自分では無いと錯覚している。
心臓を動かし、呼吸し、血液を循環させ、消化吸収し、エネルギーを生みだし
DNAを使って細胞を再生させているのは生命であって記憶の私ではない様に、
記憶の私が見て知覚し認識して行為しているのではない。
それは脳がしているのだ。その脳は私もあなたも全く同じだ。
そして私の脳もあなたの脳も、脳は生命が創り動かしているのである。
だから勿論、当たり前の話だが、脳は生命が創ったのであって、記憶の
私がではない。
記憶の私とは脳の結果なのだ。
そしてその脳は
私の脳ではなくて、脳が記憶を創りその記憶が私だと思っているのである。
知覚も、そして認識も、そして行為も、この誰の意識自体も、
いのちが記憶と脳と肉体を創造しそれを使って思考し行為しておられるのである。
・・それらはこの記憶の私が創造し使っているのではないのだ。
・・私と私以外の人も、息しているのは全く同じの大生命だからなのだ。
極論からすれば
私は生まれたのではないし、私は生まれてもいない。正しくは私はいない。
人格の私とは記憶であり、この人格の私は実在ではないのだ。
いのちが脳を創造して「私という自己意識」を生じさせ、それを使って
神が私・人格を演じておられるのである。
世界中の全ての人は同じ同一の生命が生きて行為しておられるのです。
それなのに
私達はその記憶の私を自分だと勘違いしている。
肉体に入り脳と結合した「魂からの私」は記憶の私を自分だと思い違い
している。
この現在の私、即ち自己と他者を分離していると見ている私・自己意
識とはいのちによって生じている記憶に過ぎない。
この現在の記憶の私は主体ではないし、魂からの私でもない
、主体はいのちだからだ。
私が息をしているのではない、いのちが息を始め、そしていのちがずっと息をして
おられて、最後には寿命が来て、そしていのちが息を引き取るのである。
それは人間だけではなくすべての生物は同じだ。
息をして生きておられるのは、記憶の私ではなくて、いのちなのである。
そのいのちとは、私のいのちではなくて、神である「いのちの私」なのである。
この私は、私の主人公ではなく、私の主人公とはいのちである。主体はいのちだ。
人類全ての私は全く同じいのちが呼吸している。同じいのちが演技している。
この思考し行為する私がではない。すべての肉体での思考と行為は神の演技である。
何故なら、この私とはいのちが生み出した脳で、受信した記憶に過ぎないからだ。
自分が生きていると思っているこの私とは脳が受信した思考の記憶の反応
に過ぎないのだ。
その記憶の私を未知なる「魂と繋がる私」が自分だと錯覚しているのである。
肉体には生死があるが、いのち自体は生まれることも死ぬこともない。
私もあなたも全く同一のいのちなのだ。
何故ならば、いのちはいのちであるから生死はない。行き通しいのちだからだ。
私がこの私やあなたを創ったのではない、いのちがこの私やあなたを創り、
いのちが、この私やあなたとして演じて生きておられるのである。
私もあなたも同じ同一の神の演技であって、それは私やあなたも同じ演技して
いる神なのだ。
私が思考しているのではない、思考は起こっているのだ。
私が行為しているのではない、行為は起こっているのだ。
そしていのちが思考と行為を演じておられるのである。
そしていのちが私と言う自己を演じておられるのである。
そして未知なる「魂と繋がる私」が脳と結合し、その演技の私を
自分だと錯覚しているのだ。
その肉体と記憶の私に繋がった「魂からの私」がその記憶の
私が行う行為や思考を自分が思考し行為していると錯覚し
カルマの輪に閉じ込められてしまったのである。
「魂からの私」は本来は自分自身は神の子であることを忘れ、自分と
このカルマによって起こっている記憶の私と同一化して、私はこの
記憶だと錯覚してしまったのである。
記憶の私が生きているのではない、いのちが私やあなたとして生きて
悩み苦しみ、人生を体験しておられるのである。それなのにそのいの
ちと一緒に肉体に繋がった「魂からの私」が「神の演技である私・記憶」
を自分自身だと思い込み、カルマを身に引き受けてしまったのだ。
記憶・私が思考し行為しているのではなく、いのちが脳や諸体を使い思考
と行為を起こし人生を体験しておられるのである。
それを、この記憶の反応の私が自分が思考し行為していると知覚している
のではないだろうか?
そして更にいのちと一緒に肉体に入った魂からの私がそのカルマで創ら
れている記憶を自分自身だと固く深く自分自身だと信じ込んでしまった
のである。そして他人を自分とは異なっていると錯覚しているのである。
この大叡智、大驚異の肉体は私が創ったのでもなく、私のものでもない。
肉体はいのちのものである。
これは誰の目にも明らかなことである。
肉体はいのちのものであり、いのちが肉体を創り、個性を創り、成長させ、老化
させ、病気にさせ、呼吸し心臓を動かして維持されている。そして最後は
いのちは「魂からの私」や記憶の私と一緒に呼吸とともに肉体から去るのである。
それは、周りの動物や生き物を見ても分かるとおり、動物を創り生かしている
のは、その動物自身ではなくて、その動物の自己意識は人類の自己意識と
同じく、いのちが創ったのである。ただ人間の場合は、動物の自己意識という本能
だけではなくて人類の集合意識やいのちである霊魂からの高次の意識も混在して
たいへんに複層的な意識構造になっている。
脳も同じく私が創ったのではなく、いのちが脳を創り、人類全ての人々の夫
々の個人的な脳を動かし、呼吸し、食べさせ、思考され、行為されている。
そしてそこへ「魂からの私」がいのちと共に肉体に入りその記憶の私を自分だと
信じ込んだのである。
個人は神の演技であって、夫々の個人を創造しているのは同じいのちなのだ。
脳の結果であるこの私とは、即ちこの私とは脳の記憶の反応だ。
夫々の個人の特性や個人の才能や障害は私のものではなく神のものだ。
その脳が生み出した思考や感情や行為やその知覚である記憶、即ちこの私を
、いのちが使って人生を演じておられる。私やあなたの人生を生きておられ
るのは神なのだ。
それなのに、「魂からの私」がその記憶の私を自分だと錯覚しカルマに
巻き込まれているのである。
いのちが私として思考し、行為し、悩み、恐れ、苦しみ、産まれ、そし
てまたいのちが肉体から去って行く。
いのちが死ぬのではなく、肉体から息がいのちへと引き取られるのである。
誕生と同時に肉体に入った息が、こんどは寿命が来て、最後の吐く息と
一緒に肉体から「魂からの私」と一緒にいのちが去るのである。
そして死後も残った記憶の私が自分の死体を見て困惑したりするのだ。
いのちは産まれることもなく死ぬこともない。生命そのものだからだ。
いのちが私として生き、思考し、行為され、私として死ぬという体験を
しておられる。だからこのわたしゃあなたとは同じいのちなのだ。
産まれ、そして死に、悩み、苦しんでいるのは私ではなくいのちの演技、脳の
記憶なのである。
この私とは「私が生きていると錯覚している思考、起こっている想念」であり、
この脳に起こっている脳内の思考想念の伝達物質の記憶が、自分は肉体だ
と勘違い、肉体の死後に「自分は死んだのに何故ここにいるのだろうか?」と
迷い勘違いし、あの世という死後の次元でも混乱しているのである。
そして「魂からの私」は目覚めていないのでその記憶の私を自分自身だと
思い込んでしまっているのである。
私はそして全ての人の私は、一人残らず同じくいのちである神の演技な
のである。・・・ということは地球上の全ての個人個人として演技して
いるのは、全く同じ神なのである。
私やあなたとは神なのである。
だから地球上の誰一人として神のいのちの演技でないものはない。
一人一人が神の演技なのだ。即ちそれはとりもなおさず演技をされている神
だからなのだ。
すべての私やあなたという個人とは神の演技であり、私も、その私の行為も
その私が思考する思考も「魂からの私」に起こっている、神の演技なのだ。
私はそれに巻き込まれてしまっているが本当は観照者なのだ。
即ち、
神がわたしやあなたとして個人個人として思考し行為されているのだ。
私はそれを観照している観照者なのだ。
私やあなたとして思考し行為しているのは神の演技、神の映像。
だからこそ全ての人は実はパーソナルではなくて
普遍なインパーソナルであり、
神の子なのだ。
それは「虚偽の中に真理を見よ」ということなのであろう。
このDNAとカルマによってプログラムされている肉体と脳を持つ
胎児が最初に吸う息「いのち」と一緒に脳に結びついたのが「迷える神
の子羊」魂からの私。
自分が神の子であることを忘れた神の子。・・
自分は観照者で在ることを忘れた神の子羊。
自分は魂(いのち)と繋がっていることを忘れ果てた私は神の子供なのだ!!
自分は「生命の樹」であることを忘れ果てた私は命である神の子供なのだ!!
このいのちの子供は肉体でもなく、心でもない。
神の子である。
「いのちである私I AM」とは
肉体でもなく、思考体や感情体でもなく、行為でもなく、記憶の私でもない。
「いのちである私I AM」とは産まれず、死なず、思考せず、行為もしていない。
「私I AM」とはいのちであり、それは神なのである。
・・では最終的に私は誰か?私は何なのか?
「私は無である、と同時に私は私を生かしているインパーソナルである」
「私やあなたを演じておられるインパーソナル・神である」
「私はあなたである」
「私は神の子である」。
「私は肉体ではない、肉体は神のもの。
私は思考や感情や行為ではない、思考や感情や行為は神のもの。」
では私とは一体何なのか?
私はあなたである。
私とはあなたなのだ。
私はそれである。
私は世界で在る。私とは世界なのだ。」