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思考なくして見る


「思考なくして見る」、有名なるクリシュナムルティーの明示している「自己観察」である

「あるがままを見て、なろうとせず、在ろうとせずありなさい!あなたは既に在る!」

有名なるラマナ・マハリシの言葉である

しかしここで重要なることは、彼らは、何処にいて、どこから話しているかである

彼らは、私たちである「思考」、ではなくて「意識」から話している

彼らのいる場所は「覚醒・悟り」といわれる場所であり、彼らが話しておられるこれらの言葉は

意識からである。けれども、彼らが言語を使用して話していると云うことは

彼らは思考器官である現在のパーソナリティーを経て、脳である言語器官や脳の神経シス

テムを経て肉体の機能を使って話していると云うことなのである



彼らが思考ではなくて意識のことを話せるのは

彼らの脳や、彼らの現在のパーソナリティーというものが、私達と同じ肉体次元でも機能しており、それがゆえ

に私たちに向かって話せるからである。

けれども私たちと違っているのは彼らの脳や現在のパーソナリティーのそれは、我々と同じような器官では

あっても非常に波動が高く、高度の段階に達しており、純粋化され、条件付けから解放され

透明化されており、真の私と結合状態で機能しているということである。


彼らの話している彼らの「主体」とは、私たちの「真の主体」と全くの同一の主体であり、全く同じ真我であり

私たちが彼らと異なっているのは、私たちの脳と現在のパーソナリティーの状態なのである。


こういうことを聞くとこれに対して、私たちは即座に反応し、自我の私は真我実現しようと、真我に至ろうとして

藻掻き、すぐ獲得する方法を探しだし、その目的とその動機を持ってそのための手段と方法を探そうとする

それこそが自我であり、思考の働きであり、条件付けられた必然的な行動なのである。



○○の○○で脳を変えようとしたり、種々の瞑想を実践し、グルの元に近づきグルから何かを頂戴しようと

身をすり寄せ、グルから奪おうとし、その崇敬する神々の、グルの、教師の右側に座ろうとしたりする


しかし、そのような自我である「商売人の働き」からは決して真の私との繋がりは回復しない

それは売買できないし、私が何かをしたから神から与えられるなどの取引や、何かをすれば獲ることが

出来るようなものではない。

それには順序があるからだ。

それには、まずはじめに「私という思考」によって殆どが構成されている現在のパーソナリティーの

純度を高め、高速化し、神経を透明化し、自身の放っているヴァイブレーションがこの「未知なる私」である

ところの至高なる「思考なくして見る」「あるがままを見てあるがままにあるの私」との繋がりを回復

しなければならない。


そして、その繋がりが回復された結果として、「思考なくして見る」「あるがままを見てあるがままにある」の私

のほうから、現在のパーソナリティーは純粋化され透明化され、再チューニングされ、脳の条件付けが解放さ

れるに従って、現在のパーソナリティーは高度の気づきを「意識」できる様になってくるのではないだろうか



気づきとは「気づき」によって、条件付けが解消して脳が変わり、その結果、脳と結合している現在のパーソ

ナリティーの「思考」の純度が上がり、気づきを「意識」できるようになった、ということである。それは

現在のパーソナリティーが思考だけではなくて意識を意識できるほど波動が透明になったと云うことである。



では、そのためには、まずはじめに現在のパーソナリティー側の思考の方から働きかけを行う必要があり

その働きかけとは「至ろうとする」「なろうとする」「解脱しようとする」「真我実現しようとする」自我の働きを

自我の働きとして認知し、“真我を志向する思考”でもって思考自身を気づきの観点から観察することが大切となる。


この段階はクリシュナムルティーの自己観察という「気づき」による観照ではなくて、あくまで「観察者は観察

されるものである」の「思考による無限遠点からの観察」段階であるが

ここが大切である


この「自己という現在のパーソナリティー」を自己と云う現在のパーソナリティーが、

その「自己である現在のパーソナリティー内の無限遠点」から見ている・・・という状態である


思考が思考を、思考自らの無限遠点から観察している状態(これは観照ではない!観照とは気づきの働きであるから)

この状態が、自我側からの、即ち現在のパーソナリティー側による自己観察であり、「観察者は観察されるものである」

の段階である

この無限遠点からの自己観察とは、もちろんクリシュナムルティーやラマナ・マハリシなどの

気づきからの観照ではないし、あるがままを見ている状態ではないし、意識が思考を見ている状態でもないし、

さらなる段階の「意識が意識を見ている」状態ではない


けれども覚醒に至っていない現在のパーソナリティーにとっては

これこそが正しい道筋である。

即ち「思考なくして見ること」「あるがままをあるがまま見て、なろうとせず在ること」

これらのことを、「これは不可能である」とか、「彼は出来ない事を私たちに云っている」ではなく、

そのように「不可能なことだ」といっている私こそ自我であることを知るべきである


であるから現在のパーソナリティーは、その自我に従うことなく、自らの基底に向かうべきである

これが仏陀の八正道であり、正しく見る、正しく思う、正しく行う・・・である

この八正道の正しく見る、正しく思う、正しく行う、正しく瞑想するとは、

自身の根源、現在のパーソナリティーの基底、思考の根底である「意識」を志向しするということであり

思考が意識しようとすることであり、放蕩息子が父なる真我の元に戻ろうとすることである

自分の出てきた親である「気づき」を(「意識」を)、自分である思考が正しく見て、正しく思い、、正しく信じることである

これが正行である、正しい修行であり、

この実践方法こそ「思考なくしてあるがままを見る」「自分なくして自己を観察する」であり

即ち意識で意識を見ることである

このことこそが

ラマナ・マハリシのいう「なろうとせず、在ろうとせず、あなたはすでに在るのだ」の真実の自己の自覚に繋がっていくので

あると思われる




















































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































それは不可能だと言っている

私こそ自我であることを知るべきである。自我の出てきた大元・基底は意識なのであるから

であるから現在のパーソナリティーはその自我に従うことなく、自らの基底へと向かうべきである

これが仏陀の八正道であり、正しく見る、正しく思う、正しく行う・・・である

この八正道の正しく見る、正しく思う、正しく行う、正しく瞑想するとは、

自身の根源、現在のパーソナリティーの基底、思考の根底である「意識」を志向し,「意識しようとする」ということであり

それは思考が意識しようとすることである。

なぜなら思考は意識から生まれてきたからである。

思考が思考の生まれた元である意識へ戻ろうとすることである。

放蕩息子が父なる真我の元に戻ろうとすることである

自分の出てきた親である「気づき」である「意識」を、自分である思考が正しく見て、正しく思い、、正しく念ずることである

これが正行であり、修行である。、この実践方法は「思考なくしてあるがままを見る」「自分なくして自己を観察する」

であり「思考なくして自己を観照する」ことから離れないことである

この状態の時、この意識の時クリシュナムルティーのいう、思考なくして見ている自己が変容する!

思考なくして見ている自己と、見られている対象の自己が、意識のなかで主体と客体の分離という虚偽から解放され

見る事に中に意識が出現すると言われる、その意識とは思考ではなく意識であり

あなたと私に分離していない意識であり、そこに主体と客体の虚構は崩れ去り、意識が出現し、その意識こそ「愛」

である・・とクリシュナムルティーは言う。


ラマナ・マハリシのいう「なろうとせず、在ろうとせず、あなたはすでに在るのだ」の真実の自己の自覚に繋がっていくので

あると思われる