であり、そしてもう一方のわたしとは神の私(I AM)を指しているように思えます。
「私は私」それは如何なる次元の私の中でも決して変わることのない私・セルフエピグ
ノーシスという私の本質なのでありましょう。
(※セルフエピグノーシスとは「私」意識のことで受動思考のことや、その受動思考の私なの
ではありません。
セルフエピグノーシスとは、色んな思考や想念や記憶が来ては去って行く場。表面意識の
場の事。
表面意識とは正確に言えば思考ではなく意識であり、現在の私達地球人類の意識段階では
その表面意識とは「意識の焦点」「レーザーポインターのように特定の細胞や対象に関して
意識を当てる」「思考するのではなくて思考や或る対象に、ある思考や感情や自我に光で
ポイントで当てる」ということです
この表面意識とはまた「意識の座」「鏡」などとも呼称されています。
形成過程にある「霊的諸身体・サイコノエティック体」即ち思考体、感情体の意識、
であり能動思考、高次思考とよばれている霊的諸体からの意識的思考のことでしょう。
目が充分に開いていない眠っている神の子の意識でもあり、この意識は地球人類では殆
ど発達していないと言われています。)
「私は私」それは低次の次元でも、意識化されていなくても、未だ眠っていても、どの段階
・次元の私であっても、常に変わらない私それがセルフエピグノーシスという意識です。
この私セルフエピグノーシスは全ての人類で全く同じだということです。
それは「魂からの私」でもあり、ただ進化段階がそれぞれで異なっているだけです。
それは自分の肉体の細胞は他の人の肉体の細胞と全く同じだと言うのと同じです。
私達は通常、肉体は自分の肉体だと錯覚していますが、肉体は神のものであり、神の最高傑作です。
この肉体の細胞と肉体全体との関係を「私は私」に例えるならば
私もあなたも同じ人体(神)を構成している一細胞なのだということ。
私もあなたも同じ全人類を構成している一細胞なのだと言うことであります。
この私セルフエピグノーシスは、全ての人類の私と同じだと言うことであります。
個人の私は、実は全人類の一部であり、全人類と分離できないということ。
そしてこの私は個人ではなく全個人即ち全人類だと言うこと。
それは、個人即全人類、個我即全個我、一即多、わたしはあなただということ。
パーソナルはインパーソナルだということ。
海の一つの波は、海全体と一体なのに自分は海ではないと錯覚していますが、海の一部です。
それと同じように
肉体の一つの細胞は、肉体を構成している何兆とある細胞の一つで、全体で一つの肉体を
構成しています。
それなのに一つの細胞が「俺は個人で他の細胞ではない」と自分が分離を錯覚することで癌細胞に
なってしまうのです。
私達人類は「私」というと、この指紋がそれぞれ異なっているある特定の個人を指しますが
この特定の名前を持って指紋が異なっている個人である「私」とは、実は私セルフエピグノーシス
なのです。指紋という個人性を創造したのは指紋がある個人ではなくて全体である神だからです。
それはちょうど海の波や一つの細胞と同じく個はそのままで全体であるのと同じなのです。
人類の個人の「私セルフエピグノーシス」とは何億とある名前を持った個人の私ですが
それは同時に「インパーソナル I AM THAT I AM」なのです。
しかしながら現状においては、このセルフエピグノーシスのわたしは脳と結合しているので
脳が受信している記憶帶からの受動思考を自分の思考だと受動思考と同一化して錯覚しています。
自分が嫉妬し、自分が恐怖し、自分は自我であるとその嫉妬や恐怖や苦しみと同一化しています。
思考は起こっており、行為は為されているのに自分が思考し、自分が行為していると錯覚しています。
それらのは全ては、セルフエピグノーシスである表面意識に起こって、そして去って行きます。
この人類で同じの私とはセルフエピグノーシスの私であって自我という記憶ではありません。
私達は表面意識であるセルフエピグノーシスであり表面意識に去来する受動思考ではありません。
この自我という記憶は受動思考であり、その受動思考とは脳が受けとった記憶からの情報です。
その受動思考の大元は私という観念であり、地球を覆っている想念帶であり
それは神聖なる神のマーヤだと言われております。
それなので神の演技であるこの私自我には、自分自身である自我をコントロールすることは
出来ません。
自我をコントロールしようとしている者が自我だからです。
私自我とは神がお使いになっておられるからです。
セルフエピグノーシスの私にとってもその神の演技である自我をコントロールすることは
出来ません。
それは源泉である神の演技だからです。
しかしながら
それらセルフエピグノーシスという表面意識に去来している自我の私は
「自他を分離している私という観念の記憶」であって
私であるセルフエピグノーシスの私ではないのでその去来する記憶と同一化をしないことは可能です。
思考や行為や自我の観照者、目撃者として記憶と同一化しないことは可能です。
さて話しが戻りますが
セルフエピグノーシスとしての私達は海の一つの波と同じく「波であると当時に、
それは実際は海」なのです。
私達は個人であると同時に非個人であり全ての個人は全人類で一つの海なのです。
一つの波が全体の波と分離していない一つの海であることを悟るとき、
その時、私はもはや私ではなく真我なのです。
その時、波は最早波ではなくて海なのです。
そして、
その時、
自我である塩人形の私はこの海に出会って海に溶け去るのです。
さて、再度確認ですが
セルフエピグノーシスの私が自分だと錯覚している私とは記憶の反応である自我です。
しかしながら
自我の根源は真我です。自我は自我が創ったのではないからです。
私・自我は私セルフエピグノーシスが創ったのではなく、私・自我は神の演技、神の映像なのです。
私はセルフエピグノーシスであって記憶の私ではありません。
この私は私個人であるようにおもえても、すべての私個人と同じく普遍的自己インパーソナル
の私なのです。
それは肉体に於いても
各何億とある細胞が一糸乱れず一体として機能しているので
この肉体が維持されているように
地球人類は全ての人類は同じくパーソナルに思えていても、同時に一つの私
即ちインパーソナルの私なのです
ですから
私は私
即ち
私は全ての私と一つなのです。
・・と思うのです。
ジョセフベナーは言います・・。
【生まれ、そして死んでいくものは、個人性、パーソナリティーであり、それは身体の中に
そして、地上での生活に長く留まろうとします。わたしがその身体の用途を終えたとき、
パーソナリティーは他の身体に還って来ようとします。】
【真我I AM・わたしそのものであるあなたは、
わたしのイデアを表現するという目的のため、今現在、全ての存在の中に在るのであり
全ての存在として生まれ変わるのです。人類そのものがわたしである私の身体なのです】
※私とは大雑把に解説すると
A:神の演技である記憶である私・自我・人格の私(自我には自我の支配権はない)
(転生を繰り返している継続する自我・人格の私)
B:各転生を通じて変わらない(即ち転生をしていない私)セルフエピグノーシス。
どの次元のどの段階の、どの転生時の、どの私でもこのセルフエピグノーシスが私です。
霊魂と繋がるコーザル体即ちサイコノエティック体の私です。
C:観照者の私、ABの私を観照している高次元の霊魂。真我。
と推測しております。