愛とは何だろうか?
先ず始めに、私は愛を知らないし、経験したことがないので
愛を語る資格はないのだが、あえて愛を推測してみたい。
私が推測するに・・愛とは・・
「思考なく見ること」「私なく見ること」「自他の分離なく見ること」
である。と。
私達は「あるがままをあるがままに見よ」と教えられています。
それも愛なのではないだろうか・・
それは
あるがままから逃避しないで、あるがままをあるがままに受容すること、
だろう。
だからそれは
あるがままの私を、そのままあるがままに抱きしめることだろう。
あるがままのあなたを、そのままで抱きしめることだ。
そのままで抱きしめるとは、そのままをそのまま受容して、ただただ
「見る」.
思考と言う自他の分離なく見るということ、なのでありましょう。
それは記憶の反応という受動思考でもなく、意識からの初歩の能動思考で
もなく、観照者・霊魂からの高次思考からであることでありましょうか。
そしてそれは意識インパーソナルライフからの恩寵でもありましょう。
また、その高次思考は、分離した思考ではないので、全体と連携しており
その高次思考は必ず物質化し実現し、世界に健康と平和と進化をもたらす
ことでありましょう。何故ならその高次思考は根源と一体の魂からの
思考だからです。・・かくいう私はその体験はないのですが・・。
しかしながら私達の日常生活での私の意識とは意識ではなくて
受動思考の反応のことでありましょう。
それは
私とあなたは分離しているという知覚認識である思考の反応です。
私達が私自身だと信じ込んでいる受動思考。その私自身だと感じ
ている私とは、
意識でもなくその意識からの能動思考でもなく記憶の反応である
受動思考であることでありましょう。
初期段階での能動思考の「見る」というのは、受動思考と混濁しています。
その能動思考の私達が「見ている」とは・・以下の事を知覚すると言う
ことです。
記憶の反応である受動思考がその自分自身である受動思考の姿を「見て・
感じて」いるのだ。
・・・・ということを「見ていること」でありましょう。
・・ここは非常に複雑で、否定的接近ですがクリシュナムルティー風には
「観察者は観察される者である」、また黒住宗忠師風に言えば「立ち向かう
人の心は鏡なり己の姿を映してや見ん」でありましょう。
日常生活での観察行為とはこの記憶が記憶自身を見ているのに過ぎません。
日常生活での思考や感情とは記憶が記憶を知覚している状態のことです。
日常生活での見るとは、自他に分離している思考が自分である思考を見て
いるに過ぎません。
日常生活で色々と考えたり、感じたり、悩んだり、意識活動をして、認識
し、知覚し、色々と計画し、質問しているのは私や「意識からの能動思考」
ではなくて記憶なのでありましょう。
ですから初歩的現段階での「私達幼稚な意識」が能動思考で見ていると
いうのは、
意識からの能動思考が受動思考を「照射している」という事でもありま
しょう。・・けれどもその意識とは生命であり、量子でもありましょう。
その日常で私の意識だと錯覚されている受動思考ではなく能動思考でもっ
て、
この見ている私、観察している私、自他を分離している私、恐怖と欲望
それ自体である私、そして「私の投影である相手」を変えようとしたり、
良くしようとしたりしている私の事を見ることは重要であります。
そのまま、そのまるごとの私を、また自分の投影であるの相手をギュッ
と抱きしめ離れず一緒にいることが能動思考が行う、最初の一歩でもあ
りましょう。
では愛とは何でありましょうか?拙い私が思うに
それは悩み苦しむ私と一緒にいて決して離れず一緒に悩み苦しませて
いただくことでもありましょう。
それは魂(大生命)からの目で以て見ると言うことでありましょう。
その苦しむ私を意識からの能動思考で照射する第一段階から始まり
(私は未体験なのですが)、
さらに私達の本体である霊魂(意識)からの高次思考で以て受動思考
である私のことを観照する事でもありましょう。
それはまた
私の本体である霊魂(意識)からの恩寵によって思考なく、言葉なく、
記憶なく、私なく、「【私は私である】と思っている記憶」に意識を照射す
ることでもありましょう。
そしてそのとき「受動思考である見る者や見られるもの」からの解放が
起こり、秩序がもたらされる可能性があると言われております。
では、一言で表現すれば愛とは何でありましょうか?
それはこの恐怖に怯えている私と一緒にいて、決して離れず、恐怖を
一緒に体験させていただくこと。
思考なく私なく恐怖(私)を能動思考を使用して言葉無くただ照見するこ
と。
それこそが観照者の意識の事、高次思考からの「見る」事だと思われます。
それは私達の本体である霊魂からの意識で在る事でありましょう。
それはこの愛欲と支配欲に狂った私と一緒にいて決して離れず、その
狂気を一緒に味わさせていただくこと。その私を照見、照射すること。
それはこのエゴである私と一緒にいて決して離れず、嫉妬心やプライドで
心を悩まさせていただくこと。
それは拷問を受ける私と一緒にいて決して離れず、その死に至る物凄く
極限の残酷な拷問を一緒に受けさせていただくこと。
それはこのプライドを傷つけられた私と一緒にいて決して離れず、自我の
苦しみ、プライドの高慢さを味わさせていただくこと。
それは過酷な運命の中の私やあなたと一緒にいて、決して離れずに、
一緒に苦しみ、一緒に絶望し、一緒に嗚咽し、一緒に掻き毟り、
一緒に泣き崩れ叫び、一緒に苦痛で七転八倒し、一緒に不安で恐怖し
、一緒に苦悶し失神させていただくこと。
それは、自分や相手と一緒にいて、そのままの私やあなたと決して
離れず、この私やあなたの悩み苦しみを、同じように恐怖と不
安を味わい、同じ悲しみをトコトン経験させて頂くこと
でもありましょう。それがこの恐怖という、自他に分離している私
(我の心)を照見している意識(インパーソナルライフ)
なのではないでしょうか。
そして本当に愛することが起こったとき、受動思考ではない能動思考を
さらに超えて、高次の彼岸次元の私達の本体である霊魂からの高次思
考(自他の分離が無い意識)が発生し、
その意識が恐怖と苦悩である自他に分離している私を観照することで、
その恐怖と苦悩と私は愛へと変換し
愛が姿を顕し、愛が秩序を齎らすことだろう。(或る教えから抜粋)
と教えられています。