「あるがままの私をあるがままに見よ」
「あるがままの私を思考なく、心なく、私なく見よ」・・・クリシュナムルティー
「あるがままの私を思考なくあるがままに見ることが秩序を齎す」
・・クリシュナムルティー
「恐怖を見ているものが恐怖であるとき、そこにそっと愛が姿を顕
している」・・クリシュナムルティー
「見るものは見られるものである」・・クリシュナムルティー
「観察者は観察されるものである」・・クリシュナムルティー
私の感想(少々専門的で申し訳ありません)
あるがままの私を思考なくあるがままに見ることとは自己観察であり、それ
が同時に自己想起のワークを実践していることにもなると思います。
そのワーク「思考なく自己を観察する」ということは、それは最早、思考に依る
観察ではなくて霊魂による観照だからです。
あるがままの私とはこの複層の次元・身体によって成立している私のことであり、
と同時に、その私のことを観照している霊魂の私のことでもありましょう。
あるがままの私を思考なく見ることは不可能だという人がいますが、
それは違います!
あるがままの私を思考なく見ることは可能であると思います!
可能だからこそクリシュナムルティーは「思考・私自我を思考なく見なさ
い!!」と私達に言い続けられたのです。
クリシュナムルティーは私達には思考なく見ることは非常に難しいのだが
不可能ではないのだから「あるがままの私を思考なく見よ!」と仰ったのです。
それなのに
思考なく見る事は私達には不可能だといって諦めて実行しないのは誰でしょうか?
それは自我即ち思考の私であって私達・意識ではありません!!
「思考なく自我を見ることは不可能だ」と言っているのは自我・思考なのです!!
私達は思考ではなく自我ではないので思考なく見ることが出来るのです!!!
私達は分割不可能な意識なのであって、自他は分離していると思っている思考・自我で
はないからこそクリシュナムルティーはあそこまで「見るものは見られるものである」
と教え続けられたのです。
私達はどんなに思考に覆われ包まれていても思考ではなく意識であるのでクリシュ
ナムルティーは思考なく自我・恐怖(あるがまま)を見なさいと言われ続けたので
ありましょう。
ですので
自己観察とは「思考なく見ることは不可能だと言っている思考」を思考とみること。
その私が私だと思っている衝動や想念や欲望や行為を拒否することなく「思考なく
凝視」し、意識のスポットを照射することでありましょう。
自己想起とは「思考なく意識を当てて見ること」を実践することでありましょう。
だから私達は思考なく、判断なく、言葉や想念を使わないで只々恐怖(私)と思考
と衝動と虚偽(自他の分離)を「息を凝らして」見ることが出来るのであります。
何故なら私達は思考や願望や私や心ではない未知なる自他の分離が無い意識だから
でありましょう。
「恐怖を見ているものは私即ち恐怖である」ことを思考なく言葉なく見ているとき
即ち「見るものは見られるものである」ことを思考なく言葉なく領解できている
とき、即ち「観察者は観察される者である」とき
「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」を実行しているのです。
それが自己変革を齎す自己観察であり、同時に自己想起なのではないでしょうか?
そして、そのときそこには愛と秩序が顕現していると言われています。
未知なる私が顕現しているのでありましょう。
ですから私達はこのワークをお風呂に入っているときも、話しているときも
、仕事をしているときも、スマホを見ているときも、意識があって息をしてい
る限りは実践しなさい!!とクリシュナムルティーは言われ続けるのです。