心が心を見ているとき解放がある・・ミラレパ
心が心を見ているとき解放があるとは何のことでありましょうか?
何から解放されるというのでありましょうか?
それは我の心からでありましょう。
では我の心とは何でありましょうか?
それは私達神の子が自分自身だと思い込んでいる「自他は分離
していると思っている心」でありましょう。
それでは「自他は分離していると思っている心」とは何で
ありましょうか?
それは神の子である私達を覆い隠している五つの身体とその記憶
なのではないでしょうか
それが、「神の子の心」が「我の心」から解放されると言うこと
でありましょうか。
では、心が心から解放されるとき何が現れるのでしょうか?
・それは、今まで五つのコーシャによって覆い隠されていた真我
(神の子)でありましょう。神の分け御霊であるこの私でありま
しょう。
その状態とは
それは、心が真我と一体になると言うことでありましょう。
では、此処で言われているその心とは一体何なのでありましょうか?
それは、神のマーヤである、思考体などの霊的諸体のことなのではない
でしょうか。
即ち心という霊的諸体が自分自身である心(自他に分離していると
思っている心)を見ているのでありましょう。
なので心を見ているものは心・霊的諸体であるのでありましょう。
心を見ているもの・・それは心以外にはないことでありましょう。
クリシュナムルティーはそれを「見るものは見られるものである」と
言われます。
心を見ているものは心なのだと教えられております。
自他の分離を知覚認識しているのは、我のこころ(神のマーヤ)
だと言われるのです。
なのでクリシュナムルティーは「観察者は観察される者である」、
だから観察者を見なさいと言われます。
見ることが解放を齎すと。
「見るものは見られるものである」
だから見ているものを見なさいと言われます。
ではその見る者であり、見られるものである心とは何でしょうか?
それはこの「自他に分離している私」「主体と客体に分裂している私」
であることでありましょう。五つのマーヤの身体のことでありましょうか。
それは、この自他が分離していると知覚認識している私即ち「我の心」。
この我エゴの私は我の心なのです。この心である私は転生している霊的
諸体なのです。
ではその神の演技である私・心・「我の心」とは?
それは輪廻を繰り返している「原因体」「コーザル体」「永遠の原子」
等々、シャンカラによって「歓喜体」と言われている真我に一番近い
「原因体」神の霊的身体即ち根本無明のことなのではないでしょうか?
カルマを背負い、自分が思考し、行為していると錯覚している心こそ
が、この神の演技である五つのコーシャなのではないでしょうか。
ラーマクリシュナが言う神の演技とは、三界の次元を転生している私、
自他が分離しているとその様に固く錯覚している私・我の心。その我
の私とはコーザル体であるように思えると、その様に推論づけられます。
従って心が心を見ているとき解放があると言われるその心とは、
現在意識や潜在意識や輪廻転生している本体であるコーザル体
であるということになるのではないでしょうか?
ニサルガダッタ・マハラジのグルはそれを教えておられますし
シャンカラもそう言っておられます。
神の演技である私、因縁とカルマによって転生を繰り返している私、
宿業によって悪行・行為を繰り返しているその私とは神の分け御霊を
覆い隠している神の映像、神のマーヤでありましょう。
○肉体
○エーテル複体
○サイコノエティック体
○自我体
○永遠の原子・コーザル体
で構成されている心であり、
その心とは
自分である心自身を対象化してみているその同じ心であると教えられ
ています。
それが自分自身を見る私と見られる私に分離分割している心、即ち神
の演技「五つのコーシャ」であるように思われます。
その神の演技である「五つのコーシャ」は
自分が思考し行為していると錯覚しているがゆえにカルマに縛られ転生
を繰り返している「因縁を持つ私」なのであるとその様に推測されます?
そしてシャンカラや黒住宗忠師などの賢者は口を揃えて
それら五つのコーシャ(神の子が身に纏っている霊的身体)は貴方で
はない!
それらのコーシャは神の演技であり、それらは運命を持ち、カルマに
縛られ、転生を繰り返しているのですと教えてられるのではないで
しょうか。
シャンカラやくは言います
「貴方は神の子・真我であって、それらのマーヤコーシャではない」
と。
なので「見るものは見られるものである」であり、自他の分離、自分の
こころを観察している私は、観察者、思考者、行為者であり、それらの
観察者、思考者、行為者は私ではない。
それら自他を分離していると知覚している私は、真の私・私達である神
の分け御霊ではないということになるのでありましょう。