「私と私ではないもの」
肉体に(霊的諸体と共に)入った私は、脳と結合し一体化して
しまっているので、自分は「意識」であることを完全に忘れている。
脳は常に受動思考を受信し、その脳と結合した私達は脳からの受
動思考で常に一杯になっているのだ、がそのことに気が付かない。
私達はその受動思考と一体化しているので、自分は意識であり
思考体や感情体という霊的諸体を持っているなどとは、知るよし
もない。
私達の意識(鏡)は、この脳からの受動思考で混濁し汚れていて
自分を見ることも知覚することもなく、思い出すことも出来ない
状態になってしまっている。
霊的な身体を持っている私とは、魂の私であることだ。
それは私、それはこの魂の私、それは私、神の子である。
私は肉体でもなく、脳が受信している受動思考でもない。
神の分け御霊が、私として生きておられるのだ。
それなのに、その神の子の私は受動思考と混濁しているので
脳が受信している「記憶」からの受動思考を、自分の意識だと
完全にそのように錯覚し、思い込んでいて、その受動思考と一
体化してしまっている。
自分自身を全く見れない状態にまで意識が混濁してしまってい
るのだ。
しかし究極的には、その脳も、その記憶も、記憶というシステム
も、神のものであろうけれども・・・。
だからこそ私達は自分自身を知るためには
私達はその受動思考と一体化しないで、
受動思考とは自分ではない思考だとして拒絶し排除
する必要が有る。
しかし悲しいことに、殆どの場合
私達人類は、その受動思考を否定することなしに、
常に、受動思考である欲望や衝動や願望等を受け容れ、
自分自身と一体化してしまって悩み、苦しみ、成ろう、
至ろうとして競争し、戦い、殺しあっている。
私は、自分ではないそれら受動思考である欲望や願望や感覚や
判断や記憶から生じている自由意志などを、自分自身の自由意
志だと思い込んでいるのである。私達が自分自身の考えであり
自分自身の自由意志だと思っているのは、自分自身の考えでも
なく、自分自身の選択でもない。それは受動思考が決めている
のだ。
だからこそ、その脳からの受動思考という想念を受け容れては
ならない。
毎日の日常生活の中、家庭で、職場で、テレビを見たり、話をしたり、
熟考し、会議し、討論したり、計画し、仕事しているときの意識とは
実は、それは私の意識からの能動思考ではなくて、脳を経由した記憶
からの受動思考の反応なのである。
同じく行為も、意識からの能動行為ではなくて、記憶からの受動行為な
のである。
それらは私ではなく、私に覆い被さる「小脳、中脳、大脳という
三つの脳が受信した受動思考、即ち潜在意識からの「記憶」の反応
に過ぎない。
私達が、日常生活で自分の意識だと思い込んでいるのは、自分の意識で
はなくて、脳を経由した記憶の反応即ち受動思考だ。
「霊魂と繋がる私」は受動思考が起こしている思考と行為を
一緒に実行してしまい、その結果、思考と行為をしてしまっ
たことがカルマとなり、
その「霊魂と繋がる私」が、再誕する新たなる新生児の肉体にはその
カルマが(プログラムされたカルマが)発動してしまっている。
私達は、その特定のプログラムに従った人生を体験させられて
いるのだが、そもそも、記憶による受動思考や受動行為は、私自
身なのではない。私達は、自分が誰なのかを思い出せないのだ。
受動思考を起こしている私、それは私ではない記憶だ。
それは脳が受信した記憶の反応であって、私ではない。
不安や怒り、欲望や衝動、イライラや病気や恐怖、それらは
脳からの記憶であり、起こっている受動思考だ。
それなのに、脳に繋がった「霊魂と繋がる私」は三つの脳
に起こっている「記憶という私」を自分自身だと錯覚して
一緒に苦しんでいるのだ。
私達は、断固としてそれらを受け容れることなく拒絶しなけれ
ばならない。
恐れ苦しみ、不安で一杯で、将来のことを考えると心配が
止まず、気が滅入ってしまうこの私とは一体誰なのか?
それは、脳が受信した受動思考なのだ。
苦しんでいるのは私ではなく、私が一体化している記憶なのだ。
その悩み苦しんで不安でいっぱいの私とは・・私ではない記憶
、それは記憶からの反応という受動思考なのだ。
それは「肉体に入り脳と繋がっている私」が、自分だと錯覚して
しまっている「記憶の私」だ。
それを現代風に云えば、私ではない「脳が受信した記憶」の私
、(AI)なのだ。
私自身は、「本体の私と繋がっている意識」であり、且つ「肉体に
入り脳と繋がっている私」であるがゆえに、凄く混乱しているが、
私は、脳が受信している「記憶の反応」即ち受動思考者・受動思
考なのではない。
私は「本体の私・霊魂と繋がっている意識」であり、
「霊的思考センター・サイコノエティック体」を持って
いる意識なのだ。
だから、能動思考を使う事が使うことが出来るのである。
私は、受動思考ではない能動思考と受動行為ではない能動行
為が出来るのだ!!
私達意識には
カルマによってプログラムされた受動行為ではなくて
魂が持つサイコノエティック体からの能動行為をすること
が出来るのである。
だから、受動行為ではなく正しい行為をしなければならない。
だから、受動思考ではなく正しく思考しなければならない。
だから、意識を拡大することも、愛することも出来るのである。
では正しい行為とは何だろうか?
正しい行為とは行為と同一化することなく行為の目撃者として
留まることであるとラマナ・マハリシは言う。
「身体はプラーラプタにしたがって運命づけられた避けるこ
との出来ない行為を通り抜けていくことだろう。
人は身体と彼自身を同一視してその行為の報いに執着するか
あるいはそこから離れて身体の活動の単なる目撃者となるの
かという選択の自由だけを持っている」
さて、外部や内部を見ている観察者、思考者、その私とは誰か?
それは、鏡を見ても分かるとおり、
その鏡を見ている私、その内部と外部を見ている観察者とは、
鏡に映っている私であり、私によって観察されている私は自分
自身の姿なのだ。その見ている私も、見られている私も受動思
考であり自我の私のことだ。
受動思考が、受動思考を見ているのである。
私達は、受動思考をしている自我を見て自分だと思っているのだ。
「観察者は観察されるものである」と。
非難している敵・相手とは私自身の姿である。
恐怖を見て、恐怖を感じている私は、恐怖自身なのだ。
私ではない。
自我を見て自我を非難している私は自我なのだ。
そのことが受動思考には分からないのである。
「鏡の中の私、鏡に映る私」とは「鏡を見ている私」である。
両者とも私ではない。
自我を見ている私とは、実際にはその自我自身だ。
私ではない。
恐怖や憎悪や暴力を見ている私は、その恐怖や憎悪即ち記憶なのだ。
殺戮と虐殺と戦争を知覚している私は、私ではない記憶なのだ。
悩み苦しみ恐れ、衝動と願望に振り回されているのは私ではない。
鏡を見ている私も、その鏡に映る私も「霊魂と繋がる私」
ではない。それは受動思考・記憶であって私ではない、私
は鏡なのである。
「自我の観察者は自我」なのだ。「恐怖の観察者は恐怖」なのである。
世界の虐殺・殺戮を見ているものは、鏡の私では無い思考の記憶なのだ。
それなのに、その恐怖や自我を自分だと「霊魂と繋がる私」は錯覚して
しまっているのだ。苦しんでいるのは「霊魂と繋がる私」ではなく
記憶なのだ。
「見るものは見られるものであり」自我が、自我を見て観察し苦しんで
いる。
だからこそ
自我を観察している私、自我を見ている私に対して「霊魂と繋がる私」
からの能動思考の光を照射するのだ。
自分や他人の自我を見ているものは誰か?
自我の観察者、恐怖の観察者とは誰か?
鏡に映る私を見ている私は誰か?
誰が恐怖を見ているのか?
恐怖を見ている私とは誰か?
それは恐怖である。
恐怖、それは私ではない。
恐怖を知覚認識しているのは私ではない恐怖である。
恐怖を見ているもの・・それは「私ではない記憶の私」
すなわち恐怖なのである。
その自己自我の観察者に対して能動思考の光を当てるのだ。
自分を観察している私に意識の光を充てるのである。
それが黒住宗忠師がいう「立ち向かう人の心は鏡なり
己の姿を映してやみん」であり「己を鏡に移して鏡から鏡に
映る己(偽我)を見よ」ということなのであろう。
その「観察者は観察される者」であることを観ている私とは
受動思考ではない意識からの能動思考なのだ。
それは自他の区別がない意識。インパーソナルの次元の目・意識。
本当の私は、時空間を超えた意識なのだ。
私はあなただ!!
私はそこなのだ!!
この私である意識は、思考すなわち能動思考を使うこ
とが出来る。能動行為をすることが出来る。
高次の次元では私は意識そのものであり思考ではないこと
だろうが、
意識はこの次元では「思考体」を持っているので能動思考
を使う事が出来るのだ。
私は意識を拡張したり、小さくしたり、時空を超え、自他を超えて
いくことすらも出来るのだ・・
それが「本体の私と繋がっている意識」が使う事の出来る能動
思考である。
私は肉体ではない。
私は受動思考ではない。
私は意識だ。サイコノエティック体を持つ意識だ。
私は魂だ。
私は一霊四魂なのだ。
・・・と思ったりする今日この頃である。