それは受動思考と能動思考とそして高次思考であります。
が、しかし
この一番最後の高次思考とは人類には未知なる「真の私」の思考であり、
私達「霊魂と繋がる私」が霊魂との繋がりを回復したときに知覚される
自他の分離が無い超個人・インパーソナルな非分離・非二元の思考だと
言われております。
その高次思考はこう言います。
「高次思考とは、すべての中にある自己・私への愛です」
「意識は一つです、貴方の意識も私の意識もそれはひとつ、それが愛です」
しかし、現在の私達人類は受動思考だけを知覚しており、能動思考や高次
思考、更に「I AM」の超意識などがあることは全く知りませんし、そ
れに対して思いを馳せるなどと言うことも一切ありません。
従って高次思考を想像することや、知覚することなどは最早全くありません。
ただただ脳の知覚と記憶の認識という常識の中だけで生きているのです。
私達はその高次の思考や、さらにその上の魂の超越意識があるなどとは夢
にも思う事はなく、ただただ受動思考の中にだけ、欲望の中、心の中、自
我の中にだけで生きており、この受動思考の上に私達の社会文明の全ては
築かれています。
私達、人類は自他の分離という虚偽(受動思考)の中に生きていると言
うわけです。それが私達人類の心の知覚認識です。
この受動思考とは、私達「霊魂と繋がる私」が脳と結合している以上は
その受動思考が昼夜を問わずに絶えず頭の中を流れていて、私達を支配
しているので、私達はその受動思考から解放されることはありません。
受動思考とは「霊魂と繋がる私」が脳の情報をそのまま知覚して、五感
の感覚や快楽をそのまま自分の知覚としている状態であり、霊的諸体の
知覚や、霊魂の知覚認識などは全く無い状態が私達が知っているこの人
類の知覚であります。
受動思考とはこの「条件付けられている脳」からの思考のことです。
切ったら痛いし、病気になれば苦しいという肉体の知覚しかないのが
この私達であり、霊的諸体が形成されていないのが(チャクラが開花
していないのが)私達の現状の姿です。
賢者はその受動思考のことを言います・・
「身体は行動し、心は考えますが、その背後には誰もいません、それら
は起こっているのです」
私達「霊魂と繋がる私」は、その受動思考と一体化しているので、自分
と「霊魂と繋がる私」であって、脳からの受動思考ではなく、私達には
受動思考ではない能動思考や更に霊魂からの高次思考を知覚する可能性
があるなどということは全く知るよしもなく、関心もありません。
私達は決して目覚めることなく受動思考に支配され、脳から自由になる
こともなく、自我の欲望と苦痛と快楽によって深く深く染まっているの
です。私達が思うこと考えること、推測すること、心配することの全て
はこの受動思考です。
では先ず私達を支配しているカルマから生起している受動思考という思考、
神の演技であると教えられている「記憶の私」を見てみたいとおもいます。
私達が呼吸している限りは受動思考は絶えず決して止まらないで頭の中を
駆け巡り流れ続けています。意識面には肉体脳の知覚、脳からの思考しか
ありません。それがこの「自他の分離だけを知覚しているこの私」です。
その受動思考とは私達「霊魂と繋がる私」(霊的諸体)からの思考ではなく
、脳からの受動思考の記憶であることにすら気が付いておりません。
それは受動思考だからです。
私達はその起こっている受動思考を自分が思考し使っていると錯覚してい
るのです。
この知覚し、恐れ、心配し、苦しみ、不安で悲しみしか知らない私とは
私ではない記憶なのです。
その記憶とは「霊魂と繋がる私」即ち神の迷える子羊ではないのです。
私達は自分が呼吸しているという知覚がある限りは私達は脳と肉体に繋
がり受動思考に束縛されているので、脳が受信しているその思考や感情
行為(カルマ・記憶・肉体からの反応)から逃れることは出来ません。
霊的諸体の目が覚醒していない限りは自力では受動思考から解放される
ことは出来ないのです。
私達・「魂と繋がる私」は、脳と結合しているので、その脳からの反応
である受動思考を自分の思考だと知覚しており、自分自身の思考だと
固く固く思い込んでいるのであります。
そして
そのカルマとDNAから起こっている出来事とそれに反応する記憶か
らの反応を自分自身の心だと思い込んでいるのです。
この受動思考は社会や国家やそして教育、科学、常識、文明の全てに
浸透し、この地球文明を成立させています。人類は決して誰もそれを疑
いません。
そして賢者は言います
賢者はこの私達「霊魂と繋がる私」は肉体でもなく、記憶の反応でも
ないというのです。
「貴方は運命に縛られていません。
運命・カルマ・行為・思考は肉体と心のためにあります。
肉体の誕生と死と出会いと別れ、あらゆる出来事は肉体と心に起こり
ます。
貴方は肉体ではなく心でもありません。
私は肉体であると考えることは恐怖を引き起こし、
その恐怖は心を苦しめます。
しかし貴方は心ではありませんし、あなたは肉体でもありません!」
エレブナではこの受動思考が自分の眉間からエレメンタル・想念形態と
して発信され、形成されているのだと言われています。そして私達はそ
のエレメンタル・心(受動思考・記憶)と一体化してエレメンタルに支
配されて苦しみます。
私達現在の人類の状態とはこの受動思考と完全に一体化している状態で
あり、私達はその受動思考を自分の意識であり、自分自身だと思い込ん
でいるのですが、
それは私達の意識でも思考でもない、絶えず脳の中を流れている根本自
我の想念(神の演技、神のマーヤ)なのです。
ですのでこの私とは神の演技なのです、映像なのです。
全てを分離して見、自分が思考し、行為していると実感しているこの私
はロボットなのです。この私は真の私ではありません。生きて行為し自
我として演じておられるのは神なのです。
賢者は言います。
「貴方は肉体、諸身体、心、世界を見ますがそれらに囚われてはなりません!
身体とその心にはその役割を果たさせましょう!
それら肉体、諸身体、心、世界は貴方に属しているのではありません」。
それでは能動思考とは何でありましょうか?
それは
「霊魂と繋がる私」であるが未熟で未形成の霊的諸体(思考体・感情体)
から発生している思考のことであります。
能動思考は私達「霊魂と繋がる私」のその霊的諸体の覚醒度によって色々
と能動思考の内容やレベルが異なっております。
高次元からの教えによればこの霊的諸体からの思考や感情さえも真の私
ではないマーヤであると言われますが・・私には余りにも高次すぎて理
解は出来ません。
・・というのもこの現在の私達「霊魂と繋がる私」は眠っていて霊的諸
体の目すらも醒めていないからです。だからアストラルプロジェクショ
ンをしたくてもその幽体すら使用することが出来ないのですから・・・。
私達は眠っているので目が開いておらず、三次元しか見ることが出来ず
脳からの思考と肉体の知覚しか認識することが出来ず、四次元や五次元
すらも知覚出来ていないのです。
しかしながら能動思考は「霊魂と繋がる私」からの思考(意識)であり、
この霊的諸体(思考体・感情体)は拡大することも縮小することも可能
であり、その霊的身体からの能動思考は肉体の中に入ることも、世界に
拡がることも可能だと言われており、この霊的諸体は遠隔治療や思考の
物質化すら出来ると言われております。
この能動思考とは、脳から受信されている受動思考に対して「霊魂と繋
がる私」即ち未覚醒の霊的諸体からの思考であり、この能動思考は同
じように思考だと意識(鏡)には知覚されますが、その思考のソースも
中身は全く異なっております。
受動思考とは記憶の反応であるのにたいして、
能動思考は「魂と繋がる私」霊的思考体や霊的感情体からの思考な
のです。
そしてこの能動思考も受動思考と同じく眉間から想念形態エレメンタル
・想念が発信され形成され私達に影響をあたえていると言われています。
賢者は言います
「朝、目覚めることも、夢を見ることも、眠ることもない私を見つけ
て下さい!
誕生と死とあらゆる出来事を見守っている私、そして肉体や心を見守っ
ている私、生まれた私を見守っている私、決して生まれず、決して死
なない私を見つけて下さい!
貴方は肉体ではありません!
貴方は心でもありません!
貴方はそれらを観照している私です!
貴方は貴方のままでいて下さい!
貴方は決して死なないもの、決して生まれないものです、その私を見つ
けて下さい!」
さてその「霊魂と繋がる私」からの能動思考の更に高次元の未知なる真の
私の高次思考とは、何でしょうか?
それは
この未熟な「霊魂と繋がる私」が頭上の霊魂(観照者)と繋がったその
状態での観照者の私からの意識のことであり、それは思考と言うよりも、
むしろ高次意識と言ったほうがより正確であると思われます。
何故ならば、その高次思考とは時間と空間を超越しており、自分と他人
の区別がないからです。万物一切との区別がない超意識なのです。
他人を見て私だと知覚認識している超意識なのです。
能動思考の私は、受動思考を受動思考であると見破ることで、その自他
の分離が無いインパーソナルな高次思考を受けとる事が出来るのです。
ミラレパは「心を以て心を観ずれば、人は差別を打ち破り解脱を手の内
にするなり」と言われます。
このミラレパの言葉はどんな意味なのでしょうか?
それは
この心(自我)を見ているものは心(自我)であることを心(自我)が
見ることが、その心(自我)からの解放を齎す・・と言うことなのでは
ないでしょうか。
鏡を見ている私とは鏡に映っている私(記憶の私)であることを鏡を
観ている私が知ることでもありましょうか。
「見るものは見られるものである」と教えられております。
恐怖を見ている私は恐怖そのものであることを恐怖である私が知ること
でもありましょうか
心を観察しているわたしこそ、その観察されている心であるということ
を心が見て理解するとき心からの解放があると言うことでありましょうか
それは又クリシュナムルティーが言うところの「見ている私を見なさい」
「観察している観察者を見なさい」でありましょう。
私は行為しておらず、思考もしておらず、私は主体ではなく神の演技で
あり、神が私として、また全ての人類の私として演じて行為し思考し息
しておられると言うことであり、この心であり演技されている私は実は
主体ではなく、本当は存在していないのです。
私は映像なのです。実際に生きておられるのは神なのです。・・と
この高次思考の特徴とは観照者の意識であり、それはこの記憶からの
反応である受動思考とは全く性質が異なる超意識であり、自我である私
を見ている私、自分ではない拡がっている意識、全く自我を含まない意
識。自他の分離の無い観照者の意識。
「心を見ているのは心である」ことを実際に体験し知覚している意識。
それが自己観察であり自己想起でありましょう。
演技されている私が、演技している神の方を向くことでありましょう。
霊魂である観照者の意識は
この受動思考にとっては完璧な全知の意識と捉えられる事でありましょう。
この現在の私達にとっては見たことも聞いたこともない超高次元からの
意識の事です。此岸ではなく彼岸からの意識の事です。
その高次思考は自他の分離が無く「他人や私や万物を分離せずに抱きし
めている意識」であり、
受動思考や能動思考の私にとっては、全く自分とは異なる神からの意識
のように感じられることでありましょうか。
クリシュナムルティーはこの意識状態で見ることを「思考なくあるがま
まをみなさい」と言われたのです。
それは恩寵そのものであり、自他の分離を超えたインパーソナルな私か
らの「目」であり、空の目であり空の知覚であり、それが高次思考であ
ると思われます。
神々に対して語るクリシュナムルティーが言うところの「思考なく見る
目」とは、思考の隙間、空間そのものの意識のことであり、それを知覚
している者とは即ちこの思考の隙間である空間の意識であり、その隙間
(空)を発見している意識でありましょう。ではその霊魂である観照者
の高次思考とは、
それは、
もはや能動思考ではなく、「霊魂と繋がる私」の霊的諸体が再形成され
チャクラが開花して本来の自分と繋がった意識のことでありましょうか。
思考の隙間そのものである「空・沈黙・静寂」などと言われている「霊
魂・観照者」の意識であると思われます。「静かに拡がる意識」でありま
しょうか。
・・がしかし、この私は諸体の目が開いていないので、自分自身を頭上
のチャクラから見ることも、その様な知覚があることすら知ることも
ありません。
彼岸からの不二一元の教えではこの自他の分離が無い私。霊魂の私とは、
「自他は分離していない一体」であるのに分離していると錯覚している
心を観照している私であり、その私こそ真の私、息であり生命である私、
自他に分離していないインパーソナルの私・真我であることでありまし
ょう。