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どの思考?


いま考えているのはどの思考なのか?   どの思考が働いているのか?

この思考は脳の思考なのか?それとも肉体から拡がっている諸身体の思考であるのか?

思考は創造されたものであり、私の思考や、あなたの思考ではなく、それはただただ思考である

レベルがいろいろあっても

思考はなべて同じく自他に分離されている

思考とは「私という観念」でもあり、人類や生物が共有している

思考とは「自分は他人ではない」という観念でもある



けれども思考である限りは、それは必ず分離しており、分割されている

すなわち主体と客体に分割されている

そのようにして世界は出現しているのであろう

私とあなたに、私と対象に、それは映し出されている

が、しかしその思考とは意識ではないので

自他に分離し「私という観念」そのものであるものである


この思考、若しくは心は、必ず、分離する空間を含み、分離する時間を含んでいるから

対象を分離して認識する働きをしている。そして世界はそのようにして生み出されている


それ故に、この思考、若しくは心とは、「他と分離した主体」を、必然的に生み出す、

その主体が生み出されている


それが、行為している私であり、対象をみている私であり、対象を分離して知覚している私であり

思考している私である



思考によって「私という観念」が生み出され、行為の主体が生み出されている

そして、それ故に、カルマが発生し、輪廻は続くと云われている



作り出されたものは、作り出したものではないのか

「個人や人格」や、「他人と分離している私」とは、思考やマインドが生み出したのであり

その思考やマインドを生みだしたものでもある

それは

思考を生み出しているもの、その主体と客体の分離そのものである思考を生み出しているものである


・・・・・・では、翻ってそれらのことをいろいろと、思考しているのはどの思考であるのか、どの私であるのか


この現在の久保栄治の状態とは思考の状態であり

このことを思考しているのに過ぎず、

この思考の状態をありのままを「観ている」眼、若しくは、それを「理解している」ものではない


なぜなら、それらのことを思考しているのは肉体の頭脳の思考であり、このことを思考は思考で理解

しようとしているからである

けれども思考は、決して理解出来ないだろう



なぜなら

思考とは時間と空間で構成され、対象としてしか物事を把握できないからである

この対象として把握しようとしている思考では、思考への理解は決して生まれない


理解とは、すでに、ここにあるからであると云われている

なぜなら、私は息をしているからである



意識とは思考ではなくて、思考を超えている

この「観察者は観察されるもの」であることを理解しているものであり、

この分離している知覚とは思考であることを、理解している意識であると言われる


その理解とは時間を含まず、瞬時に全体を把握すると言われる

その意識とは、熟睡時にも続いている「息」の本体であり

「息」そのものであると教えられている



肉体の出産のはじめに呼気で肉体に入り

臨終で肉体から去るとき、吸気で肉体から去る私(息を引き取る私)



それが「息」の私であると

それが「観念の私」「人格や個人」ではない私

それが真の私である、とシャンカラは教えられている


その「息」の私は、熟睡時にも途切れることなく続いている意識であり

真の私であり

「見るものは見られるものである」を本当に理解している私である

その私とは思考や心が生み出している観念の私ではないと教えられている