思考は三種類在る

2024/10/27(日)
思考とは三種類在る

私は、肉体ではない。
私は、「自分は肉体だ」と思っている記憶・自我・人格・集合無意識ではない。
私は、「あなたは私ではない」と思っている心・低次霊的諸体でもない。
私は、万物と分離していない一切万物である私、インパーソナルのわたしである。


思考それは、すべてが一緒くたにされていますが、実は思考には三種類あって
それぞれの思考は、主体も次元も全く異なっているのであります。
ということは私・自己意識も三つあってそれぞれの私がこの肉体に共存している
というのであります。

魂と繋がる私である表面意識のこの私は、魂と繋がる私であるのに、記憶の反
応の私即ち自我の私と一体化してしまっています。
魂と繋がる私が魂の私に還ることが生きている目的なのに、魂と繋がる私は
ではない記憶の反応の私を自分だと思い違いしているのです。
そして自分は肉体であり、欲が深く、暴力的で、思いやりがなく苦しむ
個人だと錯覚しています。が、本当の魂の私はインパーソナルの私であり、
個人人格の私ではなくて、自他に分割されない私なのでありましょう。


思考(三つの異なる私からの思考)それは
Ⅰ:受動思考(本能意識・集合無意識・記憶の反応の私)
Ⅱ:能動思考(パーソナル自我意識・未発達な霊的諸体の意識の私)
Ⅲ:高次思考(インパーソナル意識である魂の私)。
で構成されています。


思考とは自己意識のことであるので、私は、と言った場合、どの思考
・意識(私)のことなのかの識別が必要でありましょう。


Ⅰ:受動思考(受動意識)とは、脳からの「記憶の反応」のことであり、
  異なる二つの種類があります。しかしこの思考は私を騙る記憶なの
  であって私ではありません。
  この受動思考の私は記憶の反応であって私なのではではありません。
  この受動思考の行為や思考はDNAやカルマによって決定されて起こっています。

ⅠA:カルマによって何時何処で何が起こるのかが決定されていて、起こって
  いる出来事。それは、正確に起こる衝動、欲望、思考、そして行為などです。
  このカルマによって決定されている出会いや別れや、希望や絶望は瞬時の
  狂いもなく必ず内部と外部に起こります。しかしこの衝動は私ではありません。
  これがカルマです。
ⅠB:カルマによって起こっている内と外の出来事に対して自動的に反応している
  が脳が受信した想念の記憶の私・自我です。これが受動思考です。
  この脳が受信した記憶のことを通常の人類は私だと思っていて疑いません。
  魂と繋がっている私(パーソナルの私)が肉体に入り脳と結合し、脳
  と一体化してしまった結果、魂と繋がっている私が、自分の思考や自分の
  行為だと錯覚してしまっているのがこの脳の思考(記憶の反応)のことです。
  この受動思考Bとは脳が受信している「思考の記憶の反応」のことで、そ
  れは通常、私達が自分だと思っている私のことでパーソナル思考(人格・
  自我)ともいます。
  この受動思考Bとは記憶の反応であり、魂と繋がっている私(パーソ
  ナルの私)は自分の自由意志で行為や思考を起こしコントロールして
  いると思っていますが、実は、それは起こっているのであり記憶が
  自分が行為したと思っているので魂と繋がっている私(パーソナル
  の私)も、記憶の私と一体化しているので、そう思ってしまっているのです。

  この記憶である通常自分自身だと思われている私は、カルマ・運命・
  DNAに従って起こっている行為や感情や欲望や衝動や出来事に対
  しての記憶から反応しているのであります。
  魂と繋がっている私(霊的諸体パーソナルの私)にはこの記憶をコ
  ントロールしたり、この「記憶である自我」に対しての支配権があ
  りません。記憶の反応の自我の私も神の演技だからです。

私達、肉体に入り脳と結合した「魂と繋がっている私」が、日常生活で自分
自身だと誤って知覚認識している自己・私とは、
この脳が受信している「記憶の反応」であり、自動的に起こっている受動思考(
自我)のことでありまして、その私は魂からの私ではないのです。

この記憶の私・人格という受動思考Bが、起こっている事に反応しているのです。
カルマやDNAに従って起こっている出来事や、カルマによって起こる思考
や感情や行為に対してこの脳が受信した記憶・自我が反応し自分が思考し
自分が行為していると錯覚しているわけです。

そして魂に繋がる私がこの記憶の反応と一体化することで魂と繋がっている
私(パーソナルの私)が思考し行為してしまい、更なるカルマを生み出し続けて
しまっています。

この受動思考Bの特徴は、時間と空間、私と他者の分離と言う根本無明から起
こっている条件付けられている脳が受信した人格=思考であります。

その記憶が持つ知覚と認識は過去現在未来、そして此処彼処、さらに私とあなたという
根本的な虚偽による認識形式であり、それによって魂と繋がっている私(パーソナ
ルの私・霊的諸体)は全く支配されています。

私達が私であり、自分自身だと信じて疑わないこの私、「肉体を私だと認識して
いるこの私」、「病気を心配し、お金がなくなることでイライラする私」、「嫉妬し支
配しようとしている私」、「金と女と欲望の私」とは私ではない記憶なのであります。

それが脳の記憶即ち受動思考Bなのであります。

そしてこの脳の記憶・人格が死後も生き残っていてこの私が「私は私だ」
「私が自分だ」「私は苦しみ恐れている」とそう思っているです。
しかしこの脳の記憶である私は輪廻転生している私ではありません。

私達が自分自身だと固く信じているこの私とは「この条件付けられている脳が
受信している思考の記憶の反応」「受動思考B」なのであります。

この私を詐称する思考の記憶即ち「私という自我意識」を魂と繋がっている私が
悲しいことに、自分自身だと知覚認識して、この記憶の私が起こしている行為を
自分自身が行為したのだと思い込んでしまって同一化して、その結果、魂と繋が
っている私(パーソナルの私)がカルマを積み重ねてしまうのです。
行為しているのは魂からの私ではなく、この記憶なのでありましょう。

私達、魂と繋がっている私は肉体に入って脳と結合した結果、この記憶
の反応の私を自分の反応だと固く錯覚し、全く疑うことなどないのです。

病気を心配し、明日のことを思い煩う私とは受動思考であって、この私とは
受動思考Bであり、記憶の反応なのであって私・魂と繋がっている私の思考
ではないのです。



Ⅱ能動思考(能動意識)とは
私達、肉体に入り脳と結合し、脳と一体化している「魂と繋がる私」パー
ソナル自身の思考のこと。
前述の受動思考と一体化し混濁している状態での「魂と繋がる私からの思考」
のこと。
しかしそれでもこの能動思考の私は魂そのものであるインパーソナルの私
ではありません。このパーソナル次元の私の思考や行為も、更なる高次元
から起こっているのです。パーソナル次元の私が起こしている思考は受動
思考が起こしている想念形態と同じく程度の異なる実現力を持った想念形
態でありそれは共にインパーソナル次元から起こっているというのです。

能動思考ⅡA:私とは大元の魂からの私であるのに、この魂と繋がる私は前記の
受動思考と一体化して、エレメンタルを生みだし、カルマを重ねて環境や
病気や不幸を生み出しています。
自分が魂と繋がる私であることを全く忘れてしまっている霊的諸体の私な
のです。その受動思考Bのままに自分パーソナルの世界を創りだして苦しんで
いるのです。

能動思考ⅡB:魂と繋がる私からの能動思考が正しい自己観察と正しい自己想起
によって本来の魂の私に気が付くとき能動思考の私は受動思考の私から離れて
行きます。
そしてこの能動思考の私が否定的に本来のインパーソナルの私に接近する
ことによって、思うこと行うことは魂からの思考や行動となって周りに
健康と幸福と愛と喜びを創造していきます。

この能動思考は受動思考(自我思考)との混濁程度で様々な段階があります。

その能動思考をしている私とは「魂と繋がる私」であり、本来は思考ではな
く純粋意識(I AM・インパーソナル)であり、この能動思考も実は純粋
意識(I AM・インパーソナル)から起こっている高次思考であるとおしえら
れています



Ⅲ:高次思考(高次意識)とは
このわたし、「魂と繋がる私」である魂の思考。インパーソナルの私。
私達魂自身の思考と行為であり、これは完全完璧で受動思考や能動思考
を起こしている本体でありパーソナル次元のわたしから見れば神であり
インパーソナル次元から見ればわたしである魂であります。
「魂に繋がる私」から見ればこの私は神のように見えることでしょう。
「魂の私」と「魂に繋がる私」が一つになった意識。
「魂と繋がる私」が魂である自分自身(インパーソナル・非人格の私)と
繋がり一体となった状態の思考のこと。
I AMのI AM。
「わたしはわたし」。
人類の現在の段階では未知なる意識の事。私の本体の私のことです。
私の私です。
さらに
この上に
霊と一つである魂の超越思考(超越意識)が有ります、それは私にとって
は、雲の上の話なので、未熟であり目が開いていない私には、その超越思考
には全く触れることが出来ません。


この「受動思考である思考している私」という主体(自我)、それは時間
空間、自他の分離を知覚認識している私ですが、その私は、私では
なく、神の演技、神、インパーソナルのマーヤであり、その神の演技であ
りましょう。

能動思考(パーソナル次元)の私や受動思考の私がカルマに従って起こっ
ている出来事やその中で起こっている行為に対して
「私が行為している」と錯覚し、起こっている諸体の状況や出来事や思考や
感情や行為と同一化し一喜一憂し将来に絶望したり希望したりしています。

魂の私、自己観察し自己想起している観照者の目からすれば、
この能動思考の私さえもが神が演じている私であり、インパーソナルである
真我がこの非実在の自己を演じているのであり、この受動思考の記憶も、
この魂からの私もパーソナルな自己であり、究極には非実在なのであると
教えられています。

これらの私は神の演技、神の仮面なのであり主体ではありません、主体は神なのです。

実際に生きている私とは霊であり魂で在る「インパーソナルの私」であり、
その私が肉体や霊的諸体や受動思考を能動思考を使って自己を演じているのであ
るというのです!!!

※かなり複雑なので申し訳ないです。


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