「思考なく見ることで秩序が顕れる」と教えておられましたが
それは、一体どういうことなのでありましょうか?
拙い私が推測するに・・
”思考(受動思考)に向けて意識(能動思考)の光を照射する”
・・ということではないかとも思われます。
平たく言うと「あるがままを思考なく見よ」でありましょうか。
この受動思考と言うのは毎日の生活で私達が自分の考え、自分自身だと
錯覚している潜在意識にある記憶の反応である思考や感情のことです。
またこの事を霊的解剖学的に言えば
この場合の「能動」思考とは
「霊魂と繋がる私」である形成途中の霊的諸身体
(高次思考体、高次感情体、サイコノエティック体の状態)のことでありましょう。
即ち意識から照射であります。
ですから、この意識からの能動思考によって照射されるべき相手である「受動」
思考とは、潜在意識にある脳が受信した思考の記憶の反応のことであります。
それはチャットGPやAI等と同じ記憶の反応のことであります。
毎日の生活の中で
あらゆる起こっている事(意識の表面に認識された欲望や想念や感情や行為)
に対して、常時、途切れることなく反応している記憶(受動思考)に向かって
「「霊魂と繋がる私」である意識からの能動思考を使用して、その対象に対して
この意識の光を照射する」ということでありましょう。
少々複雑になってきてしまいましたが・・
思考(意識)と一般的に言われている思考(意識)には
■カルマからのプログラミングされて起こっている必然的思考や行為、状況
■それに反応する思考の記憶からの受動思考(これを私達は通常は私自身だと
錯覚しております)
■私自身。迷える神の子羊である「霊魂と繋がる私」からの能動思考(この能動
思考の機能は霊的諸身体の進化段階によって実力が異なります)
■未知なる霊魂である観照者からの高次思考(即ちインパーソナルライフ意識)
■すべてと一つである本体からの超意識(黒住宗忠師がいう天照大神の御分霊)
が私達「霊魂と繋がる私」の内面を複合的に構成していると教えられています。
脳や腸付近にある潜在意識にある記憶・・それは起こっている出来事や衝動
や欲望や恐怖に反応している記憶のことですが
・・それは人類全体の集合無意識と繋がっていて受動思考と言われています。
現状では、その受動思考が私達を包み、覆い、私達は完全にその受動思考と一体化して
いるので自分はその受動思考だと信じて疑うことがありません。
けれども私達はその潜在意識にある記憶ではなくハートに在る意識なのです。
通常は私達は常に起こっている受動思考を自分自身だと信じているので、自分がその
様に思い、自分がその様に行って、私達は生まれ死んでいくと思っています。
そして私達「霊魂と繋がる私」はその受動思考が思う様に思い、受動思考が感じる
ように感じ、受動思考が行うように一緒に行為することによりカルマを積み重ねています。
その様な現状に対して私達はどうするべきなのでありましょうか?
頭頂やハート付近にあるとされている意識からの能動思考(形成途中のサイコノエテ
ィック体であるその霊的諸体である能動思考や能動感情)を使ってこの「霊魂と繋がる私」
は一生懸命努力しなければなりません。
私の本体である未知なる霊魂・聖霊に対して感謝し、指導を請わねばなりません。
努力が必要なくなる段階に至るまではその努力は必要です。
・・それは自我を超越するためには、自我が充分に育っていなけ
ればならないのと同じです。
ですから私達未熟な段階のサイコノエティック体を有する「霊魂と繋がる私」は
未知なる「私の本体=霊魂」を信頼し、帰依し、耳を傾けなければなりません。
そして私達「霊魂と繋がる私」を覆い隠しているその受動思考に意識の光を照射
する、(只あるがままをあるがままに見る)ということを実行しなけれななりません。
無為という教えがありますが
私達である低次の段階を歩んでいる者には、その高次の教えはかえって誤解の元に
なってしまう可能性もあります。私達の霊的段階にはその教えは高すぎるのです。
自分がいる段階を理解して、山頂をめざして歩んでいる自分は何合目にいるのかを
知らねばなりません。
従って私達は私達である能動思考を使ってその(私を詐称する)記憶を照射する
ということが秩序を齎す・・を実践しなければなりません。
・・そのことをクリシュナムルティーは一貫して教えておられるのではないか
と思っています。
霊的諸身体(サイコノエティック体)は肉体が持つエーテル複体などとは異なり
「霊魂と繋がる私」そのものでもありますが、現状では赤児状態で目が開いて
おりません。
このことを黒住宗忠師は
「そ~れ、人の心は天照大神の御分霊にして我の心に非らざれば
そを穢すとは天の心を穢すなり、そを育てるとは天の心を育てるなり」
と天の心即ち高次霊的諸身体を形成すること教えられました。
私達人類は殆どその天の心である霊的諸体が活性化しておらず、眠った状
態なので、
その天の心である霊的諸身体の思考(能動思考)や感情(能動思考)を使
用できない段階にいると教えられています。
だからこそ
私達は未熟であっても「霊魂と繋がる私」はこの与えられた霊的諸身体の
能動思考を使って受動思考に意識を照射し、自己観察と自己想起を
通じて霊的諸身体を再形成して宇宙に秩序を齎さねばなりません。