衆生劫尽きて大火に焼かるるとみるときも、
吾がこの浄土は安穏にして、天人常に充満せり
園林諸々の堂閣、種々の宝を持って荘厳し
宝樹花身多くして衆生の遊楽する所なり
諸天天鼓を撃って、常に諸々の伎楽をなし
曼荼羅をふらして、仏及び大衆にさんず。
妙法蓮華経 如来寿量品第十六のなかで
釈尊は真我(実相次元の私)を上記の様に説明されております。
私達の真我は筆舌に尽くしがたく「言語に絶する」と言われていますので
釈尊がこの二元分離のマーヤから解放された私達の真我(真理・実相)の姿を
このようにここまで具体的に述べておられることは驚きます。
ではここで釈尊の言われる「極楽浄土」とは何でありましょうか?
それは実相世界のことです。この現象世界は実相ではないというのです。
では実相とは何でしょうか?
実相・・それは私はあなたであり、私は世界であると言うことです。世界中の人々には
全く何を言っているのかは理解されず、まともな顔をして話せば正気を疑われ、怪訝な顔を
され、病院に入院させられ薬物を投与され、仕事や友人を失い、信用を失ってしまうことで
しょうが・・・実相は私はあなたであり、私は世界であると言うことです。・・と言うことです。
私の中にあなたがいて、私の中に世界があると言うことです。自と他、世界と私は分離していない
というのです。
これが実相であり、極楽浄土です。
たとえ次元上昇で現象世界が火の海で崩壊しても、決して焼かれない実相世界があると言うのです。
実相、それは「私はあなたであり、私は真我であり、わたしは全ての万物と一つだ」と言うことで
あります。
では私とあなたは一つで、私が万物と分離していないとは具体的にはどういうことでしょうか?
それは「見るものは見られるものである」であり、「神以外、仏以外、真我以外には何ものも存在
していない」ということです。
そのとき、その領解があるとき、そこに仏が顕現している、即ち愛である神・真我(実相世界)が
姿を顕しているというのです。「汝の敵を愛する」とき、そこに実相世界が顕現していると言うのです。
では「見るものは見られるものである」とはどういう意味なのでありましょうか?
それは見る者即ち私とは、見られるもの即ち対象・あなたと一つで同じであるというです。
私が対象を見ているのではなくて、見られている対象が私だと言うのです。
私が相手を見ているのではなくて、相手が私だと言うのです。
見られている対象とは何でしょうか?
それはこの私自身であり、私の前のあなたでもあります。それはまた心に去来する不安や欲望、痛み、病気や不幸、失敗や成功、イライラや苦しみ、嫉妬心、恐怖心、競争心、独占欲、自己顕示欲などであり、それはまた一番近くにいる家族であり、地域の人々や会社の仲間達、世界のテロリストであり、ブラックであり、敵であり、殺す者、殺される者、苦しんでいる人、搾取する人される人、そして動物たちや、植物、そして家や自動車や会社や国家や地球などの全てがそうなのであります。
通常、私達は自分と他人を分離して、相手を非難して、私はあなたではないと誰もがそのように実感していますが、
それは現象の知覚であって、実相では私はあなたであり、私もあなたも真我即ち神なのだというのです。
「見るものは見られるものである」とは実相の知覚認識なのです、「観察者は観察される者である」
とは実相の知覚認識なのです。
そしてその実相こそが愛なのです。実相では全て一切は仏で在り、真我であり神なのです。
それは
私があなたであるとき、私が全ての人と分離できないとき、私が私の対象と一つであるとき、
観察者が観察されるものであるとき、即ち現象という虚偽の中に真理である実相が顕現しているとき
そこには私もあなたもなく、そこには神が、仏が、愛が、真我が姿を顕していると釈尊は
教えておられるのでありましょう。
覚者達は以下の様に言っているのではないかと推測しています。
「私達は真我(仏)であるのに、真我になろう、至ろうとすることで、ますま
す”自分は真我ではない”との錯覚を強化してしまい、真我(仏)である私
(仏)から離れてしまっています」
「真我(仏)に成ろうとしているのは思考であって、それはあなたではありません.
真我(仏)は真我(仏)に至ろうとしたり成ろうとはしません、真我だからです」
「あなたは真我(仏)に成るのではなくて、あなたは既に真我(仏)なのです」
「あなたは既に真我であるのに時間という思考と自己同一化して”自分は未だ真我ではない”
と錯覚し、真我(仏)に至ろう、真我に成ろうとすることで、”自分は真我ではない”という
錯覚・虚偽をますます強めてしまい、自分が自分自身である真我から遠ざかってしまっています」
(※ここでいうあなたとは全ての次元の私に共通している同一の私、全ての偽の私の基底に
ある私自身・セルフエピグノーシスの私、インパーソナルの私のこと)
「自分自身を真我ではなくて自分は自我であると知覚認識している私とは、それは、あなたで
はなくて、あなたを包み込み、あなたに深く覆い被さり、転生を繰り返している自我という思
考の記憶なのです。その思考が自分は対象と分離していると錯覚しているのです」
「目の前の人を、私ではない他人だと知覚認識しているのはインパーソナルの私ではなく思考
の記憶です」
「あなたは”自分は自我であると認識している私”だと思い込んでいますが、実はその自我こそが
生きとし生けるものを生かしている呼吸・大生命が生み出した私であり、その自我を使って大生命
が思考と感情と行為を起こしておられます。
全ての人々は同じように息をして心臓を動かしておられるその大生命が個人の私を創り、異なる肉
体と異なる個性を持った私として、この世界で演じられ生きておられるのです。
実際にはこの全ての個人の私とは大生命によって起こっている思考と行為の記憶であり、実際に
生きているのは大生命であり、大生命が心臓を動かし呼吸して思考し行為して生きておられるの
です。
パーソナルな人格のあなたとは、私なのではなく《大生命が生みだし動かしているこの脳》から
生じている思考と行為の記憶であり、その生じている記憶という結果であり、その結果の反応なの
であって、この肉体に入って脳と結合した霊魂の私、インパーソナルな私、セルフエピグノーシ
スの私なのではありません。
自分は他の人とは異なっている個人だと思っているあなたとは記憶なのです。
実際に生きて呼吸して、思考して行為しているのは大生命の私(I AM)なのです。
あなたとは自他に分離していない《目の前の人である私》大生命のこの私です。それは
霊魂の私、全ての人と一体の私であるインパーソナルな私、セルフエピグノーシスの私です。
しかしながら
地球の全ての個人の私は同じ大生命からの思考と行為の結果であり、この個人人格の私とは
ひとつの大生命から生じている思考と行為の記憶の結果の私であり、その私は《セルフエピグノー
シスの私》《インパーソナル》の私、《息している私》、魂の私、生命の私、観照者の私、
生きている私、ではありません。
ですので、私であるわたし《セルフエピグノーシスの私》とは神(仏)である真我(イ
ンパーソナル・人類で一体の私)なのです」
「私はあなたであり、全ての人の私であるのに、それを知覚していないのはあなた(私)
ではなく、あなたを覆い隠し包んでいる思考なのです、あなたは自と他に分離して
いない全てと一つの神(仏)なのです」
と仰います。
衆生劫尽きて。大火に焼かるると見る時も。我が此の土は安穏にして。天人常に充満せり。園林諸の堂閣。種種の宝をもって荘厳し。宝樹花果多くして。衆生の遊楽する所なり。諸天天鼓を撃って。常に諸の伎楽を作し。曼陀羅華を雨らして。仏及び大衆に散ず。我が浄土は毀れざるに。而も衆は焼け尽きて。憂怖諸の苦悩。是の如き悉く充満せりと見る。是の諸の罪の衆生は。悪業の因縁を以て。阿僧祇劫を過ぐれども。三宝の名を聞かず。諸の有ゆる功徳を修し。柔和質直なる者は。則ち皆我が身。此にあって法を説くと見る