正しい自己観察とは何でしょうか?
「それは思考なく、私なく、心なく私を見ること」だと教えられています。
・・と言うことは通常の地球上の常識では思考が私であり、心は私であり、
私は私ですし、私は他の人々とは別人ですから、
思考なく、私なく、心なく見なさいと言うことは、逆説的に言えば、
思考も、私も、心も、私ではないということでありましょう。
だから、人々には知られていない
『思考や私でも心でもない「本当の私」「本当のあなた」』
という自他に分離していない意識でもって、内(自分
自身)と外(対象世界)を見なさい、と言うことでありましょう。
私達が日常で自分の思考や自分自身だと思っている思考や私は、それは
意識の表面に去来している記憶からの受動思考であって、
私達は、その受動思考ではなくて、人類には知られていない自他の分離が
無い意識である。その本当の私からの能動思考や高次思考を私達は使う事
が出来ると賢者達は言っているのです。
では、ここで、この自分のことを私だと確信している私とは何でしょうか?
それはこの私、名前のある個人・人格即ち現在のパーソナリティーの私です。
この思考し行為している私は賢者によって「神の演技」「神の映像」「人格・
個人」どと言われている私であって、その私は「本当の私」「本当のあなた」
ではないと教えられています。
(本当の私はこの思考し行為している私を観照している私だというのです)
本当の私とは、これらの神の映像の私を写し出しているスクリーン若しくは
鏡であり、青空のような自他の分離が無い意識であると教えられています。
意識であり、それらの「思考や行為を写しだしている鏡」である私は、
思考しておらず、行為しておらず、従って私はこの思考し行為している
現在のパーソナリティーではないと言われているのです。
・・これは全く普通の常識では考えられないことです!!・・
本当の私は思考なく、私なく、心なく見ている私即ち「意識」であり、
大空のような非個人的意識であるというのです!!
これは全く常識では考えられないことです!
では、改めてご質問させて頂きますがこの肉体は私でしょうか?
それは勿論、この肉体及び脳は、最高叡智のものであり、「霊魂と繋がる
私(今のところは殆ど眠っているような状態)」が使わせていた
だいている神殿であり乗り物ですが私そのものではないでしょう。
賢者は通常、私達が思考し行為し体験し経験しているそれらは起こって
いるのだと言います。透明なる意識(鏡)にそれらの自我や思考や行為は来
ては去っていっているのだというのです。
何故なら賢者達の意識はそれら個人の思考や行為を上から観照して見てい
る立ち位置に実際にいるからなのでありましょう。
ではこの脳からの思考などの記憶である現在のパーソナリティーの私
、「自分が思考し、自分が行為していると思っている私」はわたしな
のでありましょうか?
それは勿論、私達は、この思考し、行為している私が自分だと思っています。
しかし、賢者は、この自分が私だと知覚認識している私すなわち現在の
パーソナリティー・人格のことを「私」ではないといっています。
此の現在のパーソナリティーである私は障害や才能や個性を持った私であり
ますが、この現在のパーソナリティーの私とはゲームの登場人物のように神
が演じておられる仮面であり、映像の私だと言われているのです。
・・これは主体の実体感覚が現在のパーソナリティーから「霊魂と繋がる私」
へと移行したからなのです。
そして通常の人類はこの「神の演技・映像であり思考し行為している私」の
事を自分自身だと全く疑うことなく思い込んで生きているといいます。
そしてこの自分を私だと意識している現在のパーソナリティーの私は肉体
の死後も生き残ることでしょう。
しかし賢者達が言うのには
この私という現在のパーソナリティー、それは記憶の反応であって、「本当の
私」、「高次思考」である「霊魂と繋がる私」即ち未知なる私ではない
と教えられています。そしてこの「霊魂と繋がる私」は全人類で一つの霊魂
を構成しているので分離することは出来ないと言います。
「高次元の私」の目から見るとその「現在のパーソナリティー」は行為して
いない。行為が起こった後にその「現在のパーソナリティー」は自分が行為
していると実感しているのだと言うのです。
「霊魂と繋がる私」は現段階ではいまのところは、幼く未熟で未形成であり、
肉体に入って脳と結合しているので、この記憶の反応という、思考し行為
する現在のパーソナリティーの私を自分だと固く信じてしまっているの
だというのです。
スマホを見て、街を歩いて、食事して、話をして、仕事をして、夢を見
ているときの私とはこの記憶の反応であって、「霊魂と繋がる私」では
ありません。この私とは「霊魂と繋がる私」が自分と一体化してしまっ
ている記憶なのですと。
ですから。この現在のパーソナリティー個人の私とは「霊魂と繋がる私」
でもなく、霊魂の私でもないのです。「霊魂と繋がる私」が一体化している
記憶なのです。
ここまで読んで下さった皆様はこの話は、まったく常識的ではないし
非常に複雑なので頭が混乱してくることでしょう・・
障害や才能があったり無かったり、頭が良かったり悪かったりする私は
肉体(脳)の結果ですから「霊魂と繋がる私」の私ではありません。
「霊魂と繋がる私」の私は地球で全員が一体の存在だというのです。
なので、この現在のパーソナリティーとは「高次の観照者であり自他の分離
の無い霊魂」なのではありません。それは記憶です。
また、特定の遺伝子によって条件づけられている肉体は私ではありません。
またこの脳と肉体に入っている現在のパーソナリティーという記憶の私、
人格や個人の私も「霊魂と繋がる私」ではありません。それはその私は
特定の才能や傾向を持って思考し行為し記憶している「神の演技・映像」
の私なのであることでしょう。
そしてそのことをハッキリと見ている観点から賢者達は、
この私、この思考し、行為する現在のパーソナリティーという人格の私
のことを「私ではない記憶の反応=個人人格」である。と言っています。
賢者達は「この自分を私だと言っている私とは記憶の反応だ」と言って
自分ではないといいます。
ここが一般的に現在のパーソナリティーの私を私だと思っている社会の
通念や世界中の常識とは全く相反する考えなのです。
私久保栄治という現在のパーソナリティーは神の映像であり、自分が思考
し行為していると思っていても、この私は「霊魂と繋がる私」ではありません。
その久保栄治という現在のパーソナリティーである個人と同一化している
私が未熟で霊的諸体が未形成な「霊魂と繋がる私」であります。
ですからこの「霊魂と繋がる私」は未熟で未形成であっても記憶の反応で
ある現在のパーソナリティーではないと信じています。
しかしながら現実的にはこの記憶の反応である現在のパーソナリティーと
「霊魂と繋がる私」は混濁しているので、自分自身ではそれをハッキリと
見分けることは出来ないことでありましょう。
そしてクリシュナムルティーや賢者が口を揃えて教えておられるのは
「この自己観察と自己想起があるとき、そこには愛がそして秩序が顕現
している」のだと言われます。本来の実相世界がそこに顕現していると
いわれているのです。
以下、このホームページではその観点から話を進めていきますので、予め
ご了承ください。
この私、即ち生まれ思考し行為し生きて生活しそして死ぬ私は、全く以て私
ではなく、それは現象界に写し出されている神の映像であり、神の演技です。
それは記憶の反応の私であって「霊魂と繋がる私」即ち私ではありません。
私とは本来は神の子であるが未だ目を醒ましておらず、眠っている私、「霊
魂と繋がる私」です。
この「霊魂と繋がる私」がこの神の映像の私と一体化してしまっていて見
ることも行為することも生きることもしていない眠った状態である私です。
この私ではない私を私ではないと見ること。それが自己観察だと結論しま
した。
なので自己観察とは僅かに目が開いている「本来の私である『生それ自身』」
の目から、
この「複合する記憶の私」を少し離れた頭上から見ることでありました。が、
今日はその自己観察と対をなして重要である「自己想起」について自分なり
にご紹介します。
勿論、此処で言う「自己想起するわたし」とはニサルガダッタ・マハラジが
いう
「あなたが知らないわたしがわたしだ、そしてあなたがあなただと思って
いるあなたはあなたではない」という観点から、
自己想起とは未熟な「霊魂と繋がる私」が、
本来の私、神の子であり「霊魂の私」を、
想起するということだと解釈しています。
自己を見る、それは目は目を見れないので目を信じることとおなじです。
記憶(現在のパーソナリティー・受動思考)と一体になっている「霊魂と繋が
る私(能動思考・高次思考)」が
私(生それ自身であるほんとうの私自己・霊魂の私・インパーソナルの私
・神の子の私)を信じ想起するのです。
見れていることを認識するというのは、信じると言う高度な能力ではなく
視覚的な認識に過ぎませんので誰にでも出来ますが、見れないことを信じるこ
とが出来るのは、本人の持つ高い知性と全託の能力が必要なのであります。
正しい自己観察とは、「霊魂と繋がる私」が、神の演技である記憶の私を
私ではないと自覚し、
誰にでも実在している真の私、わたしを生かしておられる大生命の私を信じ、
私達の「生それ自身の意識」を頭上の鏡に移行して、その鏡から現在のパーソ
ナリティー(混濁し複合している自己)に塗れた「霊魂と繋がる私」
を観察することでありましたが、
正しい自己想起も、その正しい自己観察の延長として実践されます。
その自己想起とは、食べているときも、テレビを見ているときも、仕事をし
ているときも、病院にいるときも、電車の中でも、人と話しをしているとき
にも、恐れ慄のいているときも、痛みで絶叫しているときも、はたまたエ
ゴが自分を占領して心がプライドで一杯になっている時も、欲情で心が支
配されているときにも、この自己想起は常に自己観察と共に常時実践され
るべきであり、行われるべき最重要なワークであります。
しかし、ここで非常に注意しなければならないことがあります。
それはこの自己想起のワークをしているのは混濁している現在のパーソナリ
ティーと同一化している「霊魂と繋がる私」だと言うことです。
しかもこの「霊魂と繋がる私」は未だ赤児で目が開いておらず、霊的諸体が
育っていないので見ることも、行為することも出来ない状態であると言うこ
とです。
エンティティーやエレメンタルや自我が真我の振りをしているのには注意
しなければなりません。
自己想起をしているのは真の私ではなくて脳からの記憶・人格・個人・エレメ
ンタルの私と一体化している神の赤児・「霊魂と繋がる私」なのです・・。
ではその陥りやすい錯覚を注意しながら思索してみます。
自己想起する私とは、私本体の私・神の子の私です。
その神の子とは、この「霊魂と繋がる私」やその「霊魂と繋がる私」
が一体化している記憶である現在のパーソナリティーではないので、当然
その自己想起されている私とはインパーソナルの私です。
神の子とは霊魂の私の事です、万物と分離していない神の子の私です。
自己自我がないと言うことは思考も現象世界もないと言うことであり
ましょう。自己自我が現象世界を映し出しているからでありましょう。
神の映像ではない神自身の実相世界がそこに顕現しているのでしょう。
そこには、自他に分離していない私、「I AM I」、「私は私」が在ること
でありましょう。
さて、この「私は私」と言う言葉ですが、それは神が「私は私万物一切」と
言っている神聖な言葉なのだということなのです。
「私は私」と言う言葉を発することで
「霊魂と繋がる私」が
「霊魂と繋がる私」からの能動思考を使って、
その「生である神聖なる私」に焦点を合わすのです。
「私が私」に「霊魂と繋がる私」の意識(能動思考)を照射するのです。
私・自我の源泉に、「観察している私」の意識を注ぐのです。
ここで混乱がないように通常、
私達が私と言っている私は現在のパーソナリティーの私であり、
「霊魂と繋がる私」の意識は未だ赤児状態で殆ど、意識化されていない
のです。
ですからこの現在の私とは
四つの全く異なっている私が混在し構成されていると言うことです。
それは
D:脳が受信している想念、思考、記憶、欲望。
脳が起こしている行為。
神聖なる神の宮・肉体。
DNA、カルマ・プログラムに従って起こる思考、感情、人種、国民。
衝動、出来事、病気、健康、出産、運命、才能、性向、寿命、死亡。
集合無意識。人種民族国民意識。
C:記憶の私。自我。神の演技。
現在のパーソナリティーの私。
脳が受信している、受動知覚、受動思考、受動行為の記憶。自我。
その受動思考の記憶の反応である私・人格・想念形態エレメンタルの私。
わたしは私だと絶対的に確信している私。私は私だと錯覚して
いる記憶。そしてその潜在集合意識・国民民族意識。
死後も継続しているが輪廻しない私。サムスカーラ若しくは
ワサナと呼ばれる私。通常での私と言われているのはこの私のこと。
この私が「空」に吸収され、無とならない限りは、即ち現在のパーソナ
リティーが「霊魂と繋がる私」の自己観察と自己想起と聖霊によって
消滅されなければ私達が見えている世界とは弱肉強食の現象世界だけ
を知覚しているだけです
決して自他一体の実相世界を見ることは出来ないといわれています。
B:肉体に繋がった「霊魂と繋がる私」(転生している私・コーザル体)。
脳の五感知覚や記憶の反応の私と一体化している意識である私。
しかしながら、この「霊魂と繋がる私」であるサイコノエティック体
は未だ未形成であって、この「霊的諸体の感覚器官である目」が殆ど
機能していない状態であるため、通常の人類の知覚認識が見ている虐殺
と争い・競争、自他分離、弱肉強食の現象世界とは記憶の世界・宇宙
であって、真実の実相世界ではないということです。
一言でいうと「霊魂と繋がる私」がその霊魂との繋がりを恢復したとき
には霊魂の目が知覚認識するので、現象世界はなくその本体の実相世界
が知覚認識され、そこには自他の分離も無く、言語に尽くせない愛の世界
本来の宇宙が顕れると言われます。それは法華経の説く実相世界であり
ます。
私達・地球人類が知覚する世界・宇宙とは、即ちこの未形成の霊的諸体
を持つ「霊魂と繋がる私」が見ている世界であって、この現象世界は
彼岸である実相世界なのではなくて
脳が見ている分離の世界、弱肉強食で、自他に分離している現象世界なの
であってそれは真実の実相世界ではない。というのです。
A:霊魂の本来の私。一霊四魂の私。(大生命の分け御霊・神の子の私)
この非分離の意識が見ている世界は実相界であり、そこには分離が無く
悪魔もブラックもなく、愛と感謝と感動の世界であることでありましょ
う。
この言葉や概念では表せない非言語の実相世界のことは、霊的諸体
が未形成で未熟な赤児の私には全く知覚不能です。
上記の私が複合し、重層し、混ざっているのが現在の地球人類の現況です。
霊魂の自分を全く識別できないような状態が現在の「霊魂と繋がる私」私
達そのものです。
本来の透明な水(私)が濁っているのです。
若しくは鏡が「無明という分離」に覆われ現象しかみれず、実相を知覚する
目(高次霊的諸体)が形成されていないのです。
さて
自己想起は自己観察とペアになっていますので
自分ではないものを自分ではないと否定的に観察する自己観察ということが
はじめにあって、その次に自己想起される「未知なる真の私」への自己想起
となっています。
私ではない私を、私ではないと否定することが、ほんとうの私を肯定するこ
とになるわけです。
否定を通じて肯定するわけですが、自己想起では積極的に未知なる私、本来の
自己(神の子・真我「私は私」)を想起します。
ですので現在の「霊魂と繋がる私」とパーソナリティーが行う日常生活で
の実践に於いては、
この自己観察がそのまま自己想起ともなりますが、さらに自己を信じ
自己を思い、「霊魂と繋がる私」と現在のパーソナリティーが未知なる私に
全託すること、
未知なる私に帰依すること、即ち能動思考を使用して、自分自身に
戻る為の修行それが自己想起なのです。
記憶からの想念や思考を頭上から観察すると同時にその「観照している
高次意識」に「霊魂と繋がる私」と現在のパーソナリティーが意識
の焦点を照射するのです。
ミルダッドはその自己想起のことを「私は私」「I AM I」と言葉を
発しなさい。と具体的その実践方法を示しています。
何故ならば本当に私と言う事が出来る私とは「霊魂と繋がる私」であり
この私は上記の色んな「私もどき」で覆われていますが、実際の私とは
「霊魂と繋がる私」であり、その「霊魂と繋がる私」は神の子、神の分
け御霊なのでありましょう。
ミルダッドはこう語ります
「神を感じ、神を考え、神を語るためには、
〈私〉という語を発する以上のことは必要ない。
人間はまだおのれの〈私〉の意味を知らない。
この〈言葉〉によってあらゆる事物は創造された。
この〈言葉〉によってあらゆる事物は保たれる。
神の〈言葉〉は〈生命〉であり、〈生命〉とは、すべてのも
のが分割不可能な一つなるもの。
人間は産着にくるまれた神である。
時間は産着である。空間は産着である。肉体は産着である。
人間は、「聖霊」によってのみ自らが自らの創造物と一体であり、
敵を投げ捨てることは友を投げ捨てることだと理解出来る。」
その実践方法とは「私は私」と唱えることであり、その神聖なる言葉を
繰り返すことでありましょう。
神である真我があらゆる一切万物の私、生ある者も生なきものも、あらゆる
内部と外部を、時間と空間を「私は私」と言葉を発し創造しておられるとい
うことでありましょう。神の子であり「霊魂と繋がる私」にもそれが出来る
と言うことなのです。
しかし此処でミルダッドが言う私、これは、この私とは決してこの既知なる
自我である現在のパーソナリティーではないことをまずはじめに知る必要
が有ります。現在のパーソナリティーとは記憶・人格でありワサナであり
死後も生き残り、また「転生した霊魂と繋がる私」に引き寄せられ
前世と同じような影響を「霊魂と繋がる私」にあたえ続けるのです。
「霊魂と繋がる私」は個人ではありません。
「霊魂と繋がる私」は地球で一体の霊魂です。
アセンション・彼岸に渡るのは個人の現在のパーソナリティーではなくて
地球で一体になった百億の「霊魂と繋がる私」でありそれが一つの霊魂です。
私とはあなたであり、全人類なのです。
ミルダッドが言う「私は私」とは量子のことでもあり、
またそれは量子があらゆる宇宙であり、量子が一切万物、一切の内部と外部
であり、その量子が「私は私」と言うのと全く同じです。
またそれは神が恐怖や絶望や石ころやビルや浮浪者やテロリストや椅子や
パソコンやこの私やあなたを「私は私」と言っているのと同じでありましょ
う。
本当はわたしとはこの肉体ではなく、記憶でも無く、個人でもない
「神である創造者」「大生命」「時空を超えた意識」即ち「I AM」なので
ありましょう。が、この自己観察、そして自己想起をしている私とは
未だ自我であり、現在のパーソナリティーであり決して自己想起されて
いる対象の私ではないことを知らねばなりません。
何故ならば「霊魂と繋がる私」が霊魂との繋がりを恢復したなら
見る世界は実相世界であり、そこには完全完璧しかないからです。
以下は、その自己観察=自己想起に書かれているあるサイトからの紹
介です。
・目的を持つとき心は分裂している。目的や目標を持つ私とはエゴの私で
ある。この目的を持っている私はエゴであり、エゴは「生である私」で
はない。
・エゴ受動思考とは常に何かを変えようとして、計画し、実践し、監視して
いる。
・エゴ受動思考とは常に何かに至ろう、自己実現しようとして真剣に努力し
ている。
・エゴ受動思考とは悟ろう、至ろう、知ろう、理解しようと常に探し求めて
いる。
・エゴは「いま・ここ・あるがまま」を知らないし、分からないし、今ここに
在ろうとしない。
・エゴは目の前の相手とは自分自身の姿を移している鏡であるのに、
自分である相手を非難し、逃げようとし、相手を変えようとする。
自他は分離していると錯覚している。自分を個人だと思っている。
・真の私を知ろう、理解しようとしてはならない、私は既に真我であるから
である。
真の私は知られるのでは無く、信じられ、実践されるのである。
真我「生である私」は自分を知ろうとか、自分に至ろうとかはしない。
既に私に至っているから。「私は在る」と云っている。
・真の私はエゴによっては知られることは無い、正しい自己観察、自己想起
が既に真の私からの働きであるからだ。
・真の私を知ろうとしている者は真の私ではなくてそれは受動思考の記憶だ。
エゴだ。そのエゴの源泉に意識を照射するのだ。
・正しい自己想起をしているとき、あなたは既に宇宙そのものであり、世界
であり、万物と一体である。何故ならあなたが宇宙であり万物だからだ。
・正しい自己想起をしているとき、あなたは全ての人とひとつであり、他の
人と分離しておらず、あなたは「今ここに在る」。
・正しい自己想起をしているとき、あなたは肉体ではなく、思考でもなく
私という他と分離している個人ではない。
・「今ここあるがまま」ではない私、成ろう、いたろうとしている私は私で
はないエゴだ。そのエゴの私の源泉に意識を注ぐのである。
・正しい自己想起をしている時、あなたは意識であり、宇宙であり、無限
であり、空で在る。
あなたは全てと分離していない。ひとつである。そこには自他に分離して
いる私はいない。
・あなたは肉体ではない。あなたは自我ではない。あなたは心でもない。
・正しい自己想起の時、何かになることもなく、何かに至ることもなく、今
此処に既に在る。
・私は「ビー・ヒア・ナウ」である。わたしは宇宙そのものであり、宇宙と
一体であって此処にある。
・正しい自己想起の時、私は万物であり、万物のなかに私はあり、私の中に
万物は在る。
・一切の全てを手放しなさい!自分を手放しなさい!心を手放しなさい!
「至る」「成る」を手放しなさい。全てを、あるがままを感謝しなさい。
・悟りや成就することや、至ることを手放しなさい!希望や願望を手放しな
さい!思考を手放しなさい。思考に意識の光を注ぎなさい。
あなたは既に真我であり!神であり!仏である!
・自己想起は何かに到達する方法や手段ではない。既に到達していることを
再確認する方法である。この自己を再確認するために私達は物質界に誕生
したのだ。
・私は生まれていない、従って死を経験しない。誕生と死を経験するのは現
在のパーソナリティーであって自己想起される私ではない。
・自己想起はあなたを超えて、他人と繋がり、世界と繋がり、宇宙と繋がる
実践である。
テレビを見ているときも、スマホを操作しているときも、起きているとき
も寝ているときも自己を想起しなければならない。
・自己想起の時、世界と繋がり世界が呼吸し始める。
・自己想起の時、背骨が天と地を繋ぎ、私は中空の柱となる。
・自己想起の時、心が澄み渡り、空があなたの中に拡がり始め、あなたは空
となる。
そのとき、あなたは何故、この現象界に降りてきたのかを知ることになる。
・自己想起の時、何も求める必要もなく、既に始めから全ては今ここに在る
ことを知る。
・自己想起の時、今まで探していた神がこの私であったことを知ることに
なる。
・だから、恐れの中、自己嫌悪の中、痛みの中、苦しみの中で期待や切望や
不安をかかえたままで、そのままでよいのである、それらを押さえたり、
変えようとしたり、戦うのではなく、そのままで、そのなかであなたは鏡
として「私ではないもの」を自己観察し、私である至高なる私を自己想起
して、実践しなさい。
・あなたが知らないものがあなただ。そしてあなたがあなただと思っている
ものはあなたではない。
・・・・・と教えられている。
以上、が教えられている自己観察であり、自己想起であります。
ミルダッドはあなたは私であるから「私は私」であると唱えなさい。
と言っておられます。
「祈りの言葉」
「私は私」
「生きとし生けるものを生かし給える御祖神」
「私は神の子、仏の子、私は私の子、神の分け御霊」
「私は私」