ラーマクリシュナは仰います
神が行為者。
しかし、人・個我は自分の行為に責任があるのである。
そして行為とは、間違いなくその人・個我に結果をもたらす。
善因は善果をもたらす。
しかし、目的を達した人、神を見た人は、罪を犯すことはありません。
神の行為が自然と出来るのです。
神のみが唯一の行為者であって、他のすべては非行為者であると
知っている人たち、
神の意識に目覚めた人たちは、足を踏み外すことはありませんし、
計算して悪を捨てる必要はありません。
神への愛があまりにも大きいので、彼らの行う行為は、すべて良
い行為です。
しかし彼らは
その行為を行うのは自分ではなくて、自分は神の召使いである
ということを、知っています。
私は機械です、あのお方が操縦者、
あのお方が行わせるように行います。
あのお方が話させるように、話します、
あのお方が動かすように動きます。
我性がある間は、無知があります。
私-意識がある限り、解脱はありません。
おお神よ、貴方は行為者、そして私は行為者ではない、それが
明知と呼ばれるものです。
おお神よ、貴方は行為者、そしてわたしは行為者ではない、それ
が明知と呼ばれるものです。
神ご自身が、あなたを通じて多くの仕事をするために、あなた
の中に、その自我意識を残しておかれたのです。
あなたの自我意識・その我性は誰ものであろうか?それは神ご
自身のものである。
私は肉体であるという、無知である意識がなくなってもいない
のに、「私はそれである」というのは良くありません。
感覚の対象を捨てることが出来ないものは、どうしても「私とい
う観念」はなくなりません。
神のみが行為者で、その他すべては神の道具です。
それ故に、ブラフマンの智者たちも、自惚れることは出来ないのです。
神ご自身が、あなたを通じて多くの仕事をするために、あなた
の中に、その自我意識を残しておかれたのです。
あなたの自我意識・その我性は誰ものであろうか?それは神ご
自身のものである。
のに、「私はそれである」というのは良くありません。
感覚の対象を捨てることが出来ないものは、どうしても「私とい
う観念」はなくなりません。
それ故に、ブラフマンの智者たちも、自惚れることは出来ないのです。
このラーマクリシュナに関しての私の解釈です
アドヴァイタ不二一元を学んでいる人が殆ど陥る誤謬についてラーマクリシュナは明確に
示しています。それは「行為者はいない行為は起こっている」という覚者の言葉です。
これは「肉体が自分であると言う錯覚」がある間は該当されません。口先だけで「私は
肉体ではない」「私は行為していないのだ」と思っていても実際には「私は行為している」
と確信しているのです。ですからいくらその様に表面意識で思い込んでいても実際には
「私は肉体である」と実感しているので、その通りにその行為の報いを受けることになります。
拷問を受けていても、眼球を取り出されていても、末期癌で断末魔の苦しみの最中であっても
一切苦しむ知覚を受けない段階即ち肉体との同一化を超越した段階レベルにある人だけがこの
言葉は適応され、肉体の感覚だけを知覚している段階の人の場合は行為の結果を必ず
カルマとして受け取ると言うことです。
この肉体の知覚がある場合は行為の結果は自分が刈り取り、行ったように行われると
言うことです。搾取すれば搾取され、苦しみを与えれば苦しみを受け、殺せば殺されるのです。
ラーマクリシュナやクリシュナムルティーの「行為は起こっている」という言葉が
該当するのはこの肉体の知覚が殆どない高次霊体や霊魂としての知覚認識にいる人だけなのです。
病気で苦しむ肉体感覚の段階の人は「行為は起こっている」のではなくて、実際には「自分が
行為している」段階なのであるから、その行為の報いを必ず今世か来世で受け取ります。
何故行為の報いを受けるのでしょうか?何故殺せば殺され、奪えば奪われるのでしょうか?
それは私達は自分と相手は別人格であると思っていますが、実際は私はあなただからです。
私とあなたは一つで分離できないからあなたにしたことは私にしたことなのです。
通常私達「霊魂と繋がる私」は、肉体脳と結合し一体化しているので、知覚認識している
殆どは肉体脳と潜在意識の記憶の反応です。
そして私達の思考とは脳の限定された知覚を基底としているため、この限定
された脳の思考の記憶や知覚以外を知ることは出来ないのです。
現在の私達は従って思考以外を知ることが出来ないのです・・それは私達
「霊魂と繋がる私」の目が思考に依って塞がってしまっているからです。
ラーマクリシュナによれば思考とは自我であり、それは神の演技でありましょう。
私達「霊魂と繋がる私」が内部と外部で知覚認識しているのは
①源泉・カルマから起こっている肉体や思考や衝動や行為や運命や出来事、
そして、
②それに対して反応しているのが「自分が思考し行為していると実感している
自我・神の演技」(記憶)の私、
・・それしか私達は知覚認識出来ません。私達の目は思考・自我によって塞がれているために
自分自身を知りません。
それらの起こっている思考も思考に対する反応である私も根源・源泉から起こっているのに
私達「霊魂と繋がる私」は、その自我(神の演技)という「自分が思考し、自分が行
為していると錯覚している自我」、「カルマを持つ自我」を自分自身だと錯覚してし
まっています。
・・それは目が塞がっているからです。私達の目が思考で覆われてしまっているからです。
そしてその結果、カルマを背負った思考・自我と共に「霊魂と繋がる私」は輪廻し
生きています。
繰り返しますが私達「霊魂と繋がる私」は
①根源から起こっている肉体そしてその行為や思考や感情、運命
そして
②それらに反応している記憶(自我・神の演技)
私達「霊魂と繋がる私」は①と②完全に一体化してしまい、
自分は肉体ではないのに私は肉体であると錯覚し、私は「霊魂と繋がる私」で
あって私は自我ではないのに私は自我であると錯覚し、自分は思考していないのに、
私が思考していると錯覚し、私が行為していないのに自分が行為していると錯覚
しています。
思考し行為しているのは源泉であり、思考し行為しているのは源泉が動か
しているのです。
そしてそれを「自分が行為している」と 錯覚しているのは「神の演技である
私であり・カルマによってプログラムされた自我」であって魂からの私ではありません。
(物凄く複雑なのです)
・・・「霊魂と繋がる私」は眠っており、目が塞がっているのです、目が思考や
「我の心」によって塞がっているのです。
ここで三通りの私がいることになります。
一つ目はカルマによって起こっている障害や才能を持った肉体、そしてDNAや
カルマによって起こる出来事、その思考や行為や衝動。
そして二つ目はそれに対して反応する記憶の私「神の演技である自我」。
そして三つ目はその脳の私や自我に同一化してしまった眠れる「霊魂と繋がる私」です。
この「自分が思考し、行為していると思っている自我」のことを「私だと錯覚している私」
のが眠っている「霊魂と繋がる私」なのです。
「霊魂と繋がる私」が自分だと思っているこの私自我は私ではないのです。神の演技なのです。
その「神の演技である自我」と同一化した「霊魂と繋がる私」は「自分が思考し行為し
ているのだ」という自我が持つ錯覚のゆえにカルマに縛られ自他の分離の思考以外を知覚認識
することが出来なくなっています。
これ以上の高次の知覚、それは超感覚や超意識の事ですが、その高次知覚は私達のサイコノエティ
ック体や高次ノエティック体が再形成されていない限りはその高次の知覚は認識出来ません。
覚醒していない私達の文化や科学は三つの脳及び潜在意識の記憶(受動思考)に限定されてしまって
います。
私達のサイコノエティック体が再形成されチャクラが活性化していない限りは私達は「自分が思考し
行為していると思っている自我(神の演技)」との一体化から逃れることは出来ません。
本当は肉体は私ではなく、従って私は行為も思考もしていないのでありましょう。それらは
起こっているのです。そして私は記憶の反応(神の演技・自我・思考)ではありません。
私達は「霊魂と繋がる私」なのでありましょう。
ですので、思考や感情そして私自身の知覚認識のすべてはこの記憶の反応=思考
(自他の分離)であります。
起こっている全てと、それに反応する自我も神のマーヤ・根本無明・私という観念
からであり、それら「自我・自他の分離」とは神によって演じられている「神の演技」
であると教えられています。
ではこの自我・思考によって塞がれている目・私達・「霊魂と繋がる私」が
解放され「思考なく見ることが出来る」にはどうしたらよいのでしょうか?
目を塞いでいる思考とは自我であり、自我とは自他に分離した私であり、神の演技です。
ですから解放されるための方法を探している私、解放を願っている私こそが
「霊魂と繋がる私」である目を塞いでいる思考・自我・私・神の演技なの
ではないでしょうか?
目が思考によって塞がれている私を知覚認識している私とは誰でしょうか?
その私とは誰でしょうか?
それは「霊魂である私」ではありません。それは思考・自我なのではないでしょうか?
それは自分自身を忘れている「霊魂と繋がる私」なのではありません、
「霊魂と繋がる私」は眠っているからです。
なので私「霊魂と繋がる私」とは如何ように自我思考によって塞がれて、眠って
いても私達は既に霊魂なのではないでしょうか!!???
クリシュナムルティーは「成るのではなく在るのだ!!」と言われました。
ですから如何に神の演技である思考・自我によって私達「霊魂と繋がる私」の目が
塞がれていても、私達「霊魂と繋がる私」の目自体は厳然として既に「在る」
のではないでしょうか?
「霊魂と繋がる私」の目から思考・私自我が取り払われるためには、その思考自我
からの解放を求めている私こそが、その思考・私自我であることを知らねばならな
いのかも知れません。
神の演技である思考は自他を分離していますが、意識には自他の分離が無く
わたしとあなたの区別がないと教えられております。私達は自他の分離が無い
意識なのかも知れません。