では、苦しみの本性、本質とは何か?
そのさまざまなかたちではなく、その本質は何か?
苦しみの本質とは何か?
それは、その瞬間における、
まったく自己中心的な存在の全面的な表現ではないだろうか。
それは〈私〉の精髄(エッセンス)である。
自我(エゴ)、個人、限定され、囲まれ、反抗している存在、
つまり〈私〉と呼ばれている存在の精髄である。
理解と洞察を要する出来事が起こるとき、その〈私〉の精髄が苦しみのもとである。
もし〈私〉がまったく存在しなかったら、苦しみがあるだろうか?
その人は、人を助けたり、あらゆる種類の事をするだろうが、苦しむことはあるまい。
苦しみは〈私〉の表現である。
そのなかには自己憐憫がある。
逃げようとしたり、すでに去った他者と共に居ようとする孤独がある。
そして、そのなかにはその他のすべてが含まれている。
苦しみは〈私〉そのもの、すなわちイメージ、知識、過去の記憶である。」
(※クリシュナムルティーは始めに自己観察があり、そして自己想起が
続くと教えておられる)
「否定を通して肯定的なものが現れる。
「否定を通して」とはつまりこういうことである―
「快楽は愛か?」と快楽を検討し、それはそうではない、
すなわち快楽には快楽の役割があるがそれは愛ではないと知って、あなたはそれを否定する。
あなたは、記憶は必要なものだが、愛は記憶ではないと知る。
そこで、記憶をそのしかるべきところに収める。
したがってあなたは、記憶を愛でないものとして否定したことになる。
欲望にも一定の役割があるけれども、あなたは欲望を否定する。
だから否定を通して肯定的なものがある。
しかし、われわれは逆に、肯定的なものを先に置いて、それから否定的なもののなかに陥る。
まず、疑うこと、徹底的に疑うことから始めなければならない。
そうすれば最後には確実性に至る。
しかし確実性から始めたら、最後には不確実性や混沌に至る。
だからこそ、否定から肯定的なものが生まれる。」
(※クリシュナムルティーは始めに自己観察があり、そして自己想起が
それに続くと教えておられる。
先ず始めに「虚偽を虚偽と見よ」そして「虚偽の中に真理を見よ」
「真理を真理と観よ」ということであろう。
このクリシュナムルティーの道は、ハウツーものに慣れている我々には
とても難しい、この道は非常に鋭敏で高度な哲学的知性を最初に求め
られるからである。)