思考と心とは異なる
精神世界に於いては思考(マインド)と心(ハート・意識・精神)が混同されているのを良く見かける。
けれども思考と心は全く異なっている。
心は魂のものであり、思考ではなくて正しく見ていることに代表されるハートであるに、対して、思考はその心という魂の鏡
(意識の座)に去来しているエレメンタルであるものである。
けれども現在では殆どの心が思考によって混濁してしまっている。
思考とはマインドとも言われていて、脳で受け取っている思い、考え、感情、願い、欲望、記憶、印象、心象、観念などであり
その脳で受け取った思考・マインドは脳及び諸体に記憶され、脳内の統覚機能の魂が、その思考や「記憶の反応」を知覚し、
今度は「魂からの現在のパーソナリティー」がそれに対して反応し、さらにそれが心や思考として脳を通じて発せられているのが
通常に私達によって意識されている心や思考の状況である。心が思考によって汚濁しているのである。
(脳は総体的に見た場合、其れぞれの諸体の脳の部位が、魂の高次元の神経・プラーナと密接に絡んでいるから脳は正常に機能している。
脳は単なる物質的な脳だけで機能しているのではなくて、其れぞれの脳の部位器官はそれぞれの高次の脳や統覚機能と連携しているので
初めて機能できている。神経においても、物質的な薬物が劇的効果を与えることができるように、肉体の脳の神経も、精妙体の脳の神経
も相互に絡んでおり、物質的な薬物が精妙体に影響を与える事ができる様に、次元が相互に絡んで成立し機能している。
脳とは高次元からの神経や質料やプラーナが物質脳に相互に絡むことによって、初めて機能することが出来ているのである。
脳は次元をまたがって機能している複合器官であり、通常人の場合では統覚機能が松果体と正しく繋がることによって正常に働く様になる
と思われる)
この思考の中には単なる想念の記憶や、その記憶の反応や印象だけではなくて、衝動としてのDNAからの遺伝的なものも、カルマから来る
抗しがたいような衝迫もあり、動物魂から来る欲望や欲求もある
そして、その思考の大元とは「自分は」「自分の」「自分が行為している」「自分が生きている」という「私という観念」が持っている実感と、感覚である。
それらのマインド・思考とは脳がキャッチしているものであり、魂の鏡である心を厚く覆っているエレメンタルでもある。
心とは、魂として高次元から、この脳において機能しているものであり、私という観念とは異なっており、その心とは、違う呼び方ではハートとも
いわれている。
ここをハッキリと整理しないことが混迷に拍車をかけているのではないか?
思考とは、記憶であり、記憶の反応でもあり、その記憶の反応を称して自我と言うこともあるが、現在のパーソナリティーと自我は混同されるが
異なっている。
それに対して心とは精神であり。真の私を映すことの出来る鏡であって、マインドとは違うものなのである。
即ち、心というコップの水が透明になったとき、その透明になったコップから太陽の光が輝くことが出来るわけである。
心という鏡が綺麗に磨かれ塵芥が取り払われたとき、私(真の私)を映すことが出来る様になるのである。
また心とは意識でもあり、ハートともいわれているとおり、脳に依拠している思考とは違うのだ。思考は意識ではないのである、
思考とは観念であり、想念形態であり、エレメンタルなのである。思考と感情と欲望と観念と記憶はエレメンタルの特徴である
心は従って脳に依拠していないから、脳を離れても機能することが出来るし、そうしている。
ただ、心(統覚機能)とは、脳と、身体に浸透しているので、その脳で起こっている感覚や思考を心である統覚機能は諸体の
神経を経由して知覚しているので、たとえば肉体での痛みなどの情報を、肉体が傷ついているのであるのに拘わらず、自分が痛んで
いると知覚するのである。見ている事に関しても肉眼の眼球や霊眼の目が見ているのに私が見ていると思うのである。
脳に起こっているマインドであるところの思考や、感情や、自我の動きや、感覚そして記憶、記憶の反応を統覚機能の心が知覚して
自分が見ている、自分が聞いている、自分が触っている、自分が嗅いでいる、自分が思考している、自分が思っている、自分の自我である、
自分の衝動である、自分の欲望である、自分の病気である、自分の行為である、と錯覚して、それらを知覚し、それらに対して反応すること
によって思考と一体になった心が苦しむのである。
「私が」「私の」「私は肉体である」「私が行為している」「私の人生を私が生きている」との嘘の根本観念と、その虚偽の観念が生み出す
「分離している個人」そして、さらにその記憶が生み出す自我としての私の実感を、即ち、身体が行為している実感を根本無知がしているので
心である統覚機能の私は自分の実感だと錯覚して、このマインドの動きを自分自身のものだと、取り違えてしまうのである。
ここの取り違い(付託)とは、知覚の主体であり、真の認識主体との媒体である「魂である統覚機能・心」が脳と結ばれているので
脳内に起こっている感覚や、思考や、想念や、記憶や思考の働きや、この思考の記憶である自我の反応などを、自分自身の反応だと
錯覚してしまった結果、必然的にしてしまうのである。
この心である魂が、自分自身と取り違えて間違っている私とは、自我のことであり、鏡自身である私ではない
ラーマクリシュナなどによれば根源が、肉体とマインドであるこの自我を使って演じられている、即ち行為を為されているのである・・・
といわれている。
この自我を自分だと、この行為している肉体を見て、自分が行為している・・・とそのように魂の私が信じることで、魂が輪廻に巻き込まれているのであろう
輪廻に巻き込まれていない真の私にとっては、この巻き込まれた魂が、一刻も早く真の私に戻るよう働きかけておられることであろう
その為にも、思考(マインド)と、心(ハート・精神)とは異なることを識別しなければならないのである。心が清まらなければならないのである。
けれども、この現象界では、心である魂が、肉体や思考の事を自分だと錯覚し、根本無知である「私という観念」を自分だと錯覚してしまうのも
無理からぬ事だとも思われる。それは目の前で五感という感覚が知覚され続け、肉体と行為・出来事が起こり続け、さらには思考と心が似て
いるからである。それ故に魂が自分ではないものを自分だと信じたのである。
そのことの違いは静寂な精神、静寂な心でないと、それをはっきりとは知る事はできないことだろう。
かく言う私・久保栄治もハッキリと分かっているわけではない。ここで私が書くのは、この観念が正しいと知的に理解しているからであり
それもクリシュナムルティーには知的理解とは誤解だと怒られることであろうが、人類にとっては信じること及びこの知的な観念でしか理解
へ至ることが難しいからなのである(他にも方法はあると思うが・・)と思われる。
ともかくもくどいようであるが、
思考とは、脳を経由して心で知覚されるエレメンタルと同じ観念構造物であり、それは想念であって、心ではない。思考は物質である、ものである。
この物質である思考は、意識である純粋空間に去来している「物」なのである。
真の認識主体は虚空なのである、空間なのである、精神だからだ、自我は物質である思考だから私ではない、なぜなら私とは物質ではない精神だからである。
心とは、知覚や思考と自らを同一視してしまっている統覚機能(魂)のことであり「愛・思いやり・優しさ・静けさ・感謝・喜び・調和・生命・平和」等々
を基調とした純粋精神を映すことが可能な鏡・意識なのである。
しかるに、この鏡が思考と同一化することによって曇ってしまい、覆われてしまい、穢されているのである。
その心から思考が離れてコップの下へと沈殿されることが出来たとき、この純粋な心に純粋主体、純粋精神が映し出しだされる。
その鏡に映し出されている私こそ輪廻転生していない本来の私である。魂の内奥の私である。
心静かに座し、この鏡である心の表面に去来している思考(マインド)・自我を、心の内奥である無思考・非対象の気づきから判断することなく、同一化
することなく、暖かくただ観照するとき、鏡は、透明へと清まっていくのではないだろうか
鏡(魂・統覚機能)とは、自らを映し出す鏡であり、その自らとは純粋理性、愛である純粋精神であり、真の私である。と教えられている。
夜、熟睡中に高次元へと身体を離れる(物質的な時空間的にではなく)私とは魂・心であるが、
その魂・心の一部(現在のパーソナリティー)が現在意識として脳につなぎ止められているので
その繋ぎ止められている脳にいる現在意識という魂・心の一部(現在の私)は、脳の状態である夢見や熟睡だけを知覚してしまっている。
脳のその部位は心が高次元界に行き、その心の一部が脳にとどまっている為、脳は睡眠・熟睡状態となり、休止して充電される。
脳が機能するためには睡眠が必要なので脳が休み眠っており、その部位に繋がれている魂の一部(現在のパーソナリティー)は、その熟睡中の
高次に触れている意識内容が理解出来ていないで熟睡と思い込んでいるのであるが熟睡中の体験とは真我の光りに触れているのである。
それは、熟睡中での「心である魂」が、魂が経験している高次元での体験を、自分自身の一部である現在意識(現在の私)が未熟なため、この
非対象、非思考の高次の意識状態の体験を理解出来ずに、無意識・ブラックアウト・熟睡と捉えるのだが、この熟睡のおかげで
身体も諸体も脳も蘇生し癒され、新たなるエネルギーによって充電されるのである。私達は現在のパーソナリティーも含めて、熟睡中に、それは
そうとは知らずに高次の質料と意識の影響を受け取っているのである。
にもかかわらず、何故私たちはその熟睡を理解し、意識化出来ないかと言えば
それは心である魂と、魂の派出部分である「現在のパーソナリティーという現在意識」を繋いでいる「シルバーコード」が細くて塵で塞がられいるため
魂の意識が充分に「現在のパーソナリティーである現在意識」に届かないからである。それは現在の私のレベル・段階が原因しているのである。
そのようであるけれども、日中の通常の覚醒している現在意識の中では、
想念であるマインドやカルマの衝動、記憶の反応や動物魂からの意識や肉体自身の意識や記憶である自我が私だと思っているだけではなく、
「魂という自分自身である心」からの意識も、「魂からのハート」として知覚されるし
さらに、その魂の内奥からの純粋精神の高次の意識も、高次の気づきとして、閃きとして垣間見られているのである。
熟睡という無思考・非対象の状態を意識化することができるか、出来ないかは、それは、ひとえに現在のパーソナリティーにかかっている、といえる。