私達は一霊四魂

2024/08/24(土)
神道では私達は一霊四魂であると教えられております。

しかしこれは神道に限ったことではなくて、言葉や表現が異なって
いても、多くの宗教や哲学も同じ事実を言っているのだと思われます。

肉体は勿論、神の最高の傑作であり、一霊四魂である私達が肉体に入り、
そして条件付けられている脳と繋がり、脳が受信している「記憶・自我」
のことを四魂の私が自分自身だと錯覚し、”自我の私が肉体を自分だと思
っている”ように四魂である私達も魂である永遠のパーソナリティーと
繋がるコーザル体であるのに”私は肉体だ”と錯覚してしまっているのであ
と教えられています。

私達は何気なく、また深く自分のことを観察もせずに「私は私だ」と言っ
ていますが、その私と言っている私とは神智学によれば大まかに言って
も以下の様になりますから、聖者が「どの私」から語っているのかを
識別し知る必要が有ります。

★自我の私(受動思考・記憶の反応・私を詐称する私・想念形態の私)
★現在のパーソナリティーの私(能動思考の私・脳と結合した私・コー
               ザル体の私・四魂の私)
★頭上にいる永遠のパーソナリティーの私(私の本体の私・観照者の私)
★神の子である魂の私
★普遍意識・霊としての私。

現在の表面意識とは、自我と一体化している魂からの「現在のパーソナリティ
ーの私」の表面意識のことです。但し記憶によって染まっていて意識に知覚
されるのは実は受動思考と言う脳が受信している私達ではないものです。
この私達である現在の私(現在のパーソナリティー)とは鏡であり、鏡に映
っている私、や、その鏡を見ている私なのではありません。私達は鏡そのもので
あって、鏡に映る私や鏡を見ている私なのではありません。私は鏡なのです。

しかしながら私達にはその実感も知覚もないのですが、それは、私達の四
魂が発育不十分で、その状態で生まれ来て「条件付けられている脳」と繋が
り、そして、自分自身が一霊四魂であることが全く分からないのです。
それは私達自身である私達の四魂である霊的諸体が未熟で未形成で赤子状態
あるからである、と教えられております。

私達は私達ではない記憶と一体化して、私達の本来の四魂の機能(意識)
がまったく充分に働いていないというのです。

私達は自分自身のことを「私は思考」だと錯覚し、脳が受信している思考を
自分自身の思考だと錯覚してしまっているのです。が、その思考の私とは
それは記憶、即ち記憶の反応という受動思考(自我・エレメンタル)で
あって私達四魂が数えきれない過去から無意識的に生み出したものであり
私達が意識的に生み出している能動思考なのではないということであります。

一霊四魂の私は胎児の最初の呼吸で「準備され預託されていた胎児の
肉体」に繋がったのであると教えられています。

一霊四魂の私とは新しい肉体に宿った輪廻転生している私です。

そして私達は私の四魂が未形成状態であるので、自分を思い出せずに
脳の成長に合わせて、目が覚めないまま一生を終えてしまっている
のである。と言われているのです。

一霊とはこの現在のパーソナリティーが繋がっている神の子の私で
あるその神聖なる私(時空を超えた普遍意識)のことであります。

四魂とは別に和魂(ニギミタマ)と呼ばれているものはおそらくハイヤー
セルフとか世間で言われる観照者の私、私の本体「高次の私」のことを
指しているのかも知れないです。私の守護者、私の本体、私の観照者
私のハイヤーセルフ、私のインナーセルフのことでありましょう。

この四魂は本来は肉体と同じような形姿をし、それぞれの次元の高次の質料
で形成されているべきなのであるけれども、脳と繋がった一霊四魂の私が
自己観察・自己想起という基本的なワークを実践していないために未形
成であり、意識が殆ど覚醒しておらず拡大しておらず状態にあると言う
のであります。

この四魂にはそれぞれ意識があり、それぞれの四魂で一人の人間の意識
を構成しているといわれているのです。

神道ではその四魂はそれぞれ奇身魂、幸身魂、真身魂、荒身魂と呼ばれ、

古代印度哲学では真我が纏っているアーナンダマーヤコーシャ、ヴィジ
ュアナマーヤコーシャ、マノマヤコーシャ、プラーナマヤコーシャ、
アンナマヤコーシャと呼称されている精妙な衣といわれておりますし、

神智学系統では一霊を構成する魂のその永遠のパーソナリティー(観照者の
私)からのコーザル体(輪廻転生をしている本体の私)を構成している、
思考体(メンタル体)、感情体(アストラル体)、エネルギー体(エーテル
複体)、肉体を指しておりまして、その霊的な諸体を完全な形姿に再形成す
ることが、その霊的な諸体(現在のパーソナリティー)が現象界に実存して
いる目的だと言われております。私達(現在のパーソナリティー)はハイヤ
ーセルフ(私の本体)の赤ん坊なのです。

覚者達や宇宙人達はそれぞれの段階(次元)の自己意識(それぞれの次
元の自己意識・セルフエピグノーシス)から違った角度で異なった言語
で同じ事を発信している様に思えるのです。

ですので覚者達のいる次元からの、その高次元からの意識による言葉
は霊的諸体が再形成されていない幼稚な私達現在のパーソナリティー
には理解不能なのです。

ではその四魂であり赤子であるこの現在のパーソナリティーを育てる方
法はあるのでしょうか?
それが瞑想だと言われています。

では瞑想とは何でしょうか?
瞑想とは能動思考に依る正しい自己観察のことだとおしえられています。
自我に反応している「私マインド」を非難や同一化や判断なく愛する
ことです。
その正しい自己観察、自己想起とは何でしょうか?
それは私達自身である一霊四魂を観照することでありましょう。

頭上に輝く一霊と頭の中で金色に輝く高次思考体、ハートから無償の愛
を与え続ける薄ピンクの高次感情体、丹田にあって生命活力と肉体を維
持している水色に輝く高次エネルギー体を見る事でありましょう。

それは又自己(自我・受動思考・エレメンタル・欲望)を観察している
観察者を、即ち自我に反応している私のことを非難無く、同一化する
ことなく、言葉を使わないでただただ見ることだと思われます。

「見ているわたし」のことを見るのです。
「見られているわたし」のことを「見ている私」を、
その私を見ている私を見るのです。

私は鏡なのですから鏡に映っている見る者と見られるものを鏡から
見るのです。

繰り返し押し寄せる嫉妬心や暴力心や支配欲、恐怖や欲望や自我という
受動思考に対して反応して、色々と対応して何かをしたり、している
その私を即ち自我に反応する私をただただ見ることです。と教えられ
ています。

内側と外側に起こっている事に反応している観察者をただただ見るこ
とですと教えられております。

「観察者は観察される者である」ことを見ることなのでありましょう。

・・それが瞑想であり、正しい自己観察なのですと教えられています。








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