のである。
わたし(霊魂と繋がる私)が、わたしだとおもっているこの私(脳からの記
憶)とは、わたし(霊魂と繋がる私)ではない。私は神の子であり、故に
全ての人と一体だというのである。
ここで混乱がないようにまず最初に、私自身をニサルガダッタ・マハラジ
が指摘しているように、四つの私にハッキリと分類したいと思う。
■肉体:これは至高の叡智の結晶であり、37兆の細胞とDNAそして脳がある
。宇宙の構成要素である素粒子から成り立っている神の神殿・肉体。
地球100億の人類の全ての人、夫々に異なっている指紋が与えら
れており、夫々に才能や障害、そしてDNAにしたがって特性
を持って誕生され、寿命が決定されているこの肉体。
病気になったり健康になったり、或る地域にある民族で、或る
環境で金持ちや貧困の中で暮らしている私。脳の私。脳の結果
である私。
ラマナ・マハリシによって「プララープタというカルマによって
運命づけられ」、DNAによって決定された行為を行っている肉体。
カルマが起こす出来事、思考感情そして行為している肉体のこと。
しかし、この肉体とは私ではなく神の神殿だ。神の映像だ。
肉体は私ではなく、生まれそして死ぬ肉体は私のものではありま
せん。
私は肉体ではなく、そしてさらに肉体を私だと苦しみ、心配する
私も私ではありません。
私は肉体ではなく、私を肉体だと知覚している知覚は脳の知覚で
あり、その脳の知覚それは私の知覚ではありません、脳の知覚な
のです。
■想念形態・エレメンタル。脳が受信した思考の記憶のこと。記憶の反応。
自我。「霊魂と繋がる私」が生み出したエレメンタル。想念形態。
私達である「霊魂と繋がる私」が自分自身だと錯覚した記憶の
こと。脳が受信した思考想念の記憶のこと。それはエレメンタル。
自分を私と思っている想念形態。それは私という観念の記憶。
私達の現在意識はこの私、自己、自我、エゴに全て占有されてい
る。
自分を肉体だと思い、自分が行為していると思っている私。
痛み、苦しみ、恐れ、悩み、嫉妬し、殺し、殺される私。
通常の人生で私達が私自身だとそう思ってしまっている私の事。
自分は個人で、○○国民、○○人種、○○宗教を信じている
の私だと思っている私。だが実際はその私は記憶の反応なのだ。
自分は私だと実感し現在意識を占領している私とはこの記憶の
ことである。この記憶の私が自分が行為し自分が生きて、自分
の人生だと錯覚しているのだ。
この私は頭脳からの情報の蓄積即ち記憶であり、その記憶が起こし
ている受動思考である。悩み思考し、私が行為していると思って
いる記憶の私。
それは競争心、自己関心、苦しみ、嫉妬、不安、怒り、暴力など
の自我のこと。自分は万物と分離していると虚偽の中に生きて
いる。
カルマに従って形成された肉体と常に同一化していて、肉体の痛
みや病気や快楽や生死を経験する私であり、地球人が「私」と言
っているのは、この「条件付けられている脳」からの記憶の反応
のことを指しているのである。金とセックスと支配欲そのもので
あり競争の人生を生きている私は記憶であって私ではありません。
人類で一般的で平均的に私だと云っているのは、この記憶の反応の
ことであって「霊魂と繋がる私」のことではありません。
現在、知覚し知覚されている私は私達の潜在意識にある脳からの記
憶即ち受動思考であります。
この記憶である私は、死後も継続し、再誕するまでは「霊魂と繋
がる私」と一緒に霊界に滞留し、その後は人類の集合潜在意識へ
と併合吸収される私の事であり転生している「霊魂と繋がる私」
のことではありません。
この記憶のエレメンタルの私とは「霊魂と繋がる私」の輪廻転生
の都度に形成されている人格の私、自分を個人であると思っている
記憶であって私ではない。
■「霊魂と繋がる私」
この私がニサルガダッタ・マハラジに話しかけられている私だ。
現在のパーソナリティーといわれ、輪廻転生している私。
この私は意識でありセルフエピグノーシスである。
そして未形成の霊的諸体サイコノエティック体を持っている。
目が閉じられ、醒めることなく、自己自身・魂を知ること無く、
輪廻の中を彷徨う私。
深く記憶と一体化して自分のことを忘却している私。ニサルガ
ダッタ・マハラジによって「あなたが知らない私(真我)があなた
だ」といわれているそのあなた即ち「霊魂と繋がる私」のこと。
受動思考と一体化し、自分の本体を忘れ果てた「霊魂と繋がる
私」。
霊的諸身体を持っており、能動思考や能動行為を実践できる私の
ことだが、通常の地球人類の人生に於いては前述の記憶の私が
私だと思われていて、この「霊魂と繋がる私」は私達に於いて
は殆ど自覚されておらず、意識・セルフエピグノーシスは混濁
状態のまま目が覚めず自他分離の虚偽を真実だと錯覚している。
本来のセルフエピグノーシスは私のものでもあなたのものでも無く
人類で一つなのである。
しかし悲しいかな、この地球では
「霊魂と繋がる私」は人生では殆ど意識されず無意識状態であり
ましてやこの私が霊魂に繋がっているなど思いも至らないのだが
自己観察や自己想起を実践することを通じて自覚し「霊魂の私」
「ハイヤーセルフ」と繋がり「自他の分離が無い霊魂の私」が意識
化される。
と教えられている。
仏教では目が閉じられている仏の私とも言われる。
エレブナではセルフエピグノーシス・意識、未形成のサイコノ
エティック体を有する私のこと。
■霊魂の私。ニサルガダッタ・マハラジによって「あなたが知らないあなた」
と言われている本当の私の事。空間に拡がっている意識の事。
観照者。
記憶の私を私ではないと知覚し、「霊魂と繋がる私」を優しく
観照している私の事。
記憶の反応の私やエレメンタル、エンティティーにとっては
未知なる私のこと。
自己想起の対象となる真の私のこと。アートマン、観照者。
ハイヤーセルフ、自他の分離の無い私。無我の私。
この私や人類の意識には全く自覚されていないので、現在では
久保栄治も人類の初期的意識段階であり、この「私」については
全く分からないので話すことが出来ないし、知らないし分かって
おらず理解もしていない。
しかし現在のパーソナリティーであるセルフエピグノーシス・意
識は、毎日、毎転生毎に、この霊魂に戻され、意識は熟睡状態と
なって眠りに入り、再び鋭気を復活し、そしてまた肉体に戻るの
であると教えられている。
そして、さらにこれ以上の超意識段階の私もあるらしい。
・・以下はわたしの思索による理論である。
肉体(霊的諸体と共に)に入った私(「霊魂と繋がる私・意識」)は、
脳と結合し、記憶・受動思考と一体化してしまっているので、
自分は「意識・魂」であることを完全に忘れ果てている。
脳は常に受動思考を受信し、その脳と結合した私達は脳からの受
動思考で常に一杯になっているのだが、そのことには決して気が
付かない。脳から惹起している欲望や感情や思考や行為を自分だ
と思い込んでいる。
私達は、その受動思考と一体化しているので、自分は意識であり
思考体や感情体という霊的諸体を持っているなどとは、知るよし
もない。・・そしてその様な「自分は肉体で、自分の思考や行為だ」
という信仰に基づいてこの私達の地球文明は築かれている。
私達の意識(鏡)は、この脳からの受動思考で混濁し汚れていて
自分を見ることも知覚することもなく、自分を思い出すことも出
来ない状態になってしまっている。知覚し思い出すのは自分では
ないものばかりだ。
霊的な身体を持っている私とは、この私「霊魂と繋がる私」である。
私は肉体ではなく、脳でもなく、思考しているものでもなく、
行為しているものでもない、意識なのである。
それがこの私だ。
それがこの魂の私だ。
それが頭脳の私にとっては未知なる私、神の子の私である。
しかし
この「霊魂と繋がる私」は脳と結合していて、脳が受信した記憶と完璧に
一体化しているので肉体を自分だと絶対的に確信してしまっている。
この記憶とは、この人格の私の事、親からの名前を持つこの私の事だ。
だからニサルガダッタ・マハラジが言うように
私が私だと思っている私は、私ではないのだ。
私は「至聖なる肉体」でもなく、
脳が受信している受動思考や感情や欲望でもない。
私はこの記憶である個人人格でもない。
私はこの行為をしている私ではない。
私は「霊魂と繋がる私」であり、私は意識なのだ。
私という記憶である個人人格の私は神が仮面を付けて演じておられ
お使いになっている私であり、神が思考し行為しておられるのだ。
しかし地球の人類は誰もが「自分ではないその私を私だと思い違い
している」ことを決して疑わずに、「意識という鏡」に沸き起
こり、去来するその思考や感情や想念を自分の思考や感情や想念
を自分だと思っている。
しかしニサルガダッタ・マハラジがいうように
私にとっては未知なる私こそが私であり、その私こそが
此の私には知られざる私として生きておられる神の子の私だ。
それは個人ではないインパーソナルなわたしのことだろう。
自他に分離できない意識なのだ。
現在のパーソナリティーであり「霊魂と繋がる私」は霊魂と繋がっ
ているのだが自分自身に目覚めていないのだ。
それなのに、その「霊魂と繋がる私」は、受動思考・記憶と混濁一体化し、
脳が受信している「記憶」からの受動思考を、自分の意識だと、それ
が私だと、完全にそのように錯覚し、思い込んでいて、その受動思考
が自分だと思い込んでしまっている。
「霊魂と繋がる私」は自分自身を全く見る事が出来ない状態にま
で意識が汚れ、記憶と同化し混濁してしまっているのだ。
それからの解放は、その受動思考や欲望が起こるその瞬間を見ることだ
と教えられている。「神の演技である自我」の根源にまで至りなさいと
いうのだ。
故に、究極的には、その脳も、その記憶も、記憶というシステム
も、神のものであろうけれども・・・。
だからこそ私達は、自分自身を知るためには能動思考を使い、
未だ未熟で目が開いていないので理性を使って、自分が知らない
未知なる私(神の子)を信じることが肝要なのではないか。
私達はその受動思考やその記憶である人格と一体化しないで、
未知である「自分の本体である神の子」「インパーソナルな私」
を私だと信じなければならない。
私達はそのハイヤーセルフに全託し、帰依しなければならない。
そしてその未知なる「インパーソナルの私」「ハイヤーセルフ」
「真我」に私の全てを捧げるのだ。
「霊魂と繋がる私」が魂の私に帰依するのだ。
受動思考・記憶とは自分ではない思考だと断固、拒絶し排除
して、本体の私、未知なるインパーソナル(非分離)の私に私
の全てを捧げ帰依して全託するのだ。
しかし悲しいことに、殆どの場合、
私達人類は、その受動思考・記憶を自分ではないと自己を否定
することなしに、
常に、受動思考である欲望や衝動や願望等を自分自身だとそれらを
受け容れ、自分自身と一体化してしまって悩み、苦しみ、成ろう、
至ろうとして競争し、渇望し、欲し、戦い、殺しあっている。
私は、自分ではないそれら受動思考である欲望や願望や感覚や
行為や判断や、「記憶から生じている自由意志」などを、自分自身の
自由意志であり、自分の行為だと固く完全に思い込んでいるのである。
私達が自分自身の考えであり、自分自身の自由意志だと思って
いるのは、自分自身の考えでもなく、自分自身の選択でもない。
その自由意志による選択とは記憶からの意志であり記憶が決め
て記憶が行為しているのだ。
この五感も知覚も思考も感情も「霊魂と繋がる私」の超知覚
なのではなく脳による条件付けられている知覚に過ぎない。
だからこそ、その脳からの受動思考という想念を自分自身の想念
として受け容れてはならない。
毎日の日常生活の中、家庭で、職場で、テレビを見たり、話をしたり、
熟考し、会議し、討論したり、計画し、仕事しているときの意識とは
実は、意識ではない。それは私の意識からの能動思考ではなくて、脳
を経由した記憶・人格からの受動思考なのである。
同じく行為も、意識からの能動行為ではなくて、記憶からの受動行為な
のである。
だから思考も行為もそしてこの現在意識の私自身も「霊魂と繋がる私」
ではなくて、神の演技、神の仮面なのである。
それらは私ではなく、私と繋がった「小脳、中脳、大脳という
三つの脳」からの受動思考、即ち潜在意識からの「記憶」の反応
に過ぎない。その記憶こそが「自我」(神の仮面・演技)である
ことだろう。
私達が、日常生活で自分の想念だと思い込んでいるのは、自分自身の想念で
はなくて、脳を経由した記憶の反応即ち受動思考、受動感情、受動行為だ。
私達「霊魂と繋がる私」は受動思考やその記憶が起こしている思考と
行為を自分が思考し、自分が行為していると錯覚し、その結果、
起こっている受動思考と一体化して一緒に実行してしまい、
そして、カルマを身に受けることとなったのだ。
記憶と一体化して思考と行為をしてしまい、その行ったことが
カルマとなり、
現在のパーソナリティーである「霊魂と繋がる私」は、再誕し、
この「霊魂と繋がる私」の結合する新たなる新生児の肉体にはその
カルマが(プログラムされたカルマが)発動してしまっている。
私達は、その特定のプログラムに従った人生を体験させられて
いるのだが、そもそも、記憶による受動思考や受動行為とは、私達
自身なのではない。私達は、自分が誰なのかを思い出せないのだ。
そして起こっている記憶の反応である思考や行為を自分だと錯覚している。
私は肉体でもなく、この人格の私でも無く意識であり、この人格の私
にとっては未知なる神の子なのだ。
不安や怒り、欲望や衝動、イライラや病気や心配や恐怖、それらは
脳からの受動思考であり、意識に起こっている記憶の反応だ。
それは神聖なる神のマーヤなのだ。
思考し、感じ、行為しているのは「霊魂と繋がる私」ではないのに
それらと一体化しているので同じように思考し行為してしまっている。
そういうことであるから、脳に繋がった「霊魂と繋がる私」は三つの脳
から起こっている「記憶という私」からの恐怖や不安を自分自身だと錯
覚して一緒に苦しんでいるのだ。
私達は、断固としてそれらを記憶からの思考や衝動や欲望や
行為と一体化したり受け容れることなく、逆に内なる未知なる
ハイヤーセルフ・インパーソナルに帰依し全託しなければならない。
恐れ苦しみ、不安で一杯で、将来のことを考えると心配が
止まず、気が滅入ってしまうこの私とは、それは、脳が受
信した受動思考の記憶の反応なのだ。「霊魂と繋がる私」ではない。
恐れ苦しんでいるのは私ではなく、私が一体化している記憶なのだ。
起こっている事に反応して思考し行為しているのは私ではない記憶
なのだ。
自由意志に基づき行為している私は、「霊魂と繋がる私」ではなくて
神の演技、神の仮面の私、自我なのだ。
その悩み苦しんで不安でいっぱいの私とは・・私ではない記憶だ。
それは記憶からの反応という受動思考の反応なのだ。
それは「肉体に入り脳と繋がっている私」が、自分だと錯覚して
しまっている「記憶の私」だ。
それを現代風に云えば、私ではない「脳が受信した記憶」の私
、(AI)人格なのだ。
私自身は、「本体の私と繋がっている意識」であり、且つ「肉体に
入り脳と繋がっている私」であるがゆえに、肉体や、脳が受信して
いる思考や感情を自分だと思い込んで凄く混乱しているが、
私は、脳が受信している「記憶の反応・人格」即ち受動思考の私
なのではない。私は思考し行為している私ではない。それは神聖なる
神のマーヤなのだ。
私は「本体の私・霊魂と繋がっている意識」であり、神の子だ。
「霊的思考センター・サイコノエティック体」を持って
いる意識なのだ。
私は人格という記憶なのではない。
私は自他の分離の無いインパーソナルなわたしなのだ。
だから、能動思考を使う事が使うことが出来るのである。
私は、意識だ。心でも既知なる私でも無い。
だから受動思考ではない能動思考、と受動行為ではない。
私は意識であり、従って能動行為が行使出来るのだ!!
私達意識には
カルマによってプログラムされた受動行為ではなくて
魂が持つサイコノエティック体からの能動行為をすること
が出来るのである。
だから、受動行為ではなく正しい能動行為をしなければならない。
だから、受動思考ではなく正しく能動思考をしなければならない。
だから、意識を拡大することも、愛することも出来るのである。
では正しい行為とは何だろうか?
正しい行為とは「記憶によって起こっている行為」と同一化する
ことなく行為の目撃者として留まることであるとラマナ・マハリ
シは言う。正しい行為とは真我への帰依と全託であり、自分では
ない受動思考を自分では無いと観ることである。
「身体はプラーラプタに従って運命づけられた避ける
ことの出来ない行為を通り抜けていくことだろう。
人は身体と彼自身を同一視してその行為の報いに執着す
るか、あるいはそこから離れて身体の活動の単なる目撃者
となるのかという選択の自由だけを持っている」。と
この内と外を見ている私も、見られている私も受動思考であり、
それは意識という鏡に去来している記憶の反応すなわち自我の私のことだ。
受動思考の記憶が、記憶である受動思考を見ているのである。
受動思考をしている自我を見て私だと思っているのは
私ではない受動思考の記憶だ。
自分を見ている私は本体の私ではなくて、偽りの私、記憶
なのだ。
私を見て、私を非難し、私から逃避し、私を変えようとしている
ものは私ではなくてそれも記憶の反応なのだ。
恐怖を見て、恐怖を感じている私は、恐怖自身だ。
その恐怖を見ている私は私ではない。それは記憶だ。
自我を見て自我を非難している私とは記憶の反応即ち自我なのだ。
そのことが受動思考には分からないのである。
「私は私ではない」と見ているものこそ「霊魂と繋がる私」だ。
「鏡の中の私、鏡に映る私」とは「鏡を見ている私」である。
その観察者は観察される者であることを見ているのが「霊魂と
繋がる私」である。
観察者と観察される者は両者とも「霊魂の私」ではない。
自我を見ている私とは、実際にはその自我自身だ。
その自我とは「霊魂と繋がる私」即ち霊魂ではない。
自分の中に、そしてその投影である世界に恐怖や憎悪や暴力を見てい
る私は、その恐怖や憎悪即ち記憶なのだ。
殺戮と虐殺と戦争を知覚している私は、「霊魂と繋がる私」ではない
記憶なのだ。
悩み苦しみ恐れ、衝動と欲望に振り回されているのは「霊魂と繋が
る私」ではない。
明日を心配し、病気を恐れ、苦しんでいる私は「霊魂と繋がる私」が
私だと錯覚している記憶のことだ。
鏡を見ている私も、その鏡に映る私も「霊魂と繋がる私」
ではない。それは受動思考・記憶であって私ではない、私
は鏡なのである。
「自我の観察者は自我」なのだ。「恐怖の観察者は恐怖」なのである。
世界の虐殺・殺戮を見ているものは、鏡の私では無い受動思考の記憶なのだ。
だから私達はハイヤーセルフ(霊魂)に帰依し、全託しなければならない。
それなのに、その恐怖や自我を自分だと「霊魂と繋がる私」は錯覚して
しまっているのだ。苦しんでいるのは「霊魂と繋がる私」ではなく
記憶なのだ。
「見るものは見られるものであり」
自我が、自我を見て観察し苦しんでいる。
だからこそ
自我を観察している私、自我を見ている私に対して「霊魂と繋がる私」
からの能動思考の光を照射するのだ。
恐怖、それは私ではない記憶だ。記憶の反応だ。
恐怖を知覚認識しているのは私ではない恐怖である。
恐怖を見ているもの・・それは「私ではない記憶の私」
すなわち恐怖なのである。
自他に分離して自己や世界や宇宙を見ている私とは、記憶の私
それは自我、それは神聖なる神のマーヤなのである。
だからこそ私達は内なる霊魂に、内なるインパーソナルなわたしに
帰依し全託し、全てを捧げなければならない。
その自己自我の観察者に対して意識からの能動思考の光を当てるのだ。
自分を観察している私に意識の光を充てるのである。
それが黒住宗忠師がいう「立ち向かう人の心は鏡なり
己の姿を映してやみん」であり「己を鏡に移して鏡から鏡に
映る己(偽我)を見よ」ということなのであろう。
これはクリシュナムルティーの「思考なく見よ」「心なく見よ」
「私なく見よ」と同じだ。
これらはハイヤーセルフから恩寵として起こるものであり
「霊魂と繋がる私」が「したり」「行う」「なる」ことではない。
だから、その「観察者は観察される者」であることを観ている私とは
受動思考ではない意識からの能動思考なのだ。
それは自他の区別がない意識。
私はあなたであるインパーソナルの次元の目・意識。
本当の私は、時空間を超えた意識なのだ。
私はあなただ!!
私はそこなのだ!!
この私である「霊魂と繋がる私」は、思考すなわち能動思考を使うこ
とが出来る。能動行為をすることが出来る。
高次の次元では私は意識そのものであり思考ではないこと
だろうが、久保栄治の段階はその段階に遙かに及ばない。
しかしながら
意識はこの次元では「思考体」を持っているので能動思考
を使う事が出来るのだ。真我に全託し帰依し、能動思考を使って
焦点をハイヤーセルフに照射することは可能なのである。
「霊魂と繋がる私」は意識を拡張したり、小さくしたり、時空
を超え、自他の分離を超えていくことすらも出来るのだ・・
それが「本体の私と繋がっている意識」が使う事の出来る能動
思考である。
私は「神の叡智の結晶の神殿である肉体」なのではない。
私は脳が受信している受動思考や想念や欲望ではない。
私はその受動思考の記憶である、この「私という人格」ではない。
私は未知なる意識だ。「霊魂と繋がる私」であり内なる真の私に
帰依し全託し、自己想起をすることが出来るのだ。
サイコノエティック体を持つ意識だ。だから能動思考
や能動行為を使役出来るのである。真我に焦点を合わすことは
可能だ。
私はその「霊魂と繋がる私」だ。
私は私ではない私を観ている観照者、永遠のパーソナリティーだ。
私は魂だ。
私は一霊四魂なのだ。
真の私・真我への全託と帰依と観照、これが私達の生きている目的だ!!
・・・と思ったりする今日この頃です。