ラマナ・マハリシによって覚醒したプンジャジは以下の様に教えておられます。
行為している私はいない、行為が起こっているだけだ・・・プンジャジ
地球にはそれぞれの意識段階や次元に相応した教えや哲学や宗教があって、
夫々のその人の意識段階・次元に対応し、その次元にフィットした教えや
哲学や宗教があります。が
このラマナ・マハリシやプンジャジ達の教えは不二一元哲学とも言われていて
老子などと同じく私達のいる段階の次元では理解することが極度に難しい高次元
からの教えです。
またそれらの高次元からの高度な教えであっても、心理学的に解説している教えや
解剖学的に説明する教え、実践を主に説く教えもあり、何処が何処より正しいとか
高度であるのかを言うのは難しいです。
このプンジャジはクリシュナムルティー達と同じく、どちらかというと主に知性を使っ
て真理に接近していく方法であります。
以下のプンジャジの言葉は久保栄治の意訳であり、感想でもあります。
プンジャジの言葉を理解するためには
大前提として常時、自己観察と自己想起を実践していることが必須条件
でありましょう。私はAIのように知識として知ってはいても分かっていません。
(以下はプンジャジに対する私の意訳・私見・推測です)
■行為者即ち行為をしている人は誰もいない。私が行為しているのではない。
行為とは起こっているだけだ。
〈・・これを聞いて、一体何を言っているのか理解に苦しみますが〉
では行為者がいないとは何のことでしょうか?
それは正しい自己観察の実践によって何を言っているのかが判明すること。
「自分が行為していると思っているこの私」のことを観照している私の方が
私なのであって、
その観照者の私がこの「自分が行為していると思っている私自己」のこと
を観たとき、その「自分が行為していると錯覚してる自己」は実は「潜在
意識にある記憶」のことであって、記憶は行為の主体ではありません。
さてここでそのことを知るために自己観察を行います。
自己観察とは頭頂から上に数センチ離れた空間に意識を置き、そこから私
の事を観ることで、自己想起とはその観ている意識に「魂と繋がる私」からの
意識(能動思考)を照射することです。
そして、その空間意識から改めて行為を見た場合
どの私も、あなたも私も行為をしていないのです!・・となります。
行為とは根源から脳神経を通じて起こっている・・となります。
行為とは脳と肉体の中での超複雑な過程、連携作業を経て起こっているのです!
ですから行為はこの34兆の細胞を一つの狂いもなく起こしている根源だけが
行為を起こすことができているのです!
行為は根源が脳を通じて為しているのです。・・といえます。
しかし、自分が行為を意志し決定したと錯覚する「記憶の私」は行為は自分
が為たと実感していますが、
実際には行為とは《脳からの行為の指令・指示》で為されています。
行為は脳によって為されており「記憶の私」は行為していないのです。
が、なのに記憶の私は脳と直結しており起こっている行為を自分が為たと錯
覚しています。
脳に届いている行為の指示は根源から起きています。
行為は思考や呼吸と同じく脳を通じて行われているのです。
自己観察を実践しているときには、魂と繋がる主体はこの「自分が行為をしてい
ると思っている記憶・私」を観照している観照者・空間に一部が移行しています。
ですから
視座・知覚が今までは脳とだけ繋がっていたハートにいる私が空間にも移行し
たのです。
ですから、この「行為者はいない行為は起こっているだけだ」という言葉を理
解したときの視点は脳や太陽神経叢にある記憶の
視点・知覚ではなくて、
意識の視点・視座が空間へと移動したので
空間からの意識の視点・視座でありその知覚認識となるのでありましょう。
空間からの観照者が行為を観るならば、行為はこの「記憶の反応で
ある私」は行っていないのです。誰も行為はしていないのです。
行為は根源から起こっているのでありましょう。
空間にいる観照者から見れば誰も行為していないのです。行為は起こっ
ているのです。(それはハートにいる「霊魂と繋がる私」が今までは脳とだけ
繋がっていたのが空間にいる霊魂とも繋がって自己観察しているからなのです)
行為は源泉が脳を通じて、その個体(私やあなた)に実行されています。
従って、その自己の観照者がこの現在の私である「私が私だと思っている自己」
を観たとき
この一般的に私だと思われている私とは脳を経由した記憶の反応であって
主体ではないことが判明します。
それは「記憶情報場フィールド」です。地球を取り囲む私という観念の「想念帯」。
その意識ではない「意識の座に去来している記憶の反応」が「私は自分だ」「自分
が思考し行為しているのだ」と思っているわけです。
行為とは「脳が起こしている行為」なのに「私が行為している」とこの潜在
意識にいる記憶(即ちこの分離している自分)が錯覚してしまっている
ということなのでありましょうか。
実際はその「自分が行為している」と錯覚している記憶の反応の私が
行為しているのではなくて行為は脳を通じてそれらの源泉である根源
から起こっているというのです。
■私達は自分の思考の主人ではない。思考(自分)はやってきて去るのである。
私達は私という観念=思考ではなくて空・意識なのだと。
■「魂と繋がる私」が思考を観察している存在(観照者)へと意識が拡張し
ていくとき、
その「魂と繋がる私」は思考はただ「記憶情報場フィールド」から起こ
っていることにすぎないことを理解する。
そのことを知覚認識をしている「魂と繋がる私」は今までは脳(「記憶
情報場フィールド」)とだけ繋がっていたのだが頭上にいる魂(観照者)
とも繋がりを回復したことを確信するのだ。
■自己観察の状態とは自分を一つ上の次元から見ている意識状態であって
行為は起こっているが行為している行為者はいないと気づいている。
思考は起こっているが思考している思考者はいないと気づいている。その時
主体の意識の拡張、転換に伴って次元が異なる知覚認識が起こっており、
思考を思考だと観察している意識が出現している。
それは「魂と繋がる私」が頭上の霊魂(時空を超えた意識)との繋がりを
回復したのだ。
この現在のパーソナリティー(自我・思考)を観察している主体が私(
意識)であって、この私は即ち徐々に成長した「魂と繋がる私」である。
観察されている私とは、起こっている「記憶の反応」なのであって主体
ではない。
・・・という事が自己観察によって判明する。
■従って自己を観察している私とは
脳に去来している感情や思考や、脳が起こしている思考や行為ではない。
それらの起こっている思考や感情や行為を見ている意識だ。
主体であるわたしはその記憶の反応という私を観察している意識・空だ。
■人生は私の意志や自由意志とは関係なく勝手に展開していく。
思考や感情や行為やそして自我は「魂と繋がる私」の意識や能動思考とは
関係なく勝手に展開していく。
私達が自分の人生をコントロールしていると思っているのは只の錯覚である。
呼吸も心臓も、脳も、思考も、知覚も行為も、自由意志も、この自分自身さえも
私が起こしているのではない。あなたも私もそして誰ものの思考や行為も
私が起こしているのではなくて、意識の中にやってきて起こっているものなのだ。
■自由意志を持って生きている私は存在しない。
自由意志も、そして自分の自由意志だと錯覚する記憶の私も存在していない。
自由意志を持って生きている私など存在していないからである。
だから正確に言えば
あなたも私も生まれておらず、従って死ぬこともない。
そもそもがこの私・自分は存在していないのだから。
■あなたという個人、あなたや私という個人は存在していない。
従って、個人には不安や恐怖や欲望はコントロール出来ない。それらは
単に沸き起こり、そして去るだけなのだから。
■何かに到達したり、自己実現する私はいない。何かになる私はいない。
「霊魂と繋がる私」は実は既に自他に分離の無い霊魂なのだから。
何かをしている私はいない。私やあなたも含めて、只、この瞬間の出
来事だけが起こっているのである。
私はいない。私は存在していない。無我が私だ。
■私が生まれて、私が私の人生を生きていて、私が自分の人生を動かし
ている・・という、この思い込みが間違いであり、
それが、あらゆる緊張と不安、恐怖を生み出している。
何が起こっても大丈夫!・・映画を観ているだけなのだから・・。
■起こることは起こるように起こる。
あなたや私にはそれを止めたり、それに参加することは出来ない。
あなたや私には思考や感情や行為を止めたり、それに参加することは
出来ない。
あなたはその起こっている事を観ている観照者であるからだ。
■起こっている思考に意識を照射すること。
目が覚めるとは、思考したり行為したりしている私自己が存在していない事に
気が付くことである。
私は無我であることに気がつくことである。
私が霊魂と繋がっていることに覚醒するとは、行為は肉体を通じて起こって
おり、そこには行為している者が誰もいないことに気が付くことである。
これは行為とはただ起きているのであり、そこには行為している人はいな
いことを見ている自己観察の意識状態である。
自己観察それは無我が目を醒ました意識状態なのだ。
■思考を所有できないし、思考をコントロール出来ない。
行為はコントロール出来ない。
・・それらは意識に起こっているものであるからだ。
自己も恐怖も不安も所有も単に起こっておりコントロールは出来ない。
自己も行為も欲望も思考もコントロールや非難の対象にはならない・・
それらは全てが来ては去って行くものだから。
わたしはいない、私は思考していない、私は何も行為していない。
思考も行為もそして私もただただ起こっている事を
観ることです。
・・と実感できるように私はなりたい。