の知識は得られません。・・ラーマクリシュナ
ラーマクリシュナは言われます。
「肉体的な自己感覚が取り除かれない限りはブラフマン
の知識は得られません」
「病気・悲しみ・快楽・苦痛・恐怖それらの意識があ
るなら、貴方はとても智者にはなれないでしょう。」
「もし、あのお方をつまり神を見ることが出来たので
あるなら、この世をくだらないものとは思わないこと
でしょう。」
「あらゆる者が神であることを見ます。
あなた方は皆、座っていますが、神ご自身が座っておら
れ、神が全員の一人一人になっておられるのを見ます。
あの御方があらゆる生きものや宇宙になっておられるの
を見ます。」
「私は行為者であり、自分の主人であるという意識が
残っているのなら、神を見ることは出来ません。」
「貴方は知っているでしょうか?快楽への欲望がある
間は、心の中に、神を知りたいという熱望が起こるこ
とはありません。」
「『私は彼である』という自惚れは良くありません。
肉体が自己であると言うような意識を持ちながらも、
そのような虚栄を張るのなら、その人に極めて大き
な害を齎します。その人は次第に堕落し、他の人を
欺し、自分を欺し、自分の状態を理解することが出
来なくなってしまいます。」
また他の覚者も言われます
・「無知ゆえに、かって私は束縛されていると思い込
んでいた。
だが、私は純粋な気づき、あらゆる自他の区別を超えて
永久の瞑想に生きている」
・「あなたの「自分は実現していない」と言う考えそのものが
障害である。このような「自分は実現していない」という
自我の思いから自由になりなさい。」
・「神が私として生きておられ、思考し、行為しておられる」
・「神が私として行為しておられ、悩み苦しんでおられる」
・「私はまだ見ていないという考え、見たいという期待、
何かを得ようとする欲望、実現していないという思いは
全て自我の思いである。」
・「考えることは貴方の本性ではない」
・私・神の子は五つの衣を纏って、私ではない”我の心”
に覆われています。
・私が内部と思っているのは内部ではなく外部である我の心です。
・私とは五つの衣・コーシャを身に纏っている神の子です。
五つの衣とは、肉体、エーテル複体、サイコノエティック体
、自我体、コーザル体です。
・私は個人ではありません。私の貴方も神の演技です。
私はあなたです。
・私は神の子です。私は私が見ている全て一切万物です。
・私の中に万物はあり、万物の中に私はいます。
・私は世界であり、世界は私の中にあります。」
私の感想
上記の覚者達の言葉は一般常識の中で普通に生活を過ごして
いる私達には全く何を言っているのか分からないチンプンカ
ンプンで単なる言葉の羅列にすぎないことである、と思われた
ことでありましょう。
しかし一般人であるこの久保栄治が思うに・・・。
私達は自分の意識で知覚し、知覚されているこの私のことを私だと
何の疑いもなく受け容れ、この私は自分自身だと実感しています。
しかし、よく考えれば呼吸は私がしているのではなく、心臓も私が動かして
いるわけではありませんし、思考も行為も脳や肉体がなかったら思考する
事も出来ませんし、行為することも出来ません、生きて思考し行為して
いるのは、脳や肉体を創っておられる御方が私として生きておられるのです。
それなのに私達は自分が自分の人生を生きていて、そして他人とは勿論、
私とは別人で、私とは全く異なっていると思っていますが、勿論他人も
私と同じく(御方)神が演じておられるのです。
私達は相手とは私ではない他人だと思っていますが、果たしてそうな
のでしょうか?
!!え!他人は私と異なっている別人であることは当たり前なの話しで
はないでしょうか・・と驚き、聞く人は誰もがそう思うことでしょう?
しかし賢者は仰います・・神が全ての自己・私なのです、と。
そして賢人はこの個人の私が相手と思っている人は「自分自身を映
している鏡であって相手と思っている他人とは自分の姿である」と
更に言うのです!!
え!敵は私だって・・え!あいつが私だって・・これは到底受け容
れられないことでしょう。
・・・この鏡の私のこと、この私の事は非常に深淵で難しいと思います。
その「私は私自身であり、私が生きているのだ」とそう思っている私とは、
即ちこの意識的自己のことですが・・それは心臓と同じように神が動かして
生きておられるのであって、「心臓は私の心臓だ」と、そう思っている私とは
主体なのではありません。生きているのは私ではないのです。
覚者が言うには、この受動思考、それは脳が受信した「私という観念」の
記憶の反応であって、この私とは記憶の反応なのであると。この私の意識
それは
神の子の私が着ているコーシャ(チャクラ)の霊的諸体(衣)の意識ではなく、
勿論、それは更なる「高次元の観照者」である魂の私の意識でもなく、さらに
全く以て一切と分離していないインパーソナルな真の私ではないというのです。
この知覚認識は目の形成度即ち眠っている目の開眼度、
神の子・霊魂が着ているコーシャ(チャクラ)の霊的諸体(衣)の再形成
のレベルで異なる(どのくらい目が開いているのかによって)というのです。
能動思考(この神の子が着ているコーシャ霊的諸体(衣)からの思考)
の形成度は、それぞれの神の現れ(個人ということ)によって異なります。
ゆえに、私達はこの能動思考を使って「魂と繋がる私」の意識を拡張
しなければなりません。
非常に複雑で一体何を言っているのか分からないことでありましょう。
一口に私と言っても異なる次元の私が、一緒に肉体に同居しているからです。
しかもその霊的諸体はチャクラで繋がり成り立っているというのです。
このことを少し難しい言葉を使えば
通常知覚している「意識的な私」とは「未知なる本当の私・鏡」に去来
している「記憶の反応・個人的人格」であって、「魂と繋がる私」
ではないと言うことであります。
ですので日常生活で意識し、意識されている私とは勿論、魂の私ではなく
その魂の私が着ている衣・・霊的身体(サイコノエティック体やコーザ
ル体)の意識でもなく・・その霊的身体と混合している「記憶の反応・
個人的人格」なのですと言われているのです。
そしてその記憶の個人人格の私とは神が演じておられる私なのです。
その記憶の個人人格が起こしているその思考が受動思考です。
極論すれば通常の人生で私達が自分自身であると信じて決して疑わない
私、即ちこの受動思考とは神が起こしているマーヤなのです。
通常の生活で自分自身だと思われている、この記憶の私とは「霊的諸
身体の意識」ですらなく、
根源から起こっている受動的な思考や感情や行為と、その記憶の反応で
あって、この現在の意識的な私は霊的身体の自己ですらありません。
この私それは神の演技です。
しかし「「魂と繋がる私」の霊的身体の自己」からの思考は能動思考です。
チャクラを持つ霊的諸身体の自己は眠ってしまっているのです。
神の子を覆い包んでいるマーヤである四つの霊的身体は未だ目を
醒ましていないのです。日常生活で意識され反応している自己意識とは
潜在意識にある「記憶群」の反応なのです。即ち神のマーヤです。
この「擬似的意識的自己」が確信している自分自身・私とは、本来の
「霊魂と繋がる私」の私を覆い隠している私ではない「私を詐称する
人格・記憶」の反応であるというのです。
しかし本当の私とは何でしょうか?
それはこの未熟で目が開いていない私には全く語ることは出来ません。
なぜならこの覚醒していない「魂と繋がる私」である表面意識には多くの次
元の私や私ではない記憶が同居しているからです。
けれども如何に眠っていると言っても少しの可能性、ボンヤリ目が開いています。
そしてその少しの目が開いている霊的諸体からの思考を能動思考といいます。
私達はその能動思考を使って霊的諸体を拡大し前に進まなければ成りません。
ここでその本当の私が着ている四つのコーシャ(衣)という未だ殆ど
目を醒ましていない霊的諸体のことに触れなければなりません。
この神の子の私が着ている霊的諸体とは神道では四魂と言われています。
神道的に言えば「私達は一霊四魂」なのです。
エレブナ的に言えば肉体・エーテル複体+サイコノエティック体+自我体
+コーザル体という四つの身体のことです。
そして、この四魂という霊体が未形成で殆ど目が醒めていないのです。
この私の目が醒めておらず高次の私の意識は全く表面意識に顕れていないのです。
受動思考に包まれた私達の現状での意識とは僅かながらにも使用できる能動思考
即ち霊的諸体の思考のことです。
これらの一霊四魂とは即ち真我と四つのコーシャ(衣)のことでありましょう。
この四つの霊体が直列して真我と一体状態になることを「四体整合」、「三体整合」
または「四体直列」といい、それは即ち記憶の反応ではない「霊魂と霊魂と
繋がる私」が直霊である真我と直列して一体化すると言うことであります。
「霊魂と繋がる私」がマーヤから解放されて本当の私と一つになると言うことです。
この記憶と同一化してしまっている四魂である意識的自己・即ちサイコ
ノエティック体(霊的諸体)が浄化され、そして拡大して宇宙まで拡が
る状態になることが肝要であります。
これは少々複雑です。アドヴァイタや不二一元の覚者達は此処を省略して
いきなり、非分離の彼岸から私達に語りかけます。
宇宙のブラザーー達は地球人がこの事を知らせるために地球にやってきて
いるのです。なのでロズウェル事件のアバターは宇宙の全ての人類は
「IS BE」であると教えたのです。
覚者達は三つまたは四つの霊体という神の子の着ている衣のことには殆ど
触れずに、即ちそれら神の子のコーシャ(衣)には触れないで、
「分離という虚偽」に染まっている「霊魂と繋がる私」即ち鏡の私に対し
て、彼岸というその高次の超越した次元から話しますので、私達「霊魂と
繋がる私」の「目が開いていない現在のパーソナリティー」は誤解したり
することになります。
しかしながら、この未熟な「霊魂と繋がる私」は四層、四体からなっ
ているのでありましょう。
肉体を含め四体が整合し、この鏡の私は真我との繋がりを回復した
場合、自分自身が自他に分離していないことを自覚しているので、
「全ての自己が私である」となり、この「自他に分離している私で
はないインパーソナルライフの私・真我」から起こす思考や感情や
行為のことを高次思考、高次感情、高次行為と言われています。
そしてその高次思考は必ず実を結び実現すると言われています。
・・何故ならば、その私はもう自他に分離した私ではないからです。
神と一つの私だからです。
この観照者と言われている「自他に分離していない、普遍的インパー
ソナルな私」の思考(高次思考)の私を、この四体の私が知覚認識す
ることが出来る段階まで成長した場合、その未知なるインパーソナル
な私が起こす高次思考や高次感情や高次行為は即、物質化し実現する
のでありましょう。
そしてそれまでは私達は未熟で殆ど眠っている霊的諸体の意識を使って
能動思考、能動行為を実践しなければなりません。
この未知なる本当の私からの高次思考や高次行為は
この既知なる未形成のサイコノエティック体の私の能動思考
ではなく、それは勿論、記憶による”「起こっている出来事や
受動思考や感情」に対しての単なる反応”でもなく、
その「起こっている出来事や思考や感情やそれに対しての受
動思考や受動行為」を起こし演じている側・・それは即ち
、その根源的意識の次元からの高次思考、高次感情、高次行
為であるからでありましょう。
しかしこの事はグルジェフの言う『生きるためには存在し
ていなければならない、存在するためには生まれなければ
ならない、生まれるためには死ななければならない、死ぬ
ためには目覚めなければならない、目覚めるためには真我
からの恩寵がなければならない・・略』で
あって、この私達、「記憶の反応である人格」が恩寵によって
死ななければ私達の霊体の目は完璧には覚醒しないことであ
りましょう。
私達とは鏡であり、未熟であっても鏡の前に去来している受
動思考や受動行為ではありません。
私達の日常生活ではサイコノエティック体の意識すらなく
只ひたすら、潜在意識層にある「人類の記憶」と一体化して
ただただ欲望と受動思考に流されて生きています・・そのこ
とにも全く気が付かず、自分が生きていると錯覚しているのです。
しかし実際に生きているのは私達ではなく私達を支配している
記憶なのです。その記憶を使って神が演技をしているのです。
けれども如何に未熟とは言え私達は「霊魂と繋がる私」であり霊的
四体であり鏡なのですから能動思考や能動行為を行うべきなのです。
この鏡である私(「魂と繋がる私」)の目が開くためには
自分の死を見て観照している私即ち「魂と繋がる私」の意識が
開花している必要が有ると言われています。
霊的諸体の私達が目を醒ますには真我からの恩寵が必須であり、
真我からの恩寵を賜る為にはこの諸霊体であり鏡である私が、
努力して能動思考や能動行為を使って自分自身である鏡の内部
を弛まなく見る自己想起が必要でありましょう。
非常に難解な表現になってしまいました。
・・というのもこの久保栄治は未だ眠っていて霊的諸体の目が醒
めていないからです。
それは私は霊的四体が再形成されておらず、真我と整列できていな
いからであります。
しかし如何に未熟で再形成されていなくとも私は真我に繋がる私、
一霊四魂であり「霊魂と繋がる私」なのです。
ですから能動思考と能動行為を使って拡大しなければならないのです。