私を観ることが私からの解放を齎す・・クリシュナムルティーあるがままをあるがままに観よ・・ラマナ・マハリシ
汝自身を知れ・・デルフォイの神殿&ソクラテス
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや・・親鸞聖人・歎異抄
自己観察が自己からの解放を齎す・・G.Iグルジェフ
自己を見ること即ち自己観察が自己からの解放を齎すとは何なのでしょうか?
それはあるがままの私を自己観察することとは
神道で言う「立ち向かう人の心は鏡なり己が姿を写してや見ん」と教えら
れているところの相手の鏡に映る我の心の自分の姿を見ることによって
見る私であり見られる私である私からの解放が起きるからなのでありま
しょう。
それはクリシュナムルティーの言う
「虚偽を虚偽と見ることの中に真理が顕れてくる」と言うことでありま
しょう。
そしてそれが私の本体である「鏡である私」の自分を知覚し認識するこ
とへと繋がるからなのでありましょう。
その「鏡の私」(黒住宗忠師のいう神の子の私)が意識に顕現したとき
ヒューレン博士は他人の言動の結果責任は私にあるのですと言っています
・・これは全く常識では考えられないことです。
黒住宗忠師が言う、相手の鏡に映っている「己が姿」を観ることで「鏡で
ある自分」が現れてくると言うのです。
非難している相手とは私自身だと言うのです。
この言葉とは、受動思考状態から、能動思考レベル、そして超感覚的意識
レベル、そして更に意識を超えている超意識的意識レベルでの知覚認識
による覺知からの言葉であるので、私達人類の受動意識レベルや本能的意識
レベルの知覚認識ではこれら黒住宗忠師や不二一元の覚者達の教えは全
く理解することは出来ません。曲解し誤解するのがおちです。
これは、現状では本能的意識段階や受動意識レベルにいる常識人にとっては
苦しく受け容れがたく、誤解するしかない賢者達の言葉なのです。
クリシュナムルティーのいう「虚偽を虚偽と見ることの中に真理がある」
と全く同じなのです。受動思考や二元分離意識を超えている「恐怖を見
ているものは恐怖である」「私が恐怖を見ているのではなく、見ている
私が恐怖である」との超意識、超知覚があるとき、
そこに愛がそっと姿を顕していると教えられています。
(しかしこれは私達通常の発達段階にそのまま当て嵌まらない超次元の
超意識的意識段階に達した場合の知覚認識のことでありましょう)
■ではその自分を見るという自己観察とは何んなのでしょうか?
⇒それは文字通り自己を見ることです。受動思考を私達である能動思考
が見ることなのです。「受動思考の私」を見ている能動思考の私とは誰なの
かを見ることです。
自我や恐怖や苦痛を知覚し認識している私とは誰なのでしょうか?
自我を観察している私は自我なのではないでしょうか?
死に怯え、苦しみにのたうち回っている私とは誰でしょうか?
また、その苦しむ私を見ている私は誰でしょうか?
通常は私達は苦しむだけで苦しんでいる私を観察する事は殆どありません。
まして、その「苦しむ私を見ている観察者は誰か」など、全く以て思ったこと
など毛頭もありません。
けれども、その観察者を見ている私が魂の私の一部であるのかも知れません。
クリシュナムルティーは言います。
その見られている私とは見ている私の姿なのです。自我を見ている私は
見られている自我なのですと。自我が自我を見ているのですと。
自我を非難しているのは私である自我なのですと言うのです。
自我が自我を見て自我から逃げようとしたり、自我を非難したり、自我
から克服しようとしたりしているのです。
記憶である自我が真我に至ろうと努力しているのですと。
自我が神に至ろうとしているのであって、魂であり神の子の私は、既に神の子
であるので神の子に至ろうとはしないのですと。
そのように教えておられますが、この認識は非常に高次元の超意識レベルからの
言葉でありましょう。
■では自己を観るとは具体的に何をどうするのでしょうか?
⇒ここが一番難しいのです。
自分の心の中に沸き起こる恐怖や自我や苦痛を見ている私は誰かを
ハッキリと自覚して、そして、怒りや欲望や将来の不安や嫉妬やプ
ライドを見ている私を見るのです。(見ようと努力するのです、
そして私は見ていないことをハッキリと見るのです。)
自我や恐怖や苦痛で苦しむ私を見ている私を抱きしめて一緒にいて
あげるのです。
その自分・自我を見ている自分・自我・私を見るのです。
それが「見るものは見られるものである」と教えられていることでしょう。
自分である自我を観察しているのが観察者であり、その観察者が自我なの
ですと。(う~ん・・これは超意識レベルからの観察なのでかなり難しい)
(勿論久保栄治はその次元より三つ低い次元にいるので理解出来ませんが)
相手に無視されプライドを傷つけられ苦しむ私のことを見ている私が、
そのプライドで一杯の私自我なのです。ですからまず始めにその自我を
ハートからの能動思考で以て左脳の受動思考を見ることです。
黒住宗忠師がいうように眼自体を相手である鏡本体へと移し、その
相手の鏡から「己が姿」「自己・自我」を観察するのですと。
相手の鏡自体から自分の姿をみることで自他に分離している自分から
解放されるのですと。
自我を見ている私が自我であることを見ることで私・自我から
解放されるのですと。
親鸞上人の教えのように「私は悪人である」との自覚が悪人からの
解放へと繋がるのでありましょう。
それは自我である自分が自分である自我を自己解放するのではなく
自我が去ったあとに始めからあった鏡の私が顕れるというのです。
親鸞聖人の言うように、「私は悪人である」という自覚がある時
そこに仏・ハイヤーセルフによって私からの解放が起こるのですと。
だからこそ他力が起こる前に自力・自己観察が必要なのです。
他力が起こるには自力が必要なわけです。・・と賢者は言います。
■ではその自己観察というのは、観察者である自己を観察するのだ言う
ことは分かりますが、自己を観察している私と観察されている
私との関係はどうなのでしょうか?
⇒此処が一番の難しいところです。
それは自己観察をしている私とは、自己観察されている私なのですと。
それは鏡に映る私とは、鏡を見ている私であるのと同じです。
自己を見ている私と、見られている私や見られている相手・他者こ
そ私・自我なのです。
此処が正しい自己観察と、間違った自己観察の分かれ目です。
正しい自己観察とは良くなろうとしている自我を見ることです。
自己観察している私は、自己観察されている私であることを、しっ
かりと把握し理解することであります。
それは鏡に映る私とは、鏡を見ている私であるのと同じです。
自己自我を観察している私は、観察されている私・自我なのですと。
私を詐称する記憶である思考が自己を分割して見る私と見られる私に
分離分割していることをしっかりと見ることなのです。
見ている私、行為している私、思考している私、対象を分離して知覚
認識している私とは記憶であり
記憶がこの自分を見ている私であり行為している私なのですと。
記憶が自分を見、そして世界を見ているのである・・ということです。
記憶が思考し、そして行為しているのである・・ということです。
自分を見ているのは記憶であり、その記憶が見ている相手や世界とは
見ている記憶自身の姿なのですと。
記憶が記憶である自分自身を相手・対象として分離して見ていることを
しっかりと見ること・・それが汝自身を知れと言うことなのです。
■それは
自己を見ている私は、この私によって見られている私であり、
「見るものは見られるものである」であることを知覚し観ることですか?
⇒そうです
それがソクラテスが言った「汝自身を知れ」ということです。
汝である私とは「見るものは見られるものである」ことを実際に観ている
私、即ち「虚偽を虚偽と見ることの中に真理がある」という鏡の私を知り
発見しなさいと言うことなのです。
くどいようが、それは鏡に映る私とは、鏡を見ている私であるのと同じです。
自己を見ている私は見られている私である。・それを知りなさいと言うのです。
世界と自己とを分割して対象として知覚している私は記憶であって私ではない。
「見るものは見られるものである」であるということでありましょうか。
観察者は観察されている私である・・ということを瞬間瞬間観ていることが
既知なる自己からの解放であり、即ちそれが未知なる自己の発見なのであり
ましょう。
自己から解放されよう、悟りを得ようと努力している私こそ思考の私なのです。
未知なる真の私は既にI AMでありI AMになろうとはしません。
「成るのではなく在る」・・そのことを領解すること。
即ち自分のことを相手として見ている私のことを見ることが自己観察なのです。
恐怖を見ている私、自分や他人の中に自我を見ている私が恐怖であることを観る
ことが自己観察なのです。
この親鸞聖人の「私は悪人である」との自覚が悪人からの解放へと導くのです。
自分や相手を対象として二元分離して知覚している私のことを観ることが私から
の解放であり
鏡である私、本来の私への発見に至る方法なのだということでありましょうか。
それが神道で言う
「立ち向かう人の心は鏡なり己が姿を写してや見ん」
ということであり、
自分を相手として知覚している己・我の心を見なさい
そして己である私から解放されなさいということなのでありましょう。
そして私から解放されたとき一霊四魂が私であることでありましょう。
ですから自己観察とは
思考を観察する事というであり
思考こそ、世界を自分とは異なっていると錯覚している「記憶という私」
であり、偽りの自由意志で行為していると錯覚している私なのです。
そしてその私を使って神が演じ思考し行為しておられるのですと。
だから
私自身に感謝し
私自身を愛せよと教えられているのでありましょう。