自己観察についての私見

2025/09/05(金)

自己観察を学ぶ人々に共通している誤解について・・以下は私の考えです。 


クリシュナムルティーがいうところのその自己観察が出来る人とは人類では、殆ど数えるくらい

であり、瞑想の達人で、且つ「沈黙」を実際に経験していることがその前提条件でありまし

ょう。


ではクリシュナムルティーが言う「思考なく見よ」という自己観察とは何なのでしょうか?


この私達「霊魂と繋がる私」の現在の意識では完璧に思考の記憶と一体化しているので、私達は

その「我の心」に包まれており、意識ではなく記憶が起こっている出来事に反応しています。

この現状では「思考なく見る」自己観察は不可能です。


なので、この現在の思考と一体化している状態で自己観察を「思考」で実行?した場合は

私達「魂と繋がる私」は自他の中にエゴを見て「エゴ・思考」の虜に成ってしまうこと

でありましょう。

(此処で言う思考とは受動思考のことであって能動思考のことではありません)

(人の悪を見て己れに悪心をます事、恐るべし 恐るべし・・黒住宗忠師)



受動思考で受動思考を自己観察した場合、その受動思考に取り囲まれ、自我を肥大させて

しまう結果になると思います。

エゴ自我がエゴ自我を見ることでかえってエゴ自我に攣り囲まれる事になります。

(自己観察での自己を見るとは、現在のパーソナリティーである「未熟な私達セルフエピグノ

ーシス」がその意識をハートにある未知なる空・真我に足場を置き、未熟であってもその意識

から能動思考=純粋知性を使って「私は見ていないということを」見なさいということであ

りましょう・・否定的接近です)


私達の通常の現段階での意識では自分は誤った「思考(受動思考)に依る自己観察」を

している事に気が付きません。・・私達は完璧に受動思考と一体化してしまっています・・。


私達は自分が考え、自分が行為していると思っていますが、実は記憶が考え、記憶が行為して

いるのでありましょう。


・・自分では自己観察をしていると思い込んでしまっていますが、それは全く逆です。

それは、「霊魂と繋がる私」による自己観察ではなくて、脳が受信した受動思考が受動

思考に取り囲まれて受動思考を強化しているだけなのだと思われます。


受動思考が観察している私とは受動思考であって、いわゆる記憶が記憶自身を観察している以上

は必ずその受動思考を強化する結果になり、私達「霊魂と繋がる私」はさらに受動思考と

一化して受動思考に取り込まれてしまいます。

(観察者は観察される者です・・クリシュナムルティー)

(立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん・・黒住宗忠師)


・・それは、この段階の私達である観察している私、見ている私とは「霊魂と繋がる私」を覆

い包んでいる受動思考、私という観念の記憶であって・・それは「霊魂と繋がる私」なのでは

ないからです。


日常生活での私の考えや思い感情、心配、計画、目標、評価すること、予定すること、

計画すること、予想すること、思いを巡らすことなどの全てはこの記憶の反応である

受動思考なのでありましょう。

そして・・その受動思考に気が付いているのが能動思考なのではないでしょうか?


そのような受動思考による自己観察を実行した場合は結果として、必ず、私達は受動思考と

同一化して受動思考の囚人となり、思考に引き釣り込まれ、記憶の奴隷となります。

そして思考に雁字搦めになり、

思考から抜け出せなくなります。(この場合の思考とは受動思考のことです)


それなのに、悲しいかな私達は自分は自分の意識が自己観察をしていると思い込んでしまっ

ています。

 

 

自己観察に於いては、受動思考に依る自己観察は危険です・・それは観察している者が

受動(記憶)思考であるからです。自分が思うこと、考えること、推測することは意識から

の能動思考ではなくて記憶の反応である受動思考なのです。

その受動思考が思考していることに気が付いているのが能動思考です。


ですから悲しいかな現状での私達の現在意識の状態とは意識が受動思考に覆われて囲まれ

一体化してしまっていますので、日常生活での私の考えること、思うこと、感じる事は私「霊

魂と繋がる私」が考え、想い、感じているのではなくて記憶が思考し、感じ、心配し、苦

しみ、不安で恐れているのです。(しかしこれを認識することは私には至難の技です)


だからこそ・・それを知った上での私達のセルフエピグノーシス(未熟な意識段階にいる

「霊魂と繋がる私」の意識)からの正しい能動思考による(信仰と信頼、帰依、)自己観察

が必要だと思われます。

・・それは自分の思考や感情は受動思考であることに気が付くこと

でありましょう。

そして、その受動思考への気づきこそが能動思考なのではないでしょうか?

 

もしも、意識(インパーソナル次元・自他の分離が無い意識)が思考を見たなら(もしも

私達が正しい自己観察が出来る段階に達していたら・・久保栄治には想像すら出来ませんが)

そこにはきっと、思考ではなくて意識が見ていることとなりますので、全ての人々、そして

自己にも意識・慈悲・神が見えているはずだからです。見ている私はその時、愛であるから

です。その時にはきっと、私はおらず「私はあなた」であり、私とあなたの分離は無いこと

でありましょう。

何故ならば「見るものは見られるものである」であり、「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿

を映してやみん」であるからです。しかしながら人類の現段階での己、黒住宗忠師のいう己

とは受動思考と同一化してしまっている複合混合状態の私達「霊魂と繋がる私」の姿ことで

ありましょう。私達は「迷える神の子羊」(イエスキリスト)なのです。


もし、クリシュナムルティーの言うような正しい自己観察を実行できている段階では愛

(慈悲・神・意識)以外、完全完璧以外には何も見えていないはずでしょうから。

・・でもこれは現段階の私達人類には「絵に書いた餅」に過ぎません。


沈黙を経験していない以上は、(意識という鏡を知覚していない以上は)クリシュナム

ルティーのいう自己観察は実行不可能でありましょう。

 

ではこの私・未熟なセルフエピグノーシス・未形成な霊的諸体を持つ「霊魂と繋がる私」

には自己観察は不可能なのでしょうか・・・いいえ決してそうではないと思います。

如何に受動思考によって汚染されているとは言え、私達は神と分離していない・・と信じ

ています。

静かに呼吸に耳を澄ませ、いのちを感じ、感謝して沈黙に参入しようとすることは出来ます。

未熟であっても意識を未知なる真我に照射すること、拡がること、信じることは出来ます。


クリシュナムルティーは思考を大雑把に思考と一括りに表現しましたが・・実際には

思考には4種類あって、受動思考、能動思考、高次思考、超越思考です・・。


受動思考とは、私達が自分の思考だと錯覚している脳が受信した想念の記憶です。毎日の生活で     

       の私の事。思うこと、感じる事、心配すること、推測すること、未来を案じるこ

       と、喜怒哀楽し、不安と、恐れであり、日常生活でのいわゆる一般的には意識

       と呼ばれている受動思考のことであり、

       (本当はそれは意識ではなく記憶の反応)瞑想以外ではいつも経験している

       日常生活の内面です。 

       起こっている出来事に反応している私達、日常生活のあらゆる場面に対応し、

       反応しているのがこの受動思考・・我の心であります。  そしてこの我の心は

       私の心ではありません。わたしは黒住宗忠師に教えられているように自他分離

       がない天照大神の御分霊で全ての人と一体です。この現在意識によっては知ら

       れていなくても、私達は天照大神の御分霊であり、全体であり分割できない

       全体であり、個人ではないのです。    


能動思考とは、未熟ではあるが「霊魂と繋がる私」が使用できる思考だとおもいます。

       サイコノエティック体など高次の霊的諸体が持っている思考のことだと思います

       受動思考に気づいているのがこの能動思考です。意識に否定的に接近する

       事が可能なのがこの能動思考です。この能動思考は照射することが出来ますし

       拡げたり、中に入ることも可能です。そしてこの「霊魂と繋がる私」とは

       霊魂の私、即ち天照大神の御分霊、一切万物を生かしている大生命そのもの

       なのであって、万物と分離している個人ではなくて、万物そのものなのです。

       

高次思考とは、「霊魂と繋がる私」の本体である「霊魂の私、観照者」が使用する実現力のあ

る思考のことと言われております。勿論この「霊魂と繋がる私」は霊魂であり、天照大神の

御分霊であり、一切万物そのものであり、一切と分離していないインパーソナル・全体の

私であります。

超越思考に関しては、私であるセルフエピグノーシスが成長しない限りは、この低次な段階

である私には何も分かりません。


ですから私達は如何に未熟ではあり、体験がなく、理解していなくても、セルフエピグ

ノーシスとして内なる本体の私である魂に全託し、その高次の自分のことを信じ、その

意識からの能動思考を使用して、記憶の反応を記憶の反応として見なければなりません。

能動思考とは受動思考を受動思考と見る「否定的に自己に接近する思考」であります。

「私は○○ではない」と思考することでありましょう。

「虚偽を虚偽と見ていることの中に真理がある」のではないでしょうか。

「私は肉体ではない」「私は思考ではない」「私は自我ではない」と否定的に自己を肯定

していきます。・・それが能動思考です。

本体である霊魂に「霊魂と繋がる私」が私ではない我の心を否定することで接近するのです。

 

「思考なくあるがままをあるがままに見なさい」

未熟な私達は、未だ目が開いておりませんので、この彼岸からのクリシュナムルティーの言

葉を理解することは出来ません。

なので私達は梯子を外された感じを受け、混迷し、自分は自己観察しているという受動思考の虜

となってしまっています。 

覚者達は死後の次元やアストラルやメンタル次元を飛ばし、実相へ、いきなり最高次元へと、

彼岸の究極の教えを説いていきますので、それを全く理解出来ない私達人類は混乱してしま

っています。 それは丁度シャンカラが真我を直指しているのと同じです。


私達「霊魂と繋がる私」は現在のこの未発達な、そしていまだ霊的諸体が形成されておらず

見ることが出来る目がなく、従ってこの霊的諸体の知覚や認識がない情況であっても、

この現在の状況を把握し理解して「思考者はいない思考が起こっているだけだ」「行為者は

いない行為は起こっているだけだ」の知覚はなくても無理でも信じて

自分自身である未知なる「霊魂」を自分自身であると信じて、正しい自己観察即ち否定的に

「私は肉体ではない」「私は思考ではない」「私は自我でない」と未知なる自己に接近

し、且つ「私はインパーソナルな意識だ」と想像しなければならない・・と思っています。




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