三時の意識
三時の意識とは、午前三時や午後三時のことではない
三時とは、覚醒時と夢見時と熟睡時の意識の三意識状態・三様の異なる意識状態のことであり、それを称して三時の意識と言っている。
多くの聖賢の方がたによって
この三時の意識とは私の意識ではなくて
「個別の分離した私」であり、肉体を見て「私は分離した私だ」との錯覚を引き起こした観念である根本無明、
そして、行為する私・主体と、その行為および知覚の対象という分離を生み出している、主客分離の観念自体であるところの根本無明
その「私という観念」であり、この根本の無明の意識こそが、その三時の意識であると言われている。
その根本無明とは心の本質であり、あなたに対立している私という「私という観念」のことであり
その根本無明の心が真我と分離していて「真我に至ろうとしている」錯覚そのものである。
けれども、その根本の無明という無知は分離していない私から生まれている
それ故にラーマクリシュナをして「お母さん!私をだますのは やめてください」「お母さん!あなたが行為しているのです」と言われたのではないだろうか
真実に於いては、「見るものは見られるものである」であり
見る者と見られるものは決して分離していないのに、わたしはあなたであるのに
「見る者によって見られているすべてのもの」は見ているものであるのに
「わたしであるのなら、私以外に何ものをも見る事はない」と言われているのに、
私以外にあなたという他者を見たり、私以外の対象を見たり、私以外に神という対象を見ているその目は、
ラーマクリシュナの言われているそのお母さんといわれているマーヤから生じている根本無明の目に他ならないのではないだろうか?
実際には、
「他と分離している私」と「私ではないあなた」という区別も、(そのような区別の知覚をしている私も)私ではないのに
また「他と分離している私」が無いのであるならば、
私が到達することもなく、私が至ることもなく、私が成就することもなく、私は真我と一体になるというような
他と分離している私、到達すべき私などはいないのに、私が真我に至ると思っているのである。
その真我との一体化を求めて、道を求め、方法を確立し、そのための修行をすること、その動きこそが根本無明の私に他ならない。
そして、そのための手段と堕落した瞑想こそが、蜃気楼なのであり
その手段やその至るための瞑想等こそは、「お母さん」によって生みだされた根本無明に他ならない。
既に私達はシャンカラによって教えられているように
「私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの、ただそれだけが 存在する」のであり
「他と分離している私やあなたたち」は、私ではなく、マインドに過ぎないと言うことではないだろうか
その私は神我の目に於いては存在しておらず、
その私とは仮装の私であり、真実の私とはこの「仮装の私であるその神の演技の私」ではなくて、その「演技している私」のさらに奥の私
であり、その私は既に道そのものである。
そこに至るための道はなく、従って至ることはなく、そのための手段もなく、そのために至る方法などはないと言われているのである。
従って、スタート地点こそが執着地点であるといえる、最初が最後であるといえる。
その最初にして最後、スタート地点にして終着点が真の私である。
そうしてこの最初の一歩、最後の一歩が、思考なく、分離した私なくて、あるがままをあるがままにただ見ることである
判断や評価や非難や同一化なく、ただ分離せず見る事である。
「見るものは見られるものである」とあるがままにあるがままを見ることである。
私が私を見ることである、と教えられている。
このあるがままをあるがままに見ている事の中には自他の分離はなく、目的もなく、あなたやわたしはなく、思考もなく、私以外の対象を見ている私もいない。
あなたは私であり、そこの「見る事」の中には、あなたと分離している私はおらず、ただひとつなる私として私だけが見られている、そこには愛しかない・・と。
このように聖賢によって、何度も何度も繰り返し教えられている。主体は客体であると、そして客体は主体であると。内は外であり、外は内であると。
けれどもこれらのことは確かに、この真我実現しようとして瞑想を実践し、修業を重ねている私達にとっては観念であることではある。
が、しかしこれらは観念であると同時に、真実でもあり、この観念は虚偽なる観念とは異なっており、真実として真実・真理が後押ししている。真実であるからだ。
それに引き替え、真我を実現しようとして瞑想法を実践し、至ろうとして方法を模索して、道を歩むことは道を外すことである、外道である。真実ではないからだ。
真実には道などなく、至ることもなく、スタート地点が最終地点であるのに、さも至る道が存在しているかのように、段階とレベルと次元の違いを強調し
自他分離の錯覚を起こさせているのは
根本無明に他ならないのではないか。
実際は個別の私や、個別のあなたは存在しておらず、その私やあなたとは根本無明という「私という分離している観念」であるマインドである。
個別の私とはマインドであるのだ、「私」ではない。あなたはマインドではなくて普遍的な気づきの意識なのだ。といわれている。
ただ現在意識というものが、この真我からの純粋意識をも含めて、マインドがもたらす思考と諸体の意識が混在しているので、重層しているのである。
けれどもこの「分離している私というマインド」が、この日中の覚醒時と夢見時と熟睡時の三時の意識であり、自らを騙し騙され、目を覆い続けているのである。
この三時の意識こそが思考と呼ばれている分離している意識、自分以外に対象を知覚している意識であり、私という観念である根本無明の意識に他ならない。
至る自分はなく、至ることもなく、道はなく、道を歩むこともなく、道を外すこともない。
真我実現する方法もなく、そのための手段やそのための瞑想もない。
なぜなら、至ろうとしていること、到達しようとすること自体が根本無明の働きであり、真実に於いては既に至っているからであり、至っていないと思っているのは
私ではない根本無明であるからであるといわれている。
真我の働きに於いては、その正しい瞑想は自ずと起こり、全自動的である。
それはそよ風に様に突然やってくる!!、と
そのそよ風は「対象のない私」が起こすのである。それが正しい瞑想であるといわれる。
この起こることとは、個別の私による行為ではない。
この三時の意識状態であり、偽りの主体であり「他と分離しており行為しているという自覚を持っている私」である思考による行為ではない。
またそれを引き寄せようとして、受け身になって待ち構える狡猾なる行為者による瞑想でもない。
それは、根本無明の私によるところの主体的な行為としては行われず、
その分離主体とは無関係にそれは真我による自由意志によって起こる!
それは起こる!必ず起こる!
それは自由意志による主体的な行為という根本無明による努力に拠らずして、それは突然に起こる。やってくる
窓を開け放っていることが分離している私たちにできる唯一の事であり、その窓を開け放つと言うことが、母である根本無明を通じて起こる事である。
そよ風が窓にやってくる事とは、真の私が行うことであり、窓を明け放つということも真の私が起こさせたのである。
以上の上記の事柄、これらのことは観念であっても真実である。と私は確信している
この観念は真実の観念であり、事実であり、正しいことなのであり、これが正しい思いであり八正道でもあると私は思っている。
私たちが、個別的自己の努力によって真我に到達しようとすることは、根本無明の無明の働きそのものであり、傲慢である。
その至ろうとする努力は邪悪である。なぜならすでに私達は真の私であることからであり、到ろうとする事は至っていることを否定することであるからである。
真我実現しようと、そのための手段と方法を実践することとは、真我であるのに「真の私に至ろう」として、真の私から離れ去っていくことだからである。
真実に於いては、それ故に、私に至る道はなく、方法もなく、至ることもないと教えられている。
なぜなら私は既にすべてであり、分離しておらず、対象を持っておらず、あなたや私というように別れてはおらず
従って、私ではないものはどこにも存在していないからである。と
それ故に真我実現しようとして、そのために道を歩み、そのための瞑想などの手段を実行することは真我から離れ去ることである。
真我実現しようと努力し、そのための方法を実践することは、真我であることを否定していることである。
わたしから離れ去ろうとする動きである。
その動きこそが「私という観念」であり、真我と分離していると錯覚している根本無明であり、その意識こそ三時の意識である。
この真我に至るとする努力と修行の動機や目的の中にこそ、「私は真我ではない」と強烈に知覚している「私という根本の分離観念」即ち根本無明がいて
それが働いている
この三時の意識こそ根本無明の意識である
そして、その根本無明のマインドこそ三時の意識の特徴に他ならない
それが至ろうとするマインドである
といえよう