恐怖が起こった後に記憶が「私は恐怖している」と出現する・・クリシュナムルティー

2025/08/16(土)
恐怖が起こった後に

記憶が「私は恐怖している」

と「私」が出現する

・・クリシュナムルティー

これは現代の最新の大脳生理学の結論と同じである。

即ち行為とは「未知なる行為の主体・源泉」から脳を通じて指令が神経を
経由して筋肉や骨や靱帯に伝わり実行されるが

その指令の直後に肉体に共存している記憶による「行為の意志」「自由意志」が
発生している。

これはクリシュナムルティーがいう「行為者はいない行為は起こっているだけだ」

と完全に一致している。行為は記憶による自由意志が実行しているのではなくて

脳を通じて起こっているのにそれを記憶は私が行為したと錯覚している・・と言うことである。



クリシュナムルティーは言う

「恐怖があるとき(恐怖が沸き起こるとき)、そこには私はいない。

だが一瞬後に

思考が(記憶が)私を創りだし

「私は恐れている」「私は怖がっている」と

私が生じて

さらにその恐怖から逃避しようとする。

だから、人が恐怖し、それから逃げたり、恐れたり、闘っている限りは

その恐怖を正当化し恐怖に活力を与え続けていることになっている。

実際には恐怖が沸き起こるとき、そこには私はいない。

だが一瞬後に思考(記憶)が私を創りだし

恐怖から逃げようと藻掻くのである。

だから

先ず始めに恐怖があって

しかる後に

恐れるべき私ではない私が出てくる。

その分裂が葛藤を生むのである。

だから、恐怖が沸き起こっても

それに目をとどめる者がなく

その恐怖を観察し知覚認識している観察者と

観察される恐怖との分裂がないとき

その恐怖は花開いて

そして萎む。

さながら一輪の花のように

それは花が咲き

そして枯れ

消え去る・・・。

では、苦しみの本性、本質とは何か?

そのさまざまなかたちではなく、その本質は何か?

苦しみの本質とは何か?

それは、その瞬間における、

まったく自己中心的な存在の全面的な表現ではないだろうか。

それは〈私〉の精髄(エッセンス)である。

自我(エゴ)、個人、限定され、囲まれ、反抗している存在、

つまり〈私〉と呼ばれている存在の精髄である。

理解と洞察を要する出来事が起こるとき、その〈私〉の精髄が苦しみのもとである。

もし〈私〉がまったく存在しなかったら、苦しみがあるだろうか?

その人は、人を助けたり、あらゆる種類の事をするだろうが、苦しむことはあるまい。

苦しみは〈私〉の表現である。

そのなかには自己憐憫がある。

逃げようとしたり、すでに去った他者と共に居ようとする孤独がある。

そして、そのなかにはその他のすべてが含まれている。

苦しみは〈私〉そのもの、すなわちイメージ、知識、過去の記憶である。」

(※クリシュナムルティーは始めに自己観察があり、そして自己想起が

続くと教えておられる)


「否定を通して肯定的なものが現れる。

「否定を通して」とはつまりこういうことである―

「快楽は愛か?」と快楽を検討し、それはそうではない、

すなわち快楽には快楽の役割があるがそれは愛ではないと知って、あなたはそれを否定する。

あなたは、記憶は必要なものだが、愛は記憶ではないと知る。

そこで、記憶をそのしかるべきところに収める。

したがってあなたは、記憶を愛でないものとして否定したことになる。

欲望にも一定の役割があるけれども、あなたは欲望を否定する。

だから否定を通して肯定的なものがある。

しかし、われわれは逆に、肯定的なものを先に置いて、それから否定的なもののなかに陥る。

まず、疑うこと、徹底的に疑うことから始めなければならない。

そうすれば最後には確実性に至る。

しかし確実性から始めたら、最後には不確実性や混沌に至る。

だからこそ、否定から肯定的なものが生まれる。」

 

(※クリシュナムルティーは始めに自己観察があり、そして自己想起が

それに続くと教えておられる。

先ず始めに「虚偽を虚偽と見よ」そして「虚偽の中に真理を見よ」

「真理を真理と観よ」ということであろう。


このクリシュナムルティーの道は、ハウツーものに慣れている我々には

とても難しい、この道は非常に鋭敏で高度な哲学的知性を最初に求め

られるからである。)

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