それは、エレブナが言う「全ては全ての中に在る」という霊魂の知覚のことでありましょう。
それは、イスラムの賢者イブン・アラビーがいう「あなたの中に宇宙はある」のこと。
「つまり宇宙はあなたの外にあるのではなく、あなたの中に映し出されている」。
「あなたはその宇宙の一部ではない。あなたはその宇宙そのものなのだ」
「あなたの中に宇宙が有るというのは、あなたが特別だからではない、それは
全ての存在が神の光を宿しているという静かな真理」
という魂本体の私の知覚のこと。
それは、クリシュナムルティーが言う「私は世界である」という霊魂の知覚。
それは、黒住宗忠師が言う「あなたは神の子である、あなたの鏡の中に世界はある」ということ。
それは、ミルダッドが言う「すべての中にあなたはいる、あなたの中にすべてが
ある」という霊魂の私の事。
それは、近頃多くの方々が体験している「私は宇宙と一つである」という私達の
本体である霊魂の意識の姿・実態、その霊魂による知覚のこと。
などでありましょうか。
これらの言葉は私達の常識からすれば何を言っているのか全く分かりません、
この私達が入っている肉体という小宇宙をよく見れば、同じ創造システムが全宇宙も
同じように創造されているので、「一人一宇宙」「パラレルワールド」、即ち一人一宇宙とは
エレブナが言う「全ては全ての中に在る」と言う霊魂の持っている知覚のことだと朧気ながら
推測することが出来るのではないかと思われます。勿論私達である思考は「自分は
肉体である」「肉体は自分の肉体」と思っていますから、そのような霊魂の知覚など知るよし
もありません。
賢者達が示していることは、全ての私達「霊魂と繋がる私」の本体とは、神であり
宇宙であり、思考を超え時空を超え、自他の分離の無い意識・量子なのである
ということを指し示しているのでありましょう。
私達が入った肉体を見れば、肉体35兆のうちの一つの細胞が、一つの人体と
分離しておらず、その人体を構成していて、その一つの細胞の中に全細胞35兆
分の全ての情報がDNAとして存在していると言うことであります。
その一つ一つの細胞の全てに全人体全ての35兆の細胞の情報を含んでいるとい
うことです。
それは即ち仏教で言えば「一即多」「個即全」ということでありましょうか。
最小の中に最大が在るという事でありましょうか。
そしてその肉体を使って生きておられるのは勿論、創造主である神でありましょう。
肉体を自分の肉体で、自分は自分のものだと思っている人格という記憶ではありません。
この小宇宙である私達の肉体は、この大宇宙と同じように35兆の細胞から構成され
ていますが、そしてまた同じように私達である一つ一つの魂も、「創造主の分け御霊」
「天照御祖神の分け御霊」として創造主と一つでありましょう。霊魂の私達一人一人の
中に全ての宇宙があると云うことなのでありましょう。・・・それは霊魂とは神の分け
御霊だからです。
そして創造主が肉体を使い、マインドを使って人生を演じておられます。
そしてその中にいる霊魂とは私なのでありましょう。それこそが本当の私なのでありましょうか。
・・・但し
これらのことは、条件付けられている私達の記憶、即ちこの未発達な人類の脳では想像
することも、信じることも出来ません。・・これらの言葉を聞いた私は「全ては全ての中に
在る」「一人一宇宙」等という真実を示されても、それらは単に情報であり空虚で空に響く残
響にしか過ぎません。AIのように記憶して話すことが出来ていても実際の所では、全く私
達にはチンプンカンプンなのです。
私達「霊魂と繋がる私」は肉体に入っている以上は、私達人類の知覚とはあくまで、神のもの
である脳と肉体の知覚に支配されているのに過ぎません。ですから、肉体に入った「霊魂と繋
がる私」は、どうしてもこの肉体が受信した私という観念に完璧に支配され「私は肉体だ」
「私は個人の人格だ」と感じております。
「霊魂と繋がる私」は肉体に入り、神の演技である肉体と記憶に完全に同一化し「私は肉体だ」
「私は個人の人格だ」と思っているので「私が生きている」「私が行為している」「私が思考し
ている」と錯覚しているのでありましょう。
そして、本当は自分は鏡であることを信じることが出来ずにいます。
ここで従来の鏡の解釈とは微妙に異なる鏡についての解釈があります。
「霊魂と繋がる私」、この自分は鏡であって、鏡に映し出されている「神の子で
はない我のこころである自分」とは異なります。
この鏡に映る私とは、自分ではなくて創造主の演技なのだと言われているのです。
ですので、鏡である自分にはその鏡に映っている「創造主の演技である自我」に
対しては、どうすることも出来ないのです。
平たく言えば自分には自分をどうすることも出来ないということなのです。
もっと無責任に平たく言えばこの自分は自分のものではない神の演技なので全く自
分の責任ではないと言うことなのかも知れません。
更に深掘りして
自分という鏡に映し出され知覚されている自分や相手や社会や夫や妻や子供とは、
実は「鏡である私ではないところの世界を対象として知覚している我の心という神の
演技である姿」なのに、鏡である私は鏡である私と鏡に映る姿を同一視してしまっています。
黒住宗忠師が言うように鏡に映る自分も相手もそして世界すらもそれらは鏡に去来し
ているものであり、鏡自身である自分「霊魂と繋がる私」ではないと言うことです・・
自分自身である鏡に映るそれらを黒住宗忠師は「我の心」といっています。
平たく言えば「我の心」とは神の演技なのでありましょうか。
自分自身である鏡に映る「私」とは鏡の私ではなくて、神が演技している自我の私なので
ありましょう。
鏡に映っている世界や起こっている世界の出来事は神が演技している自分自身を映し出し
ていることに気がつかねばなりません。
自分という鏡にそれらはやってきては去るものであり、そのやってきては去る者こそが
自分を詐称している我の心であり、この現在意識を覆い尽くしている記憶の私の姿です。
それがこの人格であり、対象として他人や世界を知覚しています。
しかし、実際には私達は鏡であり、その鏡に映っている他人も私も世界も宇宙さえも実は
物凄く深い意味で私自身なのだというのです。鏡に映るのは神のマーヤだという
のでありましょうか。
従ってその鏡である私達「霊魂と繋がる私」が高次の私・霊魂との繋がりを認識して
その知覚が発生しない以上は
「自分は肉体である」、「私は個人であって他人ではない」という確固とした確信、
そして、その「私という観念の記憶」が世界や人々や宇宙を支配し続けて、世界や宇
宙を対象として、そして自分自身さえ対象として見ているのでありましょうか。
自分自身を対象として知覚している私とは神が演技している私であり、それは
「霊魂と繋がる私」ではなくて脳が受信した記憶なのでありましょう。
私自身は観照する目であり、鏡なので自身は対象ではないと教えられております。
この私と言う自他に分離した自己感覚こそ記憶の自己感覚です。
そしてこの記憶の自己感覚を未熟で無明に覆われている「霊魂と繋がる私」は自分
自身の感覚だと固く信じて疑いません。
従って、「霊魂と繋がる私」は、この肉体の目でしか見ることが出来ない以上は、
この肉体の目とその脳の知覚しか知らず、それと一体化し、どうしても他人や世界や宇宙
を対象として見てしまいます。
「霊魂と繋がる私」の霊的諸体の目が覚醒しない限りは世界や宇宙や人々を自分の外部
としてしか見るより他にはないのです。
ですからパラレルワールド・・一人一宇宙などと聞かされても、何を言っているのか
さっぱり分かりませんし、そんなことは私達には理解も知覚も推測も信じることすら
も出来ません。
霊的諸体が形成されておらず目が開いていない私にとっては、それらは単なる虚しく
響く意味のない言葉なのです。
単なる可笑しな観念・戯言・ドンキホーテの夢物語なのです。
全くチンプンカンプンなのです。
しかしながら量子力学が示しているように
量子とは意識であり、非局在性であり、自他を超え、時空を超えています。
その量子こそが私達の本体なのではないでしょうか。
私達は何時の日か私達「霊魂と繋がる私」は、「自己観察」と「自己想起」
というワークを重ねることによって私という観念の記憶(個人人格)から
解放されて「真実を知覚出来る目」が開眼したとき
「私は世界である」「私は宇宙と一つである」という霊魂の知覚が生じて
記憶である「時間と空間という認識形式」「エゴ」から解放され
一歩先の次元に進むことが出来るのかも知れません。