意識

2025/01/03(金)
意識とは何でしょうか?

それは、意識とは読んで字の如く
「意」即ち心を「識」ること、
即ち「知覚認識する機能」のことであります。

ですので
知覚認識する機能」とは、鏡のような機能ともいえます。

これは意識とは、心を映す鏡という機能、即ち統覚機能のことであり、
それは魂のことであるとも言えます。

エレブナではそれを「セルフエピグノーシス」と言っているのだと思われます。

ここで言う意識とは、心のことではありません。心とは思考のことでもありますので
意識と「思考即ち心」との違いについて述べてみたいと思います。

では此処で問題になっている、思考と意識との違いとは具体的に何でしょうか。
一般的には意識と思考は同じもので、言葉や表現の違いと捉えられておりますが、
思考と異なる意識とは具体的に何処がどう異なるのでしょうか?

思考とは脳が受信した想念の記憶のことです。
それに反して意識とは分かり易く言えば、肉体に宿った魂のことです。
意識とは思考ではなく、思考に巻き込まれることなく、思考を観照している
意識の事でありましょう。

では、現在の私達の発達段階での意識とは何でしょうか?


それを意識の働きという観点から説明すれば・・
「サーチライトで焦点を当てること」のことであり、
「焦点の当っている対象への気づき」「思いなく考えたりすることなく見ること」
又はピンポイントでの焦点からの声に耳を傾けること」などのことでありましょう。

それは、焦点のことについて何かを考えたり、連想したり、思い出したりすることではなく、
又は自分が頭でそれを分かろうとしたり、理解しようとしたり、把握しようとしたり、
それを変えようとしたりすることではなくて、その焦点を当てている対象から聴くこと、
耳を傾けること、そしてじっとその焦点のあたっている相手の話を聞くことなのです。
一番良い言い方は
その焦点の当たっている対象と自分が一つになることでありましょうか。
じっと静かにして言葉を発することなくそのサーチライトがあたっている対象と一体になること
です。


只此処で注意しなくてはいけないのは、その焦点を当てている対象や主体を思索したり
連想したり、分かろうとしたり、変えようとしたりすると、それは思考になってしまい
ますので、ただただ意識はサーチライトのように焦点に注意を向けるだけです。
ただただ耳を傾けること、ただただ凝視するだけ、対象と一つになることです。

これはすぐに考えたり思ったりする癖がついている私達にとっては非常に難しいことです。

それなので、それについていろいろと思考したり、心配したり、案じたり、判断したり、
連想したりすることなく、注意を向けてただただ見ている状態のことを「意識している」
といいます。
何度も言いますが、
それは何も頭に評価や判断や思いや感情や想念が浮かばない状態で、じっと静かに黙って、
強烈にその対象にサーチライトを当てるようにただただ凝視して耳を傾けることです。
対象と一つになることです。

それに反して思考とはその対象について判断したり、非難したり、逃避したり、一体化したり、
評価したり、自分がそれを把握しようとしたり、変えようとしたりしてしまうことです。

普段は私達はそのことを自動的にしているので「注意してただただ見る」のはかなり難しい
ことです。
ですので対象や主体のことをただただ凝視することが「思考なく見る」ということであり、
常日頃から「意識している」ことを練習しなければならないということです。

これは対象が物や自分と直接に関係のないものは簡単なのですが、意識する対象が思考であったり
、自分自身だったり、自分にとって関係することであったり、恐怖や苦痛や行為である場合には
非常に難しくなります。

始めの段階での意識とは上記のようになりますが、徐々に意識がハイヤーセルフとつながり始めると
(私はその段階ではありませんが)意識即ち魂とは物質ではないので、時空間や大きさに関係なく、
過去や未来にもいけて、且つ意識は極小にも極大にもなれますので細胞の中に入れるし、宇宙に拡が
ることさえも出来、自分の脳のみならず、相手の脳にも、テーブルや動物にも接続することが可能
になると言われております。
それがレベルアップした意識の段階だからです。


しかしながら現状においての私達の殆どの方は、
この久保栄治のような未熟な意識でカルマのプログラムを持った個性ある特定の肉体に入り
この肉体の脳と接続し同一化しているので
肉体の脳が送受信している記憶の情報を知覚して
その脳に起こっている記憶の反応と一体化してその情報を私自身だと思っているのです。

そういうことなので、その結果、意識(霊魂)は
「自分とはその脳が送受信している心だ」と錯覚してしまっているのです。

私は意識であり、鏡なのに鏡に映る記憶の反応、即ち個人のパーソナリティー、
人格の私を自分自身だと錯覚しているというのです。

また頭脳の五感覚からの神経情報を自分の知覚だと錯覚しているのです。

五感覚とは実際には意識である私が知覚しているのではなくて、脳が知覚している五感覚で
あるのに、意識は意識が脳と接続しているので脳の知覚を自分の知覚だと錯覚しているのです。

ですから私達意識は脳に一体化して脳に囚われるのではなく、自分自身である意識に意識
を向けるべきなのです。

自分の意識の源である「ハートの中心」に意識の光を当て、そこに接続すべきなのです。

意識を自分の根源である意識の「源泉・ハート」に意識を向けるのです。

私達は以下のように教えられております。
【この意識とは古来から言われている様に「鏡」であるにも拘わらず
この「鏡」が「鏡」に映っている映像と自己同一化しており
自分は肉体であり、自分は自我であり、自分は思考であり
肉体が行為しているのに自分が行為しているだと錯覚しているのです。
自我も、思考も、私も、行為も意識の表面に起こって去来しているのです。

意識である私達は五感覚や思考や感情や行為を自分自身だと錯覚しているのです。
正確に言えば意識とは私ではありません。私は思考であり、意識はインパーソナル
だからです。
細胞がそうであるように、この個人の意識は全体の意識の一部なのでありましょう。

私達、魂である意識の表面からこの心という映像が払われたときに、「鏡」
に映るものは太陽であり、大空であり、源泉であることでありましょう】と。

そういうわけで、今現在はこの私達である意識は完全に思考と一体化しているので
自分自身である意識をしっかりとは知覚出来ないのであります。
かく言うこの久保栄治もその段階の一人です。


ですので、この意識とは鏡であり、意識は脳に接続しているので脳の記憶や感覚
と自己同一化してしまっているという事でありましょう。

しかし、
この意識が宿ったのは肉体の頭脳だけではなくて、幽体や霊体という衣にも覆われています。
なので死後も同じ状態が続いています。

私達とは「自他に分離していると思っている思考の記憶」ではなく意識であり、魂です。
それは即ち鏡であり、エレブナ的に言えばセルフエピグノーシス「全体性である私」意識
なのでありましょう。

それは「空」「太陽」を写し出す鏡なのでありましょう。
その太陽が自分自身を認識する為にその鏡を創ったのでありましょうか。


意識・・それは最小にして最大。
心臓の中にあって無限に拡がる大宇宙、大生命。
個にして全、私にしてあなた。分割できない全体性。
それが鏡と言われている私自身即ち「意識」だと教えられております。

肉体や脳は神の宮であっても私ではありません。
思考や感情や行為は脳が受信して起こしているのであって私の、ではありません。神の演技です。
私は意識であり鏡であり無限に拡がる大空なのです。
「神が私なのです」。
「私は神の一つの細胞なのです」

・・と信じています。

(※ホ・オポノポノのヒューレン博士の解説図です)
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