生きているのは誰か!

2025/10/14(火)
先ず始めに私・自己の定義であるが

現在の知覚している私とは、
真の私である神の子(真我)を覆い隠している「我の心」のことであろう。

では「我の心」とは何か?
それは私は貴方なのに私と貴方は分離している個人だと・・その様に知覚
認識している根本想念、シャンカラの言う「私という観念」のことだろう。

これを根本無明、または神のマーヤ、神の演技ということもある。
この根本無明はエゴでもあり、エゴの満足とは即ち根本無明に沈殿する事である。

この「我の心である私」にとっての私とは肉体である
「我の心である私」とはカルマ(DNA)によってプログラムされている肉体
ことを指している。
そしてその私の内面は「金と色欲」「支配欲」即ちエゴ・自我そのものである。
だからこの既知なる私はエゴ・自我そのものなのだ。

が、それに対して
未知である「真我である人の私」とは「私は貴方」であり「私は世界」である私だ。
本当の私にとって、私とは貴方であり、私は世界中の人々と別々ではなく分離でき
ない一体なのである。高次の私の中には貴方がいて、私の中に世界があるのである。

従って「普通の私達の私」とは宗教的には真我に至ろう、真我を実現しようと
している自我・我の心のことでもある。
その私は貴方や万物と分離していると思っているこの現在の既知なる私のことだ。

この何かに至ろう、成ろうとしている私とは、逆説的に言えば、至っていないのだ。
その様に思う私とは成っていない、至っていないことを示していて
私達が至ろうとすることは、至っていないこの私と同一化することになってしまう。

とはいえ、真我はその至ろうとする我の心に真我を求める「渇仰の心」をも生
じさせているという。
それは真我が自我を使っているからなのであろう。

この自我・我の心が真実の私(神の子の私)を覆い包んでいるのである。
この状態こそ私達の状態だ。

従って通常の意識状態に於いて普通に私自分自身だと知覚されているこの私とは・・
それは真の私ではなくて真の私を覆い隠している「我」「自我」のことである。

なぜならこの私は、私と貴方は一つなのにそれを別々だと知覚しているからである。

だから、この私とは、それは自我と真我を分離し、私と貴方の私を別々だと知覚し、
私の事を高次の自己と低次の自己に分割して見ているこの現在の私自身のことだ。

・・もし私が真の私、真我であるなら、その目にはあなたは私であり、万物は私であり
真我以外、神以外には何も知覚していないことだろうからである。

もし真の私であるなら万物が私であるからである。その本当の私に貴方は誰
ですかと尋ねれば「I AM  THAT I AM」「私は在る」「私は世界だ」と言うことだろう。

この私とは我の心であり自我であるからこそ、神に至ろう真我を実現しようとする
のである。それが自我という欲望の最高の満足であるからだ。支配欲の究極なのだ。

もし真の私であるなら真の私になろうとはしない。既に真我であるからだ。
その真の私であるならば他者を自己と分離していると知覚していないはずだ。

この私は我であり自我であるからこそ、自分や他人に自分自身である自我を
投影して自己や他者を非難したりするのである。他者を他者として自分とは
異なる存在だと知覚しているのだ。

そして、その我の心の私は、自分は肉体だと錯覚しているので、肉体とは
人類で同じ構造であるのに、肉体は個人個人で異なると知覚して他者と自己、
私と世界を分離分割して認識し、競争し戦い殺し合っている。自分は地球人で
○○人で、○○国民だと肉体と完全に同一化している。

真実の私ではない私は、私と他者、私と世界、私と宇宙を分離して知覚認識している。

「私は貴方ではない」、「私は貴方と異なった存在だ」「神と私は分離している」と知覚
している。自他を分離して認識している。「私はこの世界でたったひとりぽっちの存
在だ」と思い込んでいる。それを言葉を変えれば思考と同一化しているのである。

であるので畢竟、この私とは、私は他者ではないと知覚している記憶なので、それは自我
であり、真の私ではない私、即ち未知なる私・真我を覆い包んでいる「我の心」に外ならない。

この「我の心」が宗教的に発達した場合は、自らが死ぬことで真我に至ろうとす
るのだ。死を通じて生き残るために奸計を企てるのである。

しかしながら、真我に至ろうとする私とは真我ではない我の心だ。
この我の心には我の心を死なせることは出来ない。我の心は自分が生き残るために
自らを死なそうとしている。
更に深読みすれば自我・我の心は真我が使っておられるという。
此処で言う真我とは神のことである。

真我は真我に至ろうとはしない、神は神になろうとはしない。
何故なら既に真我であるからだ。
だから、この高次元にいる方に、あなたは誰ですかと尋ねれば私は貴方
です、「私は在る」、私は世界であると言うはずである。


生きているのは誰か?
私が生きているのか?
それとも、私を演じておられる神が生きておられるのか。
思考は私が起こしているのか?
欲望は私が創っているのか?


行為しているものは誰か?
私が行為しているのか?
それとも行為(行為とは脳の指令が必要)は起こっているのであり
それを後から私は自分が行為しているとその我の心(記憶即ち既知な
る私)が知覚認識しているだけなのか?

そうだ、
行為は、最新の大脳生理学が明らかにしたように私が行為しているのでない。
行為は私の自由意志からではなくて、それ以前に肉体脳からの指令で動いて
いて、その一瞬後に既知なる私(記憶)が自分の自由意志で決定したと錯覚する。
畢竟、行為とはその脳を動かしている神が行為しておられるのである。
それ故に、それを私が行為していると認識している私とは真我を包む「我の心」
・記憶であるエゴに外ならないのである。その記憶であるエゴがこの私即ち
既知なる私なのである。

人類の知覚ではない彼岸の次元に渡った賢者達の知覚、実相認識に
於いては行為は起こっているので「行為者はいない」ということだろう・・

なので実相の次元の観点からは誰かを非難したり誰かを変えようとする必要
もなく、私の過去を悔やんだり、悩んだりすることは的を射ていないのである。
行為とは聖賢が言われるように、起こっているのであって、それを我の心・記憶は
自分が行為していると実感してしまうのである。
・・と言うことなのであろう。

しかしながら、それをそう言えるのはこの私、我の心=既知なる私ではなく、
我の心に塗れている私を愛し許し観照している未知なる観照者・真の私だけである。

私がいる我の心の次元界の知覚においては、行為は私が行為しており、従って
その行為はカルマとなり、その次元にいる私達ロボットはそのカルマの結果を避ける
事は出来ない。だから既知なるこの私は行為の結果を必ず受けることになる。

では意識はどうだろうか?
ただし此処で言う意識とは思考のことを指している・・。
意識は私が創ったのか?
それとも生じた意識が私の意識だと言うのであろうか?
そうだ
意識とは私が創ったのではなくて生じているものなのだ!

意識それ自体が私と言う主体感覚を含んでいるので生じている意識
は「私自分」が意識していると錯覚するのだ。事実はその逆なのに・・。
この私達の意識・私とは真我によって生じているものなのだ。
私達の意識は超意識によって生じているのだ。

熟睡中に意識がないのは、ハートにあって起こる出来事や思考を知覚
認識している「霊魂と繋がる私」の目が、開眼していないからだ。
この今のところ「霊魂と繋がる私」の目が「我の心」によって塞がっ
ていて閉眼していて「見ることが出来ない」のだ。高次元の目が
覚醒していないからである。


では
この「我の心」であり自己である既知なる私はこの既知なる私が
創ったのであろうか?
それともこの既知なる私とは生じているものなのか?
そうだ自分は自分のものだと誰もが疑わないけれども
この既知なる私とはこの既知なる私が創ったのでもなく、既知なる
私のものでもない!
この私はわたしが創ったのでもなく私のものでもないのだ!
この私は私の創造主によって創造され、生きられているのだ。
この私の内面である「色と欲」は真我を実現しない限りは、
それに支配され、それらから解放されることはないことだろう。
この私とは記憶であり、既知なる私であり生じているものだか
らなのだ。

深読みすれば、この既知なる私は、私や肉体や心とは私のもの
だと思い込んではいるが、
それは、単にそう思い込んでいるだけであって
実際には私は私が創ったのではないし私が生きているのでもない。
私の人生とは私が決めて生きているのではなくて生きられているのだ。
カルマ・DNAに従って生きられているのだ。
この既知なる私は映像であり、結果であり、生きているのではない!!
自分の人生を生きているのは未知なる真の私ではなくて神のロボット
、神の仮面、神の映像である既知なる私・我の心・自我であって、
が私、我の心・自我としてこの人生を生きておられるのだ。

既知なる私達は「色と欲」の自我として生きている神のロボットである。
なので、この私とは意識と同じように生じているものなのだ!
既知なる私とは神によって生きておられるもの、神の演技なのだ!

未知なる本当の私はこの真実を観照している霊魂・神の子なのだ。
思考なくあるがままをあるがままに見ている「あなたである真の私」
なのだ。


では、五感や知覚や認識は私が創ったのであろうか?
いやいや
五感や知覚や認識や意識や記憶は、私と同じく
それは脳から生じており、活動しているものであって
それら五感や知覚や認識や意識や記憶は私が創ったのではない!
脳の働きだ。
そしてその脳とは神の創造物だ。脳は私のものではないのだ、逆だ。


この私とは
肉体や脳やその脳の生み出した行為や記憶と同様に
意識も
知覚も
欲望も
思考も
既知なる私も
私が創造したのではない、神が創造したのである!
既知なる私とは単なる私という観念であるに過ぎないのである。
そしてその観念こそがこの私、神が演じるロボットである。

私は単に私と言う観念・想念であって実際には存在していないのである!!
しかしその私にとっては成功すること、健康でいること、幸福であること、
長生きすること、才能があること、一番であること、悟ること、真我を実
現することなど、がもっとも関心があることだ。が、そうはいかないのだ。

究極の所それらの願望のすべては、真我を包む我の心即ちこの私という観念
の動きなのだ。

この私がこの人生にいる限りはカルマに従って起こることは避けられない。
必ず起こる。

この既知なる私が完全に消滅しない限りは、この既知なる私が願うように
は人生は運ばれない。
私が本当に消滅したのならば「私が願うこと」は最早ないからなのである。
その時、ラマナ・マハリシのように高次元からの知覚は「あるがままがある」
と言えるのである。

なろう至ろうとし自分さえも消滅しようとする狡猾なエゴ我の心が照破され
終焉しない限りは我の心は無くならないことだろう。
それまでは
カルマによってDNAによって起こることは完璧なタイミングで完璧に起こる。
不幸も幸運も、成功も失敗も、堕落も成就も、健康も病気も、生も死も
出会いも別れも・・。

私は真我の知識や真我の実現を通して私の願望を叶えようとしているが
この私、真我や神を利用しようとしている「既知なる私」が死ななけれ
ば真の私は出現しない。

この「既知なる私」の死を通じて「未知なる真の私である神の子」が顕
れるまではカルマが支配することだろう。

それまでは、「霊魂と繋がる私」は「既知なる私」を自分だと知覚し、
その既知なる私と一体化して自分を肉体だと誤って知覚認識して現象界
で一喜一憂することだろう。

脳と直結しているこの知覚認識は限定されているので実相を見ること
は決して出来ないことだろう。それは肉体を離れてのあの世でも同じだ。
「霊魂と繋がる私」は相変わらず、潜在意識の記憶に縛られ一体化して
いるからだ。

しかし、真我の観点から見た場合、真我の知覚認識からすれば神しかいない。

存在しているのは「息」をし、心臓を動かし、脳を使って行為し思考して
生きておられる創造者だけである。
肉体は神の宮であって私達のものではない。
万物一切は生あるものも、ないものも神・真我であるからである。

その観点からすれば畢竟、この私とはその創造者が演じておられる演技なのだ!

創造者・根源・源泉・神がこの私としてここに息をして行為して「色と欲」に溺
れておられる演技をしているのである。
創造者・根源・源泉・神があらゆる次元の私としてここに息をして生きて苦し
悩んでおられるのである。

しかしながらそのような魂からの知覚認識は私が消滅し真我が実現する
までは訪れないことだろう。わたしは勿論それに至っておらず、目は
開いていないので見る事は出来ないが信じることは出来るのでそれを
信じている。

◆存在しているのは私ではなく創造者・神である。
◆思考し行為しておられるのは私ではなくて創造者である。
◆生きて呼吸しておられるのは私ではなくて創造者である。
◆生まれ、老い、病気になり死んで行くのは私ではなくて創造者である。
◆カルマに従い人を殺し、神を呪い、競争に明け暮れ、苦しみもだえ、恐れ、戦い、
 心配し、思考し、病気になって死んでいくのは、私ではなくて神のロボット、
 神の演技即ちこの「既知なる私」である。

以上の観点とは、私が想像している高次元からの観点である。

実際の知覚認識として苦しみ悶えているのは、この我の心の私である。
脳と繋がり、記憶と繋がっているから「既知なる私」を知覚するのだ。



これらの思索は悟りでも、何かの思想でも、深遠な考えでもない。
実際に、常識的に思考し考えてみれば誰にでも分かることだ。

私はいない!神だけがいる!!・・・これが真我の知覚だろう。

私として生きて競争して悩み苦しみそして最後に恩寵によって死んで行くのは
私ではなくて、それらの創造者である神即ち神のマーヤ「我の心」だろう!

そしてそれを実感し悩み苦しみ死んで行くのはこの私・我の心を
演じておられる神に外ならない。

私が生きているのではなくて
神が私として演じて一切の苦しみを感じておられるのである。

これ以上の現象界の真実や霊魂や真我や次元の異なることは
私には一切分からない・・私は全く悟っていないから分からないのだ・・。

以上はあくまで私の推測だ。


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