするなら、あなたは
「この世に生まれる」という束縛から、ただちに解放されるだろう。

69。
解脱への第一歩とは
滅ぶべき定めにあるものから、きっぱりと心をきり離すことで
その次に、シヤマ(心の制御)、ダマ(器官の制御)、
テイディクシャー(忍耐)が挙げられ
最後に、全ての行為を放棄することがあるだろう。

70。
そののちに、教えの拝受があり、それを心の中で繰り返し思って、
「最高の真理」について瞑想することを、
長きにわたって、根気よく、途切れずに実践した
聖者は、最高の、変転することなき境地を獲得するに至り、
その覚知せし者は、
生きている間にニルヴアーナの至福を体験できよう。




人間を構成するもの

71。
そこでこれから、私はあなたに
アートマンと、非アートマンを、如何にして識別するのか、
そのすべてについて、完全に説明していくだろう。
あなたは注意深くこれを聞き、一心決定しなければならないだろう,

72。
髄、骨、脂肪、肉、血、皮膚、表皮、
これらが肉体を構成する七種のもので、
足、腿、胸、腕、背中、頭これらが肉体の各部分だろう。

73。
この肉体は、「私は」とか「私のもの」という迷妄の座となり、
智慧ある者によって、「粗大な身体」と呼ばれていよう。
次に、「空」、「風」、「火」、「水」へそして、「地」があるが、
これらは微細な要素と呼ばれるだろう。

74。
これら要素の一部が互いに結合することで、
粗大な要素ができて、それらによって粗大な身体が形成されよう。
また微細な要素は、音などの五種の感官の対象となって
喜びを享受者に提供するものとなるだろう。




感宮の対象の恐ろしき

75。
愚かな者は、これら感宮の対象に
愛着という、強く断ちがたき綱で結ばれるや、
自らのカルマに動かさねるがまま、抗うこともできずに
こちらへ、またあちらへと動かされ、
高く昇っていき、また低く落ちていくのである。

76。
音などの五種の感官の対象の、その一つと結ばれることで、
鹿、象、蛾、魚、黒蜂のそれぞれは
自らを構成する五つの要素が崩壊するに至ったのだ。
ならば五種のすべてを備える人間ならば、
その恐ろしさはどれほどのものであろうか?

77。
これら感官の対象が持つ影響は
毒蛇よりも恐ろしきものである、
なぜなら、毒蛇の毒は、それをロにした者だけを滅ぼすが
これらの対象は、眼にしただけでその者に死をもたらすからだ。

78。
感官の対象を求めるという
逃れがたき綱から自由となった者。
彼こそが解放を得るに相応しいのだ、
他の者には、いかに六種の経典に通じていようと、それは不可能だろう。

79。
うわべだけのヴアイラーギヤ(離欲)によって、解放を求めて
「この世に生まれる」という海を渡り切らんとする者は、
願望という名の鰐に喉元を噛まれて、
道の途中で溺れて、ただちに連れ去られてしまうだろう。

80。
感宮の対象という名の鰐を
成熟させたヴアイラーギヤ(離欲)という剣で切り殺した者、
彼こそが、何の障害にも遭わず、
「この世に生まれる」という海を渡り切れるのだ。

81。
感官の満足という、頼りなき道を歩かんとする、
錯乱した知性を持つ者は
その一足毎に、死によって襲われると、そう理解すべきだろう。
だが、親切で徳高き導師の教えと、
自らの推論にてその道を行くなら
その者は目的を達成できよう、これは真実だと、
あなたはそう覚知せねばならないだろう。

82。
もしあなたが解脱を望むなら
感宮の対象を、あたかも毒のように、遠くから避けるべきだろう、
そして、アムリタ(甘露)のごとき、満足、慈悲、忍耐、誠実、
最高の平安、感官の制圧といった美徳を、
毎日のように熱心に実践するがよいだろう。

83。
始まり無き無明からの解脱という、
一時も休まずに心がけるべき努力を怠って、
本来は他のものの為にある、肉体を甘やかさんとする者は、
自分で自分を殺すに等しいだろう。

84。
この肉体を楽しませておきながら
アートマンを悟らんと望む者は、
流木と間違えて鰐をつかみ
川を渡ろうとするに等しいだろう。




大いなる死

85。
解放を望む者にとり、肉体とそれに関するものへの迷妄は、
「大いなる死」と言えよう。
このような迷妄を完全に制圧した時に
その者は解放されるに相応しくなるのである。

86。
「大いなる死」そのものである
肉体や、妻、息子などに関する迷妄を捨てるのだ。
それらを乗り越えることで、多くの聖者は
ヴィシュヌの最高の境地にたどりつかれたのである。




粗大な身体

87。
粗大な身体とは、皮膚と肉、血液、
動静脈、脂肪、骨髄、骨、
尿や糞便で構成されるもので
それはまことに蔑むべきものと言えるだろう。

88。
微細な要素から、パンチーカラナ(粗大な身体が形成される)
の過程を通して、
粗大な要素が形成され、それらから粗大な身体が
その者の前世での行為の結果として決定されるが、
これはアートマンにとり、経験の媒体となっていよう。
そしてこの身体が覚醒の状態にある時、
それは粗大な対象を経験するのである。

89。
ジーヴア(個別的霊魂)は、粗大な身体と自分を同一視して
花輪や白檀、女性などの様々な粗大な対象を
外的な器官を通して楽しむだろう。
それゆえこの身体は、覚醒時にその重要性を持つのである。

90。
人はこの粗大な身体を通して
すべての外的な世界との交渉を持つのだ。
それゆえ、それは家長にとっての家のようなものだと
そのように覚知するがよいだろう。

91。
この粗大な身体は、誕生と老化、死を経験して、
頑健さなどの身体的特徴を持ち、幼年期などの年代の区分が生じて
ヴアルナ(カースト制度のこと)や、
アーシュラマ(男子ヒンドゥー教徒が通過する人生の段階)、
に伴う義務の順守が伴い、病気などに曝されて、
礼拝や侮辱、名誉など、それら様々な扱いを受けるものなのだ。






微細な身体

92。
知覚器官である、耳、皮膚、眼、鼻、舌、
これらによって人は感宮の対象を知覚するだろう。
発声器官、手、足、排泄器官、生殖器官、
これらは行為器官で、行為においてその働きを為すだろう。

93。
内的器官としては、
心、ブツデイ(理性・知性)、
アハンカーラ(自我意識)、そしてチッタ(記憶を司る心の機能)が、
それぞれの活動に応じて存在しよう。
心は集中と散乱に関係しており、
ブッディ(理性・知性)は対象の真の性質を決定するだろう。

94。
アハンカーラ(自我意識)は、その者を肉体と同一視させて、
「私は」などの思いを持たせて、
チッタ(記憶を司る心の機能)は、内的器官における
自分が関心を持つことを記憶する場所なのだ。

95。
プラーナ(生命エネルギー)、
アパーナ(下降する流れ、呼気。丹田、下腹部に関連)、
ヴイヤーナ(体内で働く5つのプラーナのひとつ。
全身を包 むようにあるプラーナで、
オーラのことである)、
ウダーナ(感動・感嘆)、
サマーナ(下腹部のあたりの気の流れ。消化に 作用する)
これらは、金や水の例に見られるように
唯一のプラーナ(生気)が、種々の活動と変異に応じて
それぞれへ分かれて生じたものだろう。

96。
発声などの五種の行為器官、耳などの五種の知覚器官。
五種のプラーナ(生気)と、アーカーシャ(高次エネルギー)などの
微細な要素。
プッディ(理性、知性)などの内的器官、無明、物的欲望、カルマ
これら八つの都が、微細な身体を形成していよう。

97。
よく聞きなさい、この微細な身体は、
リンガ・シャリーラとも呼ばれて
パンチーカラナ(微細な要素から粗大な要素ができる過程)
をまだ経ていない、
微細な要素から、直接に生じたものなのだ。
この身体にはヴアーサナーが宿っており、またこれは行為の
結果を経験するものなのだ。
そして「自身」の無知ゆえに、この身体はアートマンにとって、
永遠の過去より存在するウバーディとなっているのである。

98。
夢眼は、この身体にとっては別の状態で、
そこでは、これだけが残っていて輝いているだろう。
そして夢の中ではブッデイ(理性・知性)自身は、
覚醒時に得た多様なヴアーサナーによって。

99。
自分は行為者だなどと思い、権威を振るっていよう。
一方、至高のアートマンは、そこでは自ら光り輝き、
ブツディ(理性・知性)を唯一のウバーディ
(ある存在に属性を与えて、
それを制限するもの)
として持ち、自身は目撃者としてとどまり、
それが為す行為によっては、少しも穢されないだろう。
アートマンは完全に無執着なので、
ウバーディ(ある存在に属性を与えて、それを制限するもの)が
何を為そうと、
少しも穢されないのである。

100。
チット(ブラフマンの本質の一つで、智慧、意識などを指す)
そのものであるアートマンにとり微細な身体は、
あらゆる活動を為す媒体となっており
それはちょうど、職人にとっての工具のようなものなのだ。
このような事実ゆえに、アートマンは無執着にとどまるのである。

101。
盲目、弱視、鋭い視力、
それらは単に眼の働きの適切さや小備であり
さらに蝋聴や聾唖などは、耳などの問題であって
決して「覚知する者」である、アートマンのそれではないだろう

102。
吸気、呼気、あくび、くしやみ、
排泄、肉体から離れること
これらの働きはプラーナによるものだと、識者によってそう
言われており、
さらに空腹と口渇も、プラーナの働きによるのである。

103。
内的器官は、肉体の中で
眼などと自分を同一視して
そこに現れる光輝の像ゆえに
「私」という思いをせ持ち、その場所にとどまっていよう。

104。
アハンカーラ(自我意識)は、
自分を肉体と同一視して
私は行為者だ、享受者だ、と思い込むと、
そう理解するがよいだろう。
そしてサットヴア(純質、善性。サットの性質を持
つもの)などのグナ(人間を縛る精神的要素。
サットヴア(純質、善性。サットの性質を持つもの)、
ラジャス(激質)、
タマス(翳質 (えいしつ)) の三種ある。
と結び付くことで
それは三種の異なった状態を、その者に経験させるのである。

105。
感官の対象が喜ばしければ喜びを感じて
その反対であれば悲しみを感じる。
喜びと悲しみを感じるのはアハンカーラ(自我意識)の
特性であって
「永遠の至福」に満たされたアートマンの
それではないのだ。

106。
感官の対象は、それそのものが愛おしいのではなく
アートマンゆえに、それらは愛おしく思われるのだ。
なぜならアートマンは、すべての者にとり
最も愛おしいものだからだ。
アートマンは「永遠の至福」に満たされており
決して悲しみを経験することかないのである。

107。
深い眠りの中では、知覚の対象がなくとも
「アートマンの至福」を経験することができよう。
この事実は、覚醒時における、聖典の宣言
直接的体験や伝統、推論によって、証明されていよう。




マーヤーは主の力である

108。
アヴィヤクタ(未顕現・全ての物的存在の根源)とは、
主が持たれる、主御自身の力である。
これは始まり無き無明であり、三種のグナ
(人間を縛る精神的要素。
サットヴア、ラジャス、タマスの三種ある)で構成されて、
その結果より優れており
その存在は、それから生じたものからのみ、
明晰な知性を持つ者によって推測されよう。
このアヴィヤクタ(未顕現・全ての物的存在の根源)が、
全世界を生み出したマーヤーなの
である。

109。
このマーヤーは、サット(実在。永遠に存在するもの。
ブラフマンの本質の一つ)
でもアサット(アサットではないもの)でもなく、その両方でもない
それは異なってなく、異なってなくもなく、その両方でもない。
それは部分を持たず、部分を持たないこともなく、その両方でもない。
それは最高に素晴らしきもので、言葉では表現できないものなのだ。

110。
「縄」という実在を識別することで、「「蛇」という錯覚が消えるように
このマーヤーを滅ぼすには、純粋で、ニ元性なき、ブラフマンを
悟ることが必要だろう。
そしてそのマーヤーの性質には、ラジャス(激質)、
タマス(翳質 (えいしつ)) 、
サットヴア(純質、善性。サットの性質を持つもの)の三種あり
それぞれその働きによって、それらは区別されよう。






ラジャスは人を混乱させる

111。
ヴィクシエーパ(行動)・シャクティ(力)とは、「行動」
という性質を持つ、
ラジャス(激質)の持っ力であり
これによって世俗的活動の流れが始まつたのだ。
愛着や嘆きなどの心の変異は
たえずこれによって発生していよう。

112。
物的欲望、怒り、貪欲、虚栄、妬み
自負心、邪心、けち、その他の恐ろしき性質
これらはすべてラジャス(激質)の産物であり、人を世俗的活動
に向かわせよう。
それゆえラジャス(激質)は束縛の原因となっているだろう。



タマスは人を無知に落とす

113。
アヴリティ(幻影力)とは、タマス(暗質、翳質。無知に
支配された性質)のグナ(特性)が持つ
力でありそれは「現実」を、本来とは異なった姿に見せるだろう。
またこれはサンサーラを引き起こす原因となっており
これによってヴィクシエーパ(行動)・シャクティが
活性化されるのである。

114。
たとえ最高智を得た者や、賢明なる者、非常に精妙な
アートマンの知識を持つ者であっても
タマス(暗質、翳質。無知)に支配された性質に圧倒されるや、
いかに様々に、かつ明瞭に説明されても、
アートマンを悟れなくなり、
妄想にて重ね合わされたものを真実と考え、
その結果にしがみつくのである。
ああ、何と強大なものであろうか、
恐ろしきタマス(暗質、翳質。無知)
に支配された性質が持つ、
この偉大なアヴリティ(幻影力)の力とは!。

115。
正しき判断の欠如、正反対の判断
確信の欠如、疑心
この力につかまった者は、これらから逃れられなくなり
ヴィクシエーパ(行動)・シャクティによって、
永遠に苦しめられ続けるだろう。

116。
無知、無気力、愚鈍、惰眠
注意力散漫、愚かさなど、
これらはタマス(暗質、翳質。無知)の属性であり
これらと結び付くなら、その人は何一つ理解できなくなり
木や石のように、眠ったような状態でとどまるだろう。




サットヴアこそが解脱につながる

117。
サットヴア(純質、善性。サットの性質を持つもの)は
本来、水のように完全に清らかだが
他の二種と結び付くことで、人にサンサーラ(輪廻)
をもたらすと言えよう。
そしてアートマンの反映がそこに像となるなら
それは生命を持たない全宇宙を、太陽のように
照らすことができるのだ。

118。
混合したサットヴア(純質、善性。サットの性質を持つもの)の特徴は
完全な自負心の欠如、ニマ(禁戒)とニヤマ(勧戒)の実践。
シュラッダー(信仰、信頼、帰依)、バクティ(帰依・全託)、
ムムクシュユター(自身の解放を強く望むこと)
神的性質の顕現、ブリジットなものから撤退する、などが挙げられよう。

119。
完全に清らかなサットヴア(純質、善性。サットの性質を持つもの)
の特徴は
澄み切った、自らのアートマンを体験していること、最高の平安
満足、自然とこみあげる喜び、
最高のアートマンに確立されていること、があり
最後のこれによって、その者は「永遠の至福」
という美酒を味わえよう。



原因の身体

120。
アヴィヤクタ(未顕現。全ての物的存在の根源)は、
先に述べられたように、
三種のグナ(人間を縛る精神的要素)で構成されて
これはアートマンにとって原因の身体となっていよう。
深い眠りは、この身体が持つ独特の状態で
そこではブツディ(理性・知性)と諸器官は
完全に活動を停止しているのだ。

121。
その時にはすべての認識手段が、完全に働きを停止しており
ブツディ(理性・知性)は、まるで種子のように、
原因の姿としてとどまっていよう。
それゆえ深い眠りから目覚めたなら、人はこう言うたろう
「私は何ひとつ覚えていない」と。これは誰もが経験する事実である。



非アートマンとは

122。
肉体、器官、プラーナ、心、アハンカーラ(自我意識)など、
そしてそれらからの変異物
さらに感官の対象、それらから生じる喜びなど
またアカーシャなどの五種の要素などの、
アヴィヤクタ(未顕現。全ての物的存在の根源)
に至るまでの宇宙にある全存在
それらが非アートマンと称されるものなのだ。

123。
マハト(全ての物質的存在の原因)から始まり、肉体に至るすべては
マーヤーによって作られたのだ。
これらのすべては、よく聞きなさい、非アートマンなのである。
それゆえそれらは、砂漠に浮かぶ蜃気楼のように、
アサット(非実在、永遠には存在せず、たえず変化するもの)
だと理解するがよかろう。



最高のアートマンとは

124。
最高のアートマンの本質について
今から私はあなたに説明していくことにしよう。
これを理解することで人は束縛から解放されて
「唯一なるもの」となることができるのだ。

125。
あなたの中には、「自身」である、永遠の実在があるだろう。
それは「私」という、内なる思いの根源にあり
三種の状態を目撃する者で、
五つのコーシャ(鞘)とは別のものなのだ。

126。
覚醒時も、夢眠時も、深い眠りに落ちた時も、
ブツディ(理性・知性)とその活動の存在、
そしてその活動が存在しないことも
それは「私」として
それらのすべてを真に理解しているだろう。

127。
それはすべてを見ているが
誰もそれを見ることはできない。
それはブッディ(理性・知性)などのすべてを照らすが
誰もそれを照らすことはできない。

128。
それはこの宇宙を満たすが
誰もそれを満たすことができない。
それが輝くことで、宇宙にあるすべての存在は
その反射を受けて、輝くことができるのだ。

129。
それが存在することで
肉体や、器官、心、ブッディが
まるで促されたかの如く,
それぞれの分野で機能できるのである。

130。
アハンカーラ(自我意識)から始まり、肉体までのすべて
さらに感官の対象、喜びなどは
永遠のボーダ(智慧、悟り、意識)という本質を持つ、
その存在によって
壼を見るように、明瞭に認識されるのだ。

131。
これこそが、我らの最奥にあるアートマン、
太初のプルシャ(精神原理。人間の霊魂。主を最高のプルシャと呼ぶ)
決して途切れぬ、連続した喜びの体験で
自身は変化せずとも、あらゆる認識活動に伴い
プラーナや発声器官などは、これによって機能できるのだ。

132。
この身体の中、サットヴア(純質、善性。サットの性質を持つもの)
に満たされた心の
ブッデイ(理性・知性)という洞窟の奥、
アヴィヤクタ(未顕現。全ての物的存在の根源)
と呼ばれる虚空の中に
天空にある太陽のように、そのアートマンが輝き
自らの光輝によって、全宇宙を照らしていよう。

133。
それは心とアハンカーラ(自我意識)の変異を知り
肉体と器官、プラーナの働きを知って
鉄に宿る火のように、それらに伴いながらも
それ自身は動かす、変化にも曝されないだろう。

134。
それは生まれず、死なず、育たず
朽ちずに、変化することなく、永遠に存在していよう。
肉体が滅びようとも、それは滅することがない。
壷の中の大気が、それ自身として存在し続けるように。

135。
プラクリティ(物質原理、根本原質。全ての物的存在の原因。
ブラフマンの物質的顕れとその変異物)
とは異なり、純粋なボーダ(智慧、悟り、意識)という性質を持ち
それ自身は変異せずに、有形、無形の全宇宙を照らして
覚醒などの状態にて、それらの目撃者として働き
常に、「私」、「私」という言葉で示唆される存在。、
それが最高のアートマンなのだ。

136。
あなたは心を十分に鍛錬して、自らの内にある、
「自身」であるそのアートマンを
澄み切ったブツディ(純粋理性)を用いて、
直接に「私」と覚知するがよいだろう,
そして生と死を波頭とする、
岸辺なきサンサーラ(輪廻)の海を渡り切り
あなたの本質であるブラフマンに確立されて、
人生の目的を遂げるがよいだろう。




人はなぜ束縛されるか?

137。
非アートマンが「私」だと思うこと、
これが束縛の原因なのだ。
これは無知にて生じて、これによって誕生と死、
苦しみがもたらされるのだ。
これによって非実在である肉体を真実と見て、それが自分と思い、
熱心にそれを養い、感官の対象、満足させようとするのだ。
あたかも蚕が、繭を作って自分を覆い、
その中に埋もれていくように。

138。
タマス(暗質、翳質。無知に支配された性質)に圧倒されたその者は、
対象を、本来のものとは別と理解するだろ,
そして識別の力を持たぬ彼は、「蛇」を「縄」と見間違え
手でそれをつかむや、非常な災難に見舞われるのである。
それゆえ、ああ、友よ、アサット(非実在)なものにしがみつく、
ここに束縛の原因があるのである。

139。
区分できずに、永遠で、二元性なく、ボーダ(智慧、悟り、意識)
の力にて顕現する。
無限の栄光で輝く、このアートマンは
太陽が惑星ラーフに覆われるように
タマス(暗質、翳質。無知に支配された性質)が持つ、
アヴリティ(幻影)の力によって覆われるのだ。

140。
穢れなき輝きを放つ、自らのアートマンが覆われるや
彼は迷妄に陥り、非アートマンである肉体が「私」
だと考えるだろう。
その結果その者は、ヴィクシェーパ(ラジャスが持つ、
対象の上に別のものを投影する力)
と呼ばれる、ラジャス(心の持つ激質)の持つ強大な力によって
物的欲望や怒りなどの足かせで苦しめられ続けるのである。

141。
「大いなる迷妄」という鰐に捕まるや、
彼はアートマンの理解を奪われて
ブツデイ(理性)の多様な状態を、「自身」のそれと見なすだろう。
そして歪んだブツディ(理性)を持つその者は、
毒のごとき感官の対象があふれた、
岸辺なきサンサーラ(輪廻)の海をある時は浮かび、
ある時は沈みながら、惨めに漂っていくのである。

142。
雲が太陽の光から生まれるや
それは太陽そのものを隠して、自分が大空に広がつていくように。
アハンカーラ(自我意識)はアートマンから生じて
アートマンの真理を覆い隠し、自分自身が輝き始めるのである。

143。
雨天の日に太陽が雲に覆われるや
冷たい雨風が人々を困らせるように
アートマンが無知に覆われるや
その愚か者にはヴィクシェーパ・シャクティ
(ラジャスが持つ、対象の上に別のものを投影する力)
が襲いかかり、彼は無数の苦難に曝されるのである。

144。
人はこの二つの力によって束縛に落とされてしまい
それらに惑わされて、自分は肉体だと思い
あてどなく彷徨っていくのである。

145。
タマス(暗質、翳質。無知に支配された性質)こそが、
サンサーラという大樹の種子であり、
自分は肉体と思うことはその発芽なのだ。
そして愛着はその柔らかき新芽であり、行為がそれに注がれる水、
肉体はその幹、プラーナはそこから分かれる枝だろう。
器官がその小枝で、感官の対象は花、
そして多様な悲しみは、行為の結果である果実だろう。
ジーヴア(個別的霊魂)がその枝に留まる鳥で、
それはそれら結果の享受者となるのである。

146。
非アートマンへの束縛は、無知がその原因なのだ。
それは自ずから生じるもので、始まりも終わりも無きものと言えよう。
そしてその結果、誕生、死、病気、老化という
無数の苦難が、その者に降りかかるのである。

147。
弓矢や武器、さらに風や火によっても
また無数とも言える行為によっても、
この束縛は断てないだろう。
それを可能とするのは、
識別にて生まれた「真の理解」という、偉大な剣のみなのだ。
しかも主の慈悲にて研ぎ澄まされ、
光り輝かされた剣のみが、それを可能とするだろう。

148。
聖典の権威に強い信念をいだき、
定められた義務に専念する者。
そのような者だけが自分を完全に浄化することができて
完全に清らかなそのブツディ(純粋理性)ゆえに、
彼は最高のアートマンを覚知するに至り、その結果、
サンサーラ(輪廻転生)という大樹は、
根元から断たれるのである。




五つのコーシャ

149。
だか、そのアートマンは、それ白身に備わる力で発生した
アンナマヤ(肉体のこと)などの五つのコーシャ(鞘)に覆われることで
井戸の水が藻に覆われるように
自ら輝きを放つことができなくなるのである。

150。
それらの藻が完全に除かれたなら
その水は再び清らかなものとなり
人々の喉の渇きを潤して
喜びをもたらすものとなるだろう。

151。
同じように、これら五つのコーシャ(鞘)が滅ぼされたなら
アートマンは再び明らかに顕現するだろう。
それは純粋で、「永遠の至福」に満たされ、唯一の本質からなり、
全ての内に存在する
最高で、自ら輝くものなのだ。

152。
賢者ならば、アートマンと非アートマンを識別して
自らの束縛を断ち切るべきたろう。
そうすることで「自身」はサッチダーナンダ
(ブラフマンの本質)を表すだと理解して
無上の喜びを体験することが出来るのだ。

153。
ムンジャ草の鞘をより分け、中にある繊維を取り出すように
観られる対象から、それらに内在する、
無執着で、行動することなき、アートマンを識別して
他のすべてを滅ぼし、それと自分を同一視して、
そこにとどまった者
彼こそが解放された者と呼ばれるのだ。




アンナマヤ・コーシャ(肉体)。

154。
この粗大な身体は食べ物で出来たもので
それゆえ食べ物によって発生し、
食べ物によって維持されて、
食べ物がなければ滅んでしまう。
そしてそれは、皮膚と肉、血、骨、汚物の塊で
それゆえ決して、永遠で、純粋な、「自身」ではないだろう。

155。
それは誕生の前には存在せず、死の後にも存在しない。
それは短い間しか現れずに、一時的なもので、
まことに不確かなものだろう。
またそれは唯一なものでなく、物質的なもので、
壷のように、観られる対象に過ぎないのだ。
どうしてそのようなものが、
それらの変異を覚知する者である、
自らのアートマンであり得ようか?

156。
手や足によって構成される肉体は、アートマンではないだろう。
なぜなら、それらが失われても人は生きることが出来て
その他の機能も損なわれはしないからだ。
すなわち支配されるものは、支配するものではないのである。

157。
種々の特性を持ち、種々の行為を為して
種々の状態を経験する肉体は
それらすべての目撃者であり、サットである
アートマンとは別だというのは、自明の理であるだろう。

158。
骨によって形作られ、皮膚にて上を覆われ
汚物によって中を満たされた
そのように汚れた肉体が、どうしてそれとは異なった
「覚知する者」である、「自身」であり得ようか?

159。
皮膚と肉、脂肪、骨、汚物でできた肉体を
白分と見なす者は、まことに愚かと言うべきだろう,
ヴイチャーラ(探求)を為す者は、自分の本来の性質は
肉体とは異なる「最高の事実」だと悟っていよう。

160。
愚かな者は「私は肉体だ」と考え
学ある者は「私は肉体とジーヴア(個別的霊魂)の混合物だ」
と考えるだが、識別を通して理解を得た偉大な魂は
「私はブラフマンだ」と、真実のアートマンが自分だと見ていよう。

161。
ああ、理解力乏しき者よ、皮膚と肉、脂肪、骨
そして汚物でできた肉体を、自分と見なすのを止めるのだ。
全なるアートマンであり、変転することなき、ブラフマンに思いを定めて
最高の平安を味おうようにするがよいだろう。


162。
アサット(非実在)である肉体や器官などとの
錯覚ゆえの同一視を捨てない限り
たとえヴェーダーンタの知識に通じていようと
そのよく学びし者は、解放されることはないだろう。

163。
自分の影や、反射した像、夢の中の身体
さらに心で想像する自分の身体を
本当の自分とは思わないように
今ある自分の肉体を、自分と思うのを止めるべきだろう。

164。
アサット(非実在)に執着する者にとっては
肉体との同一視こそが、誕生に始まる苦難の原因となっていよう。
それゆえその思いを滅ぼすよう、最大限の努力をするのだ。 
心がそこから離されたなら、
あなたは二度とこの世に生まれずにすむだろう。





プラーナマヤ・コーシャ

165。
五つの行為器官とプラーナによって
プラーナマヤ・コーシャ(五つのコーシャのうち、外から二番目のもの)
が形成されよう
そしてアンナマヤ・コーシャは、これに浸透されることで
すべての行動に従事するようになるのだ。

166。
だがプラーナマヤ・コーシャもまた、アートマンではないだろう。
それは「風」の変異したもので、
風が訪れては去っていくように、
肉体に入っては出ていくだろう。
そして何時でも、何処でも、さらに白分の、
また他人の、好ましきこと、疎ましきことを認識
せずに自分の存在を他に依存したものなのだ。







マノーマヤ・コーシャ

167。
五つの知覚器官と心によって、
マノーマヤ・コーシャ
(五つのコーシャのうち、外から三番目のもの)
が形成されよう。
これは「私のもの」とか「私は」という思い、
そして「現実」における変転性の原因となっており
また強大な力を持っていて、名称などの様々な差異を作り出すだろう。
そしてプラーナマヤ・コーシャに浸透することで、
これは自らを顕現させているのである。

168。
五種の知覚器官を五人の祭官として従え
感官の対象という供物を、祭火の中へと献供する
無数のヴアーサナーを燃料として燃え上がり
マノーマヤ(マナス(マインド)というマーヤの鞘)という炎は、
現象世界を維持し続けるのだ。





心の重要性

169。
心を離れては、無明は存在せず。
心そのものが無明であり、「この世に生まれる」という束縛の原因なのだ。
心が滅するなら、すべてが消えていき
心が目覚めたなら、すべてが現れるだろう。

170。
夢の中では、対象が無くとも
享受者などの全宇宙を、心が自分の力で作り出すだろう。
覚醒時においてもそれは同じなのだ。
あらゆる事象は、心の投影に過ぎないのだ。

171。
深い眠りにおいては、心は消滅しており
そこでは何一つ存在しないことは、よく知られていよう。
それゆえサンサーラ(輪廻転生)とは心で想像されたもので
「現実」ではないと言えるだろう。

172。
風によって雲が吹き集められまた
風によって吹き散らされるように
束縛は心によってもたらされ、
解脱もまた、心によってもたらされるのだ。

173。
心は、肉体や感官の対象への愛着をもたらして
動物を縄で縛るように、その者を束縛するだろう。
だがその心は、それらの対象を毒のように嫌悪させて
束縛からの解放をもたらしてくれるのだ。

174。
それゆえ心こそが,ジーヴァ(個別的霊魂)にとっての束縛の原因であり、
かつ解脱の原因なのだ。
心がラジャス(激質)のグナ(性質・要素)で汚されるや、
それは束縛をもたらして
心からラジャスとタマスが除かれるなら、
それは解脱をもたらしてくれるのだ。

175。

ヴィヴェーカ(真実か幻想かを正しく見極める)
とヴアイラーギヤ(離欲・捨心)を徹底することで
心の浄化を得ることができて
その結果、その者は解放へ向かうことができるのだ。
それゆえ解放を望む音ならば、
まずこの両者に自分を確立すべきだろう。

176。
感官の対象という森には
心という恐ろしき虎がうろついていよう。
それゆえ解放を望む善良な者は
決してそこに立ち入るべきでないだろう。

177。
心こそが、享受者に
粗大、および微細という粗大、すべての感官の対象を表して
肉体、ヴアルナ(カースト制度のこと)および
アーシュラマ(男子ヒンドゥー教徒が通過する人生の段階)、
種族能力、行動、動機とその結果という、
様々な区別を、たえずもたらすのである。

178。
無執着であり、チット(ブラフマンの本質の一つで、
智慧、意識などを指す)であるそれは
心ゆえに、肉体や器官、プラーナという縄で束縛されて
「私は」、「私のもの」という思いと共に
それが得た様々な結果を経験しながら、
永遠に彷徨っていくのである。

179。
人がサンサーラを経験するのは、
アディヤーサ(対象の上に、迷いゆえに別のものを見ること)
ゆえなのだ
そしてアディヤーサ(対象の上に、迷いゆえに別のものを見ること)
という束縛は、心で想像されたものなのだ。
ラジャス(激質)とタマス(暗質、翳質。無知に支配された性質)
に汚された、識別の力なき者においては
これこそが誕生などの苦難の原因といえるのだ。

180。
それゆえ真理を知った、賢明なる者は宣言する、
心が無明そのものなのだと。
雲の群れが風で動かされるように
心によって全宇宙が揺り動かされるのだと。

181。
それゆえ解放を望む者ならば
何としてでもその心を清めるべきだろう。
心が完全に清らかとなるなら、手のひらに載る果実のように
容易に解放を手にすることができよう。

182。
解脱だけを求める熱意により
感官の対象への愛着を断ち切り、すべての行為を放棄して
サット(実在。永遠に存在するもの。ブラフマンの本質の一つ)
に信念をいだき、
シュラヴァナ(聖典の教えを受け取ること)などの実践を行うなら
その者はプッディ(理性・知性)から
ラジャス(激質)の性質を消し去れよう。

183。
だがマノーマヤ・コーシャ(マナス(マインド)というマーヤの鞘)もまた、
至高のアートマンではないだろう、
なぜなら、それには始まりと終わりがあり、
またそれは変化するものだからだ
そしてそれは悲しみという性質を持ち、
観る主体にとっての対象だからだ。
観られる対象は、観る者ではあり得ないだろう。






ヴィジュニヤーナマヤ・コーシャ

184。
ブッディと五種の知覚器官、およびそれらの活動
さらに行為者としての性質
それらにてヴィジュニヤーナマヤ・コーシャ
(五つのコーシャのうち、外から四番目のもの)
が形成されよう。
そしてこのコーシャは、
サンサーラ(輪廻転生)の原因となっているだろう。

185。
ヴィジュニヤーナマヤ・コーシャ
(五つのコーシャのうち、外から四番目のもの)は、
チット(ブラフマンの本質の一つで、智慧、意識などを指す)
の反射した像に備わる力を持ち
またこれはプラクリティ(物質原理、根本原質。
全ての物的存在の原因)
ブラフマンの物質的顕れの変異したもので
「知識」と「行動」という特徴を持ち
肉体や器官などを、たえず「私」と見なすのである。

186。
これは始まり無きものであり、「私」という思いを形成して
ジーヴァ(個別的霊魂)と呼ばれており、
これによってすべての活動が為されるのだ。
そして前世からのヴアーサナーに動かされて
これは善と悪の行為を実行し、それらの結果を享受するのである。

187。
これは様々な胎に入って、生まれては死んでいき
魂として向生し、また堕落していくだろう。
覚醒や夢眠などの状態、喜びと悲しみの享受は
このヴィジュニヤーナマヤ・コーシャ
(五つのコーシャのうち、外から四番目のもの)
に属するのである。

188。
これは、肉体などに付属するアーシュラマ
(男子ヒンドゥー教徒が通過する人生の段階の義務)や、
種々の行為の特徴をたえず「私のもの」とみなすだろう。
そして至高のアートマンに非常に近く存在するゆえ、
このヴィジュニャーナマヤ・コーシャは、
最高に光り輝いているだろう。
さらにこれはアートマンにとって
ウパーディ(ある存在に属性を与えて、それを制限するもの)
として働き
アートマンはこれと同一視されることで、
錯覚ゆえにサンサーラを経験するのである。

189。
「真の理解」という性質を持つ、このアートマンは
心臓の中、プラーナのそぱで、自ら光り輝いているだろう,
そして金床のように変化を受けぬもの、
このウパーディ(ある存在に属性を与えて、それを制限するもの)ゆえに
それは行為者となり、かつ享受者となるのである。

190。
「自身」はブッディ(理性、知性。前世と今生で獲得した善悪の判断基準)
の制限を受けた結果
偽りのアートマンであるそれと自分を同一視して
本当は全なるアートマンなのに、「土」からできた「壷」のように
自分はそれとは別のものと思ってしまうのだ。

191。
至高のアートマンは最高のものであり、常に同じ姿であるが
ウパーディ(ある存在に属性を与えて、それを制限するもの)
と結び付くことで、
姿を持たない火が、変異した鉄の姿を受け取るように
ウパーデイ(ある存在に属性を与えて、それを制限するもの)
の性質を受け継ぐと見えるのだ。





ジーヴァ(個別的霊魂)の状態は終わるのか?


192。
弟子は質問した
「それが錯覚であれ、何であれ至高のアートマンが
ジーヴァ(個別的霊魂)の状態になるのは
ウパーディ(ある存在に属性を与えて、それを制限するもの)
そのものが始まり無きものであるゆえ
決して無くならないと判ぜられます。

193。
それゆえ、それのジーヴァ(個別的霊魂)という状態は永遠であり
サンサーラ(輪廻転生)を停止させることはできないでしよう。
ならば如何にしてそこから解脱できるでしょうか?
ああ、偉大なる導師よ、どうかこれについて語ってください」。

193。
偉大な導師は答えられた、
あなたはまことに適切な質問を為された。
よく学びし者よ、どうか心して聞きなさい。
妄想によって生じた迷妄は
決して事実とは認められないのだ。

195。
無執着であり、行動を超越して
何の姿も持たないものは、妄想が無ければ
大空と、その青さとの関係のように
物質世界と関係するとは思えないだろう。

196。
自らを観る主体であり、属性を越え、行動することなく
その者の内にてボーダ(智慧、悟り、意識)と
「至福」の体現として認識される、このアートマンは
ブッデイ(知性・理性)の妄想によって、
ジーヴァ(個別的霊魂)の状態にあると見えるが、
これは真実ではないのだ。
それゆえこのような妄想が消滅すれば、
それは「非現実」であるゆえ、その状態も無くなるだろう。

197。
「仮相なる知識」で生じた不注意ゆえの
そのような妄想が続く限り、
その状態が実在であることも続くのだ。
妄想が続く間は、「縄」の上に「蛇」が見えるが、
その妄想が無くなれば、「蛇」は存在しなくなるだろう。

198。
同じように、無明とその産物は
確かに始まり無きものと判ぜられよう。
だが、明知の訪れとともに
無明はその産物もろとも、根本から滅ぼされるのである。

199。
夢から目覚めるや、夢そのものと共に
それらの原因である眠りも消えるように、
始まり無きものであっても、それは永遠ではないのだ、
「先にある無存在」は、
その後に現れる「存在」によって、
明らかに消滅するではないか。

200。
始まりなきものである、「先にある無存在」は
こうして終わりを迎えると理解できよう,
それと同じことは、プッディ(知性・理性)という
ウパーデイ(ある存在に属性を与えて、それを制限するもの)
に結び付いた結果
アートマンにあると想像されたものにも言えるのだ。

201。
それがジーヴァ(個別的霊魂)の状態になるというのは、真実ではなく、
それはその状態とは本質的に異なったものなのだ。
であるのに、アートマンがプッディ(理性・知性)と結び付くのは
「仮相なる知識」がその原因なのである。


202。
このような想念を終わらせるには
完全な知識が必要とされ、それ以外ではないだろう。
そしてその完全な知識とは、それは聖典によるなら
「アートマンはブラフマンと一つである」と、真に理解することなのだ。

203。
アートマンと非アートマンを完全に識別したなら
このような理解を得ることができよう。
それゆえ、内なるアートマンから非真実のアートマンを識別すべきだろう、

204。
汚れた水から泥を除いたなら
その水は澄みわたり、ふたたび清らかとなるだろう。
同じように、アートマンから汚れを除いたなら
それはまばゆく輝き始めるのである。

205。
アサット(非実在)なものが消滅した時に
内なるそれは真実のアートマンだと、明らかに確信することができよう。
それゆえアハンカーラ(自我意識)などを
真実のアートマンから完全に除くべきだろう。

206。
だが、このヴィジューヤーナマヤ・コーシャ(個別的霊魂)
と呼ばれるものも至高のアートマン
ではないだろう。
なぜならそれは変化に曝されて、自分で意思を持たずに
制限された存在だからだ。
さらにそれは観られる対象で、常には存在しないからだ。
一時的なものは、永遠なものとは判ぜられないのだ。





アーナンダマヤ・コーシャ

207。
タマス(暗質、翳質。無知に支配された性質)
から立ち昇る想念の波に
アーナンダ(至福、最高の喜び。ブラフマンの本質の一つ)
の反射した像が優しく口づけしたもの
それがアーナンダマヤ・コーシャ。
(五つのコーシャ(鞘)のうち、最も内側にあるもの。
原因の身体に等しい)であり、
その特性は愛おしさなどと言うものなのだ。
自分にとって好ましき対象が表れた時に、
人はこれを経験することができよう。
また功徳が結実した善良なる者において
これはその者の心の中で、喜びとして、自然と輝き始めるだろう、
この時には、誰であっても、特に努力せずとも
 幸福感を覚えることが出来よう。

208。
このアーナンダマヤ・コーシャは
深い眠りにおいて最大限に顕現するだろう。
だが覚醒時や夢眠時では、好ましき対象を見た時などに
その一部か現れるに過ぎない。

209。
だが、このアーナンダマヤ・コーシャもまた、
至高のアートマンではない。
なぜなら、これはウバーデイ(ある存在に属性を与えて、
それを制限するもの)に結び付き、
さらにプラケリティ(物質原理、根本原質。
全ての物的存在の原因。ブラフマンの物質的顕れ)
の変異したものだから。
またこれは善良な行為の結果であり
変異した他の存在に関達するからだ。


五つのコーシャの否定

210。
これら五つのコーシャが
聖典に基づいた推論によって次々と否定されて
すべてが消滅したならば
そこには目撃者である、ボーダ(智慧、悟り、純粋観照意識)
そのものが残っていよう。

211。
これこそがアートマンであり、それは自ら輝き
五つのコーシャ(鞘)とは異つたもので
三種の状態を目撃して
サット(実在・永遠に存在するもの、ブラフマンの本質の一つ)であり、
自身は変異せずに、穢されもせず
「永遠の至福」に満たされており
啓示を受けしき者に、
自らのアートマンとして理解されるものなのだ。

212。
弟子は質問した
「これら五つのコーシャが仮相としてすべて否定されたなら
そこには「完全なる無」だけが存存しており
ああ、わが導師よ、他には何も見ることができません。
アートマンを知る、啓示を受けし者達が、
自らのアートマンと理解する
いかなる「現実」が、そこには存在するのでしょうか?」




アートマンの発見

213。
偉大な導師は答えられた
「よく学びし者よ、あなたはまことに真実を語られたのだ。
あなたはヴイチャーラ(真我探求)において優れた者と言えよう。
アハンカーラ(自我意識)などのすべての変異物
そしてそれらが存在しない状態。

214。
それらのすべてを認識して、
かつそれ自身は何にも認識されないもの
それこそが最高の「覚知する者」である、
アートマンなのだと。
あなたは精妙となったブッディ(理性・知性)にて、
そう覚知すべきだろ。

215。
何であれ、他の存在に認識されるものは
その存在を、自らの目撃者として持っていよう
だが、何によっても認識されないものは
それを目撃する者は誰かなどと、議論することは不可能だろう。

216。
これは自らを目撃するものなのだ。
なぜならそれは自分によって認識されるからだ。
それゆえ、内なるアートマンこそが
至高の「自身」であり、その他にはあり得ないのである。

217。
覚醒、夢眠、深い眠りにおいて
自らを明瞭に顕現させ
我々の内にて、永遠に「私」、「私」として
同一の姿として内部で輝き
アハンカーラ(自我意識)やブッディ(理性・知性)など
それら多様な姿や変異物を見るもので
永遠で、「至福」に満ちた、
チット(ブラフマンの本質の一つで、智慧、意識などを指す
)であるアートマンとして
心臓の中で光り輝く、それが「自身」だと知るがよかろう。

218。
壷の水に映った太陽の像を見て
愚かな者は、それは本当の太陽と思うだろう。
同じように、
ウバーデイ(ある存在に属性を与えて、それを制限するもの)
に捕まったチット(ブラフマンの本質の一つで、智慧、意識などを指す)
の様な像を見て
理解力を持たぬ者は、妄想ゆえに、それは「私」だと思うのだ。

219。
賢者ならば、壷と水、
そして水に映る太湯の像それらのすべてを放棄して、
空に輝く真の太陽を見るだろう。
それは独立して存在し、
これら三者を照らすもので自ら光を発するものなのだ。

220。
同じように、肉体とブッディ(理性・知性)、
そしてチット(ブラフマンの本質の一つで、智慧、
意識などを指す)の反射した像、
それらのすべてを捨てて、ブッディ(理性・知性)
の洞窟に存在する観る主体であるアートマンを、
それは不可分なるボーダ(智慧、悟り、意識)であり
すべてを照らして、サット(実在。永遠に存在するもの。
ブラフマンの本質の一つ)
でありアサット(非実在)とは異なり、

221。
永遠で、限界なく、すべてに遍満して
最も微細で、内も外も無くて、自分そのものだと
このように完全に自分の本質を理解したなら。
あなたは罪を離れて、穢れからも離れて、死からも解放されよう。

222。
さらに嘆きからも解放されて、「至福」そのものとなり
その啓示を受けし者は、もはや何をも恐れなくなるだろう。
解放を求める者にとり、
「この世に生まれる」という束縛から解放されるには
「自身」についての真実を知解する以外に、
その道は存在しないのだ。



ブラフマンだけが真実である


223。
自分はブラフマンとは異ならないという真の理解が
この世の生からの解脱の原因となるのだ。
智慧ある者はこのような方法により
唯一不二であり、
「至福」そのものであるブラフマンを獲得するのである。


224。
ブラフマンの境地に至つた
その覚知を得た者は、
二度とサンサーラ(輪廻転生界)には戻らなないだろう。
それゆえ、アートマンとブラフマンは異ならないことを
完全に理解せねばならないだろう。

225。
ブラフマンは、「真実」、「知識」、「無限」で
完全に清らかで、至高なるもので、
自らの力で存在しており
永遠で、「至福」そのもので、
唯一の本質からなり、内なる自分とは異ならずに
絶え間なき勝利に満たされたもののなのだ。

226。
このサット(実在、永遠に存在するもの、
ブラフマンの本質の一つ)は、最高の、
不二一元なるもので
この「自身」以外の「現実」は存在しないだろう。
「最高の事実」の真理を完全に悟った暁には
これより他のものは無いと理解されるのだ。

227。
この全宇宙は、無知ゆえに
多様な姿からなると見えるが
それらはブラフマンでしかなく
それは如何なる思考をも超えたものなのだ。

228。
「土」から作られたものは、「土」とは異なっていないだろう。
そのどの部分であっても、「土」に過ぎないだろう。
「土」からは完全に別の、「壷」という実体は存在しないだろう。
ならば「壷」というのは、偽りの、
想像された名称に過ぎないではないか?

229。
「壷」の本質は「土」と異なっているとは
誰によっても証明できないだろう。
それゆえ「壷」とは、
迷妄にて想像された概念でしかなく
「土」だけが真実であり、
それだけが「最高の事実」として存在するのだ。

230。
サット(実在、永遠に存在するもの、ブラフマンの本質の一つは)
であるブラフマンから作られた、
これらすべては、
それゆえサット(実在、永遠に存在するもの、
ブラフマンの本質の一つは)なのだ。
それらは「それ」そのものであり、
「それ」から離れては存在しないのだ。
もしそうでないと言うなら、その者はいまだ迷妄から醒めずに
夢の中で寝言を言っているようなものなのだ。

231。
「宇宙はブラフマンでしかない」とは
アタルヴア・ヴェーダの高らかな宣言だろう。
それゆえ宇宙はブラフマンそのものなのだ。
あるものの上に重ね合わされたものは、
その基礎のものとは異ならないのだ。

232。
もし世界が、今あるように、真実であるなら
アートマンの無限性は否定されて、聖典の言葉は偽りとなり
主ご自身が偽証なされたことになるだろう。
これらの三つは、偉大な魂にとって望ましくなく、
また有益でもないだろ。

233。
「現実」の真理を知られる主は
「私はそれらの中に存在しない」。
「それらは私の中に存在しない」。
と宣言して、この考えを支持されているのだ。

234。
もし宇宙が真実であるなら
それは深い眠りにおいても認識されよう。
だがそこでは何も認識されないゆえ
それは夢のようにアサット(非実在)で、偽りのものなのだ。

235。
それゆえ世界は至高のアートマンとは別のものでないのだ。
特性と同じく、それらが別と見えるのは偽りなのだ。
重ね合わされて現れた姿が、どうして事実であり得ようか。
錯覚ゆえに、基礎にあるものがそう見えているのだ。

236。
妄想に陥った者が、錯覚によって何を見ようと、
それらはすべてブラフマンなのだ。
貝殻の真珠層に見える銀は、
ただの真珠層に過ぎないではないか?
我々が「それ」と呼称するものは、
すべてブラフマンの表れなのだ。
ブラフマンの上に重ね合わされたものは、
すべて名称に過ぎないのである。

237。
それゆえ至高のブラフマンは、サット(実在)であり、唯一不二で
完全に清らかで、「真の理解」そのもので、穢れはなく、
最高の平安に満たされて、始まりと終わりはなく、行動もなく
「絶え間なき至福」という本質を持つものなのだ。

238。
それはマーヤーゆえのすべての差異を超越して
永遠で、喜びそのもので、部分から成らずに、推論を超えており
姿を持たずに、未顕現で、名称を持たす、不変なるものであり
自ら輝き、現れて見える、それらすべてだろう。

239。
それには、知る者、知られる対象、知る行為という区別はなく
無限なるもので、変転することなく
唯一なる、不可分な、チット。
(ブラフマンの本質の一つで、智慧、意識などを指す)
そのもので
智慧ある者によって「最高の真理」と覚知されるだろう。

240。
それは拒否できるものでなく、受容するようなものでもない。
心と言葉では捉えられずに
何によっても測られず、始まりも終わりもない。
これがブラフマン、完全であり、最高で最上のものなのだ。




不一二元

241。
ブラフマンとアートマンは、それぞれ、
「タツト」と「トヴァム」という言葉で表されて
聖典による精細な検討によって
「タツト・トヴァム・アシ」(汝はそれなり)という表現で
その両者は完全に一つでしかないと、
繰り返し確立されていよう。

242。
太陽と蛍のように、王と僕のように
そして海と井戸のように、さらにメール山と原子のように
その両者は互いに異なった性質を持つが
言葉でなく、それが示唆するものによって、
それらは一つだと理解できよう。

243。
これらの間の矛盾は、それらに重ね合わされたウバーディ
(ある存在に属性を与えて、それを制限するもの)
ゆえに想像されたもので
そしてそれらのウパーディ(ある存在に属性を与えて、
それを制限するもの)は「現実」ではないのだ。
主におけるウパーディ
(ある存在に属性を与えて、それを制限するもの)は、
マハト(物質的存在の原因・普遍知性)」
などを生み出すマーヤーで
ジーヴアにおけるそれは、よく聞きなさい。
その産物である、五つのコーシャなのだ。

244。
これら、最高のものとジーヴァ(個別的霊魂)
におけるウバーディ(ある存在に属性を与えて、
それを制限するもの)が
それぞれ完全に除かれたなら、
最高のものもジーヴア(個別的霊魂)も無くなるだろう。
王国は王の象徴で、盾は戦士の象徴だろう、
両者から王国と盾を除くなら、王も戦士も無くなるだろう。

245。
聖典は、「さあ、これが戒めである」と
ブラフマンに想像される二元性を否定していよう。
聖典の証明にて支持されるこのボーダ(智慧、悟り、意識)により
これらを消し去るよう努力すべきだろう。

246。
「これは違う、これは違う、これは想像されたもので、真実ではない。
「縄」の上に観られる「蛇」や、夢のようなものなのだ」、と
推論を用いて観られたものを否定していき
それらは一つの状態にあると理解していくのだ。

247。
そしてこれらが示唆する意味をよく見極めて
それらが区分できずに、一つの本質からなると理解すべきだろう。
それには「否定の方法」でも、「肯定の方法」でもなく
その両者を組み合わせた方法で静観せねばならないいだろう。

248。
「これは、あのデーヴァダッタ(提婆達多)だ」という発言において
そこでの相反する要素を取り除くことで、
その両者は一つだと理解できよう。
同じように、「タツト・トヴァム・アシ」という言葉において
その両者における相反する要素を取り除くのだ。

249。
真実のアートマンは、チット
(ブラフマンの本質の一つで、智慧、意識などを指す)
そのものだと判知して
智慧ある者は、その両者は不可分な状態にあると習知していよう。
ブラフマンとアートマンは区分できずに、一つであるという事実は
何百もの偉大な宣言によって語られるのだ。

250。
「これは粗大なものではない」などの聖句を頼りに、
アサット(非実在。永遠には存在せず、たえず変化するものであるもの)
を捨てていき
自らにおいて確立を得て、
思考では及ばぬ、大気の如き「「自身」の本質を悟るのだ
その為には、これまで自らのアートマンと思っていたものを
偽りのものと悟って、それを拒絶し
完全に清められたブッディ(理性・知性)を用いて、
「私はブラフマンだ」と理解して
「自身」であるアートマンは、
不可分なるボーダ(智慧、悟り、意識)だと覚知するのだ。





あなたはそれである

251。
「土」から作られた「嚢」などは、
いつでも、どの部分でも、「土」に過ぎないと理解できよう
同じように、サットから作られたものは、
すべてサット(実在)の性質を持ち、それらはサット
(実在)そのものなのだ。
なぜならサット(実在)以外に存在するものは無く、
それは真実そのもので、
それは「自身」である、アートマンなのだ。
それゆえあなたはそれなのだ、
すなわちあなたは、最高の平安に満ちた、
穢れなく、二元性なき、至高なる、ブラフマンそのものなのだ。

252。
夢の中で想像された、
時と場所、対象、主人公などは、すべて仮相であるように
覚醒時に経験されるこの世界は、
無知にて生み出されたものなのだ。
同じように、肉体や器官、
プラーナ、アハンカーラ(自我意識)も、
すべてアサット(非実在)なのだ。
それゆえあなたはそれなのだ、
すなわちあなたは、最高の平安に満ちた、
穢れなく、二元性なき、至高なる、ブラフマンそのものなのだ。

253。
妄想によって想像された所には、識別が為されたなら
「それ」だけがあり、「それ」以外はないとわかるだろう。
夢の中では様々な夢の世界が消えていくが
目覚めたなら、
それらは自分とは異なった何かとして観られようか?

254。
階級、宗派、家族と種族を超えて
名前や姿という制限を持たずに
時と場所、知覚の対象の彼方にある
これがブラフマン、あなたはそれである、
これを心の中で静観するのだ。

255。
如何なる言葉でも把握できない、最高のもの。
だが汚れなきボーダ(智慧、悟り、意識)の眼で把握できるもの
純粋であり、チット(ブラフマンの本質の一つで、
智慧、意識などを指す)そのもので、
始まりなき「現実」である。
これがブラフマン、あなたはそれである、これを心の中で静観するのだ。

256。
六種の波には曝されずに
ヨギーの心にて静観される、
知覚器官では把握できずに
ブッディ(理性、知性。前世と今生で獲得した善悪の判断基準
)によっても知られぬ、
完全な素晴らしきを備えたものこれがブラフマン、
あなたはそれである、
これを心の中で静観するのだ。

257。
妄想にて想像された世界と、その諸相の基礎にあり
自分で自分を支えて、
サット(実在。永遠に存在するもの。ブラフマンの本質の一つ)
とアサットとは異なる
その中には部分はなくて、他の何とも比較できない
これがブラフマン、
あなたはそれである、
これを心の中で静観するのだ。

258。
誕生も成長も、発展も崩壊もなくて
病気も死もなく、変化を経験することがない、
そして宇宙の発生と維持、破壊の原因である
これがブラフマン、
あなたはそれである、
これを心の中で静観するのだ。


259。
如何なる差異がなくとも、無存在ではなくて
波一つ立たない海のように静かで
永遠に解放されており、区分された姿を持たない。
これがブラフマン、
あなたはそれである、
これを心の中で静観するのだ。

260。
唯一のサットであるか、多くの存在の原因となり
すべての原因を拒否して、それ自身は原因を持たない
原因と結果とは異なり、自分自身で存在している。
これがブラフマン、あなたはそれである、これを心の中で静観するのだ。

261。
変転せずに、無限大であり、不滅である
滅するものでも、不滅のものでもなく、
最高で、永遠なるもの
朽ちない喜びであり、穢れなきもの
これがブラフマン
、あなたはそれである、
これを心の中で静観するのだ。

262。
サット(実在。永遠に存在するもの。
ブラフマンの本質の一つ)であり、
それ自身は変化しないが、錯覚ゆえに多様となり
様々な名前や姿、性質、変化を、その身に帯びる
金がそれ自身を、不変なまま留まるように
これがブラフマン、
あなたはそれである、
これを心の中で静観するのだ。

263。
その彼方には何も輝かず、
最高のものより高くあり
我々の内にあり、
唯一の本質を持ち、アートマンそのものである、
真実、チット(ブラフマンの本質の一つで、
智慧、意識などを指す)、「喜び」で、「無限」であり、
変異することかない
これがブラフマン、
あなたはそれである、
これを心の中で静観するのだ。

264。
以上、述べられた事実を、あなたは認められた推論に従い
自分自身で、自らの内にて、プッディ
(理性、知性。前世と今生で獲得した善悪の判断基準)
を用いて静観するのだ。
そうするなら、持つすべての疑問は晴らされ、
手のひらに載る水のように、
真理についての確信を得ることができよう。

265。
軍隊を指揮する王のように、集合体の中で鎮座する
完全に純粋な真理であり、
真実のボーダ(智慧、悟り、意識)である、
その自分を真に理解してそこに安らぎ、
永遠に自らのアートマンに確立されて
全宇宙を、ブラフマンへと帰入させるのだ。

266
ブッディ(理性、知性。前世と今生で獲得した善悪の判断基準)
という洞窟には、サットでもアサットでもない
真実で、最高である、唯一不二のブラフマンが存在していよう。
アートマンとしてそこにとどまるなら
あなたは二度と肉体という洞窟に入らずにすむだろう。




ヴァーサナーとは

267。
だが「現実」を知った後でも、強大で、始まり無きヴアーサナー
(前世での想念行為の結果、
心の中に潜在化した欲望)が残っていよう。
これは、私は行為者だ、享受者だという思いで、
これによって人はサンサーラに落とされるのだ
それゆえ、自らの内を観て、アートマンとして生きることで、
注意深くその思いを捨てるのだ
こうしてヴアーサナーを弱めることが、
聖者たちによって、「解放」と呼ばれているのである。

268。
肉体や器官などの非アートマンに関して
それらを「私」とか「私のもの」と思う、
そのようなアディヤーサ
(対象の上に、迷いゆえに別のものを見ること)を
賢者ならば、自らのアートマンに確立されて
きっぱりと捨てるべきだろう。

269。
ブッディ(理性、知性。前世と今生で獲得した善悪の判断基準)
とその変異物を目撃するのは「自身」である、
内なるアートマンだと知って
「私はそれである」とたえず心に言い聞かせ
非アートマンをアートマンと思うことを克服するのだ。


270。
世間への追随を捨離して、
肉体への追随も捨離して、
さらに経典に追随することも捨離して
「自身」へのアデイヤーサ
(対象の上に、迷いゆえに別のものを見ること)
を取り除くのだ。

271。
世間に関するヴアーサナー、
経典に関するヴアーサナー、
肉体に関するヴアーサナー、
これらによって人は「知識」を得られなくなるのだ。

272。
サンサーラの牢獄から解脱せんと願う者にとり
これら三種のヴアーサナーは、その者を縛る鉄の足枷だと
物事を知る者によってそう語られているのだ。
これらから自由となった者が、解放を得ることができるのだ。

273。
長きにわたって水に触れた為に
不快な匂いで覆われた沈香の神々しき香りは
外側の匂いを擦り取ることで
完全に表面に現れてくるだろう。

274。
同じように、心に深く刻まれた、
無数の荒々しきヴアーサナーで覆われた
最高のアートマンを求めるというヴアーサナー
(前世での想念行為の結果、心の中に潜在化した欲望)は、
最高智を用いてそれらの汚れを擦り取り、
完全に清らかとすることで
白檀のように再び明らかとなるであろう。

275。
アートマンを求めるヴアーサナー
(前世での想念行為の結果、心の中に潜在化した欲望)は
無数の、非アートマンを求めるヴアーサナーで曇らされていよう、
それゆえ常にアートマンに専念することで、それらを滅ぼすなら
その思いは、自ずから、明らかに、表に顕現してくるだろう。

276。
心が内へ向けられ、そこに確立されるにつれて
外界の対象へのヴアーサナー
(前世での想念行為の結果、心の中に潜在化した欲望)は、
心から消えていくだろう。
そうしてヴアーサナー
(前世での想念行為の結果、心の中に潜在化した欲望)が消され
たときにその者は何の障害もなく、
アートマンを体験することができるのだ。



アディヤーサを取り除く

277。
自らのアートマンにたえず専念することで
そのヨギーの心は止滅していき
ヴァーサナー
(前世での想念行為の結果、心の中に潜在化した欲望)も、
その者から消えていこう。
それゆえ、すべてのアディヤーサ
(対象の上に、迷いゆえに別のものを見ること)を、
あなたは取り除くのだ。

278。
タマス(暗質、翳質。無知に支配された性質)は
他の二者によって、
ラジャスはサットヴア(純質、善性。サットの性質を持つもの)によって
そしてサットヴアは、
それを純粋なものとすることで、
それぞれ滅ぼされよう。、
それゆえ、サットヴア(純質、善性。サットの性質を持つもの)
に寄りすがることで
すべてのアディヤーサ
(対象の上に、迷いゆえに別のものを見ること)を、
あなたは取り除くのだ。

279。
プラーラブダ(前世で作られたカルマのうち、
今生での自分を形成するに至ったもの)が
自分の肉体を維持するとそのように堅く信じて、
決して心を揺らさずに
断固たる決意を持ち、忍耐強く
すべてのアディヤーサ
(対象の上に、迷いゆえに別のものを見ること)を、
あなたは取り除くのだ。

280。
「私はジーヴァではない、私は至高のブラフマンなのだ」と
非アートマンであるすべてを否定していき、
過去からのヴアーサナーで引き起こされた
すべてのアディヤーサ(対象の上に、迷いゆえに別のものを見ること)を、
あなたは取り除くのだ。

281。
聖典の教えと推論、直接的体験により
自分は全なるアートマンだと知って
その痕跡が僅かでも現れる度に
すべてのアディヤーサ
(対象の上に、迷いゆえに別のものを見ること)を、
あなたは取り除くのだ。

282。
いかなる行動とも、聖者は関わりを持たない。
何かを受け取ることにも、手放すことにも無関心となる
それゆえ、唯一なるものに専念することで
すべてのアディヤーサ
(対象の上に、迷いゆえに別のものを見ること)を、
あなたは
取り除くのだ。

283。
「あなたはそれである」などの聖句を頼りに
ブラフマンとアートマンは一つだと真に理解して
ブラフマンとの同一視を強める為
すべてのアディヤーサ
(対象の上に、迷いゆえに別のものを見ること)を、
あなたは
取り除くのだ。

284。
肉体における「私」という思いが
心から完全に拭い取られるまで
細心の注意と、非常な集中力をもって
すべてのアディヤーサ
(対象の上に、迷いゆえに別のものを見ること)を、
あなたは
取り除くのだ。

285。
ジーヴア(個別的霊魂)とこの世界が
夢の中のもののように見えるまで、
ああ、よく学びし者よ、ひと時とて途切れずに
すべてのアディヤーサ
(対象の上に、迷いゆえに別のものを見ること)を、
あなたは
取り除くのだ。

あなたの本質はアートマンである。

286。
ぼんやりや、世間の事柄
「音」などの感官の対象によって、忘却に落とされることを
ひと時でさえ生じさせないようにして。
自らのうちにある、そのアートマンを思うがよいだろう。

287。
父と母の汚れたものから生じて
肉と汚物によって形成される自分の肉体を
忌むべきものを避けるように、遠くから退けて
自らがブラフマンとなり、
人生の目的を遂げるがよいだろう。

288。
壷の中のアーカーシャを、
マハー・アーカーシャに没入させるように
アートマンを、至高のアートマンへと没入させ
その両者は不可分であることを静観して、
聖者よ、その後、永遠に沈黙を守るがよいだろう。

289。
自ら輝き、全ての存在の基礎であるその真実のアートマンに、
自分自身がなることで宇宙卵と
自分の肉体を汚物の満ちた容れもののように
退けるのだ。

290。
肉体に根差した「私」という思いを、
「永遠の至福」に満たされた、
チット(ブラフマンの本質の一つで、智慧、意識などを指す)
であるアートマンにとどめおき
微細な身体を拒否して、
永遠に、唯一なる者となるがよいだろう。

291。
都が鏡に映るように
そこには世界の姿が映し出されている。
そのブラフマンが「私」だと知ったなら
あなたは人生の目的を遂げることができよう。

292。
「真実」そのものであり、本来の自分の姿でもある
チット(ブラフマンの本質の一つで、智慧、意識などを指す)であり、
二元性はなく、至福に満ちた、姿を持たない、行動することなき
その存在を獲得して、役者が衣装を脱ぎ捨てるように
アートマンを覆う、仮相の身体を捨てるのだ。

293。
自分が観るこれらすべてては、偽りなのだ。
アハンカーラ(自我意識。「私は」という、自分にとらわれた思い)も、
それは一時的なものと知られるゆえ、事実ではないのだ。
「私はすべてを知っている」と言ったところで
アハンカーラ(自我意識。「私は」という、自分にとらわれた思い)などが
一時的なら、どうしてそれが確かであり得ようか?。

294。
「私」という言葉で示唆される実体は、
アハンカーラなどをも目撃するだろう。
なぜなら、深い眠りに落ちた時でも、
それの存在することが観られるからだ。
聖典はそれ自身、語っていよう、
「それは不生であり、永遠である」と
内なるアートマンは、
サット(実在。永遠に存在するもの。ブラフマンの本質の一つ)、
およびアサットとは別のものなのだ。

295。
変異を経験する存在の、その全ての変異を覚知するものは
永遠であり、自身は変異せずに存在していよう。
想像と夢眠、深い眠りにおいて
その両者はアサット(非実在。永遠には存在せず、たえず変化するもの)だと、
幾度も幾度も、観ることができよう。

296。
それゆえ、肉の塊に過ぎない身体と
ブッディ(理性、知性。前世と今生で獲得した善悪の判断基準)
にて想像された、肉体を自分と見なす思い、
その両者との同一視を捨てるのだ。
三つの時の区分で否定できずに、
不可分なるボーダ(智慧、悟り、意識)である
「自身」である、アートマンを知って、
平安を得るよう努めるのだ。

297。
さらに、家族と種族、名前、姿、アーシュラマ
(男子ヒンドゥー教徒が通過する人生の段階)
との同一視も止めるのだ。
それらのすべては、
腐敗すべき定めにある肉体に属するのだ。
さらに私は行為者だなどという、
微細な身体に属する思いも捨てるのだ。
そして無限の喜びという本質そのものになるがよいだろう。



アハンカーラを滅する

298。
これら以外に、その者にとって障害となり、
その者をサンサーラ
(輪廻転生。マーヤーに惑わされて、生まれ変わりを繰り
返すこと)に落とすものが観られよう。
それらのうち、その根本にあるのが
最初の変異物である、アハンカーラ。
(自我意識。「私は」という、自分にとらわれた思い)
なのだ。

299。
悪しき性質を持つこのアハンカーラ。
(自我意識。「私は」という、自分にとらわれた思い)に
たとえ僅かでも関係する限りは
解放への望みはあり得ないだろう。
なぜならそれは、まったく独特なものだからだ。

300。
それゆえアハンカーラ
(自我意識。「私は」という、自分にとらわれた思い)
という縛りから解放されて
自分の本質を獲得するよう努力するのだ。
そして月のように、清らかで、完全で
「永遠の至福」に満たされた、
自ら輝くものとなるがよいだろう。

301。
タマス(暗質、翳質。無知に支配された性質)
で曇らされた
ブッディ(理性、知性。前世と今生で獲得した善悪の判断基準)
ゆえに
肉体の中で生じた「私は誰それである」という思いが
跡形もなく消された時に、その者は何の障害もなく
ブラフマンとアートマンとの合一を得ることができるのだ。

302。
「ブラフマンの至福」という宝は、
アハンカーラ(自我意識。「私は」という、自分にとらわれた思い)
という、強大で恐ろしき蛇が守っていよう。
そして自分の為に、
それは三種のグナ(人間を縛る精神的要素。サットヴア、ラジャス、
タマスの三種ある)という鎌首と共に、
その周りを取り囲んでいるだろう。
勇者ならば、「真の理解」という、
聖典にて研ぎすまされた偉大な剣を用いて
それらの首を断ち切り、喜びをもたらす、
その宝を楽しむがよいだろう。

303。
毒の影響が僅かでも身体に残っているなら
その者はどうして回復できようか?
同じように、アハンカーラが少しでも残っているなら
そのヨギーにとって解放はあり得ないだろう。

304。
アハンカーラを完全に滅ぼし
それが原因で生じた多様な心の変転を抑制して
自らの内に潜む真理を識別するなら
「私はそれである」という真理を得ることができよう。

305。
「私は行為者だ」というアハンカーラを、
自分だと思うことを、直ちに止めるのだ。
変異物であり、
アートマンの反射で照らされたそれは、
あなたが「自身」に確立されることを邪魔するだろう。
チット(ブラフマンの本質の一つで、智慧、意識などを指す)
の本質からなり、
喜びの体現であるあなたは、
そのような同一視ゆえに、
サンサーラへ落とされて
誕生と死、老化という悲しみを
経験することになったのだ。

306。
その姿は永遠に変わらず、
チット(ブラフマンの本質の一つで、智慧、意識などを指す)
そのもののアートマンであり、
すべてに遍満して、「至福」の体現であり、
穢されぬ栄光を持つあなたは
アハンカーラという
アディヤーサ(対象の上に、迷いゆえに別のものを見ること)
を受けなければ、不変な者であるゆえ
サンサーラ
(輪廻転生。マーヤーに惑わされて、生まれ変わりを繰り返すこと)
という海には落とされなかっただろう。

307。
それゆえ、食事をする際に喉に刺さった魚の骨の如き
あなたの敵であるこのアハンカーラを
「真の理解」という偉大な剣で滅ぼして
アートマンという、あなた自身の帝国の喜びを、
自由に楽しむようにするのだ。

308。
その後、アハンカーラなどの活動を抑えて
すべての愛着を捨て去り、「最高の事実」を獲得して
寂静の状態となり、
完全なアートマンとなって、
アートマンの喜びを体験し
変転することなく、
ブラフマンの中にとどまるがよいだろう。

309。
強大なこのアハンカーラが、その根もろとも切り倒されても
たとえ一時でも心の中でその復活を許すなら
雨期になるや、雲が風にて吹き集められるように
それはふたたび活動して、何百もの混乱をその者にもたらすだろう。

310。
それゆえアハンカーラという敵を制圧したなら
二度とそれに感宮の対象を思う隙を与えないことだ。
枯れかけた蜜柑の木に水を灌ぐなら、
それは再び生命を取り戻すように、
それこそがアハンカーラが息を吹き返す原因なのである。




原因と結果

311。
自分は肉体と思って生きる者が、物的欲望を持つのである。
そうでない者が、どうしてそのような欲望を持つだろうか?
自分とは別の対象に思いを定めることで、差異が生じて
それが「この世に生まれる」という束縛の原因となるのだ。

312。
結果が増大することで
「種子」もまた増大するという事実が観察されよう。
結果が滅ぼされれば、「種子」も無くなるだろう。
それゆえ人は結果を制圧すべきと言えよう。

313。
ヴアーサナーが増えるなら、結果も増えていき
結果が増えるなら、ヴアーサナーも増えていこう。
そのような者にとっては、如何なる手段によっても
サンサーラ
(輪廻転生。マーヤーに惑わされて、
生まれ変わりを繰り返すこと)が
終わることはないだろう。

314。
サンサーラ(輪廻転生。マーヤーに惑わされて、
生まれ変わりを繰り返すこと)
という束縛から逃れんとするなら
その求道者は、この両者を灰と燃やすべきだろう。
そしてヴアーサナー
(前世での想念行為の結果、心の中に潜在化した欲望)の
増大は、思いと外での行動によって、もたらされるのである。

315。
両者で養われたヴアーサナー
(前世での想念行為の結果、心の中に潜在化した欲望)
によって、
人にサンサーラがもたらされるのである。
それゆえこの三者を滅ぼすには
いかなる状況下でも、またどのような時であっても。

316。
どこでも、いかなる点に関しても
すべてはブラフマンであることを眺めるのだ。
そしてサット(実在。永遠に存在するもの。ブラフマンの本質の一つ)
にならんとするヴアーサナーを強めることで
これらの三つは滅ぼされよう。


317。
行動を止めることで
思いに終わりがもたらされて
それがヴアーサナー
(前世での想念行為の結果、心の中に潜在化した欲望)の
消滅につながるだろう。
そしてヴアーサナー
(前世での想念行為の結果、心の中に潜在化した欲望)
の完全な消滅が解脱であり、
これはジーヴァン・ムクティと判ぜられているのだ。

318。
サット(実在。永遠に存在するもの。ブラフマンの本質の一つ)
を求めるヴアーサナーが
完全に顕現するなら
アハンカーラゆえのヴアーサナーは消滅していくだろう。
何一つ見えない暗黒であっても
曙光とともに、暗闇は完全に消えてしまうように。

319。
暗黒と、その結果である多様な災いは
空に太陽が昇るなら、すべて観られなくなるだろう。
同じように、「二元性なき至福」という美酒を体験するなら
もはや束縛は存在せずに、悲しみを味わうこともないだろう。

320。
観られて、認識されるものを完全に滅ぼし
「至福」の顕現である、
サツト(実在。永遠に存在するもの。ブラフマンの
本質の一つ)
そのものをよく静観して
外と内にて、常に注意深く
カルマの束縛が続く限り、時を過ごすかよいだろう。



不注意は死そのものである

321。
ブラフマンに専念することにおいては
如何なる時であっても、不注意に陥るべきではない。
「不注意は死そのものである」と
神の如きブラフマー神の息子も語っておられるのだ。

322。
ジュニヤーニンにとっては
「自身」の本質に不注意なほどに、危険なことはないだろう。
それは迷妄を引き起こし、アハンカーラをのさばらせて
束縛をもたらし、その者を悲しみに落としてしまうのだ。



感官の対象を求める

323。
感官の対象を求めるなら
たとえよく学んだ者であっても、不注意はそれを観るや
情婦が愛しき人を引き留めるように
ブッディ(理性、知性。前世と今生で獲得した善悪の判断基準)
の悪しき性質によって、その者を困らせてしまうだろう。

324。
水面に広がる藻を払いのけても
それらは一時もとどまらずに、再びそれを覆い尽くすように
外の世界へと心が向かうなら、
マーヤー(あらゆるものを創造し、人を迷わせる、
主が持つ、主固有の力)は
最高智を得た者の心をさえ覆ってしまうだろう。

325。
目的とするものから、心が僅かでも逸れて
それが外に向かうなら、
その者は次から次と堕落していくたろう、
不注意にも毬を階段の上に置くなら
それは次々と階段を転がり落ちていくように。

326。
心が感官の対象に入っていくなら
それはその性質を思い浮かべよう,
そうして強く思いを巡らすことで、
それへの欲望が生じて
欲望からは、その者の活動が生まれよう。

327。
それゆえ、識別の力を持つ、ブラフマンを覚知する者にとっては
サマーデイにおいては、
不注意よりも恐ろしき死は無いのである。
よく心を集中させた者だけが、
完全な成功を得ることができるのだ。
それゆえあなたは、
注意深く、心を集中させる者となるがよかろう。

328。
人は不注意ゆえに自分の本質から逸れていき
そうして自分の本質を忘れることで、その者の堕落が始まるだろう。
堕落し続けるなら、
ついには破滅に至って
そのような者は、立ちあがることはほぼ不可能だろう。



恐怖の原因

329。
あなたは、感官の対象に心を動かさないことだ。
なぜなら、それがすべての不幸の始まりだからだ。
生きているうちに唯一な状態となれた者だけが
肉体が滅びた後にも、唯一なるものとなれるのだ。
ヤジュル・ヴェーダは宣言していよう
「僅かでも差異を見る間は、その者から恐怖は離れない」と。

330。
たとえ啓示を受けし者であっても
制限されざるブラフマンの中に、僅かででも差異を見るなら
不注意によって認めた、その異なりしものは
その者にとって恐怖の原因となるであろう。

331。
何百もの、聖典や法典、推論によって否定される。
観られる対象を自らのアートマンと見なきす者は
盗賊のように禁じられた行為を為すがゆえ
次から次と悲しみに見舞われるだろう。

332。
人は、真実に確立されることで解放を得て
アートマンの永遠の栄光を獲得できよう
だが仮相に心を動かすなら、その者は滅ぼされよう。
このことは、盗賊と、盗賊でなき者の例において観られよう。

333。
求道者ならば、
束縛をもたらすアサット(非実在。永遠には存在せず、たえず
変化するもの)を思わずに
「私はこれである」と、
たえずアートマンだけを観て、
そこにとどまるよう努力するのだ。
そうすることで、
その者は自らの体験を通して、ブラフマンに確立され
喜びに満たされて、
それまで味わっていた、
無明ゆえの悲しみから解放されよう。




外的なもの

334。
外的なものを思うことは、その結果を増大させ、
悪しき心の傾向を、さらに強めていくだろう。
識別にてこの理を知り、外的なものを思わず
たえず心を自らのアートマンに集中させるのだ。

335。
外的なものを遮断するなら、心には最高の平安が広がり
そのように澄み切った心によって、最高のアートマンが観られよう。
そしてそれが完全に観られたなら、
「この世に生まれる」という束縛から解放されるのだ。
それゆえ、外的なものを遮断することが、
真の解放につながると言えよう。




全なるアートマン

336。
学識を備えて、
サットとアサット(非実在。永遠には存在せず、たえず変化するもの)
を識別し
聖典の権威を信じて、
「最高の事実」を観て、解放を求める者ならば
いかなる理由で、まるで理解の悪い子供のように
堕落をもたらすと知りながらも、
アサット(非実在。永遠には存在せず、たえず変化
するもの)なものを目的とするだろうか?。


337。
肉体などに執着しているなら、
その者は解放されておらず
解放されている者は、
肉体などが自分とは見なさないだろう。
眠っている者は目覚めておらず、
目覚めている者は夢を見ないだろう。
なぜなら
その両者は全く異なったことだからだ。

338。
自分の内と外、動くものと動かないもの
それらにアートマンが存在することを知り、
それがすべての基礎だと眺めて
あらゆるウバーディ(ある存在に属性を与えて、
それを制限するもの)
を捨離し、不可分なる存在となって
完全なアートマンとしてとどまった者、
彼こそが解放された者と呼べるのだ。

339。
束縛から解放される手段は、全なるアートマンであり
全なるアートマンという状態よりも、優れたものは存在しないだろう。
観られる対象を拒否して、真実のアートマンとして留まるごとで
この全なるアートマンという状態を獲得することができよう。

340。
自分を肉体と同一視して、
心は外的なものを経験することに没頭し
それらを目的にあれこれと行為する者が、
どうして観られる対象を拒否できようか?
義務と行為、感官の対象、
それらのすべてを放棄して、
永遠にアートマンに身を捧げて
「永遠の至福」を得ようと、
自らの内にて注意深く努力する、
そのように真理を知った者が、
それを可能とするのである。



識別の炎は仮相を消し去る

341。
聖典の聴講を終えた放擲者が
全なるアートマンの境地に至るには
「シャーント、ダーンタ」と語る聖典は
サマーデイ(最高の平安の境地)の実践を勧めていよう。

342。
強大となったアハンカーラを滅ぼすには
賢明なる者であっても、
ただちに可能とはいかないだろう。
ニルヴイカルパ
(「私」という思いが完全に消滅したサマーディ)
と呼ばれるサマーディにて完全な平安を得た者だけが、
それを可能とするだろう。
なぜならヴァーサナー
(前世での想念行為の結果、心の中に潜在化した欲望)は、
無数の転生の結果だからだ。

343。
ヴィクシエーパ・シャクティ
(ラジャスが持つ、対象の上に別のものを投影する力)は、
アヴリティの力とともに
その人を迷妄に落として、
自己本位なブツデイに結びつけ
それが持つ属性によって
その者を逸脱させてしまうだろう。

344。
ヴィクシエーパ・シャクティ
(ラジャスが持つ、対象の上に別のものを投影する力)
に勝利するのはまことに難しく
それはアーヴアラナ・シャクティ
(タマス(暗質、翳質。無知に支配された性質)
が持つ、対象の本質を覆い隠す力)
を完全に滅ぼすことで可能となるだろう。
そしてアートマンを覆うそのアーヴアラナ
(タマスが持つ、対象の本質を覆い隠す力)を除くには
水から牛乳を分けるように、
観る者と観られる対象を見極めねばならないだろう。
もし偽りなるものに心が動かなければ
その者は何の障害もなく、
ヴィクシエーバ・シャクティ
(ラジャスが持つ、対象の上に別の
ものを投影する力)を克服できるのだ。

345。
完全な識別は、明晰となったボーダ
(智慧、悟り、意識)にて得られて
それによって、観る者と観られる対象についての真理が見極められよう。
それはマーヤーにて起こされた迷妄を消し去り
真の解放をもたらして、
サンサーラからも免れさせてくれよう。

346。
最高のものと、その下のものは一つだという
そのような識別の炎により、
無明という深い森は、完全に燃やされてしまうだろう。
かくの如き不一二元の境地に至つた者にとって
サンサーラの原因となる種子が、どうして存在できようか?。

347。
アーヴアラナ(タマスが持つ、対象の本質を覆い隠す力)
の活動を終わらせることは
対象を完全に観ることで可能となり
その結果、仮相を真実とは思わなくなり
ヴィクシエーパ
(ラジャスが持つ、対象の上に別のものを投影する力)
ゆえの苦難を終
わらせられるのだ。

348。
これら三つの事実は、「縄」の例において
その本質が完全に理解された時に観られよう。
それゆえ束縛から解放されるには
賢者ならば「現実」の真理を知るべきと言えよう。

349。
鉄は火に接することで、火として現れるように
ブッディ(理性、知性。前世と今生で獲得した善悪の判断基準)も、
サット(実在。永遠に存在するもの。ブラフマンの本質の一つ)
が内在することで、認識する者などとして現れるのだ。
だが、妄想や、夢の世界、空想の中のように
これらの二元性は偽りだと観じられよう

350。
同じように、アハンカーラから始まり、
肉体に至るまでのすべて
および感官の対象など、
それらプラケリティ(物質原理、根本原質。全ての物的存在の原因。
ブラフマンの物質的顕れ)の変異物は
つねに変化に曝されるゆえ、
アサット(非実在。永遠には存在せず、
たえず変化するもの)なのだ
だがアートマンは、いかなる時においても、そうではないだろう。

351。
永遠で、二元性はなく、区分されずに、
チットであり、唯一の姿からなり
ブッディ(理性、知性。前世と今生で獲得した善悪の判断基準)
などを目撃して、微細および
粗大とは異なったもの。
そして「私」という言葉で示唆される存在で
内なるものであり、「永遠の至福」の顕現である、
それが至高のアートマンなのだ。

352。
啓示を受けし者は、
こうしてサットとアサット
(非実在。永遠には存在せず、たえず変化する
もの)を見極めて
内在するボーダ(智慧、悟り、意識)の眼で真理を観じて
「自身」であるアートマンは、
不可分なるボーダ(智慧、悟り、意識)だと知り
すべての束縛から解放されて、平安に至るのである。




ニルヴイカルバ・サマーデイ

353。
変転性の消滅したサマーディを通して
不一二元であるアートマンを観たならば
心に存在する無知の結び目は
完全にまで断ち切られるであろう。

354。
二元性はなく、属性を持たない、最高のアートマンの中に
不完全なブッディ
(理性、知性。前世と今生で獲得した善悪の判断基準)ゆえに、
「あなた」、「私」、「これ」などの概念が想像されるのだ。
だが、
サマーデイの中でそれが輝いたなら、
その者は「現実」の真理を悟り
それら変転した思いは、
完全にまで滅ぼされるだだろう。

355。
平安に満ちて、感官を制御し、
心を完全に引き戻して、相対する二相にも耐え
たえずサマーディを実践する求道者は、
自分は全なるアートマンの性質を持つと
察知するだろう。
そして無明という闇で生じた概念を、灰と燃やして
行動を超越して、
変転せずに、喜びに満たされ、ブラフマンの中に
とどまるだろう。

356。
精神統一を得て、
外界、耳などの器官、心、
そして「自身」と思われたアハンカーラを
チットであるアートマン
(人間の本体。客体化できない認識の主体)
に帰入させた者だけが
「この世に生まれる」という、
縄の如き束縛から解放されるのであって
聞き語りをするだけの者には、
それは不可能なことなのだ。

357。
人は多様なウパーディ
(ある存在に属性を与えて、それを制限するもの)と
結び付くことで、自分は別のものと考えるのだ
だが、それらウパーディ
(ある存在に属性を与えて、それを制限するもの)が
除かれたなら、
その者は「唯一なるもの」として
とどまることができよう
それゆえ、
よく学びし者ならば、ウパーディ
(ある存在に属性を与えて、それを制限するもの)
を消し去るようたえず、
無限とも言えるほど、
サマーデイの実践に励むべきなのだ。

358。
キータカがブラマラを思って
自分がブラマラへ変貌するように
一心に集中して、サットに献身することで
自分自身がサットになることができるのだ。

359。
キーカタが、他のすべての行動への関心を捨てて
その蜂を瞑想することで、
自分自身がその蜂へ変貌するように
ヨギーも、最高のアートマンという真理を瞑想し
それに一心集中することで、
それを獲得することができるのである。

360。
最高のアートマンという真理は、
まことに精妙なもので
粗雑なものしか観じられなければ、
それは理解できないだろう
サマーディを通して最高度に純粋なブツディ
(理性、知性。前世と今生で獲得した善悪の判断基準)
を獲得し精妙な境地に至った
、そのように気高き者だけが、
それを知ることが
できるのである。

361。
金が火で熱せられて不純物を除かれそれ
本来の輝きを取り戻すように
瞑想を通して、サットヴア
(純質、善性。サットの性質を持つもの)
、ラジャス、タマス
(暗質、翳質。無知に支配された性質)
という汚れを除くなら
心はその真理を獲得できよう。

362。
不断の実践で浄化されるや
心はブラフマンの中へ溶けていき
変転性が消滅したサマーデイへと至って
「二元性なき至福」という美酒を、
おのずから体験できよう。

363。
このようなサマーデイに至るなら
ヴアーサナーは、その結び目もろとも、
全て断たれて、カルマも終息を迎え
自分の内と外、
そしてどこでも、
また何時においても
「自身」の本質が
自然と顕現するだろう。

364。
聖典を聴講するよりも
マナナ(神理の言葉をたえず思い、その意味を理解すること)
は百倍も優れ
ニディディヤーサナ(瞑想。たえずアートマンに専念すること)は、
マナナより十万倍も
優れていよう、だが、
ニルヴイカルパ・サマーデイの功徳は、
無限大のものなのだ。

365。
人はニルヴィカルバ・サマーデイに至ることで
ブラフマンという真理を、明瞭に、確実に知ることができて
それ以外の方法では、
それは不可能なことなのだ。
なぜなら、心とは不確かなもので、
容易に他の認識と混じり合うからだ。

366。
それゆえあなたは、
サマーディにとどまり、感覚器官を制御して
途切れずに心を平安に保ち、それを内へ向けて
自分はサット(実在。永遠に存在するもの。
ブラフマンの本質の一つ)と
一つだと眺めて
始まり無き無明という闇を破壊するかよいだろう。




ヨーガ

367。
ヨーガの第一歩は言葉の制御で
次に、所有物を求めぬこと。
望みを持たないこと、
動機ある行為を為さないこと。
たえず一人の状態ですごすこと、
が挙げられよう。

368。
一人の状態ですごすなら、
それは感覚器官の制圧に役立ち
そのような制圧は、心の制圧へとつながり、その結果、
心からは自己本位なヴアーサナーが消えていこう。
そのようなヨギーは、
やがて「ブラフマンの至福」という美酒を経験すること
ができよう
それゆえ聖者ならば、
常に注意深く、
心を鎮めるよう努力すべきなのだ。

369。
言葉は心において制御し、
その心は、ブッディ(理性、知性。前世と今生で獲得した
善悪の判断基準)において制御する。
さらにそのブッディ
(理性、知性。前世と今生で獲得した善悪の判断基準)は、
ブッディの目撃者において管理する。
最後にそれを、変転することなき、
完全なアートマンへ没入させたなら
その者は最高の平安を得ることができるだろう。

370。
肉体、プラーナ、器官、心、ブッディ
(理性、知性。前世と今生で獲得した善悪の
判断基準)など
それら如何なるウパーディ
(ある存在に属性を与えて、それを制限するもの)
であろうと
白分の想念活動をそれに結び付けたなら
そのヨギーは、その性質を受け継ぐのである。

371。
それらを完全に止めたなら
その聖者は、あらゆるものからの撤退という
喜びを得ることができて、
永遠の至福という美酒を体験できると、そのように観られよう。




ヴアイラーギヤ

372。
内的な捨離と外的な捨離は
超然となった者にこそ相応しいだろう。
超然となった者だけが、自身の解放を求めて
内的、および外的な執着を捨ててしまうのだ。

373。
外的なものとは、感官の対象への執着で
内的なものとは、アハンカーラなどへのそれだろう。
超然となった者だけが、ブラフマンに確立されて
それらを捨離することができるのだ。

374。
よく学びし者よ、このことを真に理解するがよいだろう。
ヴァイラーギヤ(離欲、無執着)と
ボーダ(智慧、悟り、意識)は,烏が持つ
二枚の羽なのだと。
この両者を備えなければ
解放という宮殿の頂に上ることはできないだろう。

375。
強きヴアイラーギヤ(離欲、無執着)を得た者だけが、
サマーデイに至ることができて
サマーデイに至つた者だけが、堅固に悟りの境地に留まれよう
そうして真理を悟った者だけが、束縛から解放されて
そのように解放された者だけが、永遠の喜びを体験できるのだ。

376。
よく自己を制御した者にとっては、
ヴアイラーギヤ(離欲、無執着)ほどに、
喜びを生み出すものはないと見られよう。
そしてそれがアートマンの明瞭な悟りと結び付くなら、
その者は、自分自身と他のすべてに対する主人となれるだろう。
まことにこれこそが、
永遠の若さを持つ乙女のごとき、
解放への入り口なのだ。
それゆえあなたは、究極の幸福の為に、
どこにあろうと無執着にとどまり、
常に真実のアートマンに思いを定めて、
この最高智を実践すべきだろう。

377。
まるで毒のごとき、感官の対象への欲望を断ち切るのだ、
それはまさしく死の姿なのである。
自分のヴァルナ(カースト制度のこと)、
家族、アーシュラマ(男子ヒンドゥー教徒が通過
する人生の段階)
への愛着を捨離して、行動を遠くへ放り捨てるのだ。
そして肉体などのアサット
(非実在。永遠には存在せず、たえず変化するもの)を、
自分と思うのを止めて、
アートマンに関する、最高智を実践するがよいだろう。
なぜならあなたは、「現実」においては、観る主体であり、
心を持たずに、二元性なき、至高なる、ブラフマンそのものだからだ。

378。
自分の目標であるブラフマンに、
確固として心を定めて、外的な器官をそれぞれの場所
に押しとどめ
姿勢を正して、かつ身体の維持を気にせずに
ブラフマンとアートマンが一つの境地を獲得して、
途切れることなく、たえずそれに
吸収されて
自らの内にて、「ブラフマンという至福」の美酒を体験する、
そのような者ならば、
如何なる理由で、他の虚しき喜びを求めるだろうか。



瞑想の対象

379。
非アートマンなるものを思うのを止めるのだ。
それらは悪そのもので、必ず悲しみをもたらすのだ。
そして「至福」の顕現である、アートマンを思うがよいだろう。
なぜならそれこそが解放への手段だからだ。

380。
自ら輝く、全ての存在の目撃者であり
ヴィジュニヤーナマヤ・コーシャの中で永遠に光を放っている
アサット(非実在。永遠には存在せず、たえず変化するもの)
とは異なったこれを、
自分の目標として
他の思いで逸らされずに、
そのアートマンを静観すべきだろう。


381。
如何なる思いにも邪魔されずに
決して途切れずに
これを思って、これこそが自分の本質だと
明瞭に、そのように真に理解すべきだろう。

382。
これこそが自分だという思いを強化して
アハンカーラ(自我意識。「私は」という、自分にとらわれた思い)
などを捨て去り
壊れた壷に接するように
それらには無関心に留まるのだ。

383。
完全に清められた内的器官を、「自身」の本質であり
目撃者である、「理解する」というボーダ
(智慧、悟り、意識)の塊に留めおき
その後、ゆっくりと、徐々にそれを鎮めて
完全な状態にある自分を、よく眺めるがよいだろう。

384。
肉体や器官、プラーナ、心、アハンカーラなど
それらはすべて無知の産物であり、それゆえ、
これらのウバーディ
(ある存在に属性を与えて、それを制限するもの)を持たない
マハー・アーカーシャのように区分できない本質からなる
完全なアートマンを眺めるかよいだろう。



唯一なるもの

385。
壷や水差し、穀物庫、針の穴などから
それらに備わる無数のウバーディ
(ある存在に属性を与えて、それを制限するもの)
を除けば
そこにあるのは唯一の大気であり、
多くの大気などは存在しないように
アハンカーラなどを除けば、純粋であり、
最高のものは、唯一のものなのだ。

386。
ブラフマー神から草の葉までの
それら全てに備わるウパーディ
(ある存在に属性を与えて、それを制限するもの)は
偽りのものなのだ。
「自身」であるアートマンは、完全で
唯一のアートマンであることを、見るようにするのだ。

387。
何かの上に、妄想ゆえに想像されたもの
それは識別するなら、
「それ」そのものがあり、
「それ」と異なったものは無いと
理解できよう。
妄想が消えたなら、
妄想ゆえに観られた「真実」の如きものも消滅して、
「縄」が表れてくるだろう。
同じように、世界はまことに、
アートマンの本質そのものなのである。

388。
「自身」はブラフマーであり、「自身」はヴィシュヌなのだ。
「自身」はインドラであり、「自身」はシヴアなのだ。
そして「自身」は、この宇宙のすべてなのだ。
「自身」以外には、何一つとして存在しないのだ。


389。
「自身」は内にあり、「自身」は外にもある。
「自身」は前にあり、「自身」は後ろにもある。
「自身」はまことに、南にあり、「自身」は北にもあるだろう。
同じように「自身」は、上にも下にもあるだろう。

390。
波や泡沫、渦巻き、水泡などは
本質においてすべて水であるように
肉体から始まり、アハンカーラに至るそれらすべては、チット
(ブラフマンの本質の一つで、智慧、意識)などを指すなのだ
すべての存在は、唯一の本質からなる、最高に清らかな
チット(ブラフマンの本質の一つで、智慧、意識)などを指すだけなのだ。

391。
心と言葉で認識される世界は、
すべてサット(実在。永遠に存在するもの。ブラフマン
の本質の一つ)なのだ
プラケリティ
(物質原理、根本原質。全ての物的存在の原因。ブラフマンの物質的顕れ)
の彼方に行こうと、そこにはサット以外、存在しないのだ。
壷や水差し、桶などは、
「土」とは別のものと認識されようか?
人はマーヤーという風に吹かれて
妄想を抱き、
「あなた」とか「私」と語るのである。



ブラフマンとして生きる

392。
聖典は、「他に何も一という聖句において
多くの述語を用いて二元性の無いことを宣言していよう。
それは仮相であるアディヤーサ
(対象の上に、迷いゆえに別のものを見ること)
を除くためなのだ

393。
アーカーシャのように、穢れなく、変転せず、制限されずに
動きはなくて、変異することがない
内も外もなくて、第二のものはなく、
二元性はない「自身」である、
至高なる、そのブラフマン以外に、
何を悟る必要があるだろか?。

394。
このことについて、もはやこれ以上語る必要があるだろうか、
ジーヴァは、それ自自身身、ブラフマンでしかないのだ。
まことに、
広大な広がりを持つこの世界は、
ブラフマンそのものなのだ、
聖典は宣言していよう、
ブラフマンは
唯一不二であることを
外界との関わりを捨てて、
「私はブラフマンでしかない」という悟りを得た者は
必ずやブラフマンとなって、
チット(ブラフマンの本質の一つで、智慧、
意識などを指す)であり、
「至福」そのもののアートマンとしして生きていくだろう、

395。
汚物の詰まったコーシャ(鞘)の中で、
アハンカーラ(自我意識。「私は」という、
自分にとらわれた思い)
に唆されて生じた望みを滅ぼし
その後、勢いよく、空気のような、
微細な身体ゆえに生じたそれも滅ぼすのだ。
そして聖典にて賛美される、途切れることなき「至福」の化身
それが自分だと習知して、
ブラフマンとしてとどまるがよいだろう。

396。
死体に過ぎぬ肉体を賛美する限り、その者は不浄となり
誕生や死、病気という、自分以外の存在によって、
苦しみを経験させられよう。
だが、本当の自分は、純粋で、
吉祥な、不動なるものだと察知したなら
聖典において証明されるように、
必ずやそれらから解放されよう。

397。
自らのアートマンの上に重ね合わされた
「現実」のように見える、それらすべ
てを除いたなら
完全で、二元性はなく、行動することのない
至高のブラフマンである、自分だけが残るだろう。

398。
心の活動が鎮められて、それが、至高のアートマンである。
変転することなき、ブラフマンに安住したなら
それらの相違は、もはや観られなくなるだろう。
そこには単なる無駄話だけが残るのだ。




唯一の「現実」

399。
唯一の「現実」」の上に想像された
この宇宙は、アサット・カルパ(非実在)に過ぎないのだ。
変異せず、姿を持たずに、特性を持たない
そのようなものに、どうして区分が存在しようか?。

400。
:唯一の「現実」の中には
観る主体、観る行為、観られる対象は存在しないのだ。
変異せず、姿を持たずに、特性を持たない
そのようなものに、どうして区分が存在しようか?。

401。
唯一の「現実」は満々と広がり
まるでカルバ(非実在)の終わりに出現する海のようだ
変異せず、姿を持たずに、特性を持たない
そのようなものに、どうして区分が存在しようか?

402。
暗闇が光輝に吸収されるように
妄想の原因はその中へと消えていく
唯一不二なる、「最高の真理」であり、特性を持たない
そのようなものに、どうして区分が存在しようか?

403。
唯一なら「最高の真理」の中に
どうして差異の話題があり得ようか?
喜びそのものである深い眠りの中で
差異の存在を眺めた者がいるだろうか?

404。
真実のアートマンである、変転することなきブラフマンの中には
「最高の真理」を悟った暁には、
この宇宙は存在しなくなるだろう。
三つの時の区分にて、
「蛇」は「縄」の中に見られず
蜃気楼の中には、
水は一滴でさえ存在しないのだ。

405。
二元性(見る者と見られるものという二元のこと)
はマーヤーそのもので
「最高の事実」は不一二元なのだと
聖典はこのように宣言していよう。
このことは深い眠りにおいて、直接に認識することができよう。

406。
何かの上に重ね合わされたものは
その基礎の何かと同じだと、
賢明なる者によってそう認知されていよう。
「縄」の上に見える「蛇」のように
妄想ゆえに変転性が存在するのである。

407。
このような変転性は、心にその原因があり
心が消滅すれば、それらは存在しなくなるだろう。
それゆえ、我々(鏡としての私達)の内の存在する
至高のアートマンに、心を集中させていくのだ。


408。
永遠のボーダ(至高の叡智)であり、
絶対的な「至福」の体現。
何とも比較できずに、全てを超越して、
永遠に解放されており欲望は持たない
天空のように限界はなく、部分から成らずに、
変転することが無い完全なるブラフマンを、
覚知を得た者は、以上のように、
サマーディを通して、心の中で察知しているのだ。

409。
プラクリティ(受け継いだ体質)も
ヴィクリティ(体質の乱れ)も無くて、
如何なる想像
も及ばない
均質であり、何にも凌駕されずに、
あらゆる思慮との繋がりを持たない
聖典の言葉にて証明されて、
永遠で、我々にとって身近なもの
完全なるブラフマンを、覚知を得た者は、
以上のように、サマーディを通して、
心の中で察知しているのだ。

410。
朽ちず、滅びず、すべての非存在が駆逐された、
「現実」そのもの
波一つ立たない水面のように静かで、名称を持たない
グナ(人間を縛る精神的要素。
サットヴア、ラジャス、タマスの三種ある)の変異は
鎮められて、
途切れずに存在し、平安に満ちた、唯一なるもの
完全なるブラフマンを、覚知を得た者は
、以上のように、サマーディを通して、
心の中で察知しているのだ。





アートマンだけを静観する

411。
内的器官を「自身」の本質へ集中させ
無限の栄光を持つアートマンを眺めて
「この世の生」という香りがこびり付いた束縛を、努力して断ち切り
人間としての誕生を全うするがよいだろう。

412。
すべてのウパーディ(属性を与えるもの)から解放されて
サット(真の実在)とチット(至高の叡智)、「至福」であり、二元性を持たない
あなたの内に存在する、そのアートマンを静観するのだ。
そうするならあなたは、二度とこの世に生まれてこないだろう。




肉体への愛着を棄てる

413。
肉体は過去の行為の結果であり
人間にとっては影のようなもので、
ただそのような姿で観察されるだけなのだ。
それゆえ偉大な魂は、それを死体のように遠くへ放り投げて
もはやそれには執着しないのである。

414。
永遠で、穢れなきボーダ(至高の意識)であり、
「至福」である、それと結ばれて
意思を持たすに、ウパーデイ(属性を与えるもの)に過ぎない、
不浄なるこれを捨てるのだ。
そして二度とそれを思い浮かべないことだ。
一度吐き出したものは、思い出すだけで吐き気を催すだろうから。

415。
真実のアートマンであり、変転せず、ブラフマンという炎により
肉体をそぎ、根もろとも燃やしたなら
覚知を得たその最高者は、
永遠の、純粋なるボーダ(至高の意識)であり
「至福」そのものの、アートマンとしてとどまるだろう。

416。
プラーラブダ(今世に現れるカルマ)の糸で
編まれた肉体が、朽ちようと、またとどまろうと
牛の首にかけられた花輪のように
真理を覚知したその者は、それを見ることはないだろう。
なぜなら彼の想念活動は、「至福」に満ちたアートマンである、
ブラフマンの中に吸収されたからだ。

417。
「無限の至福に満たされたアートマンが
まさしく自分の本質と理解したならば
真理を覚知したその者は、何を求めて、また何のために
自分の肉体を甘やかせようとするだろうか?



最高の成就

418。
完全な完成を得て、
ジーヴアンムクテイ(生前解脱)に至ったヨギーは
次のような結果を手にするたろう
つまりその者は自分の内と外において
「永遠の至福」という美酒を経験できるのだ。

419。
ヴアイラーギヤ(無執着)の結果はボーダ(至高の意識)であり
ボーダ(至高の意識)の結果は
ウパラティ(外的対象から心を引き離すこと)だろう。
「内なる至福」の体験からは
シャーンテイ(豊穣,秩序,静穏,平安)が訪れるが
これはウパラティ(外的対象から心を引き離すこと)の
結果なのである。

420。
もし後から後へと生じる結果が無いなら
先から先にと為されたものは無意味だったと言えよう。
世俗的活動からの撤退と、最高の満足
比類なき喜び、これらは自然と生じるはずである。


421。
悲しみを観ても、心が乱されないこと。
これは、明知に関連する結果だろう。
自分が妄想にあった時に為した
それら多様な悪しき行為を
ヴィヴェーカ(聖なる識別)を得たならば
どうしてふたたび為すであろうか?

422。
明知の結果は、アサット(非実在・妄想)からの撤退で
無知の結果は、それらへの従事だろう。
この事は、蜃気楼について知る者と知らない者の例にて理解されよう。
さもなくば覚知を得たその者は、
どのような他の明瞭な結果を得るだろうか。

423。
心にある無用の結び目を
完全にまで断ち切り
無欲となったその者を、もはや如何なる感官の対象が
この世的活動に向かわせようか?

424。
楽しみを求めてヴアーサナーが生じないこと。
これがヴァイラーギヤ(無執着)における成就だろう。
「私は」という思いが全く生じないこと。
これはボーダ(至高の意識)における最高の成就だろう。
想念活動が鎮められてそれが再び現れないこと。
これはウパラティ(外的対象から心を引き離すこと)
の最高峰と言えよう。

425。
ブラフマンに吸収されて、そこに永遠にとどまり続けた結果、
外界の対象をもはや意識せずに
他の者が喜ぶような感官の対象に対しては、
眠りに落ちた者や赤子のように、
それらをただ享受するだけとなり
この世界を見る時には、
夢の中のもののように、その時々においてそれらを見る者
そのような人は非常に稀有であり、
彼は無数の善行の結果を享受する、祝福された者と言えて、
世の人々からの尊敬を受けるだろう。




最高智とは

426。
最高智に確立された者は永遠に続く「至福」を楽しみ
ブラフマンの中に「自身」を吸収されて
変異を経験せず、完全に行動を超越しているだろう。

427。
ブラフマンとアートマンは
精細に探求した結果、一つのものだと認めた
そのような想念活動が、決して変転せず、
チット(完全なる智慧)そのものとなっている。
そのような境地が最高智と呼ばれて
たえずその境地にとどまる者が
「最高智に確立された者」として知られるのだ。



ジーヴアン・ムクタ(生前解脱)

428。
その最高智の境地が決して揺らがず
その「至福」は途切れることかない。
そして現象世界を、まるで忘れてしまったような者。
そのような者は、
ジーヴアン・ムクタ(生きている間に解脱した魂)
だと判ぜられよう。

429。
たえず吸収されていても、しっかりと目覚めて
なおかつ覚醒時の特徴を持たない。
そしてそのボーダ(至高の意識)からは、
全てのヴアーサナーが消えている。
そのような者は、
ジーヴアン・ムクタ(生きている間に解脱した魂)
だと判ぜられよう。


430。
サンサーラの影響は鎮められ、
部分から構成されても、部分を持たずに
心からは不安が無くなっている。
そのような者は、ジーヴアン・ムクタ(生きている間に解脱した魂)
だと判ぜられよう。

431。
肉体の中に宿っても
それは影のようにその者に付き従うだけで
彼自身は「私は」とか「私のもの」という思いを持たない。
そのような事が、
ジーヴアン・ムクタ(生きている間に解脱した魂)
としての徴だろう。

432。
過去のことに思いをきらさずに
未来のことを思い患わない。
そして現在のことに関しては、超然としている。
そのような事が、
ジーヴアン・ムクタ(生きている間に解脱した魂)として
の徴だろう。

433。
この世には善と悪が混在して
それぞれは独自的で、互いに異なっていても
それらのすべてを、平等な眼で観ることができる。
そのような事が、
ジーヴアン・ムクタ(生きている間に解脱した魂)
としての徴だろう。

434。
好ましきこと、疎ましまことに接しても
心の中では平等な気持ちを保ち
その両者のどちらにも動かない。
そのような事が、ジーヴアン・ムクタ
(生きている間に解脱した魂)
としての徴だろう。

435。
「ブラフマンの至福」という美酒を味わうことに
その求道者の心はたえず浸りきっているゆえに
自分の内と外をもはや理解しなくなる。
そのような事が、
ジーヴアン・ムクタ(生きている間に解脱した魂)
としての徴だろう。

436。
肉体や器官などが為す義務的な活動に際して
「私のもの」とか「私は」という思いを持たずに
それらに無関心なままにとどまれる。
そのような事が、
ジーヴアン・ムクタ(生きている間に解脱した魂)
としての徴だろう。

437。
アートマンはブラフマンであると
聖典の権威によってそう理解しており
「この世に生まれる」
という縛りから完全に解放されている。
そのような事が、
ジーヴアン・ムクタ(生きている間に解脱した魂)
としての徴だろう。

438。
自分の肉体や器官に関して「私」だと
それ以外のものに関して「これ」だと
どのような状況にあっても、その様に思わなくなる者。
その様な者は、
ジーヴァン・ムクタ(生きている間に解脱した魂)
だと判ぜられよう。

439。
内なる存在とブラフマンの間
ブラフマンと想像世界の間
それらの間に、最高智に確立された結果、
全く差異を認めなくなる。
その様なことが
ジーヴアン・ムクタ(生きている間に解脱した魂)
としての徴だろう。

440。
善良な者に褒め称えられても
悪意あるものに危害を加えられても
どちらにも等しい気持ちでいられる。
その様なことが
ジーヴアン・ムクタ(生きている間に解脱した魂)
としての徴だろう。





解放された者

441。
感官の対象が
自分に向けられても、川の水が海に流れ込むように
さっとそのものとなった結果
それらによって少しも変化を経験しない者。
その様な求道者が、真に解放を得た者と呼べるのだ。

442。
ブラフマンの真理を理解した者は
それまでのようには、サンサーラを経験しなくなるだろう。
もしそうでないなら、
彼はいまだブラフマンの状態を理解しておらず
思いがまだ外界に向かつている者と言えよう。

443。
前世からのヴアーサナーゆえに
彼はまだサンサーラを経験するというなら、そうではない。
なぜならその者はサットと一つだと真に理解した結果
ヴアーサナーは力を弱められてしまったからだ。

444。
非常に好色な者であっても母親の前では、
そんな思いは抑制されよう。
同じように、完全な「至福」を持つブラフマンを知ったなら
その聖者も、そのようになるのである。



カルマの消滅

445。
ニディディヤーサナ
(瞑想。たえずアートマンに専念すること)
に専念する者であっても
外界を意識することが知られていよう。
聖典によるなら、
これはプラーラブダ(前世で作られたカルマのうち、
今生での自分を形成するに至ったもの)
ゆえであり
このことは実際の結果において観られるだろう。

446。
その者が喜びなどを経験する限り
彼のプラーラブダ(前世で作られたカルマのうち、
今生での自分を形成するに至ったもの)
はまだ残っていると判ぜられよう。
なぜなら、すべての現れた結果には、
それに先んずる行動があり
その行動が無ければ、結果は生じないからだ。

447。
だが「私はブラフマンだ」と理解したなら、
夢の中での行為が、目覚めるやすべて消えていくように、
無数の転生の過程で身に着けた
それらサンチタ・カルマ
(転生の過程で積み重ねられたカルマ)は、
すべて
消滅するだろう。

448。
夢の中で為された、それら如何なる
善良な行為や、おぞましき悪行であろうと
ひとたび夢から醒めたなら、
如何にしてその者を天国や地獄へと向かわせようか?。

449。
「自身」は空間のように何とも関係せず、
無執着と悟っているゆえ
これから為される、如何なる自分の行為とも
彼は全く関係が無くなるのである。

450。
空間は、壷に触れたからといって
そこにある酒の匂いには汚されないように
アートマンも、ウパーデイ
(ある存在に属性を与えて、それを制限するもの)に
触れたからといって
それが持つ性質には、少しも影響されないのだ。



放たれた矢

451。
弟子は質問した
「知識」を得る前に始まったカルマは、
「知識」を得たからといって、消えることはないでしよう、
それは結果を生まずにはすまないはずです。
ひとたび放たれた矢は、もはや引き戻すことは不可能でしょう。

452。
虎だと思って矢を放ったなら
あとでそれは牛を見誤ったと分かつても
もはや引き戻すことは不可能で
その失は非常な勢いで牛を貫いてしまうはずです。

453。
導師は答えられた
たしかにプラーラブダ・カルマ
(前世で作られたカルマのうち、今生での自分を
形成するに至ったもの)
は、強大な力を持っていよう。
それゆえ、覚知を得た者においては
、それはその結果を享受することで
相殺されよう。
そしてサンチタ
(転生の過程で積み重ねられたカルマ)、および
アーガーミ・カルマの両者は
完全な「知識」の炎によって燃やすことができるのだ。
だがブラフマンとアートマンは一つである事実を視て
それに吸収され、たえずその境地にとどまるなら
その者にとっては、
これら三種のカルマは、もはや存在しなくなるのだ。
なぜなら彼は
ニルグナ・ブラフマン
(属性を持たないブラフマン。主の身体から
発する大光明)そのものとなったからだ。

454。
ウパーディ(ある存在に属性を与えて、
それを制限するもの)
との同一視を止めて、
唯一なるものとなり
アートマンはブラフマンだと悟り、
そのアートマンとしてとどまった聖者
にとっては
夢から醒めた者は、
夢の中の出来事とは関係が無くなるように
プラーラブダ(前世で作られたカルマのうち、
今生での自分を形成するに至ったもの)
の存在について、
もはや議論の要は無くなるのだ。

455。
夢から醒めたなら、夢の中の身体や
その身体に関連するもの、
及びそこに現れた世界について「私」とか「私のもの」、
「これ」などとは思わずしっかりと目覚めて、
自分自身としてとどまるだろう。

456。
彼は、それら仮相なるものが
事実かどうか確認しようとは思わず
その夢の世界には固執しないと、そのように観じられよう。
もしそれら偽りのものに執心するなら
彼はいまだ夢から目覚めていないと判ぜられよう。

457。
同じように、至高のブラフマンとして生きる者は、
真実のアートマンとしてとどまり、その他には何も見ないのだ。
覚知を得たその者は、夢の中の出来事を思い浮かべるように、
食事などの日々の行為に対しても、そのように接するだけなのだ。

458。
確かに肉体はカルマによって形成されるため
それに関して
プラーラブダ(前世で作られたカルマのうち、
今生での自分を形成するに至ったもの)
の存在が考えられよう。
だが、同じことはアートマンには言えないのだ。
なぜならアートマンは無始であり、
カルマで形成されるのではないからだ。

459。
「生まれず、永遠であり、朽ちることかない」
聖典の誤りなき言葉は、このように語っていよう。
そのようなアートマンとしてとどまる者に
どうしてプラーラプダ
(前世で作られたカルマのうち、今生での自分を形成する
に至ったもの)
が考えられようか?。

460。
プラーラブダ
(前世で作られたカルマのうち、今生での自分を形成する
に至ったもの)
が、その意義を持つのは
肉体を自分と見て生きる間だけなのだ。
だが肉体が自分ということは賛同されず
それゆえプラーラブダ
(前世で作られたカルマのうち、今生での自分を形成する
に至ったもの)
は拒否されるのである。

461。
さらに、肉体に関してプラーラブダ
(前世で作られたカルマのうち、今生での自分を形成する
に至ったもの)
の存在を考えることも
それは全くの妄想に過ぎないのだ
あるものの上に重ね合わされたものが、
どうして実在すると言えようか。
そして実在せぬものに、その誕生があるだろうか?
さらに誕生せぬものに、その終わりが訪れようか?
それゆえ実在せぬものに、プラーラブダ
(前世で作られたカルマのうち、今生での自分を
形成するに至ったもの)
があるだろうか?

462。
無知から生じたものが、その原因もろとも
「知識」によって完全に滅ぼされたなら
この肉体がどうしてとどまり得ようか、と
そのような疑問を持つ愚か者には、次のように答えよう。

463。
聖典はそのような理解の悪い者のために
表面的な観点から、プラーラブダについて答えているのだ、と
だがそれは決して、啓示を受けし者に向けて
肉体などが実在すると諭しているのではないのだ。



多様性の否定

464。
完成されており、始まりも終わりもなく
何によっても測られずに、変化することがない。
それは唯一であり、そこには二元性はない。
まことにブラフマンには、多様性は存在しないのだ。

465。
サットの顕現であり、チットの顕現でもある、
「永遠の至福」の顕現であり、行動することかない。
それは唯一であり、そこには二元性はない。
まことにブラフマンには、多様性は存在しないのだ。

466。
我々の内にあり、唯一の本質からなる
完全であり、無限で、すべてに面して存在する。
それは唯一であり、そこには二元性はない。
まことにブラフマンには、多様性は存在しないのだ。

467。
それは拒否できるものでなく、受容するようなものでもない。
それは受け取るものでなく、守るようなものでもない。
それは唯一であり、そこには二元性はない。
まことにブラフマンには、多様性は存在しないのだ。

468。
属性を持たずに、部分から成らずに
最微よりも最微であり、変転することなく、穢れはない。
それは唯一であり、そこには二元性はない。
まことにブラフマンには、多様性は存在しないのだ。

469。
その本質は規定できずに
如何なる言葉や心でも、捉えられない。
それは唯一であり、そこには二元性はない。
まことにブラフマンには、多様性は存在しないのだ。

470。
サット(実在。永遠に存在するもの。
ブラフマンの本質の一つ)が満ち溢れて、
自身において完成されており
純粋であり、悟りの意識そのもの、他に比するものはない。
それは唯一であり、そこには二元性はない。
まことにブラフマンには、多様性は存在しないのだ。




導師と弟子

471。
あらゆる愛着から離れて、すべての楽しみを捨て
平安に満たされて、自己を完全に制圧した、
それら偉大な求道者たちは
最後にはこのように「最高の真理」を理解して
アートマヨーガにより、最高の喜びを獲得してきたのだ。

472。
あなたもまた、あなたの真の姿であり、「至福」の顕現である。
アートマンの本質に関する「最高の真理」について、
ヴイチャーラ(探求、熟慮。対象の真の姿を見極めること)
を実践することで。
心ゆえに想像された迷妄を振り払い
束縛から解放されて、悟りを得た者となり、
人生の目的を達成するがよいだろう。

473。
そして心が完全に静まったサマーディ(最高の平安の境地)を通して
明晰となつたボーダ(智慧、悟り、意識)の眼で、
アートマンの真理を見るのだ。
そして一点の疑いもなくそれが理解できたなら
耳にした聖典の言葉は、もはやあなたを迷わさないだろう。

474。
「自身」への無明の束縛から解脱することで、
「真実」と「知識」、「至福」の体現であるアートマンを獲得できることは
聖典の言葉、推論、導師の教えによって証明されていよう。
だが、自らの内で完成を得て、自分でそれを体験することは、もう一つの
証明と言えるのだ。

475。
束縛、解脱、満足
不安、健康、空腹など
それらは自分が体験して理解できることで
他の者の知識などは、示唆を与えてくれるに過ぎないだろう

476。
導師という方は、聖典のように
岸辺に立ち、弟子を導いてくれよう。
そして覚知を得た者は、最高智を用いて
主の慈悲に助けられて、その海を渡り切るべきなのだ。

477。
あなたもまた、自分で体験することで
「自身」である、制限されざるアートマンを知り
完成された者となって、それに対峙して
決して変転せずに、アートマンとしてとどまるのだ。

478。
全ヴェーダーンタの結論は、次のようなものである、
「ジーヴアと世界は、完全にブラフマンだけであり
解脱とは、その不可分なる姿にとどまることなのだ」と。
さらにブラフマンは唯一不二であることも、聖典によって証明されていよう。




弟子は解脱を遂げる

479。
このような導師の教えと、聖典の宣言
そして自らの推論によって、永遠なる「最高の真理」について理解すると
弟子は自らの感官を制圧して、その心は完全に定まり
今や不動の姿となって、アアートマンに確立されたのだった。

480。
そうしてしばらくの間
自分の心を至高のブラフマンに没入させた後。
彼はゆっくりと立ち上がると最高の喜びに満たされ、
次のように語り始めたのだった。

481。
「私のブッディ(理性、知性。前世と今生で獲得した善悪の判断基準)は消滅して、
想念活動も鎮まってしまいました。
なぜなら、ブラフマンとアートマンは一つだと発見したからです。
私はもはやこれも、そしてあれも、知ることがありません。
この限りなき喜びが如何なるもので、
どれほどのものか、とても知ることはできないのです。

482。
アムリタ(甘露)の如き至福に満たされた、
至高のブラフマンという海の素晴らしきは
言葉ではとても衣現できずに、心でも認識することはできないのです。
私の心は、まるで雹のように、その海の中へ落ちていき
その一滴としてそこに溶けて、その素晴らしき喜びに満たされているのです。

483。
世界はどこに行つたのでしょう?
誰かそれを取り除いたのでしよう?
そしてそれはどこに消えていつたのでしよう?
先ほどまで眼で観えていたのに
今はもうここには存在しない、これは何と不思議なことでしょう!

484。
何が拒絶すべきであり、何が受容すべきなのでしよう?
また何が異なっていて、何が区別されるというのでしよう。
「無限の至福」というアムリタに満たされた。
このブラフマンという大海の中では!

485。
ここでは、私は何も見ず、何も聞かず
何も知ることがありません。
他の如何なるものとも異なった、「永遠の至福」の体現である。
自らのアートマンとして、仔在するばかりなのです。

486。
ああ、わが導師よ、偉大なる魂よ、
幾度孟も幾幾度も、私はあなたに礼を
捧げるでしよう。
何一つ執着は持たれぬ、最高に真実である御方よ
あなたは永遠であり、二元性を持たれぬ、「至福」の権化なのです。
まことにあなたは、すべてを支える、
満々と湛えられし慈悲の海なのです。

487。
月の光のような、涼しげなあなたの眼差しにより
サンサーラ(輪廻転生。マーヤーに惑わされて、
生まれ変わりを繰り返すこと)
という熱でもたらされた、私の苦しみは消えてしまいました。
ほんの一瞬の間に、私は不滅の者となり
無限の栄光をもつ、「至福」そのもの。の、
アートマンの境地に至れたのです

488。
私は祝福されて、私は目的を遂げたのです。
そして私は、「この世に生まれる」という縛りから解脱できたのです。
私は「永遠の至福」の体現となり
私は完全な者になれたのです、
そしてこれらはすべてあなたのおかげなのです。
ダンニヨー・アハム、クリタ・クリティヨー・アハムヴィムクトー・アハム、
パヴアグラハー二テイヤー・アーナンダ・スヴアルーポー・アハムプ|ルノー・アハム、
トヴァダヌグラハー

489。
私は無執着となりました、
私は肉体から解放されたのです。
私は微細な身体からも自由となり、
もはや滅びることがありません。
私は最高の平安を得ました、私は制限されることがありません。
私にはもはや穢れはなく、永遠な者となれたのです。
(原文音訳)アサンゴー・アハム、アナンゴー・アハムアリンゴー・アハム、
アバングラ
アサンコー・アハム、アナンゴー・アハムアリンゴー・アハム、
アバングラプラシャーントー・アハム、アテントー・アハムアマラ・アハム、
チランタナ

490。
私は行為者ではなく、私は享受者でもありません。
私には変異はなく、行動もありません。
私は純粋な、ボーダ(智慧、悟り、意識)の顕現であり
私は唯一なる、祝福された者なのです。
アカルター・アハム、アボークター・アハムアヴィカーロー・アハム、
ァクリヤシュッダ・ボーダ・スヴアルーポー・アハムケーヴアロー・アハ厶、
サダーシヴア

491。
私は、見る者、聞く者、話す者、
行為する者、享受する者、それらとは異なるのです。
私は永遠であり、決して途切れずに、
行動を超えており、制限を受けずに
無執着で、完全な、
ボーダ(智慧、悟り、意識)である、アートマンなのです。

492。
私はこれでも、そしてあれでもなく、その両者を照らす光で
最高で、純粋な
内も外もなく、完全で
唯一不二である、ブラフマンでしかないのです。

493。
私は、他に比するもの無き、無始より続く真理であり、
「あなた」、「私」、「それ」、「あれ」といった概念を超え
永遠で、「至福」からなる、唯一の本質を持つ、「貞実」そのものの
唯一不二である、ブラフマンでしかないのです。

494。
私はナーラーヤナ、私は悪魔ナラカの殺戮者
私は悪魔トリプラの殺戮者、
私は最高のプルシャ。
(精神原理。人間の霊魂。主を最高のプルシャ)と呼ぶ
私は不可分なるボーダ
(智慧、悟り、意識)であり、すべての存在の目撃者
私は自分以外に支配者は持たずに、
「私は」とか、「私のもの」という思いを
持たないのです。

495。
私はすべての存在に、真の住人である、
知識として内在し、その存在を内と外から支えているのです。
私だけが享受する者であり、そして享受する対象で
先には、「これ」、「あれ」と、自分とは別と観ていた、
それらすべてなのです。

496。
私は限りなき喜びの海であり
そこではマーヤーという風に揺り動かされて
宇宙における様々な波が
次々と創られて、その後、消えていくでしよう。

497。
錯覚によって私に重ね合わされたものゆえに
人々は私の中に粗大などの概念を想像するのです。
部分から成らずに、
変転することなき「カーラ」(主が支配する「時」の車輪)
の中に
カルパ(億劫年)や、年、半球、季節などが想像されるように

498。
愚かな者が、ある対象の上に何かを見ても
それはその対象を、如何なる時であっても、穢すことかないでしよう。
蜃気楼の中に大洪水が現れても
それは決して砂漠を潤すことかないように。

499。
アーカーシャのように、私は穢れることがありません。
太陽のように、私は照らされるものとは別なのです。
そして山のように、私は永遠に不動なのです。
また海のように、私には限界は存在しないのです。

500。
大空が雲とは関係しないように
私は肉体とは関係しないのです。
それゆえ、どうしてそれに屈する、覚醒や夢眠、深い眠りが
私に影響を及ばせるでしょうか。

501。
ウパーディ(ある存在に属性を与えて、それを制限するもの)
だけが、現れては
消えていき
それだけが行為を味わい、経験して
それだけが朽ちて、そして滅んでいくのです。
だが、私はクーラ山のように、永遠に動くことかないのです。

502。
私は世俗的活動に向かうことも、
そこから撤退することもありません。
私は常に同一で、部分には分かれないのです。
大気のように、唯一で、自らのみで充満して、途切れぬものが
どうしてそのように促されるでしようか?

503。
どうして功徳と罪悪が、私に生じるでしょうか?
私には器官は無く、心も無くて、
変化を経験せずに、姿も持たすに
無限の喜びを体験しているからです。
かの聖典も宣言しているでしょう、「それらに影響されない」と。

504。
熱や冷たさ、幸いや災いが
ある者の影に触れたとて
その影とは別の本人には何
も影響を及ばせないでしょう。

505。
目撃する音は、自分とは別の
目撃される対象の性質には、少しも影響されないでしよう、
ランプと、それが照らす部屋の関係のように
それは変異せず、無関係なままにとどまるのです。

506。
太陽が行為の目撃者であるよう
火がすべてを燃やすように
そして「縄」が、重ね合わされた「現実」に関連付けられるように
金床のように変化を受けない、
チットそのもののアートマンである私は、そのよう
なものなのです。

507。
私は行為せずに、他に行為させません、
私は享受せずに、他に享受させません
私は観ることなく、他に観させません
私は自ら輝く、他に比するもの無きアートマンなのです。

508。
ウパーディ(ある存在に属性を与えて、それを制限するもの)が動くと、
そこに反射した像も動いて
それを見るや、理解力なき者は
太陽のように動かぬ像の本源を、動いたと考え
「私は行為音だ」、「私は享受者だ」、
「ああ、私は殺された」と思うのです。

509。
水の中だろうと、土の上だろうと
意思を持たぬ肉体などは、朽ちるにまかせましょう。
壷の中にある大気のように
私は肉体の性質には影響されないのです。

510。
行為すること、享受すること、狡猾なこと、酔うこと
愚かなこと、束縛されていること、解放されていること、など
これらはすべてブッディ
(理性、知性。前世と今生で獲得した善悪の
判断基準)
の変転であり、私にとっての「現実」ではないのです。
なぜなら私は、唯一なる、二元性なき、
至高のブラフマンだからです。

511。
プラクリティ(物質原理、根本原質。全ての物的存在の原因。
ブラフマンの物質的顕れ)
の中に、何十、何百、いや、何千もの変異が生じたとて
大空が雲には影響されないように
無執着なチット(ブラフマンの本質の一つで、智慧、意識などを指す)
である私は、それによって影響されないのです。

512。
アヴィヤクタ(未顕現。全ての物的存在の根源。
または祈りによって顕される現証)
から始まり粗大な要素に至る、それら宇宙にあるすべてが
単なる現れとしてそこに顕現して
大気のように微細で、始まりも終わりもない。
不一二元なるブラフマン、私はまさしくそれなのです。

513。
すべての支えであり、すべての「現実」を照らして
すべての姿であり、すべてに遍満するものの、すべてに広がる空無である。
永遠で、純粋な、静けさに満たされた、変転することなき
不一二元なるブラフマン、私はまさしくそれなのです。

514。
マーヤーにて生じる、それら無限の変化を超越して
我々の内にあり、普通の知性では捉えられない
「真実」、「知識」、「無限」、「至福」という姿を持つ
不一二元なるブラフマン、私はまさしくそれなのです。

515。
私は行動を超えており、私は変異することがありません。
私は部分から成らずに、姿を持たないので
私は変転することなく、私は永遠なので
私は支えを必要とせず、二元性を超えているのです。

516。
私は全なるアートマンであり、私はすべてなのです。
私はすべてを超越しており、二元性を持たないのです。
私は唯一の、不可分なるボーダ(智慧、悟り、意識)です。
私は、至福」であり、決して途切れることかないのです。

517。
ああ、気高くも偉大な魂であられる、わが導師よ!
あなたの、大いなる慈悲と恩寵によって
私はこのように素晴らしき、
自分とすべてに対する主体性を獲得できたのです。
幾度も、幾度も、私はその御足に礼を捧げるでしょう。

518。
延々と続く夢の中、マーヤーが生み出した、誕生と老い、死という森で
彷徨いながら
私は来る日も来る日も、多様な苦難に苛まれて
アハンカーラ(自我意識。「私は」という、自分にとらわれた思い)
という名の虎に苫しめられ続けてきたのです、ああ、けれども、わが導師よ、
あなたの慈悲によって、この深い夢から目覚めて、
救われることができたのです。

519。
ああ、最高位にあられる、わが導師よ!
その偉大さはとこしえに変わらず全宇宙として御自身を輝かせて
おられる
偉大なる御方よ、あなたに私はこの身を捧げるでしょう!




識別の宝玉

520。
このように立派な弟子が、自分の足元にひれ伏し
サマーディを通してアートマンの喜びを獲得し、ついに真理を悟ったのを
挑めると
偉大な魂の持ち主であるその導師は、
心は大いなる喜びに満たされ
次のような珠玉の言葉を、ふたたび語り始めたのだった。


521。
「我々が世界を認識しているのは、
結局はブラフマンを認識しているにすぎないのだ、
なぜならそれは全てブラフマンだからだ、
この事実を、あなたはいかなる環境においても、
内なる魂の眼と、平安に満ちた心で、
見なけれぱならないだろう。
視る力を持つ者にとっては、対象が持つ姿以外に、観るものは存在しな
いだろう
同じように、ブラフマンを覚知した者には、ブラフマン以外に、
自らのブッディを関与させる
ものは存在しないのだ。

522。
覚知を得た者ならば、如何なる理由で、
「最高の至福」という美酒を味わうことをせず
他の虚しきものを楽しまんとするだろうか?
最高に美しき月が輝いているならば
絵に描かれた月を眺めたいと思うだろうか?

523。
アサット(非実在)なものを体験したところで
そこには満足などなく、悲しみからの解放もないだろう。
それゆえあなたは、「二元性なき至福」という美酒を味わい、
真実のアートマンに確立されて、喜びに満たされ
、満ち足りたままにとどま
るがよいだろう。

524。
氣高き者よ、あなたは、何処においても
二元性なき「自身だけを見つめて、思って
「白身」に備わる「至福」を味わいながら
日々を生きていくよう努めるのだ。

525。
変転することなき、不可分なるボーダ(智慧・意識)
であるアートマンに、変転性が
あると見るのは
大空に都が浮かんでいると想像するようなものなのだ。
それゆえあなたは、「二元性なき至福」を持つアートマンとして、
永遠にとどまり
最高の平安を得て、その後、静寂の中に憩うがよいだろう。

526。
静穏そのものの境地は、最高の平安に満たされており
アサット(非実在)な概念と変転性の原因であるブッディ(知性・理性)は、
そこでは
鎮静化していよう。
ブラフマンを覚知する偉大な魂は、自分自身がブラフマンになることで
このような境地を獲得し、「二元性なき至福」という喜びを、
途切れることなく体験し
ているのである。

527。
自らの本質であるアートマンを理解し、
「内なる至福」の美酒を味わう者にとっては
すべてのヴアーサナー(前世での想念行為の結果、
心の中に潜在化した欲望)
が消滅した静寂の境地は、最高のもので
これよりも喜びをもたらすものは存在しないだろう。

528。
歩こうと、とどまろうど、また座ろうと、
そして横たわったりと、それら如何なる状況にあろうと
その覚知を得た聖者は、アートマンに喜びを見出して
永遠に、心の赴くままに生きていくだろう。

529。
心が何の障害にも適わずに、完全に真理を悟つた
そのように偉大な魂は、場所や時間、姿勢、方角、戒律
瞑想の対象などとは、もはや関係か無くなるだろう。
彼が白分の本質を覚知するのに、どんな規則が必要となるだろうか?

530。
「これは壷である」と理解することにおいて
どんな規則を考慮する必要があるだろうか?
それには、その為の認識手段が健全であればよいだろう。
そしてそれだけが対象を明らかとしてくれよう。

531。
このアートマンは永遠に存在しており
それは正しき認識手段によって顕現するのである。
時や場所、浄化の儀式などは
特に必要とはならないのである。

532。
「私はデーヴァダッタだ」と理解することは
如何なる状況にも依存しないだろ。
同じように、ブラフマンを覚知する者にとっても
その知識は、如何なる条件にも依存しないのだ。

533。
この世界を、あたかも太陽のように
自らの輝きにて照らすものを
非アートマンであり、アサット(非実在)である、
そのようにつまらぬものか
どうして照らすことができようか?

534。
聖典や経典、神話
いや、全ての被造物にその存在意義を与えている
その最高の「理解する者」を
他の何が照らし出すことができようか?

535。
アートマンは自ら輝き、無限の力を持っていよう
そしてすべての認識手段を凌駕するものの、
誰もが直接に体験できるも
のと言えよう。
これを理解して、束縛から完全に解放された
ブラフマンを覺知するその最高者は、最高の勝利者と言えるだろう。

536。
感官の対象はもはや彼を嘆かさず、喜ばせもしないだろう。
彼はそれらに愛着することも、嫌悪することもないだろう。
彼は常に自らにおいて楽しみ、自らにおいて喜び
途切れることなく、「至福」という美酒を味わい、そのことに満足しているだろう。

537。
子供は、空腹や身体の苦痛も気にせずに
おもちゃと楽しく遊ぶだろう。
同じように、覚知を得た者は、「私のもの」とか「私は」という思いを持たずに
喜びに満たされて、楽しく生きていくのだ。


538。
不安も、恥辱も感じずに、食べ物を受け取り
川の流れから水を飲む。
何にも制限されずに、自由に生きて
恐れることなく、火葬場や森にて眠る。
洗うことも乾かすことも必要のない、空気という衣を身にまとって
大地を自分の住まいとする。
そうしてヴェーダーンタ(ウパニシャットのこと)の大道を歩み
至高のブラフマンか、その覚知せし者の遊技場となるであろう。

539。
肉体を維持していても、それを自分とは見なさず。
他の意思にて現れた感官の対象を
アートマンを覚知するその者は、まるで子供の様に享受する。
そして眼に見える徴を持たすに、外界には無執着を貫いている。


540。
チット(至高の叡智)に覆われたその者は、空気だけを
または衣服を、それとも鹿皮を、身にまとっているだろう。
そして狂人のように、または子供のように
あるいは亡霊のように、地上を流離っていくだろう。

541。
欲望の対象の最中にあっても、欲望を持たずに
聖者はたった一人で生きていくだろう。
そして常に自らのアートマンに満足して
自分自身は全なるアートマンとしてとどまるだろう。

542。
ある時は愚か者のように、ある時は覚知した者のように
またある時は壮大なる王のように
そしてある時は狂気の人のように、
ある時は平安に満ちた人のように
さらにあるときは、まるで大蛇のように、彼らの生き方を取りながら
ある時は人々に尊敬されて、ある時は人々から蔑まれて
さらにある時は、誰にも認められずに
たえず最高の喜びを味わいながら
最高智を得た者は、この世を流離っていくのである。

543。
富は持たずとも、つねに満足して
助けは無くとも、いつも力に満ち溢れている。
楽しみの対象は無くとも、たえず喜びを味わい。
誰とも比較できずとも、誰をも平等の眼で観ている。

544。
為していても、為しておらず
結果を享受しても、享受者ではない
身体を持っていても、身体を持ってはおらず
限定されていても、あらゆるところに遍在している

545。
ブラフマンを覚知した者は
如何なる時であっても、身体を持つことがない。
それゆえ、愛おしきことにも、疎ましきことにも
良きことにも、悪しきことにも、彼は影響されることがない。

546。
粗大な身体などに結び付き、それらと自分を同一視した者が
喜びや悲しみ、良きことや悪しきことに影響されるのだ。
すべての束縛を断ち、真実のアートマンとなった聖者に
どうして良きことや、ましてや悪しきこと、
そしてそれらの結果か影響を及ばせようか?



547。
太陽は、暗闇に呑み込まれなくても
呑み込まれたように見えて、人々はそれを見るや
妄想ゆえに、それは呑み込まれたというだろう。
これは「現実」の本質を知らないからなのだ。

548。
同じように、肉体などの束縛から完全に解放された
ブラフマンを覚知した最高者の姿を見ても
愚かな人々は、彼は肉体を持っていると考えるだろう、
だがその肉体は、彼にとっては、ただの表れにすぎないのである。

549。
蛇が抜け殻を脱ぐように
彼は肉体の束縛を逃れて、なおもその中にとどまり
プラーナの力に動かされるままあちらへ、またこちらへと動いていくだろう。

550。
木は川の流れに流されるまま
高い、又は低い地へ流れていくだろ。
同じように、彼の肉体は「カーラ」(時間)の流れに流されるがまま
天の意思を享受していくのである。

551。
肉体からは解放されていても、
プラーラブダ・カルマ(今世に現れたカルマ)
で生じたヴアーサナーゆえに
サンサーラに支配される者のように、
感官の対象の中を流離っていくだろう。
だが完成を得ている為に、目撃者としてとどまり
回転する車輪の軸のように、概念に支配されずに、
変転することもないだろう。

552。
彼は、感官の対象に向けて感官を動かさずに
そこから引き戻しもせず、単なる観る者としてとどまり
行為の結果を、少しも期待することかないだろう。
なぜなら彼の心は、「内なる至福」という、
溢れるような美酒を味わい、そこに浸りきっているからだ。

553。
もはやいかなる意図も持たずに
唯一なるものである、アートマンとしてとどまった者、
彼はまことにシヴァそのものであり
ブラフマンを覚知した最高者だと言えよう。

554。
生きていても、彼は永遠に解放されており
完成を得て、ブラフマンを完全に覚知しているのだ。
ウパーディ(属性を与えること)が滅びるや、
彼はブラフマンだけとなり
二元性なき、ブラフマンを獲得するに至るだろう。

555。
役者は、衣装を着けても、着けていなくても、
同じ人物であることに変わりはないだろう。
同じように、ブラフマンを覚知した王であるその者は
常にブラフマンであり、それ以外ではあり得ないのだ。

556。
樹から落ちていく枯葉のように
肉体はどこであろうと、そこで朽ちるがよいだろう。
自分はブラフマンだと悟った、その求道者の肉体は
すでにチット(ブラフマンの本質の一つで
、智慧、意識)などを指すの炎で燃やされたからだ。

557。
真実のアートマンであるブラフマンにとどまり
完全で、二元性なき、「至福」に満ちたアートマンに
満ちたアートマンとなった聖者ならば
皮膚と肉、骨と汚物でできた身体を捨てるに際して
時や場所、状況などの条件を、
少しも考慮することがないだろう。

558。
肉体からの解放が解脱ではなくて
水壷や棒からのそれも解脱ではない。
解脱とは、あなたの心の中にある
無知という結び目を断つことなのだ。

559。
小川だろうと、大河だろうと
シヴア神の聖地だろうと、町の十字路だろうと、
木の葉がそれらどこに落ちようとも
樹にとってどんな良きことや悪しきことが生じようか?

560。
葉や花、果物が枯れていくように
肉体や器官、プラーナ、ブツディ(理性・知性)も滅んでいく。
だが「自身」の本質である、「至福」に満たされた、真実のアートマンは
樹と同じじように生き続けるのだ。

561。
「最高智そのものである」と
アートマンの本質について、そのように示唆されていよう。
そしてそれだけが「真実」であり
消えていくのはウパーディ(属性を与えること)
だけだと語られているのだ。

562。
「まことに、愛しき者よ、アートマンは不滅なのだ」と
聖典はアートマンについてさらに語っていよう。
そして崩壊に曝される、たえず変化するものの中で
それだけが不滅だと宣言しているのだ。

563。
石や木、草、穀物、藁などは
燃やされたら、すべて土に変わるだろう。
同じように、肉体や器官、プラーナ、心など、
それら観られる対象は
「知識」の炎に焼かれたなら、
すべて至高のアートマンとなるのである。

564。
暗黒は、それとはまったく異なった
太陽の輝きの中へ消えていくように
観られる対象のすべては
ブラフマンの中へ溶けていくのだ

565。
壷が壊れたなら、その中の空間は
もはや空間だけとなるのは、明らかなことだろう。
同じように、ウパーディ(属性を与えること)が滅ぼされたなら
ブラフマンを覚知する者は、
彼自身、ブラフマンだけとなるのである。

566。
牛乳が牛乳に注がれ、油が油に注がれ
そして水が水に注がれたなら
それらは結ばれ、一つとなるように。
アートマンを覚知する聖者も、
アートマンとそのようになるのである。

567。
こうして肉体を離れて、唯一なる者となり
区分できない、サット(永遠の実在)そのものである
ブラフマンの境地に至ったその正道者は
もはやこの世に戻ってこないだろう。

568。
サットとアートマンは一つと理解して
無明などで作られた身体を燃やしたなら
彼はブラフマンそのものとなるだろう。
どうしてブラフマンがこの世に誕生するたろうか?

569。
マーヤーがもたらす束縛と解脱は
「現実」である、自らのアートマンには存在しないのだ。
「蛇」が現れたり消えたりしても,
それによっては、「縄」は少しも影響されないように。

570。
アヴリティ(無明の持つ幻影の力)が存在するか否かで
束縛と解脱が語られるのだ。
だが、ブラフマンを覆うものは存在しないだろう。
なぜならそれを覆う、それ以外の実在は無いからだ。
もしそのようなものがあるなら、不一二元論は否定されよう。
そして聖典は二元性を認めていないのだ。

571。
束縛と解脱は、両者ともが偽りで、
ブッディ(理性・知性)の産物に過ぎないのだ。
だが、眼が雲で覆われただけなのに、太陽が消えたと思うように
愚かな人々は、それらを「現実」に当てはめてしまうのだ。
この不変なるものは、二元性を持たずに、無執着な、
チット(神の智慧)そのものなのである。


572。
その「現実」に関して
束縛がある、無いという概念は
プッディ(理性・知性)が属する状態に過ぎず、
永遠である「現実」には、それらの状態は存在しないのだ。

573。
束縛と解脱は、マーヤーゆえにもたらされて
そしてその両者はアートマンには存在しないのだ。
部分から成らずに、行動を超え、平安に満たされて
欠点は存在せずに、穢れも存在しない。
唯一不二である、「最高の真理」であり
大気の如きそれに、どうしてそれらを想像できようか?

574。
死はなく、誕生もなく
束縛されている者はおらずに、努力する者もいない。
解放を望む者はなく、解放された者もいない。
これが「最高の事実」なのである。

575。
全聖典の最上部、
我々に関する究極の本質
最も深淵なる秘密が、今日、私により、繰り返し、
あなたに明らかとされたのだった。
なぜならあなたは、このカリの時代に汚されずに、
心からすべての物的欲望が消えており
ああ、わが息子よ、解放を求めるに相応しき者とみなされたからだ。

576。
偉大な導師から、このような言葉を告げられと
その弟子は謙虚にその足元にひれ伏して
導師から許しを得ると
今やすべての束縛から解放されて、自分の道を歩いて行つたのだ。


577。
そして導師もまた「永遠の至福」の海に心を深く沈めると
全世界を祝福しながら
ひと時も休まずに、自分の道を歩いて行かれるのだった。




シャンカラの祝福


578。
以上のように、アートマンとは如何なるものか
解放を求める者が
それを容易に理解できるよう
教師とその弟子との対話という形で、説かれてきたのだつた。

579。
定められた手順に従い、すべての穢れを心から消し去り
この世的な喜びを嫌悪して、心は最高に平安となり
聖典に喜びを見出して、真に解放を求める人々が
この喜ばしき教えを、どうか受け取ってくれるように!