私は誰か

2025/01/14(火)
私とは何か?
私は誰か?

私は以下のような聖賢方の言葉を信じております。


【私は神の分け御霊。私はあなた。私は全ての人と一体。私は一切万物とひとつ。

私は肉体ではない。私は脳ではない。私は思考体ではない。私は感情体ではない。私は行為ではない。

私は神の分け御霊。私は一霊四魂。私は神の子、仏の子。

私は霊魂、私は神の一細胞、私は時間と空間を超えて無限に拡がる意識。最小にして最大の意識。

私は霊魂、私はあなた、私はあなたの私と分離していないインパーソナルの私。私は全人類。

私は霊魂、私は意識。私は思考ではない意識。私は全ての人の肉体と霊的諸体に宿っている霊魂。
     肉体と霊体は私ではなく私の道具。思考と行為は私ではなく私の道具。

私は霊魂、私は自他に分割できない意識。時空を分割し自他を分割している思考は私ではない。
     私は意識。思考や感情や行為は私が使っている道具であって私ではない。

私は霊魂、私は霊であり、愛であり、肉体や幽体や霊体や思考や感情や行為や自我は
     私ではない。それらは私が使っている道具であって私ではない。
     私は思考ではない意識でありそれを否定しているのは私ではない思考であり、その記憶だ】


【思考者はいない思考が有るだけだ、行為者はいない行為は起こっているだけだ】について思うこと。
私達の通常の人生では勿論、誰もが自分は肉体であり、欲望や感情や思考は自分がして
いて、行為の責任は自分の責任だと人類の誰もが確信して疑うことなど全くありません。
そうであるからこそ、個人の責任を裁く法律もあり社会は成立しているのですから。

自分自身は意識であって思考や行為とは、その意識に起こっている事だなどと考える人は
全くの皆無です。
そんなことを云えば村八分になるか、精神病院行きで、拘束され投薬されるのがおちです。
若しくはその話を聞いて無責任になり、身勝手で最悪の自堕落な落伍者になるのかもしれません。
したがって当たり前のまともな考えの人は、
この肉体、この思考、この行為は自分のもので、「肉体は自分のもので、肉体の知覚や脳の機能は
自分自身だ」「行為は勿論私が行為しているので、行為の責任は私にあるからこそ社会が成り
立っているので、そんな行為は起こっているなどと云ったら世の中メチャクチャになるよ」と、
世界中の誰もがそのように思っていることでしょうし、それを疑う人は分裂症か離人症である
ことでありましょう・・・

果たしてこの世界の誰もが絶対的に疑わない「行為は私がしている」「私は個人だ」とは真実
なのでしょうか?
これに対して、賢者達は魂の内奥からの普遍意識で見た場合、思考も行為も本人ではなく
「純粋精神」から発生しているのを本人の「混濁している意識」はそれを自分が思考し、自分
が行為していると知覚しているに過ぎないと云うのです。

ですから究極の真実は、殆ど意識が目覚めていない私達には認識されないとしても、真実は「行為は
起こっている」のではないでしょうか?
それを私達は自分が行為していると知覚しているのではないでしょうか。

世の中の私達は自分は意識であるのに肉体と結合し脳が受信した思考と完璧に一体化してしまっている
ので、知覚認識は限定され、自分が行為していると、そう錯覚してしまっているのではないでしょうか?
世の中の私達はその様な魂からの超意識や超知覚を全く知ることも無く、「科学で解明できないことは
世の中にはない、科学で証明できないことや、私達が理解出来ないこと、私達が知らないことは迷信
で気が狂っている変人の考えなのだ」、
と高次の知覚がある賢者達を否定し罵倒するのです。

意識である私達は潜在意識にある記憶と混濁し、完璧に一体化しているので、自分は個人だと錯覚し
行為に関しても全く疑うことなく絶対的にそのように「自分が行為している」と確信しているので
ありましょう。
けれでもそうなのでありましょうか?
クリシュナムルティーのいうように「行為者はいない行為は起こっているだけだ」が正しいのでは
ないでしょうか?

潜在意識にある思考の記憶が、表面意識に起こっている思考や行為のことを「私は肉体で、思考は
私が思考し、私が行為しているのだ」と思っているに過ぎない
・・のに、肉体脳に結合し、記憶に覆われてしまっている霊魂(意識)は完全に世の中の常識に汚
染され尽くしているので、夢にも「私は個人ではなく全人類だ」「私は思考ではなく肉体でもない
意識だ」「思考や行為は起こっている」などと考えないのでありましょう。


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