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認識対象とは主体ではない



認識対象とは主体(私)ではない・・とシャンカラは言われる。

認識されている私とは、対象であっても主体(私)ではない・・と

思考やマインドという、脳と諸体の脳を媒体にして生み出されている私とは、沈黙そのものの「思考ではない主体」ではない・・

対象を対象として知覚している知覚主体とは認識主体ではない、それは自らを認識主体だと思い込んでいる統覚機能である・・・と

対象のない私が、本当の認識主体である・・・と


従って、自分の事を対象として‘対象として認識している私’とは、認識の対象でもあるから、それは主体ではない。それは対象を持っている心である。

心というものが二元に分離していて対象と主体の区別をしているのである。

脳とは心が使用しているので、その脳の機能である「対象を認識」をしている「対象でもある私」とは、心が生み出した脳の機能でもあるといえる。

それにひきかえ主体とは対象を持っていない私なのであると。その私とは想念や心ではない。思考の全くない静寂と沈黙の意識の私である。

この主体である私とは、脳でもなく、諸体の脳でも諸体でもなく、思考でもなく、自我でもなく、現在のパーソナリティーでもなく、主客に分離している

二元の心でもなく、この‘心が使用して行為している身体’でもなく、私と言う観念でもなく、内側の沈黙であり、不動の意識であると言われている。




だからこそ、それは認識主体なのであって、その認識主体とは対象化されることはないし、対象でしかない偽物の主体でもない。

なぜなら、この偽物の主体とは、対象である「主客の分離であるマーヤである」からである。それが心の本質であり、神の道具なのである。

神が脳というものを心を通じて使っておられるのである。脳を使って行為され、’継続しているカルマ’を持つ自我を使っておられるのである。

この継続しているカルマを持つ自我とは、神の道具であり、主体である私ではない。私は行為しておらず、心ではないからだ。

この心である私とは、「私、私のもの、私が」という動機と、目的と、判断と、願望を持っている私(マインド)でもあり、その目的や動機を持つ私とは

対象でもあるから、その私は認識対象であっても認識主体ではないのだ。従って私ではない。



ではその認識対象であるところの私とは何か?誰か?

それこそ「自我といわれ、神が演じておられる、神の道具である私」であり、それは即ち記憶(個人・人格)である。

その人格個人とは、心が脳を通じて生み出している偽物の主体である。この現在意識を覆っている「私と言う観念」でもあり、対象となっている

、「対象である私」であり、対象を知覚している私でもある。



その「対象認識している私」「認識対象である私」とは、実は私ではない想念であり、記憶であり、感情であり、思考なのではないだろうか、心が

生み出している主客に分離した、私ではない‘神の道具である自我’なのだ。

その偽りの私とは衝動であり、カルマを持ち、自尊心そのものであり、自分が一番と思い、常に自己保身と栄誉に汲々として、真我を実現しようと藻掻き

自分の願望と目的と動機を持って、常に計算高く行動しているもの、私、それが「認識対象である私」であり、主体ではない偽主体である。

それが神であるマーヤによって行為している自我である。神が演じ、神が行為しておられる継続(コーザル)している自我である。



シャンカラは認識主体が自分だと言われる、私は対象ではない認識主体だと言われる。その私、シャンカラのいう私とは神我に他ならないからだ。

シャンカラの私という認識主体は対象と主体に分離していないわたしなのである、それは時空間をこえた意識そのものであると。


この点で、熟睡が一番、この本当の認識主体に近づいているのである、といえようか

対象が無いからである。主客の分離も、思考も、判断も、行為も、感覚も、計算も、自尊心も、善悪も、自我も、肉体も、諸体もなく、

沈黙と静寂があるからである。

この熟睡時には、主体である静寂と沈黙そのものがあるからである。思考ではなくて意識があるからである。

ただし、現在意識(現在意識の座)とその純粋意識が充分に繋がっていないので、現段階では現在意識には意識化されていないのである。

だから熟睡となってしまっている。

心である想念や思考や感情や記憶などは、動機や目的や欲望を持っており

それらはともに認識対象でもあり、それは対象認識している私であり、従って認識主体ではないものが眠っているのである。

真の私とは眠ることのない純粋意識であるが、魂の現在意識が、脳と諸体の脳から自由ではないために、脳の状態に左右されてしまうのである。

それが熟睡である。肉体脳は熟睡が必要であるが、現在意識が自身である魂の内奥ではなくて、肉体脳と一体化し自由ではないのである。


クリシュナムルティーの「見るものは見られるものである」の言葉は

この認識対象と「対象認識している主体」のことを指して、見られるものと見るものといったのであり

認識主体のことを言ったのではない。

この両者は心が作り出した二元というマーヤであり、その観察者も観察されるものも、心の世界のものであり、意識ではないからだ。

だから認識主体とは主体であり、認識の対象にはならないからである。



認識主体とは、認識の対象ではないし、対象を持っている主体ではない。

その私とは、思考や想念がそして動機や目的や判断や行為がない沈黙の意識であり、明晰で覚醒している意識である。

それは変性意識やオーバーシャドウしている私でも、されている私でもない、

またその主体と繋がった意識とは五感がない意識ではない。その反対に透明な五感がある状態なのである。



その主体の意識状態は純化され透明となった五感が高次の感覚に統合されている統合知覚であり、低次知覚が失われているのではない。

高次知覚に純粋化され透明化されて統合されているのである。なくなっているのではないから、薬物や脳内麻薬やインプラントの知覚麻痺ではない

その主体の意識は変性意識や、神が下った意識ではない。元々あった内側から沈黙を通じて開かれている意識であり、それを称して魂の内奥の

純粋意識とか真の私とか真我とか言われるのである。

その真の私は、内部に元来あって外部から訪れたりやってくるものではない。

それは、訪れたり、やってくるものではなくて、はじめから私自身なのである。

元々あったのであるが、現在意識化されず、現在意識に繋がらなかっただけなのである、それは内側なのである。内と外の区別がない意識なのである。



従って、想念がない状態の意識こそが認識主体であるといえる。これは正しい沈黙、美しい静寂、不動である愛そのものの意識であるだろう。

(だからクリシュナムルティーは思考なくしてあるがままを見よと言い続けたのである)

動くことがマーヤであり、行為がマーヤであり、想念がマーヤであり、「私と名乗って入る私」が神の演技であるから、不動が意識であり、その意識とは

対象や対象を持つ偽主体ではないことだろう。そして、この意識はそれ自身で在り、内部と外部の如何なることにも影響を受けることがないであろう。

それこそが真我であり、神であり、ブラフマンはアートマンであると。




それ故にラーマクリシュナの言うように

“行為は神(マーヤ)が為さっているのです。自我は神(マーヤ)が演じておられるのです”であり


その神の演じておられる自我こそ、動機と目的と願望を持ち、対象を認識し、自身もまた対象でしかない偽の主体であるのだ

この偽の主体こそが、私達、魂が愛すべき私、あるがままを思考なくして照見すべき偽物の私なのである。


そして、上記であるこれらの間違っていない観念であるとき、

この現在の私である自我を、内側から思考なき状態である沈黙から、愛を持って観照している「目」が出現する、この目こそ魂の内奥の私であり

このとき、この魂の私とは神道の本来の鏡の状態にあり、この鏡には鏡の内側にある真実の私、純粋意識である対象のない私を反映することが可能

となっているに違いない。