まともに、よくよく考えてみました
私達は自分が生きていて、自分の人生を歩んでいると思い込んでいますが
果たしてそうでしょうか?
そうではありません。
私が生きているのではなく、生きているのは大生命です。
私とは〈神が〉生きておられるのです。
私はいません。私とは単に起こっている思考や感情や行為でありその記憶だからです。
神が大生命が私として生きておられるのです。
これが今年で80歳になる私が到達した、今回の転生で出した結論です。
何故ならば
肉体は私のものではありませんから。
霊的諸体は私のものではありませんので。
この超超叡智のすばらしい肉体は私が創ったのでもなく、私が肉体を生かしているのでもありません。
肉体は大生命が創られ、大生命がみずから生きておられるのです。
私が息しているのではなくて、大生命が息しておられるのです。
呼吸は私がしているのではなく、呼吸という超複雑なシステムが連携して働いて息しているのです。
息しておられるのは大生命です、私ではありません。
内臓や心臓や循環や消化は、最高の物凄い精密なシステムですが、それは私が創ったのでもなく
私が動かしているのでもありません。
内蔵やシステムを作った大生命・神が細胞や臓器を生かし動かしておられるのです。
目や脳や耳や知覚や筋肉や神経、そしてこの超高度なシステムは勿論、私が創造した
のでもなく私が動かしているのでもありません。
肉体脳や霊的諸体によって発生しているこの味覚や聴覚や視覚や触覚や嗅覚は勿論、
私が創ったのでもなく、私が動かし維持しているのでもなく、私のものでもありません。
超感覚すら私が創ったのでもなく、私のものはありません。
テレパシーやテレポテーションさらには治癒能力や遠隔治療なども私のものではありません。
この私とは、他の動物や昆虫や生物と同じような構造で同じ細胞で同じ完璧な
システムの結果です。
人々は自分が思考して行為していると全く何の疑いもなくそう確信していますが、
果たしてそうでしょうか?
行為は自分がそう行為しようとする自由意志のそれ以前に行為の指令は起きているのです。
思考は自分がそう思考しようとする自由意志のその直前に思考の指令は起きているのでありましょう。
生きて行為しておられるのは大生命であり、大生命が私なのです。
思考し感情を起こしているのは大生命であり、その大生命が私なのでありましょう。
何と言っても、全ては一切万物、あらゆる生物も無生物も私もあなたも同じ素粒子
ですから。
いくら「肉体は私のもの、思考や感情や心はわたしのものだ」、と叫んでも
この私の指紋や、私の個性や、私の心や、私の特性や、才能は私が創ったのでもなく
私のものではありません。
この私の意識も、認識機能や、統覚機能も、私のパーソナリティーも、個人人格も、
勿論私自身も私のものではありません。
私の心も、私の霊的諸体も、さらに私自身も私が創ったのではなく私のものではありません。
全ての一切は私が創ったのでもなく、私のものでもなく、私を創り生かしておられる「御方」
のものです。
その昔、歌謡曲の歌の文句に「こんな私に誰がした!!」というのがありましたが・・
この私は私のものではなく、私が私を創ったのでもありません。
神が私を創って、私として生きておられるのです。
悩み、苦しみ、悲しみ、殺し、殺され、生まれ、死に、支配し、支配され、思考し、
愛して憎み、行為しているのは私を創った方です。
ですから私は一切万物同じように私のものではなく、私を創った方のものです。
この私とは私を創って、私の心を創って、私を動かしておられる「一切万物の創造主」の
演技です。とても信じられないことでしょうが、よくよく視点を変えて観察すれば
夫れが分かります。
ですから、この自分の心があって、自分が思考していると思っている私は、記憶なのです。
私はわたしの主体ではなく、私を創った御方のものです。わたしの主体は神なのです。
私は単なるロボットなのです。
私を創造した創造主が、生きて苦しみ楽しみ考え転生しておられるのです。
私として生きて演じておられる御方は霊魂であり、観照者であり、神なのです。
私の主体は神です。
私の主体である私は神です。
私を観照している観照者とは霊魂であり神の子であり神なのです。
生まれそして死んで行く私、生起している私、思考し、行為している私は
神の演技なのです。
私として思考し、知覚し、認識し、行為しているのは私ではなくて
私として私を生かし、私を動かし、私として生きておられる「万物の創造主」です。
自分が思考していると錯覚している私、自分が行為していると実感している私は
「私を観照している私」ではありません、思考し行為していると思っている私は私
ではなく神が私として生きて演じておられるのです。
私はわたしの主体ではありません。私は結果であるので私にはわたしの主体のこと
は分かりません。
勿論わたしの主体の私の事は、結果であるこの私には全く分かりません。
それはスマホのゲームでの登場人物が
スマホを動かしている人のことを知らないのと同じです
私は映像なのです。
私はゲームの中の登場人物なのです。ゲームでは殺したり殺されたりしていますが、
その私はゲームを見ている人ではありません。
私は舞台のドラマの登場人物です。
悪役や善人を演じていても、演じておられる役者さんは悪人でも善人でもありません。
私の私は俳優である神なのです。ですからこの私は私の主体で全くありません
わたしの私主体とは、この個性を持った私を創って動かしておられる「大生命・息」です。
ここに生きて行為しておられるのは私ではなくて「私を創造された超叡智・超大生命」です。
息をし、心臓を動かし、手足を動かし、知覚し、認識し、意識しているのは神なのです。
神が息をし、神が心臓を動かし、神が手足を動かし、神が知覚、知覚、認識をしておられます。
それはあらゆる生物やあらゆる鉱物やあらゆる万物を創造し生かして動かしておられる
同じ御方です。
私は私の主体ではなく、私は神のもの、私はゼロです、私は空です。
私の主体は創造主、私の私は万物の創造主です。
わたしの主体である私、私の私は宇宙の創造主です。
その宇宙の創造主が私の主体なのです。神が私なのです。
以上が私の最終結論ですが
ここから先は悟っていない私が言うと、舌を抜かれそうなので責任無しで言わせて貰います。
それはクリシュナムルティーが語っていたエゴ・自我・恐怖の観察者に関することです。
彼は「あるがままをあるがままに見なさい」といっていましたが、これほど実践が困難な
ことは他にはないのではないでしょうか。
恐怖や衝動やエゴや自己関心やプライドや不安や苦痛が襲ってきたときに、それをあるがまま
に見なさいと言うのですから・・しかもその自分を襲っているプライドや苦痛やイライラや自我や
不安を「見ている私」をも同時に非難や判断や逃避や自己同一化なく凝視しなさいと言うのです。
これほど難しいことはありませんね。
自分が怒り、憎しんでいるときにその怒り憎んでいる私を頭の上から見なさいと言うのですから。
また彼は
聖書で「神は愛である」と云われる神を、神という言葉を使わずに代わりに愛と表現しました。
彼には他者と自己の区別がないので「私は救世主である」「私は神である」とはいわず「私は世界
である」といい、自分のことを「彼」といいました。それは実にクリシュナムルティーの私は
もはや解消されていて彼は全ての人の私となっているので、彼の私は万物と一つになっていたからです。
なので彼は生涯にわたって自分を私とは言いませんでした。彼には自他に分離している私は存在して
おらず彼の私は一切万物だからです。
彼は又「見るものは見られるものである」ときそこに愛が顕現していると言っていました。
それは私が一切万物と一つになっているときでしょう、しかし相手が気に入ったものであれば容易いの
ですが、相手がゴキブリとか黴菌とか恐怖心や欲望や痛みや不安や衝動の時は出来うることではあり
ません、かなり難しいです。
自分の心の中身と一切同一化しないで、心の中の嫉妬や競争心や暴力性を流れる雲のように見ると言
うことだけではなくて、それを
見て観察している私のことを凝視しなさいというのです、この私、自我を観察している観察者を凝視
しなさいというのですから。相当に自己観察をしていないとそれは難しいです。
私達は恐怖に出会って、恐怖を対象として、恐怖を観察して、色々とワークをしますが、彼は恐怖
を見ているものは
恐怖であると云ったのです。
「見るものは見られるものである」と言ったのです。
「観察者は観察される者である」と言っているのです。
ですから、見神体験で神を見ているのは神ご自身です。私ではありません。
その神を見ているとき、神とは別の見ている私が存在しているわけがありませんから。
そこには私はいません。
神を見ているものは神なのです。
邪悪を見ているものは邪悪なのです。
自我を観察しているのは自我なのです。
自他の分離を見ているものは無明なのです。
恐怖と戦ったり、恐怖から逃避したり、恐怖を変えようとしている私が最早そこに存在せず、
恐怖を見ている私が恐怖と分離していない時、
即ち私が恐怖を見ているのではなく
見ている私が恐怖であり
恐怖と自分が分離していない時、主体と客体、自他の二元分離が無いとき
そこにわたしがなく恐怖だけがあるとき
そこに愛が即ち神が顕現しているというのです。
これは非常に高度な教えですから、私は宇宙と一体となったとか言う覚醒体験や、神秘体験とは
全く異なっています。
従来の世界を見ている私がいて、その私が宇宙と一体となる等々の体験話とは次元が異なっています。
悟っていない私がさも知ったかぶりをしてそんなことを言うと舌を抜かれそうですが・・・
実相次元は恐怖が守っているのかもしれません、実相という次元の番犬が恐怖なのでしょう。
ですから、恐怖は神のお使いなのです。・・・と推測しております。
この私自身と言えば、未だこの人生で恐怖に出会ったこともなく、常に恐怖に出会わないよう
に、出会わないようにと、恐怖を経験しないようにと瞑想したり自己改革して恐怖を避けてきました。
従って恐怖、本当の根源的な恐怖というものがどういうものなのか計り知れません、恐怖とは恐ろ
しいですからね、
クリシュナムルティーはこの根源的恐怖に出会ってその根源的恐怖は私である・・即ち
そこに根源的恐怖を見ている観察者である自己・私自身が恐怖そのものであると看破したのです。
彼は「見るものは見られるものである」という非分離の実相・実在界の次元に突入したのです。
そしてその「見るものは見られるものである」という対象を見ている私、体験している私が存在し
ていない次元にはそこには恐怖はなく愛だけがあるというのです。
それが釈尊の言う極楽浄土
それがイエスキリスト言う神の国
それがラマナ・マハリシのいう真我
それが日蓮が妙法蓮華経如来寿量品第十六で言う「吾が浄土」彼岸
であることでありましょう。