私なく見よ・・クリシュナムルティー

2025/12/15(月)
私なく見よ・・クリシュナムルティー

クリシュナムルティーは仰います

私なく見よ!
思考なく見よ!
心なく見よ!

何故、クリシュナムルティーはこのような私達に
私なく見よ!
思考なく見よ!
心なく見よ!
と言うのでありましょうか?

それは私達は肉体でも、私でもなく、思考でもなく、心でもないからなので
ありましょう。

しかしそれに対して実際の私達といえばクリシュナムルティーとは正反対です。
毎日の生活では私達は自分を肉体だと当然、実感していますし、自分の思考で
自分の心で、自分の人生だと誰もが当たり前にそう思っています。

いくら考えても、私達は肉体であり、自我であり、思考であり、心であるからです。
ですから当然のことながら自分は肉体であり、自分が生きていると誰もがその様に実感
していますからクリシュナムルティーの言葉は宙を空振りしています。

私達は本当は「意識の座」であり、鏡であって心ではないので、心なく見ること
が出来るというのですが
・・・これらのことをこの全く自我の中にいる私達には理解することなど有り得ない
のにクリシュナムルティーは、何故この至難の技を私達に要求しているのでしょうか?


クリシュナムルティーは幼稚園レベルの私達に対して小学や中学、高校、大学を
通り越して大学院レベルの超高次元の実相の話をしているのです。

最低レベルの幼稚園生の私達にはクリシュナムルティーの言葉は全くお手上げです。

霊的諸体の知覚もなく、宇宙の仲間入りもしていない私達に対して不二一元という
最高レベルからの話をしているのですから、私達がそれを知覚したり理解すること
が出来ないのも当然でありましょう。

それにも拘わらず幼稚園レベルの私達に対して
クリシュナムルティーは言います。
「あなたは全ての人なのです。」
「あなたはあなたが見ている相手なのです。」
「あなたが世界なのです」と

しかしそれに対して、一般常識人で有る私は
どう考えても、相手は私ではありませんし、相手とは自分の姿などと言われても
、そのようには到底おもえません。

しかし賢者達は口を揃えて仰います。
「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」と

私が見ているその相手とは自分自身の姿なのだと言うのです。
私は非難している相手、そして私が自分ではないと思っているこのあるがままの
愛のない私は自分自身の姿なのだと言うのです。

思考も、心も、私も、「鏡である私という意識の座」を覆い包んでいる、
神のマーヤなのであって、心も私も私達ではないのです。と

私達は肉体や自我や思考ではなく、それらを知覚している鏡という意識の座なのですと。
私達は記憶からの受動思考ではなく、私達である「霊魂と繋がる私」からの能動
思考を使用できるのだと。

私達は神の映像や神のマーヤではなく神の一部、神の子であり鏡であり、神の分け御霊
なのでありましょうけど、実際の自分の内面や世界の実情を見れば、何処を見渡しても、
私達が神の子であるなどとは思うことはできません。

それは私達の目が開いていないからなのでありましょうか。

けれどもその様な世間一般の常識に対してクリシュナムルティーは断固として言います。
私達は自他の分離分割の無い鏡・意識の座、神の子、超意識、「見るものは見られるも
のである」なのであると仰います。

クリシュナムルティーは私達は私でもなく、心でもなく、思考でもない自他に分離
していない意識だと仰るのです。だから心なく私なく見なさいと言うのです。

私達はそれらの思考でも、心でも、私でもない鏡・意識の座、「霊魂と繋がる私」である
と教えておられるのです。

けれども実際の私達の知覚や実際の生活の中ではとてもそうは思えません。
実際の生活では私達が知覚する私とは愛のない自我そのものです。
いくらその様に教えられていても、実際の私達の知覚では、私達は肉体であり
自我であり、私が思考し、私の肉体であり、私の自由意志で私が行為している
という実感しかありません。

それに対しても、さらにクリシュナムルティーは仰います。
自分が行為していると知覚して、そう思っている私こそが私(あなた)で
はない思考であり、心なのだと。
私達はそれら心を見ている「心を超えているそれらの観照者」・たましいであり
「鏡」「空」「超意識」「自他の分離が無い全体」という観照者、霊魂
であるのだから私なく、思考なく、心なく、あるがままを見よ!
と教えておられるのであります。

・・正直言って全く実感がありません・・。

久保栄治には言葉は分かりますが全く実感も、その知覚もありません。
・・正直言って久保栄治は流石にこのクリシュナムルティーの言葉を
理解するには、恩寵が天下らなければ不可能だと思います。

私や、思考や、心は神のマーヤであってそれらは神聖なる起こっているこ
とであり、「霊魂と繋がる私」である鏡の私ではありません。私や、思考や
、心は鏡の私を覆い隠している神のマーヤなのです。とクリシュナムルテ
ィーは言うのです。

結局の所、私達はそのクリシュナムルティーの言う言葉を理解出来ないので信
じるしか方法がないのです。

私や、思考や、心とは私達ではないと、それらは神の演技、神の幻想であると、
私達とは自他の分離が無い一つの超意識・空・鏡・「意識の座」・霊魂
だと仰るのであります。
「成るのではなく、既に在るのだ」というのです。
「成ろうとすることは在るから離れることで有る」というのです。
「見るものは見られるものである」というのです。

う~ん、最高に難しい言葉です。

その心や意識を超えている「意識の座」を覆い包み隠しているのは私達ではない心、
神のマーヤだというのであります。即ちそれが私自我であり、思考であり、心であり、
肉体であり、その私自我がそれら自身を知覚しているのです。その知覚認識している
私とは「自分は私だ思っている嘘の私」なのだと教えておられるのです。

私達がそれを理解出来ないのは私達「霊魂と繋がる私」は全く目が醒めずに暗黒
の中を歩んでおり、その暗黒に全く気が付いていないと言うことなのでありまし
ょう。

賢者達は私達が自分の肉体で、自分の思考であり、自分の人生を自分が歩んでいる、
私が主体であり、私が行為しているといくら実感していても、その実感している私
こそが神の演技であり「霊魂と繋がる私」が自分だと錯覚してしまっている記憶だ
と仰るのです。

私達「霊魂と繋がる私」はぶ厚く何重にも自我にそこまで完全に目を覆われてしま
っているのです。

クリシュナムルティーは更に非常に高次元の彼岸から深い意味で私達は対象ではな
く主体であり、目が目を見ることが出来ないと同じく主体が見ている対象が主体な
のだと言うのです。自他に分離しているものは何もないというのです、「見るもの
は見られるものである」と言うのです。
私達は世界や自我を外部に見ていますが実際には世界は内部にあると言うのです。

・・・こんな言葉を一体世界の誰が理解出来るというのでしょうか?

「見るものは見られるものである」であり、思考や心や私という記憶は私(I A
M)ではないというのです。思考や心や私というわたしとは神の演技だというの
です。
そしてその神の演技であり自我は「主体は客体である」のに自他を分離し、
同じように自己を高次の自己と低次の自己に分割し、観察してる私は観察される
私であり、見る者は見られるものであるのに「見るものは見られるものではない」
と錯覚しているのですと。仰るのです。私達が非難している敵とは私なのですと。
私が非難している私自我は同じ私なのです。と
・・これはとてもついて行けません。

肉体、脳、思考、感情、行為、記憶、知覚、認識、「対象を自分ではないと
知覚認識している知覚認識」は神のマーヤ・「私という観念」であるという
のです。

私は貴方ではないと思い、自他は分離していると思って他人を自分ではな
いと知覚認識している私は私ではない、自分を非難し、自分から逃げようと
している私、それは私という観念という神のマーヤでありその知覚認識だと
言うのであります。その神のマーヤを肉体に繋がった「霊魂と繋がる私」が
自分自身だと錯覚しているのだと。

それは黒住宗忠師がいう
「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」と同じ教えであります。
この黒住宗忠師はまさに太陽である天照大神と一体となった方です。

私達は神の鏡であり、私も鏡、貴方も神の鏡、私達は同じひとつの意識の座だと。

そして私も貴方も神の鏡、意識の座なのだが、しかしその神の鏡に映っているの
は鏡を包み鏡を隠している「私という観念。我の心」なのだと、
その鏡に映っているのは「私は私だと思っている自他を分離する我の心・自我」
であり、自分自身を見る私と見られる私に分離分割しています。その「私は私だ
と思っている自他を分離し、自己を分離するる我の心・自我」は鏡の私ではないと。

私達である鏡・意識の座に映っているのは私達ではない「我の心」である。
そしてその鏡を見て知覚し、認識しているのも私ではない「我の心」である。と

その「我の心」が私達である鏡に映っているのであって、鏡に映っているものも
鏡を見ているものも私ではない、鏡が、この鏡そのものが私達なのだ。と

鏡に映っている私は「鏡である私」ではない。
その鏡に映っている私(記憶の私)を見ている私は鏡に映っている私であって
「鏡である私」ではない。「鏡そのものである私」ではない。と


知覚認識されている私は知覚認識している私であり、それは「鏡である私」ではない。
自我を見ている私は自我であって鏡である私ではない。
鏡に映っている私は鏡を覆い隠している「私ではない我の心」だというの
であります。鏡そのものが私達だと言うのであります。

私達は鏡なのであり、
その鏡に映っているのは我の心即ち私達ではない心や自我であって
その鏡に映っている自我を見ているものが自分の姿を見ているに過ぎない。

私達は鏡に映っている心ではなく、即ち鏡を見ている私でもなく、鏡そのもの、
私達は自分を全く知らなくても私達は心を超えた鏡・超意識・空なのです
・・・
と教えておられるのでありましょう。







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