私は眠っていることに気が付いていない

2024/11/09(土)
私は自分が眠っていることに気が付いていない。

この私自分は、自分が眠っていて
目が覚めていないことに気が付いていない。

私は見えておらず、脳内の映像を見ているだけで、実際の世界は
見えていないことが見えていない。

私(魂と繋がっているサイコノエティック体の私)は、
脳との結合パイプだけは活性化し意識化しているが、
魂との結合のパイプコード(高次センター)が活性化していないので
脳という送受信器が受信している「私という観念」以外の
魂からの高次思考を全く知らない。

私は魂に繋がっている自分自身である私(サイコノエティック体)からの
能動思考と、送受信器である脳からの受動思考を混同しているため大混乱
状態にあることを知らない。受動思考と能動思考の区別がつかないのである。

(※送受信器である脳からの受動思考も、魂と繋がるサイコノエティック体
からの能動思考も共にそれぞれエレメンタル・想念形態を形成し、物質化
し実現していくので、魂と繋がる私は受動思考とは一体化せず、愛し感謝
する事で受動思考であるエレメンタルを中和することが求められている。)

では目が覚めるとは一体何なのか?
私は目が覚めていないのだが知識ではそれを知っている。

脳と言う送受信器からの受動思考ではなくて
魂とのパイプを開通させた、その魂からの高次思考の情報によると・・・。

その送受信器である脳からの受動思考とは何のことだろうか?

それは「見るものは見られるものである」ということ。

自分を変えようとしているわたしこそ、その私(受動思考)であるということ。
自己観察している私こそ、その観察されている私(受動思考)であるということ。
相手を見て非難している私こそ、その非難されている相手であると言うこと。
そして
それは同時にその思考の正体を照見しているとき
「見るものは見られるものである」であり、全ては一つだったので在ると。

自分は神の映像であり、神の演技であって、生きて演技しているのは神
であり、主体は神であることを知ることが最初の目覚めであり
それが観照者(能動思考が高次思考と繋がる)である。
ということであろう。

殺し殺され、産まれ死に、苦しみ悲しみ自我として生きておられるのは
神(真我・ハート・真鏡)なのである。


今朝、ふと思いついたこと。

自分(魂と繋がるサイコノエティック体の私)は目が覚めていない
のではないか?

自分は一生涯、目が覚めていないまま、誕生と寿命が決まっている
この肉体を得て、脳と一体化し、自分が思考し行為していると錯覚
し続け、生死の中で眠り続け、またこのまま苦しみを繰り返すので
はないか?

この肉体は神のもの、
この思考は神のもの、
この行為は神のもの、
この記憶は神のもの、
そしてこの私・自我は神のもの、
この私は神の演技。
真の主体は神なのだ。

神がこの私・自我を使って演じておられる。
この私は私ではない。神が私なのだ。
(これは高次思考による表現であり、脳による常識的受動思考で誤解し
ないで下さい)

即ち、神がこの「人類で一体で一つの自我(私という観念)」を使って
「個人個人の私」として、争い戦い、殺し殺され、思考し、行為し、世
界を演じているということだろうか。

肉体や霊的諸体(サイコノエティック体ではない幽体霊体)は私のもの
ではない。それは神の演技である。神そのものではない。

思考や感情や行為は私のものではない。
この「あなたや万物と分離している私・自我」は私ではなく
私のものではない。
肉体や幽体や霊体(サイコノエティック体ではない)は私ではない。

霊魂であるサイコノエティック体や三種の神器こそ私なのだ。

この「悩み苦しみ病気になり死んで行く私」「思考し行為する私」と
は神のロボット機械であり、神の演技なのだ。演じているのは神なのだ。

本当の私とはこの事に気がついている観照者・インパーソナルなのだ。

しかし、しかしながら「魂と繋がっているこの現在の私」は
自分が眠ったままでいること・・そのことに気が付いていないので
眠ったまま、神の演技である私を自分だと錯覚し、無明の中で
脳や霊的諸体に縛り付けられて、この状態のまま生き続けている。
脳からの記憶の反応である受動思考を自分だと錯覚している。

私は送受信器であるこの脳と繋がって
この「肉体は自分のもの」であり、「心は自分のものだ」と信じ続けているので
自分が思考して、
自分が行為して
この自分は私だと思い込み
神が生きておられて行為しているのに自分が生きていると錯覚しているのだ。

私が行為しているのではなくて、神がこの私・自我を使って行為している。
私が思考しているのではなくて、神がこの私・自我を使って思考している。
私が生きているのではなくて、神がこの私・自我を使って生きている。

わたしは誰か?

わたしは上記のそれらのことを見て知っている観照者であって
思考している思考者ではない。
私は行為している行為者ではない。
私は思考している思考者ではない。
私は分離している自己即ち自我ではない。
私は私という観念ではない。
私は肉体でもなく、人格の私でもない。
私は自分が行為していると錯覚し輪廻転生している霊的諸体でもない。
それらは神の演技なのである。

私とはそれらのことを知っている魂と繋がる私だ。
しかしながら
「魂と繋がるこの現在の私」は、未だ目が覚めていないので、そのことを知らな
いでいる。
この肉体に入って脳と結合した「神の演技ではない霊魂と繋がる私・神の子」は
未だに目が覚めずに眠っている。

いまの段階の「魂と繋がっている私」は
「私自分は思考や行為している私」ではなくて観照者であることに
「私自分は魂である」ことをまったく自覚せず、気がついていない状態にいる。

自分が生きて、自分が思考して、自分が行為して、自分は自我なのだと
そのように深く、深く深く錯覚し、そう思い込んでしまっている。
「魂と繋がるこの私」は目が覚めていないので
そのことを知らずにいて
自分はこの自我で
自分は肉体で
自分が行為して
自分が思考していると
自分の人生で、自分が生きているのだと
そのように錯覚しつづけているのだ。

脳が知覚している世界を、本当の世界だと誰もが同じの共同幻想の中にいる。

行為している者は私ではない。
思考している者は私ではない。
私をなんとかして良くしようとしている私は私ではない。
それらの私は神の演技、神のロボット。
これらのこの私・自我は私ではない。
それらは全て神の映像、神の演技だ。

この自他に分離している自我の私は記憶の反応、自我であり、
自我は神がコントロールしている神の演技。
だから結果である自我には神がコントロールしている自我を
変えることが出来ないのだ。
この私は脳が生み出した化学物質の記憶だ。

私はそれらの私ではない。
私はそれらを観照している観照者即ち霊魂でありながら
その魂と繋がっている私は
悲しいことに
その私である「霊魂からの私」は眠ってしまっていて目が覚めていないのだ。
私は眠っていて目が覚めていない。
自分は霊魂であり、神の子であること、
自分は個人ではなく全体であり、万物と一つであることを知らない。

だから霊魂と繋がるこの私、
この私は自分が目が覚めていないことを知らず
そしてそのことを自覚していないのである。

であるから
私はこの記憶と一体化していて
「神の演技である記憶の反応即ち自我」を自分だと思い込み、肉体と同一視して
悩み苦しみ、「自分は産まれそして病気になって死ぬのだ」と思い込んでいる。
産まれ、そして病気になり死んで行くのは肉体であって私ではないことを
完全に忘れ果ててしまっている。

神の演技である自我が起こしている「思考や行為や衝動や欲望、恐怖
、これらの私」を魂と繋がる私は自分のもので自分が起こしていると錯覚し
カルマに縛られ
そしてこうして、このように
この夢の現象界の中で目が覚めないまま
産まれ、そして病み、死んで行く。
それらの苦しみは神の演技(自我)を自分と錯覚し続けているからだ。

では目が覚めるためには
何が絶対条件なのか?

それは内なる私自身である根源・サムシンググレート・神に全託する
しかない!!
この私も世界も神の映像なのでありましょう!
生きておられるのは神だけです。

私にはその様に思われるのです。



× 閉じる