ニサルガダッタ・マハラジの言葉
( 「I AM THAT」 ナチュラルスピリット社 スダカールS・ディクシット編集
福間巌訳より抜粋)
質問者 今以上のことがあなたに起こるかもしれないのでしょうか? あな
たの旅は終焉したのでしょうか?
マハラジ
そこにはけっしていかなる旅もなかったのだ。
私は、つねに私であったままの私なのだ。
質問者 あなたが到達したという至高の実在とは何だったのでしょうか?
マハラジ
私はもはや騙(だま)されない。
それだけだ。
私は世界をつくり出し、そこに住んでいた――もはやそうすることはないの
だ。
どこであれ、物質がそれ自体をひとつの堅固な有機体へと組織化するとき、
意識は自発的に現れる。
有機体の破壊にともなって、意識は消滅するのだ。
『私は在る』(p284)
( アストラル体という物質も意識であるということである
メンタル体というマインドも物質であるということだろうか
従って肉体にも肉体独自の意識があり、ワサナも同じように微妙な物質で
あると言うことである。これを物質と表現しないで波動と言っても良いのか
もしれない
転生するときはより精妙なる物質に記憶のエッセンスが収納されていくのだ
そのエッセンスが現象界に出現するとき、待ち構えていたワサナとカルマが
吸い寄せられるのだ)
あなたは身体やマインドを変えるかもしれない。
だが、それはつねにあなたではなく、何か外側が変わったのだ。
いったいどうして変わることを気にするのか?
身体もマインドも、また意識さえもあなた自身ではないと、きっぱりと自覚
しなさい。(身体やマインドも輪廻している意識に現れている、取り憑いている
ものである、その輪廻している意識も観照者に取り憑いているものである)
『私は在る』(p540)
マインドは起こっていることに関心を持つが、気づきはマインド自体に関心
をもつのだ。
子どもはおもちゃを追い求めるが、母親はおもちゃではなく子どもを見てい
る。
『私は在る』(p239)
目標を定め、それに向かって闘い、方法と未知を探し、ヴィジョンとエネル
ギー、そして勇気を示す、それがマインドの本性なのだ。
それは神聖な質であって、私はそれらを否定してはいない。
しかし、何の相違もなく、何も存在せず、それをつくり出したマインドもな
いというのが私の立場だ。
そこが私の居場所なのだ。
何が起ころうと私には影響を与えない。
ものごとがものごとに働きかける。
ただそれだけだ。 『私は在る』(p104)
夢から夢へと動きまわるのは、あなたではない。
夢があなたの前を流れていき、あなたは不変の観照者なのだ。
いかなる出来事もあなたの存在に影響を与えることはない。
これが絶対的な真理なのだ。
『私は在る』(p351)
人が意識しているかぎり、そこに苦痛と快楽はあるだろう。
意識のレベルで快楽や苦痛と闘うことはできないのだ。
『私は在る』(p400)
それらを超えていくには、意識を超えなければならない。
意識をあなたのなかにではなく、あなたに対して起こる何か外部の、異質な、
あなたの上に押し重ねられたようなものとして見るときにだけ、それを超え
ることが可能なのだ。
『私は在る』(p400)
・ 勿論、意識は私では無い、これはマインドであって私では無い。私を詐称して
自分だと言い張るけど、それはこの意識の座を完全に覆っていて、感覚や思
考や記憶や想念で私を覆っているが、それは私では無い、また行動も私では
無い、この肉体を使ってはいるが私では無い。また外部に起きている出来事も
マインドが投影しているものであって、私と言うものではない
マハラジ
マインドが出来事をつくり出すことをやめたのだ。
遙かなる昔からの絶え間ない探求が終焉したのだ。
私は何も望まず、何も期待せず、何ひとつ私のものとして受け取らなかった。
(久保栄治は何かになろうとしたり、何かに到達しようとしたり、覚醒が起こることを
期待したりしているのではないだろうか、そして恩寵を受け取りたいのではないか)
そこに闘おうとする「私」は残っていなかった。
ただの「私は在る」さえも消え去ったのだ。
もう一つ気づいたことは、すべての習慣的な確信を失ったということだ。
以前、私は多くのことに確信をもっていた。
今、私には何ひとつ確かなことはないのだ。
だが、知らないことで何かを失ったようには感じない。
なぜなら、私のすべての知識が偽りだったからだ。
私が知らないということ自体、すべての知識は無知なるものだという事実の
知識なのだ。(知識それ自体が、知識を知るものと、知られる知識という分離構造の
上に成り立っている、二元性そのものが知識であるのだ、それが知っていると言うこ
との中身であり、それは二元性であり自他の分離そのものなのだ)
「私は知らない」だけが私にできる唯一の表明だ。
(私は知っていると「言うこと・思う事」は、自分が知識という分離二元の領域にいると言
うことを示している。
それは知るものと知られるものという分離をハッキリと示している)
「私は生まれた」という考えを例にとってみなさい。
あなたはそれを真実だと受け取っているかも知れない。
そうではないのだ。
あなたはけっして生まれなかったし、けっして死ぬこともないだろう。
生まれて、そして死んでいくのは観念であり、あなたではないのだ。
あなた自身を「私は生まれた」という想念と同一化することで、あなたは死
をまぬがれない者となる。
映画のなかではすべてが光であるように、意識が広大な世界となるのだ。
よく見てみなさい。
すべての名前と形は、意識の大海のはかない波にすぎず、ただ意識だけが存
在するのだ。
意識のかぎりない広がりのなかに、ひとつの光が現れる。
小さな点は急速に動き、紙の上にペンで形を描くように思考、感情、概念、
観念を描きだす。
その描きだすインクが記憶だ。
あなたはその小さな点であり、あなたの動きによって世界はつねに再創造さ
れていくのだ。
動くのをやめなさい。
すると世界はなくなるだろう。
内側を見なさい。
すると身体のなかの広大な光の反映は、「私は在る」という感覚としての小
さな光の点だと見いだすだろう。
ただ光だけがあり、それ以外のすべては現れにすぎないのだ。
質問者 あなたはその光を知っているのでしょうか? それを見たのでしょうか?
マハラジ
マインドにとってそれは暗闇として現れる。
それはその反映を通してだけ知ることができる。
日の光以外はすべて日の光のなかで見られるのだ。
質問者 私たちのマインドは同じものだと理解していいのでしょうか?
マハラジ
どうしてそうあり得よう?
あなたは記憶によって織り込まれ、欲望と恐れによってひとつに束ねられた、
あなた自身の個人的なマインドをもっているのだ。
私は自分自身のマインドというものをもっていない。
私が知る必要のあることは、宇宙は私に食べる物を与えるように私のもとへ
運んでくるのだ。
質問者 あなたは知りたいことをすべて知っているのですか?
マハラジ
私にとって知りたいことは何もない。
だが、知る必要のあることは知ることになるのだ。
質問者 この知識はあなたの内側からやってくるのでしょうか、それとも外
側から来るのでしょうか?
マハラジ
その表現は当てはまらない。
私の内側は外側であり、私の外側は内側なのだ。
必要な知識をあなたから得るかも知れない。
だが、あなたは私から離れていないのだ。
質問者 第四の状態と呼ばれているトゥリーヤとは何でしょうか?
マハラジ
世界を描きだす光の点がトゥリーヤだ。
光そのものとなることがトゥリーヤーティータだ。
だが、実在がこれほど間近にあるというときに、そのような名称が何になる
というのだろうか?
『I AM THAT 私は在る』(p410-411)
「どのようにして無意識を扱うのでしょうか?」
マハラジ
「私は在る」に気づきの焦点を合わせつづけなさい。
あなたが在ることを覚えておきなさい。
より深層に、眠り、夢見、目覚めの状態を超えた彼方へ行くために瞑想は欠
かせない。
最初のうちは、試みにもむらがあるだろう。
それからもっとたびたび起こるようになり、規則的になってくる。
そして継続的に強烈になる。
すべての障害が克服されるまで。
質問者 何に対しての障害でしょうか?
マハラジ
自己忘却に対してだ。
質問者 もし礼拝や祈りに効果がないなら、どうしてあなたは毎日、歌や音
楽であなたのグルの写真に礼拝をするのでしょうか?
マハラジ
それを望む者たちがするのだ。
私が干渉するまでもない。
質問者 しかし、あなたもそれに加わっているではありませんか?
マハラジ
そうだ。
そう見えるだろう。
だが、なぜそんなに私に関心を持つのだろうか?
あなたの注意を「何が私を意識的にするのだろうか?」という質問に注ぎな
さい。
あなたのマインドが質問そのものとなり、ほかの何も考えることができなく
なるまで。
質問者 誰もが皆、私に瞑想をするように駆りたてます。私には瞑想への関
心がないのです。しかしほかの多くのことには興味があります。私
の瞑想への試みはとても生ぬるいものなのです。どうすればいいの
でしょうか?
マハラジ
あなた自身に尋ねてみるがいい。
「そのすべては誰にとって起こるのだろうか?」と。
あらゆることを内面へと向かう機会として使いなさい。
気づきの強烈さで障害物を燃やすことによって、あなたの道を照らし出しな
さい。
あなたに恐れや欲望が起こったとき、誤りであり去らなければならないのは
欲望や恐れではなく、欲望をもったり恐れたりする個人なのだ。
欲望や恐れは完全に自然で正当なものかもしれず、それらと闘うことは要点
をはずしている。
それらによって動揺させられる個人が、過去と未来における誤りの原因なの
だ。
この個人が注意深く調べられ、その虚偽性が見られなければならない。
そのとき、あなたに対するその支配力は終焉(しゅうえん)するだろう。
結局のところ、あなたが眠りにつくたびに個人は退くのだ。
深い眠りのなかでは、あなたは自己意識をもった個人ではない。
それでもあなたは生きている。
生き、意識し、しかも自己意識をもっていないとき、あなたは個人ではない
のだ。
目覚めている間、あなたはあたかも舞台の上で役を演じているようなものだ。
だが、芝居が終わったときのあなたとは何だろうか?
あなたはあなたであるものだ。
芝居がはじまる前のあなたは、芝居が終わったときも同じままとどまる。
あなた自身を人生の舞台の上で芝居を演じているかのように見なさい。
演技は見事なもの、あるいは不器用なものかもしれない。
だが、あなたはそのなかにいない。
あなたはただ、それを見守るだけだ。
もちろん、興味と共感をもって。
しかし、あなたは演技しながら続いていくこの芝居――人生をただ見ている
だけだということを、つねにマインドにとどめているのだ。
質問者 あなたはつねに実在の認識の相を強調しています。あなたはめった
に愛情や意志について語ることがありません。それはけっしてあり
えないことなのでしょうか?
マハラジ
意志、愛情、幸福、努力、悦楽は個人によって非常に深く汚されていて、信
頼のできないものなのだ。
旅の一番はじめから、純化と浄化が必要とされる。
そして気づきだけがそれを与えることができるのだ。
愛と意志について語るときは来るだろう。
だが、その土台がまず準備されなければならない。
まず、気づきの太陽が昇らなければならないのだ。
ほかのすべてはそれにしたがうだろう。
『I AM THAT 私は在る』(p465-466)
思考(マインド)は常に、他人と自分に分ける。
そして人が自分と他人を分けた瞬間、他人は敵になる。
他人は味方にはなれない。
これは深く理解されるべき基本的なことの一つだ。
それを見抜く必要がある。
他人は味方ではあり得ない。
他人は敵だ。
他人であるというそのことで、敵なのだ。
『信心銘』(p390)
より敵対的な者もいれば、それほどでない者もいる。
だが、他人である限りは敵だ。
味方とは何者か。
実の所、それは最小の敵のことだ。
それ以外ではない。
友達とは、自分に最も敵対的でない者のことだ。
そして敵とは、自分に最も友交的でないの者のことだ。
だが皆同じ列に並んでいる。
友達はより近くに、敵は遠くの方に。
だが、それは皆同じ敵だ。
他人は味方ではありえない。
それは不可能だ。
なぜなら、他人との間には、競争が、嫉妬が、闘いが、起こらずにはいない
からだ。
『信心銘』(p390)
区別と分離の感覚が不在なときを愛と呼ぶがいい。
『私は在る』(p128)
誕生、人生、死の観照者は同一だ。
それは愛と苦痛の観照者なのだ。
なぜなら限定と分離の存在が悲しみに満ちたものであるにもかかわらず、私
たちはそれを愛しているからだ。
私たちはそれを愛し、同時に憎んでいるのだ。
私たちは争い、殺し、生命や所有物を破壊する。
そしてそれにもかかわらず私たちは愛情深く、献身的なのだ。
私たちは優しく子供の世話をする。
そして子供を捨てもするのだ。
私たちの人生は矛盾で満ちている。
しかし、それでも私たちはそれにしがみつく。
この執着がすべての根底にある。
『私は在る』(p434)
他者をあなた自身のように愛しているというふりをしてはならない。
彼らとあなたがひとつであると悟らないかぎり、あなたに彼らを愛すること
はできない。
あなたではないもののふりをしてはならない。
あなたであることを拒んではならない。
あなたの他者への愛は自己知識の結果であって、その原因ではない。
真我の実現なしには、いかなる徳も本物ではない。
すべてを通して同じ生命が流れ、あなたがその生命なのだということを、疑
いを超えて知ったとき、あなたはすべてを自然に自発的に愛するだろう。
あなたが、あなた自身へのあなたの愛の深さと豊かさを悟ったとき、すべて
の生きているものたちと宇宙全体があなたの愛情のなかに含まれていること
を知るだろう。
しかし、何であれあなたから分離していると見るとき、あなたはそれを愛せ
ない。
なぜなら、あなたはそれを恐れているからだ。
疎外は恐れを引き起こし、恐れは疎外をより深くする。
それは悪循環だ。
真我の実現だけがその輪を断ち切ることができる。
固い決意でそれに向かいなさい。
『私は在る』(p231)
質問者 私は家族と所有物に対してたいへんな執着があります。この執着を
どのようにして克服すればいいのでしょうか?
マハラジ
この執着は、「私」と「私のもの」という感覚とともに生まれたものだ。
これらの言葉のもつ本当の意味を見いだしなさい。
そうすれば、すべての束縛から自由になるだろう。
あなたは時間のなかに広がるマインドをもっている。
つぎつぎとあらゆることがあなたに起こり、そしてその記憶が残る。
それには何の誤りもない。
ただ、すべての有機的生命にとって本質的である過去の苦痛や快楽の記憶が、
ひとつの反射的作用、支配的行動として残るとき問題が起こるのだ。
この反射作用が「私」という形を取り、身体とマインドをいつも快楽の追求、
苦痛からの逃避という目的のために使うのだ。
あなたが「私」を、ひと塊(かたまり)の欲望と恐れとして、「私のもの」
を、苦痛を避け快楽を確保するためにものごとや人びとを抱擁するものとし
てあるがままに認識したとき、「私」と「私のもの」は、実在のなかに何の
基盤ももたない偽りの観念だということが理解できるだろう。
マインドによってつくられながらも、マインドがそれらを真実だと見なすか
ぎり、そのつくり出した者を支配する。
それが疑われた瞬間、それらは消え去るのだ。
「私」と「私のもの」は、それ自体では存在をもたないため、身体という支
えを必要とする。
身体がそれらの身元の証明となるのだ。
あなたが「私の」夫や「私の」子どもと言うとき、身体にとっての夫、身体
にとっての子どもを意味している。
自分が身体だという観念を捨て去り、「私とは誰なのか?」という質問に直
面しなさい。
即座に実在を呼び戻す動きのプロセスがはじまる。
というよりも、そのプロセスがマインドを実在へと連れていくだろう。
ただ、恐れてはならないのだ。
質問者 何を恐れるというのでしょうか?
マハラジ
実在が在るためには、「私」と「私のもの」という観念は去らなければなら
ない。
あなたが手放しさえすれば、それらは去るだろう。
そうすれば、あなたの正常で自然な状態はふたたび現れる。
そのとき、あなたは身体でもマインドでもなく、「私」でも「私のもの」で
もない、まったく異なった存在の状態に在るのだ。
それは、あれやこれとしての存在ではなく、特定の、あるいは一般的な何か
との自己同一化のない、純粋な存在の気づきだ。
意識の純粋な光の中には何も存在しない。
無という概念すらない。
そこにはただ光があるだけだ。
質問者 私には愛する人たちがいます。彼らを手放さなければならないので
しょうか?
マハラジ
あなたはただ、彼らをつかんでいる手を放すだけだ。
あとは彼ら次第だ。
彼らはあなたに興味を失うかも知れない。
あるいはそうではないかもしれない。
質問者 どうして彼らが興味を失うというのでしょう? 彼らは私のもので
はないのでしょうか?
マハラジ
彼らはあなたの身体のものであり、あなたのものではないのだ。
あるいはあなた自身のものではない人は、ひとりもいないのだ。
質問者 それでは私の所有物はどうなるのでしょうか?
マハラジ
「私のもの」がないとき、どこに所有物があるというのかね?
質問者 どうか教えてください。「私」を失うことですべての所有物を失わ
なければならないのでしょうか?
マハラジ
そうかもしれない、そうではないかもしれない。
それはあなたにとってみな同じこととなるだろう。
あなたの損失は、誰かほかの人の得となるからだ。
あなたはかまわないだろう。
『I AM THAT 私は在る』(p404-405)
ただ自己知識だけがあなたを助けることが出来るのだ。自己知識と言うことで、私はあ
なたが、なんではないのかということの完全な知識を意味している。そのような知識は到
達可能であり最終的なものだ。
(久保注:否定的接近による知識でもそのような知識には到達可能という意味)
だが、あなたが何であるのかを発見していくことに終焉はありえない。発見していけばいく
ほど、より多く発見することが残るのだ。
質問:私にはあまりにも多くの為すべき事がありマインドを静かに保もつだけの余裕がありません
ニサルガダッタ・マハラジ:
それはあなたが行為者だという幻想によるのだ。
実際には、物事はあなたに対してなされるのであって、あなたによって為されるのではない。
あなたの欲望はそれを満たすこと、あるいは満たされないこととともに、あなたに起こるのだ。
どちらにせよ、あなたに変えることは出来ない。
あなたは努力し、闘い、力を尽くしていると信じるかもしれない。
それも又、その仕事の結果と共に、全ては単に起こるだけなのだ。
何一つあなたによるものではなく、あなたのためのものではない。
すべては映画のスクリーン上の画像の中に顕わにされる。
光りの中にはなにもない、あなたがあなただと思っている個人も含めて。
あなたはただの光りなのだ。
質問:もし私がただの光りなら、どうしてそれを忘れてしまったのでしょうか?
ニサルガダッタ・マハラジ:
あなたは忘れてはいない。
あなたが忘れ、そして思い出すのはスクリーン上の画像の中だけだ。
あなたがトラになった夢を見たからと言って、人であることを止めたわけではない。
同じように、あなたはスクリーン上の画像として現れた純粋な光りであり、またそれと
一つになったものでもあるのだ。
質問:全てが起こるだけなら、どうして心配しなければならないのでしょうか
ニサルガダッタ・マハラジ:
まさしくその通りだ。
自由とは心配からの自由なのだ。
あなたが結果に影響を与えることは出来ないと自覚したからには、欲望と恐れに注意を払
うことは止めなさい。
それらを来ては去っていかせなさい。
それらに興味や注意と言った栄養を与えて助長してはならない。
創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。
世界はそれらを満たすための道具なのだ。
魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。
そして時間がすべての勘定書を決算する。
バランスの法則が究極の支配をするのだ。
『私は在る』(p103)
麻薬が脳とマインドに影響を与え、そして約束されたあらゆる類(たぐい)
の奇妙な体験をあなたに与えることは疑いのないことだ。
だが、悲しみと恐れのなかに生まれ、来ることも続くこともない幸福の探求
を生きるという、このもっとも尋常でない体験を与える麻薬に比べれば、そ
れらすべての麻薬が何だというのだろう?
この麻薬の本質について調べ、その解毒剤を発見すべきだ。
『私は在る』(p461)
罠は何もないところに強いて二元性を見ようとする、あなたのマインドのな
かにあるのだ。
『私は在る』(p473)
困難は身体的、感情的、あるいは精神的なものかもしれない。
だがそれらはつねに個人的なものだ。
『私は在る』(p99-100)
運命は名前と形にのみ関係する。
あなたは身体でもマインドでもないのだから、運命があなたをコントロール
することはできない。
あなたは完全に自由だ。
『私は在る』(p242)
死のプロセスの第一段階で、あなたは身体から解き放たれ、身体やその外見
への自分の同一化(アイデンティファイ)という(それまで残っているかも
しれない)考え方もなくなる。
死のプロセスの第二段階で、あなたは精神から解き放たれ、精神とその中身
への自分の同一化という(それまで残っているかもしれない)考え方もなく
なる。
死のプロセスの第三段階で、あなたは魂から解き放たれ、魂とその個別性へ
の自分の同一化という(それまで残っているかもしれない)考え方もなくな
る。
この「自己との全面的な溶け合い」のなかで、あなたは「知ること」と「経
験すること」がひとつである場に、そして自分は身体でも精神でも魂でもな
いことを知って経験する場に達する。
『神へ帰る』(p286)
あなたは世界に属するのではない。
あなたは世界の中にいるのでさえない。
世界は存在しない。
あなただけが在るのだ。
あなたは想像の中で世界を夢のように創造している。
あなたがあなた自身を夢から分離できないように、あなた自身から独立した
外側の世界をもつこともできないのだ。
独立しているのは、世界ではなくあなただ。
あなた自身が創造した世界を恐れてはならない。
幸福と実在を夢のなかで探そうとするのはやめなさい。
そうすればあなたは目覚めるだろう。
すべての「なぜ」や「どうして」を知る必要はない。
質問には終わりがないのだ。
すべての欲望を放棄しなさい。
マインドの沈黙を保ちなさい。
そうすればあなたは発見するだろう。
『私は在る』(p471)
(愚かさの終焉は)人においては――もちろんやってくる。
いかなる瞬間にでも。
人類においては――周知のように――長い年月の末にやってくる。
創造においては――けっしてありえない。
なぜなら、創造自体が無知の根本だからだ。
『私は在る』(p134)
キリスト教は言葉を構成するひとつの方式であり、ヒンドゥー教はまた別の
方式なのだ。
実在は言葉の背後に、そしてその彼方にある。
『私は在る』(p531)
「私は在る」と「神は在る」があなたのマインドのなかで区別不可能となっ
たとき、何かが起こる。
そのとき疑いの余地なく、神が存在するのはあなたがあるからであり、あな
たが存在するのは神があるからだと知るだろう。
『私は在る』(p241)
理解すべき主要な点は、あなたがあなた自身の上に欲望と恐れの記憶をもと
とした、想像の世界を投影したということだ。
そして、そのなかにあなた自身を監禁したのだ。
その魔法を解いて自由になりなさい。
『私は在る』(p218)
質問者 もしかまわなければ、私はすべてを失ってしまうでしょう!
マハラジ
ひとたび何ももたなくなれば、問題はなくなるのだ。
質問者 私は生存の問題とともに取り残されてしまうでしょう。
マハラジ
それは身体の問題であって、食べたり、飲んだり、眠ったりすることで解決
されるだろう。
そこにはすべてに充分なだけ、すべてを分かちあうだけ用意されているのだ。
質問者 私たちの社会は分かちあうことではなく、つかみ取ることを基本に
しているのです。
マハラジ
分かちあうことで、あなたはそれを変えるのだ。
質問者 私は分かちあう気にはなれません。とにかく、私は所有物によって
重荷を負わされているのです。
マハラジ
これは自由意志による分かちあいと同じではない。
社会は強制では変わらない。
ハートの変革が必要なのだ。
あなたのものは何ひとつなく、すべてはすべてに属しているということを理
解しなさい。
そのときにだけ、社会は変わるだろう。
質問者 ひとりの人間の理解によって、世界を大きく変えることはできない
でしょう。
マハラジ
あなたが住む世界は深く影響を受けるだろう。
それは健康で幸福な世界となるだろう。
それは光を放ち、通じあい、拡大し、広がっていくだろう。
真実のハートの力は計り知れないものなのだ。
質問者 どうか、もっと私たちに話してください。
マハラジ
話すことが私の専門ではない。
ときに私は話し、ときには話さない。
私が話すか話さないかは与えられた状況の一部分であって、私に依ることで
はないのだ。
話さなければならない状況では、私は私自身が話していることを聞き、別の
状況では、私は私自身が話していないことを聞くのだ。
それは私にとってみな同じことだ。
話をしようとしまいと、存在の光と愛である私は影響を受けず、それらは私
の制御の内にあるのだ。
それらはある。
そしてそれらがあることを私は知っているのだ。
そこには喜ばしい気づきがある。
だが、誰も喜んでいる人はそこにいない。
もちろん、アイデンティティの感覚はある。
しかし、それは一連の記憶のアイデンティティ、不変のスクリーン上の画像
の連鎖とのアイデンティティのようなものなのだ。
光とスクリーンなしに画像はありえない。
画像がスクリーン上の光の戯(たわむ)れであると知ることは、画像が実在
だという観念からの解放を与えてくれる。
理解しなければならないことは、あなたは自己を愛し、自己はあなたを愛し
ているということだけだ。
そして「私は在る」という感覚は、あなたと自己との間の連結部であり、外
見の多様性に妨げられないアイデンティティの象徴なのだ。
「私は在る」を内面と外面の間、実在と現れとの間の愛の象徴として見なさ
い。
夢のなかでは、「私」という感覚を除いてはすべてが異なっている。
その「私」が「私は夢を見た」と言うことを可能にするように、「私は在る」
という感覚が、「私は真我だ」と言うことを可能にするのだ。
私は何もしないし、私に対して何もされることはない。
私は私であり、何も私に影響を与えることはできない。
私はすべてに依存しているように見えるが、事実は、すべてが私に依存して
いるのだ。
質問者 どうしてあなたが何もしないと言えるのでしょうか? あなたは私
に話しているではありませんか?
マハラジ
私には私が話しているという感覚がない。
話をすることが起こっている。
ただそれだけだ。
質問者 私は話しています。
マハラジ
そうかね?
あなたはあなたが話しているのを聞く。
そして言うのだ。
「私は話す」と。
『I AM THAT 私は在る』(p405-406)
質問者 何度となくあなたは真剣であることの必要性を話されました。しか
し、私たちは単一の意志をもつ者ではありません。私たちは欲望と
必要、本能と衝動の集積です。それらは互いに混ざりあい、ときに
はあるものが、あるときは別のものが支配し、しかも長続きしませ
ん。
マハラジ
必要というものはない。
欲望だけだ。
質問者 食べ、飲み、自分の身体を保護すること、生きることは?
マハラジ
生きようと望むことは基本的な欲望だ。
ほかのすべてはそれに依存している。
質問者 私たちは生きています。なぜならば、そうしなければならないから
です。
マハラジ
私たちは生きている。
なぜなら感覚的存在を切望しているからだ。
『私は在る』(p149)
質問者 普遍的なことがらは、間違いのはずはありません。
マハラジ
もちろん間違いではない。
その時と場所においては間違ったことなど何もない。
しかし真実に関心をもち、実在に関心をもつならば、あなたはすべてを、あ
なたの人生そのものを疑わなければならない。
感覚的必要性、知的体験を主張することによって、あなたは真理の探究を安
楽の追求へと狭めてしまうのだ。
『私は在る』(p149-150)
質問者 私は安楽ではなく、幸福を探しているのです。
マハラジ
マインドと身体の安楽を超えて、あなたはどんな安楽を知っているというの
だろう?
質問者 何かほかにあるのでしょうか?
マハラジ
自分で見いだしなさい。
あらゆる衝動を疑いなさい。
身体的、精神的所有物を解き放ち、私利私欲を離れ、発見に対してオープン
でありなさい。
『私は在る』(p150)
質問者 ただ聖者や賢者のそばで生活することだけで開放へ導き、ほかに何
の手段も必要ないというのが、インドの霊的な伝統の一部です。な
ぜあなたは、人びとがあなたのそばで生活できるようにアーシュラ
ムを組織しないのでしょうか?
マハラジ
ある組織を設立したとたん、私はその囚人となる。
実際問題として、私はすべての人に開かれている。
共有の屋根や食事が人びとをより歓迎するわけではない。
「近くに生きること」とは、同じ空気を呼吸するという意味ではない。
それは信頼し、したがい、師の善意を無駄にしないことだ。
グルをつねにあなたのハートのなかに保ち、彼の教えを覚えていることが、
本当に真実ともに生きることだ。
身体的距離の近さが重要なのではない。
あなたの全人生を、師への信頼と愛の表現にするがいい。
これが真にグルとともに生きることだ。
『私は在る』(p150)
質問者 誰もが「私は働く、私は来る、私は行く」と言います。
マハラジ
私はあなたの言語習慣に異議はない。
だが、それは実際を歪(ゆが)ませ、破壊してしまうのだ。
より正確な言い方は、「そこには話すことが、働くことが、来ることが、行
くことが起こっている」となるだろう。
なぜなら、何かが起こるには宇宙全体が符合しなければならないからだ。
ひとつの出来事の原因が何か特定のものと信じるのは間違いだ。
すべての原因は普遍的なものなのだ。
宇宙全体がその創造と存続に貢献しないかぎり、あなたの身体は存在しなか
っただろう。
ものごとは起こるがままに起こる、なぜなら、世界はあるがままだというこ
とに、私は完全に気づいているからだ。
出来事の流れに影響を与えるには、世界のなかに新しい要因をもたらさなけ
ればならない。
そしてそのような要因は、私のなかで焦点を合わされた愛と理解の力である
私自身でしかありえないのだ。
身体が誕生するとき、あらゆることが自由に起こる。
そしてあなたは自分を身体だと見なして、それらに関わっていく。
あなたは映画館でずっと席に座っていて、画像が光の戯(たわむ)れにすぎ
ないのをよく知っているにもかかわらず、画面を見て笑ったり泣いたりして
いる人のようなものだ。
その魔力を破るには、スクリーンから自分自身へと注意を移行させるだけで
充分なのだ。
身体が死ぬとき、あなたが現在生きている身体的、精神的出来事の連鎖であ
る人生は終わりを迎える。
それは身体の死を待たずとも、今でさえ終わらせることができる。
注意を真我に移行し、そこにとどめておくだけで充分なのだ。
あたかもそこに、すべてを創造し、動かす神秘の力があるように。
すべては起こるのだ。
あなたは動かす人ではなく、ただの観察者なのだということを自覚しなさい。
そうすれば、あなたは平和の内にあることだろう。
質問者 その力とは私から離れてあるものでしょうか?
マハラジ
もちろん、そうではない。
だが、あなたは冷静な観察者としてあることからはじめなければならない。
そのときにのみ、あなたは普遍的な愛する者と行為する者としてのあなたの
完全な存在を認識するだろう。
あなたが特定の人物としての困難のなかに巻き込まれているかぎりは、何も
その彼方にあるものを見ることはできない。
だが究極的には、あなたは特定でも普遍的でもなく、その両方を超えたもの
だと知ることだろう。
鉛筆の先のごく小さな点が無数の絵を描きだすように、気づきの無次元の点
は広大な宇宙の内容を描くことができるのだ。
その点を探し出し、自由になりなさい。
質問者 私は何から世界をつくり出したのでしょうか?
マハラジ
あなた自身の記憶からだ。
あなたが創造者としての自分に無知なかぎり、あなたの世界は限定され、反
復的なものになる。
ひとたびあなたが過去との自己同一化を超えていけば、調和と美の新しい世
界を自由につくり出すことができる。
あるいは、あなたはただ存在と非存在の彼方にとどまるのだ。
質問者 もし私が記憶を手放したなら、何が残るのでしょうか?
マハラジ
何も残らないだろう。
質問者 私はそれを恐れるのです。
マハラジ
自由とその祝福を体験するまであなたは恐れることだろう。
もちろん、身体を識別し導くためにはいくらかの記憶が必要だ。
そしてそのような記憶は残る。
だが、身体への執着が残ることはない。
それはもはや欲望と恐れの拠(より)り所ではなくなるのだ。
これらすべてを理解し、修練することは何も難しいことではない。
しかし、あなたは興味をもたなければならない。
興味なしには何もなされないからだ。
あなたとは執着によって束ねられた一束の記憶なのだということを理解した
上で、そこから踏みだし、外側から見てみなさい。
はじめてあなたは記憶ではない何かを知覚するだろう。
自分個人の関心事に忙しい某氏として在ることをやめて、ついにあなたは平
和になるのだ。
世界には何も間違ったところがないということを、あなたは認識するだろう
――間違っていたのはあなただけだ。
そして、それは今終わったのだ。
けっしてふたたび、あなたは無知から生まれた欲望の網の目に捕まることは
ないだろう。 『I AM THAT 私は在る』(p406-408)
マインドとは誤解するものだ。
誤解がその本性そのものなのだ。(『私は在る』p540)
あなたは世界に属するのではない。
あなたは世界の中にいるのでさえない。
世界は存在しない。
あなただけが在るのだ。(p471)
あなたがあなたを含むすべての証明なのだということを、まず悟るべきだ。
あなたの存在を証明できるものは何もないのだ。
なぜなら、他者の存在もあなたによって確認されなければならないからだ。
......
『私は在る』(p178)
だが、体験者に証拠は必要ないのだ。
「私は在る」、そして私は「私は在る」と知っている。
それ以上の証拠を望むことはできない。 『私は在る』(p376)
すべての聖典は世界が存在する前に創造者が存在したと言っている。
誰が創造者を知っているのだろうか?
創造者以前に存在したのは、すべての世界とその創造物の源である、
あなたの真我だけなのだ。
『私は在る』(p225)
苦痛と快楽は起こる。
だが、苦痛は快楽の値段であり、快楽は苦痛の報酬なのだ。
人生のなかでも、しばしばあなたは傷つけることで喜び、喜ばすことによっ
て傷ついている。
苦痛と快楽がひとつだと知ることが平和なのだ。
『私は在る』(p182)
マインドと自己同一化すること、ただそれだけがあなたを幸福に、あるいは
不幸にするのだ。
マインドへの隷属に反抗しなさい。
『私は在る』(p538)
あなたは何から自由になるというのだろう?
明らかに、あなたは自分自身だと思いこんでいる個人から自由にならなけれ
ばならないのだ。
なぜなら、あなたが自分自身に関してもっている観念、それがあなたを束縛
しているからだ。
『私は在る』(p459)
あなたのマインドを理解しなさい。
そうすればマインドはあなたをつかんでいる手をぱっと放すだろう。
マインドとは誤解するものだ。
誤解がその本性そのものなのだ。
『私は在る』(p540)
あなたはあなただと思いこんでいる個人として在ることに、本当にうんざり
していなければならないのだ。
そしてこのひと束の記憶と習慣との無用な自己同一化から自由となる緊急の
必要性を見なさい。
この無用な自己同一化に対する揺るぎない抵抗が成功の秘密なのだ。
『私は在る』(p528)
常習的な利欲心、結果を探し求める習慣を止めなさい。
そうすれば自由の世界はあなたのものだ。
努力せずに在りなさい。 『私は在る』(p206)
質問者 あなたは喜んだり悲しんだりすることがありますか? 喜びや悲し
みを知っていますか?
マハラジ
それらをあなたの好きなように呼ぶがいい。
私にとってそれらはマインドの状態にすぎない。
そして私はマインドではないのだ。
質問者 愛はマインドの状態なのでしょうか?
マハラジ
それもまた、あなたが愛という言葉で何を意味しているかによる。
欲望はもちろん、マインドの状態だ。
だが、統合の実現はマインドを超えたものだ。
私にとっては、それ自体で存在するものは何もない。
すべてが真我であり、すべては私自身なのだ。
私自身を皆のなかに見、皆のなかに私自身を見ることは確かに愛だと言える
だろう。
質問者 私が快く思う何かを見たとき、それを欲しくなります。誰がそれを
欲しているのでしょうか? 自我でしょうか、マインドでしょうか?
マハラジ
この質問は誤った形で問われている。
そこに、「誰が」はいない。
そこにあるのは欲望、恐れ、怒りであり、マインドが、これは私だ、これは
私のものだと言うのだ。
「私」あるいは「私のもの」と呼べるようなものは存在しない。
欲望はマインドの状態であり、マインドによって知覚され、名づけられたも
のだ。
マインドが知覚せず、名づけなければ、欲望がどこにあるというのだろう?
質問者 しかし、名づけることなしに知覚するというようなことがあるでし
ょうか?
マハラジ
もちろんだ。
名づけるということが、マインドを超えることはありえない。
一方、知覚は意識そのものなのだ。
質問者 誰かが死ぬとき、正確には何が起こるのでしょうか?
マハラジ
何も起こりはしない。
何かが無となるのだ。
無が存在していた。
そして無が残るのだ。
質問者 それでも、生と死の間には違いがあるはずです。あなたは生きてい
るものを死んでおり、死んだものを生きていると言います。
マハラジ
なぜあなたはひとりが死ぬことに苦悩し、毎日何百万人もの人が死んでいく
ことは気にもかけないのだろうか?
宇宙全体が毎瞬、内破し、爆発しているのだ。
それらのために私が泣かなければならないのかね?
私にとってたったひとつ明白なことは、存在するすべて、生きるもの、動く
ものすべては、意識のなかにその存在をもつということだ。
そして、私は意識のなかに、そしてその彼方に在る。
私は観照者としてはそのなかに在り、実在としてはその彼方に在るのだ。
質問者 もちろん、あなたの子どもが病気になったときは気にかけるのでは
ありませんか?
マハラジ
私はあわてない。
ただ必要なことをするだけだ。
未来について心配したりはしない。
あらゆる状況への適切な反応、それが私の本質だ。
何をするべきかと立ち止まって考えたりはしない。
ただ行動し、先に進むだけだ。
結果は私に影響を与えない。
それが良いか悪いかさえ私は気にもしない。
それらが何であれ、あるがままだ。
もしふたたびそれが起こるならば、私は新たな姿勢でそれに取りかかる、
あるいは新たな姿勢で取りかかるということが、私に起こる。
私が何をしようと、そこにはいかなる目的感覚もない。
ものごとは起こるように起こるのだ。
私がそれらを起こらせるからではなく、私が在るゆえにそれらは起こるのだ。
実際には、けっして何も起こらない。
マインドに落ち着きのないとき、それはシヴァを舞い踊らせる。*
* 訳注 シヴァを舞い踊らせる
シバ神は南インド、タミル・ナードゥ州のチダンパラムでナータラ
ージャ神として現れ、宇宙の創造と破壊の舞を舞ったという神話が
ある。
波に揺らぐ湖の水が月を踊らせるように。
それらはすべて誤った概念による現れにすぎない。
質問者 確かにあなたは多くのことに気づいており、それらの本質にしたが
ってふるまっています。子どもは子どもとして、大人は大人として
扱っています。
マハラジ
塩味が大海に浸透しているように、海水の一滴一滴が同じ味を含んでいる。
同じようにあらゆる体験は、つねに新鮮な自己の存在の実現である実在の感
触を私に与えるのだ。
質問者 あなたが私の世界に存在するように、私もあなたの世界に存在して
いるのでしょうか?
マハラジ
もちろん私は在り、あなたは在る。
だが、意識のなかの単なる点として在るのだ。
私たちは意識から離れては在りえない。
このことはよく把握されなければならない。
世界は意識に依存しているのだ。
意識なしに世界はない。
『I AM THAT 私は在る』(p109-111)
苦痛の終焉(しゅうえん)は快楽のなかにはない。
あなたが自分を苦痛も快楽も超えたものだと、超然として屈することなく気
づくとき、幸福を追求することはやみ、結果として悲しみも消え去る。
なぜなら、苦痛は快楽のあとを追い、快楽は容赦なく苦痛に終わるからだ。
『私は在る』(p164)
幸福となるためにものが必要だと信じているかぎり、ものの不在によって不
幸になるに違いないと信じることだろう。
マインドはそれが信じることにしたがって形づくられるのだ。
それゆえ人は、幸福になろうと駆りたてられる必要はないのだと確信するこ
とが重要なのだ。
『私は在る』(p505)
あなたはつねに快楽を求め、苦痛を避けている。
いつも幸福と平和を追い続けているのだ。
あなたの幸福への探求自体が、あなたを惨めに感じさせているのがわからな
いだろうか?
『私は在る』(p258)
あなたの非依存性を自覚し、幸せでありなさい。
あなたに言おう。
これが幸福の秘密なのだ。
あなたの幸せがものごとや人びとに依存すると信じることは、自己の真の本
性に関するあなたの無知によるものなのだ。
自己知識を除いては、幸せとなるために必要なものは何もないと知ることが
智慧なのだ。
『私は在る』(p??)
思考と行為において、あなたの非依存性を主張しなさい。
結局、すべてはあなたが見、聞き、考え、感じることが現実だと確信するあ
なた自身の信念にかかっているのだ。
なぜあなたの信念を疑わないのか?
この世界が意識のスクリーンの上に、あなたによって描かれたものだという
ことは疑いないのだ。
そして、それは完全にあなたの個人的な世界だ。
たとえ世界のなかにあろうとも、あなたの「私は在る」という感覚だけが、
世界に属さないものだ。
どのような理論や想像による努力によっても、「私は在る」を「私はいない」
に変えることはできない。
あなたの存在を否定すること自体が、あなたの存在を主張している。
ひとたび世界はあなた自身の投影だと悟れば、あなたはそれから自由だ。
あなた自身の想像のなかにしか存在しない世界から自由になる必要はない!
いかにその絵が美しくとも、あるいは醜くとも、それはあなたが描いたもの
であり、あなたはそれに束縛されないのだ。
誰もあなたにそれを押しつけてはいないということを悟りなさい。
それは想像を現実と見なす習慣によるものなのだ。
想像を想像としてみなさい。
そして恐れから自由になるがいい。 『私は在る』(p218)
質問者 意識のなかには数多くの点が存在しています。世界もまた数多くあ
るのでしょうか?
マハラジ
夢を例にとって見なさい。
病院に多くの患者がいるとしよう。
みな眠って、夢を見ている。
病気という共通の要素を除いてはそれぞれが個人的な、無関係の、影響を互
いに与えない夢のなかにいる。
同様に、私たちも共通体験の現実世界から、想像によって私たち自身をひき
離し、個人的な欲望や恐れ、想像や思考、観念や概念の雲のなかに私たち自
身を囲み込んでしまったのだ。
質問者 これは私にも理解できます。しかし、個人的世界の途方もない多様
性の原因は何なのでしょうか?
マハラジ
その多様性はそれほどのものではない。
すべての夢はひとつの共通する世界の上に重ねられたものだ。
ある程度までそれらは互いを形づくり、影響を与えあう。
それにもかかわらず、基本的な統一性はそのすべてに作用している。
その根底にはすべて、私が誰かを知らないという自己忘却があるのだ。
質問者 忘れるには、人は知っていなければなりません。忘れる前に、私は
誰なのかを知っていたのでしょうか?
マハラジ
もちろんだ。
自己を忘れることは、自己を知ることのなかに本来備わっているものなのだ。
意識と無意識はひとつの生における二つの側面であり、それらは競争してい
る。
世界を知ることで、あなたは自己を忘れ、自己を知ることで、あなたは世界
を忘れるのだ。
結局のところ、世界とは何だろう?
記憶の集合だ。
ひとつのことを固守しなさい。
それが大切なことだ。
「私は在る」をつかみ取りなさい。
そしてほかのすべてを手放しなさい。
これがサーダナ(修練)である。
真我実現のなかには、覚えるものもなければ、忘れるものもない。
すべては知られたものだ。
思い出すことなど何もない。
質問者 自己忘却の原因とは何でしょうか?
マハラジ
原因はない。
なぜなら忘却などないからだ。
精神状態はひとつの状態から別の状態へと継続していく。
それぞれが以前の状態を消し去っていくのだ。
自己想起はひとつの精神状態であり、自己忘却は別の精神状態だ。
それらは夜と昼のように、交互に入れ替わる。
実在はその両方の彼方に在るのだ。
質問者 忘れることと知らないことの間には、かならず違いがあるはずです。
知らないということに原因はいりません。忘れるということは以前
あった知識と、忘れる傾向と能力を前提条件としています。知らな
いということの原因を調べることができないことは認めます。しか
し、忘れることには何かの理由があるはずです。
マハラジ
知らないということはないのだ。
忘れるということがあるだけだ。
忘れることの何が間違っているというのだろう?
忘れることは、覚えることと同じように単純なことだ。
質問者 自分自身を忘れることは悲惨なことではありませんか?
マハラジ
自分自身をずっと覚えていることと同じように悲惨だ。
忘れることと忘れないことの彼方に、あるひとつの状態がある。
それが自然な状態だ。
覚えること、忘れること、どちらも思考と言葉に拘束されたマインドの状態
なのだ。
生まれるという考えを例にとって見よう。
私は生まれたと言われた。
私は覚えていない。
私は死ぬだろうと言われた。
私はそれを予期しない。
私は忘れてしまった、あるいは想像力に欠けているのだとあなたは言うかも
知れない。
しかし、私にはけっして起きなかったことや、明らかに不可能なことを期待
することはできない。
身体は生まれ、身体は死ぬ。
だが、それが私にとって何だというのだろう?
身体は意識のなかで来ては去っていく。
そして意識はその根底を私のなかに置いている。
生命は私であり、マインドと身体は私のものだ。
質問者 あなたは世界の根底に自己忘却があると言いました。忘れるために
私は覚えなければなりません。覚えるために私は何を忘れたのでし
ょうか? 私は、私は在るということを忘れてはいません。
マハラジ
この「私は在る」もまた幻想の一部分なのだ。
質問者 なぜそう言えるのでしょうか? あなたに私が存在しないと証明す
ることはできません。たとえ私が存在していないと納得させられても、私は
存在しています。
マハラジ
実在は証明することも、反証することもできない。
マインドの範疇(はんちゅう)では不可能であり、マインドを超えればその
必要もない。
実在のなかでは、「実在とは何か?」という疑問は起こらない。
顕現(サグナ)と非顕現(ニルグナ)は別のものではないのだ。
質問者 その場合はすべてが実在なのです。
マハラジ
私はすべてであり、私自身としてはすべてが実在だ。
私を離れては何も実在ではない。
『I AM THAT 私は在る』(p111-113)
意識を人の全体像として見なすのは間違いだ。
人は無意識であり、意識であり、超意識だ。
だが、あなたは人ではないのだ。
あなたのものとは映画のスクリーン、光、そして見る力だ。
だが、映像はあなたではない。
『私は在る』(p463)
(私が住んでいるのは)存在と非存在を超えた、意識を超えた空のなかだ。
『私は在る』(p410)
彼(仏陀)はすべての意識が苦痛に満ちたものだと意味していたのだ。
それは明白だ。
『私は在る』(p400)
意識がそこにあるかぎり、苦痛と快楽は避けられない。
『私は在る』(p182)
マインドがつくり出したことは、マインドが破壊しなければならない。
あるいはマインドの外側に欲望はないと認識しなさい。
そして外側にとどまりなさい。
『私は在る』(p183)
誰もが自分自身の世界をつくり出し、己の無知によって監禁され、そのなか
で生きているのだ。
わたしたちのしなければならないことは、牢獄の実在性を否定することだけ
だ。
『私は在る』(p226)
意識を人の全体像として見なすのは間違いだ。
人は無意識であり、意識であり、超意識だ。
だが、あなたは人ではないのだ。
あなたのものとは映画のスクリーン、光、そして見る力だ。
だが、映像はあなたではない。
『私は在る』(p463)
マインドは体系化と定義づけを切望し、つねに実在を言語的な形態のなかに
押しこもうと熱心なのだ。
すべてにおいてそれは観念を求める。
なぜなら、観念なしにマインドは存在しないからだ。
実在は本質的にひとりなのだ。
だが、マインドはそれをひとりにしておかない。
そして、その代わりに忙しく実在について考えつづける。
ただ非実在を実在として見なすこと、それがマインドにできる唯一のことな
のだ。
『私は在る』(p376-377)
世界は記憶のなかに存在する。
記憶は意識のなかに現れる。
意識は気づきのなかに存在し、気づきは存在の水面上の光の反映なのだ。
『私は在る』(p217)
意識のはじまりに関して語ることはできない。
時間とはじまりという観念は意識のなかに在るのだ。
何であっても、そのはじまりに関して語るには、そこから外に足を踏みださ
なければならない。
そしてひとたび外に出れば、そのようなものはけっして存在していなかった
ことがわかる。
ただ実在だけが在り、そのなかにそれ自身として独立した存在を持つものは
ない。
波が海から分離することができないように、生きるものすべても存在に根づ
いているのだ。
『私は在る』(p151)
マインドがつくり出したことは、マインドが破壊しなければならない。
あるいはマインドの外側に欲望はないと認識しなさい。
そして外側にとどまりなさい。
『私は在る』(p183)
質問者 私には世界が過ちの結果だとは感じられません。
マハラジ
完全な調査の後にのみそう言えるだろう、その前ではない。
もちろん、あなたが識別し、実在ではないものをすべて捨て去ったとき、後
に残るものが実在なのだ。
質問者 何か残るものがあるのでしょうか?
マハラジ
実在が残る。
だが、言葉に惑わされてはならない
質問者 遙かなる昔から、無数の誕生を通して、私は自分の世界を構築し、
改善し、理解してきました。それは完全でもなく、非実在でもあり
ません。それはプロセスなのです。
マハラジ
あなたは考え違いしているのだ。
世界はあなたなしでは何の存在ももってはいない。
あらゆる瞬間において、それはあなたの反映にすぎない。
あなたが創造し、破壊するのだ。
質問者 そしてふたたび構築し、改善するのです。
マハラジ
改善するには、それを反証しなければならない。
人は生きるために死ななければならない。
死を通る以外に再生はありえない。
質問者 あなたの世界は完全かもしれません。私の個人的世界は改善してき
ているのです。
マハラジ
あなたの個人的宇宙は、それ自体では存在しないのだ。
それはただ単に実在のかぎられた歪(ゆが)んだ見方だ。
改善が必要なのは宇宙ではなく、あなたの見方なのだ。
質問者 あなたはどう見るのでしょうか?
マハラジ
それは世界というドラマが演じられているステージだ。
重要なのは演技の質だけだ。
何を役者が語り、演じるかではなく、どのように彼らが語り、それを演じる
かが重要なのだ。
質問者 私には世界創造が神のリーラ(戯れ)でしかないという、この概念
が好きになれません。私はむしろ、世界を私たちが組み立てる仕事
場に比べるでしょう。
マハラジ
あなたは深刻にとらえすぎなのだ。
遊戯の何が悪いのだろう?
あなたが未完成であるかぎり、目的を持たざるをえない。
それまでは完全、完成が目的だ。
しかし、内面と外面を統合して自分のなかで完全になれば、そのときあなた
は宇宙を楽しむのだ。
そのために働くことはしない。
統合されていないものにとって、あなたはたいへんな努力とともに働くよう
に見えるかもしれない。
しかし、それは幻想なのだ。
スポーツマンは途方もない努力をするように見える。
だが、彼らの動機はすべて、遊ぶこととそれを誇示することなのだ。
質問者 神はただ戯れているだけで、目的のない行為に従事していると言う
のでしょうか?
マハラジ
神はただ真実と善だけではない。
彼はまた美しくもある(サティヤム―シヴァム―スンダラム)。
彼は喜びのために美をつくり出すのだ。
質問者 それならば、美が彼の目的ではありませんか?
マハラジ
なぜ目的を持ち出すのだろうか?
目的は活動、変化、未完成を暗示する。
神は美を目標にしているのではない。
何であれ、彼の行うことが美なのだ。
あなたは花が美しくあろうと試みていると言うだろうか?
その本質自体が美しいのだ。
同じように、神も完成を目指して努力しているのではなく、神は完成そのも
のなのだ。
質問者 美のなかで目的はそれ自体を満たすのです。
マハラジ
何が美しいのだろう?
何であれ美しいと感じるのは、至福に満ちて知覚されたときだ。
至福が美の本質なのだ。
質問者 あなたはサッチターナンダ(存在―意識―至福)について語ってい
ます。私は在るということは明白です。私は知っているということ
も明白です。しかし、私は幸福であるということは、まったく明白
ではありません。私の幸福はどこへ行ってしまったのでしょう?
マハラジ
自分の存在に完全に気づいていなさい。
そうすれば、あなたは意識的に至福のなかにある。
あなたがマインドを自己から引き離し、あなたではないものにマインドをと
どめるために幸福の感覚を失うのだ。
質問者 私たちにとって二つの道があります。努力の道(ヨーガ・マールガ)
と安楽な道(ボーガ・マールガ)です。どちらも解放という同じゴ
ールに導きます。
マハラジ
なぜボーガを道と呼ぶのかね?
どうして安楽が完成をもたらすことができるだろう?
質問者 完全に放棄する人(ヨーギ)は実在を見いだすでしょう。完全に楽
しむ人(ボーギ)もまたそこに達するのです。
マハラジ
どうしてそうありうるだろう?
それらは反駁しあっているのではないだろうか?
質問者 両極は出会うのです。完全なボーギとなることのほうが、完全なヨ
ーギになるよりも困難なのです。私は素朴な人間です。大胆にもの
ごとの価値評価をすることはできません。ヨーギもボーギも、結局
は幸福を求めているのです。ヨーギは永遠の幸福を求め、ボーギは
断続的幸福に満足します。しばしばボーギはヨーギよりも厳しい苦
労をするのです。
マハラジ
働き、闘いとらねばならないような幸福に何の価値があるのかね?
真の幸福は自発的で自然なものだ。
質問者 生きるものはみな幸福を探しています。異なるのは方法だけです。
ある人は内面を探し、それゆえヨーギと呼ばれ、ある人は外面を探
し、それゆえボーギだと非難されるのです。それでも彼らは互いを
必要とするのです。
マハラジ
喜びと苦痛は交互に入れ替わるものだ。
幸福は揺らぐことがない。
あなたが探し求め、見つけだすものは本物ではない。
けっして失ったことのないもの、譲渡できないものを見いだしなさい。
『I AM THAT 私は在る』(p113-115)
何にもまして、私たちは意識しつづけていたい。
あらゆる苦しみや屈辱を耐えてでも、意識しつづけることを望むのだ。
この体験への欲望に逆らって、顕現すべてを手放さないかぎり、解放はあり
えない。
私たちは罠にはまったままなのだ。 『私は在る』(p346)
質問者 毎朝、目覚めとともに世界が突然現れるのは、日々体験することで
す。それはいったいどこからやってくるのでしょうか?
マハラジ
何かが現れる前に、それに対する誰かがそこにいなければならない。
すべての出現と消滅は、何か変わることのない背景に対する変化を前提とし
ている。
質問者 目覚める前、私は無意識でした。
マハラジ
どういう意味だろう?
忘れてしまったのか、それとも体験しなかったのだろうか?
たとえ無意識のときでも、あなたは体験しないと言えるだろうか?
記憶の忘却、それが存在していないことの証明になるだろうか?
あなたが存在していなかったと、実際の体験として語ることができるだろう
か?
マインドが存在しなかったと言うことさえできない。
呼びかけられて、あなたは目を覚ましたのではなかったか?
そして、目覚めて最初に起こった感覚は、「私は在る」(I AM)ではなかっ
ただろうか?
眠り、または気絶の間にも、意識の種子は存在していたはずだ。
目覚めの時の体験は、「私は在る―身体―世界」とつながっていく。
それは連続して起こるように見えるが、実際には、世界の中で身体をもつと
いうひとつの観念として、すべて同時に起こるものだ。
誰かとして在ることなく、「私は在る」という感覚がありうるだろうか?
質問者 私はつねに記憶と習慣をもった「誰か」です。それ以外の「私は在
る」を私は知りません。
マハラジ
何かがあなたを知ることから妨げているのだろうか?
ほかの人が知っていることを知りたいと思ったとき、あなたはどうするだろ
う?
質問者 彼らの指導のもとにその知識の源泉を探るでしょう。
マハラジ
あなたにとって、あなたが単なる身体にすぎないのか、あるいは何かそれ以
外のものなのかを知ることは、重要ではないだろうか?
あるいはまったく何ものでもないかもしれないということを?
あなたが抱えているすべての問題は、あなたの身体の問題――食事、衣服、
家、友人、名前、名声、安全、生存だということがわからないだろうか?
これらの問題すべては、あなたが単なる身体ではないと悟った瞬間に消え去
るのだ。
質問者 私がこの身体ではないと知ることが何の役に立つというのでしょう
か?
マハラジ
あなたが身体ではないと言うことでさえ、まったくの真実とは言えない。
ある意味では、あなたはあらゆる身体、ハート、マインドのすべて、またそ
れ以上なのだ。
「私は在る」という感覚のなかに深く入っていきなさい。
そうすればあなたは見いだすだろう。
忘れ去ってしまったものを見つけだすにはどうするだろう?
思い起こすまでマインドにとどめておくのだ。
「私は在る」という存在の感覚が最初に現れる。
それがどこからやってくるのか、自分に尋ねなさい。
あるいは、それをただ静かに見守りなさい。
「私は在る」という感覚のなかにマインドが動じることなく定まったとき、
表現不可能な、しかし体験可能なひとつの境地へとあなたは入っていく。
何度も何度も試みることだ。
そうすれば、「私は在る」という感覚は、つねにあなたとともにある。
あなたが身体、感情、思考、観念、所有物などをそれに付随させてきただけ
だ。
こういった自己同化は、あらゆる誤解を招く。
そのため、あなたは本当の自分ではないものを自分自身と見誤ってきたのだ。
質問者 では、私とはいったい何なのでしょうか?
マハラジ
あなたが何ではないか、ということを知ればそれでいい。
あなたが何なのかを知る必要はない。
なぜなら知識とは既知なるもの、知覚されるもの、あるいは観念としてしか
表せないため、自己知識といったものはありえないからだ。
それゆえ、あなたが何なのかということは、完全な否定においてしか表せな
い。
あなたに言えることは、「私はこれではなく、あれでもない」ということだ
けだ。
意図をもって「これこそが私だ」ということはできない。
それはまったく意味をなさない。
あれやこれ、と指し示すことができるものは、あなたではありえない。
何かほかのものだとさえ言えない。
あなたは知覚や想像を超えた何かだ。
それにも関わらず、あなたなしでは想像も知覚もありえない。
あなたはハートの感じること、マインドの考えること、身体の為すことを観
察する。
そのこと自体が、あなたはあなたが観察するものではないということを示唆
しているのだ。
あなたなしで知覚や体験が可能だろうか?
体験とはかならず何かに帰属するものだ。
誰かが、これは私の体験だと言明するのだ。
体験者なくして体験はありえない。
体験者が体験にその実在性を与えるのだ。
あなたが体験できないもの、それに何の価値があるというのだろう?
質問者 体験者としての存在の感覚、「私は在る」という感覚もまた体験で
はないでしょうか?
マハラジ
明らかに、体験されたすべてのことは体験だ。
そして、すべての体験のなかに体験者が現れる。
記憶が連続するという幻想を与えるのだ。
実際には、各体験にそれぞれの体験者がいる。
そして、同一であるという感覚は、すべての体験者と体験との関係の根底に
おいて共通の要因があるためだ。
同一性と連続性は同じものではない。
ちょうどそれぞれの花がそれ自身の色をもっていながら、そのすべての色は
同じ光源をもとにしているように、数々の体験者も記憶においては別々であ
りながら、本質においては同一の分割不可能な気づきのなかに現れる。
この本質こそが根源、基盤、そして時空を超えたすべての体験の「可能性」
なのだ。
質問者 どのようにしてそれを得るのでしょう?
マハラジ
それを得る必要はない。
なぜなら、あなたがそれなのだ。
あなたがそれに機会を与えれば、それがあなたを得るだろう。
非実在のものへの執着を解き放ちなさい。
そうすれば、実在はそれ自身へと即座に速やかに入りこんでいくだろう。
自分自身の存在をあれやこれや想像するのをやめることだ。
そうすれば、あなたがすべてのハートであり、源泉であるという認識は明ら
かになるだろう。
それとともに選択でも、偏愛でも、執着でもない、すべてのものを愛すべき、
そして愛する価値あるものへと変容させるひとつの力、大いなる愛が現れる。
『I AM THAT 私は在る』(p23-25)
快楽と苦痛自体が悟りをもたらすことはない。
ただ理解だけがそれをもたらすのだ。
ひとたびあなたが世界は苦しみで満ち、生まれてくること自体が災いだとい
う真実を把握すれば、それを超えていこうとする衝動とエネルギーを見いだ
すだろう。
快楽はあなたを眠らせ、苦痛は目覚めさせる。
至福を通してだけではあなた自身を知ることはできない。
あなたの本性そのものが至福だからだ。
悟りを得るためには、あなたではないもの、対極と向き合わなければならな
いのだ。
『私は在る』(p325)
待つことは無駄なことだ。
問題を解決するために時間に依存することは自己欺瞞(ぎまん)だ。
未来は、単に過去がそれ自体を繰り返すだけなのだ。
変化は未来のなかではなく、いまの中だけで起こりうる。
『私は在る』(p420)
世界はつねにより良くなるべきだった。
しかし、それでもそうならなかった。
未来にどんな希望があるというのだろうか?
もちろん、サットヴァが上昇しているとき、そこには調和と平和の期間があ
った。
だが、ものごとはそれ自体の完成によって破壊されるものだ。
完全な社会は静的であることを余儀なくされる。
それゆえ、それは停滞し、崩壊するのだ。
頂上からすべての道は下へと向かっていく。
社会は人びとのようなものだ。
それは生まれ、成長し、ある時点で相対的な完成を遂げ、そして衰退し、死
を迎えるのだ。
『私は在る』(p437)
私のハートはあなたに目覚めてほしい。
私はあなたが夢のなかで苦しんでいるのを見ている。
そしてあなたが不幸の終焉へと目覚めなければならないことを知っているの
だ。
夢を夢としてみるとき、あなたは目覚める。
『私は在る』(p277)
この残酷な世界が誰にとって現れるのかを見いだしなさい。
そうすれば、なぜそのように残酷に現れるのかを知るだろう。
あなたの質問は完全に正当なものだ。
しかし、それが誰にとっての世界なのかをあなたが知るまでは、それに答え
ることはできないのだ。
『私は在る』(p398)
あるものの意味を見いだしたいのなら、あなたはつくり出した人に尋ねなけ
ればならない。
だから言っているのだ。
あなたが住んでいるこの世界をつくり出した人はあなたなのだ。
あなただけがそれを変え、あるいはつくり変えることができるのだ。
『私は在る』(p398)
あなたは無数の枝や葉を今まで育ててきた。
そしてこれからも育てていくだろう。
だが、あなたはそのまま残るのだ。
あなたが知らなければならないことは、そう在ったことではなく、そうなる
だろうことでもない。
ただ在ることなのだ。
宇宙を創造した欲望はあなたのものだ。
世界はあなた自身の創造だと知り、自由になりなさい。
『私は在る』(p398)
世界は無数の輪(リング)でできている。
それに引っかける鉤(フック)はみなあなたのものだ。
あなたの鉤をまっすぐにしなさい。
そうすれば何もあなたを捕らえることはできないだろう。
あなたの耽溺を放棄しなさい。
ほかに何も放棄するものはない。
常習的な利欲心、結果を探し求める習慣を止めなさい。
そうすれば自由の世界はあなたのものだ。
『私は在る』(p259)
夢から夢へと動きまわるのは、あなたではない。
夢があなたの前を流れていき、あなたは不変の観照者なのだ。
いかなる出来事もあなたの存在に影響を与えることはない。
これが絶対的な真理なのだ。
『私は在る』(p351)
質問者 真我を実現するには時間がかかるのでしょうか? それとも時間は
実現を助けることができないのでしょうか? 真我の実現はただ時
間の問題なのでしょうか? それとも時間以外の要因に依存するの
でしょうか?
マハラジ
待つことは無駄なことだ。
問題を解決するために時間に依存することは自己欺瞞(ぎまん)だ。
未来は、単に過去がそれ自体を繰り返すだけなのだ。
変化は未来のなかではなく、いまの中だけで起こりうる。
質問者 何が変化をもたらすのでしょうか?
マハラジ
澄みきった明晰(めいせき)性で変化の必要性を見なさい。
それだけだ。
質問者 真我の実現は物質のなかで、あるいはその彼方で起こるのでしょう
か? それは身体とマインドに依存する体験なのでしょうか?
マハラジ
すべての体験は限定された、一時的な幻想でしかない。
体験からは何も期待してはならない。
それが新しい次元の体験へと導くことはあっても、真我の実現自体はひとつ
の体験ではないのだ。
新しい体験がいかに興味深いものであっても、古いものより真実だというわ
けではない。
真我の実現が新たな体験ではないことは明らかだ。
それはすべての体験における時を超えた要因の発見だ。
それは体験を可能にする気づきなのだ。
すべての色のなかで光が色彩をもたない要因であるように、すべての体験の
なかには気づきが存在している。
それにも関わらず、気づきは体験ではないのだ。
質問者 もし気づきが体験ではないとするなら、それはどのようにして認識
されるのでしょうか?
マハラジ
気づきは常にそこにある。
それが認識される必要はないのだ。
マインドの扉を開きなさい。
そうすればそれは光で満ちあふれるだろう。
質問者 物質とは何でしょうか?
マハラジ
あなたは物質を何だと理解しているだろう?
質問者 科学は物質を理解しています。
マハラジ
科学は、単に私たちの無知の境界線を押し戻しているだけだ。
質問者 それでは自然とは何でしょうか?
マハラジ
意識的な体験の総体性が自然だ。
意識的自己としてのあなたは自然の一部なのだ。
気づきとしてのあなたはその彼方にある。
自然を単なる意識として見ることが気づきなのだ。
質問者 気づきの段階というものはあるのでしょうか?
マハラジ
意識のなかに段階はあるが、気づきのなかにはない。
それは均質がひと塊(かたまり)なのだ。
マインドのなかでのその反映が愛と理解だ。
理解における明晰性の段階や、愛の強烈さに度合いはあっても、その源に段
階はないのだ。
源は単一であり、シンプルだ。
だがその贈り物は無限のものだ。
ただ、贈り物を源と取り違えてはならない。
あなた自身が川ではなく源であることを自覚しなさい。
それだけだ。
質問者 私は川でもあるのです。
マハラジ
もちろんだ。
「私は在る」としてのあなたは、身体の岸の間を流れる川だ。
だが、あなたはまた源でもあり、海でもあり、空の雲でもあるのだ。
どこであれ、そこに生命と意識があるとき、あなたは在る。
極小よりも小さく、極大よりも大きい。
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
質問者 存在の感覚と生命の感覚――それらは同一のものでしょうか、それ
とも異なるものでしょうか?
マハラジ
空間のなかのアイデンティティがそのひとつをつくり出し、時間のなかの継
続性がもうひとつをつくり出すのだ。
質問者 あなたはかつて、見る者、見ること、見られるものは、三つではな
くひとつの単一体だと言われました。私にとって、その三つは分離
しています。あなたの言葉を疑うわけではありません。ただ、私に
は理解できないのです。
マハラジ
注意深く見てみなさい。
すると、見る者と見られるものは、見ることがあるときにだけ現れることが
理解できるだろう。
それらは見ることの属性なのだ。
あなたが、「私はこれを見ている」と言うとき、「私」と「これ」は見るこ
ととともに現れ、それ以前にはないことがわかる。
あなたは目に見えない「これ」や見ていない「私」をもつことはできないの
だ。
質問者 私は、「私は見ない」と言うことができます。
マハラジ
「私はこれを見ている」が「私は私が見ていないことを見ている」、あるい
は「私は暗闇を見ている」になるのだ。
見ることは残る。
知られるもの、知ること、知る者という三位のなかでは、知ることだけが事
実だ。
「私」と「これ」は疑わしいものだ。
誰が知ろう?
何が知られるというのだろう?
知ることがあるということを除いては、そこには何の確実性もないのだ。
質問者 どうして私は知る者ではなく、知ることに確信があるのでしょうか?
マハラジ
知ることは、在ることと愛することとともに、あなたの真の本性の反映なの
だ。
知る者と知られるものは、マインドによって加えられるのだ。
実際は何もないところに、主体―客体の二元性をつくり出すのがマインドの
本質なのだ。
『I AM THAT 私は在る』(p420-422)
質問者 私は遠い国からやって来ました。ある内的体験をしたのですが、あ
なたの言葉をうかがいたいのです。
マハラジ
もちろん。
あなたはあなた自身を知っているだろうか?
質問者 私はこの身体ではなく、マインドでもありません。
マハラジ
何をもってあなたはそう言うのだろうか?
質問者 私が身体だとは感じないのです。私はあらゆるところに在るように
感じられるのです。マインドに関しては、私はマインドのスイッチ
を入れたり切ったりすることができ、それが私をマインドではない
と感じさせるのです。
マハラジ
あなたが自分自身を世界のあらゆるところに感じるとき、あなたは世界から
分離しているのだろうか、それともあなたが世界なのだろうか?
質問者 その両方です。ときどき、私はマインドでも身体でもなく、すべて
を見るひとつの目だと感じます。私がより深くそのなかに入ってい
くと、私自身が見るものすべてとなり、世界と私はひとつになりま
す。
マハラジ
よろしい。
欲望はどうだろう?
あなたには欲望があるだろうか?
質問者 はい。それは短い間訪れ、表面的なものです。
マハラジ
では、それをどうするのかね?
質問者 私に何ができるというのでしょう? それは来ては去っていくもの
です。私はそれを見るだけです。ときおり、私は身体とマインドが
携わって、それを満たすのを見ます。
マハラジ
誰の欲望が満たされるのだろう?
質問者 それは私の住む世界の一部です。樹や雲がそこにあるように。
マハラジ
それは何か不完全さの証拠ではないだろうか?
質問者 いいえ。欲望はただ欲望なのです。そして私はただ私のままです。
どうして欲望の出現と消滅が私に影響を与えられるでしょう? も
ちろん、それはマインドの形態と内容に影響しますが。
マハラジ
よろしい。
あなたの仕事は何かね?
質問者 保護観察官です。
マハラジ
それはどういったものだね?
質問者 少年犯罪者が保護観察期間の終えると、ある特別監察官が彼らの行
動を見守り、職業訓練や仕事の世話をするのです。
マハラジ
あなたは働かなければならないのかね?
質問者 誰が働くのでしょうか? 仕事はただ起こるのです。
マハラジ
仕事をする必要があるのかね?
質問者 彼らは私を必要としているのかもしれません。彼らの運命が、私に
この仕事をさせるのです。生はひとつです。
マハラジ
あなたはどうやって現在の状態に行き着いたのだろうか?
質問者 シュリー・ラマナ・マハルシの教えが私を導いてくれたのです。そ
してダグラス・ハーディングという人が、どのように「私は誰か?」
に働きかけるかを教え、助けてくれたのです。
マハラジ
それは突然だったのだろうか、あるいは段階的だったのだろうか?
質問者 それはまったく突然でした。何かまったく忘れ去ってしまったこと
が、記憶に戻ってきたように。あるいは突然のひらめきの理解のよ
うでした。「何とシンプルだろう」と私は言ったのです。「何とシ
ンプルだろう。私は、私が考えていたものではなかった! 私は知
覚されるものでも、知覚する者でもない。私はただ知覚することな
のだ」と。
マハラジ
知覚することでさえない。
だが、それらすべてを可能にするものだ。
質問者 愛とは何でしょうか?
マハラジ
区別と分離の感覚が不在なときを愛と呼ぶがいい。
質問者 なぜ男と女の愛がそれほど強調されるのでしょうか?
マハラジ
なぜなら、幸福の要素がそのなかに顕著だからだ。
質問者 すべての愛がそうではないのでしょうか?
マハラジ
かならずしもそうではない。
愛は苦痛の原因となる。
そのとき、あなたはそれを慈悲と呼ぶのだ。
質問者 幸福とは何でしょうか?
マハラジ
内側と外側の調和が幸福だ。
一方、外側との自己同一化が不幸の原因となる。
質問者 自己同一化はどのようにして起こるのでしょうか?
マハラジ
自我はその本性として、それ自身だけを知っている。
それは経験に欠けるために何であれ知覚したものを自己だと受け取ってしま
うのだ。
痛めつけられて、それは注意すること(ヴィヴェーカ)を学び、独りで生き
るようになる(ヴァイラーギャ)。
正しい行為(ウパラーティ)が自然のものとなったとき、内なる強烈な衝動
(ムクシュトヴァ)がその源を探し求めるように駆りたてる。
身体のロウソクに火がともされたとき、すべては明らかに輝きだす(アート
マプラカーシュ)。
質問者 苦しみの真の原因とは何でしょうか?
マハラジ
かぎりあるもの(ヴィヤクティートヴァ)との自己同一化だ
感覚のようなものは、いくら強烈であっても苦しみの原因にはならない。
マインドが誤った観念にうろたえて、「私はこれだ、私はあれだ」と考える
ことにふけるようになる。
それが失うことを恐れ、得ることを熱望し、挫折したとき苦しむのだ。
『I AM THAT 私は在る』(p126-128)
質問者 私の友人は、毎晩毎晩恐ろしい夢を見たものでした。眠りにつくこ
とが彼を恐れさせたのです。何ひとつ、彼を助けることはできませ
んでした。
マハラジ
サットサン、真理との交わりが彼の助けとなる。
質問者 人生そのものが悪夢なのです。
マハラジ
サットサンは身体的、精神的、すべての病気にとって至上の治癒法だ。
質問者 たいてい、そのような交友を見いだすことはできません。
マハラジ
内面を探しなさい。
あなたの自己があなたの最良の友だ。
質問者 なぜ人生はこうも矛盾ばかりなのでしょうか?
マハラジ
それが精神的な自尊心を打ち破るのを助けるからだ。
私たちはいかに弱く、無力であるかを悟らなければならない。
自分自身はこう在り、知り、行為すると想像し、惑わされているかぎりは、
私たちは悲しくも苦境にいるのだ。
ただ、完全な自己否定のなかにのみ、私たちの真我を発見するチャンスがあ
る。
質問者 なぜそれほどまで自己否定が強調されるのでしょうか?
マハラジ
真我の実現におけるかぎり、真我が見いだされる前に、偽りの自己は捨て去
らなければならない。
質問者 あなたが偽りと呼ぶ自己こそ、私にとっては痛ましいほど本物なの
です。それが私の知る唯一の自己です。あなたのいわゆる真我は単
なる概念、言葉の言い回し、マインドの産物、魅力的な幻にすぎま
せん。私の自己は美しいものではありません。それは認めます。し
かし、それは私自身のものであり、唯一の自己です。あなたは、私
はもうひとつの自己だ、あるいは自己をもっていると言います。あ
なたにはそれが見えますか? それはあなたにとって現実のもので
しょうか? それともあなたは自分が見ないものを私に信じろと言
うのでしょうか?
マハラジ
急いで結論に飛びついてはならない。
具体的なものが本物であり、想像されたことが偽物である必要はない。
感覚をもとにし、記憶によって形づくられた知覚は、知覚する人を暗に示唆
している。
あなたはその知覚する人の本性をけっして調べようとしてこなかった。
充分な注意をもって、愛情ある心遣いとともにそれを調べてみるがいい。
あなた自身のちっぽけな自己イメージに没頭するばかりに、夢にも見なかっ
たような存在の高みと深遠さを発見することだろう。
質問者 私自身を調べるには正しい心もちでなければならないでしょう。
マハラジ
真剣に、集中し、誠実に関心をもたなければならない。
あなたはあなた自身に対する善意に満ちていなければならない。
質問者 私はまったく利己的です。
マハラジ
いいや、あなたは違う。
あなたはずっと奇妙な、有害で偽物の神々に仕えてきたために、あなた自身
を破壊してきたのだ。
まったく利己的になるがいい。
あなた自身によかれと願いなさい。
あなたにとって良いことをしなさい。
あなたと幸福の間に立ちはだかるものすべてを破壊しなさい。
すべてで在りなさい。
幸福でありなさい。
楽しくありなさい。
幸福よりも偉大なものはない。
質問者 なぜそれほど愛の中に苦しみがあるのでしょうか?
マハラジ
すべての苦しみは欲望から生まれる。
真の愛はけっして挫折しない。
どうして統合の感覚が挫折をもたらすことができるだろうか?
表現のための欲望は挫折しうる。
そのような欲望はマインドのものだ。
精神的なものすべてにとって、挫折は避けられない。
質問者 愛のなかでセックスはどう位置づけられるのでしょうか?
マハラジ
愛は存在の状態だ。
セックスはエネルギーだ。
愛は賢く、セックスは盲目だ。
ひとたび愛とセックスの本質が理解されたならば、混乱や葛藤はなくなるだ
ろう。
質問者 愛のないセックスがあまりにも多いのです。
マハラジ
愛なしにはすべてが悪だ。
生命自体、愛がなければ有害となる。
質問者 何が私を愛させるのでしょうか?
マハラジ
あなたが恐れないとき、あなたは愛そのものなのだ
ダグラス・ハーティング
わが人生の最良の日......いわゆる生まれ変わった日......は自分の頭がなくな
っていることに気づいた日である。
といっても、何とかして人の気をひこうと文学的修辞や警句をもてあそんで
いるわけではない。至極真面目な話......私は頭がなくなったのである。
ダグラス・ハーティング
私がそうした発見をしたのは三十三のときである。
確かにそれは突如として訪れたのではあるが、実は私にはある差し迫った問
題意識があり、それに応じて起きたことなのである。
当時、数か月来私の頭には「自分は何者なのか」という疑問が渦巻いていた。
私はその時たまたまヒマラヤを歩いており......あの地ではとかく普段とは違
う精神状態に陥りやすいといわれるが......恐らくそのことはほとんど関係し
ていないと思う。
もっともあの日はよく晴れた穏やかな日で、私が佇んでいた山上から青く霞
んだ谷間の向こうに見はるかす世界一の山並みの眺めは、重大な直感を得る
にふさわしい舞台装置ではあった。
『心眼を得る』(p13-14)
ダグラス・ハーティング
実際に起きたことはばかばかしいほど単純で、どうということのないことだ
った......私はただちょっとの間考えるのをやめただけだった。
理性や想像力、そしてあらゆる心のざわめきが消えうせていた。
このときばかりは完全に言葉を失っていた。
私は自分の名前や自分が人間であること、実在するものであること、私ある
いはわたしのものと呼ぶべきものを一切忘れていた。
過去も未来も抜け落ちていた。まるで自分がその瞬間に生まれ、真新しく、
無心で、記憶というものがまったくないような気がした。あるのはただ「今
(その瞬間)」と今確かに与えられている物だけだった。
見るだけで十分だった。
そして私の目に映ったものは褐色の靴のところで終わったカーキ色のズボン
の脚、肌色の手のところで終わった両側のカーキ色のシャツの袖、そして上
の方の......なんとまったく何もないところ......で終わったカーキ色のシャツ
の胸の部分であった。
確かに頭で終わってはいなかった。
この何もないところ、頭があるはずの場所の穴が、普通の空(くう)である
こと、単に何もないのとは違うことに気づくのにさして時間はかからなかっ
た。
何もないどころか、そこはしっかりと占められていた。
それはぎっしりと詰まった巨大な空、一切を宿す余白のある無......草や木、
陰影に富んだかなたの丘、そしてその遙か上空の青空に一並びのぎざぎざし
た雲のように浮かんだ雪をいただいた峰々を宿す余白のある無だった。
私は頭をなくし世界を手に入れたのである。
『心眼を得る』(p14-16)
文字どおりまったく息を呑むようだった。
私は完全に呼吸をとめ「与えられたもの」に酔いしれていたようだった。
ああ、ここにこんなすばらしい光景がある......それは支えるものもなく宙に
単独で神秘的に浮かび、澄んだ大気の中で明るく輝いていた。
(そしてこれこそ真の奇跡であり歓びであったが)それは「私」から完全に
自由で、いかなる見物人からも汚されていなかった。
その全存在は私が肉体も心も全く存しないことを意味した。
空気より軽く、ガラスより澄み、私自身から完全に解き放たれ、私はどこに
もいなかった。
『心眼を得る』(p16)
すると人間には二種あり......二つのぜんぜん別種の人間......が存することに
なる。
一つは私も無数に例を知っており、あきらかに肩の上に頭をのせている。
......
もう一つは私は一つしか例を知らないが、明らかに肩の上にそんな玉は乗せ
ていない。
『心眼を得る』(p22)
「それは当然ぼくにはぼくの頭は見えないさ」友人たちはいった。
「だからどうだっていうんだ」。
そして愚かにも私は答えはじめるのだった。
「だからすべてなんだ。だからきみや全世界がひっくりかえり裏がえしにな
るんだ......」。
そんなことをいったところで何の役にも立たなかった。
私は聞くものに興味を起こさせたり、その性格や意義が多少なりとも伝わる
ように自分の体験を説明することはできなかった。
『心眼を得る』(p54)
ダグラスハーティングの段階論
ハーディング氏が西洋文明のなかで独自に切り開いた「無頭道」の観点では、
誕生後の人間は「八つの階梯」のどこかに位置することになります。
すなわち、
(1)頭のない幼児
(2)子供
(3)頭のある大人
(4)頭のない見る人
(5)頭をなくす修行
(6)前進
(7)関門
(8)突破
の八つです。
(1)頭のない幼児
幼な子のあなたは動物のようだった。
「あなたにとって」あなたは頭や顔や目がなく、広大無辺で、自由で、あな
たの世界から切り離されていず......そうした自分の祝福すべき状態に気づい
ていなかった。......
『心眼を得る』(p83)
(2)子供
あなたは外に出ていって、一、二メートル離れたところから他人の目を通し
て見るように自分をかえりみ、他の者と同じように肩の上に普通の頭をのせ
た人間として彼らの視点で自分を「見る」という、運命的な基本的技術を少
しずつ覚えていった。
頭は普通の頭だが自分独特のものである。
あなたは鏡の中のあの特別な顔を見分け、その名を言えるようになった。
だが、あなたにとってあなたは、あなたの世界がその中にある自由で頭のな
い無限の「空間」でありつづけた。
実はあなたは時々その「空間」にちゃんと気づいているようだった。
(子供はよく、なぜ他の人には頭があるのに自分にはないのかと聞いたり、
自分はなく、どこにもいず、目に見えないなどと言ったりするものである。
カルロスは三つのとき、バースデイパーティーで大勢のおじさんやおばさん
を誰が誰か当てるようにいわれ、次々と正確に指さしていった。そのあと誰
かが彼に、カルロスはどこかときいた。
彼はあてどなく手を宙にさまよわせた。
カルロスはカルロスを探しだすことはできなかった。
また、それとは別のおり、彼は「いけない坊やね」と叱られたことがあった。
彼は「いけない」といわれたことには異議を唱えなかったが、ぼくは「坊や」
なんかじゃないと抗議した。
そのすぐあと、彼はおばあさんのところに行って、「ぼくは『坊や』ってい
うんだよ」といったそうな)。
......
『心眼を得る』(p84)
(3)頭のある大人
だが人間の成長には驚くほど個人差がある。
ボビーはわずか二歳でもう鏡の中の自分をじっと見つめる癖がついていた。
そして二歳三か月のとき(愚かなことだと思うが)母親が鏡のそばの......ち
ょうどボビーのいるあたり......には顔なんかなくて何もないみたいだといっ
た。
ボビーは「そんなこといっちゃだめ、こわいよ」といった。
人間はごく小さいころから、外部から教え込まれた自分の像が、それまで内
から自分が見ていた自己像に影を投げかけ、重なりはじめ、ついにはもとの
像を完全に覆い隠してしまうようである。
われわれは成長したのではなく、退行したのである。
......
『心眼を得る』(p86)
質問者 眠りの間、あなたはどうしていますか?
マハラジ
眠っている状態に気づいている。
質問者 眠りは無意識の状態ではないでしょうか?
マハラジ
そうだ。
私は無意識の状態に気づいている。
質問者 それでは目覚めのとき、あるいは夢見のときは?
マハラジ
私は目覚めあるいは夢見の状態に気づいている。
質問者 理解できません。正確にはどういう意味でしょうか? 質問を明確
にさせてください。眠りの状態とは無意識を意味しています。目覚
めの状態とは意識を、夢見とは周囲の状況ではなくマインドを意識
している、ということを意味しています。
マハラジ
私にとっても同じことだ。
しかし、そこには違いがあるように見える。
各々の状態のなかで、あなたはほかの二つの状態を忘れているが、私にとっ
ては目覚め、夢見、眠りの三つの精神状態を含み、しかも超越したひとつの
存在状態があるだけだ。
質問者 この世界には、ある方向性や目的があるとあなたは見ていますか?
マハラジ
世界とは私の想像の反映にすぎない。
何であれ見たいと思うものを、私は見ることができる。
だが、なぜ創造、進化、破壊というパターンを編みだす必要があるだろうか?
私にはそれらは必要ない。
世界は私のなかにあり、世界は私自身なのだ。
私はそれを恐れることもなければ、それをひとつの固定させた心理的画像に
閉じこめたいなどという望みもない。
質問者 眠りに戻りますが、あなたは夢を見ますか?
マハラジ
もちろん。
質問者 あなたの夢とは何でしょうか?
マハラジ
目覚めの状態の反映だ。
質問者 では、あなたの深い眠りは?
マハラジ
脳意識が一時停止した状態だ。
質問者 それでは、あなたは無意識なのでしょうか?
マハラジ
私を取り巻く環境への無意識ということでは、そうだ。
質問者 まったくの無意識ではないということでしょうか?
マハラジ
私は無意識だということに気づいている。
質問者 あなたは「気づく」という言葉と「意識する」という言葉を使って
いますが、それらは同じものではないのですか?
マハラジ
気づきは根本的なものだ。
それは根元的状態であり、はじまりがなく、終わりもない。
原因がなく、支えがなく、部分も、変化もない。
意識は表層の反映と関連しており、二元的な状態だ。
気づきなしに意識は在りえない。
しかし深い眠りのように、意識がなくても気づきは存在しうる。
気づきは絶対的だ。
意識はつねに何かに属し、その内容との相関関係にある。
意識は部分的であり、変化するもの。
気づきは完全で、不変であり、静かで沈黙の内にある。
そして、それはあらゆる経験の共通の母体なのだ。
質問者 人はどのように意識を超え、気づきのなかに入っていくのでしょうか?
マハラジ
そもそも意識を起こさせるのは気づきであるため、あらゆる意識の状態には
気づきがある。
それゆえ意識が意識しているという意識そのものが、すでに気づきにおける
動きなのだ。
自分の意識の流れに興味を抱くこと自体が、あなたを気づきへと導く。
それは何も新しい状態ではない。
それが根元的な、生命そのものである基本的存在、そしてまた愛と喜びであ
ることは直ちに認識されるだろう。
質問者 実在がつねに私たちとともに在るのなら、真我の実現は何によって
成立するのでしょうか?
マハラジ
真我の実現は無知の反対にほかならない。
この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみ
の原因だ。
真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知る
ことが自由であり、平和と喜びなのだ。
それはとてもシンプルだ。
ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学
びなさい。
すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。
それは鏡を磨くようなものだ。
あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せ
るだろう。
「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。
それを使いなさい。
『I AM THAT 私は在る』(p49-50)
すべての意識は限定され、そしてそれゆえ苦痛に満ちているのだ。
意識の根底には体験への衝動という欲望が横たわっている。(p182)
意識している長所とは単なるうぬぼれにすぎない。
意識はつねに障害なのだ。(p417)
「私は在る」という感覚が顕現の根本的な原因だ。
それを自己、神、実在、あるいはほかの名で呼んでもいい。
「私は在る」は世界のなかにある。
しかし、それは世界の外に出るための扉を開く鍵なのだ。
水面に踊る月は、水のなかに見られる。
だが、それは水によってではなく、空の月によって生じたのだ。
『私は在る』(p217)
質問者 本質の探究において、人はすぐに自らの無力さを知り、指導者や師
の必要性を悟ります。これはある一定の試練を意味しています。な
ぜなら、指導者を信頼し、彼の助言と教えに従うように期待される
からです。しかし、それでも社会からの要求や圧力は非常に大きく、
個人的欲望と恐れがあまりにも強力なため、服従に本質的なマイン
ドの純真さと意志を得ることができません。どうすればグルの必要
性と、神に絶対的な服従をすることの間にバランスを見いだせるで
しょうか?
マハラジ
社会と環境からの圧力のもとに為(な)されたことはさほど重要ではない。
なぜなら、それはほとんど機械的で、単に刺激に反応しているにすぎないか
らだ。
自分自身を冷静に見守り、起こっていることから自分自身を完全に孤立させ
ることで充分だ。
注意もせず、盲目のうちに為された行為はカルマ(運命)に加えられる。
さもなければ、それは大した問題ではない。
グルが要求することはひとつだけだ。
明晰性と目的の強烈さ、自分自身に対する責任の感覚だ。
世界の実在性そのものが疑われなければならない。
結局のところ、グルとは誰か?
世界も、それに関する考えも存在しない状態を知るその人、彼が至高の師だ。
彼を見つけることは、もはや想像を実在と見なすことのない状態に達するこ
とを意味する。
どうか理解してほしい。
グルは実在を、真理を、ただ在るものを象徴するのだ。
彼は言葉の最上の意味において現実主義者だ。
彼はマインドとその妄想に降伏できないだろうし、またしない。
彼はあなたを実在へと連れていく。
彼に何かほかのことを期待してはならない。
あなたが考えている、情報や知識を与える人は真のグルではない。
真のグルは実在を知り、見かけの魅力を超えているのだ。
彼にとって、あなたの服従と試練に関する質問は意味をなさない。
なぜなら彼にとって、あなたがあなた自身だと信じている個人は存在しない
からだ。
あなたの質問は非存在の個人に関するものだ。
あなたにとって存在するものも、彼にとっては存在しない。
あなたが当然と見なしていることを、彼は絶対的に否定する。
彼はあなたに、彼があなたを見るように、あなた自身を見てほしいのだ。
そうしたとき、あなたは服従し、したがうグルを必要とはしなくなるだろう。
なぜなら、あなたはあなた自身の実在にしたがい服従するからだ。
何であれ、あなたが自分自身だと見なしているのは、ただの一連の出来事に
すぎない。
すべてが起こり、去来する間、あなただけが移り変わるもののなかでの不変、
推測されることのなかでの唯一自明のものなのだ。
観察する者から観察されるものを分離しなさい。
そして偽りの同一化を放棄するがいい。
質問者 実在を見いだすため、道を妨げるすべてを捨て去らなければなりま
せん。またその反対に、社会のなかで生き残っていく必要から、人
はたくさんのことを為し、また耐えていくように強(し)いられま
す。人は実在を見いだすために、職業や社会的立場を放棄するべき
なのでしょうか?
マハラジ
仕事をするがいい。
自由な時間があるとき、内面を見なさい。
重要なことは、機会がそれ自体を差しだしているときを逃してはならないと
いうことだ。
もしあなたが真剣ならば、許された時間を最大限に使うだろう。
それで充分だ。
質問者 私が本質を探究し、非本質的なものを捨て去っていくなかで、何か
創造的な生活のための機会があるでしょうか? たとえば、私は絵
を描くことを愛しています。もし私が余暇の時間を絵画に費やした
ならば、それは助けになるでしょうか?
マハラジ
あなたが何をしようとも、あなたのマインドを見守りなさい。
また、マインドが絶対的に静止した、完全な内なる平和と沈黙の時間をもた
ねばならない。
もしそれを逃せば、あなたはすべてを逃すことになる。
もしそれを逃さなければ、マインドの沈黙がそれ以外のすべてを吸収し、溶
かし去るだろう。
あなたの困難は、実在を求めながら同時にそれを恐れていることだ。
恐れているのは、あなたがそれを知らないからだ。
なじみのあるものは知られている。
あなたはそれらに安全を感じる。
未知なるものは不確かであり、それゆえ危険なのだ。
しかし、実在を知ることは、それとの調和のなかに在ることだ。
そして調和のなかに恐れの居場所はない。
幼児は自分の身体を知っている。
だが、身体を基盤とした区別を知らない。
ただ意識していて幸せなのだ。
結局のところ、それこそが生まれてきた目的なのだ。
在ることの喜びはもっともシンプルな形の自己愛だ。
それは後に、真我への愛として成長する。
幼児のように身体と自己の間に、何も妨げるものなく在りなさい。
生活のなかでの絶え間ない精神的騒音は、そこには不在だ。
深い沈黙のなかで、自己は身体を観照している。
それはまだ、何も書かれていない白紙のようなものだ。
その幼児のように在りなさい。
あれやこれに成ろうとするのではなく、在ることに幸せでありなさい。
あなたは意識界に完全に気づいている観照者として在るだろう。
だが、あなたと意識界の間には、いかなる感情も観念も立ちはだかるべきで
はない。
『I AM THAT 私は在る』(p232-234)
あなたの個人的宇宙は、それ自体では存在しないのだ。
それはただ単に実在のかぎられた歪(ゆが)んだ見方だ。
改善が必要なのは宇宙ではなく、あなたの見方なのだ。
『私は在る』(p113)
結局、すべてはあなたが見、聞き、考え、感じることが現実だと確信するあ
なた自身の信念にかかっているのだ。
なぜあなたの信念を疑わないのか?
この世界が意識のスクリーンの上に、あなたによって描かれたものだという
ことは疑いないのだ。
そして、それは完全にあなたの個人的な世界だ。
『私は在る』(p218)
理解すべき主要な点は、あなたがあなた自身の上に欲望と恐れの記憶をもと
とした、想像の世界を投影したということだ。
そして、そのなかにあなた自身を監禁したのだ。
その魔法を解いて自由になりなさい。
『私は在る』(p218)
ひとたび世界はあなた自身の投影だと悟れば、あなたはそれから自由だ。
あなた自身の想像のなかにしか存在しない世界から自由になる必要はない!
いかにその絵が美しくとも、あるいは醜くとも、それはあなたが描いたもの
であり、あなたはそれに束縛されないのだ。
誰もあなたにそれを押しつけてはいないということを悟りなさい。
それは想像を現実と見なす習慣によるものなのだ。
想像を想像としてみなさい。
そして恐れから自由になるがいい。
『私は在る』(p218)
「私は在る」という感覚のなかに深く入っていきなさい。
そうすればあなたは見いだすだろう。
忘れ去ってしまったものを見つけだすにはどうするだろう?
思い起こすまでマインドにとどめておくのだ。
「私は在る」という存在の感覚が最初に現れる。
それがどこからやってくるのか、自分に尋ねなさい。
あるいは、それをただ静かに見守りなさい。
「私は在る」という感覚のなかにマインドが動じることなく定まったとき、
表現不可能な、しかし体験可能なひとつの境地へとあなたは入っていく。
何度も何度も試みることだ。
そうすれば、「私は在る」という感覚は、つねにあなたとともにある。
あなたが身体、感情、思考、観念、所有物などをそれに付随させてきただけ
だ。
こういった自己同化は、あらゆる誤解を招く。
そのため、あなたは本当の自分ではないものを自分自身と見誤ってきたのだ。
『私は在る』(p24)
質問者 ただ在ることで満足するのは、もっとも利己的な時間の過ごし方の
なようですが。
マハラジ
もっとも価値のある利己的な在り方だ!
真我以外のすべてを差し控えることで、利己的になるがいい。
真我以外の何も愛さないとき、あなたは利己的と非利己的をともに超えてい
く。
すべての区別はその意味を失い、ひとつの愛とすべての愛は、純粋でシンプ
ルな、誰に対してでもなく、誰をも拒まない愛のなかでともに溶けあうのだ。
その愛のなかに住みなさい。
深く、より深くそのなかに入っていきなさい。
あなた自身を探求しなさい。
そして探求を愛しなさい。
そうすれば、あなたはあなた自身の問題だけではなく、人類全体の問題も解
決するだろう。
表面的な質問をしてはならない。
本質的な、あなたの存在の根そのものに向かいなさい。
質問者 私の真我の実現を早める方法はあるでしょうか?
マハラジ
もちろん、ある。
質問者 誰がそれを早めるのでしょうか? あなたが私のためにしてくれる
のでしょうか?
マハラジ
あなたがするのでも、私でもない。
それはただ起こるのだ。
質問者 私がここに来たということ自体がそれを証明しています。この加速
は聖者との交わりによるものでしょうか? 前回、私がここを去っ
たとき、戻ってくることを願っていました。そして、私は戻ってき
たのです! 今、私はもうすぐイギリスに帰らなくてはならないこ
とで絶望しています。
マハラジ
あなたは生まれたばかりの赤ん坊のようなものだ。
それは生まれる以前も存在していた。
だが、その存在を意識してはいなかったのだ。
誕生とともにそのなかに世界が立ち現れ、それとともに存在の意識が現れる。
今、あなたは意識のなかでただ成長するだけだ。
子どもはその世界の王だ。
成長すると、その王国を管理しはじめる。
幼少期に深刻な病気にかかり、医師がそれを治したと想像してみなさい。
幼い王にとって、彼の王国は医師の恩恵をこうむっているのだろうか?
おそらく貢献した要因のひとつとしてはそうだろう。
ほかにも多くの要因があり、すべてが貢献したのだ。
しかし主要な原因、もっとも決定的なものは、彼が王の息子として生まれた
という事実だ。
同様に、師も助けはするかもしれない。
しかし、主要な助けとなるのは、あなたが内なる真理をもっているというこ
とだ。
それがそれ自体を主張するのだ。
あなたがここに来たことは間違いなく助けになっただろう。
だが、それがあなたを助ける唯一のことではない。
重要なのはあなた自身の存在だ。
あなたの誠実さ自体がそれを証明するのだ。
質問者 私が絵の仕事に従事することは、私の誠実さを否定することになる
でしょうか?
マハラジ
もうすでに言ったはずだ。
あなたが平和な時間を豊富に自分に許すかぎり、あなたのもっとも敬うべき
仕事を間違いなく実践できる。
それらの内なる沈黙の時間がすべての障害を必ず焼き尽くすだろう。
その効力を疑ってはならない。
試してみなさい。
質問者 ですが、私は試したのです!
マハラジ
けっして忠実にではなく、堅実にでもなかった。
そうでなければ、あなたはこのような質問をしたりはしないだろう。
自分に確信がもてないから尋ねるのだ。
あなたに確信がないのは、体験にばかり注意を払って、けっして自分自身に
注意を払わなかったからだ。
すべての体験を超え、あなた自身に興味をもちなさい。
あなた自身とともに在りなさい。
あなた自身を愛しなさい。
究極の安全は自己知識のなかにだけ見いだすことができる。
重要なのは誠実さだ。
自分自身に正直でありなさい。
そうすれば、何もあなたを裏切ることはない。
美徳や力は、子どもが遊ぶためのただのおもちゃのコインにすぎない。
世界のなかでは、それらは有用だ。
だが、あなたをそれから連れだしはしない。
その彼方へと行くには不動の油断のなさ、平静な注意力が必要だ。
質問者 では、身体的存在はどうなるのでしょうか?
マハラジ
あなたが健康なかぎり、生きつづける。
質問者 内なる不動の生は、人の健康に影響を与えないのでしょうか?
マハラジ
あなたの身体は食べ物が変容したものだ。
食べ物が粗雑なものか、繊細なものかによって、あなたの健康も決まるだろ
う。
質問者 では、性的本能には何が起こるでしょうか? それはどのように制
御することができるでしょうか?
マハラジ
セックスは後天的な習慣だ。
超えていきなさい。
身体に焦点を合わせているかぎり、あなたは食べ物とセックス、恐れと死に
捕らえられたままだ。
あなた自身を見いだし、自由になりなさい。
『I AM THAT 私は在る』(p234-235)
私たちは多様性を、苦痛と快楽の劇を愛している。
私たちは対比によって魅せられているのだ。
このために対立するものと、それらの表面上の分裂を必要としている。
しばらくの間それらを楽しみ、それから退屈して、純粋な存在の平和と沈黙
を切望するのだ。
『私は在る』(p434)
意識がそこにあるかぎり、苦痛と快楽は避けられない。
対極のものと自己同一化することが、意識の、「私は在る」の本性なのだ。
『私は在る』(p182)
霊的な成熟はすべてを手放す用意のなかにある。
あきらめることが第一歩なのだ。
だが真の放棄は、そこに何も放棄するものなどないと悟ることだ。
なぜなら、あなたのものなど何もないからだ。
深い眠りのように、眠りに陥るとき、あなたはベッドを放棄するわけではな
い。
ただそれを忘れるだけだ。
『私は在る』(p381)
マハラジ
あなたがあなたを含むすべての証明なのだということを、まず悟るべきだ。
あなたの存在を証明できるものは何もないのだ。
なぜなら、他者の存在もあなたによって確認されなければならないからだ。
あなたは完全に、あなた自身によって在るのだということを覚えておきなさ
い。
あなたはどこからも来なかったし、どこへも行かない。
あなたは時間を超えた存在、そして気づきなのだ。
質問者 私たちの基本的な違いは、あなたは真実を知り、私が知っているの
は私のマインドの作用だけだということです。それゆえ、あなたの
言うことと私の聞くことにはであいがないのです。言葉は同じでも、
あなたが言うことは真実であり、私の理解することは偽りです。こ
の私たちの間の隙間をどうやって埋めればよいのでしょうか?
マハラジ
これがあなた自身であるという考えを放棄しなさい。
そうすれば隙間はなくなるだろう。
自分自身を分離していると考えることで、あなたは隙間をつくり出したのだ。
隙間を埋める必要はない。
ただ、隙間をつくらないことだ。
すべてはあなたであり、あなたのものなのだ。
そこにはほかに誰もいない。
これが事実なのだ。
質問者 何と奇妙な! 同じ言葉自体が、あなたにとっては真実であり、私
にとっては偽りなのです。「そこには他に誰もいない」、何と明か
な嘘でしょう!
マハラジ
嘘でも真実でもかまわない。
言葉は重要ではないのだ。
問題はあなた自身についてあなたが持っている考えなのだ。
なぜなら、それがあなたを妨げているからだ。
それを捨て去りなさい。
質問者 幼年時代から、私は名前と形に限定されていると考えるように教え
られてきたのです。単なる反対の表明だけで、精神的な轍(わだち)
を消し去ることはできません。定期的な洗脳が必要でしょう。もし
可能であるならば。
マハラジ
あなたは洗脳と呼び、私は轍を平らにするためのヨーガと呼ぶ。
何度も同じ思考を思いめぐらすように強(し)いられてはならない。
進みなさい。
質問者 言うは易く行うは難しです。
マハラジ
子どもみたいなことを言ってはならない。
苦しむより変えることのほうが易しいのだ。
幼稚さから脱却しなさい。
それだけだ。
質問者 そういったことは為されることではなく、起こることです。それら
は起こるのです。
マハラジ
すべてはつねに起こっている。
だが、あなたはそれに用意ができていなければならない。
用意のできていることが成熟なのだ。
あなたが真理を見ないのは、マインドに用意ができていないからだ。
質問者 もし実在が私の本性ならば、どうして用意ができていないというこ
とがありうるのでしょうか?
マハラジ
用意ができていないのは、恐れているからだ。
あなたはあなたが何であるかを恐れている。
全体性があなたの目的地だ。
だが、あなたは自己のアイデンティティを失うのが怖い。
これが幼稚さだ。
あなたは欲望と恐れ、意見と観念というおもちゃにしがみついているのだ。
すべてをあきらめ、真実がそれ自身を主張できるよう用意をしなさい。
この自己主張は、「私は在る」という言葉にもっともよく表されている。
それ以外何も存在をもってはいないのだ。
これに関しては、あなたは絶対の確信をもてるはずだ。
質問者 もちろん、「私は在る」であり、また「私は知る」でもあります。
そして、私は誰それであるということを知っており、身体の所有者
であり、他の所有者との多様な関係のなかにいるということを知っ
ています。
マハラジ
それはすべて、今のなかに持ちこまれた記憶なのだ。
『I AM THAT 私は在る』(p178-179)
あなたは欲望と恐れ、意見と観念というおもちゃにしがみついているのだ。
『私は在る』(p179)
あれやこれに成ろうとするのではなく、在ることに幸せでありなさい。
『私は在る』(p233)
質問者 ただ在ることで満足するのは、もっとも利己的な時間の過ごし方の
なようですが。
マハラジ
もっとも価値のある利己的な在り方だ!
真我以外のすべてを差し控えることで、利己的になるがいい。
『私は在る』(p234)
質問者 私が確信できるのは、今あることだけです。過去と未来、記憶と想
像、これらは精神的状態です。しかし、それらが私が知るすべてで
あって、それらは今在るのです。あなたはそれらを放棄するように
言いますが、いったいどうやって今を放棄できるのでしょうか?
マハラジ
あなたはいやおうなく、つねに未来のなかに進んでいるのだ。
質問者 私は今から今へと進んでいるのです。私はまったく動いてなどいま
せん。他のすべては動いても、私は動きません。
マハラジ
認めよう。
だが、あなたのマインドが動いている。
現在のなかで、あなたは動であり不動でもある。
あなたはあなた自身を動と見て、不動を見落としたのだ。
マインドを裏表にひっくり返しなさい。
動を無視しなさい。
そうすれば、あなたはあなた自身を常在で不変の実在、言語を絶する、しか
し岩のように確固たるものとして見いだすだろう。
質問者 もしそれが今なら、なぜ私は気づかないのでしょうか?
マハラジ
あなたがそれに気づかないという考えに固執しているからだ。
その考えを捨て去りなさい。
質問者 それは私を気づかせてはくれません。
マハラジ
待ちなさい。
あなたは同時に壁の両側にいることを望んでいる。
それはできる。
だが、壁を取り去らなければならないのだ。
あるいは壁とその両側はひとつの単一の空間であり、そこに「ここ」と「そ
こ」という観念は適応しないということを自覚しなさい。
質問者 比喩は何も証明しません。私の不満はひとつ、なぜ私はあなたの見
ていることを見ないのでしょう、なぜあなたの言葉は私のなかで真
実として響かないのでしょうか? ということです。これくらいは
教えてください。ほかのすべては待てます。あなたは賢く、私は愚
かです。あなたは見て、私は見ません。どこに私は智慧(ちえ)を
見いだせばよいのでしょうか?
マハラジ
もしあなたが愚かだということを知っているならば、あなたはまったく愚か
ではないのだ。
質問者 自分が病気だと知ることがそれを癒さないように、自分を愚かだと
知ることは私を賢明にはしません。
マハラジ
あなたが病気だと知ることが、健康になることのはじまりではないかね?
質問者 いいえ、違うのです。比べればわかります。仮に、私が生来盲目で
あって、あなたは物に触れることなしにそれを知ると私にいいます。
私は触れなければなりません。私は見るということの意味を知らず
に、自分が盲目であることに気づくのです。同様にあなたが主張す
ることを私が理解できないとき、私には何かが欠けているというこ
とを知るのです。あなたは私について本当に素晴らしいことを語り
ます。あなたによれば、私は永遠で、遍在し、全知の、至上の幸福
であり、存在するすべての創造者、維持者、破壊者、すべての生命
の源、存在の本質、神、そしてあらゆる創造物にとっての最愛の者
だということです。あなたは私を究極の実在、すべての存在のゴー
ルとその源と同等だと言います。私はただ無視するだけです。なぜ
なら、私自身は欲望と恐れの小さな包み、苦しみの泡、暗黒の海中
の、意識の一瞬のひらめきだと知っているからです。
マハラジ
苦痛以前にあなたは存在し、苦痛が去った後もあなたは残る。
はかないのは苦痛であり、あなたではない。
質問者 すみません。しかし、私にはあなたの見るものが見えないのです。
生まれた日から、死ぬ日まで、苦痛と快楽は人生の模様を織り込ん
でいくでしょう。誕生以前と死後の存在について私は何もわかりま
せん。私はあなたを容認も否定もしません。あなたの言われること
は聞きます。ただ私はそれを知らないのです。
マハラジ
今、あなたは意識がある。
そうではないかね?
質問者 どうか、以前と以後については聞かないでください。私は今のこと
だけを知っているのです。
マハラジ
それで充分だ。
あなたは意識している。
それをつかみなさい。
あなたが意識していない状態がある。
無意識の存在と呼ぶものだ。
質問者 無意識ですか?
マハラジ
意識と無意識はここではあてはまらない。
存在は意識のなかにある。
本質は意識に依存しない。
『I AM THAT 私は在る』(p179-181)
あなたが全宇宙の深遠な原因なのだ。
すべてはあなたが在るゆえに在る。
この要点を深く、確実につかみなさい。
そしてそれについて繰り返し熟考しなさい。
このことが絶対的な真実だと悟ることが解放なのだ。
『私は在る』(p267)
たとえ世界のなかにあろうとも、あなたの「私は在る」という感覚だけが、
世界に属さないものだ。
どのような理論や想像による努力によっても、「私は在る」を「私はいない」
に変えることはできない。
あなたの存在を否定することが自体が、あなたの存在を主張している。
『私は在る』(p218)
世界とあなた、どちらが先に生まれたのだろうか?
世界が先だと考えるかぎり、あなたはそれに縛られているのだ。
疑いの跡形もなく、世界はあなたのなかに在り、あなたが世界のなかに在る
のではないとひとたび悟れば、あなたは外に出ている。
もちろん、あなたの身体は世界のなかに、世界に属したままだ。
だが、あなたはもはやそれに惑わされはしない。
すべての聖典は世界が存在する前に創造者が存在したと言っている。
誰が創造者を知っているのだろうか?
創造者以前に存在したのは、すべての世界とその創造物の源である、あなた
の真我だけなのだ。
『私は在る』(p225)
目を覚ましたとき、あなたはよく眠ったと言う。
そう言えるということは、最も深い眠りのなかで、あなたはあなた自身に気
づいていたのだ。
ところが世界の存在についてはまったく気づいていなかった。
目覚めている今でさえ、「私は実在だ」と言っているのは世界だろうか、そ
れともあなただろうか?
質問者 もちろんそれを言うのは私ですが、私は世界について言っているの
です。
マハルシ
なるほど、あなたは世界が実在だと言う。
だとすれば、自分自身の実在についてさえ無知なあなたが、世界の実在性を
証明しようとしていることを、世界は無視しているのである。
『あるがままに―ラマナ・マハルシの教え』(p330)
あなたのものとは映画のスクリーン、光、そして見る力だ。
だが、映像はあなたではない。
『私は在る』(p463)
だが、あなたのマインドが動いている。
現在のなかで、あなたは動であり不動でもある。
あなたはあなた自身を動と見て、不動を見落としたのだ。
マインドを裏表にひっくり返しなさい。
動を無視しなさい。
そうすれば、あなたはあなた自身を常在で不変の実在、言語を絶する、しか
し岩のように確固たるものとして見いだすだろう。
『私は在る』(p179)
世界は無数の輪(リング)でできている。
それに引っかける鉤(フック)はみなあなたのものだ。
あなたの鉤をまっすぐにしなさい。
そうすれば何もあなたを捕らえることはできないだろう。
あなたの耽溺を放棄しなさい。
ほかに何も放棄するものはない。
常習的な利欲心、結果を探し求める習慣を止めなさい。
そうすれば自由の世界はあなたのものだ。
『私は在る』(p259)
質問者 それは虚空でしょうか? 沈黙でしょうか?
マハラジ
なぜ言葉巧みになるのかね?
存在は意識に浸透し、そして超越する。
客観意識は純粋な意識の一部分であり、それを超えることはないのだ。
質問者 意識でも無意識でもない純粋な存在状態を、どのようにして知るに
至ったのですか? すべての知識は意識のなかにのみ存在するので
す。マインドの停止といった状態はあるかもしれません。そのとき
意識は観照者として現れるのでしょうか?
マハラジ
観照者だけが出来事を記録する。
マインドの停止状態では、「私は在る」という感覚さえも消え去る。
マインドなしに「私は在る」はないのだ。
質問者 マインドがないということは思考がないということです。思考とし
ての「私は在る」は静まり、存在の感覚である「私は在る」は残り
ます。
マハラジ
マインドとともにすべての体験は静まる。
マインドなしには体験者も体験もありえない。
質問者 観照者は残るのでしょうか?
マハラジ
観照者は単に体験の存在と不在を記録するだけだ。
それは、それ自体では体験ではないが、「私は観照者だ」という思いが立ち
現れたとき、それは体験となる。
質問者 私が知っていることといえば、マインドはときどき作用し、ときど
き止まるということです。精神的沈黙の体験を、私はマインドの停
止と呼んでいます。
マハラジ
それを沈黙、または虚空、あるいは停止とでも呼ぶがいい。
事実は体験者、体験すること、体験の三つが不在だということだ。
観照のなか、気づきのなかでは、自意識、あれやこれとしての存在の感覚は
ない。
自己同一化されない存在が残るのだ。
質問者 それは無意識の状態なのでしょうか?
マハラジ
それは何とでも関係している。
それは対極のものだ。
それはまた、すべての対極の中間であり、その彼方でもある。
それは意識でも無意識でもなく、その中間でもその二つを超えたものでもな
い。
それはそれ自体で在り、体験やその不在といった何かとの関係はない。
質問者 なんと奇妙な! あなたはそれが体験であるかのように話をします。
マハラジ
私がそれについて考えたとき、それは体験になるのだ。
質問者 目に見えない光が花に遮(さえぎ)られて色となるように、それは
体験となるのでしょうか?
マハラジ
そうだ。
それは色のなかにあるが、色そのものではない。
質問者 古くからおなじみのナーガールジュナ(竜樹:りゅうじゅ)の四重
否定です。これでもなく、それでもない、その両方であり、そのど
ちらでもない。めまいがしそうです!
マハラジ
あなたの困難は、実在を意識の状態と考えることから生じるのだ。
あたかも実在が多様な尺度をもった属性か特質かのように、あなたは「これ
は真実で、あれは真実ではない。そしてこれは部分的に真実で、部分的に偽
りだ」と言う傾向がある。
質問者 私ならこう言うでしょう。結局、意識は苦痛をともなったときに問
題となるのです。永遠の至福の状態では、質問は起こりません。す
べての意識は快楽と苦痛の混合なのです。なぜでしょうか?
マハラジ
すべての意識は限定され、そしてそれゆえ苦痛に満ちているのだ。
意識の根底には体験への衝動という欲望が横たわっている。
質問者 つまり、欲望なしに意識はないということなのでしょうか? では、
無意識であることにどのような利点があるのでしょう? もし私が
苦痛からの自由のために快楽を差し控えなければならないとしたら、
私ならどちらも取っておくでしょう。
マハラジ
苦痛と快楽の彼方に至福があるのだ。
『I AM THAT 私は在る』(p181-182)
私が教える道は、理解を通して至る太古からのシンプルな解放の道だ。
あなたのマインドを理解しなさい。
そうすればマインドはあなたをつかんでいる手をぱっと放すだろう。
マインドとは誤解するものだ。
誤解がその本性そのものなのだ。
正しい理解が唯一の治療法だ。
あなたがそれをどう呼ぼうとも。
理解の道はもっとも原初の、そして最新の治療法なのだ。
なぜなら、それはマインドをあるがままに扱うからだ。
『私は在る』(p540)
ヒンドゥ教の伝統的な結婚式では、婚礼の式典が5,6日つづくこともまれ
ではない。
そのような式典に、あるとき見知らぬ男が新郎側の参会者から主賓と見間違
われて特別な敬意を受けてもてなされていた。
新郎側から特別にもてなされている男を見て、新婦側も、新郎側に関係した
何か重要な人だと思い、彼に特別な敬意を示した。
それで、見知らぬ男は実に楽しい時間を過ごしたのだった。
彼はその間ずっと実際の状況にも気づいていた。
ある機会に、彼が誰に関係しているのかを知ろうと、新婦側が彼について新
郎側に尋ねた。
すると、彼はすかさず困難を嗅ぎつけて、その場を立ち去ったのである。
自我もこれと同じである。
もし探しだせば、それは消え去る。
もし探さなければ、それはあなたに問題を与えつづけるだろう。
『あるがままに―ラマナ・マハルシの教え』(p109-110)
あなたはけっして生まれなかったし、けっして死ぬこともないだろう。
生まれて、そして死んでいくのは観念であり、あなたではないのだ。
あなた自身を「私は生まれた」という想念と同一化することで、あなたは死
をまぬがれない者となる。
映画のなかではすべてが光であるように、意識が広大な世界となるのだ。
よく見てみなさい。
すべての名前と形は、意識の大海のはかない波にすぎず、ただ意識だけが存
在するのだ。
『私は在る』(p410)
質問者 無意識の至福に何の価値があるのでしょうか?
マハラジ
意識でも無意識でもない、実在だ。
質問者 意識へのあなたの反対理由は何でしょうか?
マハラジ
それは重荷なのだ。
身体とは重荷だ。
感覚、欲望、思考、これらはみな重荷なのだ。
すべての意識は葛藤(かっとう)だ。
質問者 実在は真の存在、純粋な意識、無限の至福と描写されています。そ
れが苦痛とどう関わってくるのでしょうか?
マハラジ
苦痛と快楽は起こる。
だが、苦痛は快楽の値段であり、快楽は苦痛の報酬なのだ。
人生のなかでも、しばしばあなたは傷つけることで喜び、喜ばすことによっ
て傷ついている。
苦痛と快楽がひとつだと知ることが平和なのだ。
質問者 これらはみな疑いなく、たいへん興味深い話です。しかし私のゴー
ルはもっとシンプルなものです。私は人生において、より多くの快
楽とより少ない苦痛が欲しいのです。どうすればいいのでしょうか?
マハラジ
意識がそこにあるかぎり、苦痛と快楽は避けられない。
対極のものと自己同一化することが、意識の、「私は在る」の本性なのだ。
質問者 これらすべてが私にとって何だというのでしょうか? それは私を
満足させてはくれません。
マハラジ
あなたは誰だろうか? 誰が不満なのだろうか?
質問者 私は苦痛と快楽の人間です。
マハラジ
苦痛と快楽はともにアーナンダ(至福)だ。
私は今、こうしてあなたの前に座り、直接の不変の体験から話している。
苦痛と快楽は、至福の海の波の頂きと谷間だ。
その底深くには完全な充足があるのだ。
質問者 あなたの体験は本当に不断のものでしょうか?
マハラジ
それは時を超えた、不変のものだ。
質問者 私の知っているのは欲望と苦痛への恐れだけなのです。
マハラジ
それはあなたが自分自身についてそう考えるだけだ。
やめなさい。
あなたが習慣をただちに打ち破れないなら、あなたが慣れ親しんできた考え
方に注目し、その偽りを見破りなさい。
習慣を問いただすことはマインドの義務だ。
マインドがつくり出したことは、マインドが破壊しなければならない。
あるいはマインドの外側に欲望はないと認識しなさい。
そして外側にとどまりなさい。
質問者 正直なところ、私にはすべてがマインドによってつくられたという
説明が信頼できません。目が手段であるように、マインドもまた手
段にすぎません。あなたには知覚されたものが創造されたものだと
言えますか? 私は窓のなかにではなく、窓を通して世界を見ます。
私たちに共通の基盤があるために、あなたの言うことはすべて筋が
通って聞こえますが、あなたの基盤が実在のなかにあるのか、マイ
ンドのなかにだけあるのか私にはわかりません。ただマインドに映
るものとしてとらえることはできます。それがあたにとってどんな
意味をもつのか私にはわかりません。
マハラジ
あなたがマインドのなかに立場を置くかぎり、あなたは私をマインドのなか
に見るだろう。
質問者 言葉は理解するために何と不適切なのでしょう!
マハラジ
言葉なしでは、理解する何がそこにあるというのだろうか?
理解する必要は誤解から起こるのだ。
私の言うことは真実でも、あなたにとっては、それはただの理論となってし
まう。
どうすれば、あなたはそれが真実だと知るようになるだろうか?
聞きなさい、覚え、熟考し、視覚化し、体験しなさい。
あなたの日々の生活においてそれを生かしなさい。
私に対して忍耐強くありなさい。
特に自分自身に対して忍耐強くありなさい。
なぜなら、あなたがあなたのただひとつの障害だからだ。
道はあなたを通ってあなたを超えていく。
特定のものだけを真実、意識、そして幸福だと信じているかぎり、そして非
二元性の実在を何か想像上の抽象的理念として拒否するかぎり、あなたは私
が観念と抽象的理念を与えていると見なすだろう。
しかし、ひとたびあなたが自己の存在の真実に触れたなら、私が言い表して
きたことが、あなたにとってもっとも身近で、もっとも親愛なるものだとい
うことがわかるだろう。
『I AM THAT 私は在る』(p182-184)
なぜ人の意見を、たとえ自分の意見でさえ、そんなに重要視するのかね?
『私は在る』(p26)
質問者 今まで多くの真我を実現した人に会いましたが、解脱した人には一
度も会ったことがありません。あなたは解脱した人に会いましたか?
それとも、解脱した人は身体をも放棄した人なのでしょうか?
マハラジ
真我の実現と解脱という言葉で、あなたは何を意味しているのだろうか?
質問者 真我の実現とは、世界が意味をもち、物質と本質の統合が遍在する、
素晴らしい、平和、善、そして美の体験です。そのような体験は長
続きしませんが、忘れることもできません。それは記憶と切望とし
て、心のなかで輝きます。自分の言っていることは理解しているつ
もりです。私自身そのような体験をしましたから。
解脱とは、その素晴らしい状態のなかに永久にとどまることです。
私が尋ねたかったことは、解脱とは身体の放棄も意味するのかとい
うことです。
マハラジ
身体のどこが問題なのかね?
質問者 体は弱く、短命です。それは欲求や欲望を生みだし、それが人を悲
惨にも限定するのです。
マハラジ
だからどうだというのだろう?
身体の表現がかぎられているならば、そうあればいい。
しかし、解脱とは自分に押しつけてきた誤った自己の観念から自由になるこ
となのだ。
それはどんなに輝かしいものでも、ある特定の体験のなかに含まれるような
ものではない。
質問者 それは永遠のものなのでしょうか?
マハラジ
すべての体験は時間の限界内にある。
何であれ、はじまりあるものは終焉(しゅうえん)を迎える。
質問者 では、私が言う意味での解脱というものは存在しないのでしょうか?
マハラジ
その反対に、人はいつも自由なのだ。
あなたは意識しており、また自由に意識できる。
誰もそれをあなたから奪い取ることはできない。
今まであなたが無意識あるいは非存在であると知ったことがあるだろうか?
質問者 覚えてはいないかもしれませんが、だからといって、それが無意識
になったことがないという証明にはなりません。
マハラジ
体験から体験者へと見る向きを変えなさい。
そしてあなたができるたったひとつの真の表明、「私は在る」の完全な意味、
その重要性を悟るがいい。
質問者 どのようにすればいいのでしょうか?
マハラジ
ここでは、「どのように」ということはない。
ただマインドのなかに「私は在る」という感覚を保ち、あなたのマインドと
その感覚がひとつになるまで、そのなかに没入しなさい。
繰り返し試みることによって、あなたはそれへの愛情と留意の正しいバラン
スをつかむだろう。
そして、マインドは「私は在る」という思考―感覚のなかに、揺らぐことな
く確立するようになるだろう。
何であれ、あなたが考え、話し、行うにも、この不変で愛情深い存在の感覚
は、つねにマインドの背景として消えることなく残るだろう。
質問者 そして、それが解脱なのでしょうか?
マハラジ
私はそれを普通と呼ぶ。
努力なく、幸せに、行動し、知り、在ることのどこが間違っているだろうか?
なぜ身体の即座の崩壊を期待するような、そんな特別なことを考えるのだろ
う。
身体に死が訪れることの何が間違っているのだろうか?
身体に対する態度を正し、忘れてしまいなさい。
甘やかさず、苦しめず、ほとんどの時間、意識的留意の境界下においておけ
ばいいのだ。
質問者 その素晴らしかった経験の記憶が、私を虜(とりこ)にしています。
私はふたたびそれを得たいと望んでいるのです。
マハラジ
取り戻したいと願うから、それを得ることができないのだ。
切望の状態がすべてのより深い体験を妨げる。
何を欲しているかを正確に知っているマインドには、価値あることなど何ひ
とつ起こらない。
マインドが求め描いているようなものに、たいした価値のあるものなどない
からだ。
質問者 それでは、求める価値のあるものとは何でしょうか?
マハラジ
最上のものを求めなさい。
最高の幸福、もっとも偉大な自由を。
無欲が最大の至福なのだ。
質問者 欲望からの自由は、私が求めているものではありません。私が欲し
いのは、切望を満たすための自由です。
マハラジ
切望を満たすのはあなたの自由だ。
事実、あなたのしていることはそれ以外の何ものでもない。
質問者 試みるのですが、障害がいつも私を挫折させます。
マハラジ
乗り越えなさい。
質問者 できません。私は弱すぎるのです。
マハラジ
何があなたを弱くさせるのだろう。
何が弱みなのだろうか?
ほかの者たちは欲望を満たしているのだ。
なぜそうしないのかね?
質問者 エネルギーが欠けているに違いありません。
マハラジ
あなたのエネルギーに何が起こったのだろう?
それはどこへ行ったのだろうか?
あなたはそれをたくさんの反駁(はんばく)する欲望や楽しみの追求にまき
散らしたのではないだろうか?
あなたは無限のエネルギーの供給がなくなったのだ。
『I AM THAT 私は在る』(p67-69)
質問者 それがいけないことでしょうか?
マハラジ
あなたの目的は小さく低次のものだ。
それはより以上を求めない。
神のエネルギーだけが無限だ。
なぜなら、神は自分自身のために何も求めないからだ。
彼のように在りなさい。
そうすれば、すべての欲望は満たされるだろう。
目標が高く、望みが広大なほど、あなたはより多くのエネルギーを得るだろ
う。
すべての人のためを想って望みなさい。
そうすれば、宇宙はあなたとともに働くだろう。
だが、もしあなたが自分の喜びのために欲するなら、それを得るためにつら
い努力をしなければならない。
欲する前に、受けるだけの価値ある人になりなさい。
質問者 私は哲学、社会学、そして教育の研究をしています。真我の実現の
夢を見る前に、より精神的成長が必要だと思うのです。私の考えは
正しいでしょうか?
マハラジ
生活の糧(かて)を得るには、ある特殊な知識が必要だ。
一般的な知識が思考の発展を促すことは間違いない。
だが、もしあなたが知識を蓄えることで人生を送るならば、あなたは自分の
まわりに壁を築くだけだろう。
マインドを超えるために飾りたてられたマインドは必要ない。
質問者 では、何が必要なのでしょうか?
マハラジ
マインドを信頼せず、それを超えていきなさい。
質問者 マインドの彼方に、私は何を見いだすのでしょうか?
マハラジ
存在の智慧(ちえ)と愛の直接体験だ。
質問者 どうすればマインドを超えていけるのでしょうか?
マハラジ
スタート地点は数多くあるが、それらはすべて同じゴールに導く。
あなたは行為の結果を放棄しながら、私利私欲のない仕事からはじめるかも
しれない。
そしてマインドを放棄し、最後にはすべての欲望を放棄するかもしれない。
ここでは、放棄が作用する要因だ。
あるいは、あなたは欲することも、考えることも、為すこともすべて気にと
めず、「私は在る」という思考と感情の内にとどまり、マインドのなかで確
固として「私は在る」に焦点を合わせるかもしれない。
あらゆる類の体験があなたに訪れるだろう。
「私は在る」だけが永遠に変わらず、知覚できるものすべては一時的なはか
ないものだという知識のなかに、揺らぐことなく在りなさい。
質問者 全人生をそんな修行に費やすことはできません。私には義務と仕事
があります。
マハラジ
もちろん職務に励みなさい。
感情的に巻き込まれず、有益で、苦しみをともなわない仕事は、あなたを因
果的に束縛しない。
あなたはいくつもの分野に従事し、途方もない熱情とともに仕事をしながら
も、内面ではその影響を受けずに、すべてを映しだす鏡のように自由で静か
なマインドを保つかもしれない。
質問者 そのような状態が実現可能なのでしょうか?
マハラジ
もしそうでなければ話しはしない。
なぜ私が絵空事を言うだろうか?
質問者 誰もが聖典を引用します。
マハラジ
聖典のみを知る者は、実際には何も知らない。
知ることとは、在ることだ。
私は、私が言っていることを知っている。
それは人から聞いたことでも、読んだことでもない。
質問者 私はある教授のもとでサンスクリット語を学んでいます。でも、本
当はただ聖典を読んでいるだけなのです。私は真我の実現を探求し
ており、必要な指導を受けに来たのです。どうか、どうすればよい
か教えてください。
マハラジ
聖典を読んだのなら、なぜ私に尋ねるのかね?
質問者 聖典は一般的な指示を示しますが、個人は個別の指導が必要です。
マハラジ
あなた自身があなたの究極の師(サットグル)だ。
外側の師(グル)は、ただの道しるべにすぎない。
あなたの内なる師がともにゴールまで歩いてくれるだろう。
なぜなら、彼がそのゴールだからだ。
質問者 内なる師には簡単に出会えません。
マハラジ
彼はあなたのなかにいるのだ。
困難であるはずがない。
内側を見なさい。
彼はそこにいる。
『I AM THAT 私は在る』(p69-71)
その一人ひとりには、すぐそばに監視人がついています。この監視人は非常
に小さくて目には見えません。そして、彼らは念波によって宇宙創造の神様
にその一人ひとりの行動や考え方を、時々刻々と宇宙のセンターに報告して
います。宇宙のセンターではその情報を全部受け取り、一人ひとりのデータ
を処理しています。そして、この処理結果は担当の神様に命令され、一人ひ
とりに対して適当な処置を取っておられるのです。
『生命と宇宙』(p27-28)
http://tinyurl.com/8cmsk6
例外なく、欲望の対象物はそれを獲得する手段を破壊する。
そうして、それ自体も衰え果ててしまうのだ。
結局、すべては最善の結果をもたらす。
なぜなら、それはあなたに毒を避けるかのように欲望を避けさせるからだ。
『私は在る』(p355-356)
マハラジ
訓練の必要はない。
放棄という行為さえ必要ない。
ただ、あなたのマインドをそらしなさい。
それだけだ。
欲望とは単にある想念にマインドを固定させることだ。
それに注意を払わないことで、その常道にはまる習慣を捨て去りなさい。
『私は在る』(p356)
質問者 私が内側を見るとき、そこには感覚や知覚、思考や感情、欲望や恐
れ、記憶や期待の雲が見えるばかりで、ほかには何も見えません。
マハラジ
それらすべて、そしてまた無も見ているそれが内なる師なのだ。
彼だけが存在する。
それ以外はみな、ただの現れにすぎない。
彼があなたの真我(スワルーパ)、自由への確信と希望なのだ。
彼を見いだし、しっかりとつかんで離してはならない。
そうすればあなたは救われ、安全だろう。
質問者 あなたを信じます。それでも、いざ実際に内なる師を見いだそうと
すると、それは私から逃げてしまうのです。
マハラジ
「それは私から逃げてしまう」という考えは、いったいどこからやってくる
のだろうか?
質問者 マインドです。
マハラジ
そして、マインドを知っているのは誰だろうか?
質問者 マインドを観照する者がマインドを知っています。
マハラジ
誰かがあなたのもとへやってきて、「私があなたのマインドの観照者だ」と
言ったのかね?
質問者 もちろん、そうではありません。彼もまた、マインドのなかの別の
観念にすぎません。
マハラジ
それならば、誰が観照者なのか?
質問者 私です。
マハラジ
そのとおりだ。
あなたは観照者を知っている、なぜならあなたが観照者だからだ。
観照者を目の前に見る必要はない。
ここでもまた、在ることが知ることなのだ。
質問者 はい。私が観照者、気づきそのものだということは理解できます。
ですが、それがどう私の得になるというのですか?
マハラジ
何という質問だ!
どんな利益を期待するというのか?
あなたが誰なのかを知ること自体、充分ではないかね?
質問者 自己知識は何の役に立つのでしょうか?
マハラジ
それは何があなたではないか、ということの理解を助け、誤った考えや欲望
や行為からあなたを自由にするのだ。
質問者 もし私がただの観照者であるなら、正しいとか間違っているという
ことに何の意味があるのでしょうか?
マハラジ
あなた自身を知ることを助けるものが正しく、それを妨げるものは間違いだ。
真我を知ることは至福であり、それを忘れることが不幸なのだ。
質問者 観照者意識が真我なのでしょうか?
マハラジ
観照者意識はマインドのなかの実在の反映だ。
実在はその彼方にある。
観照者とは、それを超えて彼方へと通り抜けていくための扉なのだ。
質問者 瞑想の目的とは何でしょうか?
マハラジ
偽りを偽りと見ることが瞑想だ。
それは絶えず続いていかなければならない。
質問者 私たちは定期的に瞑想するように言われています。
マハラジ
真実と偽りの区別、そしてその偽りを自ら放棄していく日々の訓練が瞑想だ。
初心者には数多くの種類の瞑想があるが、最後にはすべてがひとつに溶け入
る。
質問者 どうか、どれが真我の実現への一番の近道か教えてください。
マハラジ
どれが近くどれが遠いということはないが、ある人はより真剣であり、ある
人はそれに劣る。
あなたに私自身のことを話そう。
私は単純素朴な人間だったが、グル(師)を信頼し、彼が私にするようにと
言ったことをしたのだ。
彼は私に「私は在る」という感覚に集中するようにと言い、私はそうした。
彼が、私は考えうる、知覚しうるすべてを超えたものだと言い、私は信じた
のだ。
私は彼に、私のハートと魂、許されるかぎりのすべての空き時間(家族を支
えるための仕事があったため)とすべての注意を捧げた。
真剣な修練と信頼の結果、私は三年のうちに真我(スワルーパ)を実現した
のだ。
あなたに合う道を選ぶがいい。
真剣さが進歩の度合いを決定する鍵だ。
質問者 私へのヒントはないのでしょうか?
マハラジ
「私は在る」という気づきの中に揺らぐことなく確立しなさい。
これがはじまりであり、またすべての努力の終わりだ。
『I AM THAT 私は在る』(p71-72)
質問者 なぜ人生はこうも矛盾ばかりなのでしょうか?
マハラジ
それが精神的な自尊心を打ち破るのを助けるからだ。
『私は在る』(p128)
私たちはいかに弱く、無力であるかを悟らなければならない。
自分自身はこう在り、知り、行為すると想像し、惑わされているかぎりは、
私たちは悲しくも苦境にいるのだ。
ただ、完全な自己否定のなかにのみ、私たちの真我を発見するチャンスがあ
る。
『私は在る』(p128-129)
質問者 なぜそれほどまで自己否定が強調されるのでしょうか?
マハラジ
真我の実現におけるかぎり、真我が見いだされる前に、偽りの自己は捨て去
らなければならない。
『私は在る』(p129)
世界は無数の輪(リング)でできている。
それに引っかける鉤(フック)はみなあなたのものだ。
あなたの鉤をまっすぐにしなさい。
そうすれば何もあなたを捕らえることはできないだろう。
あなたの耽溺を放棄しなさい。
ほかに何も放棄するものはない。
常習的な利欲心、結果を探し求める習慣を止めなさい。
そうすれば自由の世界はあなたのものだ。
マハラジ
あなたはインドに戻ってきたのかね。
今までどこにいて、何を見てきたのだろうか?
質問者 私はスイスから来ました。私はそこで、真我を実現したと宣言する
注目すべき人物とともに滞在していました。彼は多くのヨーガを習
得し、多くの体験を通り抜けてきました。今、彼は何も特別な能力
や知識の主張をしません。唯一、彼について普通ではないことと言
えば、感覚に関したことです。たとえば、車が彼に向かって急進し
てきたとき、彼は、車が彼に向かって走ってきているのか、彼が車
に向かっているのかわからないのです。どうやら、彼は同時に、見
る者と見られるものの両方らしいのです。それらはひとつになるの
です。何を見ようとも、彼は彼自身を見ています。私がヴェーダー
ンタ哲学的な質問をすると、彼はこう答えるのです。「私には本当
に答えられない。私は知らないんだ。私の知っていることは、何で
あれ私が知覚するものとの奇妙な同一化だけで、まったくこんなこ
とが起こるとは予想もしていなかったんだよ」と。
彼は概して謙虚な人です。弟子ももたず、自分を台座の上に置くこ
ともしません。彼はその奇妙な状態について語ることを厭いません。
しかし、ただそれだけなのです。
マハラジ
今、彼は知っているということを知っている。
それ以外はすべて終わったのだ。
少なくともまだ話はしている。
じきに話すことさえもやめるだろう。
質問者 そのとき、彼は何をするのでしょうか?
マハラジ
不動性と沈黙は無為ではないのだ。
花は空間を芳香で満たし、ロウソクは輝きで満たす。
それらは何もしないのに単なる存在だけですべてを変えてしまう。
あなたはロウソクの写真を撮ることはできても、輝きは撮れない。
あなたはその人の名前や姿を知ることはできても、彼の影響を知ることはで
きないのだ。
彼の存在自体が行為なのだ。
質問者 行動的になるのは、自然なことではないでしょうか?
マハラジ
誰もが行動的でありたい。
だが、彼の行為の根元はどこにあるのだろうか?
そこに中心点なるものはないのだ。
無意味に、苦しみながら、果てしない連続の中でそれぞれの行為が別の行為
を生みだしていく。
働きと休息の交代はそこにはない。
あなたは車輪が車軸のまわりをまわっていくように周辺を旋回するのではな
く、常に中心軸にいなければならないのだ。
質問者 実際の修練において、私はどうすればよいのでしょうか?
マハラジ
いつであれ、欲望や恐れについての思考や感情がマインドに現れたときには、
ただそれから注意をそむけなさい。
質問者 思考や感情を抑圧すれば、私は反動を誘発することになるでしょう。
マハラジ
私は抑圧について語ってはいない。
ただ注意を払うことを拒みなさい。
質問者 マインドの動きを阻止するために努力するべきではありませんか?
マハラジ
それは努力とは何の関わりもない。
ただ目を背け、思考そのものではなく、思考と思考の間を見なさい。
群衆のなかを歩くとき、あなたは出会うすべての人と闘ったりはしない。
ただ、その合間に通る道を見いだすだけだ。
質問者 もし私が意志を用いてマインドを制御しようとすれば、それは自我
を強めるだけです。
マハラジ
もちろんだ。
もし闘えば、あなたは闘いを招く。
だが抵抗しなければ、あなたも抵抗にであうことはない。
ゲームをやめれば、あなたは無関係なのだ。
質問者 私がマインドから自由になるには、どれくらいの時間がかかるので
しょうか?
マハラジ
それには千年の時がかかるかもしれない。
だが、本当は時間は必要としないのだ。
あなたに必要なのは、絶対的に真剣になることだ。
ここでは意志が実行だ。
もし真剣ならば、それはあなたのものだ。
結局、それは態度の問題なのだ。
今ここであなたがジニャーニとなることを、恐れ以外の何も妨げてはいない。
あなたは非人格として在ること、あるいは非人格的存在を恐れているのだ。
ことはまったくシンプルだ。
欲望と恐れから、そしてそれらが生み出す想念から注意をそむけなさい。
そうすれば、あなたは即座に自然な状態のなかに在るだろう。
質問者 マインドの修正や、変更や、消去といった問題はないのでしょうか?
マハラジ
絶対にない。
マインドは放っておきなさい。
それだけだ。
それについていってはならない。
結局、あなたの法則ではなく、それ自体の法則に従って去来する想念を離れ
て、マインドというものは存在しないのだ。
ただあなたが興味を持つために、マインドに支配されてしまうのだ。
まさにキリストが、「悪にはむかうことなかれ」と言ったごとくだ。
悪に抵抗することで、単にあなたはそれを強調してしまう。
『I AM THAT 私は在る』(p365-366)
あなたが不調和をつくり出しておいて、それから不平を言うのだ。
欲望をもち恐れるとき、そして感情と自己同一化するとき、あなたは不幸と
束縛を生みだす。
『私は在る』(p538)
あなたが愛と智慧とともに創造し、そして創造したものに執着しないとき、
結果は調和と平和となるのだ。
『私は在る』(p538)
だが、マインドの状態はいかなるものであれ、それはどのようにあなたに影
響を及ぼすのだろう?
『私は在る』(p538)
マインドと自己同一化すること、ただそれだけがあなたを幸福に、あるいは
不幸にするのだ。
『私は在る』(p538)
マインドへの隷属に反抗しなさい。
あなたの束縛は自分が創造したものだということを見なさい。
そして執着と反感への鎖を断ち切るのだ。
あなたがすでに自由であること、そして自由とは苦しい努力によって遠い未
来に獲得される何かではなく、永久にあなた自身のものとして使われるため
にそこにあることが明らかになるまでは、自由という目的を心に保ちなさい。
解放とは獲得ではなく勇気の問題だ。
あなたがすでに自由であると信じ、それにしたがって行為する勇気だ。
『私は在る』(p538)
ひとたびあなたが、これが自分だと指し示すことができるものは何もなく、
「私は在る」ということ以外に自己を語ることができないと確信すれば、
「私は在る」という指針の役目は終わる。
もはやあなたは、自己が何なのかを言葉の上に置き換えようなどとはしない
だろう。
必要なのは、自己を定義しようとする傾向を捨て去ることだけだ。
すべての定義づけは、身体とその表現にしか当てはまらない。
この身体への固執が消えれば、あなたは自然なあるがままの姿に努力するこ
となく帰り着くだろう。
『私は在る』(p27)
あなたのものとは映画のスクリーン、光、そして見る力だ。
だが、映像はあなたではない。
『私は在る』(p463)
意識を人の全体像として見なすのは間違いだ。
人は無意識であり、意識であり、超意識だ。
だが、あなたは人ではないのだ。
あなたのものとは映画のスクリーン、光、そして見る力だ。
だが、映像はあなたではない。
『私は在る』(p463)
今ここであなたがジニャーニとなることを、恐れ以外の何も妨げてはいない。
あなたは非人格として在ること、あるいは非人格的存在を恐れているのだ。
ことはまったくシンプルだ。
欲望と恐れから、そしてそれらが生み出す想念から注意をそむけなさい。
......
ただあなたが興味を持つために、マインドに支配されてしまうのだ。
『私は在る』(p366)
群衆のなかを歩くとき、あなたは出会うすべての人と闘ったりはしない。
ただ、その合間に通る道を見いだすだけだ。
『私は在る』(p366)
いずれにせよ、あなたは気づいている。
そうあろうと試みる必要はない。
あなたに必要なのは、気づいていることに気づくことだ。
意図的に、そして意識的に気づいていなさい。
気づきの領域を広げ、そして深めなさい。
あなたはつねにマインドを意識している。
だが、あなた自身が意識していることに気づいてはいないのだ。
『私は在る』(p238)
質問者 そうなのです。今、私は理解します。私のすべきことは、悪の存在
を否定することだけなのです。そうすれば、それは消え去るでしょ
う。しかし、それではある種の自己暗示と同じになってしまいませ
んか?
マハラジ
自己暗示は、あなたが善と悪の狭間(はざま)に捕らわれ、あなた自身を個
人と見なしている今、もっとも強力に作用しているではないか。
私があなたに求めていることは、それをやめることなのだ。
目を覚まし、ものごとをあるがままに見なさい。
あなたがスイスの奇妙な友人と滞在したことで、彼との交際を通してあなた
は何を得たのだろうか?
質問者 まったく何も得てはいません。彼の体験は、私にまったく影響を与
えませんでした。ひとつだけ私が理解したことは、そこには探求す
べき何ものもないということです。私がどこへ行こうとも、旅の終
わりに私を待ち受けているものは何もありません。発見は移動の結
果ではないのです。
マハラジ
そのとおりだ。
あなたとは、得たり失ったりできるような何かからまったく離れたものなの
だ。
質問者 あなたはそれをヴァイラーギャ、放棄、断念と呼ぶのでしょうか?
マハラジ
そこに放棄するようなものは何もない。
もしあなたが獲得することをやめるなら、それで充分だ。
与えるためにはもたなければならない。
もつためには取らなければならない。
取らないほうがいいのだ。
それは「霊的な」自尊心となる危険性のある放棄を行うよりもシンプルだ。
この、秤(はかり)にかけ、選択し、選定し、交換するといったすべてのこ
とは、「霊的」マーケットでのショッピングなのだ。
いったいあなたに何の関わりがあるというのだろう?
どんな取引をするというのだろうか?
あなたがビジネスをしようと躍起になっていないとき、この選択の果てしな
い不安が何の役に立つというのだろう?
落ち着きのなさは、あなたをどこへも連れていきはしない。
あなたには何も必要ないとあなたが理解することを、何かが妨げているのだ。
それを見つけだしなさい。
そして、それが偽りであることを見極めなさい。
それはある毒を飲み込んで、水への抑えきれない渇望に苦しむようなものだ。
かぎりなく水を飲み込むよりも、毒を消去してこの焼けつくような渇きから
自由になったらどうかね?
質問者 私は自我を消去しなければならないでしょう!
マハラジ
「私は時間と空間のなかの個人だ」という感覚が毒なのだ。
ある意味では、時間そのものが毒だ。
時間のなかで、すべてのものごとが終焉(しゅうえん)し、新たに滅ぼされ
るために生まれてくる。
時間と自己同一化してはならない。
不安げに「つぎは何か、つぎは何か?」と尋ねてはならない。
時間から外に踏みだして、それが世界を滅ぼすのを見るがいい。
そして言うがいい。
「すべてを終わらせることが時間の本性なのだ。そうあらしめればいい。そ
れは私には関わりない。私は燃えつきるものではなく、燃料を集める必要も
ないのだ」と。
質問者 観照者は観照されるものがなくても存在できるのでしょうか?
マハラジ
そこにはつねに観照される何かがある。
もし観照されるものがなければ、その不在がある。
観照は自然なもので、問題のないものだ。
問題は自己同一化に導く、過剰な興味なのだ。
何であれあなたを没頭させるものを、あなたは実在と見なしてしまう。
質問者 「私は在る」は実在でしょうか、非実在でしょうか? 「私は在る」
は観照者でしょうか? 観照者は実在でしょうか、非実在でしょう
か?
マハラジ
純粋で、混じり気なく、帰属しないものが実在だ。
汚染され、混じりあい、依存し、はかないものが非実在だ。
言葉に惑わされてはならない。
ひとつの言葉が多くの矛盾した意味を伝えることさえあるのだ。
快楽を追求し、不快を避ける「私は在る」は偽りだ。
快楽と苦痛を分割できないものとして見る「私は在る」は、正しく見ている。
知覚するものに巻き込まれた観照者が個人なのだ。
超然と離れて動じない観照者が実在の見張り塔であり、それは非顕現に固有
である気づきが顕現に接触する点だ。
観照者なしに宇宙はありえない。
宇宙なしに観照者はありえないのだ。
質問者 時間は世界を食い尽くします。時間を観照するのは誰なのでしょう
か?
マハラジ
時間を超えた、名づけられないものだ。
光を放って輝く燃えさしをぐるぐる速くまわすと、輝く輪として現れる。
その動きが止んでも、燃えさしは残る。
同じように、動きのなかの「私は在る」が世界をつくり出すのだ。
「私は在る」が休息しているとき、それは絶対となる。
あなたは懐中電灯をもって回廊を渡り歩く人のようだ。
あなたは光線のなかのものしか見ることができない。
他は暗闇なのだ。
『I AM THAT 私は在る』(p366-368)
私は宇宙に関心はない。
それはあるままで、あるいはないままで構わずにおこう。
もし私が私自身を知るならば、それで充分なのだ。
質問者 もし私が世界をつくり出したのなら、それを変えることができるは
ずです。
マハラジ
もちろんできる。
しかし、あなたはそれと自己同一化することをやめ、彼方へと超えていかな
ければならない。
そのとき、あなたは破壊し、再創造する力を持つのだ。
質問者 私はただ自由だけが欲しいのです。
マハラジ
あなたは二つのことを知らなければならない。
あなたが何から自由になるのか、そして何があなたを束縛しているのかだ。
質問者 なぜあなたは宇宙を消滅させたいのでしょうか?
マハラジ
私は宇宙に関心はない。
それはあるままで、あるいはないままで構わずにおこう。
もし私が私自身を知るならば、それで充分なのだ。
質問者 もしあなたが世界の彼方にいるのなら、世界にとって何の役にも立
ちません。
マハラジ
存在しない世界を哀れむのではなく、存在する自己を哀れむがいい。
夢に巻き込まれて、あなたは真我を忘れてしまったのだ。
質問者 世界なしには、愛の場所もありません。
マハラジ
まったくそのとおりだ。
これらすべての属性――存在、意識、愛、美は世界のなかに現れた実在の反
映だ。
実在なしには反映もない。
質問者 世界は望ましいものごとや人びとであふれています。どうしてそれ
を非存在だと想像できるでしょうか?
マハラジ
望ましいものは望む人たちにまかせておきなさい。
あなたの欲望の流れを、取ることから与えることへと変えなさい。
与えること、分かちあうことへの情熱は、あなたのマインドから外面的な世
界という観念を、そして与えるという観念さえも自然に洗い流してしまうの
だ。
そして与えることも受け取ることも超えた、純粋な愛の輝きだけがそこに残
るだろう。
質問者 愛のなかには、愛する者と愛される者という二元性があるはずです。
マハラジ
その愛のなかにはひとつのものさえないのだ。
どうして二つのものがありうるだろう。
愛とは分かつことと区別することへの拒絶だ。
統合を考える前に、まずあなたは二元性をつくり出さなければならない。
本当に愛するとき、あなたは、「私はあなたを愛している」とは言わない。
思考があるところに二元性があるのだ。
質問者 私をインドへと何度も繰り返し連れ戻すのは何でしょうか? それ
は生活費が比較的安いからだけではないでしょう。また色彩の鮮や
かさや印象の多様さでもありません。ここでは内面を外面に表すこ
とが容易なのです。そこに何かより重要な要因があるはずです。
マハラジ
そこにはまた、霊的な側面もある。
内面と外面の区別がインドではより少ないのだ。
統合はよりたやすい。
社会はそれほど抑圧的ではないのだ。
質問者 そうです。西洋では、すべてがタマス(受動性)とラジャス(活動
性)だけなのです。インドではより多くのサットヴァ、すなわち調
和と、均衡があるのです。
マハラジ
あなたはグナ(属性)を超えてはいけないのだろうか?
なぜサットヴァを選ぶのだろう?
どこへ行こうとも、あなたのままでありなさい。
グナを気にかけてはいけない。
質問者 私には強さがありません。
マハラジ
それは単に、あなたがインドからわずかばかりしか得るところがなかったこ
とを示しているだけだ。
本当にあなたが持っているものであれば、失うことはできない。
あなたがあなた自身のなかに根づいていたなら、場所を変えることはそれに
影響を与えることはなかっただろう。
質問者 インドでは、霊的な生活はたやすいのです。西洋ではそうではあり
ません。より大きな範囲で環境に順応しなければならないのです。
マハラジ
どうしてあなた自身の環境をつくり出さないのだろうか?
世界はあなたがそれに与えるだけの力しか、あなたに対して持ってはいない
のだ。
反抗しなさい。
二元性を超えていきなさい。
西洋と東洋の違いをつくってはならない。
質問者 非常に霊的でない環境に自分を見いだしたとき、人は何ができるの
でしょうか?
マハラジ
何もしてはいけない。
あなた自身でありなさい。
離れて在りなさい。
彼方を見るのだ。
質問者 家庭では衝突があるかもしれません。両親が理解することはまれな
のです。
マハラジ
あなたがあなたの真の存在を知るとき、問題はなくなるのだ。
あなたが両親を喜ばせようと喜ばせまいと、結婚しようとしまいと、たくさ
んの富をつくろうとつくるまいと、それはみなあなたにとって同じことなの
だ。
ただ環境にしたがって行動しなさい。
それでもあらゆる状況で、事実と実在に親密に触れながら。
質問者 それはたいへん高次の状態なのではありませんか?
マハラジ
いいや、それはまったく普通の状態なのだ。
あなたがそれを高いと呼ぶのは恐れがあるからだ。
まず、恐れから自由になりなさい。
何も恐れるものはないことを知りなさい。
恐れのないことが至高なるものへの扉なのだ。
『I AM THAT 私は在る』(p368-370)
夢の人生において一定の成果をあげる必要はないのだ。
あるいは、それを高尚なものにしたり、幸福で美しいものにしたりする必要
もない。
あなたに必要なことはただ、夢を見ているということを自覚することなのだ。
想像することをやめなさい。
信じるのをやめなさい。
矛盾と不調和、虚偽と悲しみの人間の状態を見るがいい。
そして、それらを超えていく必要性を見なさい。
『私は在る』(p277)
質問者 どれほどの努力を積もうと、私を恐れなしにすることはできません。
マハラジ
あなたが恐れるものは何もないことを見るとき、恐れのない状態はひとりで
にやってくるのだ。
混雑した通りを歩くとき、あなたはただ人びとを通り越していく。
何人かを見て、何人かは一瞥(いちべつ)するだけだ。
だが、あなたは止まらない。
障害をつくり出すのは止まるからなのだ。
動きつづけなさい。
名前や形を無視しなさい。
それらに執着してはいけない。
あなたの執着が束縛なのだ。
質問者 ある人が私の顔を叩いたら、私はどうすべきでしょうか?
マハラジ
あなたはあなたの生来の、あるいは後天的な資質にしたがって反応するだろ
う。
質問者 それは避けられないものなのでしょうか? 私は、そして世界はあ
るがままに留まることを運命づけられているのでしょうか?
マハラジ
古い宝飾品を新たにつくり直す宝石細工師たちは、最初にそれを形のない金
の状態に溶解する。
同じように、新しい名前と形が出現する前に、人は根元の状態に戻らなけれ
ばならない。
死は再生のために本質的なものなのだ。
質問者 あなたはいつも彼方へと超えていき、超然とした孤独の必要性を強
調します。「正しい」や「間違い」という言葉はほとんど使いませ
ん。なぜそうなのでしょうか?
マハラジ
自分自身であることが正しく、自分自身でないことが間違いだ。
それ以外はすべて条件づけだ。
行動の基盤を必要とするために、あなたは正しさと間違いを分離することに
熱心なのだ。
あなたはいつも何かを追求している。
だが、個人的に動機づけられ、何らかの価値の尺度に基づき、ある結果を狙
った行為は無為よりも一層悪い。
なぜならその結果はつねに苦いものだからだ。
質問者 気づきと愛はひとつであり、同じものなのでしょうか?
マハラジ
もちろんだ。
気づきは動的で、愛は存在だ。
気づきとは行為のなかの愛なのだ。
マインドはそれ自体で無数の可能性を実現することができる。
だが、愛によって喚起されないかぎり、それらに価値はない。
愛は創造に先行する。
それなしでは、ただの混沌(こんとん)となってしまう。
質問者 気づきのなかの行為はどこにあるのでしょうか?
マハラジ
あなたは救いようのないほど行為に取りつかれている!
動き、落ち着きのなさ、苦悩がそこにないかぎり、あなたはそれを行為とは
呼ばないのだ。
混沌とは動きのための動きなのだ。
真の行為は置き換えるのではない。
それは変容するのだ。
場所の変化は単なる移動にすぎない。
ハートの変化が行為なのだ。
ただ覚えておきなさい。
知覚できるものは何ひとつ実在ではない。
活動は行為ではない。
行為とは秘められた、未知で、不可知のものだ。
あなたはその結果を知ることができるだけだ。
質問者 神はすべてを為(な)す者なのではありませんか?
マハラジ
なぜ、外側の行為者をもちこむのだろうか?
世界はそれ自体からそれ自体を再創造するのだ。
それは一時的なものが一時的なものを生みだしていく果てしない過程だ。
そこに行為者がいなければならないとあなたに考えさせるのは自我なのだ。
どれほど恐ろしいイメージであろうとも、あなたがあなた自身のイメージに
よって神をつくり出すのだ。
あなたのマインドのフィルムを通して世界を投影し、そして原因と目的を与
えるために神をも投影する。
それはすべて想像なのだ。
その外へと踏みだしなさい。
質問者 世界を純粋に精神的なものとして見ることは、何と難しいのでしょ
う! 触れることのできるその実在性には、本当に納得させられて
しまいます。
マハラジ
本当に実在のように見えることが想像の神秘なのだ。
あなたは禁欲主義者か、あるいは結婚しているかもしれない。
修行僧か、あるいは家庭をもつ人かもしれない。
それは要点ではないのだ。
あなたは自分の想像の奴隷だろうか、あるいは違うだろうか?
あなたがいかなる決定をしようとも、いかなる仕事をしようとも、それは変
わることなく想像、想定が事実として誇示していることにいつも基づいてい
るのだ。
質問者 ここで、私はあなたの前に座っています、そのどの部分が想像のも
のなのでしょうか?
マハラジ
その全体だ。
空間と時間さえ想像のものだ。
質問者 それはつまり、わたしは存在しないということなのでしょうか?
マハラジ
私もまた存在しない。
すべての実存(イグジスタンス)は想像されたものなのだ。
質問者 存在(ビーイング)もまた想像上のものでしょうか?
マハラジ
すべてを満たし、すべてを超えた純粋な存在は、限定された実存ではない。
すべての限界は想像上のものだ。
無限のものだけが実在なのだ。
『I AM THAT 私は在る』(p370-372)
身体が誕生するとき、あらゆることが自由に起こる。
そしてあなたは自分を身体だと見なして、それらに関わっていく。
あなたは映画館でずっと席に座っていて、画像が光の戯(たわむ)れにすぎ
ないのをよく知っているにもかかわらず、画面を見て笑ったり泣いたりして
いる人のようなものだ。
その魔力を破るには、スクリーンから自分自身へと注意を移行させるだけで
充分なのだ。
身体が死ぬとき、あなたが現在生きている身体的、精神的出来事の連鎖であ
る人生は終わりを迎える。
それは身体の死を待たずとも、今でさえ終わらせることができる。
注意を真我に移行し、そこにとどめておくだけで充分なのだ。
あたかもそこに、すべてを創造し、動かす神秘の力があるように。
すべては起こるのだ。
あなたは動かす人ではなく、ただの観照者なのだということを自覚しなさい。
そうすれば、あなたは平和の内にあることだろう。
『私は在る』(p407)
あなたはあなただと思いこんでいる個人として在ることに、本当にうんざり
していなければならないのだ。
『私は在る』(p528)
質問者 あなたが私を見るとき、何を見るのでしょうか?
マハラジ
私は、あなたがあなた自身だと想像しているあなたを見る。
質問者 私のような人はたくさんいます。それでも各々異なっているのです。
マハラジ
すべての投影の合計が、いわゆるマハー・マーヤー、偉大なる幻想なのだ。
質問者 しかし、あなたがあなた自身を見るとき、何を見るのでしょうか?
マハラジ
それはどのように見るかによる。
マインドを通して見るとき、私は無数の人びとを見る。
マインドの彼方を見るとき、私は観照者を見る。
観照者の彼方には虚空と沈黙のかぎりない強烈さがあるのだ。
質問者 どのように人びとと関わればいいのでしょうか?
マハラジ
どうして、何のために計画を立てるのかね?
そのような質問は不安の現れだ。
関係性は生きものだ。
ただあなたのマインドのなかで平和に在りなさい。
そうすれば、あなたはすべての人と平和に在ることだろう。
あなたが起こることの支配者でないことを自覚しなさい。
純粋に技術的なこと以外、あなたに未来をコントロールすることはできない
のだ。
人間同士の関係性は、計画どおりにはいかないものだ。
それはあまりにも豊かで多様なのだ。
ただ理解し、慈悲深くありなさい。
すべての利己主義から自由になりなさい。
質問者 間違いなく、私は起こることの支配者ではありません。むしろ奴隷
と言えるでしょう。
マハラジ
支配者にも奴隷にもなってはいけない。
超然と離れて在りなさい。
質問者 それは行為を避けることを暗示しているのでしょうか?
マハラジ
行為を避けることはできない。
それはほかのすべてのように起こるのだ。
質問者 もちろん、私の行為は私がコントロールできます。
マハラジ
試してみるがいい。
しなければならないことをするのだということを、あなたはすぐに理解する
だろう。
質問者 私は私の意志にしたがって行為することができます。
マハラジ
行為した後になって、はじめてあなたはあなたの意志を知るのだ。
質問者 私は私の欲望、選択、決断を覚えていて、それにしたがって行為し
ます。
マハラジ
それでは、あなたではなく、あなたの記憶が決めるのだ。
質問者 どこで私が入り込んでくるのでしょうか?
マハラジ
それに注意を払うことで、あなたはそれを可能にするのだ。
質問者 自由意志というものはないのでしょうか? 私には欲望をもつ自由
はないのでしょうか?
マハラジ
いいや。
あなたは欲望に強制されるのだ。
ヒンドゥー教では自由意志という概念自体が不在だ。
だから、そのための言葉もないのだ。
意志とは拘束、固定、束縛だ。
質問者 私の限界を選択するのは私の自由です。
マハラジ
あなたはまず、自由にならなければならない。
世界のなかで自由になるには、世界から自由にならなければならない。
さもなければ、あなたの過去があなたとあなたの未来のために決定するのだ。
起こったことと起こらなければならないことの間に、あなたは捕らわれてい
る。
それを運命、あるいはカルマと呼ぶがいい。
だが、けっして自由ではない。
まず、あなたの真の存在に戻りなさい。
そして愛のハートから行為するのだ。
質問者 顕現のなかで、非顕現の特徴をもっているのは何でしょうか?
マハラジ
何もない。
あなたが非顕現の特徴を探しだそうとする瞬間、顕現は消え去るのだ。
もし非顕現をマインドで理解しようとするならば、あなたは即座にマインド
を超えるだろう。
木の棒で火をかきまわすときのように、棒は燃えつきてしまうのだ。
マインドを用いて、顕現を調べてみなさい。
卵の殻(から)をつつく、ヒヨコのようでありなさい。
殻の外側の人生を殻のなかで憶測していても、何の役にも立たない。
だが、殻を内側からつつくことがヒヨコを解放するのだ。
同じように、調べることと、矛盾や愚かしさを露わにすることで、内側から
マインドの殻を破りなさい。
質問者 殻を破ろうとする熱望、それはどこから来るのでしょうか?
マハラジ
非顕現からだ。
『I AM THAT 私は在る』(p372-374)
質問者 観照意識とは不変のものでしょうか?
マハラジ
それは不変ではない。
知る者は知られるものとともに現れ、ともに消えるのだ。
その中で知る者と知られるものが現れては消えていくそれは、時を越えて在
る。
不変あるいは永遠といった言葉は当てはまらないのだ。
質問者 眠りのなかでは知る者も知られるものも存在しません。何が身体に
感覚と受容力をもたせるのでしょうか?
マハラジ
知る者が不在だったと言うことはできない。
ものごとや思考の体験がなかった、それだけだ。
しかし、体験の不在もまた体験なのだ。
それは暗室に入って、「何も見えません」と言うようなものだ。
生まれつき盲目の人が暗闇の意味を知らないように、知る者だけが知らない
ということを知っている。
眠りは単なる記憶の喪失であり、生は続いていく。
質問者 では死とは何でしょうか?
マハラジ
それはある特定の身体にとっての、生の過程における変化だ。
統合が終わり、そして崩壊が始まる。
質問者 しかし知る者はどうなるのでしょうか? 身体の消滅とともに知る
者も消え去るのでしょうか?
マハラジ
誕生において身体を知る者が現れたように、死において知る者は消え去るの
だ。
質問者 そして何も残らないのですか?
マハラジ
生命が残る。
意識は顕現するために、媒体と手段を必要とする。
生命が別の身体を創造するとき、別の知る者が現れるのだ。
質問者 連鎖継続する身体とそれを知る者、あるいは「身体―精神 *」との
間には、何か因果関係があるのでしょうか?
* 訳注 「身体―精神」 Body-Mind 身体―精神という有機的組織体ある
いは身体精神機構を意味する。マハラジの最たる通訳者であった
ラメッシ・S・バルセカールは、Body-Mind orgnism, Body-Mind
mechanism, psychosomatic apparatusなどと解釈している。
マハラジ
そうだ。
そこには為(な)してきたこと、為し遂げたかったことの想いをすべて記録
した、原因体あるいは記憶体と呼べるような何かがある。
それはイメージの雲を集めたようなものだ。
質問者 この分離した存在の感覚はいったい何なのでしょうか?
マハラジ
それは分離した身体のなかに現れる、唯一の実在の反映なのだ。
この反映のなかで、かぎりあるものと無限なるものが混同され、同じものと
して見なされてしまった。
この混乱の解消がヨーガの目的なのだ。
質問者 死はこの混乱を解消しないのでしょうか?
マハラジ
死においては身体だけが死ぬ。
生命、意識、実在は死なない。
そして生命は死の後、かつてなかったほど生き生きとするのだ。
質問者 しかし人は生まれ変わるのでしょうか?
マハラジ
生まれたものは死ななければならない。
不生なるものだけが不死なのだ。
けっして眠ることも目覚めることもないものが何なのか、私たちの「私」と
いう感覚が誰のおぼろげな反映なのか見いだしなさい。
質問者 どのようにしてそれを見いだしたらいいのでしょう?
マハラジ
何かを見いだそうとするとき、あなたはどうするだろうか?
マインドとハートをそれにとどめておくのだ。
それに対する関心と、確固とした記憶が必要だ。
覚えなければならないことを覚えること、それが成功の秘訣(ひけつ)だ。
真剣さがそれをもたらす。
質問者 見いだそうとするだけで充分なのですか? もちろん、能力と機会
が必要なはずです。
マハラジ
真剣さがそれをもたらすだろう。
もっとも重要なことは、目的地とそこへの道が異なったレベル上にあっては
ならないこと、生活と光が調和すること、行いが信条を裏切らないこととい
った矛盾から自由であることだ。
誠実さ、清廉さ、完全性と呼んでもいい。
後戻りしてはならない。
やり直しはできない。
一度征服した地を、離れたり見捨てたりしてはならない。
目的に向かうねばり強さと、それを遂行する真剣さがあなたを目的地へと導
くだろう。
質問者 ねばり強さと誠実さは天が与えるものです。私にはそのほんのかけ
らもありません!
マハラジ
あなたが突き進むにつれて、すべてはやってくるだろう。
まず第一歩を踏み出しなさい。
すべての恩寵(おんちょう)はあなたの内側からやってくる。
内面に目を向けなさい。
あなたは「私は在る」ことを知っている。
自発的にそこへ戻ってくるようになるまで、もてるかぎりの時間をそれとと
もに在りなさい。
それ以上やさしい方法はないのだ。
『I AM THAT 私は在る』(p33-34)
(夢からの)出口の必要はないのだ!
出口もまた夢の一部分だということがわからないのだろうか?
あなたがするべきことは、夢を夢として見ることなのだ。
どこであろうと、それが導くところ、それは夢だ。
夢を超えていこうとする考えそのものが幻想なのだ。
なぜどこかへ行かなければならないのか?
あなたはただ世界という夢を見ているのだ、ということを悟りなさい。
そして、出口を探すのはやめなさい。
夢があなたの問題なのではない。
問題は、あなたが夢のなかのある部分が好きで、別の部分が嫌いだというこ
とだ。
すべてを愛すがいい。
あるいは何も愛さないことだ。
そして不平を言うのはやめなさい。
あなたが夢を夢として見たとき、為(な)すべきことはすべて為し終えたの
だ。
『私は在る』(p135)
質問者 世界が幻想(その無常さではなく)であるという論理を否定してい
る、ある有能な人びとによって書かれた非常に興味深い本がありま
す。彼らによると、最低位から最高位にわたる生きものの階層が存
在し、各々の有機体の複雑性のレベルが意識の深さ、広さ、強靱(
きょうじん)さを反映していると言います。成長のための形態の進
化、意識の向上、無限の可能性の表現などにおいて、一貫してひと
つの至高の法則が支配しているというのです。
マハラジ
そうかもしれない。
あるいはそうでないかもしれない。
たとえそうであったとしても、それは単にマインドにおける視点にすぎない。
だが事実は、宇宙全体(マハーダカーシュ)はただ意識(チダカーシュ)の
なかにのみ存在し、そして私自身は至高の絶対性(パラマカーシュ)のなか
に在るのだ。
純粋な存在のなかに意識が現れる。
意識のなかで、世界は出現し消滅していく。
存在するものはすべて私であり、すべては私のものだ。
すべてがはじまる以前にも、そしてすべてが終わった後にも――私は在る。
すべては私のなか、すべての生きるもののなかに輝く「私は在る」という感
覚のなかにその存在がある。
非存在でさえ私なしには考えることもできない。
何が起ころうとも、観照者としての私がそこにいなければならないのだ。
質問者 なぜあなたは世界の存在を否定されるのでしょうか?
マハラジ
世界を否定してはいない。
私は世界を、広大な未知のなかの既知全体としての意識、その意識のなかの
現れてとして見ている。
はじまり、そして終わるもの、それはただの現れにすぎない。
世界は現れるとは言えても、存在するとは言えない。
その現れは、ある時間の比率においては非常に長い間続くだろうが、ほかの
比率では非常に短いかもしれない。
だが、結局は同じことだ。
何であれ時間の範囲内にあるものは、はかなく実在性がない。
質問者 間違いなく、あなたはあなたを取り巻く現実の世界を見ています。
あなたはごく普通にふるまっているように見えますよ!
マハラジ
それはあなたにとってそう見えるだけだ。
あなたの意識界全体を占めるものは、私にとっては微小片にすぎない。
世界は続いていく。
だが、ほんのつかの間だ。
記憶が、世界は継続するとあなたに考えさせるのだ。
記憶のなかに生きていない私にとって、世界は意識のなかのつかの間の現れ
にすぎない。
質問者 あなたの意識のなかにですか?
マハラジ
「私」や「私のもの」といったすべての観念、「私は在る」という観念さえ
意識のなかに在る。
質問者 それでは、あなたの「絶対存在(パラマカーシュ)」は無意識のな
かにあるのでしょうか?
マハラジ
無意識という概念も意識のなかに存在する。
質問者 それでは、あなたが至高の境地にあるとどうやって知るのでしょう?
マハラジ
なぜなら、私はその中に在るからだ。
それはただ自然な状態なのだ。
質問者 それを描写できますか?
マハラジ
それは原因なく、依存なく、関係なく、分割せず、創造せず、揺らぐことな
く、問うことなく、努力によっては到達できないものとして、否定において
のみ表現することができる。
どのような肯定的な定義も記憶によるものであり、それゆえ適切ではない。
しかし私の境地は至高の実在であり、それゆえ可能であり、実現でき、達成
できるものなのだ。
『I AM THAT 私は在る』(p36-37)
何にもまして、私たちは意識しつづけていたい。
あらゆる苦しみや屈辱を耐えてでも、意識しつづけることを望むのだ。
この体験への欲望に逆らって、顕現すべてを手放さないかぎり、解放はあり
えない。
私たちは罠にはまったままなのだ。
『私は在る』(p346)
私たちはいかに弱く、無力であるかを悟らなければならない。
自分自身はこう在り、知り、行為すると想像し、惑わされているかぎりは、
私たちは悲しくも苦境にいるのだ。
ただ、完全な自己否定のなかにのみ、私たちの真我を発見するチャンスがあ
る。
『私は在る』(p129)
(愚かさの終焉は)人においては――もちろんやってくる。
いかなる瞬間にでも。
人類においては――周知のように――長い年月の末にやってくる。
創造においては――けっしてありえない。
なぜなら、創造自体が無知の根本だからだ。
物質自体が無知だ。
知ろうとしないこと、そして知らないということを知ろうとしないこと、そ
れがかぎりない苦しみの原因なのだ。
『私は在る』(p134)
神はあなたのマインドのなかの概念にすぎない。
あなたは事実だ。
あなたが知っているたったひとつ確かなことは、「ここに今、私は在る」と
いうことだ。
「ここと今」を取り除きなさい。
「私は在る」が確固として残る。
世界は記憶のなかに存在する。
記憶は意識のなかに現れる。
意識は気づきのなかに存在し、
気づきは存在の水面上の光の反映なのだ。
『私は在る』(p217)
宇宙を創造した欲望はあなたのものだ。
世界はあなた自身の創造だと知り、自由になりなさい。
『私は在る』(p398)
質問者 あなたは時を忘れて抽象世界のなかに没頭しているのですか?
マハラジ
抽象世界は知的な、言語的なものであって、睡眠や気絶のなかで消滅し、時
間のなかでふたたび現れる。
私は永遠なる今のなかに、私自身の境地(スワルーパ)のなかに在るのだ。
過去と未来はマインドのなかだけに在る。
私は今に在る。
質問者 世界も今に在ります。
マハラジ
どの世界のことだろう?
質問者 私たちを取り巻く世界です。
マハラジ
あなたの世界はあなたのマインドのなかに在り、それは私のものではない。
あなたとのこの会話でさえ、あなたの世界のなかにあるだけだというのに、
私の何を知っているというのだろうか?
私の世界があなたの世界と同一だと信じる理由は何もない。
私の世界は知覚されたままの実在、真実だ。
ところがあなたの世界は、あなたのマインドの状態にしたがって現れては消
える。
あなたの世界は何か相容れないものであり、あなたはそれを恐れている。
私の世界は私自身であり、わが家同然だ。
質問者 もしあなたが世界ならば、どうやってそれを意識することができる
のでしょうか? 時間的意識はその対象から区別されるものではあ
りませんか?
マハラジ
意識と世界はともに現れ、ともに消える。
それゆえ、それらは同じ状態の二つの相なのだ。
質問者 眠りのなかで私は存在しないのに、世界は続いています。
マハラジ
どうやってそれを知ったのだろうか?
質問者 目覚めとともに知るのです。記憶がそう言っています。
マハラジ
記憶はマインドのなかに在り、マインドは眠りのなかで続く。
質問者 それは部分的に停止しています。
マハラジ
だが、世界のありようは影響されないままだ。
マインドがそこにあるかぎり、あなたの身体と世界はそこにある。
あなたの世界はマインドでつくられ、主観的で、マインドに閉ざされ、断片
的、個人的で、記憶の糸にしがみついている。
質問者 あなたの世界もまたそうなのですか?
マハラジ
いいや、私の世界は実在であり、あなたの世界は想像にすぎない。
あなたの世界は個人的な、私的な、分かちあうことのできない、あなたにと
ってだけ親密なものなのだ。
あなたはあなたが見るように見、聞くように聞き、あなたの感情を感じ、あ
なたの想いを考え、誰もそこに入りこめない。
あなたの世界のなかで、あなたは本当に孤独だ。
あなたが人生と呼ぶ、絶えず変わりつづける夢に囲まれながら。
私の世界は開かれた世界だ。
すべてに共通し、誰にでもアクセスできる。
私の世界には共有性、洞察、愛、実在の質がある。
個が完全であり、個のなかに全体性がある。
すべては一であり、一がすべてなのだ。
質問者 あなたの世界は私のと同じように人びとや物でいっぱいなのでしょ
うか?
マハラジ
いいや、それは私自身で満ちている。
質問者 あなたは私たちのように見たり聞いたりするのでしょうか?
マハラジ
そうだ。
私も見たり、聞いたり、話したり、行動したりするように見えるだろう。
しかし、あなたの呼吸や消化作用がただ起こるように、私にとってそれらは
ただ起こるのだ。
「身体―精神」器官がそれらの面倒を見、私は関わらない。
あなたが髪の毛の成長を心配する必要がないように、私も言葉や行動につい
てマインドを煩(わずら)わせたりしない。
それらはただ起こる。
そして私は気にかけない。
なぜなら、私の世界ではけっして何も間違いは起こらないからだ。
『I AM THAT 私は在る』(p37-38)
アイデンティティの状態は実在のなかで固有のものであり、けっして消え去
るものではない。
しかし、アイデンティティとは一時的な個人(ヴィヤクティ)でも、カルマ
によって束縛された人格(ヴィヤクタ)でもないのだ。
それはすべての自己同一化が偽りとして放棄されたときに残るものだ。
『私は在る』(p412)
純粋な意識、そこにある、またはありうるすべての存在の感覚だ。
意識ははじめ純粋で、終わりもまた純粋なままだ。
その中間において、創造の根本である想像によって汚されてしまうのだ。
意識はつねに同じ状態で残る。
それをあるがままに知ることが真我の実現であり、永遠の平和なのだ。
『私は在る』(p412)
マハラジ
すべてはひとりでに起こる。
探求者は何もせず、グルも何もしない。
ものごとは起こるように起こる。
行為者という感覚が現れた後に、非難や賞賛が割り当てられるのだ。
質問者 何と奇妙なのでしょう! 行為者はかならず行為の起こる前に現れ
るはずです。
マハラジ
それはその反対だ。
行為者はただの観念なのだ。
あなたの言葉そのものが、行為は確定的であり、行為者は疑わしいことを示
している。
責任を転嫁することは人間の特徴的なゲームなのだ。
何かが起こるために不可欠な要因の果てしないリストについて考えていくと、
すべてが起こるための責任は、いかに間接的であってもすべてにあると認め
るほかはない。
行為者とは、「私の」と「私のもの」という幻想から生まれた神話なのだ。
質問者 その幻想はどれほど強力なものなのでしょうか?
マハラジ
疑いようもないほどだ。
なぜなら、それは実在に基づいているからだ。
質問者 そのなかの何が実在なのでしょう?
マハラジ
識別し、非実在であるすべてを拒絶することによって見いだしなさい。
『私は在る』(p393-394)
質問者 宇宙は因果関係の法則に支配されるのか、それともその法則の枠外
で存在し機能するのかという質問がたびたび取り上げられてきまし
た。すべては、たとえ小さくとも因果関係なしに、まったく何の理
由もなく現れては消え去るというのが、あなたの見解だったと見受
けられますが。
マハラジ
因果関係とは、物理的あるいは精神的空間のなかで起こる出来事の時間的連
鎖を意味する。
時間、空間、因果関係は精神的領域にあり、マインドとともに現れては消え
ていく。
質問者 マインドが作用するかぎり、因果関係の法則に効力があるのですね。
マハラジ
すべての精神的なものがそうであるように、いわゆる因果関係もそれ自体が
相矛盾するのだ。
存在のなかで、ある一定の原因を持っているものは何ひとつない。
宇宙全体がもっとも小さなものの存在の一因となる。
宇宙がそのようではないかぎり、何ひとつあるがままでは在りえない。
あらゆるものの土台と源が、起こることすべての唯一の原因であるとき、因
果関係を宇宙の法則と見なすのは不当だと言えよう。
宇宙の潜在的可能性は無限のため、その内容物によって限定されることはな
い。
しかもそれは基本的に、完全に自由な原理の表現または顕現なのだ。
質問者 ええ、結局ひとつのものが、ほかのものにとって唯一の原因だとす
るのは、まったく間違いだということがわかります。しかし、実際
の人生では、結果を見込んで行動を起こすのが私たちのつねなので
す。
マハラジ
そうだ。
無知のために、そのような行動はいたるところで見られる。
全宇宙がそれを起こさないかぎり、何事も起こりはしないということを人び
とが知るなら、彼らはよりわずかなエネルギーでより多くを達成するだろう。
質問者 もしすべてが原因全体の表現だとするなら、ひとつの達成に向けて
の目的ある行動などというものがありうるのでしょうか?
マハラジ
達成しようとする衝動自体も全宇宙のひとつの表現なのだ。
それは潜在するエネルギーが、ある一定の地点で現れたことを意味するにす
ぎない。
時間という幻想が、あなたに因果関係について語らせるのだ。
過去と未来が共通のパターンの一部として、永遠の今において見られるとき、
原因と結果という概念は効力を失い、創造的自由が現れる。
質問者 それでも、どうして原因なしに何らかの存在が現れるのか、私には
理解できません。
マハラジ
私が、あるものが原因なくして在ると言うとき、それはひとつの特定の原因
なくしてという意味だ。
あなたの誕生のために、あなたの母親は必要なかった。
誰か他の女性から生まれることもありえたのだ。
しかし、太陽と地球なしには生まれてくることはできなかったろう。
それらでさえもっとも重要な原因なしでは、あなたの誕生の原因とはならな
いだろう。
生まれてきたいというあなた自身の欲望なしには。
感情を与え、名前と形を与えるのは欲望なのだ。
欲せられたものが創造され、望まれて、触れることができ、思い描くことの
できる何かとしてそれ自身を顕現させる。
このようにして、私たちの住む個人的な世界は創造されるのだ。
真の世界はマインドを超える。
私たちはそれを快楽と苦痛、正と誤、内と外に分割された欲望の網の目の向
こうにかいま見る。
宇宙をあるがままに見るためには、その網を越え、一歩踏みださなければな
らない。
難しいことではない。
なぜならその網は大きな穴でいっぱいだからだ。
質問者 穴とはどういう意味でしょう? そして、どうすれば見いだせるの
でしょうか?
マハラジ
網とその多くの矛盾を見るがいい。
ことあるごとにあなたは何かを為(な)し、そして取り消す。
愛と平和と幸福を求め、熱心に働きかけたあげく、苦痛と憎悪と戦争を生み
出す。
長寿を求めながら過食し、友情を求めながら搾取する。
あなたの網の目が矛盾に満ちていることを見てとりなさい。
そしてそれを取り払うのだ。
見るという行為そのものがそれを消し去るだろう。
質問者 見るという行為がそれを消し去るのならば、見ることと消えること
の間に因果的関連があるのではないでしょうか?
マハラジ
たとえ概念としても、因果関係は混乱には当てはまらない。
質問者 欲望はどの程度まで因果関係の要因となるのでしょうか?
マハラジ
欲望は多くの要因のなかのひとつだ。
あらゆるものには無数の因果の要素がある。
しかし、そのすべての源はあなたの中にあり、それは愛と力と光をすべての
経験に与える至高の実在なのだ。
だが、この源が原因なのではなく、またどの原因も源ではない。
それゆえ、私はすべてのものに原因はないと言うのだ。
あなたはどのようにしてものごとが起こるのか、その由来をたどってみよう
とするかもしれない。
だが、なぜものごとがあるがままなのかを見いだすことはできない。
ものごとはあるがまま在るのだ。
なぜなら宇宙はあるがまま在るからだ。
『I AM THAT 私は在る』(p30-32)
霊的な成熟はすべてを手放す用意のなかにある。
あきらめることが第一歩なのだ。
だが真の放棄は、そこに何も放棄するものなどないと悟ることだ。
なぜなら、あなたのものなど何もないからだ。
深い眠りのように、眠りに陥るとき、あなたはベッドを放棄するわけではな
い。
ただそれを忘れるだけだ。
『私は在る』(p381)
私たちはいかに弱く、無力であるかを悟らなければならない。
自分自身はこう在り、知り、行為すると想像し、惑わされているかぎりは、
私たちは悲しくも苦境にいるのだ。
ただ、完全な自己否定のなかにのみ、私たちの真我を発見するチャンスがあ
る。
『私は在る』(p129)
本当にあなた自身のものを意識することはない。
あなたが意識していることは、あなたでもなければ、あなたのものでもない。
『私は在る』(p463)
あなたのものとは映画のスクリーン、光、そして見る力だ。
だが、映像はあなたではない。
『私は在る』(p463)
個人とは単なる誤解の結果だ。
実際には、そのようなものはないのだ。
果てしない連続性のなかで、感情、思考、行為が脳のなかに痕跡を残し、継
続性という幻想をつくりながら、見守る者の前を駆け抜けていく。
マインドのなかで、見守る者の反映が「私」という感覚をつくり出し、個人
は一見独立したように見える存在を獲得するのだ。
実際には、個人というものは存在しない。
ただ見守る者が「私」と「私のもの」に自己同一化するだけだ。
『私は在る』(p360)
真実への道は虚偽の破壊を通っていくものだ。
偽りを破壊するために、あなたはあなたのもっとも根深い確信を疑わなけれ
ばならない。
そのなかで、あなたが身体であるという確信が最悪のものなのだ。
身体とともに世界が現れ、世界とともに、世界を創造したと考えられている
神が現れる。
このようにして、恐れ、宗教、礼拝、捧げ物、あらゆる類(たぐい)の体系
がはじまるのだ。
すべては自らがつくり出した怪物に正気を失うほどおびえた幼稚な人間を保
護し、支持するためのものだ。
あなたは生まれることも、死ぬこともできないものだということを悟りなさ
い。
そうすれば恐れは去る。
すべての苦しみは終わるのだ。
『私は在る』(p321)
質問者 私のなかで、古い自己から独立した新しい自己が出現したことに気
づきました。それらはともかく共存しています。古い自己はその習
慣的在り方を続け、新しい自己は古い自己をそのままにさせ、しか
もそれ自体はそれと同一化しません。
マハラジ
古い自己と新しい自己の間にある主な違いとは何だろうか?
質問者 古い自己はすべてを定義し、説明したがります。それはものごとが
言葉の上で互いにつじつまの合うことを求めています。新しい自己
は記憶されたことがらとの関係性を求めず、ものごとをありのまま
に受け入れ、言葉上の説明を気にかけません。
マハラジ
あなたは習慣的なものと霊的なものの違いに、完全に変わることなく気づい
ているだろうか?
新しい自己と古い自己の態度はどのようなものだろう?
質問者 新しい自己は古い自己をただ見るだけです。それは親しくもなく、
敵対もしていません。それはただ古い自己をほかのすべてとともに
受け入れるだけです。古い自己の存在を否定しませんが、その価値
と効力は受け入れません。
マハラジ
新しい自己とは古い自己の完全な否定だ。
許容された新しさは本当の新しさではない。
それは古い自己が取った新たな態度にすぎないのだ。
真に新しい自己は古い自己を完全に抹殺する。
二つが一緒に在ることはできない。
そこには自己を露(あら)わにする過程、古い概念や価値の受け入れを変わ
らず否定しつづける過程があるだろうか?
あるいはそこには相互の黙認があるだろうか?
何がそれらの関係だろうか?
質問者 そこに特定の関係はありません。それらは共存しているのです。
マハラジ
あなたが古い自己と新しい自己を語るとき、誰を思っているのかね?
二つの間に記憶の継続性があるということは、互いが相手を覚えているとい
うことだ。
どうして二つの自己を語ることができようか?
質問者 一方は習慣の奴隷であり、もう一方はそうではありません。一方は
観念化し、もう一方はすべての観念から自由です。
マハラジ
なぜ二つの自己なのかね?
束縛と自由の間には何の関係性もありえない。
共存という事実自体がそれらの基本的な統合を証明している。
ひとつの自己だけが存在する。
そしてそれはいつも今、在るのだ。
新旧はともかく、あなたの言うほかの自己とはひとつの形態、自己の別の相
なのだ。
自己とは単一のものだ。
あなたがその自己なのだ。
あなたはこうであった自分と、こうなるだろう自分という観念をもっている。
しかし、観念は自己ではない。
たった今、私の前に座るあなたはどちらの自己だろうか?
新しい自己か?
質問者 二つは衝突しています。
マハラジ
どうして存在するものとしないものの間に衝突がありうるだろう?
衝突は古い自己の特質なのだ。
新しい自己が現れるとき、古い自己は消え去る。
新しい自己と衝突を同時に語ることはできない。
新しい自己への努力についてでさえ、古い自己が語っているのだ。
衝突、努力、闘い、奮闘、変化への熱望が語られるところに新しい自己はい
ない。
衝突をつくり出し永続させる習慣的傾向から、どの程度あなたは自由なのだ
ろうか?
質問者 私が今、別の人になったとは言えません。しかし、以前私が知って
いた状態とは異なる私についての新しいことがらを発見し、それら
を新しい自己と呼ぶにふさわしいと感じるのです。
マハラジ
古い自己があなた自身なのだ。
原因なく、自我の汚れもなく、突然出現する状態を、「神」と呼ぶがいい。
種子もなく、根もなく、芽を出さず、生長せず、花も果実もない、存在のな
かに突然栄光に満ちて、神秘的で驚異的に現れる、それを「神」と呼ぶがい
い。
それはまったく予期できず、しかも必然的なもの、かぎりなく親しく、しか
ももっとも驚嘆すべきもの、すべての期待を超え、しかも絶対に確実なもの
だ。
なぜなら、それには原因がないため、障害がないからだ。
それはひとつの法のみにしたがう。
自由の法だ。
何であれ、継続性や連鎖を含み、段階から段階へと変化していくものは実在
ではありえない。
実在に発展というものはない。
実在は最終的な、完全なもので、関係性を持たないものだ。
『I AM THAT 私は在る』(p205-206)
私たちは多様性を、苦痛と快楽の劇を愛している。
私たちは対比によって魅せられているのだ。
このために対立するものと、それらの表面上の分裂を必要としている。
しばらくの間それらを楽しみ、それから退屈して、純粋な存在の平和と沈黙
を切望するのだ。
『私は在る』(p434)
結局、あなたの唯一の問題とは、何であれあなたが知覚するものと、熱心に
自己同一化することなのだ。
この習慣を捨てなさい。
あなたはあなたが知覚するものではないのだ。
注意深く、超然と離れて在る力を使いなさい。
『私は在る』(p503)
あなただけがそれを変え、あるいはつくり変えることができるのだ。
『私は在る』(p398)
この苦痛の宇宙全体は欲望から生まれたのだ。
喜びへの欲望をあきらめなさい。
そうすれば、あなたは苦痛が何かさえ知らずにすむだろう。
『私は在る』(p100)
そしてあなた自身が、幻想から生まれた欲望から自由になることへの切迫し
た必要性を見ないかぎり、どうやって世界の問題を解決するというのだろう
か?
『私は在る』(p301)
どこであろうと、それが導くところ、それは夢だ。
夢を超えていこうとする考えそのものが幻想なのだ。
なぜどこかへ行かなければならないのか?
あなたはただ世界という夢を見ているのだ、ということを悟りなさい。
そして、出口を探すのはやめなさい。
夢があなたの問題なのではない。
問題は、あなたが夢のなかのある部分が好きで、別の部分が嫌いだというこ
とだ。
すべてを愛すがいい。
あるいは何も愛さないことだ。
そして不平を言うのはやめなさい。
あなたが夢を夢として見たとき、為(な)すべきことはすべて為し終えたの
だ。
『私は在る』(p135)
何をしようとあなたが変わることはないだろう。
なぜなら、あなたには変わる必要がないからだ。
あなたは身体やマインドを変えるかもしれない。
だが、それはつねにあなたではなく、何か外側が変わったのだ。
いったいどうして変わることを気にするのか?
身体もマインドも、また意識さえもあなた自身ではないと、きっぱりと自覚
しなさい。
そして意識も無意識も超えたあなたの真の本性のなかにひとり在りなさい。
明確な理解を除いては、いかなる努力もあなたをそこへ連れていかないだろ
う。
『私は在る』(p540)
夢に現実性を与えるかぎり、あなたはそれらの奴隷だ。
ある特定のものとして生まれたと想像することで、あなたは特定のものとし
て在ることの奴隷になってしまう。
あなた自身を過程として、過去と未来、そして物語をもつ者として想像する
ことは奴隷状態の本質なのだ。
実際には、私たちに物語はない。
私たちは過程ではなく、発展もせず、崩壊もしない。
すべてを夢と見て、動じずにいなさい。
『私は在る』(p207)
質問者 どうすればそれを成しとげることができるのでしょうか?
マハラジ
それについてできることは何もない。
だが、あなたは障害をつくり出すのを避けることができる。
あなたのマインドがどのように存在のなかに現れたか、どのように作用する
かを見守りなさい。
マインドを見守るにつれて、あなたは見守る人としてのあなた自身を発見す
る。
あなたが動じることなく、ただ見守っているとき、あなたは見守る人の背後
にある光としてのあなた自身を見いだすだろう。
その光の源は暗く、未知のもので、それは知識の源だ。
その源のみが存在するのだ。
その源に帰りなさい。
そしてそこに永続的に在りなさい。
それは空にも、すべてに遍在するエーテルのなかにもない。
神は偉大で素晴らしきすべてだ。
私は無だ。
何ももたず、何もできない。
だが、すべては私から立ち現れる。
その源が私だ。
その根底と源泉が私なのだ。
実在があなたのなかで爆発するとき、あなたはそれを神の体験と呼ぶかもし
れない。
あるいは、むしろ神があなたを体験していると言えよう。
あなたが自己を知るとき、神があなたを知るのだ。
実在はひとつの過程の結果ではない。
それは爆発なのだ。
それは明らかにマインドを超えたものだ。
しかし、あなたにできることは、あなたのマインドをよく知ることだけだ。
マインドがあなたを助けるのではない。
だが、マインドを知ることで、マインドがあなたを無能してしまうのを避け
ることができる。
あなたはとても注意深くならなければならない。
さもなければ、マインドはあなたを裏切るだろう。
それは泥棒を見守るようなものだ。
泥棒から何かを期待しているわけではない。
だが、あなたは盗まれたくはない。
同じように、マインドに対してあなたは何も期待することなく、多大な注意
を払うのだ。
別の例をとってみよう。
私たちは目覚め、そして眠る。
一日の仕事の後に眠りはやってくる。
さて、私が眠りに行くのだろうか、それともその特質であるように、眠りが
私に侵入するのだろうか?
言い換えれば、私たちが目覚めるのは私たちが眠っているからだ。
私たちは本当の目覚めの状態に目覚めるのではない。
目覚めの状態のなかに、無知によって世界は出現し、人を目覚めた夢の世界
に連れだす。
眠りも目覚めも、ともに正しい名称ではない。
私たちは夢を見ているだけなのだ。
真実の目覚め、真実の眠りはジニャーニだけが知っている。
私たちは目覚めているという夢を見ている。
私たちは眠っているという夢を見ている。
三つの状態は、ただの異なった種類の夢の状態だ。
すべてを夢として見なすことは、あなたを解放する。
夢に現実性を与えるかぎり、あなたはそれらの奴隷だ。
ある特定のものとして生まれたと想像することで、あなたは特定のものとし
て在ることの奴隷になってしまう。
あなた自身を過程として、過去と未来、そして物語をもつ者として想像する
ことは奴隷状態の本質なのだ。
実際には、私たちに物語はない。
私たちは過程ではなく、発展もせず、崩壊もしない。
すべてを夢と見て、動じずにいなさい。
質問者 あなたに耳を傾けることで何の得があるのでしょう?
マハラジ
私は、あなたをあなた自身に呼び戻している。
私があなたに求めることは、あなた自身を見ることだけだ。
あなた自身に向かい、あなた自身のなかへと見入ることだ。
質問者 目的は何なのでしょうか?
マハラジ
あなたは生き、あなたは感じ、あなたは考える。
あなたの生きること、感じること、考えることに注意を払うことで、あなた
はそれから自由になり、それらを超えていく。
あなたの人格は消え去り、観照者だけが残る。
それから、あなたは観照者をも超える。
どのようにそれが起こるのかを尋ねてはならない。
ただ、あなた自身の内面を探りなさい。
質問者 個人と観照者の違いは何によるのでしょうか?
マハラジ
どちらも意識の様式だ。
一方で、あなたは欲望し恐れる。
他方で、あなたは快楽と苦痛によって影響されず、出来事に動揺しない。
あなたはそれらが来ては去るにまかせる。
質問者 どのようにして高次の純粋な観照状態のなかに確立するのでしょう
か?
マハラジ
意識はそれ自体では輝かない。
それは背後にある光によって輝くのだ。
意識の夢のような性質を見た上で、意識がそのなかに現れ、存在を与えるそ
の光を見いだしなさい。
そこには意識の内容とその気づきがある。
質問者 私は知っています。そして知っているということを知っています。
マハラジ
二つ目の知識が無条件で永遠のものなら、そのとおりだ。
知られるものは忘れてしまいなさい。
しかし、あなたが知る者だということは覚えていなさい。
いつまでも体験に浸っていてはいけない。
あなたはつねに不死不生であり、体験者を超えているということを覚えてお
きなさい。
それを覚えていることで、純粋な知識の質である無条件の気づきの光が出現
するだろう。
質問者 人はどの時点で実在を体験するのでしょうか?
マハラジ
体験とは変化するものだ。
それは来ては去っていく。
実在は出来事ではなく、それを体験することもできない。
それは出来事を知覚するようには知覚できないのだ。
もし実在が出現するのを待っているなら、あなたは永遠に待たなければなら
ないだろう。
なぜなら、実在は来ることも去ることもないからだ。
それは期待されることではなく、気づくことだ。
予想して準備することではない。
だが、熱望そのものと実在の探求が、実在の動き、行為、作用なのだ。
あなたにできることは、核心を理解することだ。
実在は出来事ではなく、起こることでもない。
何であれ起こること、何であれ去来するものは実在ではない。
出来事はただ出来事として、一時的なものは一時的なものとして、体験は体
験として見なさい。
そうすれば、あなたにできることはすべて為し終えたのだ。
そのとき、あなたは実在に対して傷つきやすくなっている。
出来事や体験に実在性を与えていたときのような、よろいはもはやつけてい
ない。
しかし、好きや嫌いといった選り好みが入り込んだとたん、あなたは仕切を
下ろしたことになるのだ。
『I AM THAT 私は在る』(p206-209)
あれやこれに成ろうとするのではなく、在ることに幸せでありなさい。
あなたは意識界に完全に気づいている観照者として在るだろう。
だが、あなたと意識界の間には、いかなる感情も観念も立ちはだかるべきで
はない。
『私は在る』(p233)
あなたは考え違いしているのだ。
世界はあなたなしでは何の存在ももってはいない。
あらゆる瞬間において、それはあなたの反映にすぎない。
あなたが創造し、破壊するのだ。
『私は在る』(p113)
言葉に惑わされてはならない。
ひとつの言葉が多くの矛盾した意味を伝えることさえあるのだ。
快楽を追求し、不快を避ける「私は在る」は偽りだ。
快楽と苦痛を分割できないものとして見る「私は在る」は、正しく見ている。
知覚するものに巻き込まれた観照者が個人なのだ。
超然と離れて動じない観照者が実在の見張り塔であり、それは非顕現に固有
である気づきが顕現に接触する点だ。
観照者なしに宇宙はありえない。
宇宙なしに観照者はありえないのだ。
『私は在る』(p368)
何にもまして、私たちは意識しつづけていたい。
あらゆる苦しみや屈辱を耐えてでも、意識しつづけることを望むのだ。
この体験への欲望に逆らって、顕現すべてを手放さないかぎり、解放はあり
えない。
私たちは罠にはまったままなのだ。
『私は在る』(p346)
あなたはあなた自身のための牢獄を築くことに、たいへんなエネルギーをつ
ぎこんできた。
今、それを破壊するためにできるかぎりを費やしなさい。
事実、破壊することはたやすい。
なぜなら、偽物は発見されたそのときに消え去るからだ。
すべては「私は在る」という想念にかかっている。
それを徹底的に調べるがいい。
それはあらゆる困難の根底に存在している。
それはあなたを実在から分かつ皮のようなものだ。
実在は皮の内側にも外側にもある。
しかし、皮そのものは実在ではないのだ。
この「私は在る」という想念はあなたとともに生まれてきたのではない。
あなたはそれなしでも充分申し分なく生きたことだろう。
それはあとになって、身体との自己同一化のために現れた。
それがありもしなかった分割という幻想をつくり出したのだ。
それがあなた自身の世界のなかで、あなたを異邦人にしてしまった。
そして世界を異質な、敵意あるものにしてしまったのだ。
「私は在る」という感覚なしでも人生は続いていく。
私たちにも「私は在る」という感覚のない平和で幸福なときはある。
「私は在る」が戻るとともに、困難がはじまるのだ。
『私は在る』(p317)
すべてを夢として見なすことは、あなたを解放する。
夢に現実性を与えるかぎり、あなたはそれらの奴隷だ。
ある特定のものとして生まれたと想像することで、あなたは特定のものとし
て在ることの奴隷になってしまう。
あなた自身を過程として、過去と未来、そして物語をもつ者として想像する
ことは奴隷状態の本質なのだ。
実際には、私たちに物語はない。
私たちは過程ではなく、発展もせず、崩壊もしない。
すべてを夢と見て、動じずにいなさい。
『私は在る』(p207)
質問者 実在はそれ自身を、知識よりもむしろ行為によって表現するのでし
ょうか? あるいはそれは感情の類なのでしょうか?
マハラジ
行為も、感情も、思考も実在を表現することはない。
実在の表現といったものはない。
あなたは二元性のないところに二元性を持ち込んだのだ。
実在だけが在る。
ほかには何もない。
目覚め、夢見、眠りという三つの状態は私ではなく、私はそれらのなかには
いない。
私が死ぬとき、世界は「ああ、マハラジが亡くなった!」と言うだろう。
しかし私にとって、それらは内容のない言葉であり、無意味なのだ。
グルの写真の前で礼拝が行われるとき、あたかもグルが目覚め、沐浴をし、
食事をし、休息し、散歩に出かけ、そして戻り、皆に祝福を与え、眠りにつ
くように、すべては起こる。
すべてにおいて、きわめて詳細に注意が払われながら。
それにもかかわらず、それらすべてには非現実的な感覚がある。
それは私の場合も同様だ。
すべては必要にしたがって起こる。
しかも、何も起こってはいないのだ。
私は必要なことをするように見えるが、同時に何ひとつ必要ではなく、人生
自体は架空のものだと知っているのだ。
質問者 それでは、なぜ生きるのですか? なぜこれらすべての不必要な、
来ては去り、目覚めては眠り、食べては消化するといったことを続
けるのでしょう?
マハラジ
何ひとつ私によっては為されない。
すべてはただ起こるのだ。
私は期待しないし、計画も立てない。
ただ出来事が起こるのを見るだけだ。
それらが非現実だと知りながら――。
質問者 真我を実現した最初の瞬間から、あなたはつねにこのようだったの
でしょうか?
マハラジ
いつものように三つの状態は交替する。
そこには目覚め、眠り、そしてまた目覚めがあるが、私には起こらない。
それらはただ起こる。
私には何も起こらないのだ。
そこには不変不動、難攻不落の岩のように動じない何か、ひと塊の純粋な存
在―意識―至福がある。
私はつねにそのなかに在る。
いかなる苦痛も、いかなる災難も、何も私をそこから引き出すことはできな
いのだ。
質問者 それでも、あなたは意識しています!
マハラジ
そうとも言えるし、またそうでないとも言える。
そこには深く、広大無辺な、揺るぎない平和がある。
できごとは記憶のなかに記録されるが、それらには何の重要性もない。
私はほとんど気がつかないほどだ。
質問者 もし私があなたを正しく理解したとすると、修練によって培うこと
ではこの状態はやってきません。
マハラジ
やってくるということはない。
それはつねにそうだったのだ。
発見はあった。
そして、それは突然のものだった。
誕生とともにあなたが世界を突然発見したように、私は突然、真我の存在を
発見したのだ。
質問者 それは雲がかかっていて、あなたのサーダナ(修練)が霧を晴らし
たのでしょうか? あなたの状態は永久なものでしょうか、断続的
なものでしょうか?
マハラジ
絶対的に揺るぎのないものだ。
私が何をするにせよ、それは岩のように不動なのだ。
ひとたび実在に目覚めたならば、あなたは実在のなかにとどまる。
子供は子宮のなかに戻りはしない!
それはシンプルな状態だ。
極小よりもさらに小さく、極大よりもさらに大きい。
それは自明であるにもかかわらず、描写を超えた彼方に在る。
質問者 それへの道はあるのでしょうか?
マハラジ
もしあなたが関心をもつなら、すべてが道となりうる。
ただ私の言葉に頭を悩ませ、その完全な意味をつかみ取ろうと試みることは、
壁を打ち破るのに充分有効なサーダナだ。
何も私を煩わさない。
問題が起こっても私は抵抗しない。
それゆえ、それは私のもとにとどまらないのだ。
あなたの側には、とても多くの問題がある。
私の側にはまったく問題がない。
私の側に来なさい。
あなたには問題をつくり出す傾向があり、私には免疫がある。
何であれ起こることは起こるだろう。
必要なのは、誠実な関心を持つことだ。
誠実さが要なのだ。
質問者 私にできるでしょうか?
マハラジ
もちろんだ。
あなたには彼岸に渡る充分な能力がある。
ただ、誠実でありなさい。
『I AM THAT 私は在る』(p209-210)
なぜどこかへ行かなければならないのか?
あなたはただ世界という夢を見ているのだ、ということを悟りなさい。
そして、出口を探すのはやめなさい。
夢があなたの問題なのではない。
問題は、あなたが夢のなかのある部分が好きで、別の部分が嫌いだというこ
とだ。
すべてを愛すがいい。
あるいは何も愛さないことだ。
そして不平を言うのはやめなさい。
あなたが夢を夢として見たとき、為(な)すべきことはすべて為し終えたの
だ。(p135)
自分自身であることが正しく、自分自身でないことが間違いだ。
それ以外はすべて条件づけだ。
『私は在る』(p371)
あなたは自由になれることを知っている。
そして今、それはあなたにかかっているのだ。
永遠に空腹で、渇き、切望し、探し求め、手探りし、つかみ取り、つねに失
い、悲しみに暮れるか、あるいは全身全霊で、何を加えることも、何を取り
去ることもない永遠の完成の状態を探求しに出かけるか、どちらかだ。
そのなかではすべての欲望と恐れは不在だ。
それらがあきらめられたからではなく、それらに意味がなくなったからなの
だ。
『私は在る』(p349)
何もすることはないのだ。
ただ在りなさい。
何もしてはいけない。
在りなさい。
山に登って洞窟のなかに座ることはない。
わたしは「あなた自身で在りなさい」とさえ言わない。
なぜなら、あなたはあなた自身を知らないからだ。
ただ、在りなさい。
あなたは知覚可能な「外側」の世界でもなければ、思考可能な「内側」の世
界でもない。
あなたは身体でもマインドでもないことを見極めたのだ。
ただ在りなさい。
『私は在る』(p349)
不安げに「つぎは何か、つぎは何か?」と尋ねてはならない。
時間から外に踏みだして、それが世界を滅ぼすのを見るがいい。
そして言うがいい。
「すべてを終わらせることが時間の本性なのだ。そうあらしめればいい。そ
れは私には関わりない。私は燃えつきるものではなく、燃料を集める必要も
ないのだ」と。
『私は在る』(p367-368)
観照に努力はいらない。
あなたはあなたがただの観照者なのだと理解し、その理解が働いていく。
それ以上何も必要ないのだ。
ただ、あなたが観照者だということを覚えていなさい。
もし観照の状態のなかで「私は誰か?」と自分自身に尋ねれば、その答えは
直ちにやってくる。
ただ、それは言葉ではなく、沈黙のものだ。
『私は在る』(p322)
それから手を引き、無視し、それを超えていきなさい。
そうすれば、偽りはなくなるだろう。
『私は在る』(p474)
マインドが発明したものは、マインドが破壊する。
だが、実在は発明されたものではなく、破壊することもできない。
マインドの力が及ばないそれをつかまえなさい。
『私は在る』(p321)
あなた自身を過程として、過去と未来、そして物語をもつ者として想像する
ことは奴隷状態の本質なのだ。
実際には、私たちに物語はない。
私たちは過程ではなく、発展もせず、崩壊もしない。
すべてを夢と見て、動じずにいなさい。
『私は在る』(p207)
質問者 私の友人はドイツ人です。そして私はイギリス生まれで、両親はフ
ランス人です。私はアーシュラムからアーシュラムを巡りながら、
一年以上もインドにいます。
マハラジ
何かサーダナ(修練)をしているのかね?
質問者 研究し、瞑想しています。
マハラジ
何に瞑想しているのだろうか?
質問者 私が読んだことに瞑想しています。
マハラジ
よろしい。
質問者 あなたは何をされているのでしょうか?
マハラジ
座っているのだ。
質問者 ほかには?
マハラジ
話している。
質問者 あなたは何について話をされるのでしょうか?
マハラジ
あなたは講義が聞きたいのかね?
あなたが深く感じられるように、本当に心に触れるような何かを尋ねるほう
がいい。
感情的に関わらないかぎり、私と議論をしたとしても、本当の理解は私たち
の間に生まれないだろう。
もしあなたが「何も私を悩ますことはない、問題はない」というのなら、そ
れはそれでいい。
私たちは静かに黙っていよう。
だが、本当にあなたの心に触れる何かがあるのならば、話す目的もあるとい
うものだ。
私があなたに尋ねようか?
あなたがひとつところから別のところへと、移動しつづける目的は何だろう
か?
質問者 人びとに出会い、彼らを理解することです。
マハラジ
人びとの何をあなたは理解しようとしているのだろう?
正確には、あなたは何を求めているのだろうか?
質問者 統合です。
マハラジ
もしあなたが統合を望むのなら、誰を統合するのか知らなければならないだ
ろう。
質問者 人びとに出会い、彼らを見守ることで、人は自分自身をもまた知る
ことになるのです。それはともに進むのです。
マハラジ
それはかならずしもともに進むとはかぎらない。
質問者 一方が他方を改善していきます。
マハラジ
それはそのように働かないのだ。
鏡はイメージを映しだすが、イメージが鏡を改善することはない。
あなたは鏡ではなく、鏡のなかのイメージでもない。
鏡を完全なものにし、それが正確に、真実に投影するようにしてから鏡の向
きを自分自身の方向に変え、鏡が反映できるかぎりの、真実のあなたの投影
を見なさい。
しかし、投影はあなた自身ではないのだ。
あなたは投影を見る者だ。
それを明確に理解しなさい。
あなたが何を知覚しようとも、あなたはあなたが知覚するものではないのだ。
質問者 私が鏡で、世界は投影なのでしょうか?
マハラジ
あなたは鏡と投影の両方を見ることができるのだ。
あなたはそのどちらでもない。
あなたは誰なのか?
決まり文句で答えてはならない。
答えは言葉のなかにないからだ。
言葉で表せるもっとも近い表現は、「私は知覚を可能にし、体験者とその体
験を超えた生命だ」と言えよう。
さて、あなたは鏡と鏡のなかのイメージから自分を引き離し、完全にひとり
で、まったくあなただけで立つことができるだろうか?
質問者 いいえ、できません。
マハラジ
どうしてできないと知っているのかね?
どのようにやっているのかも知らずに、あなたはたくさんのことをしている
のだ。
消化し、血液やリンパ液を循環させ、筋肉を動かしている。
すべて、どのようにしているのかさえ知らずに。
同じように、あなたはなぜ、どのようにしてるのかも知らないまま、知覚し、
感じ、考えている。
同じように、あなたは知らなくてもあなた自身なのだ。
真我としてのあなたに何も間違ったところはない。
それはそれとして完全だ。
正しく澄んでいないのは鏡なのだ。
それゆえ、それがあなたに偽りのイメージを与えるのだ。
あなた自身を正す必要はない。
ただあなた自身に関するあなたの考えを正しなさい。
あなた自身を鏡と鏡のなかのイメージから引き離すことを学びなさい。
つねに、「私はマインドでも、その考えでもない」ということを覚えておき
なさい。
信念とともに、忍耐強くそれをしなさい。
そうすればあなたは、すべてを包容し、すべてに遍在する永遠の存在―知識
―愛の源としての、あなた自身の直接の姿を知るときがかならず来るだろう。
あなたは身体のなかに焦点を合わせた無限なるものだ。
今、あなたは身体しか見ていない。
真剣に試みてみなさい。
そうすれば、無限なるものだけを見るようになるだろう。
『I AM THAT 私は在る』(p347-348)
私たちはいかに弱く、無力であるかを悟らなければならない。
自分自身はこう在り、知り、行為すると想像し、惑わされているかぎりは、
私たちは悲しくも苦境にいるのだ。
ただ、完全な自己否定のなかにのみ、私たちの真我を発見するチャンスがあ
る。
『私は在る』(p129)
因果関係の概念に取りつかれたマインドが創造を発明し、そして「創造者は
誰なのかと不思議がるのだ。
マインド自体が創造者だ。
『私は在る』(p521)
画家は絵の中にいるのだ。
あなたは画家を絵から引き離し、そして彼を探そうとする。
分割してはいけない。
偽りの質問をしてはいけない。
ものごとはありのままだ。
そして、誰か特定の人に責任があるわけではない。
『私は在る』(p434)
創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。
世界はそれらを満たすための道具なのだ。
魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。
そして時間がすべての勘定書を決算する。
バランスの法則が究極の支配をするのだ。
『私は在る』(p103)
それ(カルマや因果応報)はただ相対として真実に近いというだけだ。
実際には、私たちは互いの創造者と創造物であり、互いの重荷の原因であり、
互いの重荷の重さに耐えているのだ。
『私は在る』(p434)
宇宙はあなたのところにやってきて、あなたは宇宙の一部だと言いはしない。
全体があなたをその一部として含んでいるという考えをつくり上げたのは、
あなたではないだろうか?
実際に、たとえどんなに想像と期待で飾りたてていても、あなたが知ってい
るのはあなたの私的な世界にすぎないのだ。(p44)
『私は在る』(p103)
解放への道には何も立ちはだかっていない。
そしてそれは今ここで起こることができる。
だが、あなたはほかのことにもっと興味がある。
そしてあなたはその興味と闘うことはできないのだ。
あなたはそれとともに行き、それを見抜き、それが単に判断と賞賛の誤りで
あることを、それ自体が自ら暴くのを見守らなければならないのだ。
『私は在る』(p474)
ひとつのことを固守しなさい。
それが大切なことだ。
「私は在る」をつかみ取りなさい。
そしてほかのすべてを手放しなさい。
これがサーダナ(修練)である。
『私は在る』(p111)
質問者 実在の体験、それはいつやってくるのでしょう、それは続くものな
のでしょうか?
マハラジ
すべての体験は、かならず一時的なものだ。
だが、すべての体験の根底にあるものは不動なのだ。
出来事と呼ばれるものは何ひとつ永続しない。
だが、ある出来事はマインドを浄化し、ある出来事はそれを汚(けが)して
しまう。
深い洞察とすべてを包容する愛の瞬間はマインドを浄化する。
だが、欲望と恐れ、妬(ねた)みと怒り、盲目と知的慢心は精神を汚し、鈍
くしてしまうのだ。
質問者 真我の実現はそれほどまでに重要なのでしょうか?
マハラジ
それなしには、あなたは果てしない苦しみのなかで、無意味に欲望と恐れを
繰り返しながらそれらに食い尽くされてしまうだろう。
ほとんどの人びとは苦痛に終わりがありうることさえ知らないのだ。
しかし、ひとたび彼らがその良い知らせを耳にしたならば、すべての争いや
葛藤(かっとう)を超えていくことがもっとも緊急の仕事となるだろう。
あなたは自由になれることを知っている。
そして今、それはあなたにかかっているのだ。
永遠に空腹で、渇き、切望し、探し求め、手探りし、つかみ取り、つねに失
い、悲しみに暮れるか、あるいは全身全霊で、何を加えることも、何を取り
去ることもない永遠の完成の状態を探求しに出かけるか、どちらかだ。
そのなかではすべての欲望と恐れは不在だ。
それらがあきらめられたからではなく、それらに意味がなくなったからなの
だ。
質問者 ここまでは、あなたの言われることを理解しました。さて、私は何
をすべきなのでしょうか?
マハラジ
何もすることはないのだ。
ただ在りなさい。
何もしてはいけない。
在りなさい。
山に登って洞窟のなかに座ることはない。
私は「あなた自身で在りなさい」とさえ言わない。
なぜなら、あなたはあなた自身を知らないからだ。
ただ在りなさい。
あなたは知覚可能な「外側」の世界でもなければ、思考可能な「内側」の世
界でもない。
あなたは身体でもマインドでもないことを見極めたのだ。
ただ在りなさい。
質問者 真我の実現には、確かに段階があるはずです。
マハラジ
真我の実現に段階などない。
何も漸進的なところはないのだ。
それは突然起こり、後戻りできないものだ。
あなたは新しい次元のなかに入り、そこから以前の次元が単なる抽象的観念
でしかなかったことを見る。
日の出とともに、ものごとをあるがままに見るように、あなたは真我を実現
することですべてをあるがままに見るのだ。
幻想の世界は後に残されたままだ。
質問者 真我の実現の状態のなかでは、ものごとは変わるのでしょうか?
それらは色彩豊かになり、深い意味をもつようになるのでしょうか?
マハラジ
その体験はまったく正しい。
しかし、それは実在(サダヌバーヴ)の体験ではなく、宇宙との調和(サッ
トヴァヌバーヴ)の体験だ。
質問者 それでも、そこには進歩があるのでしょうか?
マハラジ
準備(サーダナ)のなかに進歩はありうる。
実現は突然のものだ。
果実はゆっくり熟していく。
しかし、落ちるのは突然であり、しかも、もとに戻ることはないのだ。
質問者 私は身体的にも精神的にも安らかです。これ以上何が必要なのでし
ょうか?
マハラジ
あなたの状態は究極の状態ではないかもしれない。
あなたは自然な状態に戻ったことを、すべての欲望と恐れの完全な不在によ
って自覚するだろう。
結局、すべての欲望と恐れの根本には、あなたがあるがままではないという
感覚があるのだ。
関節がはずれているかぎり、脱臼(だっきゅう)したところが痛むように、
そして関節がはめられたとたん、忘れ去られるように、すべての利己的関心
は、ひとたび正常な状態に戻れば消えてしまう精神的な脱臼の症候なのだ。
質問者 そのとおりです。しかし、自然な状態に達するためのサーダナとは
何なのでしょうか?
マハラジ
「私は在る」という感覚をつかみ、それ以外のすべてを除きなさい。
こうしてマインドが完全に沈黙したとき、それは新しい光とともに輝き、新
しい知識とともに振動するのだ。
すべては自発的にやってくる。
ただ、「私は在る」という感覚をつかむ必要があるだけだ。
眠りから覚めたときのように、あるいは歓喜の状態にいるように、あなたは
休息した感覚をもち、しかもなぜ、どのようにしてこれほど良い感じがする
ようになったのか説明ができない。
真我実現も同じように、あなたは完全で、充足し、快楽―苦痛から自由であ
ると感じ、それにもかかわらず、何が、どうして、どのように起こったのか
を説明できないのだ。
あなたはそれを否定的な言語でしか表せない。
「私には、もはや何も間違ったところがない」と。
ただ過去との比較においてだけ、それから自由になったことを知るのだ。
そうでなければ、あなたはただ、あなたのままなのだ。
ほかの人たちに伝えようとしてはならない。
もしそうできるとしたら、それは本物ではなかったのだ。
沈黙しなさい。
そして、それが行為のなかで、それ自身を表現するのを見守りなさい。
質問者 もし私が何に成るのかを言うことがあなたにできるのなら、それは
私の成長を見守る助けになるかもしれません。
マハラジ
何かに成るということなどないとき、どうして誰かに、あなたが何になるの
か言うことができるだろうか?
あなたはただ、あなたで在ることを発見するのだ。
自分自身をひとつのパターンに鋳造することなど、悲惨なる時間の浪費だ。
過去も未来も考えず、ただ在りなさい。
『I AM THAT 私は在る』(p348-350)
何にもまして、私たちは意識しつづけていたい。
あらゆる苦しみや屈辱を耐えてでも、意識しつづけることを望むのだ。
この体験への欲望に逆らって、顕現すべてを手放さないかぎり、解放はあり
えない。
私たちは罠にはまったままなのだ。
『私は在る』(p346)
不安げに「つぎは何か、つぎは何か?」と尋ねてはならない。
時間から外に踏みだして、それが世界を滅ぼすのを見るがいい。
そして言うがいい。
「すべてを終わらせることが時間の本性なのだ。そうあらしめればいい。そ
れは私には関わりない。私は燃えつきるものではなく、燃料を集める必要も
ないのだ」と。
『私は在る』(p367-368)
すべてを夢として見なすことは、あなたを解放する。
夢に現実性を与えるかぎり、あなたはそれらの奴隷だ。
ある特定のものとして生まれたと想像することで、あなたは特定のものとし
て在ることの奴隷になってしまう。
あなた自身を過程として、過去と未来、そして物語をもつ者として想像する
ことは奴隷状態の本質なのだ。
実際には、私たちに物語はない。
私たちは過程ではなく、発展もせず、崩壊もしない。
すべてを夢と見て、動じずにいなさい。
『私は在る』(p207)
神を受け入れる前に、あなたはあなた自身を受け入れなければならない。
それはもっと恐ろしいことでさえある。
自己受容の第一段階はまったく喜ばしいものとは言えない。
なぜなら、人は楽しい光景を見るわけではないからだ。
先へ進んでいくには、すべての勇気が必要とされる。
助けとなるのは沈黙だ。
完全な沈黙のなかで、あなた自身を見守りなさい。
あなた自身を描写してはならない。
あなただと思いこんでいるあなたを見てみなさい。
そして、あなたはあなたが見ているものではないことを覚えておきなさい。
「これは私ではない。私は誰か?」が自己探求の動きなのだ。
解放へのほかの手段というものはない。
すべての手段は延期を意味するのだ。
あなたではないものを断固として拒絶しなさい。
真の自己が荘厳なる無のなかに現れるまで。
それは、「何ものでもないもの」なのだ。
『私は在る』(p545)
どのような体系的方法も、どのような行動様式も、あなたを目的地へ連れて
いきはしない。
『私は在る』(p351)
質問者 どうしてただ在ることができるでしょうか? 変化は不可避なので
す。
マハラジ
変化の絶えないなかにあっては、変化は不可避だ。
だが、あなたがそれに支配されることはない。
あなたはそれに対して変化が知覚される、不変の背景なのだ。
質問者 すべては変化します。背景もまた変化するのです。変化に気づくた
めの不変の背景など、必要ありません。自己は一時的なものです。
それは単なる過去と未来の遭遇(そうぐう)点でしかないのです。
マハラジ
もちろん、記憶をもとにした自己は一時的なものだ。
しかし、そのような自己は、その背後に不断の継続性を必要とする。
あなたの体験からも、自己を忘れてしまう隙間があることを知っているだろ
う。
何がそれを蘇らせるのだろうか?
朝、あなたを目覚めさせるのは何だろうか?
意識のなかのその隙間を橋渡しする、何か不断の要因がなければならない。
もしあなたが注意深く見守れば、あなたの日常の意識は、つねに隙間が現れ
るひらめきのようなものでしかないと知るだろう。
その隙間のなかには何があるのだろうか?
ほかでもない、あなたの永遠なる真の実在だ。
それにとっては、マインドもノー・マインドもひとつなのだ。
質問者 霊的な成就のためにあなたが勧める、私が行くべき特定の場所があ
りますか?
マハラジ
唯一、正しい場所は内側だ。
外側の世界は、助けにもならなければ妨げにもならない。
どのような体系的方法も、どのような行動様式も、あなたを目的地へ連れて
いきはしない。
未来へ向けてのあらゆる働きかけを放棄しなさい。
完全に、今に集中するのだ。
起こるがまま、人生のあらゆる動きに反応することだけで関わっていきなさ
い。
質問者 放浪しようとする衝動は何が原因なのでしょうか?
マハラジ
原因はない。
あなたはただ、放浪しているという夢を見ているだけだ。
数年後には、あなたのインドでの滞在も夢として現れることだろう。
そのころ、あなたは何かほかの夢を見ていることだろう。
夢から夢へと動きまわるのは、あなたではない。
夢があなたの前を流れていき、あなたは不変の観照者なのだ。
いかなる出来事もあなたの存在に影響を与えることはない。
これが絶対的な真理なのだ。
質問者 物理的には動きまわりながら、内面においては動じずにいることは
できないでしょうか?
マハラジ
それはできる。
しかし、それが何の役に立つというのだろう?
もしあなたが真剣なら、最後にはうろつき回ることに飽きて、今まで時間と
エネルギーを浪費してきたことを後悔するだろう。
あなた自身を見いだすためには、一歩を踏みだすことさえ必要ないのだ。
質問者 真我(アートマン)の体験と絶対なるもの(ブラフマン)の体験の
間には、何か違いがあるのでしょうか?
マハラジ
絶対なるものの体験などありえない。
それはすべての体験を超えているからだ。
その反対に、自己はあらゆる体験のなかの体験要因だ。
それゆえ、それはある意味で体験の多様性を有効にするのだ。
世界は偉大な価値あるもので満ちているかもしれない。
だが、誰も買う人がいなければ、それらに価値はない。
絶対なるものは、体験可能なあらゆるものを包含している。
体験を可能にするもの、それが絶対なるものだ。
それを現実のものにするのが真我なのだ。
質問者 私たちは段階的な体験を通して絶対なるものに到達するのではない
でしょうか? もっとも粗雑な体験からはじまり、もっとも崇高な
体験で終わるように。
マハラジ
それを熱望しないかぎり体験はありえない。
欲望の間に段階はありうる。
しかし、もっとも崇高な欲望とすべての欲望から自由になることの間には、
渡らなければならない深遠がある。
実在ではないものが実在に見えることはあるかもしれない。
しかし、それは一時的なことだ。
実在は時間を恐れてはいないのだ。
質問者 非実在は実在の表現ではないのでしょうか?
マハラジ
どうしてそうありえよう?
それは、あたかも真理は夢のなかでそれ自体を表現すると言うようなものだ。
実在にとって、非実在は存在しない。
あなたがそれを信じるために、それは実在として現れるのだ。
疑ってみなさい。
そうすればそれは消え去る。
誰かを愛するとき、あなたはそれに実在を与える。
あなたはあなたの愛が全能で、永遠だと想像する。
それが終局を迎えるとき、あなたは言う、「わたしはそれが本物だと思って
いたが、そうではなかった」と。
一時性は非実在の最高の証拠なのだ。
時間と空間のなかに限定され、ひとりの人にしか適用しないものは実在では
ない。
実在はすべてのためにあり、永遠のものなのだ。
ほかの何よりも、あなたはあなた自身を大切にする。
あなたはあなたの存在を、何ものとも交換することを許さないだろう。
在ることへの欲望は、すべての欲望のなかで最強のものだ。
そして、あなたが真我を実在したときだけ、それは去るだろう。
質問者 非実在のなかにさえ、そこには実在の感触があります。
マハラジ
そうだ。
それを実在と見なすことで、あなたはそれに実在性を分け与えるのだ。
あなたは自分を納得させた上で、自分の確信によって束縛されてしまうのだ。
日が照るとき、色彩が現れる。
日が沈むとそれらは消え去る。
光なしに、色彩はどこにあるだろうか?
質問者 それは二元性のなかでの考えです。
マハラジ
考えることはすべて二元性のなかにある。
本質のなかではいかなる思考も生き残らないのだ。
『I AM THAT 私は在る』(p350-352)
利己主義が苦しみの原因なのだ。
ほかの原因はない。
『私は在る』(p493)
自分が身体でもマインドでもないと知っている人は、利己的ではありえない。
なぜなら、彼は利己的になるための何ものももってはいないからだ。(p529)
利己的であることとは、部分が全体に対して欲望し、獲得し、蓄積すること
を意味しているのだ。
『私は在る』(p530)
(苦しみの原因とは)かぎりあるものとの自己同一化だ。
感覚のようなものは、いくら強烈であっても苦しみの原因にはならない。
マインドが誤った観念にうろたえて、「私はこれだ、私はあれだ」と考える
ことにふけるようになる。
それが失うことを恐れ、得ることを熱望し、挫折したとき苦しむのだ。
『私は在る』(p128)
自分自身はこう在り、知り、行為すると想像し、惑わされているかぎりは、
私たちは悲しくも苦境にいるのだ。
ただ、完全な自己否定のなかにのみ、私たちの真我を発見するチャンスがあ
る。
『私は在る』(p129)
(夢からの)出口の必要はないのだ!
出口もまた夢の一部分だということがわからないのだろうか?
あなたがするべきことは、夢を夢として見ることなのだ。
どこであろうと、それが導くところ、それは夢だ。
夢を超えていこうとする考えそのものが幻想なのだ。
なぜどこかへ行かなければならないのか?
あなたはただ世界という夢を見ているのだ、ということを悟りなさい。
そして、出口を探すのはやめなさい。
夢があなたの問題なのではない。
問題は、あなたが夢のなかのある部分が好きで、別の部分が嫌いだというこ
とだ。
すべてを愛すがいい。
あるいは何も愛さないことだ。
そして不平を言うのはやめなさい。
あなたが夢を夢として見たとき、為(な)すべきことはすべて為し終えたの
だ。
『私は在る』(p135)
すべての個人的な要因を放棄しなさい。
そうすればあなたは恐れから自由になるだろう。
それは難しいことではない。
欲望が偽りだと認識されたとき、無欲はひとりでにやってくる。
あなたが欲望と闘う必要はないのだ。
結局のところ、それは幸福への衝動なのだ。
悲しみがそこにあるかぎり、それは自然なことだ。
ただ、あなたが欲望を持つもののなかには、何の幸福もないということを見
て取りなさい。
質問者 あなたは目覚め、夢見、眠りの三つの状態を、私たちと同じように
体験するのでしょうか、それとも異なるのでしょうか?
マハラジ
私にとっては、三つの状態すべてが眠りなのだ。
私の目覚めの状態はそれらを超えている。
私があなた方を見ると、あなた方は皆、眠っているように見える。
私は気づいている。
なぜなら、私は何も想像しないからだ。
それは眠りの一種であるサマーディではない。
それはただマインドの影響を受けない。
過去と未来から自由な状態だ。
あなたの場合、それは欲望と恐れ、記憶と期待に歪められている。
私の場合、それはありのままの正常な状態だ。
個人として在ることとは、眠っていることなのだ。
質問者 身体と純粋な気づきの間には、「内なる器官」、アンタカラナ、
「微細身」、名前は何であれ――が立ちはだかっています。旋回す
る鏡が日の光を線と色彩の多様なパターンに変化させるように、微
細な身体も自己の単一の輝く光を多様な世界に変化させるのです。
私はこのようにあなたの教えを理解しました。私に理解できないの
は、最初にどのようにしてこの微細な身体が立ち現れたのかという
ことです。
マハラジ
それは「私は在る」という想念とともに創造されたのだ。
二つはひとつなのだ。
質問者 「私は在る」はどのようにして現れたのでしょうか?
マハラジ
あなたの世界のなかでは、すべてのものがはじまりと終わりをもっている。
もしそうでなければ、あなたはそれを永遠と呼ぶことだろう。
私の視野のなかでははじまりや終わりというものは存在しない。
はじまりも終わりも、みな時間に関係するものだ。
時間を超えた存在は、完全な今のなかに在る。
質問者 アンタカラナ、すなわち微細身は実在でしょうか、非実在でしょう
か?
マハラジ
それは一時的なものだ。
現在のなかでは実在であり、過ぎてしまえば非実在なのだ。
質問者 どのような類の実在でしょうか? それは一時的なのでしょうか?
マハラジ
それは体験的、実際的、あるいは事実上のものと呼んでもいい。
それは今ここにある直接体験の否定できない真実なのだ。
あなたはその描写と意味を疑うことはできる。
しかし、それ自体を疑うことはできない。
存在と非存在は交互に交替し、その実在性は一時的なものだ。
不変の実在は空間と時間を超えて在る。
存在と非存在のはかなさを認識し、その両方から自由になりなさい。
質問者 ものごとははかないものかもしれませんが、それでもそれは果てし
ない反復のなかで私たちとともに在るのです。
マハラジ
欲望は強力なものだ。
反復を起こさせるのは欲望なのだ。
欲望がなければ、繰り返し現れることはないのだ。
質問者 恐れについてはどうでしょうか?
マハラジ
欲望は過去のものであり、恐れは未来のものだ。
過去の苦しみの記憶と、その再発の恐れが人を未来に対して不安にさせるの
だ。
質問者 そこには未知なるものへの恐れもあります。
マハラジ
苦しんだことのない人は恐れることはない。
質問者 私たちは恐れるように運命づけられているのでしょうか?
マハラジ
私たちが恐れを個人的存在の影と見て、それを受け入れることができないか
ぎり、個人としての私たちは必ず恐れることになる。
すべての個人的な要因を放棄しなさい。
そうすればあなたは恐れから自由になるだろう。
それは難しいことではない。
欲望が偽りだと認識されたとき、無欲はひとりでにやってくる。
あなたが欲望と闘う必要はないのだ。
結局のところ、それは幸福への衝動なのだ。
悲しみがそこにあるかぎり、それは自然なことだ。
ただ、あなたが欲望を持つもののなかには、何の幸福もないということを見
て取りなさい。
質問者 私たちは快楽に安住してしまうのです。
マハラジ
ひとつひとつの快楽が苦痛に包まれているのだ。
すぐにあなたは一方なしに他方を得ることはできないことを発見するだろう。
質問者 体験者がいて、彼の体験があります。何がその二つの間のつながり
をつくり出すのでしょうか?
マハラジ
何かがつながりをつくるわけではない。
二つはひとつなのだ。
質問者 私にはどこかに罠が仕掛けられているように感じられます。しかし、
どこなのかわからないのです。
マハラジ
罠は何もないところに強(し)いて二元性を見ようとする、あなたのマイン
ドの中にあるのだ。
質問者 あなたに耳を傾けていると、私のマインドは完全に今のなかにあり、
質問がなくなっている自分自身に気がついて驚かされています。
マハラジ
実在を知ることができるのは、あなたが驚いているときだけなのだ。
『I AM THAT 私は在る』(p472-473)
知覚、想像、期待、不安、幻想はすべて記憶に基づくものだ。
それらの間にはほとんど境界線さえなく、互いに溶け込んでいる。
すべては記憶の反応なのだ。
『私は在る』(p44)
私たちはいかに弱く、無力であるかを悟らなければならない。
自分自身はこう在り、知り、行為すると想像し、惑わされているかぎりは、
私たちは悲しくも苦境にいるのだ。
『私は在る』(p129)
質問者 私には不安と恐れの原因が記憶にあることが理解できます。記憶を
終焉(しゅうえん)させる方法とは何でしょうか?
マハラジ
方法について語ってはならない。
方法などないのだ。
偽りとして見られたものは消え去る。
調べることによって消え去るのが幻想の本性そのものなのだ。
調べなさい。
ただそれだけでいい。
偽りを破壊することはできない。
なぜなら、あなたは偽りをつねにつくりつづけているからだ。
それから手を引き、無視し、それを超えていきなさい。
そうすれば、偽りはなくなるだろう。
質問者 キリストもまた悪を無視し、子供のように在ることを語っています。
マハラジ
実在は皆にとって共通のものだ。
偽りだけが個人のものなのだ。
質問者 私が修行者(サーダカ)を見守り、彼らがそれによって生きている
理論を調べてみると、彼らは単に物質的欲望を「霊的」野望に置き
換えただけだということがわかりました。あなたの語るところから
すると、「霊的」という言葉と「野望」という言葉は両立しないか
のようです。もし「霊的」という言葉が野望からの解放を暗示して
いるのなら、探求者を駆りたてるのは何の衝動でしょうか? ヨー
ガでは解放への欲望は本質的なものだと言っています。それはもっ
とも高次の野望ではないでしょうか?
マハラジ
野望とは個人的なものだ。
解放とは個人からのものだ。
解放のなかでは、もはや野望の主体と客体の両方がないのだ。
誠実さとは、努力の結果を熱望することではない。
それは偽り、非本質的、個人的なものから興味をそらし、内なる移行をする
ことの表現なのだ。
質問者 先日あなたは、私たちは真我を実現する前に完成を夢見ることさえ
できない。なぜならすべての完成の源は、マインドにではなく真我
にあるからだと言われました。もし卓越した人徳が解放に不可欠の
ものでないなら、いったい何が不可欠なのでしょうか?
マハラジ
解放とは巧みに適用されたある方法による結果でも、環境によるものでもな
い。
それは因果の過程を超えているのだ。
何もそれを強要することはできず、妨げることもできない。
質問者 それでは、なぜ私たちは今ここにおいて自由ではないのでしょうか?
マハラジ
だが、私たちは「今ここ」で自由なのだ。
束縛を想像するのはマインドだけだ。
質問者 何が想像を終焉させるのでしょう?
マハラジ
なぜ、あなたは想像を終焉させたいのだろう?
ひとたびあなたがマインドとその奇跡的な力を知って、分離し、孤立した個
人という観念を取り除くなら、マインドがそれ自体にふさわしい仕事をする
ように放っておくだろう。
マインドをそれ自身の場所に保ち、それ自身の仕事をさせることがマインド
の解放なのだ。
質問者 マインドの仕事とは何でしょうか?
マハラジ
マインドとはハートに仕える妻であり、世界は明るく幸福であるための彼ら
の家なのだ。
質問者 私にはまだ理解できていません。解放への道に何も立ちはだかって
いないのなら、なぜそれは今ここで起こらないのでしょうか?
マハラジ
解放への道には何も立ちはだかっていない。
そしてそれは今ここで起こることができる。
だが、あなたはほかのことにもっと興味がある。
そしてあなたはその興味と闘うことはできないのだ。
あなたはそれとともに行き、それを見抜き、それが単に判断と賞賛の誤りで
あることを、それ自体が自ら暴くのを見守らなければならないのだ。
質問者 もし私が偉大な聖者とともにとどまれば、それは助けになるでしょ
うか?
マハラジ
偉大な聖者たちはつねにあなたの手の届くところにいる。
だが、あなたは彼らを認識しない。
誰が偉大で、誰が聖者なのかをどうして知ることができるだろうか?
聞き伝えに知るのだろうか?
このことに関して、あなたは他者を、あるいは自分自身でさえ信頼できると
言えるだろうか?
疑いの影もないほどあなたを確信させるには、賞賛や推薦の言葉以上の、あ
るいは歓喜の瞬間でさえも超えた何かが必要だ。
あなたは偉大で神聖な男性、あるいは女性に遭遇するかもしれない。
しかもその幸運に長い間気づかずにいることさえあるのだ。
偉大な人の息子も、幼児でいる間は何年も彼の父親の偉大さを知らずにいる
ことだろう。
偉大さを認識するためには、成熟しなければならない。
そして神聖さを認識するためには、マインドを浄化させなければならないの
だ。
あるいはあなたは時間と金を無駄に費やし、しかも人生が差し出しているも
のを逃すことさえあるのだ。
あなたの友人の中にはよい人びとがいる。
彼らから多くを学ぶことができるだろう。
聖者の後を追いかけまわすことは、単なるゲームにほかならない。
それよりもあなた自身を覚えていなさい。
あなたの日々の生活を容赦なく見守りなさい。
誠実でありなさい。
そうすればあなたは不注意と想像の束縛を打ち破るだろう。
『I AM THAT 私は在る』(p474-475)
この体験への欲望に逆らって、顕現すべてを手放さないかぎり、解放はあり
えない。
私たちは罠にはまったままなのだ。
『私は在る』(p346)
マインドと自己同一化すること、ただそれだけがあなたを幸福に、あるいは
不幸にするのだ。
マインドへの隷属に反抗しなさい。
あなたの束縛は自分が創造したものだということを見なさい。
そして執着と反感への鎖を断ち切るのだ。
『私は在る』(p538)
解放への道には何も立ちはだかっていない。
そしそしてそれは今ここで起こることができる。
だが、あなたはほかのことにもっと興味がある。
そしてあなたはその興味と闘うことはできないのだ。
あなたはそれとともに行き、それを見抜き、それが単に判断と賞賛の誤りで
あることを、それ自体が自ら暴くのを見守らなければならないのだ。
『私は在る』(p475)
質問者 あなたは私にたったひとりでで闘えと言われるのでしょうか?
マハラジ
あなたはけっしてひとりではない。
そこにはつねに、あなたにもっとも忠実に仕えている存在と力がある。
あなたはそれらを知覚するかも、しないかもしれない。
それにもかかわらずそれは実在し、活動しているのだ。
すべてはあなたのマインドのなかにある。
そしてあなたはマインドを超えているということ、あなたは本当にひとりな
のだということを悟ったとき、すべてがあなたなのだ。
質問者 全知とは何なのでしょうか? 神は全知でしょうか? あなたは全
知なのでしょうか? 普遍的観照者という表現を耳にしますが、そ
れはどういう意味でしょうか? 真我実現とは全知を暗示している
のでしょうか? あるいは特別な訓練という問題なのでしょうか?
マハラジ
知識へのすべての興味を完全に失うことが全知をもたらすのだ。
それは正しい瞬間の誤りのない行為のために、知られる必要があることを知
るという贈り物にほかならない。
結局、知識は行為のために必要とされる。
そして、もしあなたが意識内に知識をもちこむことなく、正しく自発的に行
為するなら、そのほうが遥かにいいのだ。
質問者 人はほかの人のマインドを知ることができるのでしょうか?
マハラジ
あなた自身のマインドをまず知りなさい。
マインドは宇宙全体とあり余るほどの場所を包含しているのだ!
質問者 あなたの根本的な理論は、どうやら目覚めの状態は夢見や夢のない
状態と基本的に違いがないということのようです。その三つの状態
は本質的に身体との誤った自己同一化だということです。おそらく、
それは本当なのでしょう。しかし、私はそれが真理全体ではないと
感じています。
マハラジ
真理を知ろうと試みてはならない。
なぜならマインドによる知識は真の知識ではないからだ。
だが、何が真実ではないかを知ることはできる。
あなたを偽りから解き放つには、それで充分なのだ。
真実を知っているという考えは危険なものだ。
知らないときこそ、あなたには調べる自由があるのだ。
そして調べることなしに解放はありえない。
なぜなら未調査が束縛の主要な原因だからだ。
質問者 「私は在る」という感覚とともに幻想の世界がはじるまるのだとあ
なたは言われました。しかし、私が「私は在る」の源について尋ね
たとき、あなたは、「そこに源はない。なぜなら調べることととも
に、それは消え去るからだ」と言われたのです。世界をその上に築
き上げるに充分なほど強固なものが、単なる幻想であることはでき
ません。「私は在る」は、私が意識する唯一の不変の要因なのです。
どうしてそれが偽りでありうるでしょうか?
マハラジ
偽りなのは「私は在る」ではなく、あなたがあなた自身として見なしている
ものだ。
私には疑う余地もなく、あなたがあなた自身だと信じているものではないこ
とが見える。
論理が通ろうと通るまいと、明白なことを否定することはできない。
あなたはあなたが意識しているものではないのだ。
あなたがマインドのなかに築き上げた構造物を取り壊すよう努めなさい。
マインドが為(な)したことはマインドが取り消さなければならないのだ。
質問者 マインドがあろうとなかろうと、現在の瞬間を否定することはでき
ません。今在るものは在るのです。あなたは現れを疑うかも知れま
せんが、事実は疑うことはできません。事実の根底には何があるの
でしょうか?
マハラジ
すべての現れと、私たちが人生と呼ぶできごとの連鎖のなかの不変なる連結
部の根源には、「私は在る」という感覚がある。
だが、私は「私は在る」を超えているのだ。
質問者 真我を実現した人たちは、普通彼らの状態を彼らの宗教から借りた
言語によって表現しようとします。あなたはヒンドゥ教徒として生
まれました。それゆえブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァや、ヒンド
ゥー教の教えや偶像を用いて語ります。あなたの言葉の背後にある
体験が何なのか、どうか語っていただけますか? あなたの言葉は
どのような実在に言及しているのでしょうか?
マハラジ
それは私が教わった言語であり、私の話し方なのだ。
質問者 しかし、言語の背後には何があるのでしょうか?
マハラジ
言葉を否定することを除いて、どうして言葉で表現できるだろうか?
それゆえ、私は時間を超え、空間を超え、原因を超えるといった言葉を使う
のだ。
それらもまた言葉だ。
だが、それらの言葉が意味を無に帰するため、私の目的に合うのだ。
質問者 もしそれらが無意味なら、どうして使うのでしょうか?
マハラジ
なぜなら、いかなる言葉も適さないことに、あなたが言葉を望むからだ。
質問者 あなたの要点が見えました。またしてもあなたは私の質問を奪い取
ったのです!
『I AM THAT 私は在る』(p475-477)
意識それ自体としては、物質の微妙な片割れなのだ。
不活発性(タマス)とエネルギー(ラジャス)が物質の属性であるように、
調和(サットヴァ)は意識それ自体として現れる。
ある意味では、それを非常に神秘的なエネルギーの一形態として考えてもい
いだろう。
どこであれ、物質がそれ自体をひとつの堅固な有機体へと組織化するとき、
意識は自発的に現れる。
有機体の破壊にともなって、意識は消滅するのだ。
『私は在る』(p284)
アイデンティティは実在だ。
実在がアイデンティティなのだ。
実在とは無形の集合や無言の混沌ではない。
それは強力で、気づいていて、至福に満ちている。
それと比べれば、あなたの人生など太陽に対するロウソクのようなものだ。
『私は在る』(p453-455)
あなたはあなたが意識しているものではないのだ。
あなたがマインドのなかに築き上げた構造物を取り壊すよう努めなさい。
マインドが為(な)したことはマインドが取り消さなければならないのだ。
『私は在る』(p476-477)
すべてはあなたのマインドのなかにある。
そしてあなたはマインドを超えているということ、あなたは本当にひとりな
のだということを悟ったとき、すべてがあなたなのだ。
『私は在る』(p475-476)
質問者 私は、あなたが自分自身に関して「私は永遠で、属性を超えた不変
なるものだ」と言われるのを聞きました。いったいどのようにして
それを知るのでしょうか? 何があなたにそう言わせるのでしょう
か?
マハラジ
私はただ「私は在る」が現れる前の状態を描写しようと試みているだけだ。
だが、マインドとその言語を超えたその状態自体は描写不可能なものだ。
質問者 「私は在る」はすべての体験の根底です。あなたが描写しようと試
みていることも、限定された一時的なひとつの体験に違いありませ
ん。あなたはあなた自身が不変なるものだと話しています。私はそ
の言葉の音を聞き、辞書の意味を思い起こしますが、不変の存在を
体験したことはないのです。どうすれば私は障壁を打ち破り、不変
として在ることの意味を個人的に、親密に知ることができるのでし
ょうか?
マハラジ
言葉そのものが橋なのだ。
それを覚えておきなさい。
それについて考えなさい。
それを探索しなさい。
それとともに在りなさい。
それをあらゆる方向から見てみなさい。
誠実な忍耐とともにそのなかに飛び込みなさい。
すべての遅れや失望に耐えなさい。
突然、マインドが言葉から離れ、言葉を超えた実在に向かって振り返るまで。
それは名前だけ知っている人を探しだすようなものだ。
あなたの探求が、あなたに彼との出会いをもたらす日がやってくる。
そして名前は実在のものとなるのだ。
言葉には価値がある。
なぜなら言葉とその意味との間にはきずながあり、もしたゆみなく調べれば、
人は概念を超え、その根本にある体験のなかへと入っていくからだ。
実際には、そのように言葉を超えていこうと繰り返し試みることが、瞑想と
呼ばれるものなのだ。
サーダナ(修練)とは言語から非言語へと超えていく執拗な試みにほかなら
ない。
その仕事は絶望的に見える。
突然、すべてが明らかで、シンプルで、素晴らしく、たやすいものとなるま
で。
だが、現在の生き方に関心があるかぎり、あなたは未知へと飛び込む最後の
機会を前にしておじけづいてしまうだろう。
質問者 なぜ未知なるものが私に興味を起こさせるというのでしょうか?
未知が何の役に立つというのでしょうか?
マハラジ
まったく何の役にも立ちはしない。
だが、何があなたを既知の狭い領域のなかに閉じ込めているのかを知ること
は価値あることだ。
あなたを未知へと連れだすのは、完全で正確な既知の知識なのだ。
それを有用や有益といった条件で考えることはできない。
静かで冷静に在り、すべての利己的な領域を超え、すべての自己中心的な考
えを超えることは、解放のための避けることのできない条件だ。
あなたはそれを死と呼ぶかもしれない。
私にとって、それはもっとも意味深く、強烈な生き方だ。
なぜなら、私はその完全性と全体性において生命とひとつだからだ。
強烈さ、意味深さ、そして調和。
これ以上何を求めるというのだろうか?
質問者 もちろん、それ以上何ひとつ必要ありません。しかし、あなたは可
知なるものについて語っています。
マハラジ
不可知なるものについて語ることができるのは、沈黙だけだ。
マインドは知っていることについてしか語れないのだ。
もしあなたがたゆまず可知なるものを調べるなら、それは消え去り、不可知
なるもののみが残る。
だが、想像と興味のかすかなゆらめきが、不可知なるものを隠してしまう。
そして既知なるものが前面に現れるのだ。
既知なるもの、変化するものは、あなたがともに生きているものだ。
不変なるものは、あなたにとって何の役にも立ちはしない。
あなたが変化するものに飽き果てて、不変なるものを熱望するときだけ、マ
インドのレベルから見たとき空や暗闇として描写できるものへと方向転換し、
踏み込む用意ができたのだ。
なぜならマインドは内容と多様性を求めるからだ。
一方、実在とはマインドにとって内容物のない不変なるものなのだ。
質問者 私にとってそれは死のように見えます。
マハラジ
そうだ。
それはまたすべてに浸透し、すべてを征服した、言葉を超える強烈なものだ。
普通の脳では、粉砕されずにそれに耐えることはできない。
それゆえ、サーダナが絶対的に必要なのだ。
身体の純粋さ、マインドの明晰性、非暴力、そして非利己的な人生は、知的、
霊的な存在としての存続に欠かせないのだ。
質問者 実在のなかに存在はあるのでしょうか?
マハラジ
アイデンティティは実在だ。
実在がアイデンティティなのだ。
実在とは無形の集合や無言の混沌ではない。
それは強力で、気づいていて、至福に満ちている。
それと比べれば、あなたの人生など太陽に対するロウソクのようなものだ。
『I AM THAT 私は在る』(p453-455)
私のグルは、「私は在る」という感覚に留意し、ほかの何にも注意を払って
はならないと指導し、私はただそれにしたがったのだ。
私は呼吸や瞑想、あるいは聖典の研究などの特定の過程にはしたがわなかっ
た。
何が起ころうとも、それから注意を背け、「私は在る」という感覚とともに
とどまったのだ。
それはあまりにも単純で、粗野にさえ見えるかもしれない。
私がそうした理由は、グルが私にそうするように言ったからだ。
それでも、それは効果があったのだ!
『私は在る』(p393)
マハラジ
マインドでもって見ているかぎり、それを超えていくことはできない。
彼方へと超えていくには、マインドとその内容から目を離さなければならな
いのだ。
質問者 どの方向を見ろといわれるのでしょうか?
マハラジ
すべての方向はマインドのなかにあるのだ!
私はあなたに特定の方向を見るように言っているのではない。
ただ、あなたのマインドのなかで起こっていることのすべてから目を離し、
「私は在る」という感覚にそれを合わせなさい。
「私は在る」は方向ではない。
それはすべての方向を否定したものだ。
最後には「私は在る」さえも去らなければならない。
なぜなら、明白なことをいつまでも主張しつづける必要はないからだ。
「私は在る」にマインドを合わせることは、単にマインドをほかのすべてか
らそむけることなのだ。
『私は在る』(p326)
質問者 神と師の恩寵(おんちょう)によって、あなたはすべての欲望と恐
れを失い、不動の状態に到達しました。わたしの質問は単純です。
どうやってあなたの状態が不動のものだと知るのでしょうか?
マハラジ
ただ変化するものについてだけが考えられ、語ることができるのだ。
不変なるものは、沈黙のなかでだけ認識されることができる。
ひとたび真我が実現されたなら、それは変化するものに深く影響を与え、し
かもそれ自体は変化しないまま残るのだ。
質問者 あなたが観照者だということをどうやって知るのでしょうか?
マハラジ
私は知らない、私は在るのだ。
私は在る、なぜなら在るためにはすべてが観照されなければならないからだ。
質問者 聞き伝えによっても、存在は受け入れられます。
マハラジ
ついにあなたは直接、観照者が必要とされる地点に来たのだ。
観照は、もし個人的で実際的でないなら、少なくとも可能であり実行できる
ものでなければならない。
直接体験が最終的な証明だ。
質問者 体験は不完全であり、誤りに導きます。
マハラジ
そのとおりだ。
だが、体験の事実がではない。
体験が何であれ、真実であろうと偽りであろうと、体験が起こったという事
実は否定できない。
それはそれ自体の証明なのだ。
あなた自身を念入りに見てみなさい。
そうすれば意識の内容が何であれ、観照することはその内容物に依存しない
ことがわかるだろう。
気づきはそれ自体で在り、出来事とともに変化することはない。
出来事は快いもの、あるいは不快なものかもしれない。
重要なもの、あるいは重要でないものかも知れないが、気づきは同じままだ。
純粋な気づきの固有の本質である、自己意識の痕跡(こんせき)のまったく
ない自然な自己のアイデンティティに気づきなさい。
そしてその核心まで行くがいい。
するとあなたはすぐに気づきがあなたの真の本性だと自覚することだろう。
あなたが気づくことは、何ひとつあなたのものと呼ぶことはできないのだ。
質問者 意識とその内容物はひとつであり、同じものではないでしょうか?
マハラジ
意識は空に浮かぶ雲のようなものだ。
そして雨の水滴がその内容物なのだ。
雲が見えるためには、太陽が必要だ。
そして意識は気づきのなかで焦点を合わせられる必要があるのだ。
質問者 気づきは意識の一形態ではないのでしょうか?
マハラジ
意識の内容が好き嫌いなしに見られたとき、その意識が気づきなのだ。
だが、意識のなかに反映された気づきと、意識を超えた純粋な気づきとには
違いがある。
反映された気づき、「私は気づいている」という感覚は観照者だ。
一方、純粋な気づきは実在の本質なのだ。
水滴のなかの太陽の反映は、確かに太陽の反映だ。
だが、太陽そのものではない。
観照者として意識のなかに反映された気づきと、純粋な気づきとの間にはギ
ャップがある。
マインドはそれを超えることができないのだ。
質問者 それはあなたの見方によるのではないでしょうか? マインドは違
いがあると言い、ハートはないと言うのです。
マハラジ
もちろん、そこに違いはない。
実在は非実在のなかに実在を見るのだ。
非実在をつくり出すのはマインドであり、偽りを偽りとして見るのもマイン
ドなのだ。
質問者 偽りを偽りとして見た後に、実在の体験が続くことは理解していま
す。
マハラジ
実在の体験というようなものはない。
実在は体験を超えているのだ。
すべての体験はマインドのなかにある。
実在として在ることで、あなたは実在を知るのだ。
質問者 もし実在がマインドも言葉も超えているのなら、なぜそれほどそれ
について語るのでしょうか?
マハラジ
もちろん、その喜びのためだ。
実在とは至高の至福だ。
それについて語ることさえ幸福なのだ。
質問者 あなたは揺らぐことのない至福について語っていますが、それにつ
いて語るとき、何をあなたは想っているのでしょうか?
マハラジ
私のマインドのなかには何もない。
あなたが言葉を聞くように、私もそれらを聞くのだ。
すべてを起こらせる力が、それをも起こらせるのだ。
質問者 しかし、話しているのは、私ではなくあなたです。
マハラジ
それはあなたにとってそう見えるのだ。
私が見るには、二つの「身体―精神」が象徴的な雑音を交換しているだけだ。
実際には、何も起こっていない。
『I AM THAT 私は在る』(p455-456)
意識的な体験の総体性が自然だ。
意識的自己としてのあなたは自然の一部なのだ。
気づきとしてのあなたはその彼方にある。
自然を単なる意識として見ることが気づきなのだ。
『私は在る』(p421)
意識それ自体としては、物質の微妙な片割れなのだ。
不活発性(タマス)とエネルギー(ラジャス)が物質の属性であるように、
調和(サットヴァ)は意識それ自体として現れる。
ある意味では、それを非常に神秘的なエネルギーの一形態として考えてもい
いだろう。
どこであれ、物質がそれ自体をひとつの堅固な有機体へと組織化するとき、
意識は自発的に現れる。
有機体の破壊にともなって、意識は消滅するのだ。
『私は在る』(p284)
世界は記憶のなかに存在する。
記憶は意識のなかに現れる。
意識は気づきのなかに存在し、気づきは存在の水面上の光の反映なのだ。
『私は在る』(p217)
気づきのなかでそれを消し去りなさい。
それは記憶と習慣の束でしかないのだ。
『私は在る』(p536)
苦痛は身体の存続のために欠くことのできないものだ。
しかし、誰もあなたに苦しむよう強要してはいない。
苦しみは完全に、執着すること、あるいは抵抗することを理由に起こる。
それは私たちが人生とともに流れ、進んでいくことを自ら欲しないことの兆
候なのだ。
『私は在る』(p289)
あなたが意志、決心、一途(いちず)な心、何という名でそれを呼ぼうと、
つまりは真剣さ、誠実さ、正直さに戻ってくる。
......
ほんのわずかな誠実さが大きな違いを生み出すのだ。
『私は在る』(p137)
必要なのは、誠実な関心を持つことだ。
誠実さが要なのだ。
『私は在る』(p210)
それは偽り、非本質的、個人的なものから興味をそらし、内なる移行をする
ことの表現なのだ。
『私は在る』(p474)
質問者 人間と宇宙に関して数多くの理論があります。創造の理論、幻想の
理論、夢見の理論等々、数えきれません。どれが本物なのでしょう
か?
マハラジ
すべて本物で、すべて偽物だ。
どれでもあなたの好きなものを選ぶがいい。
質問者 あなたは夢の理論を好んでいるようですが。
マハラジ
それらはみな言葉をつなぎ合わせたものだ。
ある人はある理論を好み、ほかの人は別のものを好む。
理論は正しくも間違ってもいない。
それらはただ説明不可能なことを説明しようと試みたものだ。
理論が問題なのではなく、それがどのように試されるかが問題なのだ。
理論を試すことがそれを価値あるものにする。
あなたの好きなどの理論でも実験してみるといい。
もし誠実で真剣であれば、実在の達成はあなたのものとなろう。
ひとりの生きる存在として、あなたは苦痛に満ちた、やりきれない状況のな
かにいる。
そして解決法を探している。
あなたのいる牢獄のいくつか異なった地図があなたに渡された。
どれも本物とは言えない。
だが、それらはみないくらかの価値をもってはいる。
だが、あなたが本当に真剣ならば、理論ではなく、あなたの真剣さが解放へ
と導くのだ。
質問者 理論は迷わせるかもしれず、真剣さは盲目にさせるかもしれません。
マハラジ
あなたの誠実さがあなたを導くだろう。
自由と完成への献身が、あなたにすべての理論やシステムを放棄させるだろ
う。
そしてあなたは智慧(ちえ)と知性、そして愛とともに生きはじめる。
理論は出発点としては良いが、いずれ放棄されなければならないものだ。
早ければ早いほどいい。
質問者 真我の実現のためには、ヨーガの八段階の修練は必要なく、意志の
力のみで充分だと説くヨーギがいます。純粋な意志の力への完全な
確信をもって目的に集中するならば、ほかの者たちが何十年もかけ
て到達することも、努力なしに急速に達成すると言います。
マハラジ
集中力、絶対の確信、純粋な意志!
そのような財産があれば、疑いなく瞬時に達成するだろう。
このヨーギの説く意志は、ひとつを除いたすべての欲望をぬぐい去った成熟
した探求者にとってはいいだろう。
つまるところ、意志とは安定したハートとマインドのことなのだ。
そのような不動の姿勢で臨めば、達成できないものなど何もない。
質問者 ヨーギが意味していたのは、単に絶え間ない追求と勉学への不動の
意志を意味していたのではないと私は感じています。目的への意志
が確固であれば、どのような勉学も、研究も必要ないということで
す。単に意志を持っているという事実が、対象を引きつけるのです。
マハラジ
あなたが意志、決心、一途(いちず)な心、何という名でそれを呼ぼうと、
つまりは真剣さ、誠実さ、正直さに戻ってくる。
死ぬほど真剣なとき、あなたはあらゆる出来事、あらゆる人生の瞬間を本来
の目的に結びつける。
ほかのことであなたの時間とエネルギーを浪費したりはしない。
あなたは目的に完全に献身する。
意志、愛、あるいは誠実さと呼んでもいい。
私たちは複雑な存在で、内側でも外側でも争っている。
昨日の仕事を今日取り消し、つねに自分自身に矛盾している。
身動きがとれなくなるのも無理はない。
ほんのわずかな誠実さが大きな違いを生み出すのだ。
質問者 欲望と運命、どちらがより強力なのでしょうか?
マハラジ
欲望が運命を形づくる。
質問者 そして運命が欲望を形づくります。私の欲望は遺伝と環境、チャン
スと偶然、いわゆる運命によって条件づけされているのです。
マハラジ
あなたの言うとおりだろう。
質問者 いつ私は望む自由をもてるのでしょうか?
マハラジ
たった今、あなたは自由なのだ。
あなたが望むことは何だろう?
それを望むがいい。
質問者 もちろん、望むことは自由ですが、それに働きかけることは自由で
はありません。ほかのものへの衝動が、私を迷わせるのです。たと
え私が容認したものでも、私の欲望は充分強くありません。私が容
認しない欲望のほうが強いのです。
マハラジ
おそらく、あなたはあなた自身を偽っているのだろう。
たぶんあなたが容認する欲望は体裁を保つため表面にとどめておいて、本当
の欲望には表現の機会を与えていないのだろう。
質問者 あなたの言うとおりかも知れません。しかし、それもまた別の理論
です。事実は、私はすべきだと想うことを自由に望めないと感じ、
正しく望んでいるように見えるときには、それにしたがって行為を
しないのです。
マハラジ
それはみな精神的弱さと、不完全な脳によるものだ。
マインドを落ち着け、強化しなさい。
そうすればあなたの思考、感情、言葉、行為は、あなたの意志の方向に沿う
ようになるだろう。
質問者 マインドを統合し、強化することはたやすい仕事ではありません。
いったいどのようにはじめればいいのでしょうか?
マハラジ
あなたはあなたがいるところからはじめることができる。
あなたは今ここに在る。
今ここを離れることはできないのだ。
質問者 ですが、今ここで私は何ができるのでしょうか?
マハラジ
あなたはあなたの存在に気づくことができる。
今ここで。
質問者 それだけですか?
マハラジ
それだけだ。
それ以上何もありはしない。
『I AM THAT 私は在る』(p136-138)
世界には何も間違ったところがないということを、あなたは認識するだろう
――間違っていたのはあなただけだ。
『私は在る』(p408)
壺の中に映像はない。
その中の水に映像は
映しだされる。
ガラスは対象物を
反映できない。
ただガラス板が
不透明な裏地をつけることによってのみ
対象物を反映することができる。
同じように、純粋意識は対象物を含むことも、
映し出すこともない。
ただ心という限られた鏡面においてのみ世界を映し出す。
静寂の瞬間』(p64)
水泡は無数にあり、その一つ一つは異なっている。
だが、海は一つしか存在しない。
同じように、自我は無数にあるが、
真我はただ一つしか存在しない。
あらゆる悪い性質は自我を中心に現われる。
だが、真我のなかには善い性質も悪い性質もない。
真我はすべての性質から自由だからだ。
自我が消滅するとき、真我の実現はひとりでに起こるのである。
静寂の瞬間』(p50)
もし事物が独立した存在を持っているなら、
つまり、もしそれがあなたから離れて存在しているのなら、
あなたがそれから立ち去っていくことも可能だろう。
だが、事物はあなたから分離しているのではない。
それはあなたゆえに、あなたの想いゆえに存在するのである。
だとすれば、それから逃れてどこへ行けるというのだろうか。
静寂の瞬間』(p51)
映画の画像の中の火が
スクリーンを燃やすだろうか。
画像の中の滝の流れが
スクリーンを濡らすだろうか。
火や水は
真我というスクリーンの上に現れる現象でしかなく、
それらが真我に影響を与えることはない。
真我はあるがままに輝き続け、
動くことも、変化することもない。
静寂の瞬間』(p61)
純粋な意識は
分割できないものであり、
部分を持たないものである。
それは、姿も形も持たず、
内も外もない。
ハートである純粋な意識は、
すべてを含み、
何ものもその外になく、
それを離れては存在しない。
それが究極の真理である。
静寂の瞬間』(p38)
質問者 私は具合が良くありません。むしろ弱っている感じがします。どう
すればいいでしょうか?
マハラジ
誰の調子が悪いのかね?
あなたか、それとも身体だろうか?
質問者 もちろん、私の身体です。
マハラジ
昨日、あなたは具合が良かった。
何が良いと感じたのだろうか?
質問者 身体です。
マハラジ
身体の具合が良いとき、あなたは喜び、身体の具合が悪いとき、あなたは悲
しむ。
ある日喜び、つぎの日悲しむのは誰だろうか?
質問者 マインドです。
マハラジ
マインドがそれを知る者だ。
知る者を知るのは誰だろうか?
質問者 知る者がそれ自身を知っているのではないでしょうか?
マハラジ
マインドは断続的なものだ。
眠りや気絶や精神錯乱したとき、何度もそれは空白状態となる。
そこにはその断続性を継続的に記録する何かがあるはずだ。
質問者 マインドが覚えています。これが継続性を意味します。
マハラジ
記憶はつねに部分的であてにならず、つかの間のものだ。
それは「私は在る」という感覚である、意識に浸透した強力なアイデンティ
ティの感覚を説明はしない。
その根底にあるものが何なのかを見いだしなさい。
質問者 どんなに深く見入っても、私にはマインドしか見いだせません。あ
なたの「マインドの彼方」という言葉は手がかりにならないのです。
マハラジ
マインドでもって見ているかぎり、それを超えていくことはできない。
彼方へと超えていくには、マインドとその内容から目を離さなければならな
いのだ。
質問者 どの方向を見ろといわれるのでしょうか?
マハラジ
すべての方向はマインドのなかにあるのだ!
私はあなたに特定の方向を見るように言っているのではない。
ただ、あなたのマインドのなかで起こっていることのすべてから目を離し、
「私は在る」という感覚にそれを合わせなさい。
「私は在る」は方向ではない。
それはすべての方向を否定したものだ。
最後には「私は在る」さえも去らなければならない。
なぜなら、明白なことをいつまでも主張しつづける必要はないからだ。
「私は在る」にマインドを合わせることは、単にマインドをほかのすべてか
らそむけることなのだ。
質問者 それは私をどこへ導くのでしょうか?
マハラジ
マインドがよそごとに気を取られることから目を離されたとき、それは静か
になる。
もしこの静けさを妨げず、そこにとどまるなら、あなたはそれが見たことも
ない光と愛にあふれていることを知るだろう。
しかも、あなたはそれをあなた自身の本性だとすぐに認識するのだ。
ひとたびこの体験を通ったならば、あなたは二度と同じ人ではなくなるだろ
う。
気ままなマインドはその平和を破り、ヴィジョンを消し去ってしまうかもし
れない。
だが、すべての束縛が破れ、迷いや執着が終わるまで努力を続ければ、それ
はかならず戻ってくる。
そして人生は最高に、今この瞬間に集中したものとなるのだ。
質問者 それがどんな違いをもたらすというのでしょうか?
マハラジ
思考はなくなり、そこには愛の行為だけがあるのだ。
質問者 私がそれに到達したとき、どうやって認識するのでしょうか?
マハラジ
そこにはもはや恐れがないのだ。
質問者 神秘と危険に満ちた世界に囲まれて、どうやって恐れなしでいるこ
とができるでしょう?
マハラジ
あなた自身の小さな身体もまた、神秘と危険に満ちているのだ。
それでも、あなたはそれを恐れはしない。
あなたがそれをあなた自身のものと見なしているからだ。
あなたが知らないのは、この宇宙全体があなたの身体であり、それを恐れる
必要はないということだ。
あなたは個人的と宇宙的な二つの身体をもっていると言ってもいい。
個人的身体は来ては去っていく。
宇宙的身体はいつもあなたとともにある。
創造全体があなたの宇宙的身体なのだ。
あなたは個人的身体的に盲目的になり、宇宙的身体を見ていない。
この盲目がひとりでに終わることはない。
それは巧みに、熟考した上で取り消さなければならないのだ。
すべての幻想が理解され、放棄されたとき、あなたは個人的と宇宙的の間の
区別がすべてなくなった、過ちのない、完全な状態に到達するのだ。
『I AM THAT 私は在る』(p326-327)
あなたはマインドを超えている。
だが、あなたはマインドで知るのだ。
『私は在る』(p330)
より低い欲望に満足するかぎり、最高のものを手にすることはできない。
何であれ満足させるものが、あなたを引き止めるのだ。
すべてのものの不満足さ、はかなさ、限界を悟らないかぎり、そしてすべて
のエネルギーを多大なる熱望に集めないかぎり、最初の一歩さえも踏めない。
『私は在る』(p323)
質問者 世界は私の意識のなかに現れない出来事でいっぱいです。
マハラジ
あなたの身体でさえあなたの意識内に現れることのない出来事でいっぱいな
のだ。
これが、あなたの身体をあなたのものだと宣言することを妨げはしないだろ
う。
あなたはあなたの感覚を通して自分の身体を知るように、世界を正確に知っ
ているのだ。
あなたの皮膚から外側の世界と内側の世界を分割し対立させたのは、あなた
のマインドだ。
これが恐れと、憎しみと、生きることすべての惨めさを生み出したのだ。
質問者 私に理解できないのは、あなたが言われる意識を超えていくという
ことです。言葉は理解できますが、その体験を視覚化できないので
す。結局、あなた自身が言われたように、すべての体験は意識のな
かにあるのです。
マハラジ
あなたの言うとおりだ。
意識を超えたところには、いかなる体験もありえない。
それでも、そこにはただ在るという体験がある。
そこには無意識ではなく、意識を超えた彼方の状態があるのだ。
ある人たちはそれを超意識、純粋意識、あるいは至高の意識と呼んでいる。
それは主体と客体の関係から自由な、純粋な覚醒なのだ。
質問者 私は神智学を学んできました。そして、あなたの言われることは何
ひとつ聞き慣れないことばかりだと気づきました。神智学が顕現の
みを扱うことは私も認めます。それは宇宙とそこに住む生きものに
ついて、たいへん詳細に描写します。多くの物質の階層と、それに
相応する体験の層があることを、それは認めています。しかし、ど
うやらそれを超えていくことはないようです。あなたの言われるこ
とはすべての体験を超えていきます。もしそれが体験不可能ならば、
いったいどうしてそれについて話しあうのでしょうか?
マハラジ
意識は隙間だらけの断続的なものだ。
それにもかかわらず、そこには継続するアイデンティティがある。
もしこのアイデンティティの感覚が意識を超えた何かでなければ、いったい
何によるというのだろう。
質問者 もし私がマインドを超えているならば、どのようにして私を変えて
いくのでしょうか?
マハラジ
何かを変える必要がどこにあるというのだろう?
いずれにせよ、マインドはつねに変化しているのだ。
あなたのマインドを冷静に見てみなさい。
マインドを平静にするにはこれで充分だ。
静かになると、あなたはマインドの彼方へと行くことができる。
いつもマインドをせわしなくさせていてはいけない。
それをやめ、ただ在りなさい。
もしあなたがマインドに休息を与えたなら、それは落ち着き、その純粋さと
力強さを回復するだろう。
絶え間なく考えることはマインドを衰退させてしまうのだ。
質問者 もし私の真実の存在がつねに私とともに在るなら、どうして私はそ
れを知らないのでしょうか?
マハラジ
なぜなら、それは非常に微妙なものであり、あなたのマインドは粗雑なもの
だからだ。
あなたのマインドを静め、明瞭にしなさい。
そうすれば、あなたはあるがままの自分自身を知るだろう。
質問者 わたし自身を知るためにマインドが必要なのでしょうか?
マハラジ
あなたはマインドを超えている。
だが、あなたはマインドで知るのだ。
知識の範囲、深さ、性質は、あなたがどのような手段を使うかに依存すると
いうことは明らかだ。
あなたの手段を改善しなさい。
そうすれば、あなたの知識も改善されるだろう。
質問者 完全に知るためには、完全なマインドが必要です。
マハラジ
あなたに必要なのは、静かなマインドだ。
ひとたびあなたのマインドが静かになれば、ほかのすべてはしかるべく起こ
るだろう。
日の出が世界を活動的にするように、自己覚醒はマインドのなかに変化を与
えるのだ。
平静で安定した自己覚醒の光のなかで、内なるエネルギーは目覚め、あなた
の努力なしに奇跡をもたらすのだ。
質問者 つまり、もっとも偉大な仕事は、仕事をしないことによってなされ
ると言うのでしょうか?
マハラジ
まさにそのとおりだ。
あなたは悟りを得るように運命づけられているのだということを理解しなさ
い。
あなたの運命に協力しなさい。
それに抗ってはいけない。
それを妨げてはいけない。
それが運命を全(まっと)うするのを許しなさい。
愚かなマインドがつくり出した障害に注意を払うこと、それがあなたのする
べきすべてなのだ。
『I AM THAT 私は在る』(p329-330)
雲が太陽に影響を与えることなく太陽を覆(おお)い隠してしまうように、
見せかけは実在を破壊することなしに実在を隠してしまう。
実在の破壊という観念自体、道理に合わない。
破壊者はつねに破壊されたものよりもリアルなのだ。
実在は究極の破壊者だ。
すべての分離、あらゆる疎遠や疎外は偽りだ。
すべてはひとつだ──これがあらゆる衝突の最終的な解決法なのだ。
『私は在る』(p222)
質問者 私は話を聞くよりもむしろ、あなたとともにいるためにやってきま
した。言葉では多くを語れません。沈黙はより雄弁です。
マハラジ
まずは言葉、それから沈黙だ。
沈黙のためには成熟しなければならない。
質問者 私は沈黙のなかで生きることができるでしょうか?
マハラジ
非利己的な仕事は沈黙へと導く。
なぜなら、私利私欲なしに働くとき、あなたは助けを求める必要がない。
結果に頓着せず、もっとも不適切な方法で働くことも厭わない。
才能のあるなしや、用意が整っているかも気にせず、認められることも、援
助も求めない。
あなたはただ為すべきことを為し、成功や失敗は未知なるものに預ける。
なぜなら、すべては無数の要因によって起こり、あなたの努力は、そのなか
のひとつにすぎないからだ。
しかし、人類の意志と愛がひとつになるとき、もっとも起こりそうにないこ
とが起こる。
人のマインドとハートの魔法とはそういうものなのだ。
質問者 価値のある仕事のとき、援助を求めることに何の間違いがあるでし
ょう?
マハラジ
求める必要がどこにあるだろうか?
それはただ、弱さと不安を表しているだけだ。
働きつづけなさい。
そうすれば、宇宙はあなたとともに在るだろう。
つまるところ、正しいことをしているという考えは未知なるものからやって
くる。
結果に関するかぎりは未知なるものにゆだねるがいい。
ただ必要な行動を通り抜けるだけだ。
あなたは因果関係の長い連鎖のなかのひとつの輪にすぎないのだ。
根本的に、すべてはただマインドのなかで起こる。
あなたが何かのために全身全霊で着々と働くとき、それは起こる。
なぜなら、ものごとを起こらせることがマインドの機能だからだ。
実際には、何の欠如も必要もない。
すべての仕事はただ表面上のものだ。
その深みには完全な平和がある。
すべての問題が現れるのは、あなたが自分自身を定義し、それゆえ限定した
からだ。
あなたが自分自身をあれやこれやと考えないとき、すべての葛藤はやむ。
問題に対処しようとするいかなる試みも、失敗せざるをえない。
なぜなら、欲望によって起こったことは、欲望から自由になることによって
のみ、取り消すことができるからだ。
あなたは自分自身を時間と空間のなかに閉じこめ、一生という期間と、身体
という容積のなかに自分を押し込めてしまった。
それゆえ、生と死、快楽と苦痛、期待と恐れという無数の葛藤をつくり出し
たのだ。
幻想を放棄せずに、問題を追い払うことはできない。
質問者 個人はもともと限定されるものです。
マハラジ
個人というようなものは存在しない。
そこにはただ制限と限定があるだけだ。
それらの定義の総計が個人なのだ。
あなたが何なのかを知るとき、あなたはあなた自身を知っているかのように
考える。
しかし、あなたはけっしてあなたが誰なのかを知らないのだ。
壺のなかの空間が壺の匂いと容積と形を一見もっていると見えるように、個
人はただ現れたように見えるだけだ。
あなたはあなたが自分自身だと信じているものではないということを見抜き
なさい。
あなたとは名づけることのできる、描写可能なものだという観念に対して全
力で闘いなさい。
あなたは存在しないのだ。
あれやこれといった言葉で自分自身を思うことを拒否しなさい。
調べることなく、盲目的に受け入れることでつくり出してきた惨(みじ)め
さからの出口はほかにないのだ。
苦しみは探求への呼びかけだ。
すべての痛みは調べられることが必要なのだ。
考えることをおろそかにしてはならない。
質問者 行動は実在の本質です。働かないことのなかには何の徳もありませ
ん。考えることとともに何かが為されなければなりません。
マハラジ
世界のなかで働くことは難しい。
すべての不必要な仕事をやめることは、さらに難しい。
質問者 個人としての私にとってこれらはみな不可能なように見えます。
マハラジ
あなた自身について、あなたは何を知っているだろうか?
あなたは、真実あなたであるものとしてだけ在ることができる。
あなたでないものとしては、そう現れるように見えるだけだ。
あなたは完全性からけっして離れたことがない。
すべての自己改善という観念は、慣習的な、言語上のものだ。
太陽が暗闇を知らないように、自己は非自己を知らない。
他者を知ることで他者に成ってしまうのはマインドなのだ。
それにもかかわらず、マインドこそがほかでもない自己なのだ。
自己は他者、非自己になり、しかも自己として残る。
それ以外のすべては見せかけにすぎない。
雲が太陽に影響を与えることなく太陽を覆(おお)い隠してしまうように、
見せかけは実在を破壊することなしに実在を隠してしまう。
実在の破壊という観念自体、道理に合わない。
破壊者はつねに破壊されたものよりもリアルなのだ。
実在は究極の破壊者だ。
すべての分離、あらゆる疎遠や疎外は偽りだ。
すべてはひとつだ──これがあらゆる衝突の最終的な解決法なのだ。
『私は在る』(p221-222)
あなたが「私は在る」と言う前に、それを言うあなたがいなければならない。
存在が自意識である必要はない。
在るために知る必要はない。
だが、知るためにはあなたが存在しなければならないのだ。
『私は在る』(p470)
マインドが身体に仕えることに従事するとき、幸福は失われてしまう。
幸福をふたたび得ようとして、快楽の中に探し求めるのだ。
幸福になろうとする衝動は正しいものだ。
だが、それを確保しようとする方法が惑わせ、当てにならず、真の幸福を破
壊してしまうのだ。
『私は在る』(p487)
自分を幸福にしようと試みてはならない。
むしろ、幸福の探求自体を疑いなさい。
あなたが幸福でないから、幸福になりたいのだ。
なぜ幸福ではないのかを見いだしなさい。
幸福ではないから、快楽のなかに幸福を探し求めるのだ。
快楽は苦痛をもたらすため、あなたはそれを世俗的と呼ぶ。
それから、あなたは苦痛をともなわない、何かほかの快楽を切望する。
そして、それを神聖なものと呼ぶのだ。
実際には、快楽とは苦痛からの一時的な休息にすぎない。
幸福は世俗的であるものと、ないものの両方だ。
そのなかで、そしてその彼方で起こることのすべてなのだ。
いかなる分別もしてはならない。
分別できないものを分別してはならない。
そしてあなた自身を人生から遠ざけてはならない。
『私は在る』(p487)
幸福となるためにものが必要だと信じているかぎり、ものの不在によって不
幸になるに違いないと信じることだろう。
マインドはそれが信じることにしたがって形づくられるのだ。
それゆえ人は、幸福になろうと駆りたてられる必要はないのだと確信するこ
とが重要なのだ。
その反対に、快楽は混乱と厄介者であり、幸福になるには何かをもち、何か
をしなければならないという偽りの確信を、単に増長するだけなのだ。
『私は在る』(p505)
「私は今幸せです」と言う人は、過去と未来という二つの不幸の間にいるの
だ。
この幸福は苦痛から解放されたことによる単なる興奮にすぎない。
『私は在る』(p505)
真の幸福とは、まったく自己意識のない状態だ。
それがもっとも良く表されるのは否定によって、「何も私には間違ったとこ
ろはない。私には何も心配することがない」と言うことだ。
結局、すべてのサーダナの最終的な目的は、この確信が言葉上のものでなく、
実際の常在の体験を根底にした地点に到達することなのだ。
『私は在る』(p505)
自分の存在に完全に気づいていなさい。
そうすれば、あなたは意識的に至福のなかにある。
あなたがマインドを自己から引き離し、あなたではないものにマインドをと
どめるために幸福の感覚を失うのだ。
『私は在る』(p114)
質問者 こんなにも多くの指導や援助にもかかわらず、私たちが進歩をとげ
ないのはなぜでしょうか?
マハラジ
私たちが自分たちを他者からまったく離れた、分離した人物だと想像するか
ぎり、本質的に非人格である実在を理解することはできない。
まず私たちが次元も時間も超えた観察の中心である観照者としての私たち自
身を知らなければならない。
そしてそのとき、マインドと物質の両方であり、そのどちらをも超えた広大
無辺で純粋な覚醒の大洋を悟るのだ。
質問者 実在において私が何であろうと、私は小さな分離した数多くのなか
のひとりの個人だと感じます。
マハラジ
あなたが個人として在るのは、時間と空間という幻想のためだ。
あなたが自分をある容積を占有する、ある点だと想像しているからだ。
あなたの人格は身体との同一視によるものだ。
あなたの思考と感情は時間の連鎖のなかに存在し、記憶があなた自身をある
期間、存在しつづけていると想像させるのだ。
実際には、時間と空間があなたのなかに存在する。
あなたが時間と空間のなかに存在するのではない。
それらは知覚の様式だ。
だが、それらがすべてなのではない。
時間と空間は紙の上に書かれた文字のようなものだ。
紙は現実だが、言葉は表現のための約束事にすぎない。
あなたは何歳だろうか?
質問者 四十八です。
マハラジ
何があなたを四十八歳と言わせるのだろう?
何があなたを「私はここにいます」と言わせるのだろう?
憶測から生まれた言葉の習慣だ。
マインドは時間と空間をつくり出し、自らの創造を実在と見なすのだ。
すべては今ここに在る。
だが、私たちはそれを見ない。
本当は私のなかに、私によってすべてが在る。
ほかには何もない。
「ほか」という考えそのものが災いなのだ。
質問者 人格化の原因、時間と空間のなかでの自己限定の原因は何なのでし
ょうか?
マハラジ
存在しないものが原因をもつことはできない。
分離した個人というようなものは存在しないのだ。
経験的見地から言っても、すべてがすべての原因であることは明らかだ。
すべてはあるがままだ。
なぜなら、宇宙全体があるがままだからだ。
質問者 それでも、人格に原因はあるはずです。
マハラジ
人格はどのようにして存在を持つのだろうか?
記憶によってだ。
現在を過去と同一視し、未来へと投影することによってだ。
あなた自身を過去も未来もない、一時的なものとして考えてみなさい。
あなたの人格は消え去るだろう。
質問者 「私は在る」は残らないのでしょうか?
マハラジ
「残る」という言葉は当てはまらない。
「私は在る」はつねに新鮮なものなのだ。
あなたが在るために、覚えている必要はない。
実際問題として、あなたが何かを体験する前に、そこには存在の感覚がなけ
ればならないからだ。
現在、あなたの存在は体験することと混同している。
あなたに必要なことは、体験のもつれから存在を解きほどくことだけだ。
ひとたびあなたがあれやこれとして在ることのない純粋な存在を知ったなら
ば、もはやそれを体験のなかから認識することも、名前や形によって迷わさ
れることもないだろう。
自己限定は人格の主要な本質なのだ。
質問者 どのようにして私は普遍的になれるのでしょうか?
マハラジ
だが、あなたは普遍なのだ。
あなたはすでにそうであるものになることはできないし、またなる必要もな
い。
ただ、あなた自身が特定の存在だと想像するのをやめなさい。
去来するものは存在をもたない。
それはその現れそのものが実在のおかげをこうむっている。
あなたは世界が在ることを知っているが、世界はあなたのことを知っている
だろうか?
すべての知識は、すべての存在とすべての喜びとしてあなたから生じる。
あなたが永遠の源であり、すべてはあなた自身のものなのだと悟りなさい。
そのような受容が真の愛なのだ。
質問者 あなたの言われることはどれもすばらしい話です。しかし、どのよ
うにしてそれをひとつの生き方にすればよいのでしょうか。
マハラジ
家を一歩も出たことがないのに、あなたは家への帰り道を尋ねている。
誤った考えを捨て去りなさい。
それだけだ、
正しい考えを寄せ集めることも助けにはならない。
ただ、想像することをやめなさい。
質問者 それは達成という問題ではなく、理解の問題なのですね。
マハラジ
理解しようとしてはならない
誤解しなければそれで充分だ。
解放を得るためにマインドに頼ってはいけない。
あなたを束縛へと追いやったのはマインドなのだ。
それをすべて超えていきなさい。
はじまりのないものに原因はありえない。
あなたは、あなたが何であるかを知っていて、それから忘れてしまったわけ
ではない。
ひとたび知れば、あなたは忘れることはできない。
無知にははじまりがない。
しかし、終わりはある。
誰が無知なのか、と探求しなさい。
そうすれば、無知は夢のように溶け去る。
世界は矛盾でいっぱいだ。
それゆえ、あなたは調和と平和を探しているのだ。
それらを世界のなかに見いだすことはできない。
世界とは混沌(こんとん)の子供だからだ。
秩序を見いだすためには、あなたは内面を探求しなければならない。
あなたが身体の中に生まれて、はじめて世界は存在を表す。
身体がなければ、世界はない。
まずあなたが身体なのかどうか、探求しなさい。
世界を理解することは、後にそれにしたがってやってくるだろう。
『私は在る』(p222-224)
自己非難や自己不信は悲惨な過ちだ。
あなたの絶え間ない苦痛への闘いと快楽の追求は、あなたがあなた自身に抱
く愛のしるしなのだ。
私があなたに願うことは、あなた自身への愛を完全なものにしなさい、とい
うことだ。
あなた自身のなかの何ひとつ、否定してはならない。
あなた自身に無限性と永遠性を与えなさい。
そして、あなたはそれらを必要としないことを発見しなさい。
あなたはその彼方にあるのだ。
『私は在る』(p431-432)
質問者 あなたの言われることは納得のいくものです。しかし、それらが世
界のなかで、世界に属する個人として在る人にとって、何になると
いうのでしょうか?
マハラジ
多くの人がパンを食べている。
だが小麦についてすべてを知っている人は、ほんのわずかだ。
そして、それを知っている人だけがパンを改良することができる。
同様に、自己を知る人だけ、世界を超えた彼方を見た人だけが世界を改善で
きるのだ。
個人としてある人たちにとって、彼らの価値は途方もないものだ。
なぜなら、彼らだけが自分たちの解放への唯一の期待だからだ。
世界のなかに在るものが、世界を救うことはできない。
もしあなたが本当に世界を救おうとするなら、そこから出なければならない
のだ。
質問者 しかし、世界から出ることができるのでしょうか?
マハラジ
世界とあなた、どちらが先に生まれたのだろうか?
世界が先だと考えるかぎり、あなたはそれに縛られているのだ。
疑いの跡形もなく、世界はあなたのなかに在り、あなたが世界のなかに在る
のではないとひとたび悟れば、あなたは外に出ている。
もちろん、あなたの身体は世界のなかに、世界に属したままだ。
だが、あなたはもはやそれに惑わされはしない。
すべての聖典は世界が存在する前に創造者が存在したと言っている。
誰が創造者を知っているのだろうか?
創造者以前に存在したのは、すべての世界とその創造物の源である、あなた
の真我だけなのだ。
質問者 あなたの言われることはすべて、世界があなた自身の投影だという
仮定によって筋が通ります。あなたは個人的主観的な世界、感覚と
マインドを通してあなたに与えられた世界を認めています。その意
味では、わたしたちそれぞれが投影による世界に生きているという
ことです。それらの個人的な世界はほとんど互いに通ずることもな
く、それらの中心である「わたしは在る」から現れ、そのなかに溶
け去っていきます。しかし、間違いなくその個人的世界の背後には、
共通の客観的世界があるはずです。その客観的世界のなかで、個人
的世界はただの影にすぎません。あなたはそのようなすべてに共通
な客観的世界を否定しますか?
マハラジ
実在は主観的でも客観的でもなく、マインドでも物質でもなく、時間でも空
間でもない。
これらの区分には、それが起こる当の人、意識的な分離した中心が必要とな
る。
しかし、実在はすべてであり無であり、全体性と排他性であり、充満と虚空
であり、完全に首尾一貫し、絶対的に矛盾したものだ。
それについて語ることはできないのだ。
あなたは、ただあなた自身をそのなかに失うことができるだけだ。
あなたが実在ではないものすべてをどこまでも拒絶していくと、最終的に否
定しきれず残されたものにであう。
ジニャーナ(真理の知識)に関する話はすべて無知の印だ。
知らないのだと想像し、それから知るようになるのはマインドなのだ。
実在はこれらの歪曲に関して何も知らない。
創造者としての神という理念さえも偽りだ。
わたしは自己の存在を何かほかの存在に負うだろうか?
わたしは存在する。
それゆえ、すべては存在するのだ。
質問者 どうしてそうあり得るでしょう? 子供は世界のなかに生まれます。
世界が子供のなかに生まれるのではありません。世界は古く、子供
は新しいのです。
マハラジ
子供はあなたの世界に生まれてくるのだ。
さて、あなたは世界のなかに生まれたのだろうか、それとも、世界があなた
に対して現れたのだろうか?
生まれるということはあなた自身を中心として、あなたの周りに世界をつく
り出すことだ。
しかし、あなたがあなた自身を創造したのだろうか?
あるいは、誰かがあなたを創造したのだろうか?
誰もが自分自身の世界をつくり出し、己の無知によって監禁され、そのなか
で生きているのだ。
わたしたちのしなければならないことは、牢獄の実在性を否定することだけ
だ。
質問者 眠りの間に目覚めの状態が種子として存在するように、生まれてく
ることによって子供がつくり出した世界も、子供の誕生以前に存在
していたのです。その種子は誰とともにあるのでしょうか?
マハラジ
死と誕生を観照し、しかもけっして生まれず死ぬこともないその人とともに
ある。
ただ彼だけが創造の種子であり、最後に残るものなのだ。
マインドの彼方に何があるのかを、マインドに確認するよう頼むわけにはい
かない。
直接体験だけが唯一有効な証拠なのだ。
『私は在る』(p224-226)
ひとたびあなたが知覚可能、想像可能なものはあなた自身ではありえないと
理解するならば、あなたはあなたの想像から自由になる。
すべてを欲望から生まれた想像だと見ることは、真我の実現に必要不可欠な
のだ。
『私は在る』(p507)
理解しようとしてはならない
誤解しなければそれで充分だ。
解放を得るためにマインドに頼ってはいけない。
あなたを束縛へと追いやったのはマインドなのだ。
それをすべて超えていきなさい。
『私は在る』(p224)
真実への欲望は最高の欲望だ。
だが、それはいまだに欲望であることに変わりはない。
真実が在るためには、すべての欲望が放棄されなければならないのだ。
あなたは在る、ということを覚えていなさい。
これがあなたの仕事の資本だ。
その資本を回転させなさい。
そうすれば多大な利益を生むだろう。
『私は在る』(p214)
自己想起、「私は在る」という気づきがあなたを強力に迅速に成熟させる。
あなた自身に関するすべての観念を捨て去りなさい。
そして、ただ在るのだ。
『私は在る』(p215)
質問者 あなたの話を聞いていて、質問することはまったく役に立たないと
わかりました。質問が何であれ、あなたはきまってそれをそれ自体
にはね返らせ、私が自らつくり出した幻想のなかに生きているとい
うこと、そして実在は言葉では表現不可能だという基本的事実に、
私を連れ戻します。言葉は単に混乱を増すだけで、唯一、賢明な道
は内なる沈黙の探求だけです。
マハラジ
結局、幻想をつくり出すのはマインドであり、それから自由になるのもマイ
ンドなのだ。
言葉は幻想を悪質なものにするかもしれないし、それを追い払う助けをする
かもしれない。
同じ真実の言葉を、それが真実となるまで何度も繰り返すことは何も間違い
ではない。
母の役目は子供の誕生で終わるわけではない。
彼女は来る日も来る日も、何年も子供が彼女を必要としなくなるまで養う。
人は言葉を聞く必要があるのだ。
事実が言葉よりも声高に彼に語りだすまで。
質問者 それでは、私たちは言葉で養われる子供なのですか?
マハラジ
言葉を重視するかぎり、あなたは子供なのだ。
質問者 わかりました。では、私の母親になってください。
マハラジ
生まれる前、子供はどこにいただろうか?
母親と一緒ではなかっただろうか?
すでに母親と一緒にいたから、生まれることができたのだ。
質問者 もちろん、母親自身が子供であったときは、子供を抱えてはいませ
んでした。
マハラジ
潜在的に彼女は母親だったのだ。
時間の幻想を超えなさい。
質問者 あなたの答えはいつも同じです。ある種の時計のように、同じ時を
何度も何度も打ち知らせるのです。
マハラジ
それはどうしようもないのだ。
何億もの朝露に映しだされる太陽のように、永遠なるものは果てしなく繰り
返される。
私が「私は在る、私は在る」と繰り返すとき、私はただ常在の事実を主張し、
再主張しているだけだ。
あなたは私の言葉にうんざりしてしまう。
それは、あなたはその背後にある、生きた真実を見ないからだ。
それに触れなさい。
そうすれば、言葉とその沈黙の完全な意味を見いだすだろう。
質問者 小さな女の子は、すでに未来の子供の母親だとあなたは言いました。
潜在的にはそうでしょうが、実際的には違います。
マハラジ
潜在性は考えることによって現実になる。
身体とその出来事は、マインドのなかに存在するのだ。
質問者 そしてマインドは動きのなかの意識であり、意識は真我の条件づけ
られた(サグナ)相です。無条件(ニルグナ)の相がもうひとつの
相であり、その彼方には絶対性(パラマールダ)の深淵が広がって
いるのです。
マハラジ
まったくその通りだ。
あなたは美しくそれを言い表した。
質問者 しかし、私にとってはただの言葉にすぎません。それを聞き、復唱
するだけでは、充分ではないのです。それは体験されなければなり
ません。
マハラジ
何もあなたが体験することを止めてはいない。
外側の関心事に夢中になることが、内側に焦点を合わせることを妨げている
のだ。
それは救いようがない。
サーダナ(修練)を避けることはできないからだ。
世界に背を向け、内側に向かいなさい。
そうすれば、内と外は溶けあい、あなたは内と外という条件づけを超えるこ
とができる。
質問者 もちろん、無条件は条件づけされたマインドのなかの単なる概念で
しかありません。それ自体では存在しません。
マハラジ
それ自体で独立した存在はない。
すべてのものはそれ自体の不在性を必要とするのだ。
在ることとは、区別することができるように在るということだ。
そこではなく、ここに在り、その時ではなく、今に在ること。
何かほかのものにではなく、このように在ること。
水が容器によって形づくられるように、すべてのものは条件(グナ)によっ
て決定されるのだ。
容器に関わらず、水が水として残り、光が色をもたらしてもそれ自体は光と
して残るように、実在も、それが反映される条件に関わらず実在としてとど
まる。
なぜ意識の焦点のなかにだけ反映を残そうとするのだろう?
なぜ実在そのものではないのだろうか?
質問者 意識自体が反映なのです。どうしてそれが実在をつかむことができ
るでしょう?
マハラジ
意識とその内容はただの反映であり、変化し、はかないものだと知ることが
実在に焦点を当てることになるのだ。
ロープのなかに蛇を見ることを拒否することが、ロープを見ることの必要条
件なのだ。
質問者 必要条件だけですか、それとも充分条件なのですか?
マハラジ
ロープが存在すること、そしてそれが蛇に似ていることも知らなければなら
ない。
同じように、真理が存在し、そしてそれが観照意識の本質だと知らなければ
ならない。
もちろん真理は観照の彼方にある。
だが、真理に入っていくには、まず純粋な観照状態を自覚しなければならな
い。
条件づけに気づくことがあなたを無条件な状態に連れていくのだ。
『私は在る』(p192-194)
誠実さとは、努力の結果を熱望することではない。
それは偽り、非本質的、個人的なものから興味をそらし、内なる移行をする
ことの表現なのだ。
『私は在る』(p474)
ほんのわずかな誠実さが大きな違いを生み出すのだ。
『私は在る』(p137)
質問者 無条件なるものを体験することはできるのでしょうか?
マハラジ
条件づけを条件づけとして知ること、それが無条件なるものについて言える
ことのすべてだ。
肯定的言語は単に示唆するだけであり、かえって迷わせるのだ。
質問者 観照を実在として語ることはできるでしょうか?
マハラジ
それはできない。
私たちに語ることができるのは、ただ非実在、幻想、一時的なもの、条件づ
けされたものだけだ。
その彼方へと行くには、私たちは独立した存在をもつとされるすべてを完全
否定していかなければならない。
すべてのものごとは依存しているのだ。
質問者 それは何に依存するのでしょうか?
マハラジ
意識に依存する。
そして意識は観照者に依存するのだ。
質問者 そして観照者は実存に依存するのでしょうか?
マハラジ
観照者は実在の純粋な反映だ。
それはマインドの状態に依存する。
明晰(めいせき)性と無執着が支配すると、観照意識が現れる。
それは水が澄んで静かならば、月の影が映るような、あるいはダイヤモンド
のなかで太陽の光線がきらめきを放つようなものだ。
質問者 すべての体験が条件づけられているため、無条件なるものが体験で
きないのだとしたら、なぜそれについて話すのでしょうか?
マハラジ
無条件なるものなしで、どうして条件づけされたものの知識がありうるだろ
う?
そこには、これらすべてが現れだす源、すべてが存在するための土台がなけ
ればならない。
自己の条件づけの知識、そして条件づけの無限の多様性は、私たちの条件づ
けされることと多様性を起こさせる無限の能力に依存している。
真我の実現とは、根本的にそれに気づくことなのだ。
条件づけされたマインドには、無条件なるものは完全性として現れるか、あ
るいはすべての不在性として現れるのだ。
どちらも直接体験はありえない。
しかし、それが非存在を意味しているわけではないのだ。
質問者 それは感情ではないでしょうか?
マハラジ
感情もまたマインドの状態だ。
健康な身体は注意を呼び起こさない。
同様に体験から自由な無条件なるものもまたそうなのだ。
死の体験をとってみなさい。
普通の人は死を恐れる。
なぜなら、彼は変化を恐れるからだ。
ジニャーニは恐れない。
なぜなら、彼のマインドはすでに死んでいるからだ。
彼は「わたしは生きている」と考えない。
彼は「そこに生命が在る」と知っている。
そこには何も変化もなく、死もない。
死は時間と空間のなかの変化として現れる。
時間も空間もないところに、どうして死がありうるだろう?
ジニャーニは名前と形に対してすでに死んでいる。
時間と空間を失うことがどうして彼に影響を与えるだろうか?
列車に乗った人は、ひとつところからつぎへと旅していく。
だが、列車を降りた人はどこへも行かない。
なぜなら、彼は目的地に縛られないからだ。
彼はどこへも行くところはなく、何もすることはなく、何になることもない。
計画を持つ人は、それを実行するために生まれてくるだろう。
計画を持たない人は生まれてくる必要はない。
質問者 苦痛と快楽の目的は何でしょうか?
マハラジ
それらはそれら自体で存在するだろうか?
あるいはマインドのなかにだけ存在するのだろうか?
質問者 それでも、それらは存在します。マインドはともかくも。
マハラジ
苦痛と快楽は、誤った知識と誤った感情の結果の単なる兆候にすぎない。
結果がそれ自体の目的をもつことはできない。
質問者 神の経済学では、すべてが目的をもっていなければなりません。
マハラジ
あなたは思うままに神について語っているが、彼を知っているのかね?
あなたにとって神とは何かね?
ひとつの音だろうか?
紙面上のひとつの文字、あるいはマインドのなかのひとつの概念だろうか?
質問者 彼の力によって私は生まれ、生き続けているのです。
マハラジ
そして苦しみ、死ぬのだ。
あなたはそれが嬉しいかね?
質問者 私が苦しみ死ぬのなら、それは私の過ちかも知れません。私は永遠
の生として創造されたのです。
マハラジ
なぜ未来における永遠であって、過去への永遠ではないのだろうか?
はじまりあるものは終わらなければならない。
はじまりのないものだけが無窮(むきゅう)なのだ。
質問者 神は単なる概念なのかも知れません。それでもとても有効な概念で
す!
マハラジ
それならば、内なる矛盾から自由になるべきだ。
だが、それは無理だろう。
どうしてあなた自身があなたの創造者であり創造物だという理論を調べない
のだろうか?
少なくともそこには争うべき外側の神はいないだろう。
質問者 世界はこんなにも豊かで複雑です。どうやって私にそれをつくり出
せるというのでしょうか?
マハラジ
何ができ、何ができないのかを知るほど、あなたは充分あなた自身を知って
いるだろうか?
あなたは自分の力を知らないのだ。
あなたは一度も調べたことがない。
自分自身とともに、今はじめなさい。
質問者 誰もが神を信じています。
マハラジ
私にとっては、あなたがあなた自身の神だ。
だが、あなたが別の考え方をするならば、最後までそう考えるがいい。
もし神がいるならば、すべてが神のものであり、すべては最上の目的のため
にある。
やってくるものは何であれ、喜びと感謝の心をもって歓迎しなさい。
そしてすべての創造物を愛しなさい。
これもまたあなたを真我へと導くだろう。
『私は在る』(p194-196)
あなたが抱えているすべての問題は、あなたの身体の問題──食事、衣服、
家、友人、名前、名声、安全、生存だということがわからないだろうか?
これらの問題すべては、あなたが単なる身体ではないと悟った瞬間に消え去
るのだ。
『私は在る』(p23)
質問者 やはり、あなたは世界の途方もない苦しみに気づいているのでしょ
うか?
マハラジ
もちろん、あなた以上に気づいている。
質問者 それでは、あなたは何をするのでしょう?
マハラジ
神の目を通して見、すべてはこれでいいということを見いだすのだ。
質問者 いったい、どうしてすべてがこれでいいなどと言えるのですか?
戦争、搾取、国と民との悲惨な争いを見てごらんなさい。
マハラジ
それらの苦しみはすべて人間のつくり出したものであり、それらを終結させ
るのは人間の力の内にある。
人間を自らの行為の結果に直面させ、そのバランスを取らせるよう要求する
ことで神は助けている。
カルマ(因果応報)が公正さのために働く法則だ。
それは神の癒しの手なのだ。
『私は在る』(p45)
質問者 もう何年も何年もあなたの教えは同じままです。あなたの語ること
に進展は見られないようです。
マハラジ
病院では患者が治療され、回復していく。
治療とは変化のほとんどない決まりきった仕事だ。
だが、健康については何も単調ということはない。
私の教えは決まりきったものかもしれない。
しかし、その結果は人によって新たなものだ。
質問者 真我の実現とは何でしょうか? 誰が実現した人なのでしょうか?
ジニャーニ(賢者)は何によって認識できるのでしょうか?
マハラジ
ジニャーナ(真理の知識)特有の証拠というものはない。
無知だけが認識できる。
ジニャーナは認識できない。
ジニャーニは自分が何か特別な存在だとは主張しない。
自分自身の偉大さ、特別さを宣言する者はジニャーニではない。
彼らは実現に向けての何か特別な発達を実現と考え違いをしたのだ。
ジニャーニには、自分がジニャーニだと宣言しようとする意図はない。
彼は彼自身を完全に普通と考え、彼の真の本性に忠実なのだ。
自分自身を万能の、全知全能の神として宣言することは、明白なる無知のし
るしだ。
質問者 ジニャーニは彼の体験を無知な人に伝えることができますか? ジ
ニャーナはひとりの人から別の人に伝達できるのでしょうか?
マハラジ
それはできる。
ジニャーニの言葉は、マインドのなかの無知と暗闇を追い払う力を持ってい
る。
言葉ではなく、その背後にある力が重要なのだ。
質問者 その力とは何でしょうか?
マハラジ
真我実現の直接的体験をもとにした確信の力だ。
質問者 ある真我を実現した人が、知識は勝ち取るものであり、受け取るも
のではないと言いました。ほかの人が教えることはできるが、学ぶ
ことは自分自身によるものだと言っています。
マハラジ
それは同じことだ。
質問者 ヨーガを何年も何年も修練し、何の結果も得られない人たちは大勢
います。何が彼らの失敗だったのでしょうか?
マハラジ
何人かは意識を停止させた恍惚(こうこつ)状態に耽溺(たんでき)したた
めだ。
完全な意識なしにどんな進展がありうるだろうか?
質問者 多くの人がサマーディ(三昧(ざんまい)状態)の修練を積んでい
ます。サマーディでは、意識は強烈なはずです。しかしながら彼ら
は何の結果も得ていません。
マハラジ
何の結果を期待するというのだろう?
そしてなぜジニャーナが何かの結果であるべきなのだろうか?
ひとつのことが別のことへと導いていく。
しかしジニャーナは原因と結果に縛られるようなものではない。
それは因果律を完全に超えたものなのだ。
それは真我のなかにとどまることだ。
ヨーギは多くの不思議にであうだろう。
だが真我に関して彼は無知なままだ。
ジニャーニが見、感じることは普通のことかもしれない。
だが、彼は真我を知っているのだ。
質問者 数多くの人びとが真我の実現のために真剣に努力をしています。し
かし結果は乏しいものです。何がその原因なのでしょうか?
マハラジ
彼らは知識の源を充分調べなかったのだ。
感覚、感情、思考を彼らは充分知らないのだ。
これが遅れのひとつの原因かもしれない。
ほかには、ある欲望がいまだに生き残っているかもしれないことだ。
質問者 サーダナにおける浮き沈みは避けられないものです。誠実な探求者
は、それでもこつこつと取り組みます。ジニャーニはこのような探
求者のために何ができるでしょうか?
マハラジ
もし探求者が誠実ならば、光は与えられるだろう。
光はすべてにとって、つねにそこにある。
だが、探求者がまれなのだ。
探求者のなかでも用意のできた者はたいへんまれだ。
成熟したハートとマインドが不可欠なのだ。
質問者 あなた自身の真我実現は、努力を通して得たのでしょうか? それ
とも、グルの恩寵(おんちょう)によってでしょうか?
マハラジ
教えが彼の恩寵で、信頼が私の努力だった。
彼への信頼が、私に彼の言葉を真実として受け入れさせ、その中に深く入っ
ていき、それを生きるようにさせたのだ。
そしてこれが、私が私で在るということを実現させたのだ。
グルの人格と言葉が、私に彼を信頼させ、そして私の信頼が実を結ばせたの
だ。
『私は在る』(p211-212)
神はすべてを為すものであり、ジニャーニは無為の人だ。
神自身が「私がすべてを為す」と言いはしない。
神にとっては、ものごとはそれ自体の本性にしたがって起こるのだ。
ジニャーニにとっては、すべてが神によって為される。
彼は神と自然との間に何の違いも見ない。
神もジニャーニもともに、彼ら自身が変動の中の不動の中心であり、移り変
わるものの永遠の観照者であることを知っている。
その中心は空なる点であり、観照者は純粋な気づきの点だ。
彼らは、彼ら自身が無であることを知っている。
それゆえ、彼らに抵抗できるものは何ひとつないのだ。
『私は在る』(p105-106)
私のグルに出会うまでは、私は非常に多くのことを知っていた。
今、私は何ひとつ知らない。
なぜなら、すべての知識は夢のなかだけにあり、根拠の確かなものではない
からだ。
私は自己を知っている。
そして、私のなかには死も生もなく、ただ純粋な存在──これでもあれでも
なく、ただ在ることだけがある。
しかし、マインドが貯蔵庫から記憶を引き出し、想像しはじめると、それは
空間を対象物で、時間を出来事で埋めつくしてしまう。
(久保注:この知とは叡智のことではなくてマインドの分離している知識のことである)
『私は在る』(p281)
知られるもの、知ること、知る者という三位のなかでは、知ることだけが事
実だ。
「私」と「これ」は疑わしいものだ。
誰が知るというのだろう?
何が知られるというのだろう?
知ることがあるということを除いては、そこには何の確実性もないのだ。
『私は在る』(p422)
あなたが何かを直接知る前に、言葉を通してではなく知る者を知らなければ
ならないのだ。
今まで、あなたはマインドを知る者と見なしてきた。
だが、そうではないのだ。
マインドはイメージと観念をあなたに詰め込んできた。
それは記憶に傷跡を残すのだ。
あなたは覚えていることを知識だと思いこんできた。
真の知識とはつねに新鮮で、新しく、予期できないものだ。
それはあなたの内面から沸き上がってくるのだ。
あなたがあなたで在るものを知るとき、あなたはまたあなたが知る者でも在る。
知ることと在ることの間にへだたりはないのだ。
(久保注:この知とは知識のことではなくて叡智のことである) 『私は在る』(p539)
私にとって知りたいことは何もない。
だが、知る必要のあることは知ることになるのだ。
『私は在る』(p411)
知る者が非顕現であり、知られるものが顕現だ。
知られるものはつねに動いている。
それは変化し、それ自体の形も、住処(すみか)ももたない。
知る者はすべての知識の不変の支持者だ。
どちらも互いを必要としている。
だが、実在はその彼方に在るのだ。
『私は在る』(p378)
質問者 しかし、グルは言葉なしで、信頼もなく、ただこのように何の準備
もなく真我の実現を与えることができるのでしょうか?
マハラジ
できる。
だが、どこに受け取る人がいるだろうか?
私は本当にグルと心をひとつにしていた。
まったく完全に彼を信頼し、彼への抵抗は無に等しかったため、すべてはや
さしくすばやく起こったのだ。
しかし、誰もがそのように幸運なわけではない。
怠惰と落ち着きのなさはしばしば道を阻み、それらが取り除かれるまで進展
は遅くなる。
ただグルが触れ、見、思うだけで、その場で真我を実現した人たちは、すで
に成熟していたのだ。
しかし、そのような人は本当にまれだ。
大多数は成熟するまでに、いくらかの時が必要だ。
サーダナは成熟を加速するものだ。
質問者 何が人を成熟させるのでしょうか? 何が成熟の要因でしょうか?
マハラジ
もちろん、真剣さだ。
人は本当に熱望しなければならない。
つまるところ、真我を実現した人はもっとも真剣な人だ。
何であれ彼がすることは、限界も制限もなく完全だ。
真剣さがあなたを実在へと連れていくのだ。
質問者 あなたは世界を愛していますか?
マハラジ
傷つけられたとき、あなたは泣く。
どうしてだろう?
なぜなら、あなたはあなた自身を愛しているからだ。
あなたの愛を身体に閉じこめてはならない。
開いておきなさい。
そうすれば、それはすべてへの愛となる。
すべての偽りの自己同一化が捨て去られたとき、すべてを包容する愛が残る。
あなたに関する考えをすべてぬぐい去りなさい。
あなたが神だという考えさえも捨て去りなさい。
いかなる自己定義も正当ではない。
質問者 私は約束に疲れました。私はサーダナに疲れてしまいました。それ
は私の時間とエネルギーを使い果たし、何の見返りもありません。
私は実在が今ここで欲しいのです。それはできますか?
マハラジ
もちろん、できる。
あなたが本当に、あなたのサーダナも含めたすべてに愛想をつかしたと言う
のならば。
あなたが世界から何も要求せず、神からも何も求めず、何も探さず、何も期
待しないとき、至高の状態は招かずして、不意にあなたのもとへやってくる
だろう。
質問者 もし家族生活と世間の関心事に没頭している人が、聖典に記述され
たとおりに厳しくサーダナをしたならば、彼は結果を得るでしょう
か?
マハラジ
結果は得るだろうが、彼はそれらのなかに、さなぎのように包みこまれてし
まうだろう。
質問者 数え切れないほどの聖者たちが、あなたは成熟し用意ができたとき
に真我を実現するだろうと言ってきました。彼らの言葉は真実かも
しれません。しかし、それらは役に立ちません。時間を必要とする
成熟に依存せず、努力が必要なサーダナにも依存しない道がかなら
ずあるはずです。
マハラジ
それを道と呼んではならない。
それはある種の技なのだ。
それでさえもない。
開いていて、静かで在りなさい。
あなたの探しているものは本当にあなたの近くにある。
だから、道と呼ぶにはふさわしくないのだ。
質問者 世界には数え切れないほど無知な人々がいるのに、ジニャーニはほ
んのひとにぎりです。何が原因なのでしょうか
マハラジ
他者にかまうよりも、自分自身の面倒を見なさい。
あなたはあなたが存在することを知っている。
あなた自身の上に名前という重荷を負わせてはならない。
ただ在りなさい。
いかなるものでも名前や形を自分自身に与えることで、あなたの真の本性は
隠されてしまうのだ。
質問者 なぜ真我の実現の前に探求は終わらなければならないのでしょうか?
マハラジ
真実への欲望は最高の欲望だ。
だが、それはいまだに欲望であることに変わりはない。
真実が在るためには、すべての欲望が放棄されなければならないのだ。
あなたは在る、ということを覚えていなさい。
これがあなたの仕事の資本だ。
その資本を回転させなさい。
そうすれば多大な利益を生むだろう。
質問者 そもそも、なぜ探求があるのでしょうか?
マハラジ
人生とは探求なのだ。
探求するほかないのだ。
すべての探求が終焉したとき、それが至高の状態だ。
『私は在る』(p212-214)
これらの問題すべては、あなたが単なる身体ではないと悟った瞬間に消え去
るのだ。
『私は在る』(p23)
必要なのは、自己を定義しようとする傾向を捨て去ることだけだ。
すべての定義づけは、身体とその表現にしか当てはまらない。
この身体への固執が消えれば、あなたは自然なあるがままの姿に努力するこ
となく帰り着くだろう。
『私は在る』(p27)
質問者 至高の状態はなぜ来ては去っていくのでしょうか?
マハラジ
それは去来するものではない。
それは在る。
質問者 あなたは自分の体験から話しているのでしょうか?
マハラジ
もちろんだ。
それは時間を超えた常在の状態なのだ。
質問者 私にとってそれは去来し、あなたにとってはそうではありません。
この違いはなぜでしょうか?
マハラジ
おそらく、私に欲望がないからだろう。
あるいは、あなたが至高なる者を充分強く求めてはいないからだ。
あなたのマインドが実在に気づかないとき、あなたは死にもの狂いでなけれ
ばならないのだ。
質問者 全人生において、私は努力してきました。そして何も達成しなかっ
たのです。私は読み、話を聞いてきましたが、すべては無駄でした。
マハラジ
読むことと聞くことがあなたにとって習慣になってしまったのだ。
質問者 それらもまた放棄しました。近頃は読むことさえもしません。
マハラジ
放棄したものはもはや重要ではない。
あなたが放棄していないものは何だろうか?
それを見つけ、放棄しなさい。
サーダナとは放棄するものを探すことだ。
あなた自身を完全に空っぽにしなさい。
質問者 どうして愚か者に智慧(ちえ)を望むことができるでしょうか?
人が強く望むためには、欲望の対象を知る必要があります。至高な
るものが知られていないのに、どうやって求めることができるでし
ょうか?
マハラジ
人は自然に成熟していくものだ。
そして真我の実現にふさわしくなるのだ。
質問者 しかし、成熟の要因は何でしょうか?
マハラジ
自己想起、「私は在る」という気づきがあなたを強力に迅速に成熟させる。
あなた自身に関するすべての観念を捨て去りなさい。
そして、ただ在るのだ。
質問者 私はすべての道や方法や技や計略に疲れました。それらはすべて精
神的なアクロバットです。実在を直接、即時に知覚する術(すべ)
はないのでしょうか?
マハラジ
あなたのマインドを使うことをやめ、何が起こるか見てみなさい。
これだけを徹底してやりなさい。
それだけだ。
質問者 私が若かったとき、短いけれども忘れがたい奇妙な体験をしました。
それは無としての存在、ただの無でありながら、しかも完全に意識
して在るというものです。しかし危険なのは、すでに過ぎ去った瞬
間の記憶からそれを再生しようとする欲望をもつことです。
マハラジ
それはすべて想像だ。
意識の光のなかで、ありとあらゆることが起こる。
人はそのどれにも特別な重要性を与える必要はない。
花の眺めは神のヴィジョンを見ることと同じように奇跡的なものだ。
それはそれとして放っておきなさい。
なぜ思い出し、その記憶を問題にしなければならないのか?
それを片寄りなく見ることだ。
高い低い、内側と外側、永遠と一過性を区別してはならない。
彼方へと超えていきなさい。
源に戻りなさい。
何が起ころうと変わらない自己へと向かいなさい。
あなたの弱点は、あなたが世界のなかに生まれたと確信していることだ。
実際には、世界はあなたによって、あなたのなかで、つねに再創造されてい
るのだ。
すべてをあなたの存在の源である光から出現したものとして見なさい。
その光のなかに、あなたは愛と無限のエネルギーを見いだすだろう。
質問者 もし私がその光ならば、なぜ私はそれを知らないのでしょうか?
マハラジ
知るためには知る能力のあるマインド、知るマインドが必要だ。
しかしあなたのマインドはつねに走りまわり、けっして静止せず、完全に反
映しない。
目の病で視界が曇っているとき、どうして月の壮麗な姿を見ることができる
だろう?
質問者 太陽が影をつくり出す原因であるかぎり、影のなかに太陽を見るこ
とはできない、と言えるでしょうか? 私は振り返らなければなら
ないのです。
マハラジ
またしても、あなたは太陽、身体、影という三位(さんみ)の概念をもち出
した。
実在のなかにそのような区別はないのだ。
私の話していることは、二元性や三位とは何の関わりもないことだ。
知的な理解や言語表現をしてはならない。
ただ見なさい。
そして在りなさい。
質問者 在るために、見なければならないのでしょうか?
マハラジ
あるがままのあなたを見なさい。
他者に聞いてはならない。
あなた自身に関して他者に言わせてはならない。
内面を見なさい。
すべての師たちが言えることはこれだけだ。
ひとりの師からほかへと渡り歩く必要はない。
すべての井戸のなかに同じ水があるのだ。
一番近い井戸から水を引くがいい。
私の場合、水は私のなかにあり、私が水なのだ。
『私は在る』(p214-216)
たとえ世界のなかにあろうとも、あなたの「私は在る」という感覚だけが、
世界に属さないものだ。
どのような理論や想像による努力によっても、「私は在る」を「私はいない」
に変えることはできない。
あなたの存在を否定することが自体が、あなたの存在を主張している。
『私は在る』(p218)
あなたがあなたを含むすべての証明なのだということを、まず悟るべきだ。
あなたの存在を証明できるものは何もないのだ。
なぜなら、他者の存在もあなたによって確認されなければならないからだ。
あなたは完全に、あなた自身によって在るのだということを覚えておきなさ
い。
あなたはどこからも来なかったし、どこへも行かない。
あなたは時間を超えた存在、そして気づきなのだ。
『私は在る』(p178)
「私は在る」という事実にとどまることが、別のチャンスをすぐにつくり出
すだろう。
なぜなら、態度が好機を引き寄せるからだ。
あなたの知っていることはすべて間接的な知識だ。
ただ、「私は在る」だけが直接の、そして証明を必要としないものなのだ。
それとともにとどまりなさい。
『私は在る』(p541)
実在は証明することも、反証することもできない。
マインドの範疇(はんちゅう)では不可能であり、マインドを超えればその
必要もない。
実在のなかでは、「実在とは何か?」という疑問は起こらない。
顕現(サグナ)と非顕現(ニルグナ)は別のものではないのだ。
『私は在る』(p112)
そして「私は在る」という感覚は、あなたと自己との間の連結部であり、外
見の多様性に妨げられないアイデンティティの象徴なのだ。
「私は在る」を内面と外面の間、実在と現れとの間の愛の象徴として見なさ
い。
夢のなかでは、「私」という感覚を除いてはすべてが異なっている。
その「私」が「私は夢を見た」と言うことを可能にするように、「私は在る」
という感覚が、「私は真我だ」と言うことを可能にするのだ。
私は何もしないし、私に対して何もされることはない。
私は私であり、何も私に影響を与えることはできない。
私はすべてに依存しているように見えるが、事実は、すべてが私に依存して
いるのだ。
『私は在る』(p406)
だが、私は「私は在る」を超えているのだ。
『私は在る』(p476)
すべてがはじまる以前にも、そしてすべてが終わった後にも──私は在る。
すべては私のなか、すべての生きるもののなかに輝く「私は在る」という感
覚のなかにその存在がある。
非存在でさえ私なしには考えることもできない。
何が起ころうとも、観照者としての私がそこにいなければならないのだ。
『私は在る』(p36-37)
すべては宇宙的意識界の中の一時的な現れだ。
名前と形としての継続性は、容易に一掃できるただの精神的形態なのだ。
『私は在る』(p433)
質問者 私たち二人は遠くの国からやってきました。ひとりは英国人で、も
うひとりはアメリカ人です。私たちの住む世界は破滅しようとして
います。私たちは若いので心配しているのです。年老いた人びとは
死を迎えることを望んでいますが、若い者たちにはそのような希望
もありません。私たちのうち、何人かは殺すことを拒絶するでしょ
うが、誰も殺されることを拒絶することはできません。私たちは生
きている間に世界を正すことができるでしょうか?
マハラジ
何があなたたちに世界が破滅すると考えさせるのだろう?
質問者 破壊的兵器は信じがたいほどの可能性をもつようになりました。私
たちの生産能力自体もまた、自然や文化と社会的価値を破壊するほ
どになったのです。
マハラジ
あなたは現在について語っている。
それはつねに、どこでもそうだったのではないだろうか?
しかし、悲惨な状況は地域的で、一時的なものかもしれない。
ひとたびそれが過ぎれば、忘れ去られてしまうだろう。
質問者 差し迫っている破局の規模は信じがたいほど大きなものです。私た
ちは爆発のただなかに生きているのです。
マハラジ
人はそれぞれひとりで苦しみ、ひとりで死ぬ。
数字とは無関係なのだ。
死においては、ひとりの死も百万人の死も重さは同じだ。
質問者 自然は何百万人も殺しますが、それが私を恐れさせることはありま
せん。そこには悲劇、あるいは神秘があるかもしれませんが、残酷
さはないのです。私をぞっとさせるのは、人間のつくり出した苦し
み、破壊、荒廃です。その創造と破壊において自然は荘厳なもので
す。しかし、人の行為のなかには卑劣さと狂気があります。
マハラジ
そのとおりだ。
確かにあなたの問題は苦しみと死ではなく、その根底にある卑劣さや狂気に
ある。
卑劣さもまた、狂気のひとつの形ではないだろうか?
そして狂気はマインドの誤用ではないだろうか?
人類の問題はマインドの誤用のなかにのみ存在するのだ。
自然と精霊の持つすべての財宝は、マインドを正しく使うことのできる人に
開かれている。
質問者 正しいマインドの使い方とは何でしょうか?
マハラジ
恐れと強欲がマインドの誤用の原因だ。
正しいマインドの使い方とは愛、生命、真実、そして美への奉仕にある。
質問者 言うは易く、行うは難しです。真実の愛、人間への愛、善意の愛─
─なんというぜいたくでしょう。世界を正すには、それらは山ほど
必要です。でも誰が与えるというのでしょうか?
マハラジ
あなたは真実と愛、知性と善意をどこかほかのところに永遠に探し求め、神
や人に嘆願することもできるが、すべては無駄なことだ。
あなたはあなた自身のなかから、あなた自身とともにはじめなければならな
い。
これが容赦ない法則なのだ。
顔を変えることなく、イメージを変えることはできない。
あなたの世界はあなた自身の反映だということを、まず悟りなさい。
そして反映のあら探しをするのはやめなさい。
あなた自身に注意を払い、精神的にも感情的にもあなた自身を正しなさい。
身体は自動的に、それにしがたうだろう。
あなたは経済的、社会的、政治的改善に関して多くを語る。
改善と改善者であるマインドは放っておくがいい。
愚かで、強欲で、冷酷な人にどんな世界がつくり出せるというのだろうか?
質問者 もし私たちがハートを変えるのを待たねばならないのなら、私たち
は際限なく待たなければならないでしょう。あなたの助言は完全性
への助言です。それはまた絶望への助言でもあるのです。すべてが
完全なとき、世界も完全となる。何と役に立たない決まり文句でし
ょう。
マハラジ
私はそうは言っていない。
私はただ、あなた自身を変えずに、世界は変えられないと言ったのだ。
私はすべての人を変える前にとは言っていない。
他者を変えることは不必要だし、不可能だ。
だが、もしあなたがあなた自身を変えたなら、他の誰も変える必要はないと
わかるだろう。
画像を変えるにはただフィルムを変えるだけだ。
あなたは映画館のスクリーンを攻撃したりはしない。
質問者 どうしてそんなに自分に確信がもてるのですか? あなたが話して
いることが正しいと、どうやって知るのですか?
マハラジ
私は私自身に確信があるのではない。
私はあなたに確信があるのだ。
あなたに必要なことは、内側でしか見つからないものを外側に探そうとする
のをやめることだけだ。
行動する前に、あなたの視点を正しなさい。
あなたは深刻な誤解に苦しんでいる。
あなたのマインドを澄ませ、ハートを浄(きよ)め、生を神聖なものにしな
さい。
これがあなたの世界をもっとも速く変える道だ。
『私は在る』(p145-147)
http://tinyurl.com/s747u
もしあなたが苦しみと苦しみからの解放の問題をもっていなければ、真我の
探求に必要なエネルギーと持続力をもてないだろう。
あなたに危機をつくり出すことはできない。
それは真正なものでなければならないのだ。
『私は在る』(p460)
至福とは知られるものではない。
人はつねに至福なのだ。
しかし、けっして至福に満ちているのではない。
至福とはひとつの属性ではないのだ。
『私は在る』(p124)
質問者 夢見の状態と目覚めの状態で、いつも私は自分を意識しています。
それは大した助けにはなってはいません。
マハラジ
あなたは考えることや、感じること、することに気づいていた。
だが、あなたはあなたの存在に気づいていないのだ。
質問者 どのような新しい要因をもちこめばいいのでしょうか?
マハラジ
出来事に巻きこまれることなく見守る、純粋な観照の姿勢だ。
質問者 それが私に何をするのでしょうか?
マハラジ
弱いマインドは知性と理解の欠如から起こる。
それはまた不注意の結果でもある。
気づきのために努力することによって、あなたはマインドをひとつにし、そ
れを強力にするのだ。
質問者 私は何が起こっているかには完全に気づいているかも知れませんが、
それに影響を与えることはまったく不可能なのです。
マハラジ
そうではない。
何が起こっているかは、あなたのマインドの投影なのだ。
それゆえ、あなたのマインドとその投影に気づいていなさい。
弱いマインドにはそれ自身の投影を制御することができない。
あなたはあなたが知らないことを制御できないのだ。
一方、知識が力を与える。
その訓練はとてもシンプルなものだ。
自己を制御するために、自己を知りなさい。
質問者 おそらく、私は自分を制御できるようにはなるかもしれません。し
かし、世界の混乱を扱うことができるようになるでしょうか?
マハラジ
あなたのマインドがつくり出した混乱以外に世界の混乱というものはない。
それは自己がほかのものと異なり、分離してあるものだという誤った考えを
中心に自己創造されるのだ。
実際には、あなたはあるものではなく、分離もしていない。
あなたは無限の潜在力、無尽蔵の可能性だ。
あなたが在るから、すべてが在ることができるのだ。
宇宙はあなたの成るという無限の能力の部分的な現れにすぎないのだ。
質問者 私は自分が喜びへの欲望と苦痛への恐れによって、完全に動機づけ
されていることを見いだしました。いかに私の欲望が高尚であり、
恐れが正当化されたとしても、喜びと苦痛は、その間で私の人生が
振動する、二つの極なのです。
マハラジ
苦痛と喜び、恐れと欲望、その両方の源へと行きなさい。
観察し、調査し、理解することを試みなさい。
質問者 欲望も恐れも身体的、精神的要因によって起こる感情です。それら
はそこにあり、たやすく観察できます。しかし、なぜそれらはそこ
にあるのでしょうか? なぜ私は喜びを望み、苦痛を恐れるのでし
ょうか?
マハラジ
そこに身体と身体を守るマインドが存在するかぎり、好感と反感は作用する
だろう。
それらが出来事のなかに現れても、あなたに影響することはない。
あなたの留意の焦点は別の場にあり、それに迷わされることはないのだ。
質問者 それでも、それらはそこにあるでしょう。完全に自由になることは
不可能なのでしょうか?
マハラジ
あなたはたった今でさえ、完全に自由だ。
あなたが運命(カルマ)と呼ぶものは、あなた自身の生きようとする意志の
結果なのだ。
普遍的な死の恐怖から見れば、この意志がどれほど強力なものかわかるだろ
う。
質問者 しばしば、人びとは自らの意志で死にます。
マハラジ
選択が死より一層悪いときにかぎってだ。
しかし、そのような死ぬ用意も生きる意志と同じ源から流れてくる。
その源は生命そのものよりも深いものだ。
生きる存在として在るということは、究極の状態ではない。
そこには彼方にある、何かはるかに素晴らしい、存在でも非存在でもなく、
生命でも非生命でもないものがある。
それが時間と空間の限界を超えた純粋な覚醒だ。
ひとたびこの「身体―精神」が自己だという幻想が放棄されたならば、死は
その恐怖を失い、それは生きることの一部となるのだ。
『I AM THAT 私は在る』(p138-140)
真我の実現にとっては、理解が本質的なものだ。
行為は偶然のものでしかない。
確固とした理解の人は行為を差し控えるだろう。
行為とは真理の試験なのだ。
『私は在る』(p418)
もしあなたがつねにあなた自身を試験しなければ、実在と空想との区別はで
きなくなるだろう。
観察と注意深い理性はある程度の助けになる。
しかし、実在は逆説的なのだ。
思考と感情、言葉と行動を見守り、なぜ、どのようにして、あなたの知らな
いうちにそれらが変化していくのかを疑わないかぎり、あなたが真我を実現
したということをどうして知ることができるだろう?
本当に驚くからこそ、それが実在だと知るのだ。
予想され、期待されたものが実在であることはまれだ。
『私は在る』(p418)
あなたは存在しないのだ。
あれやこれといった言葉で自分自身を思うことを拒否しなさい。
調べることなく、盲目的に受け入れることでつくり出してきた惨めさからの
出口はほかにないのだ。
『私は在る』(p222)
あるがままのあなたを見なさい。
他者に聞いてはならない。
あなた自身に関して他者に言わせてはならない。
『私は在る』(p216)
あなたは言語的思考によって現在の状況に陥った。
あなたは同じ道を通って脱出しなければならないのだ。
『私は在る』(p161)
もし何もほかのものを求めなければ、自己を見いだすという欲望はかならず
満たされるだろう。
しかし、あなたは自己に正直でなければならず、本当に、ほかに何も求めて
はならないのだ。
『私は在る』(p162)
間違いはあなたの選択にある。
食べ物、セックス、権力、名声といったささいなことがあなたを幸せにする
と想像するのは、自分自身を欺くことだ。
あなたの本来の自己のように、深く、広大な何かだけがあなたを真に、永遠
に幸福にするのだ。
『私は在る』(p229)
質問者 数多くの聖者や神秘家が生まれ、死んでいきました。彼らは私の世
界を変えませんでした。
マハラジ
どうして彼らに変えられるだろう?
あなたの世界は彼らのものではなく、彼らの世界もあなたのものではない。
質問者 かならず、すべてに共通の現象の世界があるはずです。
マハラジ
物体とエネルギーと物質の世界のことだろうか?
仮に物体と力の共通世界が在るとしても、それは私たちの住む世界ではない。
私たちの世界は感情と観念の、好感と反感の、価値の尺度の、動機と刺激の、
概して精神的世界なのだ。
生物学的には、私たちの必要はわずかばかりだ。
私たちの問題は異なったレベルのものだ。
欲望と恐れ、そして誤った観念から生じた問題は、マインドのレベルでしか
解決できない。
あなたは自分のマインドを克服しなければならない。
そしてそのために、あなたはそれを超えていかなければならないのだ。
質問者 マインドを超えていくとはどういうことでしょうか?
マハラジ
あなたは身体を超えているはずだ。
そうではないかね?
あなたは自分の身体の消化作用、循環作用、排出作用を綿密に追っているわ
けではない。
それらは自動的に行われている。
同様に、マインドも注意を呼び起こさずとも、自動的に働くようになるべき
だ。
マインドが何の欠陥もなく働くようになるまで、これは起こらない。
私たちはほとんどの時間、マインドと身体を意識している。
それらは絶え間なく助けを呼んでいるからだ。
苦痛と苦しみは身体とマインドが注意を引こうと叫んでいるのだ。
身体を超えていくためには健康でなければならない。
マインドを超えるにはマインドに完全な秩序をもたらさなければならない。
混乱をそのままあとに残してマインドを超えていくことはできない。
混乱はあなたの足をひっぱるだろう。
「自分の問題は自分で片づけなさい!」は普遍の法則のようだ。
そして、それは公正な法則でもある。
質問者 あなたがどうやってマインドを超えたのか、尋ねてもよいでしょう
か?
マハラジ
グル(師)の恩寵(おんちょう)によってだ。
質問者 彼の恩寵はどのような形を取ったのでしょうか?
マハラジ
彼は、何が真実なのかを私に告げたのだ。
質問者 あなたはそれについてどうしたのでしょう?
マハラジ
私は彼を信頼し、それを覚えたのだ。
質問者 それですべてですか?
マハラジ
そうだ。
私は彼と彼の言ったことを覚えていたのだ。
質問者 それで充分だったというのですか?
マハラジ
これ以上何をする必要があるだろう?
グルと彼の言葉を覚えていることは相当なことなのだ。
あなたへの私のアドバイスはさらにやさしいものだ。
ただ、あなた自身を覚えていなさい。
「私は在る」はあなたのマインドを癒し、それを超えていくのに充分だ。
私はあなたを迷わせたりしない。
なぜそうする必要があろうか?
私があなたから何を欲するというのだろう?
私はあなたの幸福を願っている。
それが私の本性なのだ。
どうしてあなたを惑わせたりするだろうか?
一般的な常識でさえ欲望を満たしたいのならそれを思いつづけなさいと言う。
もしあなたが自己の本性を知りたいと望むなら、あなたの存在の秘密があば
かれるまで、
つねに自己をマインドに思いつづけるべきだ。
質問者 なぜ自己想起が真我の実現をもたらすのでしょうか?
マハラジ
なぜなら、それらは同じ状態の二つの側面だからだ。
自己想起はマインドの領域内にある、真我の実現はマインドを超えてある。
鏡のなかに映っているイメージは、実際は鏡のこちら側にある顔のものなの
だ。
質問者 まったくそのとおりです。しかし、目的は何でしょうか?
マハラジ
他者を救うためには、人は救いの必要性を超えていなければならない。
質問者 私が望むのは幸福だけです。
マハラジ
幸せになるために、幸せで在りなさい。
『私は在る』(p147-148)
意識と生命。
その両方をあなたは神と呼ぶかもしれない。
だがあなたはその両方を超えているのだ。
神を超え、存在と非存在を超えている。
『私は在る』(p494)
......
神を超え、存在と非存在を超えている。
あなた自身がすべてであり、すべてを超えていると知ることを妨げているの
は、記憶に基づいたマインドなのだ。
あなたがマインドを信頼するかぎり、それはあなたを支配しつづけるだろう。
それと闘ってはいけない。
ただ無視しなさい。
注目を奪われて、それは速度を落とし、その働きの機構を露わにする。
ひとたびその本性と目的を知れば、マインドが想像上の問題をつくり出すこ
とをあなたは許さないだろう。
『私は在る』(p494)
彼(=至高の真我)はマインドが考えることのできるすべてを超えている。
彼は存在と非存在をも超えている。(p105)
あなたはつねに不死不生であり、体験者を超えているということを覚えてお
きなさい。(p208)
気づきはすべての体験を含んでいる。
しかし、気づいているその人はあらゆる体験を超えているのだ。
彼は気づき自体をも超えている。(p284)
絶対なるものはすべての根底にありながら、すべてを超えているのだ。(p275)
どのようにして人が意識でもなく、無意識でもなく、ただ彼方に在ることが
できるのかを説明することは容易でないが、私は彼方にあるのだ。
私は神のなかにいる、あるいは私は神だ、とは言えない。
神は普遍的な光と愛、普遍的な観照者だ。
私は普遍的なものさえ超えているのだ。(p338-339)
質問者 至高なるものはどのような影響を受けるのでしょうか?
マハラジ
何が、どうやってそれに影響を与えられるというのだろう?
水源が川の気まぐれな流れの影響を受けることはない。
また金属が宝飾品の形によって影響を受けることもない。
光源がスクリーン上の画像によって影響を受けるだろうか?
至高なるものはすべてを可能にする。
それだけだ。
『私は在る』(p84-85)
質問者 他者のことは彼ら自身にまかせておきましょう。
マハラジ
あなたは孤立していないのだ。
あなたが分かち合うことができない幸福は偽物だ。
分かち合うことができることだけが、真に望むべきことなのだ。
質問者 おっしゃるとおりです。しかし、私にはグルが必要でしょうか?
あなたの言われることはシンプルで納得のいくものです。私はそれ
を覚えているでしょう。でも、これがあなたを私のグルにするわけ
ではありません。
マハラジ
重大なのは個人を礼拝することではなく、あなたのすべきことへの帰依の深
さと確固たる姿勢なのだ。
生そのものが至高のグルだ。
その教えに注意を注ぎ、その命令に従順でありなさい。
その源を人格化するなら、あなたは外側にグルをもつ。
あなたがそれを生から直接得るならば、グルは内側にある。
内面の外面であるあなたのグルの言葉を覚えていなさい。
自問し、熟考し、それとともに生きなさい。
それを愛しなさい。
それに合うように成長し、それとともに成長しなさい。
それを自分のものにしなさい。
それをすべて果たすならば、あなたはすべてを得るだろう。
私はそうしてきた。
グルと、彼が私に言ったことに、すべての時を捧げたのだ。
質問者 私の職業は作家です。何か私に特別な助言をいただけますか?
マハラジ
執筆は才能と技術の両方だ。
才能を成長させ、技術を発展させなさい。
望む価値あることを、正しく望みなさい。
人びとの間を行くとき、群衆のなかでも自分の道を見いだすように、自分の
方向を失わずに多くの出来事からあなたの道を見いだすのだ。
もしあなたが真剣ならば、やさしいことだ。
質問者 何度となくあなたは真剣であることの必要性を話されました。しか
し、私たちは単一の意志をもつ者ではありません。私たちは欲望と
必要、本能と衝動の集積です。それらは互いに混ざり合い、ときに
はあるものが、あるときは別のものが支配し、しかも長続きしませ
ん。
マハラジ
必要というものはない。
欲望だけだ。
質問者 食べ、飲み、自分の身体を保護すること、生きることは?
マハラジ
生きようと望むことは基本的な欲望だ。
他のすべてはそれに依存している。
質問者 私たちは生きています。なぜならば、そうしなければならないから
です。
マハラジ
私たちは生きている。
なぜなら感覚的存在を切望しているからだ。
質問者 普遍的なことがらは、間違いのはずがありません。
マハラジ
もちろん間違いではない。
その時と場所においては間違ったことなど何もない。
しかし真実に関心を持ち、実在に関心を持つならば、あなたはすべてを、あ
なたの人生そのものを疑わなければならない。
感覚的必要性、知的体験を主張することによって、あなたは真理の探究を安
楽の追求へと狭めてしまうのだ。
質問者 私は安楽ではなく、幸福を探しているのです。
マハラジ
マインドと身体の安楽を超えて、あなたはどんな幸福を知っているというの
だろう。
質問者 何かほかにあるでしょうか?
マハラジ
自分で見いだしなさい。
あらゆる衝動を疑いなさい。
どんな欲望も正当化してはならない。
身体的、精神的所有物を解き放ち、私利私欲を離れ、発見に対してオープン
でありなさい。
質問者 ただ聖者や賢者のそばで生活することだけで解放へ導き、ほかに何
の手段も必要ないというのが、インドの霊的な伝統の一部です。な
ぜあなたは、人びとがあなたのそばで生活できるようにアーシュラ
ムを組織しないのでしょうか?
マハラジ
ある組織を設立したとたん、私はその囚人となる。
実際問題として、私はすべての人に開かれている。
共有の屋根や食事が人びとをより歓迎するわけではない。
「近くに生きること」とは、同じ空気を呼吸するという意味ではない。
それは信頼し、したがい、師の善意を無駄にしないことだ。
グルをつねにあなたのハートのなかに保ち、彼の教えを覚えていることが、
本当に真実とともに生きることだ。
身体的距離の近さが重要なのではない。
あなたの全人生を、師への信頼と愛の表現にするがいい。
これが真にグルとともに生きることだ。
『私は在る』(p149-150)
あなたは考え違いしているのだ。
世界はあなたなしでは何の存在ももってはいない。
あらゆる瞬間において、それはあなたの反映にすぎない。
あなたが創造し、破壊するのだ。
『私は在る』(p113)
あらゆる方法で自分自身を考えてみなさい。
ただ、身体という観念をもちこんではならない。
そこにはただ感覚、知覚、記憶、そして観念の流れがあるだけだ。
身体とは抽象的観念であって、多様性のなかに統合を見いだそうとする私た
ちの傾向にすぎず、それは何も間違ったものではない。
『私は在る』(p153)
身体は生まれ、身体は死ぬ。
だが、それが私にとって何だというのだろう?
身体は意識のなかで来ては去っていく。
そして意識はその根底を私のなかに置いている。
生命は私であり、マインドと身体は私のものだ。
『私は在る』(p112)
マインドへの隷属に反抗しなさい。
あなたの束縛は自分が創造したものだということを見なさい。
そして執着と反感への鎖を断ち切るのだ。
『私は在る』(p538)
質問者 あなたは、実在はひとつだと言います。単一性、統一性は個人の属
性です。それでは、実在とは宇宙をその身体とした個人なのでしょ
うか?
マハラジ
あなたが何を言おうと、それは真実でもあり偽りでもある。
マインドを超えたところに言葉が届くことはできないのだ。
質問者 私はただ理解しようとしているだけです。あなたは個人、観照者、
そして至高なるもの(ヴィアクティ、ヴィアクタ、アヴィアクタ)
に関して語りました。純粋な覚醒(プラジニャー)の光は、観照者
(ジーヴァートマ)のなかの「私は在る」、マインド(アンタカラ
ナ)を照らす意識(チェタナ)、身体(デーハ)に生気を与える生
命(プラーナ)に焦点を合わせています。これらすべては言葉で表
現するかぎりはいいでしょう。しかし、私のなかで観照者から個人
を区別し、至高なるものから観照者を区別しようとすると、混乱し
てしまうのです。
マハラジ
個人はけっして主体ではありえない。
あなたは個人を見ることはできるが、あなたは個人ではない。
あなたはつねに至高なるものであり、その至高なるものが、ある与えられた
時間と空間において観照者として現れたのだ。
その観照者が至高なるものの純粋な覚醒と、個人の多様な意識の間に橋を渡
すのだ。
質問者 私が自分を見るとき、この身体をどう使うかについて、私のなかで
何人かの異なった個人が互いに争いあっているのを見いだします。
マハラジ
それらはマインドの多様な性癖(サンスカーラ)に相当するのだ。
質問者 私は彼らの間に平和をもたらすことができるでしょうか?
マハラジ
いいや。
彼らはまったく反駁(はんばく)しあっているのだ。
彼らをただの思考と感情の習慣、記憶と衝動として、あるがままに見なさい。
質問者 それでも、彼らは皆「私は在る」と言うのです。
マハラジ
なぜなら、あなたは彼らと自分自身を自己同一視するからだ。
ひとたび、何であれあなたの前に現れたものは自分自身ではありえず、「私
は在る」と言うことはできないと認識すれば、あなたはすべての「個人」た
ちと彼らの要求から自由になる。
「私は在る」という感覚はあなた自身のものだ。
それを手放すことはできない。
しかし、あなたはそれを「私は若い、私は裕福だ」というように何にでも分
け与えることができる。
ただ、そのような自己同一化は明らかに偽りであり、束縛となる原因なのだ。
質問者 今、私には私が個人ではなく、個人のなかに反映されたとき、それ
に存在の感覚を与えるものだと理解できました。では、至高なるも
のについてはどうでしょう? どのようにして私自身を至高なるも
のとして知るのでしょうか?
マハラジ
意識の源は、意識のなかの対象物ではありえない。
源を知るということは、源として在るということだ。
あなたが個人ではなく純粋で静かなる観照者であり、恐れのない気づきが真
の存在だと悟ったとき、あなたは実在となる。
それが源であり、無尽蔵の可能性だ。
質問者 源はたくさんあるのでしょうか、それとも、ひとつがすべてのため
にあるのでしょうか?
マハラジ
それはあなたがそれをどの側から、どう見るかによる。
世界のなかの対象物はたくさんあるが、それを見る目はひとつだ。
高次のものは低次のものにとってつねにひとつとして現れ、高次のものにと
って低次のものは多数として現れる。
質問者 形や名前はみな同じひとつの神のものなのでしょうか?
マハラジ
これもまた、あなたがどう見るかにかかってくる。
言語上のレベルでは、すべてが相対的だ。
絶対性は体験されるものであって、討論すべきことではない。
質問者 どのようにして絶対性は体験されるのでしょうか?
マハラジ
それは対象物として認識したり、記憶のなかに蓄えられたりするものではな
い。
それは現在のなかに、むしろ感覚的なものとしてある。
それは「何であるか」というより、「どう在るか」に近い。
それは質のなか、価値のなかにあり、すべての源としてすべてのなかに存在
しているのだ。
質問者 もしそれが源なら、なぜ、そしてどのようにしてそれ自身を現すの
でしょうか?
マハラジ
それは意識に誕生を与えるのだ。
それ以外のすべては意識のなかにある。
『私は在る』(p83-84)
たったひとつ、あなたには誤りがある。
あなたは内面を外面に見て取り、外面を内面として見ているのだ。
あなたの内側にあるものをあなたの外側にあると見なし、外側にあるものを
あなたの内側にあると見なしているのだ。
マインドと感情は外側にあるのだ。
だが、あなたはそれらを最も内部にあると見なしている。
あなたは世界が外界のものだと信じている。
だが、それは完全にあなたの精神の投影なのだ。
これが混乱の根本であり、新たな爆発がその混乱を正すわけではない。
あなた自身で考え抜かなければならないのだ。
ほかに道はない。
『私は在る』(p258)
あなたはあなた自身のための牢獄を築くことに、たいへんなエネルギーをつ
ぎこんできた。
今、それを破壊するためにできるかぎりを費やしなさい。
事実、破壊することはたやすい。
なぜなら、偽物は発見されたそのときに消え去るからだ。
『私は在る』(p317)
責任を転嫁することは人間の特徴的なゲームなのだ。
何かが起こるために不可欠な要因の果てしないリストについて考えていくと、
すべてが起こるための責任は、いかに間接的であってもすべてにあると認め
るほかはない。
行為者とは、「私の」と「私のもの」という幻想から生まれた神話なのだ。
『私は在る』(p394)
それ(カルマや因果応報)はただ相対として真実に近いというだけだ。
実際には、私たちは互いの創造者と創造物であり、互いの重荷の原因であり、
互いの重荷の重さに耐えているのだ。
『私は在る』(p434)
私たちは生きている。
なぜなら感覚的存在を切望しているからだ。
『私は在る』(p149)
あなたは禁欲主義者か、あるいは結婚しているかもしれない。
修行僧か、あるいは家庭をもつ人かもしれない。
それは要点ではないのだ。
あなたは自分の想像の奴隷だろうか、あるいは違うだろうか?
あなたがいかなる決定をしようとも、いかなる仕事をしようとも、それは変
わることなく想像、想定が事実として誇示していることにいつも基づいてい
るのだ。
『私は在る』(p371-372)
何にもまして、私たちは意識しつづけていたい。
あらゆる苦しみや屈辱を耐えてでも、意識しつづけることを望むのだ。
この体験への欲望に逆らって、顕現すべてを手放さないかぎり、解放はあり
えない。
私たちは罠にはまったままなのだ。
『私は在る』(p346)
だがマインドは体系化と定義づけを切望し、つねに実在を言語的な形態のな
かに押しこもうと熱心なのだ。
すべてにおいてそれは観念を求める。
なぜなら、観念なしにマインドは存在しないからだ。
実在は本質的にひとりなのだ。
だが、マインドはそれをひとりにしておかない。
そして、その代わりに忙しく実在について考えつづける。
ただ非実在を実在として見なすこと、それがマインドにできる唯一のことな
のだ。
『私は在る』(p376-377)
だが、もし意識とは殻(から)のなかのヒヨコを包む個人的で私的な熱のよ
うなものとして見ることを学ぶなら、その態度そのものが殻を破る転換期を
もたらすだろう。
『私は在る』(p400)
私たちの唯一の希望は、止まって、見て、理解し、記憶の罠から抜け出すこ
とだ。
なぜなら記憶が想像をあおり立て、想像が欲望と恐れをひき起こすからだ。
『私は在る』(p434)
あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せ
るだろう。
「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。
それを使いなさい。
『私は在る』(p50)
それがありもしなかった分割という幻想をつくり出したのだ。
それがあなた自身の世界のなかで、あなたを異邦人にしてしまった。
そして世界を異質な、敵意あるものにしてしまったのだ。
「私は在る」という感覚なしでも人生は続いていく。
私たちにも「私は在る」という感覚のない平和で幸福なときはある。
「私は在る」が戻るとともに、困難がはじまるのだ。
『私は在る』(p317)
質問者 なぜそれほどたくさんの意識の中心があるのでしょうか?
マハラジ
客観的宇宙(マハーダカーシュ)は不変の運動を続け、無数の形態を投影し
ては溶解している。
いつであれ形態に生気(プラーナ)が吹き込まれたとき、物質のなかで気づ
きの反映によって意識(チェタナ)が現れる。
質問者 至高なるものはどのような影響を受けるのでしょうか?
マハラジ
何が、どうやってそれに影響を与えられるというのだろう?
水源が川の気まぐれな流れの影響を受けることはない。
また金属が宝飾品の形によって影響を受けることもない。
光源がスクリーン上の画像によって影響を受けるだろうか?
至高なるものはすべてを可能にする。
それだけだ。
質問者 なぜあることは起こり、あることは起こらないのでしょうか?
マハラジ
原因を探しだすことは、ただのマインドの気晴らしにすぎない。
原因と結果という二元性は存在しない。
すべてはそれ自身の原因なのだ。
質問者 それでは、目的をもった行為は不可能なのでしょうか?
マハラジ
私に言えることは、意識がすべてを包括しているということだけだ。
意識のなかではすべてが可能だ。
もし望むならば、あなたの世界のなかで原因を持つこともできるだろう。
別の人は、神の意志というひとつの原因に満足かもしれない。
根本的な原因はひとつ、「私は在る」だ。
質問者 自己(ヴィアクタ)と至高なるもの(アヴィヤクタ)との関係は何
でしょうか?
マハラジ
自己の視点から見れば、世界は既知であり、至高なるものは未知だ。
未知は既知に誕生を与え、しかも未知としてとどまる。
既知は無限だが、未知は無限大の無限だ。
光線がほこりの微少片にさえぎられないかぎり目に見えないように、至高な
るものもすべてを既知にしながら、それ自身は未知としてとどまるのだ。
質問者 それはつまり、未知はアクセス不可能ということでしょうか?
マハラジ
いいや。
至高なるものはもっとも到達しやすいものだ。
なぜなら、それはあなたの存在そのものだからだ。
考えることを止め、至高なるもの以外を求めないこと、それで充分だ。
質問者 では、もし私が至高なるものさえも、何も求めないとしたら?
マハラジ
それでは、あなたは死んだも同然だ。
あるいはあなたが至高なるものなのだ。
質問者 世界は欲望でいっぱいです。誰もがあれやこれやを欲しています。
欲しているものとは誰なのでしょうか? 個人でしょうか、あるい
は真我なのでしょうか?
マハラジ
真我だ。
神聖なもの、あるいは神聖でないもの、すべての欲望は真我からやってくる。
それらはすべ「私は在る」という感覚に依存しているのだ。
質問者 神聖な欲望(サティヤカーマ)が真我から発しているということは
理解できます。それは真我のサッチターナンダ(存在─意識─至福)
の側面の表現でしょう。しかし、なぜ神聖ではない欲望もそうなの
でしょうか?
マハラジ
すべての欲望は幸福を目ざしいている。
欲望の形や質は精神(アンタカラナ)に依存する。
不活発性(タマス)が優勢なら、そこには逸脱が見られるだろう。
エネルギー(ラジャス)があると熱情が生じ、透明性(サットヴァ)がある
ところには、その欲望の動機の背後に善意と慈悲、幸福であることよりも幸
福になってほしいという衝動が見られる。
だが、至高なるものはすべてを超えている。
さらに、その無限の浸透性ゆえに、あらゆる適切な望みは満たされるのだ。
質問者 どの欲望が適切なのでしょうか?
マハラジ
主体、または対象を破壊する欲望、あるいは満たされた後でも消え去らない
欲望は自己矛盾しており、満たされることはない。
動機が愛と善意と慈悲によって生まれた欲望だけが、主体にも対象にも有益
であり、充分満たされるのだ。
質問者 神聖なものも神聖でないものも、すべての欲望は苦痛をともないま
す。
マハラジ
それらは同じではない。
苦痛もまた同じものではない。
熱情は苦痛だ。
慈悲に苦痛はありえない。
全宇宙が慈悲から生まれた欲望を満たそうと努力しているのだ。
『私は在る』(p84-86)
あなたが幸福でないから、幸福になりたいのだ。
なぜ幸福ではないのかを見いだしなさい。
『私は在る』(p487)
マインドが身体に仕えることに従事するとき、幸福は失われてしまう。
幸福をふたたび得ようとして、快楽の中に探し求めるのだ。
幸福になろうとする衝動は正しいものだ。
だが、それを確保しようとする方法が惑わせ、当てにならず、真の幸福を破
壊してしまうのだ。
『私は在る』(p487)
幸福ではないから、快楽のなかに幸福を探し求めるのだ。
快楽は苦痛をもたらすため、あなたはそれを世俗的と呼ぶ。
それから、あなたは苦痛をともなわない、何かほかの快楽を切望する。
そして、それを神聖なものと呼ぶのだ。
実際には、快楽とは苦痛からの一時的な休息にすぎない。
『私は在る』(p487)
生まれて、そして死んでいくのは観念であり、あなたではないのだ。
あなた自身を「私は生まれた」という想念と同一化することで、あなたは死
をまぬがれない者となる。
『私は在る』(p410)
自己同一化の輪が狭いほど、欲望と恐れによって生じた苦しみはより激しい
ものとなるのだ。
『私は在る』(p531)
私たちは対比によって魅せられているのだ。
このために対立するものと、それらの表面上の分裂を必要としている。
しばらくの間それらを楽しみ、それから退屈して、純粋な存在の平和と沈黙
を切望するのだ。
宇宙のハートは絶え間なく鼓動している。
あなたはその観照者であり、そのハートでもあるのだ。
『私は在る』(p434)
快楽はあなたを眠らせ、苦痛は目覚めさせる。
至福を通してだけではあなた自身を知ることはできない。
あなたの本性そのものが至福だからだ。
悟りを得るためには、あなたではないもの、対極と向き合わなければならな
いのだ。
『私は在る』(p325)
しかし、誰もあなたに苦しむよう強要してはいない。
苦しみは完全に、執着すること、あるいは抵抗することを理由に起こる。
それは私たちが人生とともに流れ、進んでいくことを自ら欲しないことの兆
候なのだ。
健全な人生が苦痛から自由であるように、聖人の人生は苦しみから自由なの
だ。
『私は在る』(p289)
すべての執着は恐れを暗示している。
なぜなら、すべてのものごとは、はかない、つかの間のものだからだ。
そして、恐れは人を奴隷にしてしまう。
『私は在る』(p278)
私たちが恐れを個人的存在の影と見て、それを受け入れることができないか
ぎり、個人としての私たちは必ず恐れることになる。
すべての個人的な要因を放棄しなさい。
そうすればあなたは恐れから自由になるだろう。
『私は在る』(p473)
個人とは単なる誤解の結果だ。
実際には、そのようなものはないのだ。
果てしない連続性のなかで、感情、思考、行為が脳のなかに痕跡を残し、継
続性という幻想をつくりながら、見守る者の前を駆け抜けていく。
マインドのなかで、見守る者の反映が「私」という感覚をつくり出し、個人
は一見独立したように見える存在を獲得するのだ。
実際には、個人というものは存在しない。
ただ見守る者が「私」と「私のもの」に自己同一化するだけだ。
『私は在る』(p360)
実際には、何の欠如も必要もない。
すべての仕事はただ表面上のものだ。
その深みには完全な平和がある。
すべての問題が現れるのは、あなたが自分自身を定義し、それゆえ限定した
からだ。
あなたが自分自身をあれやこれやと考えないとき、すべての葛藤はやむ。
問題に対処しようとするいかなる試みも、失敗せざるをえない。
なぜなら、欲望によって起こったことは、欲望から自由になることによって
のみ、取り消すことができるからだ。
あなたは自分自身を時間と空間のなかに閉じこめ、一生という期間と、身体
という容積のなかに自分を押し込めてしまった。
それゆえ、生と死、快楽と苦痛、期待と恐れという無数の葛藤をつくり出し
たのだ。
幻想を放棄せずに、問題を追い払うことはできない。
『私は在る』(p221)
質問者 至高なるものはそれ自身を知っているのでしょうか? 非個人性は
意識をもっているのでしょうか?
マハラジ
すべての源はすべてをもっている。
源からあふれだすものは何であれ、すでにそこに種子の形として存在してい
るのだ。
そしてひとつの種子は無数の種子の究極的なものであり、それが経験を含み、
数かぎりない森林を約束しているように、未知もそうであったこと、そうあ
りえたこと、そうなるだろうこと、そうありうるだろうことのすべてを含ん
でいる。
何かに成るという可能性の全領域は完全に開かれ、到達可能であり、過去と
未来が永遠の現在のなかに共存しているのだ。
質問者 あなたは至高なる未知のなかに生きているのでしょうか?
マハラジ
それ以外、どこに住むことができるだろうか?
質問者 何があなたにそう言わせるのでしょうか?
マハラジ
どんな欲望もわたしのマインドのなかに湧いてはこないのだ。
質問者 それでは、あなたは無意識なのでしょうか?
マハラジ
もちろんそうではない。
わたしは完全に意識している。
だが、欲望も恐れもマインドのなかに入ってこないため、そこには完全な静
寂が在る。
質問者 誰がその静寂を知っているのでしょうか?
マハラジ
静寂がそれ自身を知っている。
それは熱情や欲望が静まったときの、沈黙したマインドの静寂なのだ。
質問者 あなたはときどき欲望を経験しますか?
マハラジ
欲望とはマインドのなかの波にすぎない。
それを見たとき、あなたは波だと知る。
欲望は数あるもののなかのひとつにすぎない。
私にそれを満たそうという衝動は起きない。
それに対して何もする必要はない。
欲望からの自由とは、それを満たさなければという強迫観念が不在だという
ことだ。
質問者 そもそも、なぜ欲望は湧いてくるのでしょうか?
マハラジ
なぜなら、あなたは生まれてきて、もしあなたが身体の面倒を見なければ死
んでしまうだろうと想像するからだ。
身体をもつ存在の欲望が心配の根本原因だ。
質問者 しかし、こんなにもたくさんの生命(ジーヴァ)が身体を得ている
のです。間違いなく、それは判断の誤りではありえないでしょう。
そこには目的があるはずです。いったい何でしょうか?
マハラジ
自己がそれ自身を知るためには
それと反対のもの、非自己と直面しなければ
ならない。
欲望は体験へと導く。
体験は識別、無執着、自己知識──解放へと導く。
そして解放とはいったい何だろうか?
それはあなたが生と死を超越したものだと知ることだ。
あなたが誰なのかを忘れ、自分が死を免れることのできない創造物だと想像
することで、あなたは悪夢から目覚めなければならないという困難を自分に
負わせてきた。
探求もまた、あなたの目を覚ます。
苦しみを待つまでもない。
幸福への探求のほうがずっといい。
なぜなら、マインドが平和と調和のなかにあるからだ。
質問者 究極の体験者とは誰なのでしょうか? 真我、あるいは未知なるも
のでしょうか?
マハラジ
もちろん、真我だ。
質問者 それでは、なぜ至高の未知なるものという概念をもちこんだのです
か?
マハラジ
真我を説明するためだ。
質問者 しかし、至高なるものを超える何かが存在するのでしょうか?
マハラジ
真我以外に存在するものはない。
すべてはひとつであり、すべては「私は在る」のなかに含まれる。
目覚めと夢見の状態において、それは個人だ。
深い眠りとトゥリーヤ(第四の状態)のなかで、それは真我だ。
トゥリーヤの醒(さ)めた忘我の彼方に、至高の大いなる静寂の平和がある。
だが、本質的にはすべてはひとつであり、現れと関わりをもっている。
無知のなかで「見る者」は「見られるもの」となり、智慧(ちえ)のなかで
は「見ること」になる。
だが、なぜ至高なるものにこだわるのか?
知る者を知りなさい。
そうすればすべては知られるだろう。
『私は在る』(p86-87)
意識それ自体としては、物質の微妙な片割れなのだ。
不活発性(タマス)とエネルギー(ラジャス)が物質の属性であるように、
調和(サットヴァ)は意識それ自体として現れる。
ある意味では、それを非常に神秘的なエネルギーの一形態として考えてもい
いだろう。
どこであれ、物質がそれ自体をひとつの堅固な有機体へと組織化するとき、
意識は自発的に現れる。
有機体の破壊にともなって、意識は消滅するのだ。
『私は在る』(p284)
魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。
『私は在る』(p103)
知識の範囲、深さ、性質は、あなたがどのような手段を使うかに依存すると
いうことは明らかだ。
あなたの手段を改善しなさい。
そうすれば、あなたの知識も改善されるだろう。
『私は在る』(p330).
ただ生命だけがある。
生命を生きる人は誰もいないのだ。
『私は在る』(p316)
生命ははじまりも終わりもしない。
不動でありながら、それは動き、一時的でありながら、それは継続していく。
数えきれないほどの画像が投影されたとしても、光が使い尽くされることは
ない。
生命もまたあらゆる形態をいっぱいに満たし、その形態が崩壊したとき、そ
の源に戻っていくのだ。
『私は在る』(p500)
この残酷な世界が誰にとって現れるのかを見いだしなさい。
そうすれば、なぜそのように残酷に現れるのかを知るだろう。
あなたの質問は完全に正当なものだ。
しかし、それが誰にとっての世界なのかをあなたが知るまでは、それに答え
ることはできないのだ。
あるものの意味を見いだしたいのなら、あなたはつくり出した人に尋ねなけ
ればならない。
だから言っているのだ。
あなたが住んでいるこの世界をつくり出した人はあなたなのだ。
あなただけがそれを変え、あるいはつくり変えることができるのだ。
『私は在る』(p398)
集合的な存在への愛から、人は生まれる。
そしてひとたび生まれたなら、人は運命に巻きこまれる。
運命とは、成ることから分離できないものだ。
特定のものに成ろうとする欲望が、個人的な過去や未来といったすべてを含
んだ個人にあなたを仕立てあげるのだ。
『私は在る』(p436)
生命への執着は不幸への執着だ。
私たちは私たちに苦痛を与えるものに執着するのだ。
私たちの本性とはそんなものなのだ。
『私は在る』(p436)
すべてをあきらめなさい。
そうすれば、あなたはすべてを得るだろう。
そのとき、人生はその目的通り、無尽蔵の源からの純粋な輝きとなる。
世界はその輝きのなかに、夢のようにぼんやりとかすんで現れるのだ。
『私は在る』(p276)
結局のところ、世界とは何だろう?
記憶の集合だ。
ひとつのことを固守しなさい。
それが大切なことだ。
「私は在る」をつかみ取りなさい。
そしてほかのすべてを手放しなさい。
これがサーダナ(修練)である。
『私は在る』(p111)
質問者 かつて、私は奇妙な体験をしました。私はなく、世界もなく、内側
も外側もただ光があるばかりでした。そして、そこには計り知れな
い平和がありました。それは4日間続き、それから私は日常の意識
に戻ったのです。今、私が知っていることはみな、建築中の建物を
覆い隠す単なる足場だと感じています。建築家、デザイン、計画、
目的については何も知りません。何かの活動が続いています。もの
ごとは起こっています。これが私に言えるすべてです。私とは何か
壊れやすく、短命なその足場なのです。建物が完成したとき、足場
は壊され取り除かれます。「私は在る」と「私は何か」が重要では
ないのです。なぜなら、ひとたび建物が完成されれば、「私」は当
然のこととして、答えるべき何の質問も残さずに消え去るからです。
マハラジ
あなたはそのすべてに気づいていないのだろうか?
それは気づきが不変の要因だという事実ではないのだろうか?
質問者 私の永遠性とアイデンティティの感覚は、はかなく、頼りにならな
い記憶によるものです。つい最近のことでさえ、ほんのわずかしか
覚えていないのです! 私は一生という期間を生きてきました。そ
して今、私に何が残されているというのでしょう? ひと束の出来
事、よくても短編の小説です。
マハラジ
このすべてがあなたの意識の内側で起こることなのだ。
質問者 内側で、そして外側で。日中は内側で、夜は外側で。意識はすべて
ではありません。その領域を超えたところで、とても多くのことが
起こっているのです。私が意識していないものは存在しない、と言
うことはまったくの誤りです。
マハラジ
あなたの言うことは論理的には正しい。
だが実際、あなたは意識のなかにあることしか知らないのだ。
意識的体験の外側に存在するとあなたが主張するものは、推測されたことだ。
質問者 推測されてものかもしれません。しかし、それは感覚よりも真実で
す。
マハラジ
気をつけなさい。
あなたは話しはじめると言語上の宇宙をつくり出すのだ。
言葉、概念、観念そして抽象の宇宙を。
相互に依存しあい、織り込まれ、もっとも素晴らしく生成され、互いに支持
しあい、説明しあってはいる。
それにも関わらず、それには本質も実体もない、単なるマインドの創造物な
のだ。
言葉は言葉をつくり出す。
実在は沈黙しているのだ。
質問者 あなたが話すとき、私は聞いています。それは事実なのではありま
せんか?
マハラジ
あなたが聞いているということは事実だ。
あなたが聞くことは──それではない。
事実は体験できる。
その意味においては、その言葉の音とそれが引き起こす精神的波紋は体験さ
れる。
それ以外の実体がその背後にあるわけではない。
その意味は記憶されるための、純粋に慣習的なものだ。
言語は繰り返し実践されなければ簡単に忘れ去られてしまうものだ。
質問者 もし言葉に何の実体もないのなら、いったいなぜ、私たちは話をす
るというのでしょうか?
マハラジ
言葉は個人間の相互伝達というかぎられた目的に使われている。
言葉は事実を伝えるわけではない。
それは信号を送るのだ。
ひとたびあなたが個人を超えれば、言葉は必要ない。
質問者 何が私を個人の彼方へと連れていくのでしょうか? どのようにし
て意識を超えるのでしょうか?
マハラジ
言葉や質問はマインドから起こり、あなたをそこにくいとめる。
マインドを超えていくには、沈黙し、静かにしなければならない。
平和と沈黙。
沈黙と平和。
これが彼方への道なのだ。
質問はやめなさい。
『私は在る』(p467-468)
あなたはマインドを超えている。
だが、あなたはマインドで知るのだ。
知識の範囲、深さ、性質は、あなたがどのような手段を使うかに依存すると
いうことは明らかだ。
あなたの手段を改善しなさい。
そうすれば、あなたの知識も改善されるだろう。
『私は在る』(p330)
起こることすべてはマインドのなかで、マインドにとって起こり、「私は在
る」の源に起こるのではない。
ひとたびすべてはひとりでに起こると悟るなら──それを運命、神の意志、
あるいは単なる偶然と呼ぶがいい──あなたはただ観照者としてとどまる。
理解し、楽しみ、しかし心乱されることのないままに。
『私は在る』(p469)
もちろん、宇宙の在るところには、その片割れである神もまた存在するだろ
う。
しかし、私はそのどちらも超えているのだ。
『私は在る』(p284)
至高なるものはすべてを可能にする。
それだけだ。
『私は在る』(p85)
光線がほこりの微少片にさえぎられないかぎり目に見えないように、至高な
るものもすべてを既知にしながら、それ自身は未知としてとどまるのだ。
『私は在る』(p85)
完全な鏡の本性とは、あなたには見ることはできないということだ。
何であれあなたが見ることができるものは、汚れであらざるをえない。
それに背を向け、捨て去りなさい。
『私は在る』(p144)
主観も客観もともに変化し、はかないものなのだ。
それらには何の実在性もない。
『私は在る』(p142)
実在は体験の根底(アーダール)そのものなのだ。
実在は体験の本質のなかにではなく、体験の事実のなかにある。
体験は、つまりマインドの状態なのだ。
一方、在ることは明らかにマインドの状態ではない。
『私は在る』(p124)
あなたにはあなた自身に関して正当な質問をすることはできないということ
を理解しなさい。
なぜなら、あなたは尋ねているその人を知らないからだ。
「私は誰か?」という質問のなかの「私」が知られていない。
そしてその質問は「私は『私』が何を意味するのか知らない」と言い表すこ
とができるのだ。
『私は在る』(p470)
質問者 どうすればそれが私にできるでしょうか? 世界があまりにも私を
邪魔するのです。
マハラジ
それは、世界に影響されるのに充分なほど、あなたが大きいと考えているか
らだ。
そうではない。
何ものもピンで留めることができないほど、あなたは小さいのだ。
捕らわれてしまうのはあなたのマインドであって、あなたではない。
次元と時間を超えた意識内の単なる点としての、あるがままのあなたを知り
なさい。
あなたは鉛筆の先の点のようなものだ。
あなたと接触するだけで、マインドは世界の絵を描き出す。
あなたは単一で単純だ。
絵は複雑で大規模なものだ。
絵に惑わされてはならない。
小さな点に気づきつづけなさい。
その点は絵のなかのどこにでもあるのだ。
在るものが在ることをやめることはできる。
ないものは存在のなかに現れることができる。
しかし、在ることもないこともなく、存在と非存在がともに依存するそれは、
否定することのできないものだ。
あなた自身を、欲望と恐れの原因であり、しかもその両方から自由であるも
のだと知りなさい。
質問者 どうして私が恐れの原因だというのでしょうか?
マハラジ
すべてはあなたにかかっている。
世界はあなたの承諾によって存在しているのだ。
世界の実在性に対するあなたの確信を取り消しなさい。
そうすればそれは夢のように消え去るだろう。
時間は山でさえも崩し去る。
時間を超えた時間の源であるあなたなら、なおさらのことだ。
なぜなら、記憶と期待なしに時間はありえないからだ。
質問者 「私は在る」は究極のものなのでしょうか?
マハラジ
あなたが「私は在る」と言う前に、それを言うあなたがいなければならない。
存在が自意識である必要はない。
在るために知る必要はない。
だが、知るためにはあなたが存在しなければならないのだ。
質問者 私は言葉の海に溺(おぼ)れそうです。どのように言葉を組み合わ
せるかにすべてがかかっていることが私には理解できます。しかし、
そこにはそれらを注意深くまとめる誰かがいなければなりません。
言葉をでたらめに集めるだけでは、『ラーマーヤナ』『マハーバー
ラタ』『バーガヴァタ』はけっして生まれなかったでしょう。突然
変異の論理は、ここでは理にかないません。意味あるものの源は、
それを超えたものでなければならないのです。混沌から秩序を創造
する力は何なのでしょうか? 生きることは存在すること以上のも
のです。そして意識は生きること以上のものです。誰が意識的に生
きる存在なのでしょうか?
マハラジ
あなたの質問自体がその回答を孕(はら)んでいる。
意識的に生きる存在は意識的に生きる存在だ。
言葉はもっとも適切なものだ。
だが、あなたはその完全な重要性を把握していないのだ。
存在すること、生きること、意識、それらの言葉の意味のなかへ深く入って
いきなさい。
そうすればあなたは、質問をしながら答えを取り逃がすという輪のなかを走
りつづけることをやめるだろう。
あなたにはあなた自身に関しての正当な質問をすることはできないというこ
とを理解しなさい。
なぜなら、あなたは尋ねているその人を知らないからだ。
「私は誰か?」という質問のなかの「私」が知られていない。
そしてその質問は「私は『私』が何を意味するのか知らない」と言い表すこ
とができるのだ。
あなたであるものを、あなたは見いださなければならない。
私にはあなたが何ではないかを言うことができるだけだ。
あなたは世界に属するのではない。
あなたは世界のなかにいるのでさえない。
世界は存在しない。
あなただけが在るのだ。
あなたは想像のなかで世界を夢のように創造している。
あなたがあなた自身を夢から分離できないように、あなた自身から独立した
外側の世界を持つこともできないのだ。
独立しているのは、世界ではなくあなただ。
あなた自身が創造した世界を恐れてはならない。
幸福と実在を夢のなかに探そうとするのはやめなさい。
そうすればあなたは目覚めるだろう。
すべての「なぜ」や「どうして」を知る必要はない。
質問には終わりがないのだ。
すべての欲望を放棄しなさい。
マインドの沈黙を保ちなさい。
そうすればあなたは発見するだろう。
欲望と恐れは捨て置き、欲望と恐れの背後にある主体に注意を向けなさい。
「誰が望んでいるのか?」と問いただしなさい。
欲望が起こるたびに、あなた自身へ注意を戻しなさい。
『私は在る』(p161)
私たちは多様性を、苦痛と快楽の劇を愛している。
私たちは対比によって魅せられているのだ。
このために対立するものと、それらの表面上の分裂を必要としている。
しばらくの間それらを楽しみ、それから退屈して、純粋な存在の平和と沈黙
を切望するのだ。
『私は在る』(p434)
質問者 私はスウェーデンで生まれました。現在はメキシコとアメリカでヨ
ーガを教えています。
マハラジ
どこで学んだのかね?
質問者 アメリカに住むインドの聖者(スワミ)からです。
マハラジ
それはあなたに何を与えたのだろうか?
質問者 健康と生活の糧(かて)です。
マハラジ
それはいいことだ。
それがあなたの求めるすべてだろうか?
質問者 私が求めているのはマインドの平和です。キリストの名のもとに、
いわゆるキリスト教徒がしてきた残酷なことのすべてに嫌気(いや
け)がさしてしまったのです。ある期間、私は宗教なしで過ごしま
した。それからヨーガに魅せられたのです。
マハラジ
あなたが得たものは何だろうか?
質問者 ヨーガの哲学を学んだことが助けになりました。
マハラジ
どのような形でそれがあなたを助けたのかね?
何をもってあなたは助けられたと結論を出すのだろうか?
質問者 健康はその明白なしるしです。
マハラジ
健康であることは、疑いなく喜ばしいことだ。
その喜びはあなたがヨーガから求めたすべてだろうか?
質問者 健康による喜びはハタ・ヨーガからの報酬です。しかし、概してヨ
ーガはそれ以上をもたらします。
マハラジ
ヨーガということで、あなたは何を意味しているのだろう?
質問者 進化、輪廻(りんね)、カルマ等々、といったインドの教えの全体
です。
マハラジ
よろしい。
あなたは求めていたすべての知識を得た。
だが、それによってどのような恩恵を得たのだろう?
質問者 それは私にマインドの平和をくれました。
マハラジ
そうだろうか?
あなたのマインドは平和だろうか?
あなたの探求は終わったのかね?
質問者 いいえ、まだです。
マハラジ
そのとおりだ。
それに終わりは来ないだろう。
なぜなら、マインドの平和というものは存在しないからだ。
マインドとは不安、落ち着きのなさそのものなのだ。
ヨーガとはマインドの属性ではなく、マインドの状態でもない。
質問者 ある程度の平和はヨーガから引き出せたと思います。
マハラジ
綿密に調べてみなさい。
そうすればマインドは騒然としていることがわかるだろう。
それはときおり空白状態になるかもしれないが、それもひとときのことで、
またいつもの落ち着きのなさに戻る。
静かにさせられたマインドというのは平和なマインドではないのだ。
あなたはマインドをなだめたいと言うが、マインドをなだめたいその人自身
は平和なのだろうか?
質問者 いいえ。私は平和ではありません。私はヨーガの助けを借りている
のです。
マハラジ
あなたはそこに矛盾を見ないだろうか?
もう何年もの間、あなたはマインドの平和を探してきた。
それなのにあなたは見つけられなかった。
本質的に落ち着きのないものを、平和にさせることはできないからだ。
質問者 ある程度の改善はあります。
マハラジ
あなたが見いだしたという平和はとてももろいものだ。
ちょっとしたことでそれは砕かれてしまうだろう。
あなたの言う平和はただの不安の不在だ。
それに本当の価値はない。
真の平安は乱されることのないものだ。
けっして揺らぐことのないマインドの平安が私にはある、とあなたに言える
だろうか?
質問者 私は努力しています。
マハラジ
努力もまた不安の一形態だ。
質問者 では何が残されているのでしょうか?
マハラジ
自己を安心させる必要はない。
自己とは平和そのものであり、安らいでいるのではない。
ただマインドにだけ落ち着きがないのだ。
マインドが知っているのは、数多くの気分と異なった程度の落ち着きのなさ
だ。
心地よさが優れ、苦痛は劣っていると考えられる。
私たちが進歩と呼ぶものは、ただ不快から快適への変化にすぎない。
しかし、変化そのものが不変へと私たちを導くことはできない。
なぜなら、何であれはじまりがあることには終わりがあるからだ。
実在にははじまりはない。
ただ、それ自身をはじまりなく終わりなく、遍在し、万能で、不動のなかの
発動力であり、永遠に不変なるものとして顕現するのだ。
『私は在る』(p158-160)
あなたがあなたを含むすべての証明なのだということを、まず悟るべきだ。
あなたの存在を証明できるものは何もないのだ。
なぜなら、他者の存在もあなたによって確認されなければならないからだ。
あなたは完全に、あなた自身によって在るのだということを覚えておきなさ
い。
『私は在る』(p178)
あなたは世界に属するのではない。
あなたは世界のなかにいるのでさえない。
世界は存在しない。
あなただけが在るのだ。
あなたは想像のなかで世界を夢のように創造している。
あなたがあなた自身を夢から分離できないように、あなた自身から独立した
外側の世界をもつこともできないのだ。
独立しているのは、世界ではなくあなただ。
『私は在る』(p471)
あなたの存在を証明できるものは何もないのだ。
なぜなら、他者の存在もあなたによって確認されなければならないからだ。
あなたは完全に、あなた自身によって在るのだということを覚えておきなさ
い。
あなたはどこからも来なかったし、どこへも行かない。
あなたは時間を超えた存在、そして気づきなのだ。
『私は在る』(p178)
世界はあなたがそれに与えるだけの力しか、あなたに対して持ってはいない
のだ。
『私は在る』(p370)
すべてはあなたにかかっている。
世界はあなたの承諾によって存在しているのだ。
世界の実在性に対するあなたの確信を取り消しなさい。
そうすればそれは夢のように消え去るだろう。
時間は山でさえも消し去る。
時間を超えた時間の源であるあなたなら、なおさらのことだ。
なぜなら、記憶と期待なしに時間はありえないからだ。
『私は在る』(p470)
宇宙を創造した欲望はあなたのものだ。
世界はあなた自身の創造だと知り、自由になりなさい。
『私は在る』(p398)
創造の目的自体が欲望を満たすことなのだ。
欲望は高尚なものかも、卑しいものかもしれない。
空間(アーカーシュ)は中立的なものだ
人はそれを何でも好きなように満たすことができる。
何を望むのか、人はとても注意しなければならない。
『私は在る』(p105)
あるものの意味を見いだしたいのなら、あなたはつくり出した人に尋ねなけ
ればならない。
だから言っているのだ。
あなたが住んでいるこの世界をつくり出した人はあなたなのだ。
あなただけがそれを変え、あるいはつくり変えることができるのだ。
『私は在る』(p398)
世界は無数の輪(リング)でできている。
それに引っかける鉤(フック)はみなあなたのものだ。
あなたの鉤をまっすぐにしなさい。
そうすれば何もあなたを捕らえることはできないだろう。
あなたの耽溺を放棄しなさい。
ほかに何も放棄するものはない。
常習的な利欲心、結果を探し求める習慣を止めなさい。
そうすれば自由の世界はあなたのものだ。
『私は在る』(p259)
世界を知ることで、あなたは自己を忘れ、自己を知ることで、あなたは世界
を忘れるのだ。
結局のところ、世界とは何だろう?
記憶の集合だ。
ひとつのことを固守しなさい。
それが大切なことだ。
「私は在る」をつかみ取りなさい。
そしてほかのすべてを手放しなさい。
これがサーダナ(修練)である。
『私は在る』(p111)
真実への欲望は最高の欲望だ。
だが、それはいまだに欲望であることに変わりはない。
真実が在るためには、すべての欲望が放棄されなければならないのだ。
あなたは在る、ということを覚えていなさい。
これがあなたの仕事の資本だ。
その資本を回転させなさい。
そうすれば多大な利益を生むだろう。
『私は在る』(p214)
「私は在る」は世界のなかにある。
しかし、それは世界の外に出るための扉を開く鍵なのだ。
水面に踊る月は、水のなかに見られる。
だが、それは水によってではなく、空の月によって生じたのだ。
『私は在る』(p217)
質問者 そのような欲望をあきらめるには、時間が必要ではありませんか?
マハラジ
もしあなたが時間にまかせるならば、何百万年もが必要になろう。
欲望をひとつひとつあきらめていくことは、果てしない過程となる。
欲望と恐れは捨て置き、欲望と恐れの背後にある主体に注意を向けなさい。
「誰が望んでいるのか?」と問いただしなさい。
欲望が起こるたびに、あなた自身へ注意を戻しなさい。
質問者 欲望と恐れの根は同じ、幸福への切望です。
マハラジ
あなたが望む幸福はただの身体的、あるいは精神的満足にすぎない。
そのような感覚的、あるいは精神的快楽は真の、絶対の幸福ではない。
質問者 たとえ身体的、精神的健康とともに現れる感覚的、精神的快楽であ
っても、それらはその根を実在のなかにもっているはずです。
マハラジ
それらはその根を想像のなかにもっているのだ。
石をもらい、それが非常に貴重なダイヤモンドだと確信させられた人は、そ
れが間違いだったと悟るまではひどく喜ぶことだろう。
同様に、真我が知られたとき、快楽はその味を失い、苦痛はその刺を失う。
どちらもあるがままに、条件づけの感応、ただの反応、好感と反感、記憶と
先入観に基づいたものとして見られるのだ。
普通、快楽と苦痛は期待されたとき体験するものだ。
それはすべて習得された習慣と確信の問題だ。
質問者 なるほど、快楽は想像上のものかもしれません。しかし苦痛は現実
です。
マハラジ
苦痛と快楽はともに手を携えていくものだ。
一方からの自由はその両方からの自由を意味する。
もし快楽を気にかけなければ、苦痛を恐れることはないだろう。
だが、そのどちらでもなく、両方を完全に超えている幸福がある。
あなたの知っている幸福は、表現可能で予測できる、言ってみれば客観的な
ものだ。
しかし、客観的なものは、あなたのものではありえない。
外的なものと自己を同一視することは悲惨な過ちだ。
異なったレベルのものを混同しても、どこにも到達しない。
実在は主観、客観を超え、すべてのレベル、あらゆる区別を超えている。
もっとも明確なことは、実在は苦痛と快楽の源泉でも、原因でも、根源でも
ないということだ。
それらは存在と非存在を超えた表現不可能な実在そのものからではなく、実
在についての無知からやってくるのだ。
質問者 たくさんの師にしたがい、多くの教義を学びましたが、何ひとつ私
の望んだものを与えてくれたものはありませんでした。
マハラジ
もしあなたが何もほかのものを求めなければ、自己を見いだすという欲望は
かならず満たされるだろう。
しかし、あなたは自分に正直でなければならず、本当にほかに何も求めては
ならないのだ。
もしあなたがほかに多くのものごとを求め、それらの追求に関わっていたな
ら、あなたがより懸命になり、矛盾した衝動に引き裂かれることをやめるま
で、本来の目的は先延ばしにされるだろう。
内側に入っていきなさい。
けっしてそれることなく、けっして外側を見ることなく。
質問者 しかし、それでも私の欲望と恐れは依然そこにあるのです。
マハラジ
それらはあなたの記憶以外のどこにあろう?
それらの根は記憶から生じた期待のなかにあるのだと悟りなさい。
そうすれば、それらがあなたにつきまとうことはないだろう。
質問者 社会奉仕はきりのない仕事なのだと、よくよく理解しました。なぜ
なら改善と堕落、進展と退行が肩を並べていくからです。私たちに
はそれがあらゆる段階のすべての面にあることがわかります。だと
すれば、最後に残るのは何なのでしょうか?
マハラジ
何であれ、あなたが着手した仕事を完成させなさい。
状況が明らかに苦しみと苦しみからの救済を求めるかぎりは、新しい仕事に
手を着けてはならない。
まずあなた自身を見いだしなさい。
そうすれば、かぎりない祝福が続くだろう。
利益を放棄することほど世界に利益をもたらすことはない。
もはや損得でものごとを考えない人は、真に非暴力的な人だ。
なぜなら、彼はすべての葛藤(かっとう)を超えているからだ。
『私は在る』(p161-163)
(ここに到達したのは)私のグル(師)を信頼することによってだ。
彼は私に、「あなただけが存在する」と言った。
そして私は疑わなかったのだ。
私はただ、あるときそれが絶対の真理だと悟るまで頭を悩ませていただけだ。
知られるもの、知ること、知る者という三位のなかでは、知ることだけが事
実だ。
気づきは根本的なものだ。
それは根元的状態であり、はじまりがなく、終わりもない。
原因がなく、支えがなく、部分も、変化もない。
意識は表層の反映と関連しており、二元的な状態だ。
気づきなしに意識は在りえない。
しかし深い眠りのように、意識がなくても気づきは存在しうる。
気づきは絶対的だ。
意識はつねに何かに属し、その内容との相関関係にある。
意識は部分的であり、変化するもの。
気づきは完全で、不変であり、静かで沈黙の内にある。
そして、それはあらゆる経験の共通の母体なのだ。(p49-50)
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。(p421)
世界は存在しない。
あなただけが在るのだ。......
独立しているのは、世界ではなくあなただ。(p471)
意識のレベルで快楽や苦痛と闘うことはできないのだ。
それらを超えていくには、意識を超えなければならない。(p400)
起こることすべてはマインドのなかで、マインドにとって起こり、「私は在
る」の源に起こるのではない。(p469)
マハラジ
行為を避けることはできない。
それはほかのすべてのように起こるのだ。
質問者 もちろん、私の行為は私がコントロールできます。
マハラジ
試してみるがいい。
しなければならないことをするのだということを、あなたはすぐに理解する
だろう。
『私は在る』(p373)
あるがままのあなたとして在ること、それ以外は何も必要ないのだ。
あなたは獲得することによって、あなたの価値が増加すると想像している。
それは金が銅を加えることで、それを改善するだろうと想像しているような
ものだ。
あなたの本質にとって異質なすべてのものを除去し、浄化し、放棄すること
で充分だ。
それ以外のすべては無駄なのだ。
『私は在る』(p339)
何であれ、あなたが欲望と恐れとともに考えることは、現実となってあなた
の前に現れる。
それを欲望と恐れなしに見なさい。
そうすればそれは実体を失う。
快楽と苦痛はつかの間のものだ。
そのために行動を起こすよりも、無視する方が単純でたやすいのだ。
『私は在る』(p361)
質問者 そうです。私はつねにアヒンサー(非暴力)の考えに魅了されてき
ました。
マハラジ
本来、アヒンサーは「傷つけてはならない」という意味だ。
善を行うことがはじめに来るのではなく、傷つけるのをやめ、苦しみを加え
ないということなのだ。
他者を喜ばせることがアヒンサーなのではない。
質問者 私は喜ばせることを話していたわけではありません。他者を助ける
ことを思っているのです。
マハラジ
与える価値のある唯一の助けとは、さらなる助けの必要性からの自由にある。
繰り返される援助は、まったく助けになっていない。
他者が援助の必要性を超える地点にあなたが連れていくまでは、他者を助け
る話はしない方がいい。
質問者 どのようにして援助の必要性を超えるのでしょうか? そして人は
他者がそうするのを助けることができるのでしょうか?
マハラジ
すべての存在は分離と限界のなかにあり、苦痛に満ちていると理解したとき、
そして、あなたが純粋な存在として、すべての生命と「ひとつであること」
のなかに完成されて生きようとする意志をもったとき、あなたはすべての助
けの必要性を超えたのだ。
あなたは規範と実例によって、とりわけあなたの存在によって、他者を助け
ることができる。
あなたがもっていないものを与えることはできないし、あなたは、あなたで
ないものはもっていないのだ。
あなたであるものしか与えることはできない。
そしてそれは、あなたがかぎりなく与えられるものなのだ。
質問者 しかし、すべての存在は苦痛に満ちているというのは本当でしょう
か?
マハラジ
この世界的な快楽の探求の原因が、何かほかにあるだろうか?
幸せな人が幸せを探すだろうか?
なんと人びとは落ち着かないのだろう!
なんとつねに動きまわっているのだろうか!
彼らは苦痛のなかにいるから快楽のなかに解放を探しているのだ。
彼らが想像できうる幸福のすべてとは、繰り返される快楽の保証なのだ。
質問者 もし私が自分自身と見なしている個人が幸福になれないのなら、ど
うすればいいのでしょうか?
マハラジ
現在のあなたとしての在り方をやめるだけだ。
私の言うことは何も残酷なことではない。
悪夢から人を目覚めさすことは慈悲だ。
あなたは苦痛で苦しんでいるために、ここに来たのだ。
そして、私が言えることは、「目覚めなさい。あなた自身を知りなさい。あ
なた自身で在りなさい」ということだけだ。
苦痛の終焉(しゅうえん)は、快楽のなかにはない。
あなたが自分を苦痛も快楽も超えたものだと、超然として屈することなく気
づくとき、幸福を追求することはやみ、結果として悲しみも消え去る。
なぜなら、苦痛は快楽の後を追い、快楽は容赦なく苦痛に終わるからだ。
質問者 究極の状態では、幸福もありえないのでしょうか?
マハラジ
不幸もまたありえない。
ただ自由だけがある。
幸福は何かに依存し、やがて消え去る。
すべてからの自由は何にも依存せず、失われることはない。
不幸からの自由には原因がなく、それゆえ破壊されない。
その自由を実現しなさい。
質問者 私は過去の結果として苦しむために生まれたのではないでしょうか?
自由を得ることは本当に可能なのでしょうか? 私は自分の意志で
生まれたのでしょうか? 私はただの創造物なのではないでしょう
か?
マハラジ
誕生と死は、意識内の一連の出来事のはじまりと終わりにすぎない。
分離と限界という観念のために、それらは苦痛となるのだ。
苦痛からの一時的な解放を、私たちは快楽と呼ぶ。
そして、いわゆる幸福と呼ばれる終わりなき快楽を期待して、私たちは空中
に城を築くのだ。
それはみな誤解であり、誤用だ。
目を覚ましなさい。
それらを超えていきなさい。
真に生きはじめなさい。
質問者 私の知識はかぎられ、力は取るに足らないのです。
マハラジ
自己は知識と力の両方の源であり、またそれらを超えている。
観察可能なものはマインドのなかにある。
自己の本性は純粋な気づき、純粋な観照であり、知識の存在や不在に影響さ
れることはない。
この身体の誕生と死の外に、あなたの存在を置きなさい。
そうすれば、あなたの問題は解決するだろう。
それらの問題が存在するのは、あなたは死ぬために生まれてきたと信じてい
るからだ。
迷いから覚め、自由になりなさい。
あなたは個人ではないのだ。
『私は在る』(p163-165)
「私が働いている」という感覚が邪魔者である。
あなた自身に「誰が働いているのか」と尋ねなさい。
起こるべく定められていることは、起こるだろう。
あなたが仕事を離れるべく定められているのであれば、
仕事はいくら探しても見つからないだろう。
反対に、あなたが仕事を続けるべく定められてあれば、
それを避けることはできないだろう。
あなたはその仕事を続ける以外にはない。
それゆえに、より高い力にそのことを任せなさい。
あなたの思いのままに放棄したり続けたりすることはできない。
『静寂の瞬間』(p18)
質問者 あなたは揺らぐことのない至福について語っていますが、それにつ
いて語るとき、何をあなたは想っているのでしょうか?
マハラジ
私のマインドのなかには何もない。
あなたが言葉を聞くように、私もそれらを聞くのだ。
すべてを起こらせる力が、それをも起こらせるのだ。
質問者 しかし、話しているのは、私ではなくあなたです。
マハラジ
それはあなたにとってそう見えるのだ。
私が見るには、二つの「身体─精神」が象徴的な雑音を交換しているだけだ。
実際には、何も起こっていない。
『私は在る』(p456)
過去において満たされなかった欲望がエネルギーをふさぎ止め、それが個人
として現れる。
その蓄積されたエネルギーが使い果たされたとき、個人は死ぬのだ。
満たされなかった欲望は次の誕生のなかへと運ばれていく。
身体との自己同一化は常に新しい欲望をつくりつづけ、その束縛の構造が明
確に理解されるまで、それに終わりはないのだ。
解放をもたらすのは明晰性だ。
なぜなら、その原因と結果が明確に理解されるまで、欲望を放棄することは
できないからだ。
それは死ぬ。
そして永遠に死ぬのだ。
だが、その記憶は残る。
そしてそれらの欲望と恐れも。
それらが新しい個人にエネルギーを供給するのだ。
実在は、それにはまったく関わらない。
だが、それに光を与えることでそれを可能にするのだ。
『私は在る』(p399)
普通、自己主張が誤りであり、自己否定が正しいのだ。
ただ否定によってのみ、人は生きることができるのだ。
自己主張は束縛だ。
疑うことと否定することがなくてはならない。
それは反抗の本質だ。
そして反抗することなしに解放はありえないのだ。
『私は在る』(p536)
無知な人は自分自身を自我と同一視し、
真我の為すことを、
自我が為していると見なしてしまう。
ジュニャーニの自我は消え去っている。
彼は自分をこの身体やあの身体、
この出来事やあの出来事に限定しない。
ジュニャーニはあらゆる行為が彼の
まわりに起こり続けようとも、
存在の真の状態が不動であることに
完全に気づいている。
彼の本性は変わることなく、
その境地はまったく何の影響も受けない。
すべてを超然と見守りながら、
彼自身は至福のうちにとどまるのである。
『静寂の瞬間』(p71)
努力をしようと休もうと
得るものも失うものもない
質問者 弟子がグルに多くの害を与えることは、私たちが繰り返し体験して
きたことです。彼らは師の要望を考えることなく計画を立て、それ
を実行に移します。最終的に、グルにとっては果てしのない心配が
残り、彼の弟子には苦渋が残るだけです。
マハラジ
そうだ。
それは起こる。
質問者 誰がそういった屈辱をグルに感受させるよう強(し)いるのでしょ
うか?
マハラジ
グルは基本的に欲望をもたない。
彼は選択をせず、決定もしない。
純粋な観照者として起こっていることを見守り、感化されないままなのだ。
質問者 しかし、彼の仕事は損害をこうむるでしょう。
マハラジ
勝利はつねに彼のものだ──最終的には。
グルは、もし弟子がグルの言葉から学ばなければ、自分たちの過ちから学ぶ
だろうということを知っているのだ。
内面的には、彼は静かに沈黙している。
彼には分離した個人という感覚がない。
彼の弟子と彼らの取るに足らない計画も含めた、宇宙全体が彼のものなのだ。
何ひとつ特定のものが彼に影響を与えることはない。
あるいは同じことで、宇宙全体が同じ度合いで彼に影響を与えるのだ。
質問者 グルの恩寵(おんちょう)というものはないのでしょうか?
マハラジ
彼の恩寵は絶えることなく遍在している。
それはひとりに与えられ、ほかを拒むようなものではないのだ。
質問者 どのようにそれは、個人的に私に影響を与えるのでしょうか?
マハラジ
あなたのマインドが真理の探究に従事しているのも、グルの恩寵によるもの
なのだ。
そして、グルの恩寵によってあなたは真理を見いだすのだ。
それはあなたの究極の目標に向かって意図することなく働いている。
そして、それはすべての人にとってそうなのだ。
質問者 ある弟子たちは用意ができ、成熟しています。そしてある弟子たち
はそうではありません。グルは選択をし、決定をするのではないで
しょうか?
マハラジ
グルは究極なるものを知っている。
そして、それに向けて弟子を容赦なく駆りたてる。
弟子は自分自身で超えなければならない障害物でいっぱいなのだ。
グルは弟子の表面的な人生にはそれほど関心をもたない。
それは重力のようなものだ。
果実はもうこれ以上もちこたえられないとき、落ちなければならないのだ。
質問者 もし弟子が目的地を知らなければ、どうやって彼に障害を見極める
ことができるのでしょうか?
マハラジ
目的地はグルによって示される。
障害は弟子によって発見されるのだ。
グルに選り好みはない。
だが、克服しなければならない障害をもつ者たちは、遅れをとるように見え
るのだ。
実際には、弟子はグルと異ならない。
彼は行為における愛と知覚の、同じ無限の中心なのだ。
彼の想像と想像したものとの自己同一化が、彼を包み込み、個人に変えてし
まうだけだ。
師は個人には関心がない。
彼の注意は内面の見守る者に合わせられている。
理解をし、それによって個人を消し去るのは見守る者の仕事なのだ。
一方では恩寵があり、もう一方では修練への献身がなければならない。
質問者 しかし、個人は除去されたくないのです。
マハラジ
個人とは単なる誤解の結果だ。
実際には、そのようなものはないのだ。
果てしない連続性のなかで、感情、思考、行為が脳のなかに痕跡(こんせき)
を残し、継続性という幻想をつくりながら、見守る者の前を駆け抜けていく。
マインドのなかで、見守る者の反映が「私」という感覚をつくり出し、個人
は一見独立したように見える存在を獲得するのだ。
実際には、個人というものは存在しない。
ただ見守る者が「私」と「私のもの」に自己同一化するだけだ。
師は見守る者に言う。
「あなたはこれではない。このなかには、見守る者と彼の夢を橋渡しする
『私は在る』という小さな点以外、あなたのものは何ひとつないのだ」と。
「私はこれだ、私はあれだ」は夢なのだ。
一方、純粋な「私は在る」には実在の特質がある。
あなたは今まで本当にたくさんのことを味わってきた──だが、すべては無
に帰したのだ。
ただ、「私は在る」だけが変わることなく存続している。
あなたが彼方へと超えていけるようになるまで、変化の絶えないもののなか
で、不変なるものとともにとどまりなさい。
『私は在る』(p359-360)
あなたが行為をしているというのだろうか?
ある未知なる力が行為をし、あなたはあなたが行為をしていると想像するの
だ。
いかなる形であっても、影響を与えることのできないまま、あなたは単に起
こることを見ているだけなのだ。
『私は在る』(p256)
宇宙は行為であふれている。
だが、そこに行為する者はいないのだ。
そこには自己同一化によって行為していると想像している無数の小さな、そ
して大きな、そしてとても大きな個人たちがいる。
だが、それが行為の世界(マハーダカーシュ)はすべてに依存し、すべてに
影響する単一の統一体だという事実を変えることはない。
星たちは私たちに深く影響を与え、私たちも星たちに影響を与える。
行為から意識へと一歩退き、行為は身体とマインドにまかせなさい。
行為はそれらの領域なのだ。
観照者さえも至高なるもののなかに消え去るまで、純粋な観照者としてとど
まりなさい。
『私は在る』(p418)
ものごとがどのように形を取るかは、あなたの手中にはない。
行為の動機はあなたにかかっているのだ。
『私は在る』(p438)
あなたに変えられることは、あなたの態度だけだ。
そこにあなたの責任があるのだ。
『私は在る』(p469)
あなたが求めているのは、あなたであるものを行為のなかで表現することな
のだ。(※此処でいわれているあなたとは見守るもの・観照者のことである)
このためにあなたは身体とマインドを持っているのだ。
それらを手にし、あなたに仕えさせなさい。
『私は在る』(p230)
質問者 それはいつ起こるのでしょうか?
マハラジ
それはあなたが障害を取り去ったとたんに起こるのだ。
質問者 どの障害でしょう?
マハラジ
偽りへの欲望と真実への恐れだ。
個人としてのあなたは、グルが個人としてのあなたに興味を持っていると想
像している。
まったくそうではない。
彼にとって、あなたは排除すべき厄介な障害だ。
彼は実際に、意識のなかの要因であるあなたを排除することを目指している
のだ。
質問者 もし私が排除されたなら、何が残るのでしょうか?
マハラジ
何も残らない。
あるいはすべてが残るのだ。
アイデンティティの感覚は残る。
だが、特定の身体との同一化はもはやなくなる。
存在─気づき─愛が最高度に輝きだすだろう。
解放とは、けっして個人が解放を得ることではなく、個人という実体から解
放されることなのだ。
質問者 そして、個人の痕跡は何も残らないのでしょうか?
マハラジ
夢や子ども時代の記憶のような、漠然とした記憶は残る。
結局、覚えておくような何がそこにあるというのだろうか?
たいてい偶然の、そして無意味な一連の出来事でしかない。
欲望と恐れの連鎖と、愚かな失敗だ。
覚えておくような何かがそこにあるだろうか?
個人とは、あなたを監禁する殻(から)でしかないのだ。
殻を破りなさい。
質問者 殻を破るよう誰に頼めばいいのでしょうか? 誰が殻を破るのでし
ょうか?
マハラジ
記憶と自己同一化の拘束を破りなさい。
そうすれば、殻はひとりでに破れるだろう。
そこには、何であれそれが知覚するものに実在性を分け与える中心がある。
あなたが理解すべきことは、あなたは実在の源であり、実在を得るのではな
く、あなたが実在を与えるということだけだ。
あなたには何の支持も確証も必要ないのだ。
ものごとはそのままだ。
なぜなら、あなたがそれをそれとして受け入れるからだ。
受け入れるのをやめなさい。
そうすればそれは消え去る。
何であれ、あなたが欲望と恐れとともに考えることは、現実となってあなた
の前に現れる。
それを欲望と恐れなしに見なさい。
そうすればそれは実体を失う。
快楽と苦痛はつかの間のものだ。
そのために行動を起こすよりも、無視する方が単純でたやすいのだ。
質問者 もしすべてのものごとに終わりが来るならば、いったい、どうして
はじめからそれらは現れるのでしょうか?
マハラジ
創造は意識の本性そのものなのだ。
意識が現れを起こす原因なのだ。
実在は意識を超えた彼方にある。
質問者 私たちが現れを意識している間、どうして私たちは、それらがただ
の現れにすぎないと意識しないのでしょうか?
マハラジ
マインドはそれとは知らないうちに、実在を覆い隠してしまう。
マインドの本性を知るには、沈黙と冷静な気づきのなかでマインドを見る能
力である知性が必要なのだ。
質問者 もし私がすべてに遍在する意識の本質であるなら、どうして私に無
知と幻想が起こったのでしょうか?
マハラジ
無知も幻想も、けっしてあなたには起こらなかったのだ。
あなたが無知と幻想をもつと見なす、その自己を見いだしなさい。
そうすればあなたの質問は答えられるだろう。
あなたはあたかも自己を知っているかのように話し、それが無知と幻想に揺
り動かされているかのように見ている。
だが実際には、あなたは自己を知らず、己の無知にも気づいていないのだ。
気づきなさい。
これがあなたを自己へと連れていくだろう。
そうすればあなたは無知も妄想もなかったことを認識するだろう。
それは、「光あるところ、いかにして闇あらん」という格言のようなものだ。
どんなに日の光が強くとも、石の下には影ができるように、「私は身体だ」
という意識の影のなかには、無知と幻想がかならず現れるのだ。
『私は在る』(p360-362)
理解しようとしてはならない
誤解しなければそれで充分だ。
解放を得るためにマインドに頼ってはいけない。
あなたを束縛へと追いやったのはマインドなのだ。
それをすべて超えていきなさい。
はじまりのないものに原因はありえない。
あなたは、あなたが何であるかを知っていて、それから忘れてしまったわけ
ではない。
ひとたび知れば、あなたは忘れることはできない。
無知にははじまりがない。
しかし、終わりはある。
誰が無知なのか、と探求しなさい。
そうすれば、無知は夢のように溶け去る。
世界は矛盾でいっぱいだ。
それゆえ、あなたは調和と平和を探しているのだ。
それらを世界のなかに見いだすことはできない。
世界とは混沌(こんとん)の子供だからだ。
秩序を見いだすためには、あなたは内面を探求しなければならない。
あなたが身体の中に生まれて、はじめて世界は存在を表す。
身体がなければ、世界はない。
まずあなたが身体なのかどうか、探求しなさい。
世界を理解することは、後にそれにしたがってやってくるだろう。
『私は在る』(p224)
はじまりあるものは終わらなければならない。
はじまりのないものだけが無窮(むきゅう)なのだ。
『私は在る』(p195)
生まれたものは死なねばならない。
生まれなかったものは死ぬことはできないのだ。
『私は在る』(p289)
はじまり、そして終わるもの、それはただの現れにすぎない。
世界は現れるとは言えても、存在するとは言えない。
その現れは、ある時間の比率においては非常に長い間続くだろうが、ほかの
比率では非常に短いかもしれない。
だが、結局は同じことだ。
何であれ時間の範囲内にあるものは、はかなく実在性がない。
『私は在る』(p37)
世界とはマインドの表面だ。
そしてマインドは無限なのだ。
私たちが想念と呼ぶものは、マインドのなかのさざ波にすぎない。
マインドが静かなとき、それは実在を反映する。
マインドが徹底的に不動であるとき、それは消え去り、ただ実在だけが残る
のだ。
この実在は非常に堅固であり、現実であり、マインドや物質よりも実質的な
ものだ。
それに比べればダイヤモンドさえもバターのように柔らかい。
この圧倒的な実在の現実性が、世界を夢のように霧のかかった無意味なもの
にするのだ。
『私は在る』(p503)
苦痛と快楽は起こる。
だが、苦痛は快楽の値段であり、快楽は苦痛の報酬なのだ。
『私は在る』(p182)
人生のなかでも、しばしばあなたは傷つけることで喜び、喜ばすことによっ
て傷ついている。
『私は在る』(p182)
苦痛と快楽がひとつだと知ることが平和なのだ。
『私は在る』(p182)
どんなに日の光が強くとも、石の下には影ができるように、「私は身体だ」
という意識の影のなかには、無知と幻想がかならず現れるのだ。
『私は在る』(p361-362)
あなたはけっして生まれなかったし、けっして死ぬこともないだろう。
生まれて、そして死んでいくのは観念であり、あなたではないのだ。
あなた自身を「私は生まれた」という想念と同一化することで、あなたは死
をまぬがれない者となる。
映画のなかではすべてが光であるように、意識が広大な世界となるのだ。
よく見てみなさい。
すべての名前と形は、意識の大海のはかない波にすぎず、ただ意識だけが存
在するのだ。
『私は在る』(p410)
質問者 しかし、どうして身体意識は存在のなかに現れたのでしょうか?
マハラジ
「なぜ」や「どうして」を尋ねてはならない。
それ自身を創造と同一化することは、創造的想像の本性なのだ。
あなたは注意をそらすことで、あるいは究明することによって、いつでもそ
れを止めることができる。
質問者 創造は究明する前に現れるのでしょうか?
マハラジ
はじめに、あなたが世界をつくり出すのだ。
それから、「私は在る」が個人となる。
彼はさまざまな理由から幸福ではないのだ。
彼は幸福を探し求めて外へと出ていき、ひとりのグルに出会う。
そしてグルは彼に言うのだ。
「あなたは個人ではない。あなたとは誰なのかを見いだしなさい」と。
彼はそれを為(な)し、彼方へと超えていくのだ。
質問者 なぜ彼は最初からそうしなかったのでしょうか?
マハラジ
それは彼には起こらなかった。
彼にはそれを言ってくれる誰かが必要だったのだ。
質問者 それで充分だったのですか?
マハラジ
それは充分だった。
質問者 なぜ、それはわたしの場合そう起こらないのでしょう?
マハラジ
あなたが私を信頼しないからだ。
質問者 なぜ、私の信頼は弱いのでしょうか?
マハラジ
欲望や恐れがあなたのマインドを鈍くしてしまったのだ。
それには洗い落としが必要だ。
質問者 どうすればマインドをきれいにすることができるのでしょう?
マハラジ
容赦なく、それを見守ることによってだ。
不注意が鈍くさせ、注意が明晰にさせるのだ。
質問者 どうして、インドの師たちは無為を唱道するのでしょうか?
マハラジ
ほとんどの人びとの行為は、あからさまに破壊的でないにしても、無価値な
のだ。
欲望と恐れに支配され、彼らは何も適切なことができない。
悪を為さないことが善をはじめることに先立つ。
それゆえ、すべての活動をひとまず止める必要があるのだ。
人の衝動とその動機を調べ、人生のなかでそれらはみな偽りであることを見
て、あらゆる悪のマインドを清浄にし、その上でようやく自分の明白な義務
から仕事を再開するのだ。
もちろん、もしあなたが誰かを助ける機会があるなら、ぜひそうしなさい。
それも敏速にしなさい。
あなたが完全になるまで彼を待たせる必要はない。
だが、善行を職業にしてはいけない。
質問者 弟子たちの間にそれほど多くの善行をする人たちがいるようには見
受けられません。私の出会ったほとんどが、自分の取るに足りない
葛藤(かっとう)に没頭しています。彼らには他者を想う気持ちが
ないのです。
マハラジ
そのような利己主義は一時的なものだ。
そのような人びとに対して忍耐強くありなさい。
長年、彼らは彼ら自身以外のすべてに注意を払ってきたのだ。
ときには、彼らの注意を彼ら自身に向けさせようではないか。
質問者 自己覚醒の成果とは何でしょうか?
マハラジ
あなたはより知的に成長するのだ。
気づきのなかであなたは学ぶ。
自己覚醒のなかで、あなたは自分自身について学ぶのだ。
もちろん、あなたはあなたではないものだけを学ぶことができる。
あなたが何であるのかを知るには、マインドを超えた彼方へ行かなければな
らない。
質問者 気づきはマインドの彼方にあるのではないでしょうか?
マハラジ
気づきとはマインドがそれ自身の彼方にある実在のなかへ届こうとする点な
のだ。
気づきのなかで、あなたはあなたを喜ばすものを探すのではなく、真実なる
ものを探すのだ。
『私は在る』(p362-363)
マインドと自己同一化すること、ただそれだけがあなたを幸福に、あるいは
不幸にするのだ。
マインドへの隷属に反抗しなさい。
あなたの束縛は自分が創造したものだということを見なさい。
そして執着と反感への鎖を断ち切るのだ。
『私は在る』(p538)
自由とは心配からの自由なのだ。
あなたが結果に影響を与えることはできないと自覚したからには、欲望と恐
れに注意を払うことはやめなさい。
『私は在る』(p500)
それはほかのすべてのように起こるのだ。
試してみるがいい。
しなければならないことをするのだということを、あなたはすぐに理解する
だろう。
『私は在る』(p373)
実際には、何の欠如も必要もない。
すべての仕事はただ表面上のものだ。
その深みには完全な平和がある。
すべての問題が現れるのは、あなたが自分自身を定義し、それゆえ限定した
からだ。
『私は在る』(p221)
起こることすべてはマインドのなかで、マインドにとって起こり、「私は在
る」の源に起こるのではない。
『私は在る』(p469)
実際には、何の欠如も必要もない。
すべての仕事はただ表面上のものだ。
その深みには完全な平和がある。
すべての問題が現れるのは、あなたが自分自身を定義し、それゆえ限定した
からだ。
あなたが自分自身をあれやこれやと考えないとき、すべての葛藤はやむ。
問題に対処しようとするいかなる試みも、失敗せざるをえない。
なぜなら、欲望によって起こったことは、欲望から自由になることによって
のみ、取り消すことができるからだ。
あなたは自分自身を時間と空間のなかに閉じこめ、一生という期間と、身体
という容積のなかに自分を押し込めてしまった。
それゆえ、生と死、快楽と苦痛、期待と恐れという無数の葛藤をつくり出し
たのだ。
幻想を放棄せずに、問題を追い払うことはできない。
『私は在る』(p221)
質問者 私は気づきが内面の沈黙の状態、精神的空の状態をもたらすことを
見いだしました。
マハラジ
それはそれでよいが、充分ではない。
あなたはそのなかで宇宙が青空の白雲のように漂う、すべてを包括する虚空
を感じただろうか?
質問者 まずは私自身の内なる空間をよく知るようにさせてください。
マハラジ
「私は身体だ」という分離をもたらす壁を壊しなさい。
そうすれば、内面と外面はひとつになるだろう。
質問者 私は死ぬのでしょうか?
マハラジ
身体的崩壊は無意味だ。
感覚的な生にしがみつくことがあなたを束縛するのだ。
もしあなたが内面の虚空を完全に体験するなら、全体性のなかへの爆発は間
近なのだ。
質問者 私自身の霊的成長には、それなりの時期があるのです。ときおり私
は荘厳に感じ、そしてふたたび落ちこむのです。私はまるでエレベ
ータ・ボーイのようです。上がったり下がったり、上がったり下が
ったり。
マハラジ
意識における変化はすべて、「私は身体だ」という観念によるものだ。
この観念を取り除くことで、マインドは安定する。
特定の体験から自由な、純粋な存在がある。
だが、それを実現するには、あなたは師の言うことをしなければならない。
ただ聞くだけ、あるいは覚えることさえ充分ではないのだ。
日常生活のなかで、師の一言ひとことを適用するよう懸命に専念しないかぎ
り、あなたに進歩がないと不平を言ってはならない。
本当の進歩とは、みな後戻りできないものだ。
上がったり下がったりは、教えがマインドに届いていず、完全に行動に移さ
れていないことを示しているのだ。
質問者 先日、あなたはカルマなどというものはないと言われました。それ
にも関わらず、私たちはあらゆるものごとに原因を見ます。それゆ
え、すべての原因の合計がカルマと呼ばれるのかもしれません。
マハラジ
あなた自身を身体だと見なすかぎり、あなたはすべてに原因を帰するだろう。
私はものごとに原因がないとは言ってはいない。
それぞれのものごとには無数の原因がある。
それはあるがままだ。
なぜなら世界はあるがままだからだ。
すべての原因とその支流は宇宙を覆っている。
あなたにはあなたが承諾するものになる絶対の自由があり、あなたがあなた
であるように見えるのは無知あるいは無関心のためだと自覚したなら、反抗
し、変わることはあなたの自由だ。
あなたはあなた自身ではないものとして在ることを許している。
あなたはあなたではないものの存在の原因を探しているのだ!
それは無駄な探求だ。
すべての因果関係を超えた、完全なる真の存在に対するあなたの無知以外に
原因などない。
なぜなら、何が起ころうとも、責任はすべての宇宙にあり、そしてあなたが
宇宙の源だからだ。
質問者 私は宇宙の原因であることなど何も知りません。
マハラジ
あなたが「私は身体だ」という病原体に侵されたとき、宇宙全体が存在のな
かに現れるのだ。
だが、あなたがもうこれ以上はたくさんだというほどそれを味わったとき、
解脱(げだつ)についての空想的な考えをマインドに抱いて、まったく無駄
な行動を追求しはじめる。
あなたは集中し、あなたは瞑想し、あなたはマインドと身体を苦しめて、あ
らゆる類(たぐい)の不必要なことをする。
だが、個人を消去するという本質的なことは見逃してしまうのだ。
質問者 はじめのうちは、私たちが真我の探求をする用意ができるまで、し
ばらくの間、祈りと瞑想をするべきなのかもしれません。
マハラジ
もしあなたがそう信じるなら、そうすればいい。
私にとっては、あらゆる遅れは時間の浪費だ。
あなたはすべての準備を飛び越え、内なる究極の探求に直接進むことができ
るのだ。
すべてのヨーガ(修練)のなかで、それがもっとも簡単で、最短なのだ。
『私は在る』(p363-364)
個人とは単なる誤解の結果だ。
実際には、そのようなものはないのだ。
果てしない連続性のなかで、感情、思考、行為が脳のなかに痕跡を残し、継
続性という幻想をつくりながら、見守る者の前を駆け抜けていく。
マインドの中で、見守る者の反映が「私」という感覚をつくり出し、個人は
一見独立したように見える存在を獲得するのだ。
実際には、個人というものは存在しない。
ただ見守る者が「私」と「私のもの」に自己同一化するだけだ。
『私は在る』(p360)
あなたに必要なものは何もないということを知るために、すべてを放棄しな
ければならないのだ。
あなたが必要とするものは非実在であり、あなたの努力は無意味だ。
『私は在る』(p356)
「私」がどこに行くというのか。
どこに行けるというのか。
静寂の瞬間』(p106)
文字とそれが印刷されている紙を見てみなさい。
あなたは文字にばかりとらわれて、紙に注意を与えることはない。
だが、そこに文字が現れようと現れまいと、
ジュニャーニは紙を実在の基盤と見なしているのである。
静寂の瞬間』(p107)
身体とはわれわれの想いに他ならない。
想いが存在しなければ、身体も存在しえない。
世界はただ精神的なものでしかない。
あなたは物理的身体と自分自身を自己同一視しているため、
この世界を物理的なものと見なしてしまう。
存在するもの、それは精神だけなのである。
静寂の瞬間』(p65)
質問者 私は顕現を知っています。なぜなら、私はそれに参加しているから
です。そのなかでの私の部分はたいへん小さいものであり、それは
認めます。それでも、それはその全体性と同じほど現実なのです。
そして、もっと重要なことは、私がそれに意味を与えるということ
です。私なしには、世界は暗く沈黙しているのです。
マハラジ
ホタルが世界を照らすというのかね!
あなたが世界に意味を与えるのではない。
あなたはそれを見いだすのだ。
あなた自身のなかに深く潜っていきなさい。
そしてすべての意味があふれだす源を見いだしなさい。
間違いなく、意味を与えることができるのは表面的なマインドではないのだ。
質問者 何が私を限定し、表面的にしてしまうのでしょうか?
マハラジ
全体は開いていて、手に入るものだ。
だが、あなたはそれを手にしない。
あなたは自分自身だと考えている小さな個人に執着している。
あなたの欲望はかぎられていて、野望は取るに足らないものだ。
結局、知覚の中心がなければ、どこに顕現があるというのだろう?
知覚されなければ、顕現は非顕現と同じだ。
あなたは知覚する点、すべての次元に対する無次元の源なのだ。
全体としてのあなた自身を知りなさい。
質問者 ひとつの点が、どのように宇宙を包含できるというのでしょうか?
マハラジ
ひとつの点のなかには、無限の宇宙を包むに充分な空間がある。
許容量に欠けることはない。
自己限定だけが唯一の問題なのだ。
しかし、あなた自身から逃げだすことはできない。
どれほど遠くへ行こうとも、あなたは自分自身に、そして無であり、しかも
すべての源であるこの点を理解する必要性に戻ってくるのだ。
質問者 私はインドにヨーガの教師を探しに来たのです。いまだに私は探し
ています。
マハラジ
どの類(たぐい)のヨーガをあなたは学びたいのだろうか?
獲得のヨーガだろうか、放棄のヨーガだろうか?
質問者 それらは最終的には同じ結果になるのではないでしょうか?
マハラジ
どうして同じでありうるだろう?
一方は隷属させ、他方は解放する。
動機がもっとも重要なのだ。
自由は放棄を通してもたらされる。
すべての所有は束縛なのだ。
質問者 私が力強さと勇気をもってつかむものを、なぜ放棄しなければなら
ないのでしょうか? そして、もし私が強さをもっていなければ、
どうして放棄できるでしょう? 私にはこの放棄の必要性が理解で
きません。私が何かを欲しいとき、どうしてそれを追求すべきでは
ないのでしょうか? 放棄は弱者のためのものです。
マハラジ
もしあなたが放棄する智慧(ちえ)と力をもっていないのなら、ただあなた
の所有物を見てみなさい。
ただ見るという行為がそれらを焼き尽くすだろう。
もしあなたがマインドの外側に立つことができるなら、じきに所有物と欲望
を放棄することがもっとも明白な分別ある行為だと知ることだろう。
あなたが世界をつくり出しておいて、それからそれについて心配するのだ。
利己的になることはあなたを弱くする。
あなたに欲望をもつだけの勇気と力があると考えるなら、それはあなたが若
く、経験不足だからだ。
例外なく、欲望の対象物はそれを獲得する手段を破壊する。
そうして、それ自体も衰え果ててしまうのだ。
結局、すべては最善の結果をもたらす。
なぜなら、それはあなたに毒を避けるかのように欲望を避けさせるからだ。
『私は在る』(p354-356)
私たちは生きている。
なぜなら感覚的存在を切望しているからだ。
『私は在る』(p149)
「心」と呼ばれているものは、
真我に内在するおどろくべき力である。
心はすべての想いが起こってくる源である。
想いを離れて心はない。
それゆえ、想いが心の本性である。
真我の中から心が現れるときに、
世界が現れる。
それゆえに、世界が(実在として)現れているときには、
真我は隠されている。
『静寂の瞬間』(p22)
宇宙を創造した欲望はあなたのものだ。
世界はあなた自身の創造だと知り、自由になりなさい。
『私は在る』(p398)
あなたのものとは映画のスクリーン、光、そして見る力だ。
だが、映像はあなたではない。
『私は在る』(p463)
どこであれ、物質がそれ自体をひとつの堅固な有機体へと組織化するとき、
意識は自発的に現れる。
『私は在る』(p284)
注意を過小評価してはならない。
それは関心であり、愛なのだ。
知るため、行うため、発見するため、あるいは創造するためには、それにハ
ートを捧げなければならない。
それが注意力を意味する。
あらゆる祝福はそこから流れだすのだ。
分割されない注意を、あなたの人生のなかのもっとも重要なもの、あなた自
身に与えなさい。
あなたの個人的な宇宙の中心があなたなのだ。
中心を知らずに何を知ることができるだろう?
『私は在る』(p143-144)
私の存在の根底には気づきが、強烈な光の点が在る。
この点がその本性によって輝き、空間のなかには画像を、時間のなかには出
来事を、努力することなく自発的につくり出す。
それを単に気づいているだけならば、問題はない。
しかし、分別心が存在の中に現れ、区別をつくり出すと、苦痛と快楽が立ち
現れる。
眠りの間、マインドは停止しているため、苦痛や快楽も停止している。
創造の過程は継続するが、注目はされない。
マインドは意識のひとつの形であり、意識は生命のひとつの相だ。
生命がすべてをつくり出す。
しかし、至高なるものはすべてを超えた彼方にあるのだ。
『私は在る』(p196)
あなたの個人的宇宙は、それ自体では存在しないのだ。
それはただ単に実在のかぎられた歪(ゆが)んだ見方だ。
改善が必要なのは宇宙ではなく、あなたの見方なのだ。
『私は在る』(p113)
仮に物体と力の共通世界が在るとしても、それは私たちの住む世界ではない。
私たちの世界は感情と観念の、好感と反感の、価値の尺度の、動機と刺激の、
概して精神的世界なのだ。
生物学的には、私たちの必要はわずかばかりだ。
私たちの問題は異なったレベルのものだ。
欲望と恐れ、そして誤った観念から生じた問題は、マインドのレベルでしか
解決できない。
あなたは自分のマインドを克服しなければならない。
そしてそのために、あなたはそれを超えていかなければならないのだ。
『私は在る』(p147)
光線がほこりの微少片にさえぎられないかぎり目に見えないように、至高な
るものもすべてを既知にしながら、それ自身は未知としてとどまるのだ。
『私は在る』(p85)
水面に踊る月は、水のなかに見られる。
だが、それは水によってではなく、空の月によって生じたのだ。
『私は在る』(p217)
「見られているもの」である世界が
ぬぐい去られたとき、
「見る者」である
真我の実現がやってくるだろう。
見る者と、見られている対象物とは、
ロープと蛇のようなものである。
蛇という間違った知識が消えないかぎり、
実体であるロープという知識はやってこない。
同じように、実在するものとしての真我の実現は、
世界が実在するという信念が消えてしまわないかぎりは、
得られないだろう。
『静寂の瞬間』(p21)
結局、幻想をつくり出すのはマインドであり、それから自由になるのもマイ
ンドなのだ。
『私は在る』(p192)
質問者 どのようにして無欲を訓練すればいいのでしょう?
マハラジ
訓練の必要はない。
放棄という行為さえ必要ない。
ただ、あなたのマインドをそらしなさい。
それだけだ。
欲望とは単にある想念にマインドを固定させることだ。
それに注意を払わないことで、その常道にはまる習慣を捨て去りなさい。
質問者 それだけですか?
マハラジ
そうだ。
それだけだ。
欲望や恐れが何であれ、それにとどまっていてはならない。
自分で試みてみなさい。
ときおり、あなたは忘れてしまうかもしれない。
だが、それは問題ではない。
すべての欲望と恐れを追い払うまで、すべての反応が自動的になるまで試み
ることだ。
質問者 人はどのようにして感情なしに生きていくことができるのでしょう
か?
マハラジ
あなたは欲しいだけすべての感情をもつことができる。
だが、引き起こされた感情の反応に注意しなさい。
完全に自己決定し、外面からではなく、内面から導かれなさい。
より良いものを確保するために、ひとつのものをあきらめるのは本当の放棄
ではない。
あきらめなさい。
なぜなら、あなたはそれが無価値であることを理解するからだ。
放棄していくにしたがって、あなたは自然に知性と、力と、無尽蔵の愛と、
喜びのなかに成長していく自分を見いだすだろう。
質問者 なぜ、それほどまでにすべての欲望と恐れを放棄することが強調さ
れるのでしょうか? それらは自然なものではないのでしょうか?
マハラジ
それらは自然なものではない。
完全にマインドによって作られたものだ。
あなたに必要なものは何もないということを知るために、すべてを放棄しな
ければならないのだ。
あなたが必要とするものは非実在であり、あなたの努力は無意味だ。
あなたは所有物があなたを守ると想像している。
実際は、それらがあなたを傷つきやすくするのだ。
あなた自身が「あれ」や「これ」として指し示すことができるすべてから離
れたものであることを自覚しなさい。
あなたは感覚的体験や言語的解釈によって到達することのできないものだ。
それから立ち去りなさい。
人格化を拒否しなさい。
質問者 あなたの話を聞いた後、私は何をすればよいのでしょうか?
マハラジ
聞くことだけでは本当の助けにならないだろう。
それを心にとどめ、熟考し、私が語っていることを私に語らせようとするマ
インドの状態を理解しようとしてみなさい。
私は真理から話している。
両手を開き、受け取りなさい。
あなたはあなたが考えているものではないのだ。
私が保証しよう。
あなたがもっているあなた自身のイメージは記憶によってつくられたまった
く偶然の産物なのだ。
質問者 私は私のカルマの結果です。
マハラジ
一見、あなたであるように見えるもの、それはあなたではない。
カルマは、あなたが繰り返し学んできたひとつの言葉にすぎない。
あなたはけっして今まで、そしてこれからもひとりの個人ではないのだ。
あなた自身を個人だと考えることを拒絶しなさい。
自分が誰それだということを疑わないかぎり、希望はもてない。
あなたが目を開くことを拒むとき、何を見せられるというのだろう?
質問者 カルマとは、私を完成へと衝(つ)き動かす神秘の力だと私は思っ
ています。
マハラジ
それは人びとがあなたに言ったことだ。
あなたはすでに今ここで完成している。
完成することができるようなものはあなたではない。
あなたはあなた自身ではないものをあなただと想像しているのだ。
やめなさい。
重要なのは停止そのものであって、あなたが何をやめようとするかではない
のだ。
質問者 カルマが私に、私であるものに成るよう駆りたてたのではありませ
んか?
マハラジ
何も駆りたててはいない。
あなたはあなただと信じるものだ。
信じるのを止めなさい。
『私は在る』(p356-357)
あなたがあなたを含むすべての証明なのだということを、まず悟るべきだ。
あなたの存在を証明できるものは何もないのだ。
なぜなら、他者の存在もあなたによって確認されなければならないからだ。
あなたは完全に、あなた自身によって在るのだということを覚えておきなさ
い。
あなたはどこからも来なかったし、どこへも行かない。
あなたは時間を超えた存在、そして気づきなのだ。
『私は在る』(p178)
あなたが全宇宙の深遠な原因なのだ。
すべてはあなたが在るゆえに在る。
この要点を深く、確実につかみなさい。
そしてそれについて繰り返し熟考しなさい。
このことが絶対的な真実だと悟ることが解放なのだ。
『私は在る』(p267)
あなたの知っていることはすべて間接的な知識だ。
ただ、「私は在る」だけが直接の、そして証明を必要としないものなのだ。
それとともにとどまりなさい。
『私は在る』(p541)
あれやこれに成ろうとするのではなく、在ることに幸せでありなさい。
あなたは意識界に完全に気づいている観照者として在るだろう。
だが、あなたと意識界の間には、いかなる感情も観念も立ちはだかるべきで
はない。
『私は在る』(p233)
真我以外のすべてを差し控えることで、利己的になるがいい。
真我以外の何も愛さないとき、あなたは利己的と非利己的をともに超えてい
く。
すべての区別はその意味を失い、ひとつの愛とすべての愛は、純粋でシンプ
ルな、誰に対してでもなく、誰をも拒まない愛のなかでともに溶けあうのだ。
その愛のなかに住みなさい。
深く、より深くそのなかに入っていきなさい。
あなた自身を探求しなさい。
そして探求を愛しなさい。
そうすれば、あなたはあなた自身の問題だけではなく、人類全体の問題も解
決するだろう。
『私は在る』(p234)
理解しなければならないことは、あなたは自己を愛し、自己はあなたを愛し
ているということだけだ。
『私は在る』(p406)
そして「私は在る」という感覚は、あなたと自己との間の連結部であり、外
見の多様性に妨げられないアイデンティティの象徴なのだ。
「私は在る」を内面と外面の間、実在と現れとの間の愛の象徴として見なさ
い。
夢のなかでは、「私」という感覚を除いてはすべてが異なっている。
その「私」が「私は夢を見た」と言うことを可能にするように、「私は在る」
という感覚が、「私は真我だ」と言うことを可能にするのだ。
私は何もしないし、私に対して何もされることはない。
私は私であり、何も私に影響を与えることはできない。
私はすべてに依存しているように見えるが、事実は、すべてが私に依存して
いるのだ。
『私は在る』(p406)
言葉そのものが橋なのだ。
それを覚えておきなさい。
それについて考えなさい。
それを探索しなさい。
それとともに在りなさい。
それをあらゆる方向から見てみなさい。
誠実な忍耐とともにそのなかに飛び込みなさい。
『私は在る』(p453-454)
言葉には価値がある。
『私は在る』(p454)
サーダナ(修練)とは言語から非言語へと超えていく執拗な試みにほかなら
ない。
『私は在る』(p454)
質問者 ヨーガにおける失敗とはどういう意味でしょうか? ヨーガにおけ
る敗北者(ヨーガブラシュタ)とは誰のことでしょうか?
マハラジ
それはただ未完成という問題だ。
彼自身のヨーガを完成できなかった人がヨーガにおいて失敗したと言えるだ
ろう。
そのような失敗は一時的なものだ。
なぜならヨーガにおいて、敗北というものはないからだ。
この闘いはつねに勝利する。
なぜなら、それは真実と偽りの間の闘いだからだ。
偽りにチャンスはない。
質問者 誰が失敗するのでしょうか? 個人(ヴィアクティ)でしょうか、
それとも自己(ヴィアクタ)でしょうか?
マハラジ
質問自体が間違っている。
失敗という問題はあてはまらないのだ。
長期であっても、短期であっても。
それは見知らぬ異国の長く険しい道を旅するようなものだ。
数知れない一歩一歩のなかでも、あなたを目的地に到着させるのは最後の一
歩だけだ。
それでも、あなたはそれ以前に歩んできた一歩一歩のすべてを失敗とは思わ
ないだろう。
障害を避けるために脇道にそれたときでさえ、そのそれぞれがあなたを目的
地へと導いたのだ。
実際には、各一歩があなたをゴールへと導いてきた。
なぜならいつも進み、学び、発見し、明らかにしていくことがあなたの永遠
の運命だからだ。
生きることが生命の唯一の目的だ。
自己は成功や失敗と同一化しない。
あれやこれになろうとすることなど問題外だ。
自己は、成功と失敗が相対的に関係し合う人生の縦糸と横糸にすぎないと理
解しているからだ。
その両方から学ぶがいい。
もし学んでいないのなら、くり返すがいい。
質問者 何を学ぶべきなのでしょうか?
マハラジ
利己的な感心なしに生きることだ。
そのためには真我(スワルーパ)が屈服せず、恐れを知らず、つねに勝利す
るものだと知らねばならない。
ひとたびあなたの想像以外は何も困難をもたらすことができない、と絶対の
確信を持って知るなら、あなたは欲望や恐れ、概念や見解に注意を払わず、
真実とともにのみ生きるだろう。
質問者 ヨーガにおいてある人は失敗し、ある人は成功するその理由は何で
しょうか? それは運命でしょうか、それとも性格、あるいはただ
の偶然なのでしょうか?
マハラジ
誰もヨーガにおいて失敗する人はいない。
それはみな、進歩の度合いの問題だ。
それは、はじめはゆっくりで、終わりには急速になる。
人が完全に成熟したとき、真我の実現は爆発的になる。
それは自発的に、あるいはほんのわずかなきっかけで起こりうる。
速いほうが遅いよりも良いというわけではない。
遅い成熟と、速い開花は交互にやってくる。
どちらも自然であり、正しいのだ。
しかし、これらすべてがそうあるのはマインドのなかだけのことだ。
私の見るかぎりでは、何もこのようなことはない。
意識の大いなる鏡のなかで、イメージが立ち現れては消えていき、記憶だけ
がそれらに継続性を与える。
そして記憶とは壊れやすく、はかなく、一時的なものだ。
そんな薄っぺらな土台の上に、私たちはあいまいで、断続的で、夢のような
個人という存在の感覚を築くのだ。
この「私はあれやこれだ」というあいまいな確信が、純粋な気づきの不変の
状態を覆い隠してしまう。
そしてそれが、私たちは苦しみ、死ぬために生まれてきたのだと信じさせる
のだ。
質問者 子供がひとりでに成長していくように、人は自然に後押しされて進
歩していきます。なぜ努力するのでしょうか? ヨーガの必要がど
こにあるのでしょうか?
マハラジ
いつのときも進歩はある。
すべてが進歩に貢献しているのだ。
しかし、これは無知の進歩だ。
無知の輪はつねに広がりつづけていくかもしれない。
それでも、それは相変わらず束縛のなかにとどまったままだ。
やがてグル(師)が現れ、私たちに真我を探求するように教え励ます。
そして成熟のときを迎え、その結果として永劫の無知の夜は、智慧の日の出
とともに溶け去るのだ。
しかし実際には、何も起こってはいない。
太陽はいつもそこにあったし、夜もなかった。
マインドが幻想の糸で果てしなく紡ぎだす「私は身体だ」という観念によっ
て盲目になっていただけなのだ。
『私は在る』(p130-132)
あなたが必要とするものは非実在であり、あなたの努力は無意味だ。
『私は在る』(p356)
する必要があることはしなさい。
抵抗してはならない。
あなたのマインドのバランスは、的確に正しいことをすることを基本に、瞬
間から瞬間へと活動的でなければならない。
成長することに反抗する子供のようであってはならない。
『私は在る』(p260)
彼は私に、「あなただけが存在する」と言った。
そして私は疑わなかったのだ。
私はただ、あるときそれが絶対の真理だと悟るまで頭を悩ませていただけだ。
『私は在る』(p102)
あなたが夢を夢として見たとき、為(な)すべきことはすべて為し終えたの
だ。
『私は在る』(p135)
ひとたびあなたの想像以外は何も困難をもたらすことができない、と絶対の
確信を持って知るなら、あなたは欲望や恐れ、概念や見解に注意を払わず、
真実とともにのみ生きるだろう。
『私は在る』(p131)
マインドと自己同一化すること、ただそれだけがあなたを幸福に、あるいは
不幸にするのだ。
マインドへの隷属に反抗しなさい。
あなたの束縛は自分が創造したものだということを見なさい。
そして執着と反感への鎖を断ち切るのだ。
『私は在る』(p538)
あなたがマインドのなかに築き上げた構造物を取り壊すよう努めなさい。
マインドが為(な)したことはマインドが取り消さなければならないのだ。
『私は在る』(p476-477)
マインドとはそれが考えていることなのだ。
マインドを真実にするために、真実を考えなさい。
『私は在る』(p358)
ひとたびあなたが、これが自分だと指し示すことができるものは何もなく、
「私は在る」ということ以外に自己を語ることができないと確信すれば、
「私は在る」という指針の役目は終わる。
もはやあなたは、自己が何なのかを言葉の上に置き換えようなどとはしない
だろう。
必要なのは、自己を定義しようとする傾向を捨て去ることだけだ。
すべての定義づけは、身体とその表現にしか当てはまらない。
この身体への固執が消えれば、あなたは自然なあるがままの姿に努力するこ
となく帰り着くだろう。
『私は在る』(p27)
その魔力を破るには、スクリーンから自分自身へと注意を移行させるだけで
充分なのだ。
『私は在る』(p407)
すべては起こるのだ。
あなたは動かす人ではなく、ただの観察者なのだということを自覚しなさい。
そうすれば、あなたは平和の内にあることだろう。
『私は在る』(p407)
「あなたは努力し、闘い、力を尽くしていると信じるかもしれない。
それもまた、その仕事の結果とともにすべては単に起こるだけなのだ。
何ひとつあなたによるものではなく、あなたのためのものでもない。
すべては映画のスクリーン上の画像の中に顕わにされる。」
「あなたが行為をしているというのだろうか?
ある未知なる力が行為をし、あなたはあなたが行為をしていると想像するの
だ。 いかなる形であっても、影響を与えることのできないまま、あなたは単に起
こることを見ているだけなのだ。(p256)」
質問者 もしすべてが自然な過程なら、なぜ努力が必要なのでしょうか?
マハラジ
努力でさえ自然の一部なのだ。
無知が頑固で手に負えないものになると、性格はゆがみ、努力とそれにとも
なう痛みは避けられないものとなる。
自然への完全な服従のなかに努力はない。
霊的生命の種子は、約束されたときが来るまで、沈黙と暗黒のなかで成長す
るのだ。
質問者 私たちは何人かの偉大な人物に出会いますが、年老いてから、その
人たちは子供っぽく、狭量で、口論好きで、意地悪になってしまい
ます。なぜ彼らはそれほどまでに堕落してしまうのでしょう?
マハラジ
彼らは身体を完全に抑制した完全なヨーギではなかったのだ。
あるいは彼らは自然に衰えていくことから身を守ろうとする気にならなかっ
たのかもしれない。
すべての要因を理解せずに結論を引き出すべきではない。
その上、特に人が優れているか、劣っているかを裁いてはならない。
若さとは智慧(ジニャーナ)よりも活力(プラーナ)の問題だ。
質問者 人は年老いていくかもしれませんが、なぜ注意力や分別まで失って
しまうのでしょう?
マハラジ
意識と無意識は、身体のなかにあるかぎり脳の状態にも依存するのだ。
しかし、自己はそのどちらも超えている。
脳も、マインドも超えている。
道具の欠陥が使用する人を反映しているわけではない。
質問者 賢者はけっして不体裁なことはせず、つねに手本となるような行為
をすると聞いています。
マハラジ
誰が手本を示しただろうか?
なぜ解脱した人が社会の慣例にしたがう必要があるのだろうか?
予測可能な人となった瞬間、彼はもはや自由ではないのだ。
状況の必要性にしたがい、その瞬間の必要性を満たすことのできる自由があ
るということのなかに彼の自由がある。
好きなことをする自由とは実は束縛であり、正しいこと、するべきことをす
る自由のあることが真の自由だ。
質問者 それでも、誰が真我を実現し、誰がしていないかを見分ける方法が
あるはずです。もしほかと区別することができないのなら、彼は何
の役に立つというのでしょうか?
マハラジ
真我を知る者は、自分に何の疑いも持っていない。
また、彼の状態を他者が認めるかどうか気にかけたりはしない。
自分の悟りを公に表す賢者は極めてまれであり、彼を見いだした人たちは幸
運なのだ。
なぜなら、彼はその人たちの永遠の幸福のためにそうするからだ。
質問者 周りを見回せば、あまりにも無益な苦しみばかりでぞっとするほど
です。助けられるべき人たちが助けられていないのですから。大き
な病院の病室に不治の病気の人たちが、うめきあい、のたうちまわ
っているのを想像してください。あなたは彼らの苦しみを終わらす
ために、皆を殺す権利を与えられたなら、そうはしませんか?
マハラジ
私は彼らの決定にまかせる。
質問者 しかし、もし彼らの運命が苦しむためのものだとしたらどうでしょ
う? どうやってあなたは運命に干渉することができるのでしょう
か?
マハラジ
起こること、それが彼らの運命だ。
運命を妨げるということはない。
あなたはすべての人の運命が誕生時に完全に決定されていると言いたいのか
ね?(久保注:この自己が行為していると錯覚してしまった事によって、本来起こっている物質界の
出来事に対して巻き込まれた自我がエレメンタルを付け加えて更なる想像世界を現出している。
これが第二次想像世界であり、この現在の地球世界だ。
マインドに取り込まれた観照者から生み出された「私と言うエレメンタル」による、更なる想念形態の世界である
これは本来起こっている事に過ぎない幽界に行った我々が、幽界に於いて更なる創造物をエレメンタルで造りだしているのと同じ構造であるように思われる)
何と奇妙な考えだろう。
もしそうならば、その決定をする力が誰も苦しまないようにするだろう。
質問者 原因と結果についてはどうでしょう?
マハラジ
それぞれの習慣が過去全体を含み、未来全体をつくり出すのだ。
質問者 ですが、過去と未来は存在するのでしょうか?
マハラジ
マインドのなかにだけだ。
時間はマインドのなかに在る。
空間はマインドのなかに在る。
因果律もまた、ひとつの考え方なのだ。
実際には、すべては今ここに在り、すべてはひとつなのだ。
多様性や多彩性もマインドのなかにのみ在る。
『私は在る』(p132-133)
質問者 それでも、あなたは苦しみを解放することを選びます、たとえ不治
の病の身体を破壊するとしても。
マハラジ
またしてもあなたは外側から見ている。
私は内側から見ているのだ。
私は苦しむ人を見てはいない。
私が苦しむ人なのだ。
私は彼を内面から知っている。
そして自発的に、努力を要せず正しいことをするのだ。
何の規則にもしたがわず、何の規則も定めない。
誠実に、そして抵抗できないまま生命の流れとともに在るのだ。
質問者 それでも、あなたはとても実際的で、あなたの周囲の環境を完全に
コントロールしているように見えますよ。
マハラジ
私にほかの何であって欲しいのかね?
不適格者かね?
質問者 それでも、あなたは他の人たちをそれほど助けることはできないで
しょう。
マハラジ
もちろん、助けることができる。
あなたもまた助けることができるのだ。
誰もがそうできる。
しかし、苦しみはつねに新たにつくり出されている。
本人だけが苦しみの根本を破壊できる。
ほかの者は彼を苦痛から救うことはできても、人類の底なしの愚かさである
その原因から救い出すことはできないのだ。
質問者 この愚かさに終焉(しゅうえん)はやってくるのでしょうか?
マハラジ
人においては──もちろんやってくる。
いかなる瞬間にでも。
人類においては──周知のように──長い年月の末にやってくる。
創造においては──けっしてありえない。
なぜなら、創造自体が無知の根本だからだ。
物質自体が無知だ。
知ろうとしないこと、そして知らないということを知ろうとしないこと、そ
れがかぎりない苦しみの原因なのだ。
質問者 私たちは偉大なアヴァターラ、世界の救済者たちについて聞きまし
た。
マハラジ
彼らは救っただろうか?
彼らは来ては去っていった。
そして世界はまだとぼとぼ歩きを続けている。
もちろん、彼らには大きな達成もあり、人類の精神に新たな次元を切り開い
た。
だが、世界の救済を語ることは誇張だ。
質問者 世界の救済はないのでしょうか?
マハラジ
どの世界をあなたは救いたいのだね?
あなた自身が投影した世界だろうか?
それは自分で救うがいい。
私の世界?
私の世界を見せてくれるというならば、私がなんとかしよう。
救おうと、救うまいと、私は私から分離した世界になど気づいてはいない。
世界を救うなど、大きなお世話ではないか。
世界が必要としていることは、あなたからの救済なのかね?
一度頭を冷やして、そこに救うべき何かがあるのかどうかよく見てみるとい
い。
質問者 どうやら、あなたがいなければ世界は存在せず、それゆえあなたに
できることはただショーの舞台を引きあげることだけだ、というの
があなたの強調する点のようです。しかし、これでは解決法になっ
ていません。たとえ世界が私自身の創造だとしても、この知識では
救うことはできません。ただ説明しているだけです。なぜ私はこの
ような惨(みじ)めな世界をつくり出してしまったのか、どうすれ
ば変えられるのかという質問は残ります。あなたは、忘れてしまい
なさい、そして自分の栄光を讃えるがいい、と言っているかのよう
です。もちろん、あなたはそういうつもりで言っているのではあり
ません。しかし、病気とその原因の記述がそれを治癒することはな
いのです。私たちが必要なのは、適切な薬です。
マハラジ
原因とその記述は、愚鈍さによる病気のための治療法なのだ。
欠乏症が欠如している栄養素を補うことによって癒されるように、人生の病
も知的な識別(ヴィヴェーカ)と無執着(ヴァイラーギャ)という薬によっ
て治療できるのだ。
『私は在る』(p133-134)
質問者 どうすれば私のマインドを不動にできるのでしょうか?
マハラジ
不動でないマインドが、それ自身を不動にすることができるだろうか?
もちろんできはしない。
うろつきまわるのがマインドの本性なのだ。
あなたにできることは、意識の焦点をマインドの彼方へと移行させることだ
けだ。
『私は在る』(p39-40)
(久保注:この場合のあなたとは思考の私に向かってニサルガダッタ・マハラジは話しかけていない事に注意したい、現在のパーソナリティー・意識の私・観照者の私に向かってである)
質問者 どうすればいいのでしょうか?
マハラジ
「私は在る」という想念以外のすべての想念を拒絶しなさい。
はじめのうち、マインドは抵抗するだろう。
しかし忍耐と根気をもってすれば、それは降伏し、静かになるだろう。
ひとたびあなたが静かになれば、あなたからの干渉なしに、ものごとは自発
的にまったく自然に起こりはじめる。
『私は在る』(p39-40)
(久保注:この場合の「私は在る」は観照者の状態であり
この観照者の状態・次元で初めてこの観照者がマインドから完全に撤去したとき
物事は自発的に自然に起こっている事が判明すると言われている)
ひとたびあなたが体験を通り抜けたなら、ふたたびそれを通らないことが
禁欲だ。
不必要なことを避けることが禁欲だ。
つねにものごとを制御することが禁欲だ。
欲望自体は何も悪いものではない。
それは生命そのもの、知識と体験のなかに成長しようとする衝動なのだ。
間違いはあなたの選択にある。
食べ物、セックス、権力、名声といったささいなことがあなたを幸せにする
と想像するのは、自分自身を欺くことだ。
あなたの本来の自己のように、深く、広大な何かだけがあなたを真に、永遠
に幸福にするのだ。
『私は在る』(p229)
質問者 完全性を教え説くことで世界を救うことはできません。人びとはそ
のままなのです。彼らは苦しまなければならないのでしょうか?
マハラジ
彼らが彼らのままであるかぎり、苦しみをまぬがれない。
分離の感覚を取り去りなさい。
(久保注:この場合の分離を取り除きなさいと言われる彼等とは個人や人格、現在の
パーソナリティー・自我ではない。
ニサルガダッタ・マハラジにとっては現在のパーソナリティー・自我とは存在してお
らず現在のパーソナリティーと一体化した魂である観照者に向かって話しかけている)
そうすれば矛盾はなくなるだろう。
質問者 印刷されたメッセージは、紙とインクにすぎません。問題なのは文
章です。世界を要素と性質に分析することで、私たちはもっとも重
要なこと、その意味を見失ってしまいます。すべてを夢として格下
げしてしまうあなたの扱い方は、昆虫の見る夢と、詩人の見る夢と
の違いを無視することです。たとえすべてが夢だとしても、すべて
の夢が等しいわけではありません。
マハラジ
夢は同じではない。
だが、夢見る人はひとりだ。
夢のなかでは、私が昆虫であり、私が詩人なのだ。
私は光だ。
その光のなかで、すべての夢が現れては消える。
私は夢の内側と外側だ。
頭痛もちの人がその痛みを知り、また自分がその痛みではないことを知って
いるように、私も夢を知り、私自身が夢を見、また見ないことを同時に知っ
ている。
私は私で在る。
夢の前も、夢の間も、夢の後も。
だが、私が夢のなかで見ることは、私ではないのだ。
質問者 それはすべて想像の問題です。ある人は夢を見ていると想像し、あ
る人は見ていないと想像します。どちらも同じことではありません
か?
マハラジ
同じとも、同じではないとも言える。
二つの夢の間にあるために、夢を見ていないというならば、それはもちろん、
夢の一部分だ。
もし夢を見ていないということが、実在のなかに揺るぎなく確立しているこ
とを意味するならば、それは夢とは何の関係もない。
その意味では、私はけっして夢は見なかったし、見ることはない。
質問者 もし夢と夢からの逃避がともに想像なら、それからの出口はどこに
あるのでしょうか?
マハラジ
出口の必要はないのだ!
出口もまた夢の一部分だということがわからないのだろうか?
あなたがするべきことは、夢を夢として見ることなのだ。
(久保注:この場合の「あなたがすべきこと」とはこの個人や人格や現在のパ
ーソナリティー・自我に対してではない、それらの私と重層し一緒になっている
永遠のパーソナリティーである魂の私・観照者の私に対して彼は夢を夢としてみ
なさいと言っている)
質問者 すべてを夢として忘れ去るという訓練をはじめることが、私をどこ
に導くのでしょうか?
マハラジ
どこであろうと、それが導くところ、それは夢だ。
夢を超えていこうとする考えそのものが幻想なのだ。
(久保注:解脱、真我覚醒という餌をぶら下げて人々を導くものは思考であり、
それはビジネスと言われる、目標や方法や道を説くことがビジネスである。
そしてそれは私達を更なる錯覚「覚醒するという夢」へと導く)
なぜどこかへ行かなければならないのか?
あなたはただ世界という夢を見ているのだ、ということを悟りなさい。
そして、出口を探すのはやめなさい。
夢があなたの問題なのではない。
問題は、あなたが夢のなかのある部分が好きで、別の部分が嫌いだというこ
とだ。
すべてを愛すがいい。
あるいは何も愛さないことだ。
そして不平を言うのはやめなさい。
あなたが夢を夢として見たとき、為(な)すべきことはすべて為し終えたの
だ。
質問者 夢は考えることによって起こるのでしょうか?
マハラジ
すべては観念の戯(たわむれ)れだ。
観念化から自由になった状態(ニルヴィカルパ・サマーディ)のなかでは、
何も知覚されはしない。
その根本となる観念が「私は在る」だ。
それが純粋意識の状態を打ち破る。
すると無数の感覚、知覚、感情、観念がその後に続いていく。
それらの全体性が神であり、その世界なのだ。
「私は在る」は観照者として残る。
しかし、すべては神の意志で起こるのだ。
質問者 私の意志で、ではないのでしょうか?
マハラジ
またしても、あなたはあなた自身を神と観照者に分割した。
それらはひとつなのだ。
(久保注:この言葉であなたとかあなた自身と言われているのは観照者で
ある魂に向かってニサルガダッタ・マハラジは語りかけておられるのだ)
『私は在る』(p134-146)
「私」がどこにいくというのか。
どこにいけるというのか。
静寂の瞬間』(p106)
すべての定義づけは、身体とその表現にしか当てはまらない。
この身体への固執が消えれば、あなたは自然なあるがままの姿に努力するこ
となく帰り着くだろう。
『私は在る』(p27)
宇宙は行為であふれている。
だが、そこに行為する者はいないのだ。
そこには自己同一化によって行為していると想像している無数の小さな、そ
して大きな、そしてとても大きな個人たちがいる。
だが、それが行為の世界(マハーダカーシュ)はすべてに依存し、すべてに
影響する単一の統一体だという事実を変えることはない。
『私は在る』(p418)
この宇宙は何のなかに存在するのだろうか。このすべては何なのだろうか。
それは何から生じたのだろうか。
何のために、何によって、それは姿を現したのだろうか。
それは何で構成されているのだろうか。
ただ真我だけがその原因である。
『静寂の瞬間』(p1)
真理の内に存在するものは真我のみである。
世界や個人の魂、そして神は、真我の内に現れる。
これら三つは、同時に現れ、同時に消えてゆく。
『静寂の瞬間』(p1)
身体があり、真我がある。
その間にマインドがあるのだ。
そのマインドのなかに、真我は「私は在る」として反映されている。
マインドはその不完全さ、その未熟さと落ち着きのなさ、識別と洞察の欠如
ゆえに、それ自身を真我ではなく身体と見なしてしまうのだ。
必要なことはマインドを浄化することだけだ。
マインドが真我のなかに没して消え去るとき、身体は問題を呈しなくなる。
『私は在る』(p290-292)
重要なのは欲望、恐れといったマインドの「六つの敵 *」である否定的感情
から自由になることだ。
ひとたび、マインドがそれらから自由になれば、あとはたやすい。
洗剤に浸けおいた布がきれいになるように、純粋な感情の流のなかでマイン
ドは浄化されるのだ。
* 訳注 「六つの敵」 性欲、怒り、強欲、妄想、慢心、羨望。
『私は在る』(p236)
質問者 真我の実現の方法について尋ねられたとき、あなたは変わらず「私
は在る」という感覚にマインドを固定させることの重要さを強調し
ます。どこにその因果的な要因があるのでしょうか? なぜこの特
定の思いが真我の実現という結果をもたらすのでしょうか? どの
ように、「私は在る」への黙想が私に影響を与えるのでしょうか?
マハラジ
観察するという事実自体が、観察者と観察されるものを変えるのだ。
結局、自己の真の本性への洞察を妨げるのは、マインドの弱さと愚鈍さ、そ
して粗大なものにのみ焦点を当て、把握しがたいものは抜かしてしまう傾向
にあるのだ。
私の提案にしたがい、マインドを「私は在る」だけにとどめるように試みれ
ば、あなたはマインドとその気まぐれに完全に気づくようになる。
行為のなかの透明な調和(サットヴァ)である気づきは、愚鈍さを消し去り、
マインドの落ち着きのなさを静め、穏やかに、しかし着実にその実体を変化
させていくのだ。
その変化は目ざましいものである必要はない。
それはほとんど人目を引かないものかもしれない。
それでも、それは暗闇から光へ、不注意から気づきへの根本的な移行なのだ。
質問者 それは「私は在る」という形式でなければならないのでしょうか?
ほかのマントラではだめなのでしょうか? 「そこにテーブルがあ
る」という言葉に私が集中しても、同じ目的を果たさないのでしょ
うか?
マハラジ
集中のための訓練としてならいいが、それがあなたをテーブルという概念を
超えたところに連れていくことはできないだろう。
あなたが知りたいのはあなた自身であって、テーブルに興味があるのではな
い。
このため意識の焦点を、唯一の手がかりであるあなたの存在の確実性に、着
実に保つのだ。
それとともに在りなさい。
それと戯(たわむ)れなさい。
それを熟考しなさい。
それに深く沈潜していきなさい。
無知の皮が破れ、あなたが実在の領域に現れでるまで。
質問者 私が「私は在る」に焦点を当てることと、殻(から)が破れること
の間に何らかの因果的なつながりがあるのでしょうか?
マハラジ
自分自身を見いだそうとする衝動は、あなたに用意ができたことのしるしな
のだ。
衝動はいつも内面からやってくる。
時節が調(ととの)うまでは、あなたが全身全霊で真我の探求をするための
欲望も強さも得ることはないだろう。
質問者 欲望とその充足はグルの恩寵(おんちょう)に依るのではないでし
ょうか? グルの輝きを放つ顔が私たちを誘惑して捕まえ、不幸の
泥沼から引き出してくれるのではないでしょうか?
マハラジ
母親が子供を教師に連れていくように、外側の師にあなたを連れていくのは
内なる師(サットグル)なのだ。
あなたのグルを信頼し、彼にしたがいなさい。
なぜなら、彼はあなたの真我のメッセンジャーなのだから。
質問者 信頼できるグルをどうやって探せばいいのでしょうか?
マハラジ
あなた自身のハートがあなたに告げるだろう。
グルを見いだすことは困難なことではない。
なぜなら、グルはあなたを探しているからだ。
グルはいつも用意ができている。
あなたは準備ができていない。
あなたに学ぶ準備ができていないと、あなたのグルに出会っていても、まっ
たくの怠慢と強情さでせっかくの機会を無駄にしてしまうかも知れないのだ。
私を例にとれば、私には見込みがあるわけではなかった。
だが、グルに出会ったとき、私は聴き、信頼し、したがったのだ。
質問者 私が師の手の内に完全に自分を明け渡す前に、彼を吟味すべきでは
ないでしょうか?
マハラジ
もちろん吟味するがいい!
だが、何を見いだせるというのだろう?
彼はあなた自身のレベルでしか現れないのだ。
質問者 彼が首尾一貫しているかどうかを見守ります。彼の人生と彼の教え
の間に調和があるかどうかを。
マハラジ
あなたは数多くの不調和を見つけだすかもしれない──それが何だというの
だろう?
それは何も証明しない。
ただ、動機だけが問題なのだ。
どうやって彼の動機を知るというのだろうか?
質問者 少なくとも、彼が自己制御のできる清廉(せいれん)な人生を生き
ている人であることを期待すべきです。
マハラジ
そのような人はいくらでも見つけられるだろう──そしてあなたにとって何
の役にも立たないだろう。
グルはあなたの真我へ帰り着く道をあなたに示すことができる。
それがその人の人格や性質といった外見と、どんな関係があるというのだろ
うか?
彼は彼が個人ではないことを、あなたに明確に告げてはいないだろうか?
唯一判断できるのは、あなたが彼と共に在るときに起こる、あなた自身の変
化だ。
もし、あなたがより平和で幸福に感じるならば、そしてあなた自身を通常よ
り明晰(めいせき)に、より深く理解するならば、それはあなたが正しい人
を見つけたということだ。
急ぐことはない。
だが、ひとたび彼を信頼すると決心したならば、絶対的に彼を信頼しなさい。
そしてすべての教えに完全に、誠実にしたがいなさい。
あなたが彼を師として受け入れず、彼と共に在ることだけで満足だとしても、
それは大した問題ではないのだ。
もしマインドが純粋で混じり気がなく、乱されることがなければ、サットサ
ン(聖者と共に在ること)だけでもあなたを目的地へと連れていけるのだ。
だが、ひとたびあなたがある人をグルとして受け入れたならば、聴き、覚え、
したがいなさい。
中途半端な心構えは深刻な障害となる。
そして、多くの悲しみを自らつくり出す原因となるのだ。
その過ちはけっしてグルのものではない。
弟子の愚鈍さと強情さに過失があるのだ。
『私は在る』(p290-292)
はじまり、そして終わるもの、それはただの現れにすぎない。
世界は現れるとは言えても、存在するとは言えない。
『私は在る』(p37)
何にもまして、私たちは意識しつづけていたい。
あらゆる苦しみや屈辱を耐えてでも、意識しつづけることを望むのだ。
この体験への欲望に逆らって、顕現すべてを手放さないかぎり、解放はあり
えない。
私たちは罠にはまったままなのだ。
『私は在る』(p346)
私たちは生きている。
なぜなら感覚的存在を切望しているからだ。
『私は在る』(p149)
創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。
世界はそれらを満たすための道具なのだ。
魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。
そして時間がすべての勘定書を決算する。
バランスの法則が究極の支配をするのだ。
『私は在る』(p103)
世界はそれ自体からそれ自体を再創造するのだ。
それは一時的なものが一時的なものを生みだしていく果てしない過程だ。
そこに行為者がいなければならないとあなたに考えさせるのは自我なのだ。
どれほど恐ろしいイメージであろうとも、あなたがあなた自身のイメージに
よって神をつくり出すのだ。
あなたのマインドのフィルムを通して世界を投影し、そして原因と目的を与
えるために神をも投影する。
それはすべて想像なのだ。
その外へと踏みだしなさい。
『私は在る』(p371)
宇宙は行為であふれている。
だが、そこに行為する者はいないのだ。
そこには自己同一化によって行為していると想像している無数の小さな、そ
して大きな、そしてとても大きな個人たちがいる。
だが、それが行為の世界(マハーダカーシュ)はすべてに依存し、すべてに
影響する単一の統一体だという事実を変えることはない。
『私は在る』(p418)
世界は無数の輪(リング)でできている。
それに引っかける鉤(フック)はみなあなたのものだ。
あなたの鉤をまっすぐにしなさい。
そうすれば何もあなたを捕らえることはできないだろう。
あなたの耽溺を放棄しなさい。
ほかに何も放棄するものはない。
常習的な利欲心、結果を探し求める習慣を止めなさい。
そうすれば自由の世界はあなたのものだ。
『私は在る』(p259)
世界のなかでのあなたの仕事をするがいい。
だが、内側では静かにしていなさい。
そうすればすべてはやってくるだろう。
『私は在る』(p420)
あなたの希望は、マインドのなかでは沈黙を保ち、ハートのなかで静かにし
ていることにあるのだ。
真我実現した人たちはとても静かなのだ。
『私は在る』(p420)
質問者 そのとき、グルは弟子を追放、あるいは失格にしてしまうのでしょ
うか?
マハラジ
もし、そうしたなら彼はグルとは言えない!
彼は時節が調い、弟子が鍛えられ、冷静になって、より受容的な精神で彼の
もとに戻ってくるのを待つのだ。
質問者 何が動機なのでしょうか? なぜグルはそれほどの困難を受け入れ
るのでしょうか?
マハラジ
悲しみと悲しみの終焉(しゅうえん)のためだ。
彼は人びとが夢のなかで苦しんでいるのを見て、目覚めさせたいと願うのだ。
愛は苦痛や苦しみを見ることに耐えられない。
グルの忍耐には限界がない。
それゆえ、打ち負かされることはできないのだ。
グルはけっして失敗しない。
質問者 私の最初の師はまた最後の師でもあるのでしょうか、それとも私は
師から師へと渡り歩かなければならないのでしょうか。
マハラジ
宇宙全体があなたのグルだ。
もし注意深く、知的であれば、あなたはすべてから学んでいく。
あなたのマインドが澄んで、ハートが清らかであれば、あなたはすべての通
りがかりの人たちから学ぶだろう。
あなたが怠惰で落ち着きがないため、内なる真我が外側のグルとして現れ、
あなたに彼を信頼させ、したがわせるのだ。
質問者 グルは不可避なのでしょうか?
マハラジ
それは「母親は避けることはできないものなのでしょうか?」と尋ねるよう
なものだ。
意識のなかで、ひとつの領域からより高い領域に上がっていくには助けが必
要だ。
助けがつねに人間の形を取るとはかぎらない。
それは名状しがたい存在かもしれない。
あるいは直感のひらめきかもしれない。
しかし、助けは来なければならない。
内なる真我は、息子が父親のもとに戻ってくるのを待っているのだ。
時節が調えば、彼は愛情深く、効果的にすべての手はずを整える。
メッセンジャーや指導者が必要なとき、真我が必要を満たすためにグルを送
るのだ。
質問者 ひとつだけ理解できないことがあります。あなたは内なる自己を、
賢明で、善であり、美しく、あらゆる面で完全だとし、個人はそれ
自身存在をもたない、単なる反映だと話しています。その一方、あ
なたはたいへんな困難も顧みず、個人にそれ自身を実現させる助け
をしています。もし、個人がそれほど重要ではないならば、なぜそ
れほどまでしてその幸福を気にかけるのでしょうか? 誰が影のこ
とを気にするでしょうか?
マハラジ
あなたは存在もしない二元性をそこにもち込んだのだ。
身体があり、真我がある。
その間にマインドがあるのだ。
そのマインドのなかに、真我は「私は在る」として反映されている。
マインドはその不完全さ、その未熟さと落ち着きのなさ、識別と洞察の欠如
ゆえに、それ自身を真我ではなく身体と見なしてしまうのだ。
必要なことはマインドを浄化することだけだ。
マインドが真我のなかに没して消え去るとき、身体は問題を呈しなくなる。
それはそれであるものとして、認識と行為の道具、内なる創造の炎の表現と
その道具としてとどまる。
身体の究極的な価値は、宇宙全体である普遍の身体を発見するために仕える
ことだ。
あなたが顕現のなかで自分自身を自覚するほど、あなたはあなたが想像して
いた以上のものであったことを、絶えず発見し続けていくのだ。
質問者 自己発見には終わりがないのでしょうか?
マハラジ
そこにはじまりがないように、終わりもない。
だが、グルの恩寵によって私が発見したことは、私はこれだと指し示すこと
のできるものではないということだ。
私は「これ」でもなく「あれ」でもない。
これは絶対不動だ。
質問者 それでは、新たなる次元へと永遠に自分自身を超えていく、果てし
ない発見はどこに現れるのでしょうか?
マハラジ
これらはすべて顕現の領域に属する。
それは、
低次のものからの自由を通してのみ、より高次なものを得ることが
できるという宇宙の構造そのもののなかにあるのだ。
質問者 何が低次で、何が高次なのでしょう?
マハラジ
それを気づきの言語のなかで見てみなさい。
より広く、深いほど、意識が高いのだ。
生きるものすべては意識を保護し、永続し、拡張するために働いている。
これが世界の唯一の意味と目的なのだ。
絶えず意識のレベルを上昇させ、それらの特性と質と能力とともに新たな次
元を発見すること──それがヨーガの本質だ。
その意味においては宇宙全体がヨーガの道場となるのだ。
質問者 完成はすべての人間にとっての運命なのでしょうか?
マハラジ
究極的には、すべての生きるものたちにとってだ。
悟りの概念がマインドのなかに現れるとき、可能性は確実性となるのだ。
人は、ひとたび解放が手の届くところにあると聞き、理解すれば、けっして
忘れはしない。
なぜならそれが内側からの最初のメッセージだからだ。
それは根を張り、成長し、時が来れば祝福されたグルの姿を取るのだ。
質問者 では、私たちは皆マインドの救済に関わっているのでしょうか?
マハラジ
それ以外の何だというのだろう?
マインドが道に迷い、マインドが家に帰り着くのだ。
「迷う」という言葉さえ的確ではない。
マインドはそれ自身のあらゆる気分を知らなければならない。
繰り返されないかぎり、何ひとつ間違いということはないのだ。
『私は在る』(p292-294)
マインドと自己同一化すること、ただそれだけがあなたを幸福に、あるいは
不幸にするのだ。
マインドへの隷属に反抗しなさい。
あなたの束縛は自分が創造したものだということを見なさい。
そして執着と反感への鎖を断ち切るのだ。
『私は在る』(p538)
あなたがどこへ行こうと、今、ここという感覚はつねにあなたとともにある。
それはつまり、あなたは時間と空間に依存していないということだ。
時間と空間はあなたのなかにあり、あなたがそれらのなかにあるのではない。
時間と空間に限定された身体との自己同一化が、あなたに有限の感覚を与え
るのだ。
実際には、あなたは無限で永遠なのだ。
『私は在る』(p535)
苦痛と快楽はともにアーナンダ(至福)だ。
私は今、こうしてあなたの前に座り、直接の不変の体験から話している。
苦痛と快楽は、至福の海の波の頂と谷間だ。
その底深くには完全な充足があるのだ。
『私は在る』(p183)
夢から夢へと動きまわるのは、あなたではない。
夢があなたの前を流れていき、あなたは不変の観照者なのだ。
いかなる出来事もあなたの存在に影響を与えることはない。
これが絶対的な真理なのだ。
『私は在る』(p351)
宇宙のなかで起こることはすべて、沈黙の観照者であるあなたに起こる。
その反対に、何であれ為されたことは、普遍的で無尽蔵のエネルギーである
あなたによって為されるのだ。
『私は在る』(p539)
(愚かさの終焉は)人においては──もちろんやってくる。
いかなる瞬間にでも。
人類においては──周知のように──長い年月の末にやってくる。
創造においては──けっしてありえない。
なぜなら、創造自体が無知の根本だからだ。
『私は在る』(p134)
(夢からの)出口の必要はないのだ!
出口もまた夢の一部分だということがわからないのだろうか?
あなたがするべきことは、夢を夢として見ることなのだ。
『私は在る』(p135)
夢があなたの問題なのではない。
問題は、あなたが夢のなかのある部分が好きで、別の部分が嫌いだというこ
とだ。
すべてを愛すがいい。
あるいは何も愛さないことだ。
そして不平を言うのはやめなさい。
あなたが夢を夢として見たとき、為(な)すべきことはすべて為し終えたの
だ。
『私は在る』(p135)
質問者 私たちには意識を拡張する麻薬のさまざまな体験の長い経歴があり
ます。それらは高次や低次といった別の意識状態の体験を、そして
麻薬は信頼できず、良くても一時的であり、最悪では有機体と人格
を破壊するという確信を私たちに与えてくれました。私たちは意識
の発達と超越のためのより良い方法を探しています。探求の結果が、
薄れゆく記憶と無力が後悔に変わるのではなく、私たちとともにと
どまり、人生を豊かにしてくれることを望んでいるのです。もし霊
的ということで、私たちが自己探求と発達を意味するなら、インド
に来た目的はまぎれもなく霊的なものです。幸福なヒッピーの時代
を私たちは後にしたのです。私たちは、今真剣に進んでいこうとし
ています。そこに発見すべき実在があることは知っているのですが、
どのようにしてそれを見つけ、つかまえればいいのか知りません。
私たちには説得ではなく指導が必要なのです。助けていただけます
か?
マハラジ
あなたに助けは必要ない、ただ助言だけが要る。
あなたが探しているものは、すでにあなたのなかにある。
私の場合は例に見てみなさい。
私は真我の実現のために何もしなかった。
私の師が、実在は私のなかにあると言ったのだ。
私は内面を見て、そこにそれを発見した。
まさしく、師の言ったように。
実在を見ることは、自分の顔を鏡で見ることのように簡単なことなのだ。
ただ鏡は汚れのない、本物でなければならない。
欲望や恐れによる歪みがなく、観念や意見から自由な、すべてのレベルで明
晰(めいせき)な、静かなマインドが実在を反映するために必要なのだ。
澄んで、静かに在りなさい。
油断なく冷静に在りなさい。
そうすればほかのすべてはひとりでに起こるだろう。
質問者 あなたは真理を悟る前に、マインドを澄んだ静かな状態にしなけれ
ばなりませんでした。どうやってそれをしたのでしょうか?
マハラジ
私は何もしなかった。
それはただ起こっただけだ。
私は私の人生を送り、家族の必要に従事していたのだ。
私のグルも何もしなかった。
彼が言ったとおり、それはただ起こったのだ。
質問者 ものごとはただ起こるものではありません。すべてに原因があるは
ずです。
マハラジ
起こることすべてが起こることすべての原因なのだ。
原因は無数にある。
たったひとつの原因という考えはただの幻想だ。
質問者 あなたは何か瞑想やヨーガといった特別なことをしていたに違いあ
りません。真我の実現がひとりでに起きるなどと、どうして言える
のでしょうか?
マハラジ
何も特別なことはなかったのだ。
私はただ私の人生を生きていただけだ。
質問者 驚きです!
マハラジ
私もそうだったのだ。
だが、驚くような何があるというのだろう?
私の師の言葉が現実となった。
だから何だというのだろう?
彼は、私自身を私よりよく知っていたのだ。
なぜ原因を探すのか?
最初のうち、私は「私は在る」という感覚に注意を払っていた。
だが、はじめのうちだけだ。
しばらくしてグルは死に、私は生きつづけた。
彼の言葉が真実だと証明された。
それだけだ。
それはすべてひとつの過程だった。
あなたはものごとを時間のなかで区別し、それから原因を探しだそうとして
いるのだ。
質問者 あなたの現在の仕事は何でしょうか? あなたは何をしているので
すか?
マハラジ
あなたは在ることと、することを同一視している。
それはそうではないのだ。
マインドと身体が動き、変化し、ほかのマインドと身体を動かし、変化させ
ていく。
それがすること、行為と呼ばれるものだ。
私が見るには、燃えることによって火が続いていくように、行為がつぎの行
為を生みだしていく、それが行為の本質だ。
私は行為もしなければ、ほかの者に行為させることもしない。
私は永遠に、起こっていることに気づいているのだ。
質問者 あなたのマインドのなかや、他者のマインドのなかのことも気づい
ているのでしょうか?
マハラジ
そこには、「私はこれだ、私はあれだ。これは私のものだ。あれは私のもの
だ」という考えが群れをなしたひとつのマインドがあるだけだ。
私はマインドではない。
けっしてそうではなかったし、そうあることもないだろう。
『私は在る』(p415-416)
さて、あなたのなかで変化しないものとは何だろうか?
食べ物があるかぎり、身体とマインドはある。
食べ物がなくなれば、身体は死に絶える。
マインドは溶け去る。
だが、観察者は消えるだろうか?
『私は在る』(p227-228)
あなたが殺せるのは身体だけだ。
精神的過程を止めることはできないし、あなたがあなただと考えている個人
に終止符を打つこともできないのだ。
『私は在る』(p228)
ただ、影響を受けずにいなさい。
このまったく超然と離れて在ること、マインドと身体に無関心であることは、
存在の核心では、あなたが身体でもマインドでもないことの最良の証明なの
だ。
何が起ころうとも、影響を受けるのはあなたの身体とマインドだけで、あな
た自身ではないのだと思い出しなさい。
『私は在る』(p228)
想像し、決意したことが現実となる。
ここに危険性と、また同様に解決の糸口があるのだ。
『私は在る』(p228)
ひとたびあなたの想像以外は何も困難をもたらすことができない、と絶対の
確信を持って知るなら、あなたは欲望や恐れ、概念や見解に注意を払わず、
真実とともにのみ生きるだろう。
『私は在る』(p131)
質問者 マインドはどうやって現れたのでしょうか?
マハラジ
世界は物質、エネルギー、知性で構成されている。
それらは多くの方法でそれ自体を現している。
欲望と想像が世界を創造する。
知性はその二つを調停し、平和と調和の感覚をもたらすのだ。
私にとっては、それはすべて起こるだけだ。
私は気づいていて、しかも影響を受けないままなのだ。
質問者 影響を受けないまま、気づいていることはできません。そこには言
葉上の矛盾があります。知覚とは変化です。ひとたびあなたがある
感覚を体験したら、記憶は以前の状態に後戻りすることを許さない
でしょう。
マハラジ
そのとおりだ。
記憶に加えられたことを消去するのは簡単なことではない。
しかし、間違いなくそれはできる。
事実、私はつねにそれをやっている。
飛ぶ鳥のように、私は足跡を残さないのだ。
質問者 観照者は名前と形をもっているのでしょうか、それとも、それらを
超えているのでしょうか?
マハラジ
観照者は気づきのなかの単なる点にすぎず、名前も形もない。
それは露のしずくに映る太陽の反映のようなものだ。
露のしずくには名前も形もない。
だが、光の小さな点は太陽によってできたものだ。
しずくの透明さとなめらかさは必要な条件であるが、それ自体としては充分
と言えない。
同じようにマインドの明晰性と沈黙は、マインドのなかに実在の反映が現れ
るために必要であるが、それだけでは充分でないのだ。
それを超えたところに実在がなければならない。
実在は永遠に存在しているため、必要条件のほうが強調されるのだ。
質問者 マインドが澄んで、静かにあるでもかかわらず、反映が現れないこ
ともありうるのでしょうか?
マハラジ
運命が考慮されなければならない。
無意識は運命に捕らえられている。
事実、それが運命なのだ。
人は待たなければならないかもしれない。
しかし、運命の手がいかに重くのしかかろうと、忍耐と自己制御によって取
り除くことはできるのだ。
統合と純粋さが障害をぬぐい去るとき、マインドのなかに実在の姿は現れて
くる。
質問者 どのようにして自己制御を習得するのでしょうか? 私のマインド
は軟弱なのです!
マハラジ
まず、あなたはあなたが考えているような個人ではないということを理解し
なさい。
あなたがあなた自身だと考えていることは、単なる想像や思いつきにすぎな
いのだ。
あなたに両親はいない。
あなたは生まれてもいなければ、死にもしないのだ。
私がそう言うのを信じるか、あるいは探求し、調査することでそれに到達す
るがいい。
完全なる信頼の道は速い。
もうひとつの道は遅いが、安定している。
どちらも行為によって試されなければならないのだ。
あなたが真実だと信じることにしたがって行動しなさい。
これが真理への道なのだ。
質問者 真理を受けるに値する人となることと運命とは、ひとつであり同じ
ことなのでしょうか?
マハラジ
そうだ、それらはどちらも無意識のなかにある。
意識している長所とは単なるうぬぼれにすぎない。
意識はつねに障害なのだ。
障害のないとき、人はそれを超えることができる。
質問者 私は身体ではないという理解が自己制御に必要な力を与えてくれる
でしょうか?
マハラジ
あなたが身体でもマインドでもないと知るとき、それらによって影響される
ことはなくなる。
それがどこにあなたを連れていこうとも、あなたはする必要のあることをし、
払うべき代償が何であれ、真理にしたがっていくだろう。
質問者 行為は真我の実現に本質的なものなのでしょうか?
マハラジ
真我の実現にとっては、理解が本質的なものだ。
行為は偶然のものでしかない。
確固とした理解の人は行為を差し控えるだろう。
行為とは真理の試験なのだ。
質問者 試験が必要なのでしょうか?
マハラジ
もしあなたがつねにあなた自身を試験しなければ、実在と空想との区別はで
きなくなるだろう。
観察と注意深い理性はある程度の助けになる。
しかし、実在は逆説的なのだ。
思考と感情、言葉と行動を見守り、なぜ、どのようにして、あなたの知らな
いうちにそれらが変化していくのかを疑わないかぎり、あなたが真我を実現
したということをどうして知ることができるだろう?
本当に驚くからこそ、それが実在だと知るのだ。
予想され、期待されたものが実在であることはまれだ。
『私は在る』(p416-418)
質問者 では、私たちは皆マインドの救済に関わっているのでしょうか?
マハラジ
それ以外の何だというのだろう?
マインドが道に迷い、マインドが家に帰り着くのだ。
『私は在る』(p294)
山田孝男の遺産 最終回
心は観察の主体ではなく、観察される対象である
─転載開始─
同じようにして思考も観察することができます。
普通は「私は○○を考えている」という状態で、考えている
「私」を分けることなく、思考と自己を同一視しています。
しかしこれも訓練によって、「考えている自分を見ている私」の
存在に気づくことができます。
つまり心自体は見る(観察する)主体ではなくて、見られる
対象なのです。
このように感覚・感情・思考を見る主体の意識に気がついたとき、
その「私」は自我ではない、より根元的な「私」であることに
気がつきます。その「私」は、まだ真我そのものとは言えませんが、
苦痛やさまざまな迷いから離れた、より静かで平安な「私」で
あることに気がつきます。
この観察がさらに継続され、確固としたものになったとき、
「私は存在する」と言う意識そのものも微妙な想念であることに
気がつきます。
そして「自我としての私」が消えていきます。
しかしそれは意識そのものが消滅するわけではありません。
言葉を超えた意識がそこにあります。思考も感情も感覚も
「私」ではない、つまり自我は「私」ではないことを直感的に
知っている知恵に満ちた意識が在ることを体験するのです。
これを体験する「私」を「ハイアーセルフ」と言う言葉で
呼ぶことにしています。
さらにハイアーセルフとして宇宙的意識の広がりを体験する
「私」も消滅したとき、残るのは完全な沈黙だけであり、
それこそラマナ・マハリシが「真我本来の状態」と呼んだ
ものに違いありません。
自分を幸福にしようと試みてはならない。
むしろ、幸福の探求自体を疑いなさい。
あなたが幸福でないから、幸福になりたいのだ。
なぜ幸福ではないのかを見いだしなさい。
『私は在る』(p487)
変化しないものを意識することはできない。
意識とはすべて、変化の意識なのだ。
だが、変化を知覚すること自体、不変の背景の存在を前提しているのだ。
『私は在る』(p535)
あなたは悟りを得るように運命づけられているのだということを理解しなさ
い。
あなたの運命に協力しなさい。
それに抗ってはいけない。
それを妨げてはいけない。
それが運命を全(まっと)うするのを許しなさい。
愚かなマインドがつくり出した障害に注意を払うこと、それがあなたのする
べきすべてなのだ。
『私は在る』(p330)
私を信じなさい。
そこには目的地もなければ、それへ到達する道もまたない。
あなたが道であり目的地なのだ。
あなた自身を除いて、到達するようなものは何もないのだ。
あなたに必要なのは理解することだけだ。
そして理解はマインドの開花なのだ。
樹が絶えることはないが、開花や結実は季節とともにやってくる。
季節は移り変わるが、樹は変わらない。
あなたが樹なのだ。
あなたは無数の枝や葉を今まで育ててきた。
そしてこれからも育てていくだろう。
だが、あなたはそのまま残るのだ。
あなたが知らなければならないことは、そう在ったことではなく、そうなる
だろうことでもない。
ただ在ることなのだ。
宇宙を創造した欲望はあなたのものだ。
世界はあなた自身の創造だと知り、自由になりなさい。
『私は在る』(p397-398)
質問者 個人はどのようにして現れるのでしょうか?
マハラジ
光が身体によって遮(さえぎ)られたとき、影が現れるのと同じように、純
粋な自己覚醒が「私は身体だ」という想念によって妨げられたとき、個人が
現れる。
そして影が地上の光によってその位置と形を変えていくように、個人も運命
のパターンにしたがって喜んだり、苦しんだり、休息したり、あくせく働い
たり、見いだしたり、失ったりするように現れて見えるのだ。
身体がもはやなくなったとき、個人は再帰することなく完全に消え去る。
ただ観照者と偉大な未知なるものだけが残るのだ。
観照者は「私は知っている」と言い、個人は「私は為(な)す」と言うのだ。
「私は知っている」ということは、真実に反することではない。
それは単に限定されているだけだ。
しかし、「私は為す」ということは、まったくの間違いだ。
なぜなら、そこには為す人など誰もいないからだ。
行為者であるという観念さえ含めたすべてはひとりでに起こるのだ。
質問者 それでは、行為とは何なのでしょうか?
マハラジ
宇宙は行為であふれている。
だが、そこに行為する者はいないのだ。
そこには自己同一化によって行為していると想像している無数の小さな、そ
して大きな、そしてとても大きな個人たちがいる。
だが、それが行為の世界(マハーダカーシュ)はすべてに依存し、すべてに
影響する単一の統一体だという事実を変えることはない。
星たちは私たちに深く影響を与え、私たちも星たちに影響を与える。
行為から意識へと一歩退き、行為は身体とマインドにまかせなさい。
行為はそれらの領域なのだ。
観照者さえも至高なるもののなかに消え去るまで、純粋な観照者としてとど
まりなさい。
木々でいっぱいの密林を想像してみなさい。
木材から板が切りだされ、一本の小さな鉛筆でその板に書いていく。
観照者は書かれたものを読み、そして鉛筆と板は密林に間接的に関係しては
いるが、書かれたことはそれとは何の関係もないことを知る。
それは完全にその上に付け加えられたものであり、その消滅には何の重要性
もないのだ。
人格の消滅にはつねに大いなる解放の感覚が続くものだ。
あたかも重荷が落ちたかのように。
質問者 あなたが、「私は観照者を超えた彼方にいる」と言うとき、どのよ
うな体験があなたにそう言わせるのでしょうか? それはただの観
照者としてある段階とはどのように違うのでしょうか?
マハラジ
それはプリント地の布を洗うようなものだ。
はじめにデザインが消え、それから背後の色が落ち、最後に布が真っ白にな
る。
人格は観照者に場をゆずる。
それから観照者は去り、純粋な気づきが残るのだ。
布は、はじめは白く、終わりも白い。
パターンと色はしばらくの間ただ起こっただけだ。
質問者 気づきの対象物なしに気づきはありうるのでしょうか?
マハラジ
気づきとその対象物を、私たちは観照と呼ぶのだ。
そこに欲望や恐れによって起こる対象物との自己同一化があるとき、そのよ
うな状態が個人と呼ばれるのだ。
実際にはただひとつの状態があるだけだ。
自己同一化によって歪曲(わいきょく)されたとき、それは個人と呼ばれる。
それが存在の感覚で色づけされたとき、それが観照者であり、
色も限定もないとき、それは至高なるものと呼ばれるのだ。
質問者 私はつねに落ち着きがなく、切望し、期待し、探しだし、見つけだ
し、楽しみ、放棄し、また探しはじめるのです。何が私を煮えたた
せつづけるのでしょうか?
マハラジ
本当は、あなたは知らぬままにあなた自身を探しているのだ。
あなたは愛するにふさわしい、完全に愛する価値あるものに恋いこがれてい
る。
無知ゆえに、あなたはそれを矛盾と対立の世界のなかに探し求めている。
あなたがそれを内側に見いだしたとき、あなたの探求は終わるのだ。
質問者 私はいつまでもこの悲しみに満ちた世界に取り組んでいくのでしょ
う。
マハラジ
先走ってはいけない。
あなたは知らないのだ。
すべての現れが対立のなかにあるのは本当だ。
快楽と苦痛、善と悪、高い低い、進歩と後退、休息と闘い。
それらはすべて、ともに来て、ともに去っていくものだ。
そしてそこに世界があるかぎり、その矛盾はそこにあるだろう。
そこにはまた完全な調和、至福、そして美のときがあるかもしれない。
だが、ほんのしばらくの間だけだ。
完全なものは、すべての完全なものの源に帰り着き、対立するものはその戯
(たわむ)れを続けるのだ。
質問者 どのようにして完成に到達するのでしょうか?
マハラジ
静かになりなさい。
世界のなかでのあなたの仕事をするがいい。
だが、内側では静かにしていなさい。
そうすればすべてはやってくるだろう。
真我実現のためにあなたの仕事に頼ってはならない。
それは他者に利益をもたらすかもしれないが、あなたにではない。
あなたの希望は、マインドのなかでは沈黙を保ち、ハートのなかで静かにし
ていることにあるのだ。
真我実現した人たちはとても静かなのだ。
『私は在る』(p418-420)
ただ非実在を実在として見なすこと、それがマインドにできる唯一のことな
のだ。
『私は在る』(p377)
自分を幸福にしようと試みてはならない。
むしろ、幸福の探求自体を疑いなさい。
あなたが幸福でないから、幸福になりたいのだ。
なぜ幸福ではないのかを見いだしなさい。
『私は在る』(p487)
変化しないものを意識することはできない。
意識とはすべて、変化の意識なのだ。
だが、変化を知覚すること自体、不変の背景の存在を前提しているのだ。
『私は在る』(p535)
あなたは悟りを得るように運命づけられているのだということを理解しなさ
い。
あなたの運命に協力しなさい。
それに抗ってはいけない。
それを妨げてはいけない。
それが運命を全(まっと)うするのを許しなさい。
愚かなマインドがつくり出した障害に注意を払うこと、それがあなたのする
べきすべてなのだ。
『私は在る』(p330)
私を信じなさい。
そこには目的地もなければ、それへ到達する道もまたない。
あなたが道であり目的地なのだ。
あなた自身を除いて、到達するようなものは何もないのだ。
あなたに必要なのは理解することだけだ。
そして理解はマインドの開花なのだ。
樹が絶えることはないが、開花や結実は季節とともにやってくる。
季節は移り変わるが、樹は変わらない。
あなたが樹なのだ。
あなたは無数の枝や葉を今まで育ててきた。
そしてこれからも育てていくだろう。
だが、あなたはそのまま残るのだ。
あなたが知らなければならないことは、そう在ったことではなく、そうなる
だろうことでもない。
ただ在ることなのだ。
宇宙を創造した欲望はあなたのものだ。
世界はあなた自身の創造だと知り、自由になりなさい。
『私は在る』(p397-398)
質問者 個人はどのようにして現れるのでしょうか?
マハラジ
光が身体によって遮(さえぎ)られたとき、影が現れるのと同じように、純
粋な自己覚醒が「私は身体だ」という想念によって妨げられたとき、個人が
現れる。
そして影が地上の光によってその位置と形を変えていくように、個人も運命
のパターンにしたがって喜んだり、苦しんだり、休息したり、あくせく働い
たり、見いだしたり、失ったりするように現れて見えるのだ。
身体がもはやなくなったとき、個人は再帰することなく完全に消え去る。
ただ観照者と偉大な未知なるものだけが残るのだ。
観照者は「私は知っている」と言い、個人は「私は為(な)す」と言うのだ。
「私は知っている」ということは、真実に反することではない。
それは単に限定されているだけだ。
しかし、「私は為す」ということは、まったくの間違いだ。
なぜなら、そこには為す人など誰もいないからだ。
行為者であるという観念さえ含めたすべてはひとりでに起こるのだ。
質問者 それでは、行為とは何なのでしょうか?
マハラジ
宇宙は行為であふれている。
だが、そこに行為する者はいないのだ。
そこには自己同一化によって行為していると想像している無数の小さな、そ
して大きな、そしてとても大きな個人たちがいる。
だが、それが行為の世界(マハーダカーシュ)はすべてに依存し、すべてに
影響する単一の統一体だという事実を変えることはない。
星たちは私たちに深く影響を与え、私たちも星たちに影響を与える。
行為から意識へと一歩退き、行為は身体とマインドにまかせなさい。
行為はそれらの領域なのだ。
観照者さえも至高なるもののなかに消え去るまで、純粋な観照者としてとど
まりなさい。
木々でいっぱいの密林を想像してみなさい。
木材から板が切りだされ、一本の小さな鉛筆でその板に書いていく。
観照者は書かれたものを読み、そして鉛筆と板は密林に間接的に関係しては
いるが、書かれたことはそれとは何の関係もないことを知る。
それは完全にその上に付け加えられたものであり、その消滅には何の重要性
もないのだ。
人格の消滅にはつねに大いなる解放の感覚が続くものだ。
あたかも重荷が落ちたかのように。
質問者 あなたが、「私は観照者を超えた彼方にいる」と言うとき、どのよ
うな体験があなたにそう言わせるのでしょうか? それはただの観
照者としてある段階とはどのように違うのでしょうか?
マハラジ
それはプリント地の布を洗うようなものだ。
はじめにデザインが消え、それから背後の色が落ち、最後に布が真っ白にな
る。
人格は観照者に場をゆずる。
それから観照者は去り、純粋な気づきが残るのだ。
布は、はじめは白く、終わりも白い。
パターンと色はしばらくの間ただ起こっただけだ。
質問者 気づきの対象物なしに気づきはありうるのでしょうか?
マハラジ
気づきとその対象物を、私たちは観照と呼ぶのだ。
そこに欲望や恐れによって起こる対象物との自己同一化があるとき、そのよ
うな状態が個人と呼ばれるのだ。
実際にはただひとつの状態があるだけだ。
自己同一化によって歪曲(わいきょく)されたとき、それは個人と呼ばれる。
それが存在の感覚で色づけされたとき、それが観照者であり、色も限定もな
いとき、それは至高なるものと呼ばれるのだ。
質問者 私はつねに落ち着きがなく、切望し、期待し、探しだし、見つけだ
し、楽しみ、放棄し、また探しはじめるのです。何が私を煮えたた
せつづけるのでしょうか?
マハラジ
本当は、あなたは知らぬままにあなた自身を探しているのだ。
あなたは愛するにふさわしい、完全に愛する価値あるものに恋いこがれてい
る。
無知ゆえに、あなたはそれを矛盾と対立の世界のなかに探し求めている。
あなたがそれを内側に見いだしたとき、あなたの探求は終わるのだ。
質問者 私はいつまでもこの悲しみに満ちた世界に取り組んでいくのでしょ
う。
マハラジ
先走ってはいけない。
あなたは知らないのだ。
すべての現れが対立のなかにあるのは本当だ。
快楽と苦痛、善と悪、高い低い、進歩と後退、休息と闘い。
それらはすべて、ともに来て、ともに去っていくものだ。
そしてそこに世界があるかぎり、その矛盾はそこにあるだろう。
そこにはまた完全な調和、至福、そして美のときがあるかもしれない。
だが、ほんのしばらくの間だけだ。
完全なものは、すべての完全なものの源に帰り着き、対立するものはその戯
(たわむ)れを続けるのだ。
質問者 どのようにして完成に到達するのでしょうか?
マハラジ
静かになりなさい。
世界のなかでのあなたの仕事をするがいい。
だが、内側では静かにしていなさい。
そうすればすべてはやってくるだろう。
真我実現のためにあなたの仕事に頼ってはならない。
それは他者に利益をもたらすかもしれないが、あなたにではない。
あなたの希望は、マインドのなかでは沈黙を保ち、ハートのなかで静かにし
ていることにあるのだ。
真我実現した人たちはとても静かなのだ。
『私は在る』(p418-420)
実在は本質的にひとりなのだ。
だが、マインドはそれをひとりにしておかない。
そして、その代わりに忙しく実在について考えつづける。
ただ非実在を実在として見なすこと、それがマインドにできる唯一のことな
のだ。
『私は在る』(p377)
(愚かさの終焉は)人においては──もちろんやってくる。
いかなる瞬間にでも。
人類においては──周知のように──長い年月の末にやってくる。
創造においては──けっしてありえない。
なぜなら、創造自体が無知の根本だからだ。
『私は在る』(p134)
私たちは多様性を、苦痛と快楽の劇を愛している。
私たちは対比によって魅せられているのだ。
このために対立するものと、それらの表面上の分裂を必要としている。
しばらくの間それらを楽しみ、それから退屈して、純粋な存在の平和と沈黙
を切望するのだ。
宇宙のハートは絶え間なく鼓動している。
あなたはその観照者であり、そのハートでもあるのだ。
『私は在る』(p434)
人は無意識であり、意識であり、超意識だ。
だが、あなたは人ではないのだ。
あなたのものとは映画のスクリーン、光、そして見る力だ。
だが、映像はあなたではない。
『私は在る』(p463)
質問者 私はアメリカに生まれました。この一四カ月間、シュリー・ラマナ
アシュラムに滞在していました。今、母の待つアメリカに帰る途中
です。
マハラジ
あなたの計画はどのようなものだろうか?
質問者 私は看護士としての資格をもつかもしれません。あるいはただ結婚
して、子どもをもつかもしれません。
マハラジ
何があなたに結婚を望むようにさせるのだろう?
質問者 スピリチャルな家庭をもつことは、社会奉仕の最高の形だと私は考
えています。しかし、もちろん人生は違った形を取るかもしれませ
ん。何が来ようとも受け入れる用意があります。
マハラジ
シュリー・ラマナアシュラムでの一四カ月間、彼らは何をあなたに与えたの
だろうか?
あなたがそこに到着したときと比べて、あなたはどう変わっただろうか?
質問者 私はもはや恐れなくなりました。私はある平和を見いだしたのです。
マハラジ
それはどのような類の平和だろうか?
求めたものが手に入った平和だろうか、あるいはもっていないものを求めな
い平和だろうか?
質問者 思うに、その両方を少しずつです。本当は楽ではありませんでした。
アーシュラムが平和なところにもかかわらず、内面的には、私は苦
悩のなかにいたのです。
マハラジ
内面と外面という区別はマインドのなかにあるだけだと自覚したとき、あな
たはもはや恐れなくなるのだ。
質問者 私にとってそのような自覚は、来ては去っていくものなのです。私
はまだ不動の絶対的な完成に至ってはいないのです。
マハラジ
あなたがそう信じているかぎり、完全ではないという偽りの観念を払いのけ
るためのサーダナ(修練)を続けなければならないだろう。
サーダナは真実の上に重ねられた偽りを取り除くのだ。
あなたが自分自身を時間と空間のなかにある点よりも小さく、切断されるに
は小さすぎる何か、殺されるには短命すぎる何かとして自覚したとき、その
とき、そしてその時にのみ、すべての恐れは消え去るのだ。
あなたは針の先端よりも小さい。
それでは、針はあなたを突き通すことはできない。
あなたが針を突き通すのだ!
質問者 そうです。ときどき、私は不屈だと感じます。私は恐れ知らず以上
の何かです。私は大胆不敵そのものなのです。
マハラジ
あなたをアーシュラムへ行かせるようにしたきっかけは何だったのだろうか?
質問者 私は不幸せな恋愛をして、地獄のように苦しんだのです。お酒も麻
薬も助けにはなりませんでした。暗闇を手探りしながらヨーガの本
にたどり着き、いくつかの手がかりを通じてラマナアシュラムにた
どり着いたのです。
マハラジ
もし同じような悲劇がまたあなたに起こったなら、同じように苦しむだろう
か?
現在のマインドの状態を思えばどうだろうか?
質問者 いいえ。けっしてふたたび私自身を苦しめたりはしません。死んだ
ほうがましなくらいです。
マハラジ
では、あなたは死を恐れないのだね!
質問者 死ぬことは恐れますが、死自体を恐れはしません。私は死の過程が
苦痛に満ち、醜いものだと想像するのです。
マハラジ
どうして知ることができるだろう?
それがそうである必要はない。
それは美しく、平和なものでありうるのだ。
ひとたびあなたが死は身体に起こり、あなたに起こるのではないと知れば、
あなたはただ、身体が捨て去られた衣服のように離れ去っていくのを見守る
だけだ。
質問者 私は死の恐怖が知識ではなく、不安によるものだということに完全
に気づいています。
マハラジ
人間は毎秒ごとに死んでいるのだ。
死ぬことへの恐怖と苦悩は雲のように世界の上にたれこめている。
あなたもまた恐れていることは、何も不思議なことではない。
だが、ひとたびあなたが、死ぬのは身体だけであり、記憶の継続性と、その
なかに反映する「私は在る」という感覚ではないと知れば、もはや恐れるこ
とはないのだ。
質問者 まず、死んでみて、それからどうなるか見てみましょう。
マハラジ
注意を払いなさい。
そうすれば、あなたは誕生と死がひとつであることを見いだすだろう。
生命は存在と非存在の間を脈動し、互いが他方をその完全性のために必要と
していることがわかるだろう。
あなたは死ぬために生まれ、再誕生するために死ぬのだ。
質問者 無執着がその過程を止めるのでしょうか?
マハラジ
無執着とともに、恐れが消える。
だが事実が消えることはないのだ。
質問者 私は再誕生するように強要されるのでしょうか? 何とひどい!
マハラジ
そこに強要はない。
あなたはあなたが求めることを得るのだ。
あなたが自分で計画を立て、それを実行に移すのだ。
『私は在る』(p482-483)
自分自身はこう在り、知り、行為すると想像し、惑わされているかぎりは、
私たちは悲しくも苦境にいるのだ。
『私は在る』(p129)
あなたのマインドの鏡のなかで、あらゆる類の画像が現れては消えてゆく。
それらがあなた自身の創造物であることを完全に知りつつ、それらが来ては
去っていくのを沈黙のなかで見守りなさい。
油断してはならない。
うろたえてはならない。
この沈黙の観察が、ヨーガの根本的な態度なのだ。
あなたは画像を見ている。
だが画像があなたではないのだ。
『私は在る』(p488)
質問者 私たちは苦しむように運命づけられているのでしょうか?
マハラジ
私たちは調べることによって成長する。
そして、成長するためには体験が必要だ。
私たちは理解していなかったことを繰り返す傾向がある。
もし私たちが感じやすく知性的であれば、苦しむ必要はないのだ。
苦痛は注意を呼び起こしているのであり、不注意への罰なのだ。
知的で慈悲に満ちた行為が唯一の治療法なのだ。
質問者 私は知性において成長したのですから、ふたたび苦しみが起こるの
を許したりはしません。ですが、自殺のどこが間違っているのでし
ょうか?
マハラジ
もしそれが問題を解決するならば、何も間違ってはいない。
もし解決しないなら、どうなるのかね?
ある苦痛に満ちた不治の病気や、耐えがたい災難のような外部的な要因で起
こった苦しみなら、正当性があるかもしれない。
だが、智慧と慈悲の欠如による苦しみなら、自殺は助けにはならない。
愚かな死は愚かな再誕生を意味するだけだ。
その上、カルマ(因果関係)の法則も考慮に入れなければならない。
忍耐は普通、もっとも賢明な身の振り方なのだ。
質問者 いかに激しく絶望的なものであっても、人は苦しみに耐えていかな
ければならないのでしょうか?
マハラジ
忍耐はひとつの考えであり、絶望的苦悩は別のものだ。
忍耐は意味深く、成果のあるものであり、苦悩は無駄なことなのだ。
質問者 なぜ、カルマを気にかけるのでしょうか? それはいずれにせよ、
それ自体の面倒を見るのです。
マハラジ
ほとんどのカルマは集合的なものだ。
私たちは他者の罪のために苦しみ、他者は私たちの罪に苦しむ。
人類はひとつなのだ。
この事実に無知であることはそれを変えることがない。
私たちは、私たち自身としてもっと幸福な人びとだったかもしれない。
だが、他者の苦しみへの無関心によって、私たちは苦しむのだ。
質問者 私はもっと責任のもてるように成長したことに気づいています。
マハラジ
それは良いことだ。
あなたがそう言うとき、マインドのなかでは何を思っているのだろう?
女性の身体のなかにいる責任感ある個人としてのあなた自身だろうか?
質問者 そこには身体があり、慈愛があり、記憶やいくつかのものごと、そ
して態度があります。集合的にそれらは個人と呼ばれるでしょう。
マハラジ
「私は在る」という想念も含めてだろうか?
質問者 「私は在る」は個人を形づくる多くのものを入れたかごのようなも
のです。
マハラジ
あるいはむしろ、そのかごを編んだ柳の枝だと言えるだろう。
あなたがあなた自身を女性だと考えるとき、あなたが女性だという意味だろ
うか、あるいはあなたの身体が女性として描写されたのだろうか?
質問者 それは、私の気分に依ります。ときどき、私は単に気づきの中心だ
と感じます。
マハラジ
あるいは気づきの大海だ。
だが、あなたは環境や条件によって偶然に引き起こされた男性でも女性でも
ないものだと感じた瞬間はなかっただろうか?
質問者 はい。ありましたが、そのことについて語ることにためらいを感じ
るのです。
マハラジ
ひとつのヒントで充分だ。
それ以上言う必要はない。
質問者 あなたのいらっしゃる前で、たばこを吸っても構わないでしょうか?
聖者の前でたばこを吸うことが習慣に反していることはよく知って
いるのですが。まして女性ですから。
マハラジ
もちろん吸うがいい。
誰もかまいはしない。
理解しているよ。
質問者 私は落ち着く必要があるのです。
マハラジ
しばしば、アメリカ人や西洋人にとってはそうなのだ。
ある期間のサーダナの後、エネルギーに満ち、猛烈にはけ口を求めるのだ。
彼らは共同体を組織し、ヨーガの教師となり、結婚し、本を書くといった─
─静かになり、エネルギーを内面に向け、無尽蔵の力の源泉を見いだし、そ
れを制御するという技を学ぶこと以外のすべてをするのだ。
質問者 確かに、あまりにたくさんのエネルギーのため、今帰国して非常に
活動的な生活を送りたいと望んでいることを認めます。
マハラジ
あなたが自分自身を身体とマインドだと見なさないかぎり、好きなことをす
ることができる。
実際に身体を放棄するという問題ではない。
あなたが身体ではないという明瞭な理解、超然とした感覚、感情的に巻き込
まれないことという、身体を放棄することにともなうすべてが重要なのだ。
『私は在る』(p484-486)
夢から夢へと動きまわるのは、あなたではない。
夢があなたの前を流れていき、あなたは不変の観照者なのだ。
いかなる出来事もあなたの存在に影響を与えることはない。
これが絶対的な真理なのだ。
『私は在る』(p351)
いったいどうして変わることを気にするのか?
身体もマインドも、また意識さえもあなた自身ではないと、きっぱりと自覚
しなさい。
そして意識も無意識も超えたあなたの真の本性のなかにひとり在りなさい。
明確な理解を除いては、いかなる努力もあなたをそこへ連れていかないだろ
う。
『私は在る』(p540)
あなた自身を改善しようと試みてはならない。
ただすべての変化が無駄であることを見るのだ。
変化するものは変化しつづける。
その間、不変なるものは待ちつづけているのだ。
変化するものが不変なるものへとあなたを連れていくと、期待してはならな
い。
それはけっして起こらない。
変化という観念自体が偽りとして見られ、放棄されたときにのみ、不変なる
ものがおのずと現れるのだ。
『私は在る』(p541)
私たちが進歩と呼ぶものは、ただ不快から快適への変化にすぎない。
しかし、変化そのものが不変へと私たちを導くことはできない。
なぜなら、何であれはじまりがあることには終わりがあるからだ。
『私は在る』(p160)
マインドが身体に仕えることに従事するとき、幸福は失われてしまう。
幸福をふたたび得ようとして、快楽の中に探し求めるのだ。
幸福になろうとする衝動は正しいものだ。
だが、それを確保しようとする方法が惑わせ、当てにならず、真の幸福を破
壊してしまうのだ。
『私は在る』(p487)
むしろ、幸福の探求自体を疑いなさい。
あなたが幸福でないから、幸福になりたいのだ。
なぜ幸福ではないのかを見いだしなさい。
幸福ではないから、快楽のなかに幸福を探し求めるのだ。
快楽は苦痛をもたらすため、あなたはそれを世俗的と呼ぶ。
それから、あなたは苦痛をともなわない、何かほかの快楽を切望する。
そして、それを神聖なものと呼ぶのだ。
実際には、快楽とは苦痛からの一時的な休息にすぎない。
幸福は世俗的であるものと、ないものの両方だ。
そのなかで、そしてその彼方で起こることのすべてなのだ。
いかなる分別もしてはならない。
分別できないものを分別してはならない。
そしてあなた自身を人生から遠ざけてはならない。
『私は在る』(p487)
だが、喜びの追求自体が苦しみの原因なのだ。
それは悪循環だ。
『私は在る』(p39-41)
ひとたびあなたが体験を通り抜けたなら、ふたたびそれを通らないことが
禁欲だ。
不必要なことを避けることが禁欲だ。
つねにものごとを制御することが禁欲だ。
『私は在る』(p229)
質問者 あなたの言われることはわかります。四年ほど前、私は身体的な側
面を拒絶した時期がありました。衣服を買わず、シンプルな食事を
し、ただの板の上に眠ったこともありました。重要なことは、欠乏
の不自由を受け入れることであって、実際の不便さは問題ではあり
ませんでした。今、私はあるがままの人生を歓迎し、それが差しだ
すすべてを愛することが最善なのだと自覚しました。私は、何であ
れやってきたことを喜びとともに受け入れ、そして最善を尽くすで
しょう。もし私が少人数の子供たちに生命と真の文化を与えること
ができるなら充分です。私のハートはすべての子供たちに引かれる
のですが、皆に届くことはできません。
マハラジ
あなたは男性─女性意識をもつときだけ結婚し、母親となるのだ。
あなたが自分自身を身体と見なさないとき、気づきの光だけが唯一の実在で
あり、身体の織りなす家族生活がいかに強烈で、あるいは興味深いものであ
っても、それはマインドのスクリーン上の戯(たわむ)れとして見られるだ
けだ。
質問者 なぜ、あなたは気づきだけが唯一の実在だと主張するのでしょうか?
気づきの対象物も、それが存続するかぎり、実在なのではないでし
ょうか?
マハラジ
だが、それは存続しないのだ。
一時的な実在は二次的なものだ。
それは永遠なるものに依存するのだ。
質問者 あなたが言わんとしているのは、継続性でしょうか、あるいは永久
性でしょうか?
マハラジ
存在のなかに継続性はない。
継続性は過去、現在、未来における同一性を暗示している。
そのような同一性は不可能なのだ。
なぜなら、同一化の手段自体が変動し、変化するからだ。
継続性や永久性は記憶によってつくられた幻想だ。
それは単なる精神的投影のパターンなのだ。
一時的や永久的、身体やマインド、男と女といったすべての観念を放棄しな
さい。
何が残るだろう?
すべての分離が捨て去られたとき、あなたのマインドの状態はどうなってい
るだろうか?
私は区別をあきらめなさいと言っているのではない。
それなしには顕現もありえないからだ。
質問者 私が分離していないときは幸福で平和です。それでも、どうしてか
私はその状態の認識を失ってしまい、何度も、外側のもののなかに
幸福を探そうとしてしまうのです。どうして内なる幸福は安定しな
いのでしょうか? 私には理解できません。
マハラジ
結局、平和もまたひとつのマインドの状態なのだ。
質問者 マインドを超えた彼方には沈黙があります。それについては何も言
えることはありません。
マハラジ
そうだ。その段階での
沈黙についての話は、みな騒音にすぎない。
質問者 どうして私たちは自己の自然な幸福を体験した後でさえ、世俗的な
幸福を探し求めようとしてしまうのでしょうか?
マハラジ
マインドが身体に仕えることに従事するとき、幸福は失われてしまう。
幸福をふたたび得ようとして、快楽の中に探し求めるのだ。
幸福になろうとする衝動は正しいものだ。
だが、それを確保しようとする方法が惑わせ、当てにならず、真の幸福を破
壊してしまうのだ。
質問者 快楽はつねに悪いことなのでしょうか?
マハラジ
身体やマインドを正しく使い、正しい状態に置くことは、非常に快いものだ。
間違いは快楽を追求することなのだ。
自分を幸福にしようと試みてはならない。
むしろ、幸福の探求自体を疑いなさい。
あなたが幸福でないから、幸福になりたいのだ。
なぜ幸福ではないのかを見いだしなさい。
幸福ではないから、快楽のなかに幸福を探し求めるのだ。
快楽は苦痛をもたらすため、あなたはそれを世俗的と呼ぶ。
それから、あなたは苦痛をともなわない、何かほかの快楽を切望する。
そして、それを神聖なものと呼ぶのだ。
実際には、快楽とは苦痛からの一時的な休息にすぎない。
幸福は世俗的であるものと、ないものの両方だ。
そのなかで、そしてその彼方で起こることのすべてなのだ。
いかなる分別もしてはならない。
分別できないものを分別してはならない。
そしてあなた自身を人生から遠ざけてはならない。
質問者 今、私はなんと良くあなたを理解したことでしょう! 以前、ラマ
ナアシュラムにいたときは、私は良心に支配され、いつも自分自身
を裁いていたのです。今、私は完全に落ち着きました。私自身を完
全に、あるがまま受け入れました。アメリカに戻ったら、私は人生
を起こるがまま、バガヴァーンの恩寵(おんちょう)として受け入
れます。そして苦みも甘みもともに楽しむでしょう。バガヴァーン
を信頼すること、これがアーシュラムで学んだことのひとつなので
す。以前、私はこんなふうではありませんでした。私には信頼する
ことができなかったのです。
マハラジ
バガヴァーンを信頼することは、あなた自身を信頼することだ。
何であれ起こることは、あなたによって、あなたを通して、あなたに起こる
のだ。
あなたがあなたの知覚するすべてを創造する者であり、それを楽しむ者であ
り、破壊する者だということに気づきなさい。
そうすれば、恐れることはないだろう。
恐れがなければ不幸になることはなく、幸福を探すこともないだろう。
あなたのマインドの鏡のなかで、あらゆる類の画像が現れては消えてゆく。
それらがあなた自身の創造物であることを完全に知りつつ、それらが来ては
去っていくのを沈黙のなかで見守りなさい。
油断してはならない。
うろたえてはならない。
この沈黙の観察が、ヨーガの根本的な態度なのだ。
あなたは画像を見ている。
だが画像があなたではないのだ。
『私は在る』(p486-488)
間違いは快楽を追求することなのだ。
自分を幸福にしようと試みてはならない。
むしろ、幸福の探求自体を疑いなさい。
『私は在る』(p487)
マインドが身体に仕えることに従事するとき、幸福は失われてしまう。
『私は在る』(p487)
......、喜びの追求自体が苦しみの原因なのだ。
それは悪循環だ。
『私は在る』(p39-41)
もちろん、事実は現実だ。
私はそれらのなかに生きている。
しかし、あなたは事実ではなく、想像のなかに生きているのだ。
事実はけっして衝突しない。
だが、あなたの人生と世界は矛盾で満ちている。
矛盾は偽物の証拠なのだ。
『私は在る』(p300)
本当に実在のように見えることが想像の神秘なのだ。
あなたは禁欲主義者か、あるいは結婚しているかもしれない。
修行僧か、あるいは家庭をもつ人かもしれない。
それは要点ではないのだ。
あなたは自分の想像の奴隷だろうか、あるいは違うだろうか?
あなたがいかなる決定をしようとも、いかなる仕事をしようとも、それは変
わることなく想像、想定が事実として誇示していることにいつも基づいてい
るのだ。
『私は在る』(p371-372)
世界はそれ自体からそれ自体を再創造するのだ。
それは一時的なものが一時的なものを生みだしていく果てしない過程だ。
そこに行為者がいなければならないとあなたに考えさせるのは自我なのだ。
どれほど恐ろしいイメージであろうとも、あなたがあなた自身のイメージに
よって神をつくり出すのだ。
あなたのマインドのフィルムを通して世界を投影し、そして原因と目的を与
えるために神をも投影する。
それはすべて想像なのだ。
その外へと踏みだしなさい。
『私は在る』(p371)
あなたが世界に意味を与えるのではない。
あなたはそれを見いだすのだ。
あなた自身のなかに深く潜っていきなさい。
そしてすべての意味があふれだす源を見いだしなさい。
間違いなく、意味を与えることができるのは表面的なマインドではないのだ。
質問者 私は死に関して考えることが私を脅かすことに気づきました。なぜ
なら、私はふたたび誕生したくないからです。誰もそれを強要して
いないことは知っています。それでも、満たされなかった欲望の圧
力は圧倒的で、私には抵抗できそうにないかもしれません。
マハラジ
抵抗という問題は起こらない。
誕生し、再誕生するものは、あなたではないからだ。
それを起こらせるがいい。
それが起こるのを見なさい。
質問者 では、なぜそれに関心をもつのでしょうか?
マハラジ
関心をもっているのはあなたなのだ!
そして、その絵があなたの真実、愛、美の感覚と衝突するかぎり、あなたは
それに関心をもちつづけるだろう。
調和と平和への熱望は、消し去ることのできないものだ。
だが、ひとたびそれが満たされれば関心は去り、身体的生活は注意のレベル
以下の努力を要しないものとなる。
身体を得るか、身体を去るかは、あなたにとって同じこととなる。
あなたには何ひとつ起こらないという地点に達するのだ。
身体なしには殺されない。
所有物なしには奪われない。
マインドなしには騙(だま)されない。
そこに欲望や恐れを引っかける留めクギもない。
何の変化もあなたに起こらないかぎり、ほかに何の問題があるだろうか?
質問者 とにかく、私は死ぬという感覚が嫌いなのです。
マハラジ
なぜなら、あなたはとても若いからだ。
あなたがあなた自身についてより多く知るほど、より恐れなくなるだろう。
もちろん、死の苦悶を見ることはけっして快いことではない。
だが、死にゆく人が意識していることはまれなのだ。
質問者 彼は意識に戻ってくるのでしょうか?
マハラジ
それは非常に眠りに似ている。
しばらくの間、個人は焦点からはずれ、その後、それは戻ってくるのだ。
質問者 同じ個人が戻ってくるのでしょうか?
マハラジ
環境をつくり出す個人は、必然的に環境とともに変化していく。
それは燃料とともに炎が変化していくようなものだ。
ただ、その過程だけが時間と空間を創造しながら続いていくのだ。
質問者 ともかく、神様が私の面倒を見てくれるでしょう。私は彼にすべて
を預けることができるのです。
マハラジ
神への信仰さえも、道の上の一段階にすぎない。
最終的には、あなたはすべてを放棄するのだ。
なぜなら、あなたは言葉では表現できないほどシンプルな何かを実現するか
らだ。
質問者 私はまだはじめたばかりなのです。はじめのころは、信仰も、信頼
もなく、ものごとを起こらせることを恐れていました。世界はとて
も危険で、有害なところだったのです。少なくとも今、私はグルや
神を信頼することについて話すことができるようになりました。私
を成長させてください。私を無理に駆りたてないでください。私自
身のペースで進ませてください。
マハラジ
もちろん進むがいい。
だが、あなたはそうしない。
あなたはいまだ男と女、老人と若者、生命と死という観念に固執している。
進みなさい。
超えていきなさい。
認識されたことは、超越されるのだ。
質問者 どこへ行こうと、人びとは私の過ちを見つけることが彼らの義務か
のように、私を駆りたてるのです。私はもう、この霊的な助言のお
仕着せに飽き飽きしました。私の現状のどこが間違っているという
のでしょう? どんなに栄光あるものであっても、それを未来のた
めに犠牲にするべきでしょうか? 実在は今のなかにある、とあな
たは言います。私は私の現在を愛しているのです。私はそれが欲し
いのです。永遠に、私の現状と未来を不安に思いつづけたくありま
せん。より多くやより良くを追いかけまわしたくはないのです。私
がもっているものを愛させてください。
マハラジ
あなたはまったく正しい。
そうしなさい。
ただ、正直でありなさい。
あなたが愛することだけを愛しなさい。
闘ってはいけない。
努力してはいけない。
質問者 これこそ、私がグルへの明け渡しと呼ぶものなのです。
マハラジ
なぜ外面化するのかね?
すべてのものがその表現である、あなたの真我に明け渡しなさい。
『私は在る』(p488-489)
存在のなかに継続性はない。
継続性は過去、現在、未来における同一性を暗示している。
そのような同一性は不可能なのだ。
なぜなら、同一化の手段自体が変動し、変化するからだ。
継続性や永久性は記憶によってつくられた幻想だ。
それは単なる精神的投影のパターンなのだ。
一時的や永久的、身体やマインド、男と女といったすべての観念を放棄しな
さい。
何が残るだろう?
すべての分離が捨て去られたとき、あなたのマインドの状態はどうなってい
るだろうか?
私は区別をあきらめなさいと言っているのではない。
それなしには顕現もありえないからだ。
『私は在る』(p486)
......すべての体験のなかに体験者が現れる。
記憶が連続するという幻想を与えるのだ。
実際には、各体験にそれぞれの体験者がいる。
そして、同一であるという感覚は、すべての体験者と体験との関係の根底に
おいて共通の要因があるためだ。
同一性と連続性は同じものではない。
ちょうどそれぞれの花がそれ自身の色をもっていながら、そのすべての色は
同じ光源をもとにしているように、数々の体験者も記憶においては別々であ
りながら、本質においては同一の分割不可能な気づきのなかに現れる。
この本質こそが根源、基盤、そして時空を超えたすべての体験の「可能性」
なのだ。
『私は在る』(p24-25)
あなたの古い感情と思考の習慣に抵抗しなさい。
自分自身に言いつづけなさい。
「いいや、違う。そうはありえない。私はこんなものではない。それは私に
必要ない。私はそれを欲しくない」と。
そうすれば、過ちと絶望の構造全体が崩壊し、新しい人生のための基礎が開
放される日が必ずやってくる。
『私は在る』(p461-462)
質問者 子どもの頃、忘我の境地、完全な幸福状態をたびたび体験しました
が、後にそれは止まってしまいました。インドに来て以来、特にあ
なたに出会って以来、その状態がふたたび現れはじめています。そ
れでも、どんなに素晴らしい状態であっても持続しません。それは
来ては去り、いつふたたび訪れるかもしれません。
マハラジ
マインドそのものが不動ではないのに、マインドのなかにある何が不動であ
りうるというのだろう?
質問者 どうすれば私のマインドを不動にできるのでしょうか?
マハラジ
不動でないマインドが、それ自身を不動にすることができるだろうか?
もちろんできはしない。
うろつきまわるのがマインドの本性なのだ。
あなたにできることは、意識の焦点をマインドの彼方へと移行させることだ
けだ。
質問者 どうすればいいのでしょうか?
マハラジ
「私は在る」という想念以外のすべての想念を拒絶しなさい。
はじめのうち、マインドは抵抗するだろう。
しかし忍耐と根気をもってすれば、それは降伏し、静かになるだろう。
ひとたびあなたが静かになれば、あなたからの干渉なしに、ものごとは自発
的にまったく自然に起こりはじめる。
質問者 このマインドとの長い闘いを避けることはできるのでしょうか?
マハラジ
できる。
生を起こるがまま生きなさい。
ただ留意し、見守り、あるがままにものごとが起こるのを許して、生がもた
らすままに、喜び、苦しみ、自然なことを自然に行う。
それもまた道なのだ。
質問者 それなら結婚し、子どもを持ち、仕事をして──幸せになることも
できるのですね。
マハラジ
もちろん。
幸せになるかもしれないし、ならないかもしれない。
あなたの歩調で歩くがいい。
質問者 でも、私は幸せになりたいのです。
マハラジ
真の幸福を、移り変わり過ぎ去っていくもののなかに見いだすことはできな
い。
喜びと苦しみは容赦なく交互にやってくる。
真の幸福は自己から来る。
そして、それは自己のなかにしか見いだせないのだ。
あなたの真我(スワルーパ)を見いだしなさい。
それとともに、それ以外のすべてもやってくるだろう。
質問者 もし私の真我が愛と平和ならば、なぜそれはこうも落ち着きがない
のでしょうか?
マハラジ
あなたの真の存在に落ち着きがないのではない、その反映がマインドのなか
に落ち着きなく現れるのだ。
なぜなら、マインドは落ち着きのないものだからだ。
それは水面に映る月が、風で揺らめくようなものだ。
欲望の風がマインドと、マインドのなかの真我の反映である「私」を揺り動
かし、千変万化に映しだす。
しかしこのような動き、落ち着きのなさ、喜びと悲しみといった観念は、す
べてマインドのなかに存在する。
真我はマインドを超えてあり、関わることなくただ気づいている。
質問者 どうやってそれに到達するのでしょうか?
マハラジ
たった今ここで、あなたは真我なのだ。
マインドのことは放っておきなさい。
覚めて、巻きこまれず、離れて在りなさい。
そうすれば、超然と油断なく在り、来ては去りゆく出来事をただ見守ること
が、あなたの真の本性の一側面であることに目覚めるだろう。
質問者 ほかの側面は何でしょうか?
マハラジ
側面は無数にある。
ひとつを知ればすべてを悟るだろう。
質問者 何か助けとなることを言ってください。
マハラジ
何が一番必要なのかはあなたが知っているはずだ。
質問者 私は落ち着きがありません。どうすれば平和になれるのでしょう?
マハラジ
何のために平和が必要なのだろう?
質問者 幸せになるために。
マハラジ
今、あなたは幸せではないのかね?
質問者 ええ、そうではありません。
マハラジ
何があなたを不幸せにするのだろう?
質問者 私は欲しくないものをもち、持っていないものが欲しいのです。
マハラジ
なぜそれを、持っているものを欲し、持っていないものは気にかけない、と
いうふうにひっくり返さないのかね?
質問者 私は快楽が欲しく、苦痛は欲しくないのです。
マハラジ
何が快楽で何がそうでないか、どうやって知るのだろうか?
質問者 過去の体験からです。もちろん。
マハラジ
記憶に導かれながらあなたは快楽を追求し、不快を避けてきた。
今まで成功しただろうか?
質問者 いいえ。快楽は長続きせず、苦しみはふたたび入りこんできます。
マハラジ
どの苦しみだろう?
質問者 喜びへの欲望と苦しみへの恐怖、どちらも惨めな状態です。純粋な
喜びという状態は存在するのでしょうか?
マハラジ
肉体的あるいは精神的なあらゆる喜びには手段が必要だ。
物理的、精神的な手段はともに物質であり、どちらもすたれ、使い果たされ
る。
それらが生み出す喜びは、必然的にその強度と期間に限界がある。
苦しみはすべての喜びの背景にある。
苦しむがゆえにあなたはそれを欲しがる。
だが、喜びの追求自体が苦しみの原因なのだ。
それは悪循環だ。
『私は在る』(p39-41)
あなたのマインドの鏡のなかで、あらゆる類の画像が現れては消えてゆく。
それらがあなた自身の創造物であることを完全に知りつつ、それらが来ては
去っていくのを沈黙のなかで見守りなさい。
『私は在る』(p488)
あなたのものとは映画のスクリーン、光、そして見る力だ。
だが、映像はあなたではない。
『私は在る』(p463)
誠実さとは、努力の結果を熱望することではない。
それは偽り、非本質的、個人的なものから興味をそらし、内なる移行をする
ことの表現なのだ。
『私は在る』(p474)
質問者 混乱の構造は理解できますが、出口が見いだせません。
マハラジ
構造を調べること自体が道を示すのだ。
つまるところ、あなたの混乱はあなたのマインドのなかにだけ存在している。
そのマインドはけっして混乱に抵抗せず、それを理解しようともしてこなか
った。
マインドが抵抗したのは苦しみに対してだけだった。
質問者 それでは、私は混乱しつづけるしかないのですか?
マハラジ
油断なく在りなさい。
問いかけ、観察し、調べ、混乱があなたや他人に何をし、どう作用するのか、
混乱について何ができるのかをすべて学びなさい。
混乱について明らかにすることで、あなたはそれを一掃する。
質問者 自分の内側を見つめるとき、私のもっとも強い欲望は己の記念碑、
自分を永続させる何かをつくり出したいのだということが見てとれ
ます。私が家や、妻や、子どもを思うときでさえ、それは永続する
確固たる自己の証明となるからです。
マハラジ
では、記念碑をつくるがいい。
どうするつもりかね?
質問者 それが永遠のものであるかぎり、何を建てるかは問題ではないので
す。
マハラジ
あなた自身、何ひとつ永遠のものはないと知るだろう。
すべては衰退し、朽ち果て、崩壊する。
記念碑を建てる土台そのものが崩れ去っていくのだ。
永続するような何を築くことができるというのだろう?
質問者 知的に、言葉の上では、すべてがはかないものだと気づいています。
しかしそれでも、私のハートは永遠なるものを求めています。何か
永続するものをつくりたいのです。
マハラジ
それでは永続する何かをつくるがいい。
そのようなものを何かもっているかね?
あなたの身体もマインドも長続きはしない。
どこかほかを探すべきだ。
質問者 永遠なるものを求めてきましたが、どこにも見いだすことはできま
せんでした。
マハラジ
あなた自身が永遠なのではないだろうか?
質問者 私は生まれました。そして死んでいくでしょう。
マハラジ
あなたが生まれる以前、あなたが存在していなかったと言えるだろうか?
そして死ぬときになって、「私はもはや存在しない」と言えるというのだろ
うか?
あなた自身の体験からも、あなたが存在していないということは不可能だ。
ただ、「私は在る」と言えるだけだ。
他者もまた、「あなたは存在しない」と言うことはできない。
質問者 眠りのなかでは、「私は在る」という感覚はありませんでした。
マハラジ
そんな決めつけたような言葉を吐く前に、目覚めの状態を一度注意深く調べ
てみるがいい。
目覚めの状態は、マインドが空白になった瞬間でいっぱいだとすぐに気づく
だろう。
完全に目覚めているときでさえ、あなたが覚えていることがいかにわずかか
ということに注意を払いなさい。
眠りの間、あなたに意識がなかったとは言えないはずだ。
ただ覚えていないだけなのだ。
記憶の隙間が必ずしも意識の隙間であるとはかぎらない。
質問者 深い眠りの状態を記憶することはできるのでしょうか?
マハラジ
もちろん!
目覚めている間の不注意なときを取り除くことが、眠りと呼ばれる長い放心
状態の感覚を徐々に除去するだろう。
あなたは自分が眠っていることに気づくようになるだろう。
質問者 しかし、永久なるもの、存在の永続性の問題はまだ解かれていませ
ん。
マハラジ
永久性とは時間の運動から生まれた、ただの概念にすぎない。
時間もまた記憶に依存する。
永久なるものと言うことで、あなたは無限なる時間を通して、変わることの
ない確かな記憶を表している。
あなたはマインドを永遠のものにしたい。
だが、それは不可能だ。
質問者 では、永遠とは何なのでしょうか?
マハラジ
それは時とともに変化しないものだ。
一時的な、はかないものを不滅にすることはできない。
不変のものだけが永遠なのだ。
質問者 あなたのおっしゃることの意味は概してなじみ深いものです。私は
これ以上の知識は欲しくありません。ただ平和が欲しいのです。
マハラジ
求めさえすれば、欲するすべての平和は得られる。
質問者 私は求めています。
マハラジ
ひたむきに求めなければならない。
そして統合された生を生きなさい。
質問者 どうすればよいのでしょうか?
マハラジ
あなたのマインドを落ち着かなくさせる、すべてのものからあなたを引き離
しなさい。
平和を乱す、すべてのものを放棄しなさい。
もし平和が欲しいのなら、それを受けるに値する者となりなさい。
質問者 もちろん、誰もが平和を受けるに値します。
マハラジ
それを妨げない者だけが受けるに値するのだ。
質問者 いったい、どのようにして私は平和を妨げているというのでしょう
か?
マハラジ
欲望や恐怖の奴隷となることによってだ。
質問者 たとえそれらが正当と見なされたときでもでしょうか?
マハラジ
無知や不注意から生じた感情的な反応はけっして正当化されない。
清らかなマインドと澄んだハートを探し求めなさい。
あなたに必要なのは、静かに油断なく自己の本性を探求することだけだ。
これが平和へのただひとつの道だ。
『私は在る』(p41-43)
マインドと自己同一化すること、ただそれだけがあなたを幸福に、あるいは
不幸にするのだ。
マインドへの隷属に反抗しなさい。
あなたの束縛は自分が創造したものだということを見なさい。
そして執着と反感への鎖を断ち切るのだ。
あなたがすでに自由であること、そして自由とは苦しい努力によって遠い未
来に獲得される何かではなく、永久にあなた自身のものとして使われるため
にそこにあることが明らかになるまでは、自由という目的を心に保ちなさい。
解放とは獲得ではなく勇気の問題だ。
あなたがすでに自由であると信じ、それにしたがって行為する勇気だ。
『私は在る』(p538)
解放とは、けっして個人が解放を得ることではなく、個人という実体から解
放されることなのだ。
『私は在る』(p361)
果てしない連続性のなかで、感情、思考、行為が脳のなかに痕跡(こんせき)
を残し、継続性という幻想をつくりながら、見守る者の前を駆け抜けていく。
マインドのなかで、見守る者の反映が「私」という感覚をつくり出し、個人
は一見独立したように見える存在を獲得するのだ。
『私は在る』(p360)
個人としてのあなたは、グルが個人としてのあなたに興味を持っていると想
像している。
まったくそうではない。
彼にとって、あなたは排除すべき厄介な障害だ。
彼は実際に、意識のなかの要因であるあなたを排除することを目指している
のだ。
『私は在る』(p360)
師は見守る者(魂)に言う。
「あなたはこれではない。このなかには、見守る者と彼の夢を橋渡しする
『私は在る』という小さな点以外、あなたのものは何ひとつないのだ」と。
「私はこれだ、私はあれだ」は夢なのだ。
一方、純粋な「私は在る」には実在の特質がある。
あなたは今まで本当にたくさんのことを味わってきた──だが、すべては無
に帰したのだ。
ただ、「私は在る」だけが変わることなく存続している。
あなたが彼方へと超えていけるようになるまで、変化の絶えないもののなか
で、不変なるものとともにとどまりなさい。
『私は在る』(p360)
個人とは、あなたを監禁する殻(から)でしかないのだ。
殻を破りなさい。
『私は在る』(p361)
そこには、何であれそれが知覚するものに実在性を分け与える中心がある。
あなたが理解すべきことは、あなたは実在の源であり、実在を得るのではな
く、あなたが実在を与えるということだけだ。
あなたには何の支持も確証も必要ないのだ。
『私は在る』(p361)
質問者 子どもの頃、忘我の境地、完全な幸福状態をたびたび体験しました
が、後にそれは止まってしまいました。インドに来て以来、特にあ
なたに出会って以来、その状態がふたたび現れはじめています。そ
れでも、どんなに素晴らしい状態であっても持続しません。それは
来ては去り、いつふたたび訪れるかもしれません。
マハラジ
マインドそのものが不動ではないのに、マインドのなかにある何が不動であ
りうるというのだろう?
質問者 どうすれば私のマインドを不動にできるのでしょうか?
マハラジ
不動でないマインドが、それ自身を不動にすることができるだろうか?
もちろんできはしない。
うろつきまわるのがマインドの本性なのだ。
あなたにできることは、意識の焦点をマインドの彼方へと移行させることだ
けだ。
質問者 どうすればいいのでしょうか?
マハラジ
「私は在る」という想念以外のすべての想念を拒絶しなさい。
はじめのうち、マインドは抵抗するだろう。
しかし忍耐と根気をもってすれば、それは降伏し、静かになるだろう。
ひとたびあなたが静かになれば、あなたからの干渉なしに、ものごとは自発
的にまったく自然に起こりはじめる。
質問者 このマインドとの長い闘いを避けることはできるのでしょうか?
マハラジ
できる。
生を起こるがまま生きなさい。
ただ留意し、見守り、あるがままにものごとが起こるのを許して、生がもた
らすままに、喜び、苦しみ、自然なことを自然に行う。
それもまた道なのだ。
質問者 それなら結婚し、子どもを持ち、仕事をして──幸せになることも
できるのですね。
マハラジ
もちろん。
幸せになるかもしれないし、ならないかもしれない。
あなたの歩調で歩くがいい。
質問者 でも、私は幸せになりたいのです。
マハラジ
真の幸福を、移り変わり過ぎ去っていくもののなかに見いだすことはできな
い。
喜びと苦しみは容赦なく交互にやってくる。
真の幸福は自己から来る。
そして、それは自己のなかにしか見いだせないのだ。
あなたの真我(スワルーパ)を見いだしなさい。
それとともに、それ以外のすべてもやってくるだろう。
質問者 もし私の真我が愛と平和ならば、なぜそれはこうも落ち着きがない
のでしょうか?
マハラジ
あなたの真の存在に落ち着きがないのではない、その反映がマインドのなか
に落ち着きなく現れるのだ。
なぜなら、マインドは落ち着きのないものだからだ。
それは水面に映る月が、風で揺らめくようなものだ。
欲望の風がマインドと、マインドのなかの真我の反映である「私」を揺り動
かし、千変万化に映しだす。
しかしこのような動き、落ち着きのなさ、喜びと悲しみといった観念は、す
べてマインドのなかに存在する。
真我はマインドを超えてあり、関わることなくただ気づいている。
質問者 どうやってそれに到達するのでしょうか?
マハラジ
たった今ここで、あなたは真我なのだ。
マインドのことは放っておきなさい。
覚めて、巻きこまれず、離れて在りなさい。
そうすれば、超然と油断なく在り、来ては去りゆく出来事をただ見守ること
が、あなたの真の本性の一側面であることに目覚めるだろう。
質問者 ほかの側面は何でしょうか?
マハラジ
側面は無数にある。
ひとつを知ればすべてを悟るだろう。
質問者 何か助けとなることを言ってください。
マハラジ
何が一番必要なのかはあなたが知っているはずだ。
質問者 私は落ち着きがありません。どうすれば平和になれるのでしょう?
マハラジ
何のために平和が必要なのだろう?
質問者 幸せになるために。
マハラジ
今、あなたは幸せではないのかね?
質問者 ええ、そうではありません。
マハラジ
何があなたを不幸せにするのだろう?
質問者 私は欲しくないものをもち、持っていないものが欲しいのです。
マハラジ
なぜそれを、持っているものを欲し、持っていないものは気にかけない、と
いうふうにひっくり返さないのかね?
質問者 私は快楽が欲しく、苦痛は欲しくないのです。
マハラジ
何が快楽で何がそうでないか、どうやって知るのだろうか?
質問者 過去の体験からです。もちろん。
マハラジ
記憶に導かれながらあなたは快楽を追求し、不快を避けてきた。
今まで成功しただろうか?
質問者 いいえ。快楽は長続きせず、苦しみはふたたび入りこんできます。
マハラジ
どの苦しみだろう?
質問者 喜びへの欲望と苦しみへの恐怖、どちらも惨めな状態です。純粋な
喜びという状態は存在するのでしょうか?
マハラジ
肉体的あるいは精神的なあらゆる喜びには手段が必要だ。
物理的、精神的な手段はともに物質であり、どちらもすたれ、使い果たされ
る。
それらが生み出す喜びは、必然的にその強度と期間に限界がある。
苦しみはすべての喜びの背景にある。
苦しむがゆえにあなたはそれを欲しがる。
だが、喜びの追求自体が苦しみの原因なのだ。
それは悪循環だ。
『私は在る』(p39-41)
本当にあなた自身のものを意識することはない。
あなたが意識していることは、あなたでもなければ、あなたのものでもない。
あなたのものとは知覚の力であり、あなたが知覚しているものではない。
『私は在る』(p463)
弟子:どうやって自己に到達できましょうか?
マハリシ:
自己に至るということはない。
自己がもし至られるべきものならば、それは今ここにはなく、やがて得られ
る何かを意味するだろう。
新しく得られるものはまた、失われるものでもある。
それは永遠のものではない。
永遠でないものに努力する価値はない。
それゆえに、自己は至るものではないと言うのである。
あなたは自己である。
あなたは既にそれである。
事実は、あなたは自分の至福に満ちた状態について無知だと言うことだ。
無知は次から次へと続き、至福である自己にベールをかける。
努力はただ、この悪い知識である無知のベールをはぐことに向けられればよ
い。
悪い知識とは、自己と身体や心などを誤って同一視することである。
この偽りの同一視は去らねばならぬ。
そうすればただ自己のみがそこに残る。
それゆえ、実現はすべての人おのおののものである。
実現は、それを願う人々の間に差別をつけない。
あなたが実現できるかという疑いそのもの、自分は実現していないという考
えそのものが障害である。
このような障害物からも自由になりなさい。
『ラマナ・マハリシの教え』(p125-126)
質問者 賢者の日々のマインドの状態とはどのようなものでしょうか? 彼
はどのように見、聞き、食べ、飲み、目覚め、働き、そして休むの
でしょうか? 彼の境地が私たちのものと異なるという証拠は何で
しょうか? いわゆる実現したと言われる人びとの証言以外に、客
観的に彼らの状態を証明する方法はありません。何か観察可能な違
いが彼らの生理学的な、そして神経反応、物質代謝、または脳波、
あるいは心身相関の構造のなかにあるのでしょうか?
マハラジ
あなたは違いを見つけるかもしれないし、見つけないかもしれない。
すべてはあなたの観察の能力にかかっている。
しかしながら客観的な違いがもっとも重要なものではない。
問題は彼らの見地と彼らの態度にある。
それは超然として、冷静で、完全に無執着で在ることだ。
質問者 ジニャーニの子どもが死んだとき、彼は悲しみを感じるのでしょう
か? 彼は苦しまないのでしょうか?
マハラジ
彼は苦しむ人たちとともに苦しむ。
出来事自体が重要なのではない。
だが、生きていようと死んでいようと、身体のなかにいようと外にいようと、
彼は苦しむ人たちに対して慈悲に満ちている。
やはり、彼の本性は愛と慈悲なのだ。
彼はすべての生命とひとつであり、行為のなかでひとつであることが愛なの
だ。
質問者 人びとは死をとても恐れています。
マハラジ
ジニャーニに恐れるものは何もない。
だが彼は恐れている人を哀れむ。
つまるところ、生まれること、生きること、そして死ぬことは自然なことだ。
恐れることは自然ではない。
もちろん起きていることに注意は払われる。
質問者 あなたが病気だと想像してください。医師が、あなたの病状は深刻
なもので、あと二、三日しかもたないだろうと言ったとします。あ
なたの最初の反応は何でしょうか?
マハラジ
無反応だ。
線香の火に燃えつきるときがくることが自然なように、身体が死ぬのは自然
なことだ。
それはまったく重要な問題ではない。
重要なことは、私は身体でもマインドでもないということだ。
私は在る
質問者 あなたの家族は絶望するでしょう。彼らに何と伝えるのでしょうか?
マハラジ
よく言われることだ。
恐れてはならない。
人生は続いていく。
神があなたたちを守るだろう。
私たちはすぐにまた一緒になるだろう、といったことだ。
だが、私にとってこの動揺全体は無意味なものだ。
なぜなら、私は生きるとか死ぬといった想像をする実体ではないからだ。
私はけっして生まれなかった。
私に死ぬことはできないのだ。
私には覚えることも忘れることもない。
質問者 死者への祈りはどうなるのですか?
マハラジ
もちろん、死者への祈りを捧げるがいい。
それはとても彼らの意にかなうだろう。
彼らは嬉しく思う。
ジニャーニはあなたがたの祈りを必要としていない。
彼自身があなた方の祈りへの応えなのだ。
質問者 死の後、ジニャーニはどのように旅立っていくのでしょう?
マハラジ
ジニャーニはすでに死んでいる。
あなたは彼にもう一度死ぬことを期待するのかね?
質問者 もちろん、身体の崩壊はジニャーニにとっても重要な出来事に違い
ありません。
マハラジ
ジニャーニに重要な出来事というものはない。
誰かが最高の目的を成就したときを除いては。
そのときだけは、彼のハートも喜ぶ。
それ以外のすべてに対して彼は関心がない。
宇宙全体が彼の身体であり、すべての生命は彼の生命なのだ。
都会でひとつの電球が消えたとき、それがネットワーク全体に影響を与える
ことはない。
同じようにひとつの身体の死が全体に影響を与えることはないのだ。
質問者 特定の存在は、全体にとって問題ではないかもしれませんが、特定
の存在にとっては問題です。全体とは抽象的なものですが、特定の
存在は具体的なものであり、現実です。
マハラジ
それはあなたがそう言うだけだ。
私にとってはその反対だ。
全体が現実で、部分は来ては去るものだ。
特定の存在は誕生、再誕生し、名前と形を変えていく。
ジニャーニはその変化を可能にする不変の実在なのだ。
しかし、彼はあなたに確信を与えることはできない。
それはあなた自身の体験とともにやってこなければならないのだ。
私にとってはすべてがひとつであり、すべてが同等だ。
質問者 罪と徳はひとつであり、同じものなのでしょうか?
マハラジ
それらはみな人間のつくり出した価値だ。
それらは私にどんな意味を持つというのだろう?
結果的に幸福をもたらすなら、それは徳だ。
結果的に不幸をもたらすものは罪だ。
どちらもマインドの状態だ。
私の境地はマインドの状態ではないのだ。
質問者 私たちは見るということの意味を理解できずにいる盲人のようです。
マハラジ
あなたの好きなように言うがいい。
質問者 沈黙の修練はサーダナとして効果的なものでしょうか?
マハラジ
何であれあなたが悟りを得るためにすることは、あなたを悟りへと近づける。
何であれあなたが悟りを覚えることなしにする行為は、あなたを悟りから遠
ざける。
だが、なぜそうことを複雑にするのかね?
ただ、あなたはすべてのものごとや思考を超えているということを覚えてお
きなさい。
あなたが成りたいもの、あなたはすでにそれなのだ。
だだ、それを心にとどめておきなさい。
『私は在る』(p201-203)
ジニャーニの言葉は、マインドのなかの無知と暗闇を追い払う力を持ってい
る。
『私は在る』(p211)
行為が必要なときには、行為は起こる。
人は行為者ではないのだ。
『私は在る』(p279)
質問者 あなたの言うことは聞いていますが、私には信じられないのです。
マハラジ
私もまた同じ立場にいたのだ。
だが、私はグルを信頼し、彼はそれが正しいことを証明した。
もしできるならば、私を信頼しなさい。
私の言うことを心にとどめておきなさい。
何も望んではならない。
なぜなら、あなたは何ひとつ欠いてはいないからだ。
探すということ自体が見つけるということを妨げるのだ。
質問者 あなたは本当にすべてのことに無関心なようですね!
マハラジ
私は無関心なのではない。
公平なのだ。
私には、私と私のものへの選り好みがないのだ。
かごいっぱいの土とかごいっぱいの宝石はどちらも不要なものだ。
生と死はどちらも同じことだ。
質問者 公平さがあなたを無関心にするのです。
マハラジ
その反対に、慈悲と愛が私の核だ。
すべての偏愛を離れ、愛することに自由なのだ。
質問者 仏陀は、悟りの概念は非常に重要なものだと言いました。ほとんど
の人たちは、悟りのために努力している人たちがいることはもちろ
ん、そのようなものがあるということさえ知らずに生きています。
ひとたび、彼らがそれについて耳にしたなら、けっして絶えること
のない種子がまかれたのです。それゆえ、彼は毎年八カ月間、彼の
比丘(びく)たちに絶え間なく教えを説くように送りだしたのです。
マハラジ
「人は食物、衣服、住居、知識、愛情を与えることができるが、最上の贈り
物は悟りの福音だ」と私のグルはよく言ったものだった。
あなたの言うとおりだ。
悟りは最上の贈り物だ。
ひとたびそれを得たら、誰もそれをあなたから取り上げることはできない。
質問者 もし西洋であなたがこのように話したら、人びとはあなたを狂人だ
と思うでしょう。
マハラジ
もちろん、彼らはそう思うだろう!
無知なる人びとにとって、彼らに理解できないことはすべて狂気なのだ。
それが何だというのだろう?
彼らは彼らのままであればいい。
私が私であることに何の益もなく、彼らが彼らであることに何の過ちもない。
至高の実在は無数の方法でそれ自身を顕現する。
果てしない数の名前と形がある。
同じ海の中にすべては立ち現れ、すべては溶けあう。
すべての源はひとつだ。
原因と結果を探し求めることはマインドの娯楽にすぎない。
存在するもの、それは愛すべきものだ。
愛は結果ではなく、存在の基盤そのものだ。
どこへ行こうと、あなたは存在と意識と愛を見いだすだろう。
いったいどうして、何のために選り好みをするのだろうか?
質問者 洪水や地震のような自然災害が、何千何百万の命を奪うことがあっ
ても、私を悩ましはしません。しかし、ひとりの人間が人の手によ
って死ぬとき、私は途方もなく悲しみます。不可避のものにはそれ
自体の威厳があります。しかし、殺すことは避けることができるも
のです。そしてそれゆえ、醜く恐ろしいものなのです。
マハラジ
すべては起こるように起こるのだ。
自然なものであれ、人為的なものであれ、災難は起こる。
怖がる必要はないのだ。
質問者 原因なしに何かがありうるのでしょうか?
マハラジ
すべての出来事のなかに宇宙全体が反映されている。
究極的な原因の由来を調べることは不可能だ。
因果律の概念自体はただの考え方にすぎない。
原因のない存在の出現を想像することはできない。
しかしながら、それが因果関係の存在を証明するわけではないのだ。
質問者 自然にはマインドがありません。それゆえ、責任はありません。し
かし、人にはマインドがあります。なぜ人のマインドはそれほどま
でに邪悪なのでしょうか?
マハラジ
邪悪さの原因もまた遺伝や環境などの自然なものだ。
あなたは性急に非難しすぎる。
他者について思い煩うことはやめなさい。
あなた自身のマインドを最初に扱いなさい。
あなたのマインドもまた、自然の一部分であることを自覚すれば、二元性は
消え去る。
質問者 私に計り知れない不思議としか言えません。マインドがどうして自
然の一部分でありうるのでしょうか?
マハラジ
なぜなら自然はマインドのなかにあるからだ。
マインドなしで自然がどこにあるだろうか?
質問者 もし自然がマインドのなかに在り、マインドが私自身のものならば、
私は自然を制御できるはずですが、それは事実ではありません。私
の制御を超えた力が、私の行動を決定するのです。
マハラジ
観照の姿勢を発達させなさい。
そうすれば、あなたは無執着が制御をもたらすということを自らの体験をも
って見いだすだろう。
観照している状態は完全な力をもっている。
そこには何も受動的なことはないのだ。
『私は在る』(p203-204)
何であれあなたが悟りを得るためにすることは、あなたを悟りへと近づける。
何であれあなたが悟りを覚えることなしにする行為は、あなたを悟りから遠
ざける。
『私は在る』(p203)
質問者 私の職業は医師です。外科からはじめて、現在は精神医学をやって
います。また、信仰による精神的健康とヒーリングに関する何冊か
の著作があります。あなたから霊的健康の法則を学ぶために来まし
た。
マハラジ
あなたが患者を治療しようとするとき、正確には、あなたは何を治そうとし
ているのだろうか?
治療とは何だろうか?
人が治ったと言えるのはどの時点だろうか?
質問者 私は身体を治療すると同時に、身体とマインドのつながりも改善し
ようとします。また、マインドを回復させようともします。
マハラジ
あなたはマインドと身体の連結を調べただろうか?
どの点でそれらは連結しているのだろうか?
質問者 身体と内在する意識の間にマインドがあるのです。
マハラジ
身体とは食べ物によってできたものではないだろうか?
そして、食べ物なしにマインドがありうるだろうか?
質問者 身体は食べ物によって築かれ維持されています。食べ物なしにはマ
インドは通常衰弱していきます。しかし、マインドは単なる食べ物
ではありません。そこにはマインドを身体のなかにつくり出す、あ
る変容させる要因があります。その変容させる要因とは何でしょう
か?
マハラジ
木が木ではない火を生みだすように、身体は身体ではないマインドをつくり
出すのだ。
しかし、マインドは誰にとって現れるのだろう?
あなたがマインドと呼ぶ思考や感情を知覚するのは誰だろうか?
木があり、火があり、火を楽しむ人がいる。
誰がマインドを楽しむのだろうか?
楽しむ人もまた食べ物の結果だろうか、あるいはそれに依存しないのだろう
か?
質問者 知覚する人は依存しません。
マハラジ
どうやってあなたは知るのだろう?
あなた自身の体験から語りなさい。
あなたは身体でもなくマインドでもないと言う。
どのようにしてそれを知るのだろうか?
質問者 私は本当は知りません。そう推測したのです。
マハラジ
真理は永遠のものだ。
実在は不変だ。
変化するものは実在ではない。
実在は変化しない。
さて、あなたのなかで変化しないものとは何だろうか?
食べ物があるかぎり、身体とマインドはある。
食べ物がなくなれば、身体は死に絶える。
マインドは溶け去る。
だが、観察者は消えるだろうか?
質問者 私は消え去らないと思いますが、証拠がありません。
マハラジ
あなた自身がその証拠なのだ。
ほかのどんな証拠もあなたはもっていないし、もつこともできない。
あなたはあなた自身だ。
あなたはあなた自身を知り、あなた自身を愛している。
何であれマインドがすることは、それ自身への愛のためにするのだ。
自己の本性そのものが愛なのだ。
それは愛し、愛され、そして愛すべきものだ。
身体とマインドをそんなにも興味深く、親しくするのは自己だ。
それらに与えられる配慮自体も自己からやってくるのだ。
質問者 もし真我が身体でもマインドでもないなら、身体とマインドなしに
自己は存在できるのでしょうか?
マハラジ
できる。
自己がマインドと身体から独立した存在だということは実際の体験なのだ。
それは存在─意識─至福だ。
存在の意識は至福なのだ。
質問者 それはあなたにとっては実際体験でしょうが、私にとってはそうで
はありません。私はどのようにして同じ体験に行き着くことができ
るでしょうか? 何の修練にしたがい、どのような訓練をすればよ
いのでしょうか?
マハラジ
あなたが身体でもマインドでもないと知るには、あなた自身を油断なく揺る
ぎなく見守ることだ。
また、あなたの身体とマインドに影響を受けることなく、完全に距離を置き、
あたかも死んでいるかのように生きるがいい。
つまりあなたは身体にもマインドにも既得権をもっていないという意味だ。
『私は在る』(p227-228)
「心」と呼ばれているものは、
真我に内在するおどろくべき力である。
心はすべての想いが起こってくる源である。
想いを離れて心はない。
それゆえ、想いが心の本性である。
真我の中から心が現れるときに、
世界が現れる。
それゆえに、世界が(実在として)現れているときには、
真我は隠されている。
『静寂の瞬間』(p5)
世界とはマインドの表面だ。
そしてマインドは無限なのだ。
私たちが想念と呼ぶものは、マインドのなかのさざ波にすぎない。
マインドが静かなとき、それは実在を反映する。
マインドが徹底的に不動であるとき、それは消え去り、ただ実在だけが残る
のだ。
『私は在る』(p503)
すべては観念の戯(たわむれ)れだ。
観念化から自由になった状態(ニルヴィカルパ・サマーディ)のなかでは、
何も知覚されはしない。
その根本となる観念が「私は在る」だ。
それが純粋意識の状態を打ち破る。
すると無数の感覚、知覚、感情、観念がその後に続いていく。
それらの全体性が神であり、その世界なのだ。
「私は在る」は観照者として残る。
しかし、すべては神の意志で起こるのだ。
またしても、あなたはあなた自身を神と観照者に分割した。
それらはひとつなのだ。
質問者 それは危険です!
マハラジ
私はあなたに自殺しろと言っているのではない。
それに、あなたにはできない。
あなたが殺せるのは身体だけだ。
精神的過程を止めることはできないし、あなたがあなただと考えている個人
に終止符を打つこともできないのだ。
ただ、影響を受けずにいなさい。
このまったく超然と離れて在ること、マインドと身体に無関心であることは、
存在の核心では、あなたが身体でもマインドでもないことの最良の証明なの
だ。
身体とマインドに起こることは、あなたの力では変えられないかもしれない。
しかし、あなたはいつでもあなたが身体とマインドだと想像することをやめ
られるのだ
何が起ころうとも、影響を受けるのはあなたの身体とマインドだけで、あな
た自身ではないのだと思い出しなさい。
覚えなければならないことを覚えることに誠実であればあるほど、あるがま
まのあなた自身に早く気づくようになるだろう。
なぜなら、記憶が体験となるからだ。
誠実さが存在を明かすのだ。
想像し、決意したことが現実となる。
ここに危険性と、また同様に解決の糸口があるのだ。
あなたがどのようにして不変である本来の自己を身体とマインドから切り離
したのか、話してみなさい。
質問者 私は医者です。私は多くを学び、訓練方法としての厳しい制御と、
定期的な断食を自らに課してきました。私は菜食主義者です。
マハラジ
しかし、ハートの奥底で、本当にあなたが欲しているものは何だろうか?
質問者 私は実在を見いだしたいのです。
マハラジ
実在のために、どれほどの代償を支払う用意があるのかね?
いくらでもかまわないかね?
質問者 理論的には、いかなる代償も支払う用意があります。実際の人生で
は、何度も何度も私と実在の間を阻むような行動をさせられてきま
した。欲望が私を夢中にさせるのです。
マハラジ
あなたの欲望を、実在以外にはそれを満たすことができなくなるほど増大さ
せ、拡大させなさい。
欲望が間違いなのではない。
だがその狭さ、小ささが間違いだ。
欲望とは献身だ。
ぜひとも真実に、かぎりなきものに、生命の永遠のハートに献身しなさい。
欲望を愛に変容させなさい。
あなたが求めているのは幸福であることだけだ。
あなたのすべての欲望はそれが何であれ、あなたの幸福への熱望の表現なの
だ。
基本的に、あなたはあなた自身の幸福を望んでいるのだ。
質問者 そうすべきではないと、私は知っています......。
マハラジ
何だって!
誰がそうすべきではないとあなたに言ったのかね?
幸せになることの何が悪いのか?
質問者 自己は去らねばなりません。
マハラジ
しかし、自己はそこにある。
あなたの欲望はそこにある。
あなたの幸福への熱望はそこにある。
なぜか?
なぜなら、あなたはあなた自身を愛しているからだ。
あなた自身を愛しなさい。
賢明に。
あなたを苦しめることになるような、愚かな仕方であなた自身を愛してはな
らない。
あなた自身を賢明に愛しなさい。
耽溺(たんでき)も禁欲も、ともにあなたを幸せにする同じ目的をもってい
る。
耽溺は愚かな方法であり、禁欲は賢い方法だ。
質問者 禁欲とは何でしょうか?
マハラジ
ひとたびあなたが体験を通り抜けたなら、ふたたびそれを通らないことが禁
欲だ。
不必要なことを避けることが禁欲だ。
つねにものごとを制御することが禁欲だ。
欲望自体は何も悪いものではない。
それは生命そのもの、知識と体験のなかに成長しようとする衝動なのだ。
間違いはあなたの選択にある。
食べ物、セックス、権力、名声といったささいなことがあなたを幸せにする
と想像するのは、自分自身を欺くことだ。
あなたの本来の自己のように、深く、広大な何かだけがあなたを真に、永遠
に幸福にするのだ。
『私は在る』(p228-229)
質問者 自己愛の表現としての欲望が何も基本的に間違ったものではないと
すれば、どのように欲望を扱えばよいのでしょうか?
マハラジ
つねにもっとも深い自己への興味を心に保ち、生を知的に生きなさい。
結局、あなたが本当に欲しいのは何なのか?
完璧ではないかね。
あなたはすでに完璧なのだ。
あなたが求めているのは、あなたであるものを行為のなかで表現することな
のだ。
このためにあなたは身体とマインドを持っているのだ。
それらを手にし、あなたに仕えさせなさい。
質問者 ここで操作をする人は誰でしょうか? 誰が身体とマインドを手に
しているのでしょうか?
マハラジ
浄められたマインドが自己の誠実な奉仕者なのだ。
それが内面と外面の道具を監督し、それらを目的のために仕えさせるのだ。
質問者 それらの目的とは何でしょう?
マハラジ
自己は普遍のものだ。
そしてその目的も普遍のものだ。
自己には個人的なものは何もない。
秩序ある生を生きなさい。
だが、それ自体を目的にしてはならない。
それは高次の冒険のための出発点であるべきだ。
質問者 あなたは私がインドを繰り返し訪れることを勧めますか?
マハラジ
もしあなたが真剣ならば、あちこち動き回る必要はない。
どこにいようと、あなたはあなた自身だ。
そして、あなたは自分自身の空気をまわりにつくり出す。
移動や交通は解放を与えはしない。
あなたは身体ではないのだ。
身体を場所から場所へと引きずりまわしても、あなたをどこへも連れて行き
はしない。
あなたのマインドは三界を思いのままに行き来するのも自由なのだ。
それを最大限に利用するがいい。
質問者 もし私が自由ならば、なぜ身体のなかにいるのでしょうか?
マハラジ
あなたは身体のなかにはいない。
身体があなたのなかにあるのだ!
マインドはあなたのなかにある。
身体とマインドはあなたに起こるのだ。
それらがそこにあるのは、あなたがそれらに興味をもったからだ。
あなたの本性は楽しむための無限の能力をもっている。
いっぱいの情熱と愛情をもっている。
それはその輝きを気づきの焦点のなかに来るすべてに放ち、何ひとつ除外さ
れるものはない。
あなたの本性は悪も醜さも知らない。
それは期待し、信頼し、愛する。
あなたたちはあなたの本来の自己を知らないことで、どれほど逃しているか
を知らないのだ。
あなたは身体でもマインドでもない。
燃料でも火でもない。
それらはそれら自体の法則にしたがって現れては消えるのだ。
あなたであるそれ、あなたの本来の自己、あなたはそれを愛している。
そして何であれあなたのすることは、あなた自身の幸福のためにするのだ。
それを探し、それを知り、慈しむのはあなたの基本的な衝動なのだ。
遙かなる昔から、あなたはあなた自身を愛してきた。
だが、けっして賢明なやり方ではなかったのだ。
自己に仕えるために、あなたの身体とマインドを賢く使いなさい。
それだけだ。
あなた自身の自己に真実でありなさい。
あなた自身を絶対的に愛しなさい。
他者をあなた自身のように愛しているというふりをしてはならない。
彼らとあなたがひとつであると悟らないかぎり、あなたに彼らを愛すること
はできない。
あなたではないもののふりをしてはならない。
あなたであることを拒んではならない。
あなたの他者への愛は自己知識の結果であって、その原因ではない。
真我の実現なしには、いかなる徳も本物ではない。
すべてを通して同じ生命が流れ、あなたがその生命なのだということを、疑
いを超えて知ったとき、あなたはすべてを自然に自発的に愛するだろう。
あなたが、あなた自身へのあなたの愛の深さと豊かさを悟ったとき、すべて
の生きているものたちと宇宙全体があなたの愛情のなかに含まれていること
を知るだろう。
しかし、何であれあなたから分離していると見るとき、あなたはそれを愛せ
ない。
なぜなら、あなたはそれを恐れているからだ。
疎外は恐れを引き起こし、恐れは疎外をより深くする。
それは悪循環だ。
真我の実現だけがその輪を断ち切ることができる。
固い決意でそれに向かいなさい。
『私は在る』(p230-231)
マハラジ
完全な鏡の本性とは、あなたには見ることはできないということだ。
何であれあなたが見ることができるものは、汚れであらざるをえない。
それに背を向け、捨て去りなさい。
質問者 知覚可能なものすべてが汚れなのでしょうか?
マハラジ
すべては汚れだ。
質問者 世界全体が汚れなのですか?
マハラジ
そのとおりだ。
質問者 何とひどい! では宇宙は何の価値もないのですか?
マハラジ
それは途方もない価値をもっている。
それを超えていくことによって、あなたはあなた自身を実現するのだ。
質問者 私たちはサティア・サイババ* のアーシュラムにある期間滞在して
いました。また、ティルヴァンナーマライのラマナアシュラマムで
も2カ月ほど過ごしました。今、私たちはアメリカへ帰国の途上な
のです。
* 訳注 サティア・サイババ Satya Sai Baba (1926-)アーンドラ・
プラディーシュ州の村プッターパルティに生まれる。マハーラー
シュトラ州の偉大な聖者シルディ・サイババの化身であると自ら
名乗る。砂糖菓子や花、聖灰を物質化し、遠く離れた弟子の想念
を読みとるといった奇跡を行なう世界的に有名なグル。
マハラジ
インドがあなたに何らかの変化をもたらしただろうか?
質問者 私たちは重荷を降ろしたかのように感じています。シュリー・サテ
ィヤ・サイババは、すべてを彼に明け渡し、ただ日々をできるかぎ
り公正に生きるようにと言われました。「正しく在りなさい。あと
は私にまかせなさい」と彼は言いました。
マハラジ
シュリー・ラマナアシュラムでは何をしていたのかね?
質問者 私たちは師から授かったマントラを復唱しつづていました。また瞑
想もしました。考えることや勉強することはほとんどなく、ただ、
静かにしているよう心がけていただけです。私たちはバクティ(帰
依)の道を行く者で、哲学はむしろ知らないのです。私たちには考
えなければならないことはさほどなく、ただグルを信頼し、人生を
生きていくだけです。
マハラジ
バクタ(帰依者)の多くは、すべてがうまくいっている間はグルを信頼する。
しかし、問題が起こると彼らは落ちこみ、ほかの師を探しに行くのだ。
質問者 そうです。その危険性については警告されました。私たちは厳しい
状況もやさしい状況とともに受け入れていこうと思っています。
「すべては恩寵(おんちょう)だ」という感情が非常に強くなけれ
ばなりません。ひとりのサドゥ(修行僧)が東に向かって歩いてい
ると、その方向から強風が吹いてきました。サドゥはただくるりと
向きを変えて、西に歩き出したのです。私たちもグルによって与え
られた環境に私たち自身を合わせながら、そのように生きたいと願
っています。
マハラジ
ただ生命だけがある。
生命を生きる人は誰もいないのだ。
質問者 それは私たちも理解します。それでもなお、私たちは、ただ生きる
のではなく、自分たちの人生を生きようとしてしまうのです。未来
のために計画を立ててしまうことは、私たちにとって根深い習慣な
のです。
マハラジ
あなたが計画を立てようと立てまいと、人生は続いていくのだ。
だがその人生において、マインドのなかに小さな渦巻きが現れる。
それは幻想にふけり、それ自体が人生を支配し、コントロールしていると想
像するのだ。
生命そのものは無欲だ。
だが、偽りの自己はそれが快く続いてほしい。
そのため、それはつねに自己の継続を守ることに没頭しているのだ。
生命は恐れず、自由だ。
あなたが出来事に影響を与えているという考えをもっているかぎり、解放は
あなたのものではない。
行為者という観念、自分が出来事の原因であるという観念自体が束縛なのだ。
質問者 どうすれば、私たちは為(な)す者と為されることという二元性を
克服できるのでしょうか?
マハラジ
生命を無限で、分割不可能な、つねに存在し、つねに活動的なものとして黙
想しなさい。
あなたがそれとひとつであると悟るまで。
それは難しくなどない。
なぜなら、あなたはただ自分の自然な状態に戻るだけだからだ。
すべては内側から現れ、あなたの住む世界があなたの上に投影されているの
ではなく、あなたによって投影されているとひとたび自覚すれば、恐れは終
焉(しゅうえん)するのだ。
この自覚なしに、あなたはあなた自身を外界の身体、マインド、社会、国家、
人類、そして神や至高なるものといったものとさえ同一化してしまう。
だが、それらはみな恐れからの逃避なのだ。
あなたが住む小さな世界の責任を完全に受け入れ、その創造、維持、破壊の
過程を見守るときにだけ、あなたはあなた自身の想像による束縛から自由に
なるのだ。
『私は在る』(p315-317)
自分自身はこう在り、知り、行為すると想像し、惑わされているかぎりは、
私たちは悲しくも苦境にいるのだ。
ただ、完全な自己否定のなかにのみ、私たちの真我を発見するチャンスがあ
る。
『私は在る』(p129)
質問者 自由意志というものはないのでしょうか? 私には欲望をもつ自由
はないのでしょうか?
マハラジ
いいや。
あなたは欲望に強制されるのだ。
ヒンドゥー教では自由意志という概念自体が不在だ。
だから、そのための言葉もないのだ。
意志とは拘束、固定、束縛だ。
『私は在る』(p373)
質問者 自由意志というものは存在するのでしょうか?
マハルシ
誰の意志だろうか?
行為者であるという感覚があるかぎり、それを楽しむ感覚と自由意志の感覚
は存在するだろう。
だが、もしこの感覚がヴィチャーラ(真我探求)の修練によって失われたな
ら、聖なる神の意志が働いて、出来事の流れを導いてくれるだろう。
ジニャーナによって運命は克服される。
真我の知識は自由意志も運命も超えているからである。
『あるがままに』(p388)
質問者 どうして私は自分自身をそんなにも不幸だと想像してしまうのでし
ょうか?
マハラジ
ただの習慣からなのだ。
あなたの考え方や感じ方を変えなさい。
それらを再検討し、詳細に調べてみなさい。
あなたは不注意によって束縛される。
注意が解放するのだ。
あなたはあまりにも多くのことを当然のこととして受け取ってきた。
疑いはじめなさい。
もっとも明らかなことは、もっとも疑わしいのだ。
あなた自身にこのように問いかけてみるといい。
「私は本当に生まれたのだろうか?」「私とは本当にこれなのだろうか?」
「私が存在すると、どのようにして知るのだろうか?」「誰が私の親なのだ
ろうか?」「彼らが私を創造したのか、それとも私が彼らを創造したのだろ
うか?」「私自身に関して言われたことを、すべて信じなければならないの
だろうか?」「私とは誰なのか?」と。
あなたはあなた自身のための牢獄を築くことに、たいへんなエネルギーをつ
ぎこんできた。
今、それを破壊するためにできるかぎりを費やしなさい。
事実、破壊することはたやすい。
なぜなら、偽物は発見されたそのときに消え去るからだ。
すべては「私は在る」という想念にかかっている。
それを徹底的に調べるがいい。
それはあらゆる困難の根底に存在している。
それはあなたを実在から分かつ皮のようなものだ。
実在は皮の内側にも外側にもある。
しかし、皮そのものは実在ではないのだ。
この「私は在る」という想念はあなたとともに生まれてきたのではない。
あなたはそれなしでも充分申し分なく生きたことだろう。
それはあとになって、身体との自己同一化のために現れた。
それがありもしなかった分割という幻想をつくり出したのだ。
それがあなた自身の世界のなかで、あなたを異邦人にしてしまった。
そして世界を異質な、敵意あるものにしてしまったのだ。
「私は在る」という感覚なしでも人生は続いていく。
私たちにも「私は在る」という感覚のない平和で幸福なときはある。
「私は在る」が戻るとともに、困難がはじまるのだ。
質問者 どうすれば「私」という感覚から自由になれるのでしょうか?
マハラジ
もしあなたがそれから自由になりたいのなら「私」という感覚と向き合わな
ければならない。
あなたが明確にそれを見て完全に理解するまで、それが作用しているときや、
落ち着いているときを見守りなさい。
それがどのようにはじまり、どのように停止し、何を欲しがり、どのように
それを得るのかを見なさい。
結局、すべてのヨーガは、その源が何であれ、性質が何であれ、目的はただ
ひとつだ。
分離された存在という不幸から、広大な美しい絵の中の無意味な点としての
存在から、あなたを救い出すことにあるのだ。
あなたが苦しむのは、あなた自身を実在から疎外したからだ。
そして今、あなたはこの疎外感からの逃避を探し求めている。
あなた自身の強迫観念から逃げることはできない。
ただ、それを育むのをやめることができるだけだ。
「私は在る」は偽りだからこそ、それは存続を願う。
実在は存続する必要がない──それ自身、破壊不可能なことを知っているか
らだ。
それは形態とその表現の破壊に無関心なのだ。
「私は在る」を強調し安定させようと、私たちはありとあらゆることをする
が──すべては無駄に終わってしまう。
なぜなら、「私は在る」は瞬間から瞬間へと再構築されていくものだからだ。
それは絶え間ない仕事なのだ。
そして唯一の革新的な解決法は、「私はあれであり、これである」という分
離した感覚を永遠に消し去ることだ。
存在は残る。
だが、自己存在ではない。
質問者 私には明確な霊的野心があります。それを満たすために努力しなけ
ればならないのではありませんか?
マハラジ
いかなる野心も霊的なものではありえない。
すべての野心は「私は在る」のためのものなのだ。
もしあなたが本当の進展を遂げたいのなら、すべての個人的な達成という考
えは、あきらめなければならない。
いわゆるヨーギの野心というものは、実にばかげたものだ。
男性の女性に対する欲望は、永遠の個人的な至福を渇望することに比べれば
純真なものだ。
マインドとは詐欺師なのだ。
より敬虔(けいけん)に見えるほど、裏切りはさらに悪いものとなるだろう。
質問者 ひっきりなしに、人びとは世間の悩みごとをかかえてあなたのもと
へやってきます。あなたはいったいどのようにして、彼らに何を言
うかを知るのでしょうか?
マハラジ
ただその瞬間、私のマインドに現れたことを告げるだけだ。
私には人びとに対応するための企画化された手順といったものはない。
質問者 あなたはあなた自身に確信をもっています。しかし、私のもとに人
びとが来るとき、どのようにして私の助言が正しいものだと確信で
きるのでしょうか?
マハラジ
あなたがどの状態のなかにいるのか、どのレベルで話しているのかを見なさ
い。
もしあなたがマインドから話しているなら、間違っているかもしれない。
あなたの精神的習慣が停止しており、状況への完全な洞察から話しているの
ならば、あなたの助言は本物の返答かもしれない。
要点は、あなたも、あなたの前にいる人も、ともに単なる身体ではないと完
全に気づいていることだ。
もしあなたの気づきが明晰(めいせき)で完全ならば、間違いはありえない。
『私は在る』(p317-318)
生命ははじまりも終わりもしない。
不動でありながら、それは動き、一時的でありながら、それは継続していく
のだ。
数えきれないほどの画像が投影されたとしても、光が使い尽くされることは
ない。
生命もまたあらゆる形態をいっぱいに満たし、その形態が崩壊したとき、そ
の源に戻っていくのだ。
『私は在る』(p500)
質問者 出来事には原因がないと繰り返しあなたは言われました。ものごと
はただ起こり、どのような原因もそれに当てることはできないと。
それでもすべてに原因があるはずです、かならずいくつかの原因が。
いったいどうやって原因がないということを理解すればいいのでし
ょうか?
マハラジ
至高の見地から見れば、世界に原因はない。
質問者 しかし、あなた自身の経験ではどうなのでしょう?
マハラジ
すべては原因なくして起こる。
世界には何の原因もない。
質問者 私は世界創造の原因に関して尋ねているのではありません。誰が世
界の創造を見たというのでしょう? それははじまりもなく、つね
に存在してさえいるのかもしれません。しかし、私は世界について
話しているのではありません。それでも世界は存在すると私は思い
ます。それはあまりにも多くのものを包括しているのです。間違い
なく、そのそれぞれにいくつかの原因があるはずです。
マハラジ
ひとたびあなたが時間と空間のなかに因果関係に支配された世界をつくり出
せば、すべてに原因を探そうとし、そして見つけだすことになるのはまぬが
れない。
あなたが質問を設定し、答えを無理強いするのだ。
質問者 私の質問はとてもシンプルです。私はあらゆる類(たぐい)のもの
ごとを見て、それぞれに何らかの原因があるはずだ、と理解したの
です。あなたはあなたの視点から見るとそれらに原因はないと言い
ます。しかし、あなたにとっては何も存在していないのです。だか
ら因果関係の質問ももち上がりません。それにもかかわらず、あな
たはものごとの存在を認めており、しかも因果関係を否定します。
これが私には理解しがたいところなのです。ものごとの存在を認め
ておきながら、なぜ原因を拒絶されるのですか?
マハラジ
あなたが、映画のスクリーンに映しだされた画像が光以外の何ものでもない
と知っているように、私は意識のみを見て、すべては意識だと知っているの
だ。
質問者 それでも、光の運動には原因があります。
マハラジ
その光はまったく動かない。
あなたもよく知っているように、フィルムのなかの色彩と光を遮る一連の動
きは幻想なのだ。
動いているのはフィルムであり、それがマインドなのだ。
質問者 だからといって、それが画像に原因のない理由にはなりません。フ
ィルムがあり、役者、技術者、監督、演出家、制作者がいます。世
界は因果関係に支配されており、すべては連結しあっているのです。
マハラジ
もちろん、すべては相互に連結しあっている。
そしてそれゆえ、すべてに無数の原因が在る。
宇宙全体がもっとも微少な存在に貢献している。
あるものはあるがままだ。
なぜなら世界はあるがままだからだ。
わかるかね、あなたは金の装飾品を扱っている。
そして私は金そのものを扱っている。
二つの異なった装飾品の間には何の因果関係もない。
あなたがある装飾品をふたたび溶解して別のものをつくるとき、その二つの
間には何の因果関係もない。
共通の要因は金だ。
だが金が原因だとは言えない。
それを原因と呼べないのは、それ自体では何の原因にもならないからだ。
装飾品が持つ特定の名前と形のように、それはマインドのなかで、「私は在
る」として映しだされる。
それにもかかわらず、すべてはただの金にすぎない。
同様に、実在はすべてを可能にする。
それでも、あるものをその名前と形としてつくり出す無は、実在からやって
くるのだ。
しかし、なぜそんなに因果関係について心配するのかね?
原因の何が問題なのか?
ものごととは、それ自身はかない一過性のものなのだ。
来るものは拒まず、去るものは追わず──なぜものごとを捕まえてその原因
について尋ねまわるのだろうか?
質問者 相対的な視点からは、すべてに原因があるはずです。
マハラジ
相対的視点がいったい何になるというのかね?
あなたは絶対的な視点から見ることができるのだ。
なぜ相対性に後戻りするのか?
絶対性を恐れているのかね?
質問者 恐れています。私はいわゆる絶対的確実性と呼ばれるもののなかに
眠り陥ってしまうことが恐いのです。立派な生活を送るのに絶対性
は助けになりません。シャツが必要なときには、生地を買い、仕立
屋を呼び、それから......。
マハラジ
これらの話はあなたの無知をあからさまにしているだけだ。
質問者 では知者の見解はどうでしょうか?
マハラジ
光だけがあり、光がすべてなのだ。
そのほかすべては光によってできた画像にすぎない。
画像は光のなかに、光は画像のなかにある。
生と死、自己と非自己。
これらすべての概念を捨て去りなさい。
それらは何の役にも立たない。
質問者 いったいどの見地から、あなたは因果関係を否定されているのでし
ょうか? 相対的視野からは、宇宙がすべての原因であり、絶対的
視野からは、まったく何も存在してはいません。
マハラジ
あなたはどの状態から尋ねているのかね?
質問者 目覚めの状態からです。これらの討論が起こるのは目覚めの状態に
おいてだけです。
マハラジ
これらすべての問題は、目覚めの状態のなかで起こる。
それがその本性なのだ。
だが、あなたはつねにその状態にいるわけではない。
いやおうなくあなたは目覚めの状態に現れ、いやおうなくそこから消え去る。
そんな状態のなかでいったい何ができるというのだろう?
因果関係が目覚めの状態のなかで現れるからといって、それがどう因果関係
の有無を知る助けになるのだろうか?
質問者 世界と目覚めの状態はともに立ち現れ、ともに消え去ります。
マハラジ
マインドが静かに、完全に沈黙したとき、日中の目覚めの状態は消え去る。
『私は在る』(p59-61)
私の例を見てみなさい。
私のグルは、「私は在る」という感覚に留意し、ほかの何にも注意を払って
はならないと指導し、私はただそれにしたがったのだ。
私は呼吸や瞑想、あるいは聖典の研究などの特定の過程にはしたがわなかっ
た。
何が起ころうとも、それから注意を背け、「私は在る」という感覚とともに
とどまったのだ。
それはあまりにも単純で、粗野にさえ見えるかもしれない。
私がそうした理由は、グルが私にそうするように言ったからだ。
それでも、それは効果があったのだ!
服従はすべての欲望と恐れに対する強力な解決策なのだ。
マインドを占有するすべてのものから注意を背けなさい。
完成しなければならない仕事は何であれ完成させなさい。
だが、新たな義務は避けなさい。
空っぽでいることを保ち、つねに用意のできた、開いた状態でありなさい。
招かずにやってきたものを拒んではならない。
最後には、あなたは無欲、歓喜の無執着、内なる平安、そして描写不可能な
解放の状態に達する。
しかも、それはすばらしく実在なのだ。
『私は在る』(p393)
私は何ひとつ意図的にしなかった。
手放そうという熱望、ひとりになること、内側へと向かうこと、すべてはひ
とりでに起こったのだ。
質問者
あなたはまったく何の努力もしなかったのでしょうか?
マハラジ
何ひとつしなかった。
私は真我を実現しようと苦悩していたわけでさえない。
彼は私に「あなたは至高なるものだ」と告げ、そして死んだのだ。
私にはただ彼を疑うことができなかった。
それ以外はすべてひとりでに起こっていった。
私は変わり続けていく私を見ていた。
ただそれだけだ。
実のところ、私は驚いている。
しかし、彼の言葉を立証したいという熱望が湧いてきたのだ。
私には彼が嘘をついているはずがないというあまりにも強い確信があったた
め、彼の言葉の完全な意味を実現するか、そうでなければ死ぬしかないと感
じたのだ。
私の決意は強固なものだったが、何をすべきか知らなかった。
私は何時間も彼のことと彼が確約した言葉を想い、議論することなく、ただ
彼の言った言葉を覚えていたのだ。
『私は在る』(p409)
何をしようとあなたが変わることはないだろう。
なぜなら、あなたには変わる必要がないからだ。
あなたは身体やマインドを変えるかもしれない。
だが、それはつねにあなたではなく、何か外側が変わったのだ。
いったいどうして変わることを気にするのか?
身体もマインドも、また意識さえもあなた自身ではないと、きっぱりと自覚
しなさい。
そして意識も無意識も超えたあなたの真の本性のなかにひとり在りなさい。
明確な理解を除いては、いかなる努力もあなたをそこへ連れていかないだろ
う。
あなたの誤解を明らかにし、それを捨て去りなさい。
ただそれだけだ。
そこには探したり、見いだしたりするものは何もない。
なぜなら、何も失われてはいないからだ。
リラックスしなさい。
そして「私は在る」を見守りなさい。
実在はその背後にあるのだ。
静かにしなさい。
沈黙しなさい。
それは現れるだろう。
あるいはむしろ、それがあなたをそのなかへと連れていくだろう。
『私は在る』(p540)
質問者 神、宇宙、全体、絶対、至高といった言葉は、空気中の騒音にすぎ
ません。なぜならそれらに対して、何も行動を起こすことはできな
いからです。
マハラジ
あなたはあなただけが答えられる質問を持ちかけている。
質問者 そんなふうに私をあしらわないでください。あなたはすぐに全体や
宇宙といった想像上のことについて話します。全体や宇宙はあなた
のもとにやってきて、そのように語ることをやめてほしいと頼むこ
とはできません。私はそういった無責任な概括化に我慢ができない
のです。その上、あなたはすぐにそれらを個人的立場で話しはじめ
ます。因果関係なしではどんな秩序も目的ある行動も不可能なので
す。
マハラジ
あなたはそれぞれの出来事の、すべての原因を知りたいのだろうか?
それは可能だろうか?
質問者 それが可能でないことはわかっています。私の知りたいことは、た
だすべてのものごとには原因があるのか、そして原因に影響を与え
ることができるならば、それが出来事にも影響を与えるのではない
かということです。
マハラジ
出来事に影響を与えるのに、原因を知る必要はない。
あなたがあらゆる出来事の源であり終焉(しゅうえん)ではないだろうか?
それを源そのものでコントロールするがいい。
質問者 毎朝、新聞を手にするたびに、貧困、憎悪、戦争といった、いつま
でも排除されることがない世界中の不幸を知って、私は落胆します。
私の質問は悲しみの要因とその原因、そしてその救済に関わるもの
です。それを仏教主義だとあしらわないでください。どうか決めつ
けないでください。原因はないというあなたの主張は、変化し続け
る世界の希望すべてを消し去ります。
マハラジ
あなたは混乱しているのだ。
なぜなら、あなたのなかに世界があるのではなく、世界のなかにあなたがい
ると信じているからだ。
誰が初めに現れるのだろう?
あなたか、あなたの親だろうか?
あなたは自分がある時、ある場所で生まれ、父と母、名前と形をもっている
と想像している、それがあなたの罪と禍(わざわい)なのだ。
もちろん、あなたが働きかければ世界を変えることができる。
ぜひとも働きなさい。
誰があなたを止めているのかね?
私は思いとどまらせてはいない。
原因があろうとなかろうと、あなたがつくった世界だ。
あなたはそれを変えることができる。
質問者 原因のない世界は完全に私のコントロールを超えています。
マハラジ
その反対に、あなたがその根源であり土台である世界を変える力は、完全に
あなたの力のなかにあるのだ。
想像されたものはいつでも溶解し、つくり変えることができる。
もしあなたが本当に望むならば、すべては望むように起こる。
質問者 私の知りたいことは、世界の不幸をどうすればいいのかということ
です。
マハラジ
世界の不幸はそれと関わるなかで、あなたがあなた自身の欲望と恐れからつ
くり出してきたのだ。
すべてはあなたが真我の存在を忘れてしまったためだ。
スクリーン上の画像に現実性を与えた上で、あなたはそれらの人々を愛し、
彼らのために苦しみ、彼らへの救いを求める。
そうではない。
あなたはまず、あなた自身からはじめなければならないのだ。
ほかに道はない。
そうだ、働きなさい。
働きかけることに問題はない。
質問者 あなたの宇宙は、あらゆる可能性のある経験を含んでいるようです。
人はそれをたどって方針を決め、喜びや悲しみの経験を持ちます。
これが疑う心と探求心を目覚めさせ、視野を広げ、自己中心的で、
かぎられた、自分だけの狭い世界を超えさせてくれます。この個人
の世界を時間のなかで変えることはできますが、宇宙は永遠であり
完全です。
マハラジ
ただの現れにすぎない幻を実在と見なすことは悲しむべき罪であり、すべて
の災いの原因だ。
あなたはすべてに遍在する、永遠で無限の創造的気づき──意識なのだ。
それ以外のすべてはかぎられた時と場所のなかに在る。
何が本来のあなたなのか、忘れてはならない。
その合間に心ゆくまで働きなさい。
仕事と知識は手に手をとって進むべきだ。
質問者 私の感覚では、霊的成長は私の手の内にはないと思います。自ら計
画を立て、それを実行していくことは、どこにも導いてくれません。
ただ自分自身のなかで輪を描いて走るまわるだけです。神は果物が
熟したと思ったとき、それを採って食べるでしょう。まだ完熟して
いない果物なら、その日が来るまで世界の樹に残すでしょう。
マハラジ
神があなたのことを知っていると思うのかね?
世界のことさえ彼は知らないのだ。
質問者 私の神は、あなたの神とは違う神です。私の神は慈悲深く、私たち
とともに苦しみます。
マハラジ
あなたがひとりを救おうと祈る間に、何千人もが死んでいく。
そして、もしすべての死が止められたならば、地球上に空間がなくなってし
まうだろう。
質問者 私は死を恐れてはいません。私の関心は悲しみと苦しみにあるので
す。私の神はシンプルな、むしろ無力な神です。彼には私たちに賢
くなるよう強いる力はありません。彼はただ傍らに立ち、待つだけ
です。
マハラジ
もしあなたとあなたの神がともに無力ならば、そのことが、世界は偶然の産
物だということを暗示しているのではないだろうか?
そして、もしそうならば、唯一あなたにできることはそれを超えていくこと
だ。
『私は在る』(p61-63)
マハラジ
私は時間、空間、原因を超えたあるがままの私自身を知っているのだ。
あなたは他のことに没頭していて、偶然知らないだけなのだ。
質問者
どうして私はそんなにも没頭してしまうのでしょうか?
マハラジ
なぜならあなたは興味があるからだ。
『私は在る』(p396)
あなたが知覚可能、想像可能なものは何ひとつあなたではありえず、何であ
れ、意識の領域に現れるものは自己ではないとひとたび理解したなら、より
深い自己実現への唯一の方法として、すべての自己同一化を断ち切ることだ
ろう。
否定することによって、文字どおりあなたは、まさにロケットのように進歩
するのだ。
あなたが身体のなかにもマインドのなかにも存在せず、しかもその両方に気
づいていると知ることは、すでに自己知識なのだ。
『私は在る』(p537)
質問者 私には誠実さが足りません。
マハラジ
自己背信は悲惨な問題だ。
それはマインドを癌のように腐らせてしまう。
明晰(めいせき)性と考え方の高潔さのなかに治療法があるのだ。
あなたが幻想の世界に生きていることを理解しようとしてみなさい。
それを調べ、その根底にあるものを暴きなさい。
そうしようと試みること自体が、あなたを誠実にするだろう。
なぜなら、正しい、真剣な試みのなかに至福があるからだ。
『私は在る』(p548)
私たちがそれを見失うのは、私たちのマインドがつねに過去と未来の間を行
き来しているからだ。
マインドが今に焦点を当てるために止まることはないだろう。
もし興味が起これば、それは比較的簡単にできるのだ。
質問者 何が興味を起こさせるのでしょうか?
マハラジ
誠実さ、成熟の象徴だ。
『私は在る』(p548)
質問者 至高なるものは意識しているのでしょうか?
マハラジ
私の経験では、それは意識してもいず、無意識でもない。
質問者 プラジニャーナム ブラフマ。このプラジニャーとは何でしょうか?
マハラジ
それは生命そのものの非──自意識的知識だ。
質問者 それは生命力、生命のエネルギー、生気なのでしょうか?
マハラジ
エネルギーがはじめに現れる。
すべてはエネルギーが形を取ったものだからだ。
意識は目覚めの状態においてもっとも差異が認められる。
夢見においてはより少ない。
眠りにおいてはさらに少ない。
第四の状態では均質だ。
それを超えると、表現不可能な、単一の実在、それがジニャーニの生きる世
界なのだ。
質問者 私は手を切ってしまったのですが、それは治りました。いったい何
の力によって治ったのでしょう?
マハラジ
生命の力によってだ。
質問者 その力とは何なのでしょうか?
マハラジ
それは意識だ。
すべては意識なのだ。
質問者 意識の源泉は何でしょうか?
マハラジ
意識そのものがすべての源なのだ。
質問者 意識なしに生命はありうるでしょうか?
マハラジ
いいや。
生命なしには意識もありえない。
それらはひとつだ。
しかし実際には、究極なるものだけが存在する。
それ以外は名前と形があるだけだ。
あなたが名前と形のあるものだけが存在するという考えにしがみつくかぎり、
至高なるものは、あなたにとって非存在のものとしてしか映らないだろう。
名前と形は実態のない空虚な殻(から)にすぎず、実在は名前も形もない純
粋な生命のエネルギーと意識の光だと理解したとき、あなたは実在の深い静
寂に浸り、平和の内に在ることだろう。
質問者 もし時間と空間がただの幻想で、あなたはそれらを超えているとい
うのなら、今のニューヨークがどのような天気なのか言ってくださ
い。暑いですか、それとも雨ですか?
マハラジ
どうして私にそれが言えよう?
そういったことには特別な訓練が必要だ。
そうでなければ、ニューヨークに行くがいい。
私が時間と空間を超越していることは確かかも知れないが、ある一定の時間
と空間において、思いのままに自分の所在を選定することはできない。
興味もなければ特別なヨーガのトレーニングをする理由もない。
ニューヨークという名前を今耳にしたが、私にとってはただの言葉にすぎな
い。
原子のひとつひとつがこの宇宙と同じほど複雑な宇宙かもしれない。
そのすべてを私が知らねばならないかね?
確かにできる、もし訓練するならば。
質問者 ニューヨークの天候について尋ねたことで、私はどこで間違いを犯
したのでしょうか?
マハラジ
世界とマインドはともに存在の状態だ。
至高なるものとは、ある状態ではない。
それはすべての状態に遍在しているが、何かほかの状態ではない。
至高なるものはまったく原因がなく、独立し、それ自身において完成してい
る。
時間も空間も、マインドも物質も超越したものなのだ。
質問者 何をもって至高なるものを認識するのでしょうか?
マハラジ
それが何の痕跡(こんせき)も残さないということが要点なのだ。
何によっても認識することはできない。
あらゆるしるしや手がかりの探求をあきらめることによって、直接に見られ
なければならない。
すべての名前と形が放棄されたとき、実在が残る。
あなたがそれを探す必要はない。
複数制と多様性はただのマインドの戯れだ。
実在はひとつだ。
質問者 もし実在が何の証拠も残さないのなら、それについて話すことさえ
できません。
マハラジ
それは在る。
それを否定することはできない。
それは深遠な、神秘を超えた神秘なのだ。
だが、それは在る。
それ以外のすべてはただ起こるだけだ。
質問者 それは未知なるものなのでしょうか?
マハラジ
未知も既知もともに超えている。
しかし、私なら未知よりも既知と呼ぶだろう。
なぜなら、いつであれ何かが知られたとき、知られたものは実在だからだ。
質問者 沈黙は実在の特質なのでしょうか?
マハラジ
それもまたマインドのものだ。
すべての状態と条件はマインドに属する。
質問者 サマーディとは何でしょうか?
マハラジ
意識を使わないことがサマーディだ。
ただマインドに触れないのだ。
身体からもマインドからも何も求めないことだ。
『私は在る』(p57-59)
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