お琴の話し


精神世界で良く聴く話であるが、お琴が『以前のお琴の持ち主は、お琴である自分を大切にしてくれたのに、今度の所有
者は、ちっとも自分を大切してくれない、そこで、お琴である私は前の持ち主の事を想って泣いている』などなど・・・・。
というような話を聞いたことはないだろうか。それはお琴だけではない、車にしても、家にしてもである、それらは自意識を
持っているのだというのである!?・・。

こういう類の話を聞いて、私達は物体や人工物にもそれなりの自意識があるのだと思ってしまうことだろう
けれどそれは、持ち主の想念形態が(自己意識を持っているので)、それらに付着しているのか、若しくはエレメンタル
や様々な意識体がそのお琴に付着しており、そのエレメンタルがそれを話しているに過ぎないのだということ・・・・
いわゆる、そう言う次元での感覚や知覚を持っている霊能者がそれを誤ってお琴の意識であると錯覚しているに過ぎ
ないのだということ

もしそう言う霊能者が生命のある木々や動物と話せるのであるなら(木々や動物はそれなりに自意識を持っていると言
われている)木々や動物たちの個体を維持している天使方や、それらのグループソウルたちと話が出来ていることで
あろうから、いかにその霊能者の意識は限定されているのかということを示している。

思考はエレメンタルを発生させる。
思考とは、思う事とは、想念形態、即ちエレメンタルを発生し、そのエレメンタルは
集合したり、別れたりを繰り返しながら、徐々にそのエレメンタル自体の持つ自己意識を強固なものにしていく。
いわゆる私達が思考すると言うことで、「私という分離している自己意識を持つエレメンタル」を造りだしていると言う
ことであり、そのエレメンタルとは現在のパーソナリティーによって生み出されたと言うことである。

脳内に去来する思考や映像や、状況や、出来事や感情に対して、脳内にいる現在のパーソナリティーが反応する事
によって、更に私達は「自己意識を持つ想念形態」を生み出しているということになる。

そして「類は友を呼ぶ」がゆえにそのエレメンタルは更に同類のエレメンタルを引き寄せてしまう結果となっていくのである
それゆえに、私達は何を思うのかが非常に大切なこととなるのである。

その、何を思うのかが大切なる私とは現在のパーソナリティーであり。
魂から派生した「魂と繋がっている現在意識の私」である。
(現在の状況は、その魂との繋がりは非常に細く、且つ意識化されていないのであるが)現在意識の現在のパーソナリ
ティーは魂の私と繋がっており、この魂の奥には時間や空間を超越している全体である真の私が実在していると。

この現在のパーソナリティーが自分の大元である魂へ、更に魂の内奥の真の私へと回帰し、意識が拡大していくこと
・・これが「意識化していくこと」と呼ばれている。
重要なることとは現在のパーソナリティーと魂の内奥とのパイプを掃除して太くしていく作業ではないだろうか





この真の私のことを、(現在のパーソナリティーの私が完全に真の私と融合した状態の)シャンカラは「私」と表現し

以下の様に言っている



『自分の息子、あるいは妻などが健康が勝れない、或いは健康なときに「私は健康が勝れない」あるいは

「私は健康だ」と言って、人は外界の事物の属性
(※肉体の属性に過ぎないこと)を自己(アートマン)に転移する

(※誤って自分はそのような私だと思い込んでしまうこと)。


同様に、「私は肥満している」「私は痩せている」、「私は色白だ」、「私は立ち上がっている」、「私は行く」、

「私は跳ぶ、跳躍する」などといって、人は身体の属性であることを「自己」に転移する
(※誤って自分はそのような

私だと思い込んでしまうこと)



同様に「私は口が利けない」、「私は片目だ」、「私は性的不能者だ」、「私は耳が聞こえない」、「私は盲目だ」などと

言って、人は感覚器官の属性であることを「自己」に転移してしまう。



同様に欲望、意図、疑惑、決断などのような内部器官
(※大脳のこと)の属性を人は自己に転移する。

(※脳という器官の思考である欲望や意図や疑惑や決断は大脳の思考であって、人である現在のパーソナリティーの

思考ではないと言うこと)


このように【「わたし」という自己意識の観念の所有者である=思考】を人は余すところなく、自らの

行動を目のあたりに見る内部の自己
(魂の自己・観照者の私)に転移している(※誤って自分とはそのような私だと

思い込んでしまうこと)、


(※低次思考は、低次思考自体が自らを思考する主体と思考される客体に分割し、そのようにして思考は思考自体が

「私」という観念を生み出しているということ、そのようにして低次思考は自らを思考する主体と客体に分離して思考して

いるということ)




それとは逆に本当に一切の事物を目のあたりに見ている内部の自己
(魂の自己・観照者)

内部の器官などに転移してしまう

(前述の大脳の思考などを、この「大脳の低次思考と、現在のパーソナリティーの思考」を目の当たりに観照している
内部の自己の高次意識と同一視してしまい、頭脳の思考だと誤ってしまい、それらは大脳の思考にすぎないのだと思い
込んでしまうということ)























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