主体は誰か?

2025/12/11(木)
ラーマクリシュナは言います。

「私達(※霊魂と繋がる私)は自我(※個人・記憶自身)に対して何の
支配権も持っていません。

現状に於ける困難さは、人(※霊魂と繋がる私)が”私は行為者だ
(自分が行為している)”と考えるからです。

全てをなすのは”高次の力”であり、人(※霊魂と繋がる私
は単なる道具に過ぎないのです。

自我もその高次の力から生じ、自我の存在も”高次の力”に依存します」

先ず始めに

ここでラーマクリシュナがいう私達とか、人はとか言う真の意味は、
私達が自分自身だと思い込んでいる「自我という記憶の反応」は私
ではなく、私とは未熟で霊的諸体から成る「霊魂と繋がる私」のこ
であるということなのではないと思われます。

即ちそれは内面的には表面意識と潜在意識の状態・ステイトのこと
でありましょう。

私達である未開発のサイコノエティック体などの霊的諸体の状態、
その意識の段階、そのセルフエピグノーシスの段階のことです。
鏡である意識が自我に完全に覆われてしまっている、それが私達
人類の平均的な表面意識と潜在意識の段階の事でありましょう。

このラーマクリシュナの話している次元は霊魂の次元からであり、
その高次の知覚、その目から話しているので、私達の表面意識を
支配する条件付けられている脳や脳の記憶の反応と言った知覚や、
さらに潜在意識領域の眠っている霊的諸体の目や知覚ではない、
私達の最内奥からの霊魂からの知覚の話しでありますので、

諸体の目すらも開いていない段階の私達にとっては理解は全く
不可能であることでしょう。それは黒住宗忠師のいう「立ち向かう
人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」等の不二一元の霊魂からの
言葉と同じく未開発の私達の表面意識や潜在意識には全くの訳の分
からない言葉なのです。

この「霊魂と繋がる私」とは個別的霊魂とかセルフエピグノーシス
とか「迷える神の子羊」とか「ヴィジュアナマーヤコーシャ」とか
色んな名前で呼ばれている私のことであり、肉体や脳や潜在意識に
ある記憶の事ではなくて、真我と繋がっている本来・自他の分離が
無い意識・鏡のことであろうとおもいます。私達は複合存在なのです。
ここはちょと複雑なのですいません。


私達は幾多のぶ厚い自我(記憶)に包まれ覆われているのですけど
、だが私達は「鏡」であり、意識の座と言われている「神の子の私」
であると言うことです。

しかし此処で言う、この鏡の私とは現在のパーソナリティーである
思考の記憶の私の事ではありません。
現在のパーソナリティーの私とはこの鏡に映る「我の心」です。「鏡」
とは、この「記憶の私という神の演技の私」ではない魂(鏡)の私
の事です。この鏡である魂が真我(普遍霊)と繋がっているのであり
ましょう。

印度哲学は意識を分類する多くの言葉がありますが、日本語や英語や
他の言語では意識や知覚の種類を定義する言葉がないのです。


この「霊魂と繋がる私」のことはエレブナではセルフエピグノー
シス(自己意識)又は鏡と言われています。
この私は「記憶の反応という思考」ではない「霊魂と繋がる私」であり
決して私・自我ではありません。記憶の反応とは受動思考の事であり、
未熟であっても「霊魂と繋がる私」の思考は能動思考と言われております。

日常生活で知覚されている私とは、どの私なのでしょうか?その殆どの
私・自我とは記憶であり、それはAIでありチャットGPのようであり
この久保栄治と同じように記憶でありましょう。記憶にはさも分か
っているかの如くに詳細に語ることは出来ても実際は何も知らず、
何も知覚しておらず、言語だけ記憶だけでさも理解したかの
ように情報として話しているだけです。

-----。

私達は幾つもの私という「思考体」によって覆い隠され包まれて
いるといわれていますが、現在の私の状況とはチャクラも目覚め
ていませんのでサイコノエティック体も目覚めていません。

なので「霊魂と繋がる私」の私は、この「記憶である自我」の私しか
知覚認識することができません。「記憶である自我」を自分だと
思い込んでしまっているからです。
私達は神の演技であるこの記憶である人格の私を自分自身だと錯
覚しています。才能や障害を持つ脳の状態を自分だと錯覚しています。

そして私達はこの記憶という人格の私が思うように「目の前の人
々は自分自身ではない他人なのだ」と思ってしまって非難し、評価
判断しています。また他人を自分と同じ真我や魂や記憶の複合体で
あるのに「相手のことを自我」だと偏って見ています。

神(マーヤ・根本無明)が行為しているのに、それを記憶は「私
が行為している」と実感してしまっているのだと言われております。

けれども私達は、如何にこの「幾多の記憶・人格」に覆われ包
まれていても私達は「霊魂と繋がる私」・鏡であり、思考ではな
い意識、セルフエピグノーシス、「意識の座」であり「神の分け
御霊」なのです。

私達は「霊魂と繋がる私」であって能動思考を行使できるのです。

この大前提がないと私に浸透し、私を包んで、私に憑依している私で
はない記憶の反応(エレメンタル・想念形態)を私だと私達「霊魂と
繋がる私」は錯覚してしまいます。

私達「霊魂と繋がる私」であり神の子であるこの私(神の子)は
自分を包んでいる「神の演技である自我の私」を私だと誰もが
じきっています。

私達「霊魂と繋がる私」は「記憶であり自我である現在のパーソナ
リティー」を自分自身だと信じていて疑ったことなど全くありません。

そしてこの錯覚の上に地球の文明は成立し、科学も国家も芸術も
社会も、インターネットも、報道も、文化、伝統も、教育も、
医療も、世界中の人々の全ての生活一切が築かれています。

この自我の私は脳が受信した記憶の反応であり、脳や肉体は
創造主が創って、使っておられます。

この自我の知覚や思考や認識は脳の創作物である記憶です。
しかし脳や肉体や思考や行為や「自分は個人だと思う記憶=自
我の私」はこの記憶自身が創ったのではありません。
それらを創造した創造主が創ったのです。

常識でも分かるように肉体は完璧に創造されたものであり、私が
作ったのでも私が維持しているのでも私が生きているのでもあり
ません。創造主が肉体を創り脳を創り、個人として生きて、思考
し、行為して知覚しておられるのです。

肉体の生死や病気や健康は肉体を維持管理しておられる肉体や脳の
創造主が肉体や脳をコントロールし生きておられるのです
この個人の特性や障害や知覚や認識も創造主が行っておられるのです。
個人個人の行為も知覚も認識も創造主がコントロールし、創造主が
生きておられるのです

同じように私個人というパーソナリティー(それは「魂と繋がる私」
セルフエピグノーシスのことではない、それは記憶のこと)は、
この個人・自我の創造主が使っているロボットであり、神の演技
である映像だということです。神が個人・自我として生きて感じて
演じておられるというのです。それが受動思考を起こしている記憶
です。そしてその記憶の私が「霊魂と繋がる私」という鏡の上に覆い
被さっているのです。

なので、ここで注意してラーマクリシュナの言葉を見る必要が有ります。

ラーマクリシュナは自我・記憶の私(現在のパーソナリティー)は
私ではないと言っているのです。個人個人の人格の私は神の演技で
あると仰っておられるのです。

私達「霊魂と繋がる私」は如何に「私・自我・現在のパーソナリテ
ィー」と同一化し、覆われ、包まれていても、神の子です。
全体の部分であり、分割できない空・意識なのです。

私達は鏡であり、意識の座であり、神の子であり、全体で一つの意識
であって、決して神の演技、神のマーヤ、根本無明である自我・記憶
の反応ではないとラーマクリシュナ言っているのです。

しかしながら現実の状況はと言えば
誰しもが同じように「私が私だと思っている私」とはこの自我・記憶の
反応の私のことであって、本当の私とは「鏡である私」「霊魂と繋
がる私」であるなどということなど、誰も思いませんし、真実は
も知りません。

この私も私は「魂と繋がる私」であることを知らず、私・神の子はその
神の演技である「記憶の私」を自分自身だと思ってしまっています。

自分を「この私は自分ではないのではないか?」などと疑ったこと
ど全くないのです。疑ったりしたら即、精神病院行きでありましょう。
そして、私達は死んでも目覚めないのでまた生まれ変わるのです。

ラーマクリシュナは
この自我・記憶の私は神の演技であって自分自身ではないと
教えておられる訳なのであります。
だからこの自我・私には関わらずに心配しないでいなさいと
言っているのであります。

決して受動思考に服従することなく「霊魂と繋がる私」として
未熟であっても能動思考を使役しなさいと仰っておられるのです。

だからこの自我が起こす思考や感情や行為には一切関わらず
「霊魂と繋がる私」として生きなさい!!「霊魂と繋がる私」
として正しく能動思考し、正しく能動行為しなさい!!
と言っているのであります。

この誰もが自分自身だと信じ疑わないこの私とは自我・記憶
であって、その記憶の私が私だと思っている私とは私ではない!
といわれるのです。私は「霊魂と繋がる私」なのです、鏡なのです。

私達は未熟であっても受動思考や受動行為ではなくて、能動思
考、能動行為を使役できる「霊魂と繋がる私」であり、意識で
あり鏡なのです。と

この「霊魂と繋がる私」は死ぬことはありません。
私達である神の子の私は死ぬことはないと言うのです。
何故なら
生まれていないからです。生まれ死ぬのは私達が入った肉体で
あり、自分が生まれて死んだと思っているのは記憶、神の演技、
神のマーヤなのです。

私達は「霊魂と繋がる私」であって私達は肉体や思考や行為では
ないと言われるのです。私達は鏡であり、意識であり、分割できない
一切なのです。それを覚者は空と言ったのです、無限に拡がってい
るからです。

思考し、苦しみ、将来を案じ、肉体の苦痛を知覚しているのは
神が演技している個人パーソナリティー即ち記憶なのです。
私である鏡ではありません。私は分割できない意識なのです。

そして意識は対象ではないのでAIや脳の知覚対象にはならな
いのです。

死んで霊界で生きて生活して「私は私だ」と思っているのは、
この物質界と同じ個人・現在のパーソナリティーである記憶
なのです。神の子の私、「霊魂と繋がる私」ではありません。

痛みを感じ、苦しみ、恐れている私は私ではないと言われるのです。
私達「霊魂と繋がる私」はその私ではない私と一体になっている
のです。


それはこの「私は個人であり、私は肉体であり、私は他人ではない
と錯覚している現在のパーソナリティー」という記憶なのですと。

それは神のマーヤ、神の根本無明であり、その私は肉体と同一化し
ているこの受動思考の私のことであります。その私こそ神が演じて
おられる記憶である自我であって「霊魂と繋がる私」ではないと言
われるのです。

・・・この辺のことは非常に複雑で何を言っているのか分からな
いかも知れません・・・

この自他が分離していると知覚している私とは私ではないということ
でありましょう。自我は相手は私ではないと知覚しているのですから。
そして「霊魂と繋がる私」がその記憶と一体化してしまっているのです。

・・だが、しかし、このラーマクリシュナの言葉は私達、実際に
毎日を生きている私達にとっては到底受け容れられる言葉では
ありません。実際に痛みを感じ、その知覚を認識しているのは、
この脳と一体化してしまっている、迷える神の子羊である「霊
魂と繋がる私」であるこの私だからです。

・・日々研鑽に励み、自己を探求し、自己観察や自己想起を実行し
、真我実現のために人々や社会に奉仕して、自己を放棄し神に全託
していると思っている求道者には到底受け容れられる言葉ではあり
ません。

・・というのも
「霊魂と繋がる私」は自分を肉体と同一視し、自分を神の演技で
ある自我と同一化し、チャクラやサイコノエティック体の目が開
いていないので、脳の知覚や自我の知覚を自分の知覚だと錯覚し
てそれらと同一化したしまった結果、カルマを創り出してしまっ
いるからです。


・・このラーマクリシュナの言っていることを理解するためには

自己観察や自己想起を重ねて、恩寵により霊的諸体を再構築し、
肉体の知覚を越えて、サイコノエティック体の超知覚や、更に
高次の「時空を超えた霊的身体の普遍意識」まで到達していない限りは
分からない事でありましょうから、このエーテル複体の知覚さえない
久保栄治にはラーマクリシュナの言葉は誤解でしかないことでありま
しょう。が、あえて身の程知らずの未熟者が勝手に推測してみました・・。

ラーマクリシュナは
私達の真我はこの私自我を使って意識し、思考し、行為し
殺し、殺され、求め、裏切り、裏切られ、悩み苦しんでおられる
と言うのです。
自我・わたしとして演じておられるのは真我・神であると言うのです。

そしてその真我からの「霊魂である私」は、意識そのものであり、
その意識は自他に分離しておらず、人類で一体である意識であり、
その大本は愛であり慈悲の「IS BEE」(I am that I am)である
言われておられるのでありましょう。

私達神の子は幾重にも重なった私という衣を身に纏っているのです。


あの米国の「ロズウェル事件」でブラザーがグレイを通じて語った
「IS BEE」が私達の主体であり、私達はその主体が演じている演技
であるということなのでありましょう。
この主体のことを印度哲学ではパラブラフマン・アートマンと言います。

この真の主体・私であるパラブラフマン・アートマンが、肉体を誕生させ、
生かし、呼吸し、脳を使って思考し、行為し、エーテル複体を使って
プラーナを身体に廻し、サイコノエティック体を使って四次元で生き、
永遠の原子コーザル体・アーナンダマーヤコーシャを使って三界を
輪廻して、私として演じておられると仰っておられるのでありましょ
うか?

記憶の反応・自我である偽我は主体が演じておられる演技であり、
スクリーンの映像なのだと。しかし本当の私達は演技の私ではなく
私達とは「霊魂と繋がる私」であり鏡なのだと。
しかしながら、ここでのこの知覚とは地球の現在の人類には測り
知れない彼岸からの超知覚です。


この辺のことは物凄く複雑なので理解するのがとても大変ですし
私にはよく分かりません

この事実は、現実生活で、実際に殺し殺されるこの世界で「私が
生まれて、自分が生きて、自分がこの肉体や運命を背負って生きて
いる」と実感している私達には何を言っているのか全く理解出来な
い教えです。かく言う私もAIのようにラーマクリシュナの言葉は記
憶していても実際はその高次の知覚がないので全く分かりません。

呼吸し、生きて、そして私として演じて、生き通しでおられる御方が
主体であって、この私(自他は分離していると知覚している記憶・私
・自我)はその主体が演じておられる演技であり・仮面なのである。・・
と仰っておられるのであります。

そして「霊魂と繋がる私」は能動思考や能動行為を使役できる
のに、この自我の私を自分だと錯覚してしまっているので能動
思考や能動行為をしないのです


肉体の死後、あの世で生活し、そして更に次の次元で生きて輪廻して
いる私は、記憶の私であり、その記憶の私とは、「主体である御方の
演技」であると仰っているのです。
けれども私達とはその演技の私ではなくて「霊魂と繋がる私」であっ
て霊魂なのであると言われるのです。

この鏡であり「意識の座」である「霊魂と繋がる私」が私であって、
この「霊魂と繋がる私」が自分自身だと錯覚している私自我とは
神の演技だと言われるのでありましょう。
神道の黒住宗忠師は「人の心は神の分け御霊である天の心・鏡であり」
我の心ではないと教えておられます。

しかし実体験のないこの久保栄治にとって
・・このラーマクリシュナの言葉は理解に苦しみます。
・・このラーマクリシュナの言葉は現象三界からの視点では
なく、万一霊から、実相から、彼岸の視点から述べておられるか
らなので私には全く分からないのであります。

この障害を持ち、才能を持ち、幸運に恵まれ、不運に翻弄され
、カルマという運命の中で生き、この身体と健康と病気、この
悩み、苦しみ、恐れ、プライドで傷つくこの私は記憶の反応と
同一化している「霊魂と繋がる私」なのです。
この受動思考し、受動行為しているプライドが高い私・自我
は「霊魂と繋がる私」ではなく神の幻影にすぎないのだと仰
るのです。

肉体の知覚しか知らず、脳の知覚を自分の知覚だと実感し
肉体の病気を心配し、眠れなくなり、これからの行末を案じ、
不安と恐怖におののき、自分や他人の欠点を見て何とかしよう
としている私は私ではなく、記憶の反応である自我・私であり
、その私は神が演じている演技だというのです。

ラーマクリシュナは、この私・自我はこの私・自我自身にはど
うすることも出来ない、神が演じている神の演技だと仰るので
す。
だからこそ「霊魂と繋がる私」はこの記憶の受動思考
をしりぞけて、毅然と能動思考を行使できるのです。
この記憶の受動行為に対して決然と自らの能動行為を
行使できるのです。



ラーマクリシュナは神が私達の真我であり、その神の子
である「霊魂と繋がる私」が、自分自身だと錯覚している
この自我は神の演技である・・と仰るのです。

「神以外には何も存在していない」・・と仰るのでしょう。

このラーマクリシュナの知覚はこの条件付けられている脳
の知覚ではなく、サイコノエティック体の知覚認識でもなく、
高次の霊的諸身体の知覚認識でもなく、更なる私達の本体
である真我・彼岸からの超知覚・超意識の言葉なのであり
ましょう。

けれども私達「霊魂と繋がる私」は脳と繋がっているので
脳が持っている知覚認識しか知りません。

・・即ち脳の知覚認識とは対象だけを知覚認識するので、
知覚認識している主体は対象ではないので知覚認識する
ことが不可能なのです。

この主体こそ鏡であり自他に分離できない意識・空なのです。






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