「私はあなた、あなたは私」「私は世界、世界は私」
「思考者はいない、思考が有るだけだ」
「行為者はいない、行為があるだけだ」
「見るものは見られるものである」
「観察者は観察されるものである」
「立ち向かう人の心は鏡なり、己が姿を写してや見ん」
「それ!人の心は天照御祖の神の分け御霊にして、我の心にあらざれば、
そを穢すとは天の心を穢すなり、そを養うとは天の心を養うなり」
上記の賢者達の言葉は現実の真実を言語で表現されたものです。
超高次の次元から見ている覚醒者の言葉です。
(非常に難解であり、私達人類の受動思考では理解出来ないといわれてい
ます。勿論私には体験もなく、ただ鸚鵡やテープのように分からないまま話して
います。)
私達が知覚している自己も世界も真実の現実ではなくて条件付けられている
脳が知覚している自己であり世界だと教えられています。
私達は従って真実の現実を知覚できるためには頭から10センチ程度上に位置
している「ハイヤーセルフ・魂」と繋がらなくてはなりません。
私達は通常、心臓付近にあって意識は主に左脳と繋がっていますが、
願わくば私達はその左脳ではなくて頭の上に位置する「ハイヤーセルフ
・魂」と繋がらなくてはなりません。
私達がハイヤーセルフ・魂と繋がらない限りは、恐怖と自我の苦しみの中
にいることでありましょう
そして前記の賢者達の「私はあなた」「私達は一つ」が真実であり事実で
あることの前提からカルマの法則が存在し働いています。
しかしながら私達は心臓付近にあって私達現在のパーソナリティーは主に
左脳とだけ繋がっていて私達の本体であるハイヤーセルフ・魂と繋がっ
ていません。
私達の意識が頭の上にいるハイヤーセルフ・魂と繋がっていない限りは
私達は脳に縛られ続けてカルマの法則の中で生き続けなければなりません。
さて、カルマが三界という無明世界を支配していると教えられています。
カルマとは自他が分離しているという錯覚知覚の現象界に於いての「自他は
分離していない」「自他は一つ」という大原則から興っている法則であります。
カルマとは原因と結果という現象次元界における実相界からの大法則です。
現象界に於ける内部と外部のあらゆる出来事はこのカルマが起こしていると
教えられています。
恋愛も結婚も、才能も障害も、人種や国籍や境遇もカルマが起こしています。
生も死も、良いことも悪いことも、計画も、衝動も、行為も、その結果も
失敗も成功も、健康も病気も、戦争も平和も、良い運命も悪い宿命も
全てのあらゆる出来事は一瞬の狂いもなくこのカルマが起こしている
のでありましょう。
従って「私はあなた」という知覚や実感がない場合、即ち、私達が自分の
ハイヤーセルフ・魂と繋がっていることで興る知覚の拡大がない限りは、
このカルマの法則に従って全てが一瞬の狂いもなく完璧にプログラム通
りに起こるのでありましょう。
なので私達が自他分離という無知無明の錯覚次元にいる限りは行為は
私がしているということによって、良い思いや良い行いが最重要になります。
その良い行いは「私達は一つである」という事実から発生したのです。
そしてそれを遵守しているのがカルマです。
私達がこの条件付けられている脳にだけ繋がっている限りは、脳の世界
にいて、脳が知覚する脳が起こしている錯覚の次元にいることになります。
心臓付近にいる私達セルフエピグノーシスは自由意志に基づいて正しく
思い、正しく行うことが最重要となります。
そういうわけなのですが
現在の私達、「たましいと繋がる表面意識」といえば悲しいかな肉体の
脳と繋がっていて、目覚めておらず、諸体は再形成もされていません。
未熟な「たましいと繋がる表面意識」はこの脳の記憶、脳が受信した思考
のその記憶と、脳からの行為の記憶を自分自身だと錯覚し、「肉体は私のも
のだ、私は肉体だ」という感覚と知覚、思考や行為や記憶を自分の思考や
自分の記憶、自分の行為だと思い込み、その限定された知覚の中で生きて
いるのでありましょう。
現在の段階では、未熟な私達の表面意識とは記憶に覆われ記憶と一体化し
てしまっています。私達が思うことは記憶からの反応、即ち受動思考
でしかありません。脳とだけ繋がっていて頭の上のハイヤーセルフ・魂
とのパイプが塞がっているからです。
私達が自分自身だと思っている思考や感情や記憶や知覚や認識や行為は
全てが私自身の思考や知覚ではなくて、人類で同じ錯覚(私という観念)
から発生した記憶。
その記憶が同じ構造の脳で受信した人類で共通の私という観念の記憶な
のでありましょう。
それは丁度、私達、自分が人類共通のPCを操作しているのに自分自身を
PCであると錯覚して、そのPC自体と自分を一体化しているのと似ています。
私達はPCを見ている自分を知覚できず、自分を思い出せず、自分をP
Cの映像と完全に一体化しています。PCを自分自身だと錯覚しています。
私は以下のことを信じています。
私達は脳と言うPCに接続していますが脳ではありません。一霊四魂です。
私達は魂と繋がっている心臓の付近にいるサイコノエティック体です。
しかしその私にとっては私達のハイヤーセルフ・魂の私とは未知なるものです。
私は私を知らないのです。
私は私ではない「私という観念」の記憶を私だと錯覚し、脳が送受信している
思考を私が考えているとおもいこみ、脳から発生している行為を自分が行為して
いると錯覚しております。
ですのでこの私にとってはその本当の私・一霊四魂の私を私だと「自己想起」
するしか方法がありません。
私は脳と一体化しているので魂である私自身を信じるしか方法がないのです。
この現在の私は条件付けられている脳からの思考の記憶の反応であり、私に
は全く自由がありません。
この私は私のものではなく、この私は単なる観念であって、自分は機械である
事を知りません。その記憶の私は心臓付近にあるサイコノエティック体では
ありません。この私は魂と繋がるサイコノエティック体の私が自分だと
思い込んでいる脳の記憶なのです。
その脳に起こる思考や感情や行為や記憶に出会って、何で私はこんなに
愛が無く、暴力的なのかと自分を非難したり、その私をどうにか改善し
ようとして瞑想したりして自分から逃避している私とは脳から生み出さ
れた記憶です。そしてその記憶と心臓付近にいる私が同一化しているの
です。
この記憶の私を
何も言わないでじっと静かに見守っているのが表面意識の私でありましょう。
私とは「自我の私を観察している私をただただ観照している意識」のことです。
心臓付近にいるサイコノエティック体である現在意識の私は
脳と結合していて自分が思考して、自分が行為していると脳の
記憶と同一化して思ってしまっています。
私が信じていること・・・・
肉体は神のもの。脳は神のもの。いのち生命は神のもの。
思考や感情や行為は神のもの。
自由意志は神のもの。知覚も認識も神のもの。
私は神のもの。一切の私は神のもの。
私、自己、自我は神のもの。私には自我への支配権はない。私は神のロボット。
私とは神の演技。生きておられるのは私ではなくて神です。
全ての人、全てのものは、神が私として生きておられます。
それ故に私やあなたは神のものなのではありませんか?
神が全て一切の私なのです。
私とは神が起こしている事の結果なのではありませんか?
起こっている事は内も外も全てが神の演技でありましょう。
現象三界世界は神の映像。
私やあなたは神の演技でしょう。私が生きているのではありません。
神が私として生きておられるのです。
私は神の演技。自我は神のもの、自我は神の演技。
神が私やあなたとして、競争し戦い殺し合う演技をしておられます。
実際に生きて在るのは神だけなのではないでしょうか?
思考し、行為しているものは脳が受信し、発信している思考の記憶で
あって私ではありません。私とは記憶の反応であり虚構であり、虚偽です。
そういうことなので「私達、たましいと繋がる未熟な神の子」である
表面意識は、その脳と一体化しているために、この虚構の私を自分だと
錯覚しているのでありましょう。
この脳と一体化してしまっているハートにいる表面意識の私は本当の
私の事は何も知りませんし、まして魂の事は
全くわかりませんし存じ上げません。私は結果であって何も知りません。
自分は生かされていて、本当は神が生きておられるのに、自分が生き
て生活し、思考し、自分の人生を自分が生きて、自分の自由意志で
行為していると錯覚し続けています。
・・生きて呼吸して愛し戦い争い殺し合っている私・自己・自
我とは神の演技なのではないでしょうか?
表面意識の私は肉体ではありません、
脳でもありません。表面意識の私は魂と繋がっているサイコノエティック体
の私です。
それはこの表面意識が一体化してしまっている記憶の私自分でも
ありません。
表面意識とはサイコノエティック体という魂の表面意識であり、
魂は神の一部なのでありましょう。
従って、自我を観照しているその私は思考し、行為している私では
ありません。それは思うに私ではなくて「空」であり「意識そのもの」
なのかも知れません。
自我も
思考も
行為も
恐怖も、憎悪も、殺意も、利己心も、衝動も、暴力も
あらゆる要望や、願望も、愛する心も、悩み苦しむ心も
あらゆる次元の私も、あらゆる次元のあなたも、
私を苦しめるあなたも、あなたによって苦しむ私も、
全ては神の演技、神が演じて神が起こしておられます。
そしてその自我が知覚している世界も
あらゆる次元の宇宙も全ては神が生み出した世界なのでありましょう。
そして脳は神が生みだし、神が使って生きておられるのです。
その幽体や霊体は神が生みだし、神が私と言う幻想を使って生き
ておられるのでありましょう。
生きているのは神以外には何ものもありません。
物質界、幽界、霊界、神々界を含め一切の全ては神の中にあり
神以外に何ものも存在していないのだと思います。
あらゆる者の、それは命ある者も、命なき者も含めて、私やあなた
地球人や宇宙人、あらゆる次元の意識も含め
知覚と感情と、意志と想念と、行為も神の演技です。
そして「私」あらゆる「私自身」「自我」
それは神の演技
即ち神ご自身に他なりません
神が私として生きておられるのです。
この世界は神しかいないのです
あらゆる者は神であり
神が私として生きておられます
全ての全て一切は神です!!
悪魔も天使も一切の私は神の姿に他なりません。
敵も味方も神なのです。
善も悪も神の演技です。
自他の分離という幻想も神なのです。
生きている者も、死んでいるものも
殺す者も、殺される者も神なのです。
私もあなたもそして一切のものは神なのです。
全ての全てそれは神に他なりません。
以上が今まで79年間生きてきた私の信じることです。