ダスカロスは言います
神は私たちを創造してはいません。私たちは創造物ではないのです、
私たちは彼(神)なのです。
私たちは彼の延長体(神の子/ぶどうの木の枝)なのです。
彼はジョージやマリーというパーソナリティー、そして肉体やサイキカル体
やノエディカル体を創造したのです。
神は私たちを創造してはいません。私たちは創造物ではないのです。私たち
は彼なのです。
私たちは彼の延長体(神の子/ぶどうの木の枝)なのです。
彼はジョージやマリーというパーソナリティー、そして肉体やサイキカル体
やノエディカル体を創造したのです。
しかし、真実において私たちが誰であるかを理解するために、
私たちは体外離脱により肉体の外へ出て行かなくてはなりません。
そうすれば、私たち自身がサイキカル体の中に存在していることに気づき、
サイキカル体としての力を得ることになります。
それは肉体の力と比較すればほとんど無限の力に感じることでしょう。
私たちの肉体や他の体(いわゆる、サイキカル体やノエティカル体)は
私たちの真実の自己ではないことを証明してくれました。
あなたの自己意識を空間に拡大することです!
しかし、これには炎で焼かれるような〝通過条件〟があります。
肉体の中に自己意識を開花させなくてはなりません。
その次に、私たちのサイキカル体を適切な状態にしてから、その中に自己
意識を花開かすことができます。
それから、ノエティカル体を形づくることになります。そうすると、思考を
コントロールできるようになり、思考のマスターになることができます。
そうすると、私たちは「魂-自己意識」をもっと開花させることができ、
私たちの神聖なる力を現すことができるのです。
現在のパーソナリティーとしていろいろな不徳な行為や弱さや愚かさがある
にしても、私たちは全能者の子であり、肉体の中で生きることが許されてい
るのです。
そのため、大天使たちはその体を良い状態に維持するために常に働き続けて
いるのです。あなたのすべての体の健康を保ってくれている彼らに感謝しま
しょう。そして、彼らに協力しましょう。今この瞬間、聖なる大天使たちが
あなたの体の中で働いてくれています。
(※このダスカロスの解説は非常に難解です。
ダスカロスはここで私達は神そのものであり、意識であって、神が演じられておられる個人・
パーソナリティーや肉体や幽体や霊体ではなく「魂-自己意識(I AM)」であります、と
教えておられます・・これはアドヴァイタやシャンカラの教えと全く同じです。只使う言葉と
その言い回しが言語によって少々異なっているだけです)
(※アドヴァイタ系の賢者達や禅宗の教えと、このダスカロスのような密教や神智学の教
えとは、同じ山頂(真我)からの教えであっても登り口が異なり、真我に至る方法論、
アプローチが異なっています。それはどちらが上とか、どちらが良いとかそういう問題で
はないです。ただ何故クリシュナムルティーが神智学協会から出てきたのかは一つの
ヒントではありましょう。それはクリシュナムルティーの教えは地球の一般的で常識的
で真我に関心がない大衆の人々ではなくて神智学をマスターした上級者に対してである
ということです。このクリシュナムルティーの教えは非常に高度な意味で「自己観察と
自己想起」による本体の私に戻る修行方法です。
このアドヴァイタ系の賢者達や禅宗の教えは、「霊魂と繋がる私」(コーザル体)による
ワークであり、それは自分自身である永遠のパーソナリティー(目撃者・観照者)に
意識の焦点を合わせ自分自身が何時如何なる時でも観照者として在ることです。
要するに私達は意識であり、神であるのに、起こっている肉体や、演じられている
個人パーソナリティーや霊的諸体(まだそれすら意識化されていませんが)と
同一化してしまっている!と。
このアドヴァイタ系の賢者達や禅宗の教えでは
思考や行為や成功や失敗、そして現実世界の病気や死、戦争や災難、そして自我による
苦しみ恐怖など、さらにそれを知覚する私達現在のパーソナリティーである自己や他者も意識
の鏡に去来している映像と捉えているのに対してダスカロスのような密教や神智学の教えは
大慈悲大慈愛の大天使や菩薩から見ているアプローチであり、「霊魂と繋がる私」による五正行
《但しこれは記憶の反応である現在のパーソナリティーによる受動思考や受動行為ではない》
ここでは受動思考ではない能動思考による思考や行為を重視しているように感じられます。
従ってこの教えでは焦点が現象世界に対する救済に、カルマの範疇にある転生現象世界での
苦しみ藻掻いている私達「霊魂と繋がる私」の救済に重点が置かれています。
がしかし、これはどちらが上とか下ではなく、どのレベルの人達を対象にその教えが説かれている
のかによる違いなのであると思います。
肉体を自分自身と思って疑わない幼稚園児である私達地球人、起こっている受動思考を自分の
思考と取り違え、記憶が起こしている受動行為を自分が行為していると知覚してしまっている
地球人にとっては、この「魂と繋がる私」からの能動思考や能動行為を推奨する教えは
病気や不幸や災難や苦しみからの救いであり、心や肉体の病気、経済問題が解決することは
実際問題として有り難い限りです。
これに対して
アドヴァイタでは自己想起(「魂と繋がる私・永遠の原子」によるワーク)を通じての神の子
である私達、真我霊魂への回帰の方法論として自己観察と自己想起を重要な基軸として修練し
神の子である私達の現象界での接点である永遠のパーソナリティー観照者・目撃者に意識を照
射し常時留まることを最重要ワークとして、厳しく専門的に多くを語っています。(一見すると
優しく簡単に感じられますが)
私達は同じ神の子、仏の子であってもアドヴァイタやタオや禅と、エレブナ・ダスカロスなど密教
ではアプローチの方法が異なるのです。
その最大の異なる点は「思考者はいない、思考は起こっている」、「行為者はいない行為は起こっている」
という教えに力点が置かれているのかいないのかという点であります。
実際の所、思考には記憶からの反応である受動思考と、「迷える神の子羊」であり本来は意識である
が未発達な私達・未熟な意識からの能動思考があります。
ここでいうクリシュナムルティーの指す思考とは条件付けられている脳が受信した想念の記憶を指
しており、また地球人が一般的に思考と言う場合は、この受動思考を指していますが、
エレブナや仏教で言う所の五正行とは受動思考や受動行為のことではなくて意識から
能動思考、能動行為を指すのでありましょう。
更に私達の本体である霊魂からの高次思考や高次行為もありますが私にはそれを言う
資格はありません・・私には起こっていないからです。)