「お役目の私ではなく、魂の目で私とあなたを見なさい」と。
私達は「魂と繋がる私」なのであって、人格という脳が受信した思考の記憶では
決してないのだから、「記憶である人格の目で見るのではなく、魂の目で見なさい」と
ババ・ラムダスは言います。
しかしそのことの前に大前提として私達が認識していなければならない事があります。
それは私達である「魂と繋がる私」は、肉体に入り頭脳と繋がっていると言うことです。
そして私達は固くその頭脳が受信している思考と深く一体化して、自分を肉体であり、思考を
自分の思考だと疑うことなく信じ切っています。
私達「魂と繋がる私」は頭脳からの知覚や思考や感情や記憶情報を自分自身と取り違え
てしまっています。
それは私達「魂と繋がる私」は本体の私である魂であって決して肉体や思考ではないこと
が知覚されていないからです。
何故なのかと言えばそれは私達の本体である魂の身体の高次霊的諸体が形成されていないためです。
この霊的諸体が形成されるためには私ではないものを私ではないと見る「自己観察」が必須なのです。
どうしても私達である「霊魂と繋がる私」は肉体に入っている以上は肉体の知覚から逃れられません。
それは丁度、重たい鎧兜を身に纏ったのと同じです。
その鎧兜である肉体の頭脳が受信している記憶の思考を自分自身の思考や感情や行為だと
勘違いしてしまっています。
・・しかしながら、このことを誰も疑いません、それというのも脳の知覚しか知らない以上は仕方な
いのかもしれません。
そして私達は、そのことに一切疑念を抱かずに、その肉体という脳と言う鎧兜の知覚で以て自分や他
人や世界を見て人生を生きつづけています。・・・正しい知覚が生じることなく・・。
私達が見て感じている自分や他人や世界とは、私達「魂と繋がる私」が見ている自分や他人や
世界なのではなくて、その鎧兜である頭脳が見ている自分自身であり、他人であり、世界
なのです。というのも私達「霊魂と繋がる私」は目が覚めていないまま肉体を纏い頭脳に
縛り付けられているからです。
その鎧兜を身に付けている私達「霊魂と繋がる私」は、この「霊魂と繋がる私」の私達が
私自身や他人や世界を見て、そして対応していると思っていますが、それは違います。
この思考も感情も行為も知覚も鎧兜の思考や感情や行為や知覚なのです。
「私は私だ」と思っている私とは「霊魂と繋がる私」ではなく、記憶の反応です。
私達を覆い被さっている鎧兜が自分や他人や世界を見て対応しているのです。
この虚偽を虚偽と見ることが「自己観察」に他なりません。
魂とは観照者であって、思考である記憶の私の事を観照しています。
私達は生まれてから死ぬまで、人生の中での対応とはその鎧兜が対応してい
るのであるということを「魂と繋がる私」は鎧兜と一体化しているので決し
て気が付かないのです。
ババ・ラムダスは言います。
その「人格の目ではなく魂の目で自分自身と相手を見たとき、そこには愛が
見える、私にも相手にも愛が見える」と。
私達は生命は自分のものだと思っていますが、生命は個人(私)のものではなく、
あなたのものでもないのです。
個人的生命、個人的な息、個人的な肉体などというものはない・・というのです。
息も肉体もそしてこの個人人格も私のものではなく、大生命のものである・・と言うのです。
私が生きているのではなくて、大生命が生きて息しておられるのです。
息している者それは至高なる大生命である・・と。
肉体を自分の肉体だと思い込み、自分を個人だと確信し、他人を自分とは異なる人格だと
そう実感しているのは「魂と繋がる私」ではなくて脳が受信した思考の記憶に過ぎない、と
言うのです。
真実はそうなのに「魂と繋がる私」はその思考の記憶を私だと錯覚し、同一化しているの
である・・それは霊的諸体が形成されておらず、その霊的諸体の知覚認識が発生していない
からなのだ・・と。・・霊的諸体は自己観察によって形成される・・と。
しかしながらこの「霊魂と繋がる私」の本体である魂の意識には
私の意識とか、あなたの意識とか言う区別、自己と他者の区別は存在していないのだ・・と。
いうのです。・・・しかしこれは体験しなければ理解することは出来ません!!・・・。
私とあなたの心臓を動かし、息をしている大生命こそがその意識であり、私達の本体であり、
その意識こそが「魂と繋がる私」の本体なのだ・・と言うのです。
未熟な「魂と繋がる私」は自分が繋がっている身体の一部(脳)しか意識することができない
けれど、「魂と繋がる私」は自分が繋がっている身体とは肉体だけではなく、次元の異なって
いる霊的諸体も存在し、その高次霊体の知覚も存在していることを知らないだけなのだ・・と。
私達「魂と繋がる私」は現況としては、目が覚めていないので自分が繋がっている身体の一部
(脳)しか知覚していないけれど
本当は「霊魂と繋がる私」の意識は非個人的意識・大生命と繋がっているのだ・・と。
だからそれを信じなさい!!と。
従って私達である「霊魂と繋がる私」は大生命・非個人的意識と決して分離しておらず
繋がっているのだが、しかしながら現実ではこの私達である「霊魂と繋がる私」は
肉体の脳と繋がり、その肉体の脳が受信する受動思考だけを自分自身の意識だと錯覚し
ているのだ・と。・・なぜなら私達は眠っていて人生に流されてしまっており、正しい
修行「自己観察」をしていないからだ・・・と。
過去を思いだして、恨んだり、反省したり、悔やんだりしているのは、脳が受信した
記憶からの受動思考であって、決して「魂と繋がる私」の本体の意識ではない、・・と。
その意識ではない受動思考は過去に縛られ、その過去から未来を投影して悩み苦しみ、
計画したり、推測し、将来に思いを馳せて喜怒哀楽しているのだと。
そしてその思考、即ち受動思考が思う現在のことを、私達は「今」と勘違いしている。
「今」とは、その受動思考を受動思考であると観察している観照者の意識のことであると。
「今」とは、霊魂の意識の事である。即ち非個人的な意識の事である・・と。
起こっている肉体やその行為や思考に寄り添い、その受動思考を観察していることこそ
が「今ここにある」という事。・・即ち「今此処あるがまま」にあると言うこと・・だと。
思考に巻き込まれずに魂の私としてその起こっている思考や行為や肉体を静かに観照し
凝視していることが「今此処に在る」と言うことだ・・と。
だから「今此処に在る」と言うことは、魂である観照者であると。
それは「思考即ち思考者を観察していること」に他ならない・・と。
それはあたかも虫籠のなかの昆虫を観察しているように自己を凝視するのだ・・。
だから「今此処」を覆っている「私を詐称する思考」に気が付きなさい。と。
その私を詐称する思考とは過去と未来を思考している脳が受信した想念の記憶に
過ぎないのだ・・と。
だからこそ
その記憶の反応である「人格の私」の目で以て、自分や他人を見るのではなくて
自分や他人のことを魂の目で以てみようとワークすることが大切なワークなのである・・と。
自分や他人の事を「ロボットであり、お役目」として生きている人格の目からではなくて
「魂と繋がる私」が意識を拡張しようと努力し魂からの目で持って自分や相手のことをみること
が非常に大切なのである。と。
だからこそ
現実のこの生活こそがこのことを信じて実行する修行の場であって、
未熟な私達が神を見ない間はその神の演技であるお役目の私「我の私」は無くならない
ことだろう、と。
そしてその人格の私、記憶の私が自分の意識から消滅しなかったら、神を見ること
はないだろう。と。
その真実の高次の知覚が産まれたとき元々そこに在った「霊魂と繋がる私」が目を
醒ましたのだと。
賢者達が言うこの人格の私、記憶の私が自分の意識から消滅しなかったら、
賢者が言う「行為は起こっている」「思考は起こっている」「私はあなた」「あなたは私」
などという超高次な知覚を理解することは決してないだろう。
だから注意すべきは、その理解がないのに
「行為は起こっている」「思考は起こっている」「私はあなた」「あなたは私」などと言うことは
嘘をつくことであり、体験もしていないのに理解もしていないのに、知覚もしていないのに
そのように真理を語ることで、
虚偽・害悪を自分と他人にもたらすことになるだろう・・と。