私は私のものではない

2025/06/13(金)
〈フト時々思うこと〉

この私は私のものではない。


誰一人として、この私個人は、この私・個人のものではない!

何故なら私個人とは、私個人が創ったのではないから。

この私を創った方が実在なのだ。
私を私・自分と思っているこの私は「私の主体ではない」のである。
私を私と思っている私とは、脳に生起した思考と行為の記憶なのだ。

肉体は私が創ったのではないので、肉体は私のものではないにもかかわらず
誰もが、肉体を私のものだと思う様に私達個人は創られているのだ。

私この個人的で世界でたった一つの特徴ある性格を持つこの私は私のもの
ではなく、私が創ったのでもない。私は私を創った創造主のものだ。
創造主が私として生きておられるのである。

この個人的私とは源泉によって創られた私だ。私は私の主体ではない。

世界中の全ての人の私という独自の傾向や才能や障害を持った個人、そし
てその個別的な知覚や思考や感情や欲望は私が創ったのではない。
思考や感情や欲望や行為は起こっており、その起こったそれらの記憶が
私と思っている私の正体だ。

それは全人類で異なってる指紋と同じく個人の私とは私が創ったのでは
ないのと同じく、意識や思考や感情や行為は自分の個人的なものだと誰
もが思うように創られているのだ。

私達・個人人格パーソナリティーは創られているのだ・・・・この個性ある
私は私が創ったのでも、私のものでもない。

しかし人類が確定した疑うことのない共通した私という通念は真
実なのであろうか?

実際は全人類の全ての肉体は基本的に同じ細胞であり、脳も同じであり
知覚や認識や欲望や思考や感情も誰もが等しく同じように条件付けられて
創られている。

なのに人類は自分を肉体と同一視して「私は○○国民で○○民族だ」と言
って同じ人間同士で殺し合い戦っている。
土地も地球のものなのに、「此処は我が国だ」と勝手に地球の土地を線引き
してお互いに奪い合っている。

人類は「私は個人で、肉体であり私が自由意志で決定し行為しているのだ」
と誰しもが、その様に思うように創られているのだ。



・・同様に、行為に関しても実際には世界の通念とは全く異なっていて、
行為は私・自己(記憶の自己)が決定するより先に脳からの指令で行われ、
その後に、記憶からの自分の自由意志が発生している。

だから行為は私達が為していると認識する前に根源から起こっているのだ。
まず先に脳から神経を経由して筋肉に行為の指令は起こっていて
その後にその指令に基づき「自分が自分の主体だと錯覚している私・自己
(記憶)」による自由意志による決定が起こり、
私・記憶達は行為は自分の自由意志で決定し行ったのだと錯覚するのだ。

この自分が自分の人生を生きていると錯覚している私達人類の夫々の私、
「個人である私」とは記憶であり、記憶とは私のものではなく、
源泉によって創られたのである。

・・肉体や脳は私が創ったのでもなく、私のものではないように・・
・・私という意識的存在も行為や思考や感情や自由意志も起こっているのだ。

私の心や私の自我、私自身は私が創ったものではない。
私の心や私の自我とは、それを使って神が演じておられるのである。
私が欲望し、私が行為しているのでもない。
私とは単なる記憶であり、実際には存在していない。
だから私はいないのだから、実際には死なない、生まれていないからだ。

私はいないのだから、死ぬことはない、生まれていないからだ。
生まれておらず、生きていないものは死ぬことはない。

ただその自分は肉体であり、自分が行為して、自分が思考していると
錯覚し続けているこの記憶は肉体の死後も冥界や幽界や霊界で生き延びて
いることだろう・・しかしそれは私ではなく単なる記憶に過ぎない。

欲望も思考も脳に起こっているのであって、脳の結果である個人人格
というこの私が起こしているのではない。

この私は、ほんとうは単なる私という観念なのだ。そしてその記憶の反応
なのだ。
(実在している時空を超え自他の分離の無い未知なる私は眠ったままだ)


万物の一切は同じ一つの源泉から創造されたのである。

そしてその万物を創った源泉が夫々として生きて行為し演じておられるのだ。

だから万物一切は同じようなDNA構造、同じ素粒子・量子から成り立っている
被創造物なのである。

私として思考し行為して生きておられるのは神なのである。

神が私として思考し行為し演じておられるのである。
そして此処にいる「時空を超えた神の子」は未だに眠っている状態なのだ。

全ての被創造物というのは「自分は自分であり、自分は個人で自分が思考し
生きて行為している」と、そのように思うように源泉によって(錯覚する
ように)創造されている被造物なのだ。

私が生きているのではない。神が生きておられる。
私が息をしているのではない。神が息しておられる。
私が思考しているのではない。神が思考しておられる。
私が行為しているのでもない。神が行為しておられる。
私がではなくて、私を創った御方が生きて演じておられるのだ。
私はいない。
だから生まれたものではないし、死ぬものでもない。
肉体とはわたしではないからだ。
神が肉体を使って生死を演じておられるのだ。

しかも、それは人間に限らず全ての生き物や動物も同じように
その様に自分が生きて自分が行為しているのだと思うように創られた
被造物なのだ。

「私は神のロボットである」。
「世界中の全ての人は夫々の個性を持った神のロボットだ」。
「神の子の私はこのロボットの私ではない時空を超え、自他の分離の無い
霊魂の私であるけれど現在は眠っている」

「この私・自分はロボット」。
それは世界中の各人の自己自我が全く同じ内容の思考や恐怖を持ち競争し、
地球人類全てが同じように、「私は他と分離している」と思い込むように
創られているのである

殺し、殺され、搾取し、搾取され、支配し、支配され、犯し、犯されている
私は、神の演技である。


それは世界中の全ての個人の自我は全く同じ構造であり、共通で同じものだ。
全人類の自我は同じように「自分は特別で他人とは異なる」と全く同じよう
に実感し思考するように創造されているのだ。
神が自我を使って現象界を演じておられるのである。

この被創造物である私達自我は、全ての人と同じように自分のことだけに
関心があり、暴力的で、利己的であり、愛がまったく無いのである。・・
それは、この私に限ったことではなく人類はまったく同じなのだ。

人類の意識構造は同じであり、一人一人の自我も誰か他人の自我も同じ
一の自我である。その自我こそが神の演技だ。

それは、思考や感情や知覚や認識も同じだ。

他人は自分とは違う意識存在だと知覚認識しそのように思うように創られて
いるのがこの私自分だ。
この私がそのように創られているように人類全ての人の意識も知覚も
同じようにそのように創られているのだ。

世界中の全人類は他の生物と同じように同一の創造者の被創造物である。

だから
世界中の人類は実は同じように思考し、同じように感じ、同じように戦い、
同じように欲望し、同じように行為し、同じように知覚認識している。

世界の全員が全く同じパターンであり、それは同じ私、同じ自我なのである。
世界で同一の自我が私達の自我である。

私達は「私自分は他人とは異なっている」と思い込んでいるが
実は誰しもが同じだ。人類全員は世界で同一の自我で成り立っている。

そしてその自我・私は私が創ったのではなく、根源によって創られた被創造
物だ。
それがこの私達だ。

心は実は世界の万人が同じ心であり、同じように思考し動いているだけで
心とは個人差は無いのだ。

「私は個人で心は他人とは異なっている」と思い込むように創造されている
のだ。

心とはある個体に特有なものではなく、心は個人的なのでもなくて人類全体
世界中の誰もが全く同じの心即ち全く同じの自我・恐怖そのものなのである。

そしてその万人で同一の自我は「自分が呼吸して自分が自分の人生を生き
ているのだ」と、疑うことなく実感している。

地球上の誰一人として例外なく、万人全ての人が「私は私だ」とそのように思
っているのだが
その私とは人類共通で同じ非個人的、人類で共通で同一の私、「私という観
念」であり、その記憶、その輪廻しているその人が記憶なのである。

全人類のすべての私・自我は同一の「私という観念」である。
万人は全てがその同じ私という観念。
私達は人類共通で同一の自我そのものなのである。

世界中の人類全員は実は
皆全員が同じく、私は個人で他の人々と異なっていると思っている私であり、
それをその様に思っているのは人類共通同一の「私という観念」なのだ。

時空を超え、自他の分離を超えた神の子の私は育っていないので眠っている。

実際には神と分離した私など全く存在していないというのである。
自他に分離した私はいないのである。
自他に分離した「私は私だと思っている私」、この世界中の全ての私とは
神の演技なのだ。

実際に存在していて演技しておられるのは、私として生きておられる
創造主・大生命だけである。

地球人の全員が同じく
私は神と分離している私、個性ある輪廻している個人だと思っているのだが
その全員が人類で全く同じの神の機械・神の演技なのである。

実際は源泉である神が個性ある個人として演技し生きておられるのである。
この自他に分離している私は、神の子の私ではなく、神のロボットだ。

その私という観念は人類で同一の同じ恐怖であり、同じ性欲であり、同じ
暴力であり、同じ支配欲であり、同じように思いやりのない、利己的で暴
力的な心、そして絶えず目標を設定し、成ろう、至ろうと努力し、競争す
る私それが「この自我の私自身」なのである。

なので
私達は全く同じ意識内容、全く同じ性欲、全く同じ恐怖、同じ独占欲に
満ちた自我だから
「私はこの肉体だ」「私はこの個人だ」
「自分は個人で、自分が生きており、自分が思考して、自分が行為している」
「私は悟らねば」「私は自己実現しなければ」「私は真我に至らなければ」
「私は努力して良くならなければ」と誰もがその様に錯覚して自分を疑う
ことがないのである。

実際には私はいない。

創造主がいるだけなのだ。

私は創造主の演技なのだ。

演技をしておられる創造主が私として生きておられるのだ。

この創造主の赤児、「時空を超え自他の分離の無い私」は眠ったままなのだ。


イブンアラビーは言う

「ずっと探していたそれは
探していた者が消えたときに現れた」

「何かを得ようとするな
何かに至ろうとするな
それらは本質から遠ざかる事だ
もともと備わっていた本質に気づくこと」



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