生きるためには存在していなければならない・・グルジェフ

2025/09/16(火)
G・Iグルジェフは言います

①生きるためには存在していなければならない。

②存在しているためには生まれていなければならない。

③生まれるためには死ななければならない。

④死ぬためには目覚めなければならない。

⑤目覚めるためには恩寵がなければならない。

⑥恩寵があるためには自己を知らなければならない。

⑦自己を知るためには自己を想起しなければならない。

⑧自己を想起するためには思考なく自己を観察しなけれ

 ばならない。

そして
私達の自己観察と言っているのは単に思考が思考を見ているに過ぎない。
 思考なく自己を観察するには、まず最初に私達は思考なく自己を観察し
 てはいないのだ  ということに気が付かねばならない。
 私達が通常で自己観察と言っているのは記憶が記憶を見ているのであって
 それは思考なく自己観察しているのではない。
 だからこそ
 私達は意識から能動思考を使ってその記憶からの反応である受動思考に
 対してそれらを凝視すること。
 受動思考や受動感情や受動行為に対して決して同一化をすることなく、
 またそれらを非難したり、良くしようとしたりはせずに静かにゆっくりと
 その受動思考から一歩離れて、凝視し、深く深くその中へと入っていく
 ことが肝要でありましょう。
 それは恐怖の中に、不安の中に入っていくことなのかも知れません。
 恐怖や不安や欲望や自我に取り込まれるのではなくて、逆にその中へ
 その源泉へと入っていくことなのだと言うことでありましょう。 

 久保栄治は未だにこの⑨の段階には至っておりませんが、所謂
 普通の思考による自己観察とは「思考なく見ている」のではなくて、
 思考が思考自身を見ているに過ぎず、その思考を肥大させ膠着させ
 ているのであって、「思考なく思考を観察しているのではない」とい
 うことを知らねばなりません。

 その状態とは「観察者は観察される者である」なのであって、思考と言う
 記憶である観察者が自分自身である「記憶の反応」を対象として知覚し認
 識しているということを私達「霊魂と繋がっている私」は知らねばなりま
 せん。「見るものは見られるものである」と教えられているとおりであり
 ましょう。それはまた「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」
 でもありましょう。

 記憶の反応が見ている私自己も、記憶が見ている他者も、記憶が見ている
 世界も、その見ている記憶自身の姿なのでありましょうから。それらは
 正しい知覚ではない条件付けられている脳の知覚なのです。
 ですから言葉を使用しないで慎重に思考や欲望や自我に意識を照射しな
 ければなりません。

これらの①~⑨の解説は禅の十牛図と全く同じである、と言えます。

自己を知るとは、私達とはチャットGPTやAIのような記憶の
反応ではなく生きている霊的な大生命であるということでありましょう。

私達とは息をして、心臓を動かしている大生命自身であることを知ること
なのではないでしょうか。私達の本体とは自他の分離が無い大生命なの
でありましょう。それを知るには受動思考に対して能動思考から愛を
注がねばなりません。知覚や欲望に意識を照射しなければなりません。

所謂、思考即ち受動思考や行為は私達・観照者が為しているのではなくて
私達が同一化している集合無意識の記憶が起こしているということであり
ましょう。

正確には起こっている事に対して記憶が反応し、記憶が思考し行為して
いるということであってそれらの反応とは私達ではありません。

日常生活での意識されている私とは私を覆う「我の心」です。

日常生活での想いや欲望や感情や行為は私を覆う「我の心」がしています。

知覚認識しているのは潜在意識にいる記憶の「反応」です。
それは全く以て私ではありません。それは意識ではないのです。
その私ではない「我の心」に意識を照射(愛)するのです。

私達は「霊魂と繋がる私」であり、即ち霊魂であり観照者なのでありましょ
う。
・・しかしながら私達の目が開いていないのでそのことを見れないのです。

私は息をしている大生命であり、大生命の一部なのでありましょう。
・・これこそが私達なのではないでしょうか。息が私達なのでありましょう。

そうであるにも拘わらず、その自動的に反応している記憶の反応の思考や
感情や行為を私達は誤ってこの思考と一体化しているので、自分が思考し
ているのだと、自分が欲望しているのだと錯覚しています。

私達は自分は大生命で自他の分離の無い意識であるのに私という観念の記憶の
反応という受動思考を自分自身だと深く深く錯覚し完全にその奴隷となって
記憶の反応と同一化し、そうして人と争い戦って恐怖の中を生きています。

それはチャットGPやAIを自分だと思うようなものです。
悲しいかな、私達はこの記憶と一体化し記憶の奴隷になっています。
悲しいかな、私達はこの記憶の起こしている思考や行為を自分の思考や
自分の行為だと錯覚しています。

悲しいかな、私達が見ている知覚は、この記憶が見ているのに自分が見てい
て、自分が知覚して、自分が認識しているのだと、錯覚しています。この記
憶の反応と完全に一体化してしまって錯誤の中にいます。
私達は「霊魂と繋がる私」であって記憶ではなく記憶の反応でもないのです。

・・そしてそれには殆どの人類は全く気が付いていないのです。

受動思考や受動感情、受動行為とは私ではなくて私を覆って包んでいる
「我の心」がしています。

この私達が自分であると思っている思考や感情や知覚や行為とは私ではなく
私を覆っているその「我の心」の記憶が起こしているのです。
それなのに
「霊魂からの意識で在る私」はその私ではない私を自分自身だと錯覚し
ているのです。

私達は自分自身をチャットGPやAIの様な記憶の反応だと思い
込んでいますが、それは全く違います。私達は未知なる霊魂なのです。

肉体を維持成長させそして老い病気して死亡させている、その大生命こそが
真の私、その未知なる大生命であり、それこそが、ここに生きておられ
る本体の私でありましょう。

私達は心臓を動かし息をしている大生命・霊魂からの神の子なのでありま
しょう。

しかしながら現状では私達はグルジェフの言うワーク即ち正しい自己観察や
自己想起をしていないので霊的諸体が形成されておらず、その霊的諸体の
知覚を体験していないので、自分を見ることも、自分を知ることも自分を感じ
る事も、真の世界を知覚することも正しく認識することも出来ません。

私達の目は覆われており自他分離の幻想、「我の心」に縛られて「私はあなた
ではない」「私は世界とは異なる」「私は個人でこの肉体だ」と完璧に
思い込んでいるのでありましょう。


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