因果応報は愛そのものである
私の考えている因果応報とは以下の通りです。
因果応報とはカルマのことでありましょう。
カルマとは私に起こっている内部と外部の事などでありましょう、では私と
は何でしょうか?
私が思うに私とは肉体に繋がった”意識”「霊魂と繋がる私」なのだと思います。
私達は、脳の知覚や記憶を自分の知覚,自分の記憶だと思っていますが、そうなの
でありましょうか?
この思考もこの記憶も条件付けられている脳が受信した記憶でその知覚です。
けれども私達は脳だけではなく「霊魂と繋がる私」であり知覚を意識している
即ち、鏡なのだと私は信じてます。
私達は知覚を意識する「霊魂と繋がる私」であり肉体に入り脳と結合したのです。
私達「霊魂と繋がる私」が私本体である霊魂の意識と繋がりその霊魂である
「観照者」の知覚認識に至らない限りは、
ラマナ・マハリシなどの言う「自我・思考と行為は起こっている」との高次元の知
覚認識は私達には有りません。
そのラマナ・マハリシ達の知覚とは起こっているカルマを上位次元から観照している
知覚です。それは人類には未知なる知覚です。
私達である「霊魂と繋がる私」は、半分眠った様な意識状態であり、その表面意識は
自我、又は受動思考と言われている脳が受信した記憶の反応、即ち「我の心」「自我の私」
の思考(記憶)感情であり私達はそれとまったく一体化しているのではないでしょうか。
ですので、私達の知覚が魂の高次の意識であって、思考も行為もしていないそれらを
観照している次元にあれば、「思考も行為も根源から起こっている」といえるのであり
ましょう。
起こっている行為や思考、そしてその記憶と一体化した結果として、私達は
このカルマの法則の中で記憶と一緒に生きなればならなくなったのだと思われます。
「霊魂と繋がる私」が目を醒まし霊魂に繋がっていればラマナ・マハリシの
言うことが理解出来るのでありましょう。
私達・「霊魂と繋がる私」は目覚めていないまま眠った様な状態でカルマから
起こっている「思考や行為を自分がしていると錯覚している記憶」と一体化
している状態では、起こっているこれらの行為と思考を受けとる事になります。
それが因果応報カルマを受け取ると言うことではないでしょうか。
因果応報、カルマ、それは現象界を支配している法則のことでありましょう。
この因果応報。
苦しめたら苦しめられる。
搾取したら搾取される。
奪ったら奪われる・・
と言うことは言い換えれば「人類は一つ」という法則であって、
私がやられたから相手にやり返すというのでは全くありません。
実相に於いてはこのカルマは個人は全く関与していないのでありましょう。
個人は幻想だからです。個人とは脳が受信した記憶なのでありましょうか。
賢者はこれらカルマから起こる出来事やそしてそれに反応している私達・個人
人格自我は鏡という意識の座に起こっている「神の演技」だと言っています。
「思考と行為は起こっているだ」と、その様に「霊魂と繋がる私」が繋がった
「高次の意識」から仰っているのです。
この言葉は目が醒めていない段階の私達には必ず間違って誤解されます。
前述したこの因果応報とは私が人に対して行ったことは、今度は同じように自分がさ
れると言う教えですが、それは「私が行為している」という前提に基づいていますが
観照者という次元から見れば「私が行為しているのではなくて神が行為している」と
いうことになります。
何故そう言えるのかといいますと、ラマナ・マハリシ達は私達とは他人と分離した個人
ではなく相手とは自分自身であり、相手の悩み苦しみは自分の悩み苦しみであり、
この自他は一体である・・と言うことを知覚している次元にいるからでありましょう。
私達は勿論、この脳の記憶と一体化していますから相手は自分ではないと思っています。
そしてその知覚にいる限りは行為は自分がしているという錯覚が、私達をカルマの次元
に縛り付けています。
しかしカルマを成立させているのは自他は一つであるという大前提であります。
即ち、それは愛が現象界のカルマの法則なのであるというであります。
現象界とは神の演技であり、自分が思考し、自分が行為していると実感している
カルマを成立させている錯覚で有りましょう。
しかし、よくよく見てみれば・・「自分が行為している」「自分が思考している」
その常識の考え自体が間違っているのです。常識とは脳が受信している記憶の
反応即ち自我・思考の反応なのではないでしょうか。
何故なら「自分は他と分離している個人人格であり、自分が思考し行為している、
私は肉体である」という、
この常識。
・・これこそがカルマを成立させている錯覚であり、この錯覚という思考の記憶
こそが、この条件付けられている脳の思考であり、脳の知覚なのでしょう。
私達はその知覚と一体化し、殆ど目覚めていないので自分は意識・鏡であって思
考ではないのに、そのことを認識することが出来きず、カルマの中で生きている
わけです。
私達は思考ではなく意識であるというのに、脳が受け取っている思考を自分の思考だ
と確信してしまった結果、神の演技である「思考の記憶である自我」が持っている
カルマ・運命と共に達「霊魂と繋がる私」は一体化し一緒にこの人生を歩むことと
なります。
私達「霊魂と繋がる私」の意識が目覚めないまま、死後、この記憶体である個人人格
と一緒にあの世に行き、そしてまたカルマによってプログラム(DNA)された肉体
に入り、眠ったまま脳と繋がり人生を歩むこととなります。
それは丁度、この個人の私とは「霊魂と繋がる私」が首に懸けている首輪の夫々の
数珠のようなものでありましょうか。
米国の不二一元の覚者であるジョセフベナーは言います。
前にもいったように、人という存在は思考していません。
人という生命体を通して、わた し(源泉・神)が思考して
いるのです。
人は自分で思考していると思っていますが、人自身の中の
わたし(源泉・神)に人が目覚めるまでは、 わたし(源泉・
神)がある物事に彼の関心を惹きつけたり、心を鼓舞した
りし、人はただその考えを受 け取っているだけなのです。
人の脳を通してわたし(源泉・神)は考え、言葉を話し、
イデアを外の世界へと顕在化していきます。
わたしが導く思考と、それ以外の思考とを見分ける事です。
思考の根元・由来を突き止め、望ましくない思考について
は、あなた(「霊魂と繋がる私」)自身の意思によって意識
中から払い退ける事です。
ですから私達に必要なことは、やられたことに仕返しするのではなくて感謝すること。
「やられたら許すこと、謝ること、相手を愛して感謝して受け取る」がその解決方法。
即ちカルマの仕事に協力することになります。相手とは私なのですから。
このカルマ、因果応報とは
実際に「私とあなたは一つである」と言う真実が大前提になっているのですから。
「私とあなたは同じ一体である」
「私とはあなたである」
「個人自我即ち私は神の演技である」
「万物は一体」・・これがカルマの大前提なのです。
この私とあなたは分離が無く一体だという知覚は私達の本体である霊魂・観照者の
高次元の知覚認識です。
また「私は行為していない」「私は思考していない」と実感しているのは、未知な
る観照者の私です。その未知なる私はこの記憶の私ではありません。
その私は「霊魂と繋がる私」が霊魂と繋がった観照者の次元であり、思考も行為も
ないカルマを超えた世界です・・しかし私久保栄治はそれは一切分かりません・・。
これは私達、記憶である現在のパーソナリティーの知覚認識ではありません。私達は
自分の肉体であり自分が行為していると思っているので、神の演技の世界・カルマの
世界に生きています。
私達、記憶である現在のパーソナリティーの知覚認識とは「自分が良いことをしたり
悪事を働いている」という自分が行為し、自分が思考し、自分がこの人生を生きて
いると錯覚しているこの既知なる記憶の私です。
「私は肉体でもなく、思考でもなく、記憶でもなく行為もしていないのです」、とい
っている私は、自分が行為していると知覚してる記憶の反応の私、即ち「霊魂と繋が
る私」の私ではありません。それなのに実感がないのにペラペラと喋っているこの
私はエゴの私です。
それは自我である個人人格の私と一体化してしまっている未熟な「霊魂と繋
がる私」でさえありません。私達が自分だと思っているこの既知なる私とは未知な
る私を覆い隠している記憶です。
精神世界の界隈ではカルマを超えるとか、因果応報は現象界の単なる起こっている
ことの説明に過ぎないなどとよく語られますが・・そうでしょうか?
そうではありません。カルマは神聖なる法則です。
カルマを超えているのなら思考も行為もしていません。・・とその様に高次元
から知覚していることでありましょう。
それを逆に考えれば
カルマこそが、その因果応報こそが、「私はあなたである」という究極の真実、
大前提から成立している「宇宙の法則」「神の御業」「愛」なのです。
それ故「カルマ」「因果応報」は「私とあなた、私と世界、私と万物が
分離することが出来ない一つである」という大前提が成立させています。
自他の分離は虚偽なのです。思考も行為も神の演技だと教えられています。
カルマ・因果応報とは神の法則、神の愛です。
なぜなら因果応報はこの自他は一つであるという真理・現実・大前提の上に
成り立っているからです。
そして因果応報は神である愛が行っているのであって私やあなたではありません。
これは
「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してや見ん」と同じ
です。
私・自己が行為しているという自我「我の心」の錯覚がある限りは・・
私(記憶・自我)が相手にしたと同じように私(記憶・自我)にはされるのです。
壁(鏡)に投げたボールは壁に当って必ず又元に戻って来ます。
なぜなら私達は同じ鏡であり一つであるからです。
相手とは私なのですから。私達は合わせ鏡なのですから。
(ただその鏡が自我「我の心」によって全く穢されているのです)
目の前の人は私自身なのです。目の前の人は私を映しているのです。
なので
苛めたら苛められる、
無視したら無視される、
奪えば奪われる、
与えたら与えられる、
愛すれば愛される、
裏切れば裏切られる、
大切にすれば大切にされる、
苦しめたらその同じ苦しみが与えられる、
軽蔑したら軽蔑される、
等々
・・それらは神の演技である事でありましょう。
黒住宗忠師はいいます「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿〈我の心〉を映してやみん」と。
クリシュナムルティーは言います「見るものは見られるものである」と。
この「見るものは見られるものである」という「一切万有が一つである」
という真理こそが、因果応報・カルマを支えているのです。
私が知覚する全ては自分自身なのでありましょう。「見るものは見られるもの
である」のでありましょう。相手も敵も私が知覚している一切万物は私と分離
していないのでありましょう。
私は見ているあらゆるものであるのですと教えられていますから。
私は肉体でもなく、思考でもなく、行為でもなく、我の心でもなく観照者
・・なのでありましょう。
この真理が仏様の「施餓鬼供養(せがきくよう)」を支えています。
なぜなら私が知覚する一切万物は私と一つ、あらゆる万物は私だからです。
実相は地球上で一切の私という自我を持っているものは私自身なのですから。
それゆえにその相手である私に
相手を見ている私自身に、見られている私(相手)に
自他の分離を超えている
本当の愛と
本当の大安心と
本当の大笑顔と
本当の大歓喜と
本当の大平和を
本当の非分離「宇宙は私の中に在る」「見るものは見られるものである」を
与え捧げ尽くさねば成りません。
愛や喜びや安らぎ・・それらを捧げつくし与え尽くせば、与えられるのです。
自分に愛が無いのなら愛を与えるのです??!!
キリストは言います
「愛せよ与えよさらば愛が与えられる」と。
これこそがカルマの法則に他なりません。
「御免なさい、許してください、愛しています、ありがとうございます」
「私は思考ではない、私は肉体ではない、私は自我ではない、私は記憶ではない」
・・と信じているこの頃です。