虚偽を虚偽と見
虚偽の中に真理を見
真理を真理と観よ
・・クリシュナムルティー
以下は私久保栄治が思い考えた推測であってあくまで信じていることです。
(私の現在の境地ではないので間違いないで下さい)
「虚偽を虚偽と見る」とは何だろうか?
それは、
虚偽を虚偽と見ている目は虚偽ではない・その目とは自他に分離していない意識である・・
ということだろう。
ではその虚偽とは何か?
私達は「霊魂と繋がる私」であり、神の子であるのにそのことを受動思考と一体化しているため、
知覚認識できないでいる。
私達は高次の霊的思考体感情体が再形成されていないので思うこと感じる事は全てが脳からの受動思考
なのだ、
そして、その脳が受信している受動思考の思考や欲望や行為を「自分が思考し欲望し行為している」
と思っている。
そしてそう思い込み信じることで私達「霊魂と繋がる私」はカルマを生み出している。
受動思考とは自我のことだ。
自我が、「私は私だ」と詐称している。自他が分離していると思っている。
そして「霊魂と繋がる私」はその自我を自分自身だと錯覚している。
繰り返すが、自我の私、それは脳が受信している受動思考のことである。
決して「霊魂と繋がる私」の能動思考ではない。まして高次思考なのではない。
ではその受動思考とは何だろうか?
それは「霊魂と繋がる私」が入った肉体及び脳が受信している思考のこと。
その受動思考とは私の思考ではなく私達が自分の思考だと勘違いしている思考のこと。
この間違い、嘘、受動思考である自我が起こしている「私は私だ」という虚偽を虚偽と見ること。
私は受動思考ではなく「霊魂と繋がる私」であり、自他の区別のない普遍的な意識なのだ。
私達は無我であり、個ではなく自他に分離しておらずインパーソナルの意識そのものなのだ。
意識である私はあなたと分離しておらず、私はあなたなのに、私はあなたではないと錯覚し
ている受動思考のこの虚偽を虚偽と見ること。
目の前の相手とは私自身なのに相手とは自分自身ではないと錯覚している受動思考の嘘を嘘だと
見ること。
私は個人ではなく肉体でもない地球で一つで一体の意識なのに自分を個人で、自分は肉体だと
錯覚している、そして「相手も肉体で自我だと錯覚しているこの受動思考」の虚偽を虚偽と見ること。
だから
私達は、決してこの脳が受信している受動思考を自分自身と同一化してはならない!!
肉体や脳は私のものではなく神のものなのに、肉体や脳を自分のものであると錯覚したり、また
同じく肉体や脳や肉体を使っているのは神なのに、自分が肉体や脳をコントロールしようとして
いるその間違いを間違いと見ること。
「虚偽を虚偽と見ること」だ!!
受動思考は脳に受動的に起こっていて、思考している人はいないのに、私やあなたは自分が
思考していると錯覚している。
・・その虚偽を虚偽と見ること。決してこの受動思考と同一化してはならない!!
行為者はいない・・行為は脳を使って神が為しているのに、肉体に結合した「霊魂と繋がる私」は、
自分が行為していると錯覚していることを見ること。
決して肉体と自己同一化してはならない。
決して受動思考と自己同一化してはならない。
私達は思考ではなく意識であり「思考を観照している意識」なのだ。
生きている主体は私ではなく、神である。行為主体も私ではなく、思考主体も私ではない。
私やあなたが生きているのではなく、神が私やあなたとして生きて演技しておられるのに私やあ
なたは自分が生きていると錯覚していることを見ること。私達は最初の呼吸で肉体と繋がり脳に
束縛されていても「霊魂と繋がる私」であり神の子なのだ。
では「虚偽の中に真理を見よ」とは何だろうか?
それは、全ての人類で同じ
自我を演じている神を神と見ること。
自分が呼吸しているのではなく神が全ての人で息をしていることを見ること。
スクリーンに映る映像(世界・内部・外部)は神が投影していることを見ること。
「私は自分が思考者だと錯覚しているのだ」と気づいているその気づきを見ること。
意識の座(意識のスクリーン)に投射されている映像ではなくてその意識の座(鏡・空)を見ること。
全ての人の中に在る鏡(意識のスクリーン)を鏡(神の子)と見ること。
全ての人の中に、万物の中に、同じ神が生きて呼吸しておられることを見ること。
私達は「我の心」ではなく神の子である、その神を見ること。
私が生きているのではなく神が生きておられることを見ること。
そして
「真理を真理と見る」とは?
それは
私やあなたの中に神を見ること。
神以外に何ものも存在していないことを見ること。
(万物は量子である)
一切万物の中に神を見ること。
私もあなたも同じ神ご自身で在ることを見ること。
神以外に何ものも存在していないという、本当の現実の実相を見ること。
私はこれを自己観察と自己想起だと思うのです。
自己観察を通じて、この無我、真の私を見ることだと・・。