今日は私自身のことを思いだすことの重要性について考えてみました。通常私達は以下の私ではないものを私と一緒くたにしてしまって生きています。
①:カルマによって決定されている運命が展開している。
私はこの最高叡智の傑作である肉体ではありません。
私は脳と結合していますが脳ではありません。脳と結合した霊魂です。
私は神の宮である肉体でもなく、神の演技である思考や感情、その私ではありません。
私はこれら「我」に覆われた「霊魂と繋がる私」です。ですから私は霊魂なのです。
私が入ったこの最高叡智の肉体はDNA・カルマによってプログラムされています。
私は意識です。繋がったこの至高の脳は思考と感情の受信器です。
行為や衝動や認識や思考や感情が内部と外部に起こっていますが、それらはカルマに
よって決定されていて運命的にプログラムされた出来事として規則正しく起こっています。
それら私として認識されている肉体も才能も障害も、運命も全てがDNAで決められた
ように起こります。
何時何処で誰に会って、そして決まったように好きになって、結婚して、その後、
出産し、離婚するなど、どんな国にうまれてどんな障害や才能がある肉体に入るかな
ど等々。
全てはプログラムされたように必然的に起こっています。
肉体や頭脳とそれに伴うことは、良いことも良くないと思われることも起こる
ように起こっています。・・・これには私達は一切関与できないといわれてます。
思考と感情と行為とそして出来事は瞬間毎に正確に起こるように起きて
いて避けることはできません。肉体は私のものでもないし、私が動かして
いるのでもありません。肉体はこの個別の私と同様に神のもので神が生きて
動かしておられるのであります。同じく脳も私が創ったのでもなく私のもの
でも無く、脳が機能して思考や行為を起こしておられるのであります。
この私、この私という自己自我も、私のものでもなく、私が創ったのでもなく
私が生きているのではありません。この私・自我、は神の演技なのであります。
「霊魂と繋がる私」が私であって、この「霊魂と繋がる私」が誤って自己同一視
してる「思考である私」は私ではありません。
思考し、行為している自我は「自分を私だと思っています」が、私ではありません。
私は「霊魂と繋がる私」即ち意識であって、神の演技である自我ではありません。
私は肉体に繋がっている霊魂です。わたしは神の分け御霊です。わたしは
透明で何処までも拡がっている意識です。
ただ、「自他という分離」に覆われているのです。
②:この起こっている事に対して記憶の反応が自動的に
脳に発生していて、「霊魂と繋がる私」はそれを自分だと
錯覚している。
わたしは脳と結合しているので、脳に去来している記憶や思考と一体化していますが
わたしは「霊魂と繋がる私」であってそれらの人格という記憶の私ではありません。
私「霊魂と繋がる私」は脳と繋がっていますが、脳に去来している受動思考では
ありません。
プログラムに従って起こった内面と外面の出来事に対して、この私自我・
潜在意識の記憶体からの受動思考が自動的に反応として起こっています。
これは条件付けられている脳を通じて起こっている源からの記憶体の、
思考と感情と行為のことであります。
この「起こっている内部と外部の出来事」に対して潜在意識にある記憶
が条件反応的に思考と行為を起こしているのであります。
そしてその記憶体からの「思考や感情や行為」のことを肉体に入った「霊魂と繋がる
私」はそれらを自分が思っている、自分が行為していると思ってしまっているのです。
脳を通じて記憶体による自動反応としての思考と行為が自動的に起こっているのです。
思考し行為しているのは「霊魂と繋がる私」ではなくて、記憶である私です。
自分が行為して、自分が思考していると実感している私は「霊魂と繋がる私」ではなく
記憶の私です。
それなのに「霊魂と繋がる私」は脳と結合しているので記憶の反応と一体化し、
私が思考し、私が行為していると思い込んでいます。
霊魂と繋がる私達は思考していないし行為していないということなのですが
「霊魂と繋がる私」は未熟で私達のサイコノエティック体が未形成で目が開
いていないのでそのことを知ることがありません。
「霊魂と繋がる私」の身体とは未形成のサイコノエティック体のことであり、
このサイコノエティック体とは別名「アストラル体・メンタル体」とも云わ
れている能動思考、能動行為のことなのです。が、この霊的諸身体が充分に
発達していないので私達「霊魂と繋がる私」は自分の意志で能動思考、能動
行為をすることが殆どの場合は出来ないでいます。ただただ起こっている思考
と、起こっている行為に流されて生きています。そしてますます自分の鏡を
曇らしています。
「霊魂と繋がる私」である私達は脳と結合しているのでカルマから必然的に
起こっているプログラムされた行為と出来事、思考や感情、又それらと同じく
潜在意識にいる記憶からの条件反応としての行為が自動的に起こっているの
ですが「霊魂と繋がる私」は自分が行為したと錯覚しています。
それらは受動思考、受動行為であって「霊魂と繋がる私」が行う能動思考
能動行為ではありません。「霊魂と繋がる私」は意識なのです。能動思考
を使えるのです。
この記憶体からの反応と、そして内外の出来事も一緒になって自動的に私
達である「霊魂と繋がる私」という「鏡」に起こっているので
私達にはそれらを識別できませんしコントロールも出来ません。
何故かと言えば
「霊魂と繋がる私」のサイコノエティック体という霊的諸体が充分には組成
されていないので、私達の霊的諸身体の持つ能動思考と能動行為が殆ど発揮
されていないのです。
私達には起こっている事も、その起こっている事に自動反応している自我も
コントロールすることは出来ません。
なぜならコントロールしようとしている私こそ自我であるからではないでしょうか。
思考(自我)を見ているものが思考(自我)なのではないでしょうか。
ですからその思考(自我)を思考(自我)と見ているものと一体化してはならないのです。
自我という記憶の反応(思考・感情・行為・欲望・恐怖など)は自動的に或る状況下
では必然的に反応し起こっているのです。
動物を見ても分かるように創造されたDNAのプログラムに従って知覚感覚が起こり
思考と欲望と思考と行為が生起しています。
そして動物たちは自分が思考し行為していると錯覚しております。
それと全く同じように私達も肉体や三つの脳と結合した以上は動物と同じく、それら
の思考や感情や知覚感覚や行為が肉体に起こっているのであります。
③:私達は記憶の反応と一体化しているが意識なのだ。
私達は意識であるから能動思考を使う事が出来るのだ。
脳が受けとっている記憶の反応という受動思考は私ではありません。
時間と空間という認識形式である思考は私ではありません。
条件付けられている脳の知覚である自他の分離に基づく感覚や知覚
は私の感覚や知覚ではありません。私達は意識なのでありましょう。
この私が自分の知覚だと勘違いしている知覚認識は「条件付けられている
脳」の知覚なのです。
私は意識であり、意識として能動思考を使う事が出来るのです。
ただ現状ではサイコノエティック体が未熟なので能動思考を充分には使え
ないのですが、
私は意識です。その意識とは自他の分離が無く時空間の制約を受けません
それはあたかも素粒子のようです。
私は「霊魂と繋がる私」であり、すなわち私は霊魂なのです。
私・霊魂は霊的諸体を持っています。
私は肉体でもなく、脳でもなく、記憶の反応でもなく、記憶の反応の受動思考
でもなく、私は「霊魂と繋がる私」であり、霊魂なのです。そして記憶体ではない
霊的諸体を持っています。
私は意識であり、自他という分離が無い、そして時間と空間という制約のない意識、
インパーソナルライフ普遍意識なのでありましょう。
私は意識であり、意識としての能動思考を使えるのであります。
私は魂と繋がっているコーザル体の現象界に触れている先端部分なのであります。
その先端部分である未熟なサイコノエティック体なのです。
私は肉体でもなく、受動思考でもなく、意識なのに、能動思考である魂からの私は、
そのDNAにしたがって起こっている運命や肉体や個人・障害・才能に対して一体化し、
さらに自動的に起こる記憶からの反応と完璧に一体化してしまっているので、
自分が思考し、自分が行為し、自分が殺した、自分が殺されたと思っています。
・・・この分離次元で起こっているそれらの思考も行為も全てが自動的に起こって
いる記憶の反応なのであります。
私は能動思考であり自他の分離のない意識なのです。私は「霊魂と繋がる私」なのです。
私は肉体に入り脳と結合している「霊魂と繋がる私」サイコノエティック体なのです。
ただ未熟なのでその自分のサイコノエティック体が未形成であり目が開いていないのです。
「霊魂と繋がる私」である自分自身が誤って同一視しているのがこの自我である記憶
の反応なのであります。
それなのに、それにも拘わらず、それらの記憶からの反応である思考や感情や
行為を魂からの自分自身は私が思考し、自分が恐れ、行為したと錯覚しています。
そしてカルマを生み出してしまい。そして苦しんでしまいます。
「魂である意識」は能動思考が使えるのに私達は、ただただ記憶からの受動
思考と一体化して記憶からの「思考や感情や行為」に従って人生をただただ
流されて生きているのであります。
私は受動思考ではない意識です。能動思考を使うことが出来る意識・量子です。
能動思考これは私達意識の道具なので自分の責任として、自動的に起こって
いる自由意志や起こっている行為や起こっている欲望に対して「霊魂と繋が
る私」は僅かながらも自分の自由意志を行使できるのです。
そして、この私「霊魂と繋がる私」であるサイコノエティック体からの能動思考
ではないところの未知なる私、霊魂・ハイヤーセルフさらにはインパーソナルラ
イフからの高次思考もあります。が、今のところ私には体験がないので分かりません。
起こっている事に自動的に即座に反応している受動思考に対してそれを避けよう
としたり、変えようとしたり、良くしようとしている者こそが受動思考なのでは
ないでしょうか。
能動思考はその自動的に起こっている受動思考をただ見ている、ただ意識の焦点を
充てている。ただただ観照している。ただただ見ています。
能動思考は記憶からの反応である受動思考に感謝し、愛し、抱きしめ、耳を傾けるのです。
何故そうするのかと言えば
感謝し、愛し、抱きしめ、耳を傾けることが能動思考の本体の性質だからなのです。
受動思考に対して非難したり、殺そうとしたり、判断したり、変えようとしたり
しているのはその当の受動思考なのでありましょう。
受動思考に同一化したり、受動思考から逃避したり、受動思考を変えようとしている
のはその受動思考なのではありますまいか。
その起こったことに即座に反応している受動思考を受動思考と見ているものは
受動思考ではない能動思考です。
ですからその受動思考に対して何かをしたり、思ったり、判断したりするのは能
動思考ではない受動思考なのです。
ですから受動思考に対して能動思考としては非難せずただただ感謝と愛を注ぐ
のであります。
そして、能動思考としての私に一番大切なことは、自分自身である「神の子」を
想起することであります。自分自身である能動思考の意識の焦点を「自分自身
である内なる神の子」に合わせる、能動思考の意識の焦点を「神の子の私」に
合わせることが大切なのであります。
にもかかわらず、私達「眠れる神の子」は自分が誰であるかを知らない
ので、自分の内奥にある「魂」「私自身」「神の子」に意識のスポット
ライトを向けることを決していたしません。
思考している私とは霊魂の私達ではありません。行為しているのは私・霊魂では
ありません。私は「霊魂と繋がる私」であり神の子なのです。
④:私の本体である神の子・ハイヤーセルフ、
そしてその高次の意識・インパーソナルライフ。
私達は未熟であっても「霊魂と繋がる私」。意識であり、能動思考が使える意識
として、この自分自身の内奥の意識ハイヤーセルフに意識の焦点を合わすべき
であります。【自己想起】です。
私達の本体は神の子、霊魂であり、時間と空間を超えた次元の意識。
自我という自他の分離の無い意識、即ちインパーソナルライフの意識のこと。
その高次思考、超越意識こそ私達の本体。【非局在性である素粒子】
この霊魂である私は生まれず、死なずそして転生していないと言われて
おります。
・・・以上が私の辿り着いた結論であります。
①出来事が内部と外部に起こっている
まずカルマに従ってDNAのプログラム通りに出来事が起こっている。
・誕生する国、肉体状況、頭脳の状態、才能、運命、衝動、欲望などである。
・それがこの私・自我.
・それが自動的に起こっている思考と感情と自我及び肉体の状態と行為である。
・これは全てがカルマに従って自動的に起こっているので、その結果である
私達にはコントロールすることは出来ない。
②それに対して受動思考が起こっている
そのカルマに従って、起こっている事に対しての潜在意識にある記憶体からの
反応が自動的に起こる
・それが受動思考である。私達が通常、自分自身の思考だと錯覚している
至高なことであり、脳が受けとっている思考のこと。
・自由意志に基づく行為と思われている行為・・それが自動的に反応している受動行為
・知覚認識・・それが受動認識
・この受動思考と言う記憶は元はと言えば私達神の子が現象界で
作り出したものであり、私達に責任があるので、この受動思考を
非難したり、変えようとしたり、逃避したり、殺そうとしたりし
てはいけない。受動思考に愛と感謝を捧げるべきだ。
・これは記憶の反応なので私達である能動思考自体にはそれをコント
ロールはできないが、この受動思考と一体化しないことだけは能動
思考には出来るが、最善は愛をその受動思考に捧げることである。
・聞く人がどの次元にいるのかによって、また教える人がどの次元に
いるのかによって教えは異なる。
③私達はその脳からの受動思考と一体化している能動思考だ
「霊魂と繋がる私」がその受動思考に対して一体化してしまいカルマを創り
出している。
私達である「神の子」は未熟なサイコノエティック体で充分には目が開いて
いないので、私達の意識の座に起こった記憶からの反応である受動思考と一体
化してしまい能動的に思考することさえしない。
自動的に出来事に反応する受動思考に完璧に全く同一化している。
私達は記憶では決してない意識なのだから、そして意識とは指向性でもある
のだから自分自身である内なる神に意識を向け
自分自身に向かって歩を進めなければならない。
④私達は未熟であるが「神の子」だ、私達の本体はハイヤーーセルフである。
私達は私達が使用できる能動思考を使用して愛と感謝を全てに捧げるべきだ。
受動思考と一体化せず、能動思考を使って自分自身である「神の子」に焦点
を合わし、魂の私として、真我に向かって、意識インパーソナルライフ、普
遍の私、自他の分離の無い私、一切万物と一体であるわたしに全託しなけれ
ばならない。
以上が修行のプロセスであります。
上記のことを理解するには知識として知るのではなくて体得しなければならないのです。
何故プロセスであるかというと。真理は頭で知るのではなくて体得することだからです。
真理を聞いて記憶することは、真理の誤解でもあるのです。
真理は思考でもなく知識でもありません。
真我や真理の言葉を聴いて、それを暗記し、神の言葉を伝え、教えるその真理とは真理で
はありません。
それは鸚鵡やテープレコーダーやAIと同じ単なる思考の情報や知識
でしかなく、それは真理ではありません。私達は真理にならなければなりません。
真理を知識として知ることは決して真理ではありません、それは思考です。
単なる「真理についての思考」なのです。思考は真理に近づくことが出来ません。
その真理を語る人が問題なのです、
その真理を話す人自身が真理でなければ、その人の語る真理は真理ではありません。
真理とは実存であって、真理を本当に理解するためには真理でなければなりません。
何故ならば真理は思考ではなくて、思考を超えている生命であるからです。
真理を語る為には、わたし自身が真理でなければな
らないのです。