非常に無責任な話しなのですが
近頃フト思ったりします・・「この私」は私なのだろうか?・・と
それとも「この私」とは創造されたもので、創造した根源によって生きられている生き物
(映像・ロボット)なのではないのか?!と
この愛のない私、欲(ヨク)しかない私、人を見下す私、自分を肉体だと実感して病気に
クヨクヨし、さい悩まされ、お金のことで一喜一憂し、今後の事に不安や心配や恐怖で一杯
のこの私はひょっとしたら・・私ではなくて・・神の演技・・神のロボット・・神のAI・・。
この私とは肉体や脳を創った「創造主」が演技しているものなので私にはどうすることも出来ない
のではないのか!!
この私の持っている特性の事を漠然と天与の才能とかギフテッドとか障害「カルマ」とかいったり
また、歌の文句ではありませんが「こんな私に誰がした」とか、運命だとかいいますが
私が思うに、「この私」自体、これを書いている私も含めてこの私とは
自分自身や私のものではなくて・・演じられているもの、結果である神のロボット、
「私とは創造主によって演じられている現象であり、それを良くしたりいじくったり
変えたりしたりすることは、創造され演じられている当のロボットには出来ない。
それは即ち私を変える事が出来るのは、私を創造し演じている創造主にしか出来ない」
ということでありましょう。
私には私をどうすることも出来ないのです。
私には私の思いや欲望や行為をどうすることも出来ないのです。
何故ならば
私とは私のものではないからです。
私とは神のロボットだからです。
ロボットには自由意志など始めからないし、行為の自由もないのです。
私は「この私」を自分だと思い、私を良くしようと色々考えたり、いろいろ
「この私」に対してアプローチして、努力しているのですけれども
このアプローチして、努力している当のこの私こそ自分ではどうすることも
出来ない神のロボットなのです。
この「この私」が持つ性格も、性向も、障害も、特性も、才能も、行動も
自尊心も私ではない「創造主」が演じ生きておられるのではないでしょうか?!
私には「この私」はどうしようもできない「結果」なのであり、
私には変えることも、タッチすることも出来ないのが「この私」なのではないで
しょうか。
「この私」即ち私とは・・受け容れるしかないのではないのか?
・・と思う様になってきました。
肉体や脳は、勿論私のものではなく創造主のものです。
肉体や脳を生かし使っておられる方も私ではなくて創造主です。
これは誰でも常識という毒から解放された視点で見れば了解されます。
ですからこの私も肉体や脳と同じく神のものなのです。
私は肉体や脳と同じように「この私」人格とは自分ではどうすることも出来ない
起こっている結果なのでありましょう。
ですからこの私、それは勿論自分では変えることもコントロールすることもタッ
チすることも一切全く出来ない神聖なる神の演技なのではないのか??!!
と思う様になってきました。
肉体も含めて、考えることも、感じる事も、思うことも、行うことも
そして自分の人生そのものも変えることやコントロールすること、タッチ
することの出来ない神聖なる神の演技なのではないのか??!!
私とは神の映像、神のロボットなのではないのか??!!
・・と思う様になってきました。
では、そう思っている私とはどの私なのかは、それはこの霊的諸体が形成され
ていない未熟な「霊魂と繋がる私」には分かりません。
この「霊魂と繋がる私」は未熟で眼は開いていないので見ることが出来ないから
です。
私達は自我に対する何の支配権も持っていません。
なぜならこの私こそが自我だからです。
ですので、私は私に対して何の支配権もなく、私は自分を変えることは
出来ないのです。
この私・自我とは神のリーラ(演技)なのでありましょうから。
兎も角、
どの国に、どのような環境で、どのような障害や才能を持ち、どのような
性格で産まれ育つのかなど「この私」には選択できませんし、コントロール
など一切出来ません。すべては結果であり、神によって演じられているのですから。
細胞の増殖や、維持や境遇や運命や病気や生死そしてオートファジーなど私
にはコントロール管轄外です。
心臓や呼吸や内臓や神経など一切を含めて、肉体の成長や消化吸収などの生存機能
を含めて肉体は自分のものではないように、「この私」自身、思考し行為している私
・・怒ったり、悲しんだり、喜んだり、努力したりしているこの嫉妬深く傲慢な「こ
の私」とは私のものではなく、創造主の演技の様に思えたりしてきました。
ですから自分に関して何も心配することなどないのです。何も自由意志ですることなど
ないからです。自分がどうであれ、自分に何が起こっても何も心配などすることはありません。
この私、この自分自身が神の演じているロボットだからです。
私には私を変えたり良くしたりすることは出来ません。私は私のものではないからです。
実際の所、その心配したりしなかったりすること自体が、自分ではコントロール出来ない
起こっている結果であるからです。
では先ほども言いましたが
この神の演技を観ている私即ち霊的諸体から構成されている「魂と繋がる私」は一体どう
なっているのでしょうか?
それを語ることは久保栄治にはできません
何故なら「霊魂と繋がる私」としてその霊魂が持つ霊的諸体(サイコノエティック体)が
久保栄治は再形成されていないので、
それら霊的諸体が持つ高次思考や高次感情、高次能力を使う事が出来ないからです。
この「霊魂と繋がる私」としての久保栄治は眠ったままであり、現況では脳とは繋がり、
お臍付近の過去の人格群には潜在意識を通じて繋がっていますが、高次霊的諸体の繋が
りが意識化されておらず(その高級諸体・高次チャクラとのパイプが塞がっているので)
高次霊的諸体・高次チャクラの意識が「霊魂と繋がる私」には意識されていないのです。
だからこそ
この「霊魂と繋がる私」は眠ったままであるので、
肉体を私だと実感している脳の感覚しか知覚出来ず
私は肉体であり、私が行為者だと思うのでありましょう。
ラーマクリシュナはいいます
「この肉体の感覚知覚」が失われない限りはブラフマンの知覚知識は得られません」
「私は肉体であり、私は行為者であると思うことが苦しみなのです。
この自分が行為しているという感覚知覚からあらゆる苦しみと不幸が生じてきます」
「肉体の意識が消えなかったらブラフマンの明知を持つことは出来ません。
神を見ない間は”我”はなくなりません」