以下はラマナ・マハリシ達、賢者が言う「行為者はいない。行為は起こって
いるだけだ」などという、この現象界を超越俯瞰している霊魂次元からの視
座に対しての、久保栄治個人による考察です。
私達の肉体は40兆の細胞が一糸乱れず、全てが完璧な法則に基づき働き
40兆の細胞の夫々の細胞の一つ一つに、全ての細胞の情報があり、それらは完全に代替え不能で、一つでも欠ければ肉体は正常に営まれず、且つ
全細胞は完璧に新陳代謝を繰り返して、人体を構成し、人類全ての人々の
その細胞は全人類の肉体を全く同じように形成し維持しています。
肉体の細胞は、他の生き物や、物質と同じく完全な法則性に基づき生きて
います。
脳も心臓も呼吸も内臓も血液も全てが40兆の細胞から構成されている完全
なる統一体であり、完璧に営まれているにもかかわらず、その脳が受信し
た「私という観念」の思考は「自分が生きている」とか、「自分は生かさ
れている」とかの錯覚を生み出しているわけです。主体はこの私ではなく
て肉体を生きている生命なのです。しかしそれなのにその脳からいわゆる
私=自我が生み出されて「肉体は自分の肉体だ」と錯覚しているわけであ
ります。私が生きているのではないのに、脳が受信した思考は私の肉体で
私が生きていると確信しています。
これらの思考は受動思考と呼ばれています。
そして私達人類はこの受動思考しか知らず、この視点からの知覚認識を
主観そして客観と云っていますが、その主観も客観も同じく条件付けられて
いる脳が受信した受動思考です。
この受動思考とは、私達が接続している脳が受信している思考・情報の記憶
であり、その記憶の結果であり、その反応なのです。
私達に於いては、私達が接続した頭脳の機能が正常(?)に働いているので
、思考や感情や行為が正常に営まれ、「記憶の反応である私」が「自分の
肉体で、自分が生きているのだ」「自分はかくかくしかじかと考えている」
「自分は思っている」「自分が行為した」「自分が欲している」とそのよ
うに「私は私だ」と錯覚することが可能になっているのであります。
この私、自分とは脳が受信した記憶であり、意識の私でもなく、霊魂の私で
もありません。この自分を私だと思っている私とは意識の私を覆い包んでい
る「私ではない」、記憶の反応即ち受動思考です。それが世界を見ている私
であり、鏡に映る私を見ている私です。
あらゆる物質や生物と同じように人体を構成する細胞・分子・素粒子は一糸
乱れずに正確に動いており、この非局在性である素粒子や量子によって肉体
を含むこの物質界は営まれ、現象世界が成立しているのであります。
地球も太陽や凡ての自然現象も、そして細胞も完璧に数学的、幾何学的法則
秩序に従って存在しているのであります。このことは決して偶然や自然淘
汰による現象なのではありません。
生命はフィボリッチ関数を見るまでもなく、規則正しく数学的、幾何学的に
構成され維持されているのですが、私達の思考はそれの法則性を認識出来ず
に、これらの事実を単なる科学的知識として、自分自身には直接には関係な
い事象と捉えており、同様に「脳が生み出した私」が生きているのでは
なくて生命が生きておられるのに、この「脳が生み出した記憶」は、自分が
生きていると錯覚しています。そして肉体に入った「霊魂と繋がる私」は
、この記憶の私を自分自身であると信じ込んでしまったのです。そしてその
錯覚は死後も続いていくのです。
賢者達が云うように私という自己意識は起こっている思考の記憶の結果で
あって、思考も行為もこの私も肉体・脳に起こっている現象であり、それ
らは脳の結果であり、記憶という情報なのです。
それを、この脳から起こっている記憶である受動思考は「自分が思考し自分
が行為している」と錯覚したのです。更にその脳と繋がった霊魂の
私は「記憶の反応である受動思考を私だ」と錯覚し転生しているのです。
「霊魂と繋がる私」は自分である霊魂を信じなければなりません。
私達は自分を知らなければなりません。知ることが出来なければ、五感覚と
は相反しているが地動説を信じているように信じなければなりません。
私達が自分ではないものを自分自身だと錯覚している限りは、「自己観察」
とは不可能なのです。
何故なら自己を観察する為には「自己を超越的に見る観点」が必要であり。
その「自己を見る観点」とは「鏡」の観点であり、その「鏡」とは意識で
あり、霊魂の意識だからです。そして霊魂とは「非局在性」ですので、そ
の自己を観察する為には主観や客観という自我ではなくて「鏡の私」が
確立していることが必要且つ前提条件なのです。
その「鏡の私」とは私達霊魂の意識の事であり、記憶に汚染されている私
達すなわち未熟な段階の私達はこの霊魂の意識から発出している意識である
私を知ることも無く、意識からの「能動思考」を使用することもないのです。
その能動思考とはスポットライトのように「思考なく見る」「只見る」
という意識の焦点なので、「注意する」、焦点即ち注意をただ当てている
思考のことであります。
その意識の焦点を只当てていることが秩序を齎すのでありましょう。
このただただ見ることで秩序が顕現すると言われております。
それは二重スリット実験で明らかなように、意識を䠶てることが量子に影
響をもたらすのです。
そしてその「鏡の私」が能動思考を使用して「記憶と混濁している自分自身」を照射したとき、実態として、私達が思考し行為し生きているのではなくて
脳を創り維持し動かしている「源泉の叡智」が演じ、思考し、行為し、生
きておられるのが観照されるのです。
「霊魂と繋がる私」とは観照者なのです。私達は受動思考ではなく非局在性
の量子であり、意識なのです。
更に、そのことを人類の知覚領域を超えた高次元から観た場合、私とは大生
命が生きておられる結果でありバーチャルな映像なのでありましょう。
しかしこれは現段階の受動思考と混濁している私には理解することは出来
ません。
それを、宗教的に表現すれば「全ての人は神が生きて演じられている演技
なのである」となるのであります。
そしてそれを観照しているのが「霊魂と繋がる私」即ち神の一細胞である
霊魂なのでありましょう。
その観点から見れば現象的な違いを超えて全ての人は神であり、全ては一体
であり、「私はあなたである」「私は量子であり、意識であり、空である」
とも言えそうです。
ただし、このことはこの三次元や四次元の知覚認識では理解不可能です。
私達は、世界の常識の中でしか知覚出来ないし、この制限を受けている
脳の知覚しか知らないので高次の知覚があることを否定してしまうのです。
私達は自分が受動思考と混濁しており、「科学でもって分からない事は何も
無いのだ」と思い込んでいるので「私は知らない」ということを知らないの
です。
この私達が見ている世界とは条件付けられている脳が知覚認識した世界です。
それは畢竟すれば脳からの記憶である自我が自分である自我の世界を見てい
るのです。
自我が自我自身の世界を見ているのです。この戦争に明けくれ、恐怖と悲しみ
絶望しかない世界とは自我自身である世界なのであって、霊魂が見ている
完全完璧な愛の世界ではありません。
この世界の残虐と腐敗と恐怖を見ているのは誰でしょうか?
それはとりもなおさず「見るものは見られるものである」であり
受動思考である自我が自分自身を鏡に投影して自分という殺戮の世界を
知覚して「なんで神がいるのならこんな世界にしたのだ!」と嘯くのです。
私が恐怖や暴力や相手や世界を見ているのではなくて、私が私だと錯覚して
いる記憶・受動思考・自我が、この自我である自分自身を本当の自分である
意識・空間という鏡(内面と外面)に投影して自我が自我を見ているのです。
世界を対象として見て、自他の分離を見ているのは受動思考である記憶とい
う自我なのです。
それは私・意識・空・非局在性ではありません。
高次元の目から見れば、全ては完全完璧であり、全ては一つでありDNA
構造はすべてが同じ素粒子であるのと同じく、全てが一人の人の細胞の中に
あると云われております。それを観照している霊魂は神の一細胞である
と云われています。
(但しこれはこの次元にいる私達の知覚ではありません)
人類は脳が創り出している時間空間という認識形式を通じてしか知覚認識
することが出来ませんので、世界もそして自分のこともその脳の認識形式
の枠内でしか知覚することが出来ません。そしてその限定された脳が見ている
世界とは戦争に明け暮れ、暴虐と殺戮の恐怖と悲しみの世界なのです。
そしてこの三次元の地球文明社会はこの脳が持つ時間空間という認識形式に
従って維持され成立しているのです。
私達はこの脳の条件付けに因って制限されている知覚認識の世界のことしか
知らないのです。それはとりもなおさず自我が自我を見ている世界です。
意識は一つであり一体なのに自分を自他に分割し、相手や隣人や敵を非難し
ているこの私は魂の私ではなくて自我、即ち記憶の反応なのです。
この世界の戦争や拷問や殺戮を見ている私は魂の私ではなくて記憶の
私なのです。恐怖と殺戮の世界を見ている私は魂の私ではなくて記憶の私な
のです。
しかしながら
現在の人格の私というこの「記憶の私・自我」が自己存在を知覚認識するこ
とができているのも、鏡の意識があるからこそです。潜在意識下に数学的幾
何学的な法則性があるからであり、この法則、それが無いときには現在のパ
ーソナリティーすらも存在しえないことでありましょう。
この現在意識を占有している「現在のパーソナリティーの私」とは、高
次元界から見れば畢竟、脳が生み出している結果・記憶・情報なのであ
ります。
このことは常識や社会通念では全く受け容れることはありませんけども、
この私達とは記憶であり、その反応であり、結果であるので、実際には
何も出来ないし、何も為ていません、何も行為していないので、どこに
も至ることはありません。それなのにこの受動思考は自分が知らないもの
は存在していないと嘯くのです。
・・と言うのも肉体も脳もそしてその脳が受信した思考も、そしてその
思考の記憶である私と言うこの自己・私も、私が創造したのではなくて結果
であるからです。
脳が生み出したこの私とは記憶であって、覚醒者が云う「I AM」の
私ではありません。私「I AM」とは全ての人である意識であり、量子
であり非局在性なのです。
これを書いているのは記憶である私であり、この私は「賢者である私」で
はなく、この次元を垂直に観照している上位次元の観照している私でもあり
ません。
従ってこの上位次元の私が目覚めて知覚認識され自覚されない限り於い
ては、それを信じるしか、現段階の私達にとっては方法はないのであり
ます。
肉体を自分自身だと錯覚し、時間空間の認識形式しか知らない条件付け
られているこの頭脳、そしてその脳が生み出しているこの私・自我。
それゆえに、この頭脳が生み出した記憶という利己的自己即ちこの自我自
己とは「送受信器である脳」の結果であって、私という「観念」なのであ
ります。そして地球人類のこの自己意識とは全く自己意識などではなくて
それは私という観念の記憶であり、その記憶が思考し行為し、自分が生
きて行為していると内部や外部を知覚しそのように誤って実感しているの
です。
自己自我であるこの私達とは単なる脳の記憶であり、深掘りすれば神が生
み出した「私という観念」の映像なのでありましょう。
その神が使って演じておられるのがこの私達、即ち私という観念であり
ましょう。
肉体は私のものではありません。私は自他の分離が無い意識です。
頭脳は私のものではありません。私は自他の分離が無い意識です。
思考は私のものではありません。私は自他の分離が無い意識です。
感情は私のものではありません。私は自他の分離が無い意識です。
知覚は私のものではありません。私は自他の分離が無い意識です。
行為は私のものではありません。私は自他の分離が無い意識です。
記憶は私のものではありません。私は自他の分離が無い意識です。
感覚、知覚認識は私のものではありません。私は自他の分離が無い意識です。
私は私のものではありません。私は自他の分離が無い意識です。
この私、思考の私、欲望の私、自他を分離して見ている私は私のものでは
ありません。
自我の私も、そしてそれを見ている私も、神のものです。
この自己自我は完全完璧な数学的法則の結果であり、神のものです。
肉体も、頭脳も、思考も、感情も、行為も、そして私自身も私のもので
はなく神のものです。
神が生きて演じておられるのです。
神、それは
完全完璧な宇宙の運行を行いあらしめている数学的幾何学的なる「記述
不可能」な超生命であります。
私の主体はこの私ではなくてこの超意識なのです。
神が私として全人類を生きておられるのです。
その超生命、それを敢えて言うのならば量子・素粒子の意識なのかも知
れません。
私が生きているのではありません。
私は生かされているのでもありません。
分離世界を見ているこの私は記憶の反応に過ぎません。
このように自他に分裂し、自分を肉体だと実感しているこの私は神の
演技なのです。
私として生きておられる神が個人個人の人生を生きて演じておられるのであ
ります。
全ては一つであり、「一即多」であり、「全ては全ての中にある」のです。
それは、あらゆる次元に於いても完全完璧なのであることでありましょう。
「私達は何もしていないし、何をもすることも出来ません。
私達は何かを為したり何処かに行くこともなく、何かになったり、
何かに至ったりすることもありません。私は神の演技なのです。
私達は何かを感じたり思ったりしていません、それは肉体・脳が感じてい
るのであり、記憶である非私が何かを感じたり思ったりしているのです。
私達は単なる記憶であり、「霊魂と繋がる私」ではありません。
本当は神だけが生きておられるのです。
そしてそのことを実際に理解し体得することが起こったならば
この世界は霧のように消え失せ、愛の世界が現出していることでしょう。
何故ならば、この記憶の私達が見ている世界とは実相ではなくて、源泉
からの「私という観念の記憶」が生み出したバーチャルな映像に過ぎな
いからです」
と云われております。