全託する

2025/08/19(火)
全託とは?

全託とは愛に私を捧げること。
全託とは天地一切に感謝の誠を捧げ、愛を捧げること。
全託とは愛と感謝に自分を捧げること。

それは自分に愛があるからでも、自分が感謝しているからではない。
それは全託ではない。

自分に愛があっても無くても、ただただ愛を与えること。
自分が感謝できるから感謝するのでもない。
それは愛に対する全託ではない。
それは感謝に対する全託ではない。
それは取引に過ぎない。

天地一切のものに、・・それは自分も含めるが・・・自分がどうあれ・・
自分には愛があっても無くても愛を捧げ感謝を捧げること。
その自分が低次の私でも、その私が私が想像する未知なる高次の私でも・・。
天地一歳に感謝し、
天地一歳に愛を捧げる。

「汝の敵を愛せよ」と
キリストは教えておられる。

敵とは誰なのか??
・・それは自分自身ではないのか!
相手という鏡に映っている姿は自分の姿ではないのか!

キリストは言われる
「愛しなさい、汝の敵を愛しなさい、そうすれば愛することが出来る
その愛が与えられる」と。
そして愛に全託することによって愛が姿を顕して下さることだろうと。

そして愛に出会うという光栄が訪れるのかも知れない。
さらに愛とは何であるのかの理解がやってくることだろう。

だから、自分に愛があるから私は愛するのではない。
それは愛ではない。
私には、この私には愛が無いことは分かっている・・。
愛とは私を含まないからだ。
愛のない私が愛するから、愛することが出来る愛が与えられるのである。

自分に愛があるので愛を与えるということは、それは決して全託ではない。
それは取引と同じだ。それは私を増大させエゴを強める。

私には愛が無いけれども愛を与えることで、私は愛に全託し、私は消滅し、
愛に身を捧げることができるのではないか。
自分を高次の私と低次の私に分けること自体が思考の仕業ではないのか!

愛は愛があるから愛するのではなくて
愛する為に、愛に全託し、愛に身を捧げ、天地一切のものへ愛を与えるのだ。

感謝は同じく、感謝心があるから感謝するのではなく
私には感謝心があってもなくても感謝に身を捧げ
天地一切の者に感謝するのだ。
自分の感謝心の有無に拘わらず、天地一切のものに感謝するのだ。
感謝心に身を捧げ、感謝に自分の全てを全託する。


自分に愛と感謝があるから愛したり感謝したりすることとは、それは全託
ではない。
それは取引であり、愛と感謝に身を捧げることではない。

この自分には愛が無い、と、思っているのは誰か?
この自分には感謝心がない、と、思っているのは誰か?
私は愛と感謝にこの身を捧げる。

その愛がないと思っている私と、感謝が無い私には決して、波長を合
わせたり同一化してはならない。

自分が自分と同一化してはならない。
自分が自分を愛するのだ。
生命が呼吸しているのに自分が呼吸していると錯覚する私と同一化しては
ならない。
生命が心臓を動かしているのに自分が心臓を動かしていると思い違いして
いる私と同一化してはならない。
脳は脳を創られた方のものであるのに、脳は自分の脳であり、自分が脳を
動かしていると思い違いしている私と同一化してはならない。
生命が意識であるのに意識は私が創造して自分が意識していると勘違いし
てはならない。
この宇宙最高傑作の肉体を自分の肉体だと思い違いしてはならない。
自分も脳も呼吸も意識もそれは根源のもので根源が使っておられるのだ。

その愛と感謝のない私が愛と感謝に全託し、わたしのこの身を捧げ
自分と天地一切のものへ愛と感謝を捧げるのである。

愛するとは、愛があるから愛するのではない。
感謝できるから感謝するのではない。

自分には愛が無いからこそ愛の中へ身を捧げるのだ。
天地一切の者に愛を捧げ、愛に全託しよう。

私には感謝がないからこそ感謝の中へ身を捧げ
天地一切の者に感謝しよう。


それが愛と感謝に全託することなのではないだろうか。

・・とそう思うこの頃である。


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