思考なく見るためのプロセス

2025/10/19(日)
クリシュナムルティーは言う
「思考なく見なさい、
私なく見なさい、
あるがままをあるがままに見なさい」。


ここでクリシュナムルティーの言う「思考なく見なさい」とは、
何を見なさいと言われているのでありましょうか?
それは「私を」でありましょう。
「見ている私」を見なさいと仰っておられるのであります。

クリシュナムルティーはこのあるがままの「私」を思考なく、私なく
見なさいと言っているのであります。

では通常での私達、この私を見ているのは誰なのでありましょうか?
それは勿論この私です、
その私とは、それは自我であり思考であり、その記憶である私であり
ましょう。

人類での脳が全員が同じ構造であるように、人類で全く同じ自我、同じ
思考で、同じく自己中心的な私が、自分を見て色々と非難したり、同一
化したり、良くしようとしているのであります。

私は自我であり、この自我は世界人類で同じです。中身が同じだからな
のです。

そして自我の私を見ている私とは、見られている自我である私なのでは
ないでしょうか。自我である私を見て、私を非難したり、私を良くしよ
うとしている私とは、その私によって見られている私なのでありましょ
う。

それは、また他者の自我を見ている私とは、それを見ている自我の私が
自分自身の姿を相手に投影して自分の自我を見ているのでありましょう。

それをクリシュナムルティーは「見るものは見られるものである」と教え、
それを黒住宗忠師は「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」
と言う言葉で表現しておられます。

自分自身を観察している私とは、観察されている私、即ち自我、その
自我とは、それは人類で同一の脳が創り出した人類で同じ自我なので
はないでしょうか。あなたも私も同じエゴ、同じ自我なのです。
だから
私のことを見ているものは自我である。と言えるのではありますまいか?
他人のことみて判断し、非難している私は、自分の姿を見ているので
ありましょう。

クリシュナムルティーは恐怖を見ている私とは見られている恐怖それ
自身だと言っておられます。
クリシュナムルティーは自我が生き残るために自分を見る私と
見られる私に分割しているのに過ぎないと仰っておられます。

だからこそ、その自己を観察している私、私という自我を見て
いる私、その自我という思考を、思考なく見なさいと教えてお
られるのであります。

ではその様に見るためのプロセスはあるのでしょうか?

それは、思考である私(自他を分離して見ている私)
にはそこへ至る道はないと思います。

何故ならば思考であるこの私には(自他を分離して見ている私には)
そもそも「思考なく見ること」は出来ないからです。
その私とは思考だからであります。

通常の意識で私と思っているこの私は人類で共通の記憶の反応・自我
のことで、それは私ではなく脳が受信した思考の記憶なのでありまし
ょう。
人類が私だというのはこの人類共通の記憶なのでありましょう。それ
はエゴ、自他を分離する自我に他なりません。

しかしそのあるがままを思考なく見なさいと言われているわたしには
思考なく見ることの可能性があるのでありましょう。

思考なく見ることの可能性があるからこそ、思考なく見なさいとクリシ
ュナムルティーは言っておられるのです。
即ち「霊魂と繋がる私」(ヴィジュアナマーヤコーシャ)には可能性
があり、そのプロセスがあるということであります。

私達は真理の種子であるということであります。

現実のこの私に於ける意識とはこの「霊魂と繋がる私」と思考の私
との混合なのだが通常、意識されている私とは記憶の反応、受動思考
即ち自我であります。


「思考なく、私なくあるがままを見なさい」ということは
そう言われている私とは思考や私に覆われて支配されてしま
っている私(ヴィジュアナマーヤコーシャ)なのですけれど
完璧に自我と思考と私によって覆い隠され包まれてしまって
いるので
その為、思考なく、私なく見ることは不可能であって恩寵が
なければ不可能なのではないでしょうか。

だから、そうなのだが、魂と繋がっている私にはその可能性はあるということ。
可能性のある「霊魂と繋がる私」の現在の状況といえば、悲しいかな
思うことも、感じる事も、計画することも、話すことも全ては人類共通の
思考によって汚染され、この状況から脱出することは至難の業であり、
絶えざる自己観察と自己想起そしてその実践の為の超努力が必要となる
のでありましょう

「私なく見なさい」とクリシュナムルティーからそう言われていても
私を覆い包んでいる「思考や私」が除去されない限りは思考なく見ることは
殆ど不可能なのでありましょう。
この状態での見ている私、反応している私とは私を名乗る記憶であり人格
であり、それは人類共通のエゴに外ならないからです。

(ここでクリシュナムルティーに「思考なく見なさい」と言われている私と
は「霊魂と繋がる私」のことであって、この「霊魂と繋がる私」を覆い隠し
ている記憶の私の事ではありません)

恩寵によって「思考の私」が除去されない限りは「思考なく・私なくあるが
ままを見なさい」ということの実践は出来ません。(あるがままとは自と他
は分離していない一体であると言うことでありましょう)

そのクリシュナムルティーのいう「見る」とは
思考や私が取り除かれ祓われたときに初めて出現する「照見」であり、それは
仏教的に言えば高次元の仏の目が開かれ、その目が出現しなければその「見る
こと」は実現しないと言うことであります。
その目とは、それは「魂と繋がる私」ヴィジュアナマーヤコーシャの目でもなく
魂そのもの神の分け御霊の私の目のことでありましょう。

その思考なく私なく見ることが可能なのは
この現在の思考である私が取り払われなければならないことでありますが、
その思考の私を取り払うことは
取り払おうとしている者が思考の私であるから
それは思考である私には出来ないのではと思われます。

そこで私(「霊魂と繋がる私」)は私から私(記憶の私)を取り払って
下さるように、未知なる私・その至高なる存在に必死にお願いし帰依
する必要が有ります。

「霊魂と繋がる私」・能動思考の私が記憶という受動思考の私から解放
されるように至高なる内なる存在に「清め給え」、「払い給え」と必死
に祈願し、全てを捧げて帰依しなければならないということであります。

しかしその前に、
お願い出来る段階にまで達していなければなりません。お願い出来る段階
というのは、自分が完全に罪穢れという自他の分離に覆われ染まってし
まっている現実を直指し認識していなければならない、ということで
ありましょう。

私が思うこと、感じる事、行うこと、願うことの全ては私ではなくて
私を支配している私(自他を分離しているとみているエゴ我の心)なの
であります。それは人類共通のエゴ・私という観念に外なりません。
自我は人類共通の私という観念なのでありましょうか。

なので至高なる存在に、私の浄化(クリーニング)をお願いする前に
私達「魂と繋がる私」がこの思考と私によって塞がれてしまっている
ことを先ず始めに自覚できる段階にまで到達していなければならな
りません。

日常生活で意識されている私とは「霊魂と繋がる私」ではなくて
その「霊魂と繋がる私」を覆い被さっている記憶の反応なのであ
りましょう。

別の言葉で言えば私達が自分だと思っている私とはその記憶からの
受動思考であって、「霊魂と繋がる私」はその受動思考と完全に
一体化してしまい自分が能動思考を使えることを忘れ果てています。

まして魂からの高次思考が有ることなど思いも及びません。

私達「霊魂と繋がる私」の知覚と認識は脳と結合しているために
条件付けられている脳とそのが受信した内容が現在の私達なのです。

この既知なる私とは記憶の反応です、私は自我でありエゴなのです。
わたしとは全く自由ではないことを先ず始めに深く知らなければな
らなりません。

私達はこの肉体が地球人類全ての人と同じであるように脳もそうな
のです。
人類の全ての人の内面のは知覚も認識も行為も全てが同じであるように
人類は同じ自我であり、全ての人が同じ潜在意識を共有しているので
私が私・自分と思っているそのエゴとは人類で共通のエゴなのです。
エゴはエゴが創ったのではありません。エゴ自我は神のマーヤ演技です。
私達「霊魂と繋がる私」はそのエゴの自他の分離という錯覚に支配さ
れてしまっているのではないでしょうか。

この事をハッキリと認識する為には思考による自己観察が絶対に必要
でありましょう。即ち「霊魂と繋がる私」からの自我の凝視であります。
それは観察者を観察することであり、見る者を見る事であります。

「見るものは見られるものである」を深く認識しなければなりません。
「観察者は観察される者である」を深く認識しなければなりません。
「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」を深く認識しなけれ
ばなりません。
そして次のステップへと進む事が出来るのではありませんか。

それは思考には思考なく見ることは出来ないと言うことを認識すること
であります。

この人類共通の自我の私には私自我を私、自我なく見ることは出来ない
と言うことを認識する必要が有ります。

何故ならこの思考なく見ようとしている私こそが、祓われるべき私
であるからです。(この場合の私とは記憶であります)

これを神道的に言えば
私達神の子がこの記憶によって罪穢れていることをしっかりと自覚して
天照大御神にお願いすることであります。

天照大御祖神に「払い給え」「清め給え」「幸はえ給え」と誓願すること
が出来る段階に至らねばならなりません。
そしてその請願、大祈願それこそが絶対的に必要であり、それの実践がなけ
ればならないと思います。

その天照大御祖の神(これは各宗教によって表現が異なる)への全託こそが
クリシュナムルティーの思考なく・私なく見るための必要絶対条件となり
ます。


またこれをヒューレン博士的に言えば
①私達の表面意識は潜在意識にある「記憶(自他の分離)」に占領され
 真実(自他は分離していない)を見ることが出来なくなっており、
 私達は完全にその「記憶」にコントロールされていて、
 その「記憶」(私という観念・自他の分離)から解放されるためには

②この「魂と繋がる私」という表面意識の奥にある潜在意識から私達
 「霊魂と繋がる私」の本体である超意識「霊魂」に対して潜在意識に
 あるこの記憶からの解放(払え給え・清め給え・幸這え給え」を
 「神聖なる存在」にお願いするように祈願し全託し

③更にこの表面意識と潜在意識という私達「霊魂と繋がる私」の願いを
 私達の本体である霊魂から
 超意識を超えた「神聖なる存在」に伝えて下さるようにお願いし

④この神聖なる存在が私達の願いを叶えて下さり(恩寵が天下って)
 この潜在意識にある「記憶」を払い浄めて下さり(自他の分離から
 解放されて)

⑤結果、私達「霊魂と繋がる私」は潜在意識を占領していた私と思考から
 解放され、クリシュナムルティーの言うような「思考なく私なく
 あるがまま(自他は分離していない)をあるがままに見ること」が出来る。

と教えて下さっています。

 
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