私は私・・ヒューレン博士/ホ・オポノポノ

2025/11/01(土)
私は私・・ヒューレン博士/ホ・オポノポノ

「私は私」等と言うと、一体何のことか・・私は私であるし、この私が私
であるのが当たり前でしょうに、今更何でそんなことを言うのかと訝しが
られることでしょう。

しかし深く考えれば、一口に私と言っても、どの私を指しているのかが分
かりません。
私達は私ではないものを私だと勘違いしているのかも知れません。

私とは肉体の事なのでしょうか?
私とは思考や感情や記憶のことなのでしょうか?
私とは意識なのでしょうか?

私達が肉体にいる間は何かと肉体の事で煩わされ、霊的諸体は殆ど成長す
ることがないので、知覚は脳の知覚に限定されていて、感覚も五感覚に限定さ
れ多くの次元や表面意識以上の深い意識の自分自身を知覚することなど全く
ありません。
従ってこの五感しかない私は「自分は肉体だ」と思うのは当然でありましょう。

しかしながら熟考すれば肉体は勿論私ではなく、私のものではありません。
私が肉体を創ったのではないからです。
感覚も知覚も認識も私が創ったのでもありません
肉体は叡智の結晶であって神のものであり、神が肉体を使って生きておられ
るのでありましょう。

そしてこの私・自己・自分自身という意識も私のものではありません、
私とは自己意識のことであり、自分は他と分離していると意識されています。
しかしながら、この意識は私が創ったのではありません。
神が意識を創ったのです。本当は意識である私は神のものです。そして神が私
を使って意識して生きておられるのです。それは指紋と同じです。何億という
個人で異なる全人類の指紋は私が創ったのではなく神が指紋を創り個人として
生きておられるのです。
それなのに私達は欲望や願望を叶えるために神を自分の召使いのように使って
います・・。

では
脳が私なのでしょうか?
脳も私と同じく被造物であり創られたものであって、私が脳を創ったのでは
ありませんし、脳は私のものでもありません。脳は神のものです。

それでは「自分は私だ」と思っているこの表面意識に知覚される私とは?

この自我私とは表面意識に顕れた記憶の反応であって、記憶の私と神の演技
だと言われております。この記憶の反応とは私ではありません。

この肉体の状態や脳の状態で色々と悩んでいる現在のパーソナリティー即ちこの私、
この記憶であるこの私とは、「魂と繋がる私」のわたしではなく記憶の反応です。

現在の自己意識の私とは「魂と繋がる私」の表面意識に現れた記憶の反応です。
その記憶の反応は、自分は私だと思っていますが、その私はわたしではありません。
それは神が私として演技しているといわれている私のことです。

ですからこの記憶の反応の私は神のロボットなのではないでしょうか。
私は自分が思考して自分が行為して自分が自分の人生を生きていると錯覚して
いますが、実際には思考し、行為し、生きているのは私ではなく私を演じて
おられる神なのではないでしょうか?

その「魂と繋がる私」・表面意識(鏡)に現れた私とは人類共通のエゴ自我であるので
その神の演技とは人類で共有している自我・エゴ・「私という観念」の記憶なので
ありましょう。

記憶とは「私の記憶」ではありません。この自分が私だと思っている私が記憶なの
です。
記憶自体は個人のものではなく深いところでは人類で一体の人類共有の汎記憶です。
ですので実際は記憶がこの「自分は私だと思っている私」であり、この意識的自己
である自我の私とは記憶の反応なのです。

記憶の反応である受動思考の思考とは私が思っているのではなく記憶が思
っているのです。
記憶が自分を肉体だと思い、苦しみ、記憶が恐怖し、記憶が自分は私だと
思っているのです。
しかし、
この記憶の反応の私は鏡(魂からの表面意識)があるからこそ認識されている
のではないでしょうか。
認識とは鏡である魂の働きです。
そして記憶(自己意識)は鏡(魂からの表面意識)である私ではありません。

ですから、真実の私とは記憶ではなく鏡なのでありましょう!!
私は鏡であるのです。鏡とは思考ではなく思考を認識している意識です。
「霊魂と繋がる私」鏡が鏡に出現している思考と同一化し穢れ混濁し
しまっているのです。そしてこの鏡は三重構造なのでありましょう。
この鏡である「霊魂と繋がる私」は三つのボディー、三つの意識から
なり立っていると言われています。

この文章を書いている私も含めて人々はカルマを背負っている肉体を
自分だと思い、
脳が受信し起こしている思考や感情や欲望や行為を自分が考え、自分
が行為していると思い、
さらに
その起こっている欲望や行為に対する記憶の反応を私の反応だと思っていますが
その様に思っているその私とは記憶の反応(自我)であって「霊魂と繋がる私」
ではありません!
「霊魂と繋がる私」はそれを見ている私です。三重構造からなる鏡なのです。

それらの起こっている事と行為、そしてそれに対する記憶の反応・・それらは
「霊魂と繋がる私」という鏡に現れている記憶・神の演技なのではないでしょうか。
記憶・・それが私という観念が観察している私であり同時に観察される対象なの
でありましょう。

A:カルマによって決定されプログラム(DNA)された肉体と脳があり
B:その脳と肉体からの決定された行為と思考が「意識の座・鏡」に起こり
C:即座にその決定されて起こる行為と思考に対する記憶からの受動思考が反応し
  ますが受動思考の反応とは鏡に起こっている決定された思考と行為
  なのではないでしょうか?
  次にのべるDとEは私達には殆ど知覚されません。
  私達DはAとBに同一化しているからです。
  
D:その記憶からの受動思考に対して「魂と繋がる私」からの能動思考が
  形成途中の霊的諸身体から起こります。
E:さらに鏡である「魂と繋がる私」が沈黙した場合(思考していない場合)、
  魂から受けとる高次思考が有ると言われております。

それら起こっている思考と行為即ち私が認識されるのは鏡があるからです。
鏡とはこの私、即ち「霊魂と繋がる私」のことでありましょう。
鏡の表面にそれら「私を詐称する記憶」が起こっているのです。

本当の私とは魂と繋がっている鏡の私なのでありましょう。
「私の内部」とは記憶の潜在意識ではなくて魂の内部なのです。

私とは未だに目は開いていないけれどもその記憶の私と一体化している
未発達な「魂と繋がる私」=鏡のことなのでありましょう。

この「霊魂と繋がる私」の本当の私は私達が未だ知らない未知なる私、魂の私、
観照者の私なのでありましょう。その私は私達が沈黙した場合に知覚されるので
ありましょう。しかし記憶が知覚するのではありません。

「霊魂と繋がる私」の私とはこの記憶である私には未知なる私です。
未知なる私をこの私は知りません。
なので、この私記憶が私だと思っている私は私ではないのです。記憶の反応です。
この私記憶が知覚出来るのは記憶の私だけで、本当の私を知ることは
出来ません。
その様に、この既知なる私、私ではない私という観念を使って神が演じておられ
るのでありましょう。


ホ・オポノポノの会場ではヒューレン博士に参加者が質問するとヒューレン博士は
その「質問している人は誰ですか?」と聞き糺していました。
「質問している貴方は貴方ではないのです。それは脳が受信している潜在意識
の記憶が質問しているのです。」とよく言っていました。

ですから一口に私と言っても、この私が一体どの私を指すのか?
それが問題です。

此処で取り上げる「私は私」とはこの記憶の私のことではありません。
私は知らない未知なる魂の私のことです。

ヒューレン博士が言う私とはその私という記憶の大本である観念の私ではありません。
魂の私とは神の演技ではなく演技をしている神のほうです。それは記憶にとっては
未知なる私の方です。
ですが、如何に穢れ目が開いていなくても如何に堕落していても、私の内部には光り輝く
神の子の私がいるのだと確信しています。息をしておられる私がいるのです。


その内部の未知なる私とは
肉体や脳や、思考体や感情体の私ではありません。それらは神の創造物です。
未知なる本当の私はそれら創造物ではなくて創造主の子供、神の一部なので
ありましょう。

脳を経由して「意識という透明な鏡」にやってくる思考や「私という観念」は
私ではありません、それは記憶です。「意識という透明な鏡」こそ私でありましょう。
「私達は合わせ鏡」である・・私はそれを信じています。

肉体や脳や思考を私だと思っている私は記憶であり、記憶の私は私ではありません。
自分の才能のなさや、肉体を心配し病気に左右されて嘆いている私は記憶の私です。
しかしこの記憶の私が有るのは「霊魂と繋がる私」という鏡があるからなのです。

脳を経由して起こっている感情や思考や欲望や行為や自我の私は私ではありません。
この心配し、恐れ、好色な私は私ではないのです。また、それを非難している私も
記憶の反応なのです。

私の内部にいる未知なる愛の私が私なのでありましょう。私はこれを信じています。

鏡に起こるそれらの起こっている思考や行為を私の思考であり私が行為していると
思い込んでいる記憶という私も私ではないことでありましょう。

本当の未知なる私はそれら私ではないものを私ではないと見ている観照者
でありましょう。
それらの「虚偽を虚偽と見ているもの」それが私です。私はそれを信じています。


地球人類が夢にも思わない高度の私、未知なる高次元の本当の私、地球人の殆ど
が知らない自他に分離していない私とは、現在の私には知ることが出来ない私です。
沈黙の中、思考の停止という静寂な意識に顕れる本当の私のことをヒュー
レン博士は「私は私」と言っています。

ではその私・・・私達には未知なる本当の私とは一体どんな私なのであ
りましょうか?それはこの記憶の反応の私には知ることは出来ません。
記憶の反応が知ることが出来るのは記憶だけです。

その「私は私」とは、ヒューレン博士がホ・オポノポノの集まりで必ず唱える言葉
でした。
それを英語で言えば聖書の「I AM THAT I AM」であります。

「私は私」とはこの私は一切万物の私であると言っているのでありましょう。
日本語で言えば神であり真我である「私は在る」の私即ち神の私であります。
仏教で言えば「一切万物悉有仏性」、
神道で言えば「私は貴方、私もあなたも天照大神の御分霊」であります。

これらを理解することは、その知覚段階でなければ全く分かりませんので
私は誤解するしかありません。私には全く理解は出来ないのですがあえて
頑張って憶測してみました。この私は「霊魂と繋がる私」だからです。

ヒューレン博士が言うこの「私は私」とは「I AM I」のことでありま
しょうから、ミルダッド達が示す究極の真実を示す言葉「私は私」と同じであります。

一切万物である神があらゆる次元やあらゆる意識や生命や質料、一切の私を
「それらの一切の私は私である」と神が仰っているのでありましょう。
ですから「私は私」と言っている私とは全てと一つの私なのです。
一切万物である私こそが私なので在りましょう。

それを「神以外には何ものも存在していない」と神が仰っておられるのです。

宇宙全体の構成実体である素粒子、究極の量子が神であり、その神が「私は
私」、その量子・神が「一切の私とはこの私」である・・と言っておられるの
でありましょう。

それはラーマクリシュナの「私とは神の演技である」と同じであります。

すべての人間や動物や植物や鉱物や物質の私という私は神なのです。

私とはこのような究極の言葉であり「唱えなければならない言葉」の中身など
この愚かな私には分かりようがありませんが、あえて挑戦してみました。

ラーマクリシュナが言うように自他に分離した私と自らを知覚しているこの私と
は神の演技なのでありましょう・・

推測するに
本当は神以外には私はいないのでしょう。
全ての人々の私は神なのでしょう。私達は神の演技なのでありましょう。

それが「私は私」という究極の実相、究極の真実の理解なのでありましょう。
私もあなたも、そして一切万物は神であり、この意識的自己とは神の
演技なのでありましょう。
一切万物の全て、その全ての私とは神なのです。

本当は全てが私であり、私とは万物なのです。私は一切の私であるのです。

私は貴方なので在りましょう。私は味方であり敵であり、天使であり、悪魔
であり、殺す者であり、殺される者なのです、それが「私は私」の真意で
ありましょう。

「私は私」とは神が私として、貴方として、一切万物として生きてお
られるということであります。一切万物が私なのでありましょう。

それは外部だけではなく内部もおなじでありましょう。

神がこの「霊魂と繋がる私」として
神がこの自我の私として
神が脳として、肉体として、あらゆる意識をもつ霊的諸体として
神が脳の私として
神が脳の私を私だと思っている記憶の私として
神が脳の私を私だと思っている記憶の私のことを私だと思っている私
未熟で混濁している状態の「霊魂と繋がる私」私として
神が他者の私、貴方として、
神が自分の内部の私として、
神が自分の内部の私を見ている観察者の私として
神が私の知覚対象の私である自我・恐怖・絶望の私として、
神が私の目の前の私を殺しにやって来た殺人者の私として、敵の私として、
神が想念形態や亡霊の私として、天使としての私として、悪魔としての私として
神が動物や植物や鉱物や建物や異次元の生き物や宇宙人の私として
神が一切万物の私として、
全ての私は私であると仰っているのです。
神がそれら全ての私を私は私であると仰っておられるのです。
ですからこの私も神の私なのです。

その神が一切の自分自身を「I AM THAT I AM」と
言っておられるわけでありましょう。

この究極の神の意識とは量子の意識に他なりません。
光も含めた一切は量子から成り立っています。
量子とは意識であり、あらゆる全ての意識は神に他なりません。
一切万物は命ある者も命なきものもすべては神の演技。
内部も、心も、自我も神の演技に他なりません。

けれども私達が言う私とは分離していると錯覚し知覚認識している私、
この愚かな私、愛のない私、自分の内部を対象として知覚し、目の
前の悪魔を自分ではないと錯覚している私、不安や恐怖やエゴ
を対象として見て非難している私、観察されている私、観察している私、
目の前の虫や動物や建物や椅子や食器を自分ではないと知覚している私、
自分が行為していると知覚しているところの記憶の私、
自分を肉体だと知覚して一喜一憂している記憶の私、
脳が知覚しているのに私が知覚していると思い込んでいる私、
一切の形ある者や形ないもの、この次元や他の次元の私、

それら全ての次元のわたしさえも、「その私は私である」と神は言ってお
られるのです。ですから神の子である私は一切万物なのです。

それらの私とは対象として見られている私、それを見ている私、
記憶の私、肉体の私、生命が生きているのに自分が生きていると思
い込んでいる私、私が恐怖を見ているのではなくて、恐怖を見ている
自分が恐怖なのに、恐怖に恐怖している恐怖の私。
観察者は観察される者であるのに、自分が観察していると観察者の
私に気が付いていない私、記憶の私、集合意識の私などなどの私。

・・・それらの各段階各次元の一切の私を
私であると究極の神、一切万物である神がこの私として
「私は私」と唱えているのでありましょうか。

それがホ・オポノポノ(現在は安売りのスーパーになっています)
が語る「私は私」の意味なのではないかと私なりに推測しています。

ミルダッドは
貴方は神の子で在り「私は私」と唱えなさい!と言われます。

「私は私」私達も一緒に唱えようではありませんか!!

「私は私」であると。


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