思考なく、私なく、心なく見よ!!・・クリシュナムルティー
私達がクリシュナムルティーによって思考なく、私なく、心なく見よ!!
と呼びかけられているということは、その呼びかけられている私達とは
思考ではなく、心でもなく、私でもない私です。
真理の種子である可能性のある現在のパーソナリティーです。
クリシュナムルティーによって呼びかけられている私は種子なのです。
私達は「真理の種子」なのです。
私達は思考なく、私なく、心なく見ることの可能性がある真理の種子なのです。
クリシュナムルティーによって心なく見なさいと呼びかけられてい
る私とは、この思考である私即ち記憶の反応なのではなくて
この私現在のパーソナリティーのことです。
(※私達とは
■記憶の反応としての自我・受動思考・人格の私。
脳が受信している思考。
■真理の種子として可能性のある現在のパーソナリティー。
能動思考の私。
現在のパーソナリティー・四魂の私のこと。
このサイコノエティック体の私が記憶と一体化している。
■私達にとっては未知なる思考を超えているハイヤーセルフの私。
(この三つの私が肉体に共存して生きています)
この現在の私にとっては未知なる私とは、実際に思考ではなく、私でもなく、
心でもない私だということなのであります。それは神聖なる霊魂一霊
だということなのでありましょう。
この私にとっては未知なる私は思考でも、心でも、私でもないのだから
思考なく、心なく、私なく見なさいと言っているのであります。
・・ということは
この現在の私にとっては、未知なる私は思考でもなく、私でもなく、心
でもないのでありますけど、現在の私が殆ど思考や記憶に覆われてし
まっているのだということです。
なので、そのクリシュナムルティーによって見なさいと言われている私
とは、左脳を中心とした記憶の私ではなくて未知なる私と整合する可能
性のある現在のパーソナリティーのことであります。
ではその未知なる私・ハイヤーセルフとは一体何なのか・・
その「この私にとっては未知なる私」とは何か・・・
「私は誰か?」「私は何なのか?」・・それを問うことが非常に重要です。
さて既知なる私とは、勿論この私ですし、心もこの私ですし、思考がなけ
れば植物人間になってしまいます。
と言うことは悲しいかな現在のパーソナリティーであり真理の種子の私は
目が開いておらず、脳と結合しているため記憶の反応しかわからず、脳が
動かなければ、現在のパーソナリティーも一切意識もなくなってしまうのです。
しかし、植物人間になったら見ることなど不可能ですからクリシュナムル
ティーのいう見ることなどは不可能です。
植物人間になるかも知れないこの現在のパーソナリティーの私とはクリシ
ュナムルティーによって見なさい!
と呼びかけられている私なのであります。
私が推測するに
この既知なる私は、記憶と一体化してしまっている現在のパーソナリティー
のことであります。白鳥は卵の殻を打ち破って大空に飛び立つように、
自らの自己観察というワークと内なる恩寵によって自らである殻が打
ち破られ未知なる私(白鳥)となって大空に飛翔していくのではないでし
ょうか。
それを逆に言えば思考なく見る事が出来るようになった現在のパーソナ
リティーの私は病気や交通事故や老化で惚けたり、植物人間になったり
しても、それにも拘わらず思考なく見ることが出来ると言うこと、即ち
脳の状態に左右されず、睡眠中でもその「未知なる私の意識」は途切れ
ることはないと言うことであります。
この思考なく見ることが出来る意識は生死を超えていると言うこと。
生きながらにして死を経験している意識だと思われます。
しかしながら現実の私は、未だに未知なる私に触れることがありません。
現実の現在のパーソナリティーの私には、この心である私とこの心であ
る私を超えている未知なる私、この私を観照している私を知ることがあ
りませんが可能性があると言うことなのでありましょう。
ということはクリシュナムルティーの言うことを実践することは、この私
には不可能でありますから、クリシュナムルティーはこの私と一緒に生き
ている、既知なる私ではない未知なる私に向かって進むよう、この私に対
して私なく見なさいと仰っておられるわけです。
即ちクリシュナムルティーは否定的に言外に
あなたは私ではない。
あなたは心ではない。
あなたは思考ではない。
と言っているのであり、その「あなたが私だと錯覚している心の私や
思考の私なしに見なさい」と教えておられるのです。
何故ならばあなたは心でもなく、思考でもなく、私でもない純粋なる
意識だからですと言っているのです。
あなたは既知なる私ではなくて、あなたは未知なる私ですよと言って
いるのです。
なので、だからこそ思考なく見なさいと言っているのです。
これを現代風に言うと
意識を左脳に向けるのではなくて、ハートのインナーセルフに意識を
同調させなさいと言うことなのかも知れません。
ただしここで注意点があります。
私とは誰なのかを覚者達が肯定的に、「あなたは心ではなく真我です」と
いう言葉を心である既知なる私が聴いた場合、
私即ち思考で混濁して目が見えない段階の私が聴いた場合は、この私には
覚者が見えている実相次元のことは全く見えないし、分からないのです。
(意識が左脳にある場合は未知なる私・ハイヤーセルフのことは全く分
からないのです)
覚者が「あなたは心ではなく真我です」と言ったのは、それを聴いている
心の私に対してではなくて、それを聴いた同居している私、「この私に
とって未知なる私」に対してなのです。
この私は目が開いていないので実相を語られてもこの私には見ることが
出来ません。
私とは「記憶であり心である既知なる私」と賢者によって「あなた」と
いわれている未知なる私・ハイヤーセルフが同居していることになります。
私達である現在のパーソナリティーが同一化している記憶の私とは
無明の中にいる思考であり、いわゆるこの記憶である私はその賢者の語
る実相を聴いても、情報として記憶することは出来ても心の私は理解す
ることが出来ないので必ず誤解してしまうのです。
賢者が賢者のいる高次元の世界での超高次知覚で「行為は起こっている」
や「あなたは真我である」と話しても、
心である私や記憶の私はそれを必ず曲解してしまいます。
心の私がいる次元とはカルマが支配しているこの物質界や幽界や霊界や
神界や宇宙界なので、聖者の言葉を誤解するしかありません。
この私がいるのは自他の分離があるという錯覚が支配しているこの現象
三界次元であるのに、そしてこの私には目が開いていないので見ること
が出来ないのに、この賢者の言葉を聴いて「私は真我だ」、そして行為
しているのに「私は行為していない」「行為は起こっている」などと嘯
くのです。
そして、この心の私現在のパーソナリティーはカルマを積み重ねていく
のです。
この現象三界世界では、この心の私には、世界は対象として知覚され、
わたしとあなたは分離していると知覚されていますし、この三界次元で
は自分が行為しているという知覚があります。
ですからこの現象三界で真我を肯定的に教えられていても、心である私
は思考に覆われ自分が行為しているという実感がある限りは、
心である私即ちサイコノエティック体の私は原因結果というカルマの中
にあるので、行為は自分が行ったという知覚があるので、その行為の報
いを必ず受けるのです。
にも拘わらず、それなのに自我の私は自分を真我だと信じ込み、勘違いし
て自我の欲望のままに行動し好き勝手に害毒をまき散らし更に、行為す
ることで自我と一体化している現在のパーソナリティーはカルマを重ね
てしまうのです。
が、そのことに気が付かない自称、神の求道者達が、自分を「賢者によって
あなたと呼ばれている私」だと錯覚し、真我に肯定的に接近出来ると思い込
んでしまう・・このような危険性があるのです。
ですのでその危険性を熟知しているクリシュナムルティーは私とは何で
あるのかを肯定的ではなく否定的表現で示し、かつ実践的に
本来の自己・真我に至る方法を明示しているわけです。
それが「思考なく見よ」であります。
それが「見るものは見られるものである」であります。
それが「私は世界である」であります。
それが「思考者はいない思考が起こっているだけだ」「行為者はいない
行為は起こっているだけだ」であります。
私達とは思考ではなく、自他に分離している私でもなく、心でもない
ということを、この言葉でクリシュナムルティーは私達に私達の実相と
そこへの方法を否定的に示しているわけです。
もし、私が世界を対象として見ていたり、あなたとは私ではないと知覚
していたり、私が行為しているという実感があるのならそれは、その
私とは思考の記憶の反応の私や心の私であって、カルマの中を生きてい
る私であり、未知なる私ではないのです。
本来の私とは未知なる私であり、ハイヤーセルフであり既知なる私で
はないのです。
従って、自他を分離して見ているこの私は本来の私ではないのです。
そこへ至る最短の道、
それがこの自己観察、自己想起なのです。
重要なので再度繰り返しますが、
この思考なく、私なく、心なく見よ!!とクリシュナムルティーが
仰るとはいうことは、
クリシュナムルティーによってあなたと呼びかけられているあなたとは
「真我である!あなたは世界である!」「あなたは愛である!ということ
でありまして、これを肯定的ではなく否定的に仰って下さっているわけ
です。
【ここから先はクリシュナムルティーが語る上級者向けの言葉です】
ではどのようにしてクリシュナムルティーはこの未知なる私に至る方法を
示しているのでしょうか?
それは「在る」こと。「I AM」なのです。
それは至るのではなく、既に在るというのです。
至ろうとすることは至っていないという前提から発出しており、至っていない
ことをかえって強めてしまう結果になります。
ですので私は魂である私であると信じるのです。
此処は非常に理解するのが難しいのです。
この根本無知であるこの私、既知なる私とは何なのかを知る必要が有ります。
この既知であるこの私とは脳が受信した記憶であり、それは思考です。
それは「自身を忘れ、既に在るのに至ろうとする無知」なのです。
その思考と私達現在のパーソナリティーは一体化しているのです。
ではその既知であり記憶であり、私であり、心・思考とはなんでしょうか?
それは「自らを忘れた根本無知、根本無明」です。
ではその根本無知・根本無明とはなんでしょうか?
それは自分を知らないことです。
では自分を知らないとは何でしょうか?
それは自分が神であり、自分は仏であり、自分が一切万物であり、
一切万物は分離していない一つであることを忘れている無知なの
です。
ですので
「なろうとすることは在ることを否定することだ」なのです。
そして
自分は既に神であるのに神を求め、既に一つであるのに一つになろう
と努力し、自分は神から発出しているのに自分の根源を忘却し
自分から解放され、真我に至ろう、なろう、自己実現しようと努力し、
その方法を探し求めて実践するのです。
そして
その無知が「なろう」と実践することで、「なっていない」を強め
、かえって無知は自分の無知に囚われ、無知を強めてしまい「私は既
に在る」から離れて行くのです。
神や仏と一つになろうとすることは、神や仏とひとつではないという
ことを前提としており、神や仏とひとつになろうとすることで神や仏
から離れて行くのです。私は既に神であり仏なのです!ただそれを忘却
してしまっているだけなのです。・・を信じるのです。
そして既に「在る」、既に「I AM」であるのに「在ろう」「真我に
至ろう」と模索し努力する事で、それがかえって「真我・I AM・
未知なる私自身」から離れてしまい、既知なる私・無知・無明を強めて
しまっているのです。
クリシュナムルティーは言います
「在る!」
「既に在るのだ!」
「なろうとすることで在ることを否定し、真我を実現しようとすることで
かえって「私は無知、無明だ」を確定してしまい、ますます
「在る・I AM」から離れてしまうのである。」と
あなたは既に「在る」のだ
なろうとする必要は無いのだ。
なろうとするのではなく既に在るのだ!!
なろうとすることは在る事を否定することなのだと
だから
「I AM I」と自己想起し自己を瞑想しなさい。と
起こっている自我や思考や欲望そのものに対して焦点を合わすのではなくて
その自我や思考や恐怖や欲望や苦しみを見ているものは誰なのか??と。
その思考と言う記憶の反応を見ているもの、その私に注意を向けなさいと。
ですので結論として言えることは
☆神が私として生きておられる
☆神が呼吸し肉体として生きておられる
☆神が私として思考し、行為し、転生しておられる。
と言うことであります。