脳とマインドと統覚機能
長足の進歩を遂げている大脳生理学の成果は
私達にも大きな理解をもたらしてくれている
その主なるものは幾多の実証実験と各国の大脳生理学者の研究の
賜である。感謝申し上げる次第である。
ここでその実証実験の結果判明したことを列挙すると
@行為について
通常は自己が行為していると思われているがそれは錯覚である。
行為が為される前に、脳は潜在意識から行為の指示を受けており
「自己による行為の選択」の前に既に行為は為されているといえる。
その時間差の錯覚を脳は自己に対して行っているという。
即ち、自己は自分が行為しているように脳の構造自体によって欺か
れているのである。
従って、行為を実際に行っているのは肉体だが、行為を起こ
している主体は自己ではなく、脳内の神経細胞に指令を出し
ている「潜在的意識」である
なので実際はこの私達は行為には全く関わっていないばかりではなく
私達自身が脳の記憶作用によって生み出されている結果なのである
この幻想の「記憶である自己」のことをエピソード記憶と称されている
A選択・自由意志について
選択とは行為と同じく私達の自由意志によって選択が為されていると思われ
ているが、脳では自己の自由意志による選択が為される前に選択は既に決
定しており自己が選択をしているような幻想を抱くように脳内の構造で生じている。
その錯覚が「エピソード記憶と云われている自我」に対して生み出されているという。
行為と同じく自己による選択や自由意志より先にその「潜在的意識」に拠って、脳の神経
細胞においては決定されており、その脳の選択の決定結果を自己(記憶)が受け取って
「自分が自由意志に基づいて選択しているのだ」と実感している
私達のこの自由意志も、自由意志を持つ私達も@と同じく、脳の結果である。個人とは
エピソード記憶のことであり、実際にはこの記憶である自我には選択することもなく自由意志もないという
B思考・感情・など脳内に於ける知情意の心作用について
私達は通常、私達が知情意という精神作用を起こしており、私達は自由に思考や感情や記憶を用い
操作し、感じる事、思う事、実感することなどを能動的に行っている主体であると感じているが、実際の
事実とは、脳はそれらの知情意に関する神経細胞の情報を「潜在的意識」から受けとって、神経細胞
を通じて知覚領域に届けているだけであって知情意はその潜在的意識から発せられているのであり、
自我である私達はこの知情意のマインドを脳から受け取っているにも拘わらず、自分が思考していると
思い込んでいる。
これらの知情意というマインドは脳内のエピソード記憶領域野における個人自我が起こしているのではない
のである。私達である自我や個人が自分で思考し、欲望し、感じ、考え、悩んでいると錯覚しているだけ
で、それらの知情意は脳が受信し、ニューロンの神経回路を伝わって脳内部位にて翻訳されているだけ
である。
私達自己はそれらの思考や感情を、能動的に自ら自分が起こしたと思い込んでいるだけで実際は
私達自己は受動的な立場にある記憶に過ぎない。
C自己について
自己、自我、個人というものはこれらの脳が受信している知情意や自由意志、行為の結果の記憶である
この記憶である自己は脳の機能が生み出しているマインドの結果に過ぎない。自我とは脳が生み出したのだ
自我とは神経細胞ニューロンが伝達して記憶領域野で発生しているエピソード記憶という記憶でしかなく
しかもこの脳が生み出した記憶は自分が行為し、自分が実在している私だと思い込んでいる錯覚に他ならず、
自己・自我・個人とは実際は存在していない幻想である
以上が最新の現代の大脳生理学が提示している理論である
だがしかし、自己の全てを語るにはこれだけでは不十分であると思えるのである
脳と心との関係を語るには物質面からだけの大脳生理学では全体的な理解はどうしても不可能であり、この脳と
幻想の自己(エピソード記憶)と心と魂の関係性を俯瞰できる視座に立っていなければそれを正しく認識すること
が出来ないのではないかと思える
確かに大脳生理学の成果とはいままでにも精緻なエレブナが語っていたように
肉体とエーテル複体と幽体と霊体を一括りにして現在のパーソナリティーと教えているので、この点はよく分かる
現在のパーソナリティーとは、これらの諸身体の脳が生み出している幻想の自己であり、単なる諸体の脳の結果
であり脳の状態でもあるのであって、この現在のパーソナリティーという意識的な実体が別に存在しているわけで
はないのだ
それ故に真実の「脳と個人自我と心の関係」とは、この関係を俯瞰できる視座に立っていなければ理解は出来ない
ことがらなのである
では統覚機能(魂)側の立ち位置からみた脳とは一体何なのであろうか?
(但し此処で言う魂とは個人ではなくて普遍的な意識が現象界に触れて発生している統覚機能のことである)
多くの賢者方が言うように、脳とは宇宙をも包含できる素晴らしい受信器であり、送信器なのであるが、この受送
信器が正常に働くためには統覚機能と呼ばれる魂が身体及び脳と結合することによって、はじめて脳も機能する
ことが出来るのだということなのである。
脳が脳として機能し、身体が身体として機能し働くことが出来るのも、実際には脳及び身体が統覚機能と言われる魂
と自律神経や体性神経などが、脳内神経を通じて結合しているが故であって
脳がそれ自体で脳を作動し、機能できているわけではない。ここが大脳生理学にはどうしても分からないのである。
この驚くべき素晴らしい能力を持つ宇宙的な脳が働くことができているのは、脳に血液が送られているからだけではない
魂が脳と結合しているからなのである。魂が脳の中枢深くから結合しているが故に脳は正常に機能できているのである。
では更にこの脳が機能することが出来ているシステムを見てみよう、一体どのように脳は働いているのか?
諸身体のアンテナ(チャクラ)を通じて次元の異なるマインドが受信され、脳はそれを電気信号に変換して再合成したも
のを脳の或る部位に繋がっている記憶領域に「私の心」の内容として伝え、その「私の心」の事を統覚機能は私自身として
錯覚して受け取ってしまっているのである、だから自己ではないもの(脳の私)を自己と錯覚しているのは魂なのである。
心とは、根源から起きているものでそれを脳が受信し、脳の神経ニューロンを介在してエピソード記憶領域に伝達し、
さらに脳と結合している統覚機能がそれを心=自己として知覚してしまっている訳であるのだ。
それはいわば脳とはネットワークで繋がっているPCや高度の衛星TVの様なものだとも喩えられようか
大脳生理学ではこのマインドの或る主観的実態感覚の側面をクオリアと称して心の持つ中身と捉えているが、
そのクオリアもマインドが生み出しているエピソード記憶である自我の記憶としての実体感覚なのだが、これらの
実体感覚が如何にしてそのようして成立していることが出来るのかということは物質面だけではどうしても説明が
できないのだ
たとえば痛みという痛覚を例に取ると、その痛んでいる肉体の損傷箇所の痛みとはその損傷部分の肉体が知覚してい
るのではなくて脳のニューロン神経細胞を走っている電気信号でのその情報は、脳の特定のその痛みを受容す
る脳の部位に痛みの電気信号が届き、そして更に、その神経信号を受信した脳の部位に結合している、諸体である
自我という記憶機構がその信号と情報を受け取り、その情報を統覚機能が知覚してはじめて痛みと知覚されている
のである。
そして今度はその痛みに対する反応が、記憶機構から発信され、脳のニューロン組織を伝わって
更に大脳の一定の記憶部位に送られ、それが、その痛覚に反応した心として発信するのである
その外部へと発信された想念は身体外部にエレメンタルとして形成され自身にも影響を与えてしまう結果となる
だから、この痛覚を例にとってもこの痛覚の受信と、その痛覚に対してのエピソード記憶からの発信などは
統覚機能と呼ばれている魂が脳と結合していない限りは行えない現象なのである、痛覚でさえ脳の独立
した機能ではないということはPCやテレビも電源が入らないのでは作動しない唯の箱であるのと同じことである
実際にこれを動かしているのは「潜在的意識」若しくは根源、マーヤなどと呼ばれている、脳を生みだし、脳を維持させ
DNAを作り、DNAに書き込み、脳を使って自我という錯覚を生みだし、心を生み出し使っている源泉である
この痛覚を知覚する過程に於いては
結局は、どの一つのプロセスがかけていても痛覚を感じる事はできなくなるのだ。催眠や局部麻酔などでそのことは
実証されているが、ある脳の部位を催眠状態にして痛覚を感じなくさせるのは、その脳の部位に関与している脳の組織
を麻痺又はエーテル複体を一時的にずらして痛覚が統覚機能に伝わらないようにするテクックである
この痛覚現象であるクオリアも統覚機能である魂と、生命であり呼吸と血流の循環という真の私が存在していなければ
全く成立できないことがらなのである
それにも関わらず、或る大脳生理学に於いてはこの知覚の主体である真の私及び魂である統覚機能
の働きを除外してニューロンの電気信号だけで知覚自体やクオリアや心を説明しようとしても無理が生じてしまうのである
神経組織のニューロンは電気信号に変換されたマインドというクオリアを伝達している物質面から見た媒体の一つである。
魂が脳に降下し、脳中枢に深く組み込まれている結果として統覚機能という働きが作動し脳のシナプスの電気信号や
その情報を心として翻訳することが出来ているが故に心や記憶は幻想自我によって知覚されているのであって、これを
無視して電気信号だけでいくら説明しても、マインドが全く分からないのである。神経に流れる電気信号情報を脳単独
で心というクオリアに変換することは、統覚機能・魂の存在なくしては不可能なのである。
行為に関しては、脳が純粋精神若しくは純粋意識が使用する潜在意識からマインドを受け取り、行為が惹起されているが
その行為を自分が為していると(行為を自分が自由意志に基づき選択したと)錯覚している記憶=自我のことを
魂が(統覚機能)が自己同一視してしまったが故に「自分が行為しているのだ」と思い込んだのである。
魂が諸体の行為や選択や思考や感情に巻き込まれて、自我と自己同一視しているのが人類の悲しい現状なのである。
では現在意識とは何だろうか?現在意識とは大脳の意識状態に絡み込まれている統覚機能の一部の意識である
現在意識という大脳の働きは、条件付けられているので、ある心のレベルしか同調できないようになっている
この条件付けを外すこと、又はより高次の波動を同調できるように大脳を変容するには真の私側からの働きかけが
必須となる
現在意識とは脳の或る部位の機能だがそれは大脳の現在意識の部位に魂が結合しているから現在意識として働いて
いるのである。その現在意識の大脳部位が現段階の人類に於いては未発達なので大脳のその部位が眠ってしまうの
であろう。(小脳や脳幹は眠る事はない、脳幹と接合している統覚機能は眠らず従って心臓や呼吸は休止しないからだ)
この大脳が眠る現象とは睡眠であるが、統覚機能・魂の状態が改善しチャクラの開花が引き起こされた場合、即ち
真の私の意識がアンテナの精度を上げて、統覚機能の状態がアップした場合だが、その場合には眠っている大脳を
観照する事が可能になった(条件付けを解除された)脳の機能が真の私によって開かれ誕生する事であろう
(この状態こそあるがままをあるがままに見ている高次の意識であり、思考なくして観照している正見のレベルである)
確かに脳のエピソード記憶というものが自我であるとしても、それが自我として自我の私でさえも心を
知覚できる(クオリアが成立する)のは、ひとえに統覚機能が脳に降下し組み込まれているが故なのである
だから統覚機能が脳と結合していなければ、知覚は存在することは出来ず、現在意識もあり得ず、心も心として脳で
知覚されることもなく、エピソード記憶という誤って行為の主体だと考えているこの自我も存在できない
のである。呼吸や生命と同じく魂がここに存在していなければ記憶という自我さえも存在出来ない訳である。
この統覚機能である魂は呼吸と心臓をコントロールしているところの脳幹部位に一番深く結合しているので
肉体の死とは、脳死ではなくて心臓の停止である。脳幹から魂が離れるのが肉体の死であるといえる
統覚機能である魂は、シルバーコードを切断し、呼吸と心臓の停止を以て思考体や感情体と共に身体から去るのである
だから脳死や心臓の停止、そして諸体を伴って肉体からの離脱は思考や自我の停止を意味しない、
思考や自我や記憶は統覚機能が脳と結合していたようにアストラル体やメンタル体やコーザル体も脳と繋がって
いたが故に肉体の脳に於いて脳の或る部位を使用して思考や感情が作動していたからなのである
肉体の脳の独特の機能である言語器官の機能や感覚器官の機能が働くことができたのも、ひとえにこの魂
が諸体と共に肉体と結びついていたが故なのである
統覚機能やその精妙身体の脳が肉体脳と結合していたから意識やハートやマインドや思考や感情や
自我が作動していたのである
またこの脳の機能の向上変革は、脳の各種類の条件付けからの解放に伴って発生することであるが
それは肉体を始めとする身体に於けるアンテナであるチャクラの状態にかかっており、このチャクラの開花はエピソー
ド記憶という自我の範疇にはない、自我の欲望や修行によってチャクラはどうすることも出来ないのだ。それは不可能
であり魂の内奥の真の私からによってのみこのアンテナのチャクラは開花し、浄化される。そしてその影響は
脳の条件付けを解放する。実際にチャクラの浄化そして開花それに伴う脳の変革はこの順番で行われ始めるのであって
その逆の記憶である自我による意志や欲望や動機や目的に基づいた修行や真の私以外の外部からによる結果なの
ではない
脳はチャクラによってその状態を左右されている受信器であると共に、又送信器としてエレメンタルを作
り出す事が可能であり、脳にも影響を与えることが出来るのは、脳に統覚機能が結合し、脳を機能させ
作動させていることが出来るから、脳は受動的であると同時に能動的でもあり得るのである。発信が出来るのである。
それは脳が如何に膨大にエネルギーを消費しているかで分かるし、血流が脳にどれほど多く流れてい
るかによっても窺い知ることが出来る
この脳が高次の受信器として純粋精神を受信しそれを各身体に伝達できることが可能となるのはひとえに真の私からの
働きかけの結果であり、この働きかけの結果によってチャクラが開花し、そしてその結果として脳細胞の変革が行われ、
脳の条件付けからの解放が始まり、そしてそれ故に現在意識の純化と拡大が行われ、統覚機能を覆っていた無知
無明を取り払うことが可能となるのである
そのためにはまず始めに、その純化され空間と同調できる現在意識によって純粋精神の理解が始まるのであって
現状の条件付けられたままでの脳の状態において変性意識やチャネリングやテレパシー、霊視・霊聴・自動書記
オーバーシャドウなどによる一時的な体験や経験では決して脳の変革や条件付けの解放は始まらない。
これらの脳内麻薬や変性意識状態の繰り返しは、結局は正反対のバッドトリップを引き起こし、脳の機能低下を
招き、現在意識の錯少と混迷、混濁そしてチャクラを覆ってしまうことを招いてしまう結果となる
此処で再度心というマインドと脳の関係を確認するが、心とは脳ではないのだ
心マインド・クオリアとは脳細胞を駆け巡る電気信号や情報ではなくて、その伝達される電気信号や情
報の中身自身であり、その中身自身であるマインド・クオリアは脳に結合している魂という統覚機能が
知覚している心なのであり、脳そのものが心やマインドを知覚しているわけではない、脳は情報を伝達
しているだけだ、そえは高度なPCのようなものなのだ。脳は記憶である自我を生み出しているPCなのだ。
現在意識とは統覚機能が脳と結合しているので、脳によって縛られていて、脳の受信器としての同調する周波数や
脳のレベルや状態によって左右される、また送信器としてもその統覚機能からのフィードバックによって制限されている。
さて話は変わるが
多くの人は、自己自我という記憶実体が肉体脳を離れる幽体離脱ということが頻繁にあると主張するだろう
しかし、それは脳内の現象である疑似体脱体験を、魂が脳から出た若しくは幽体が体から体外脱出したと錯覚している
のだ。それは全く脳内の或る部位での脳内現象に過ぎない、肉体の死を以てはじめて魂はシルバーコード切断で肉体
から解放されるのであり、それ以前ではない。単なる潜在意識の脳内宇宙の体験をアストラル界と間違っているのである
それは脳内の無意識界であるので、そのようなことがらに興味や注意を向けないで現在意識の状態こそが重要なのである
と知るべきである。
この現在意識が深化し純化する為には脳内の受信ではなくて、脳からの発信の方がより重要となってくるの
である、何故なら脳からの発信が脳の機能をよくするか若しくは悪くするかの鍵を握っているからである
エピソード記憶(自我)と統覚機能からの発信状況が重要問題となるのである
現在意識が変性意識などの脳内ホルモンによる錯誤体験を通じて、その脳からの体験を至高体験や神秘体験と
取り違えている限りおいては、魂が脳と結合していて発生している現在意識である脳の純化と空間への同調という進化と
脳の条件付けの解除は不可能となってしまう
現在意識での澄み渡った沈黙と、空間意識の拡大が決め手であるのに、対象分離状態での神秘体験を
自身で構築してしまったりする危険性があるからである。純粋意識には対象分離は存在していないと言われているからだ。
それゆえにキリストはあなたに入るものはあなたを汚さないが、あなたから出るものはあなたを汚すことがあるから
あなたから出るものに注意しなさいと教えられたのである
その点を要点をかいつまんで説明すると
エピソード記憶である自我とは虚像であり脳が生み出している自分自身
と思っている虚像の主体であるように
その自我を私であると錯覚している統覚機能の魂も、真の私ではない。
統覚機能である魂の内奥にわたしがいると。
行為している肉体は私ではなく、私が行為している思っている自我も私
ではなく、その自我を私と思っている魂も私ではないと。
真の私とは、魂ではなくて、魂の内奥に実在している不二一元で普遍の意識である真我
であると、それがわたしだと。
真の私とは、その“自我を私だと錯覚し、心に幻惑されている魂の私”を観照しているわたしなのであると。
それ故に「わたしは心ではない、魂ではない」と教えられているのだ、‘自他の分離と主体と客体の二元である心’の奥に
即ち根本の第一観念「私と言う観念」である心のその奥にある真の私を正見しなさいと魂に対して教えられている