戻る







判断や評価、選択をしているのは誰か




善悪や、白黒の判断、高次低次の区別や、価値の評価、どちらかを選ぶという選択をしているのは誰か?

純粋なる気づきには二元分離はなく、思考はなく、選択もない。そこには自由があるからである。それが真の私であると

従って、その私であるならば、そのような判断や、区別や、評価、選択をするのであろうか?

そのような善悪、白黒の判断や、高次低次の区別や、価値の評価、どちらかを選ぶというなどという選択をしているのは

‘私が’、‘私の’という「私という観念」ではないだろうか、それは気づきとは正反対のものであり。無明である。


その‘私が’、‘私の’という「私という観念」が、観察者であり、行為者であり、知覚者であり、分離して認識している認識者である。


そして、その知覚者や観察者が自らを、知覚され観察される客体として投影し、対象として知覚し認識しているのである

従ってその観察者によって観察されるものは観察者それ自体である。それこそマインドであり、私ではないもの。

‘私の’、‘私が’という「私という観念」・無明ではないだろうか?


この‘私の’、‘私が’という「私という観念」である観察者や知覚者が、対象として知覚し、観察している対象は観察者それ自身であり、

それは分離している「私という観念」が引き起こしている、主体と客体の分離という分離二元知覚である。


「私という観念」が純粋な非分離の認識を覆っていて、認識者と認識されるものという分離を生み出し、

内部と外部に対象を知覚し、認識しているといわれている。


シャンカラが、この日中の覚醒時の意識も、夢見の意識も、熟睡時の意識も、無明の意識であり

私とは、それらの無明である「私という観念」「対象化して認識し知覚しているマインド」の私ではなくて

そのマインドを非分離、非対象の中で観照している気づきである、と教えられている。


その分離状態であり、その分離知覚、即ち見る者と見られるものの区別や分割状態こそ二元のマーヤであり、無明であるように思われる。


この自他に分離して、対象と分離している心マインドが「私という観念」であり、

その「私という観念」が

本来の目であるところの

分離のない、対象のない、そして非難や一体化や、善悪や、白黒の判断、高次低次の識別や、価値の評価、どちらかを選ぶという選択をしていない

無思考の私の目に覆い被さっているのではないか


であるから、私であるならばそのように分離して知覚したり、分離認識したり、善悪や価値判断、評価や選択はしないことであろうし、

対象と主体の分離なく見ていることであろう。


ならば

この分離知覚し、分離認識し、善悪や価値判断、評価や選択をしていて、対象と主体の分離で見ている私ではないもの、即ち心というマインド

その「私という観念」という無明を、分離なく観照しているそのときには、もはや「私という観念」は対象ではなく、主体でもなく、非実在として

実在しておらず

それを観照している気づきの中に「私という観念」は実在していないことであろう、

その地点に於いてはラマナ・マハリシのいわれるように「私という根本第一観念」はないことであろう、ただ純粋なる気づきがあることであろう



そして、そのためには、この無明である覚醒時と夢見時と熟睡時の無明というマインドを、そしてこの無明のマインドである私という観念が、

気づきによって観照され

その観照の中において、私のという「私という根本観念」を分離したり、対象化したりすることなく見切られたときに

そのときそこに、はじめから観照していた私が、はじめから、求める前からそこに在ったのであると、クリシュナムルティーは教えておられるのである

その時初めて

私が、私の、という自他に分離し、自と他を対象として知覚し、認識していたのは私ではなく、それは「私という観念」であり、根本の無明であった

ことが正しく領解されるのであると。